Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録20:1-6
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きょうはヨハネの黙示録20:1-6まで、主のみことばをご一緒に学んで行きたいと思います。
主イエス・キリストが聖徒たちを伴ってこの地上に帰って来られる、すなわち主イエス・キリストの地上再臨にまつわる出来事を私たちはこれまで学んで来ました。この地上においてこれから起こる出来事を1節は私たちに教えてくれています。まず1節に「私は、御使いが……天から下って来るのを見た。」と記されています。この出来事は地上での出来事であることをヨハネは私たちに教えてくれています。主イエス・キリストがこの地上に帰って来られた後に一体何が起こるのか、ご一緒に見てまいりたいと思います。
A.「捕えられたサタン」 1-3節
まず1-3節にはサタンが捕えられるということが記されています。
1.神から送られた御使い 1節
1節に「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。」と、ひとりの御使いが遣わされている様子が書かれています。ヨハネはその光景を見ています。だれなのかはわかりませんが、恐らく非常に偉大な力ある御使い、天使であると見ることができます。というのは彼は「底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って」いると、大変大きな務めを主から受けています。
この「底知れぬ所」と記されているところは悪魔であるサタンや悪霊たちが閉じ込められているところです。確かに今現在サタンは閉じ込められていませんが、後に彼らが閉じ込められる所を「底知れぬ所」と言うわけです。既に黙示録9:1の学びの中で、「底知れぬ穴」ということばを学んで来ました。実は黙示録の中には7回「底知れぬ穴」ということばが出て来るのですが、常に監禁された悪霊たちのいるところとして記されています。つまり「底知れぬ穴」でも「底知れぬ所」でも悪霊たちがさばかれて永遠の火の池に投げ入れられるまで監禁されている所です。
ゲラサ人の地方(ガリラヤ湖の北東部)で、豚に乗り移った悪霊たちが湖の中に入っておぼれるという話がありますが、その時にその悪霊どもがそこに送られることを非常に恐れていた様子を記しています。ルカ8:31に「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」と書いてあります。ですから、その「底知れぬ所」というのはそこに閉じ込められたらその後に永遠のさばきが待っている、地獄が待っているというところであるということ。この御使いがそこの「かぎと大きな鎖」を持っていたと、この20:1は教えるわけです。
2.御使いの務め:何をするのか? 2-3節
何のためにこの御使いがそのようなものを持っていたかというと、サタンやその手下、この悪霊たちをそこに閉じ込めておくためです。その様子が2-3節に出て来ます。
1)「悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕える。」 2節
ですからまずこの御使いがすることは何かというと、「悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ」るということです。
2)「悪魔を千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込む。」 2-3節
その次にこの天使がなすことは「これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、」と続いて行きます。ですから捕えるだけではない。サタンを「千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込」むのだと。これが二つ目です。
3)「そこを閉じて、その上に封印をする。」 3節
そして三つ目にこの天使がすることは、「そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。」とあります。
ですからこの箇所にこの力ある御使いが何をするのかが書かれています。サタンを捕えることであり、サタンを「千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込」むことであり、そして「そこを閉じ、その上に封印」するという、これがこの遣わされて来た御使いの働きであると、ヨハネは私たちに教えてくれています。
2節にその「古い蛇」であるサタンを捕えて、これを「千年の間縛って」と書かれています。この「縛」るということばは新約聖書の中に11回出て来ますが、その一つ一つを見た時にすべて何か鎖のようなもので自由を奪うという意味で使われています。先ほどお話ししたレギオン――たくさんの悪霊に憑かれていたひとりの男は墓場に住みついていたのですが、「もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。」(マルコ5:3)とあります。非常に危険な人物だから鎖でつないでおいたけれども、鎖を引きちぎるぐらいの力があったということです。ですからマルコ5:4には「彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。」と書かれています。この「縛」るということばがここでも使われています。また使徒12:6に、ペテロ自身の話として、ペテロが捕えられていた時に「二本の鎖につながれてふたりの兵士の間」にいたことが書かれています。ふたりの兵士たちの間でペテロは二本の鎖につながれていたことが想像できます。「つながれ」ているとか「縛」るということばはそういうふうに使われています。
少し疑問に思うのは、先ほど言ったレギオンに憑かれていた男にしても、ペテロにしても人間です。人間を鎖で縛ることは可能です。問題なのは、悪魔は天使ですから、体を持たないものをどうやって鎖で縛ることができるのかということです。恐らくこの箇所が言わんとしていることは、「諸国の民を惑わすことのないように」と3節にあったように、サタンを縛るということは、恐らく彼がこれまで行なって来た活動ができなくなるという意味でこのように表現しているのだと思います。人々を惑わし続ける活動、人々が神に逆らい続けて行く、そのような惑わしの働きが千年の間できなくなるということがここで教えられていることだと思います。
今この箇所は、後に千年王国が訪れる時に、サタンの働きは制限され、サタンはこれまで行なって来た活動ができなくなると私たちに教えるわけです。サタンは今も働いていますから、まだ千年王国が来ていないことは明らかです。なぜならサタンはイエス様を信じていない人たちの心に働き続けて、彼らがこの福音のすばらしさを決して味わうことがないように妨げ続けています。Ⅱコリント4:4が「この世の神が不信者の思いをくらませて、」と言うように、どんなに皆さんが神様のすばらしさを語っても、救いのすばらしさを語っても、悲しいことにサタンによって霊的な真理を見ることのできない人々、彼らはそのすばらしさを知ることはありません。あなたがどんなに熱心に語っても彼らはその真理を知ることはない。サタンは人々にそのすばらしさが見えないように働いているのです。未信者の目をくらませて、真理がわからないようにとサタンは確かに今も働いている。
また、クリスチャンである信仰者の信仰を弱らせようと今も働いています。ペテロはⅠペテロ5:8で「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」と言っています。これはクリスチャンに対するサタンの働きです。クリスチャンたちがイエス様との関係において、その愛が、その熱心さが冷えて行くようにと働くのです。同じことを繰り返しているかもしれません。でもいつの間にかかつて持っていたイエス様に対する愛がなくなってしまったり熱心さが欠けてしまったり、そのようにしてサタンはクリスチャンたちの間にも働き続けています。今もこういう働きが継続している以上、まだ千年王国は訪れていないということです。しかしみことばは、千年王国が訪れる時、彼は捕えられて「底知れぬ所に投げ込」まれ、1000年の間、こういった働きができなくなるのだと教えています。
そして3節の後半にこう続きます。「千年の終わるまでは、諸国の民を惑わすことのないようにした。」、「それが」というのはサタンのことです。その後「サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」とあります。このみことばが教えてくれているのは、1000年の間は確かにサタンの活動は制限されますが、1000年が終わった後しばらくの間サタンはもう一度解放されるということです。永遠にではありません、ごくごく短い間です。
◎ 「千年王国」:三つの解釈
さて、今私たちが見ているこの千年王国ですが、皆さんよくご存じなので詳しい説明をするつもりはありません。ただ少なくとも千年王国に関して存在している三つの解釈だけはぜひ覚えておいていただきたいので、その解釈を説明して、そしてなぜ私たちが千年王国の前にイエス様が地上に帰って来るという立場を取っているのか、簡単に説明します。
① 「千年期前再臨説」
私たちは今お話ししたように、主イエス・キリストが地上に帰って来られ、そしてその後に千年王国を築かれると信じています。なぜかというと、我々はこうしてみことばを見て来てそのような結論に達したわけです。イエス様が地上に帰って来られた後1000年の王国を築かれる、こういう立場を取っている人たちのことを千年期前再臨説と言います。千年王国の前に主が再臨されるという説を取っている人たち、私たちのことです。
② 「千年期後再臨説」
また、イエス・キリストが再臨されるのは千年王国が終わった後だと信じている人たちがいます。この人たちのことを千年期後再臨説と言います。イエス様が帰って来るのは千年王国の前なのか、後なのかです。この千年王国があってからイエス様が帰って来るという説を取っておられる皆さんというのは、今の時代がそのまま千年王国に入って行くと言うわけです。そうしますと、世の中は段々千年王国の特徴である義や平和といった特徴が現れて行くという解釈をするわけです。今私たちが世の中を見ていて、
そんなふうに思いますか?世の中はよくなって行くのではなくて悪くなっています。ですからもしイエス様が帰って来るのが千年王国の後だったら今から千年王国に入って行くわけですから、千年王国のようにすばらしい社会になって行くはずなのです。でもそうでないという現実を見る時に、この説を受け入れることは非常に問題があると。
③ 「無千年期説」
もう一つ存在している三つ目の説は、もう千年王国はないという考えです。ですから無千年期説です。イエス様が地上に帰って来られた後、千年王国ではなくて新天新地が待っているといった考え方を彼らは持っているのです。そうしますと、疑問が出て来ます。今我々が学んでいる20章の中に繰り返し出て来る「千年」をどう解釈するのかです。彼らは、この「千年」というのを字義どおりに解釈しないことで、千年王国というのは存在しないのだという結論に達するわけです。
先ほどもお話ししたように、みことばを学んでいると、確かに主がこの地上に帰って来られ、悪をさばかれ、ご自分が王として千年王国を築かれるとそのようにみことばが教えているゆえに、私たちは千年期前再臨説というもの信じています。皆さん見ていただきたいのは、3節にも4節にも5節にも6節にも7節にも実はこの20章の中に6回「千年」ということばが出ています。私たちはこうして繰り返されているのを見ることによって、それをそのとおり受け入れる、字義どおり取るということがこのみことばの自然な解釈であると信じるわけです。一回しか出て来なかったら、どういうふうに取るのかと思いますが、このように6回も繰り返されている以上、「千年」というのを比喩的にではなく、まさにそういう時代が来るのだと取るのが、文脈を見た上で私たちが立つべき結論だと確信します。
元ダラス神学校の学長でもあったジョン・ワルボード先生は「聖書において一日ということばを字義どおりの意味以外に用いることは時々あるが、一月や一年ということばを字義どおり以外の意味で用いたことは一度もない。」と言います。説得力がありますよね。ですから私たちは字義どおりみことばを取る人間として、そのような解釈に立つ人間として「千年の間」と言った時に千年の時代が来るということを信じるわけです。
B.「第一の復活にあずかる者たち」 4-6節
1)キリストとともにさばきを行なう人たち 4節
さて4-6節に「第一の復活」という話がされています。これにあずかる者たちのことがここに出て来ます。4節「また私は、多くの座を見た。」と、この「座」というのは複数で書かれています。ですからこうして「多くの」というふうにしてきちんとその意味を伝えてくれています。ヨハネが見た時、中央にイエス様が座っておられ、その周りにたくさんの「座」が存在したと。「彼らはその上にすわった。」とあります。その「座」に座っている「彼ら」というのは一体だれなのか――。みことばの中に、この「座」にすわることを約束されている箇所が幾つか出て来ます。
(1)「旧約の聖徒たち」 ダニエル7:27
その「座」にすわる人たちは四つのグループが存在します。一つ目のグループは旧約の聖徒たちです。旧約の時代において救いにあずかって来た者たち。この人たちがその「座」にすわります。
旧約聖書のダニエル7:27に「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』」とあります。まずここで私たちが見るのはある国が誕生するという話です。その御国は永遠の御国であると。そしてある人々がそこでその人たちを治めるという務めにあずかるということです。だれの話か――。救われている者たちの話です。彼らにそのような権威が与えられ、そして「すべての主権は彼らに仕え、服従する」のだと。この箇所が私たちが明らかにしているのは、旧約の時代において救いにあずかった人々が永遠の御国でそのような働きにつくのだという話です。ですからこの千年王国のこの座に着座する人々として旧約の聖徒たちがこの務めにあずかるのだ、この座に着座するのだということを見ることができます。
(2)「十二使徒たち」 マタイ19:28
二つ目のグループは、十二使徒たちです。あの12人のイエス様に従った使徒たちです。マタイ19:28でペテロがイエス様に質問します。「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」と。この質問にイエス様がお答えになったのが「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」と。「十二の座に着いて」と書かれています。ですからこのみことばも私たちに教えてくれることは、実際にこの千年王国になった時に、そこの座に着座する人々として、この十二使徒たちがその約束をいただいているということです。
(3)「新約の聖徒たち」 黙示録2:26、3:21、5:10、Ⅱテモテ2:12
三つ目のグループは新約の聖徒たちです。新約の時代に救いにあずかった者たちです。Ⅱテモテ2:11に「次のことばは信頼すべきことばです。『もし私たちが、彼(イエス様)とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」とあります。救いの話です。かつての罪の中を生きて来た私が死ぬ、神の敵であった私が死ぬ。そして私が新しく生まれ変わったのであったら、私たちはイエス様とともに永遠を生きるわけです。そして12節「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」とあります。また黙示録2:26にも「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」とあります。3:21にも「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」と。また5:10にも「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」とあります。この新約のクリスチャンたちも確かにそのようにこの座に着いて働きをなすということを私たちはみことばから知ることができます。
(4)「患難時代の聖徒たち」
今日のテキストに戻ると、ヨハネは今見て来た三つのグループ以外にもう一つのグループを加えようとします。それがこの4節です。「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」とあります。「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましい」、これは殉教者であることは間違いありません。「獣やその像を拝まず」というのは、「獣やその像」を拝むことを強制されるのは患難時代の話でした。反キリストが偶像を作り、それを崇拝するようにと強制した時代。その後「その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。」、あの666という獣の数字の話を既に見て来ました。それをつけなければ物を売ったり買ったりすることができない時代、患難時代の話です。ですから、旧約の時代に救われていた人たちだけではない、新約の時代に救われた人たちだけではない、十二使徒たちだけではないのです。実は患難時代に救われた者たちもその座に着くことをこの4節は教えてくれています。「彼らは生き返って」とあります。患難時代に殉教した者たちが生き返って「キリストとともに、千年の間王とな」ると。
2.キリストとともにさばきを行なう 4節
では彼らが生き返ってこの座に着いて一体何をするのかというと、4節に「さばきを行う権威が彼らに与えられた」とあります。救いにあずかっていた聖徒たちはこの地上に主イエス・キリストが千年王国を築かれ、それを治められる時に、救われている私たちはその統治に何らかの形で加わるのです。聖書の中に出て来るさばきというのは、正しい者とそうでない者を分けるさばきです。人々がよみがえった後、神の前でさばきを受けてある者は永遠のいのちに、ある者は永遠の地獄にというさばきがあることが確かに記されています。この「さばきを行う権威」というのは、そのさばきを私たちが行なうのか、その権威を私たちがもらるのかというと、そうではありません。永遠のいのちを与えるかどうかのさばきを行なうことができるのは神だけです。この権威の話ではない。では、何の権威かと言うと、肉体を持った人々への道徳的なさばきを行なう権威です。千年王国には肉体を持ったまま千年王国に入る人たちがいるのです。その人たちをさばく権威です。その千年王国というのは主イエス・キリストが統治されるすばらしいものです。その王国を正しく保ち続けて行くために、今挙げられた彼らが、私たちがその働きに携わって行くのです。
今肉体という話をして、少し疑問が起こったかもしれません。私たちが見て来たさばく側の人々、旧約の人々もしかり、新約の人々もしかり、十二使徒もしかり、患難時代の殉教者もしかり、この座に着く人々はみんな栄光のからだをもらっています。ところが千年王国の中には、栄光のからだを持たずに入って来る者たちがいます。私たちがいただく栄光のからだをまだもらっていない人たち、今私たちが持っているのと同じ肉体を持って千年王国に入って来る者たちがいます。患難時代の中で大変な患難が起こり、大変な苦しみがあり、大変な数のクリスチャンたちが殉教して行きます。でもすべてのクリスチャンたちが殉教するのではないのです。患難時代を生き延びるクリスチャンたちがいるのです。この人たちは患難時代のさまざまな苦しみを乗り越えて、肉体を持ったままで千年王国に入って行くのです。
またもう一つのグループが聖書の中に記されていました。それは14万4000人のユダヤ人です。彼らはこの患難時代のさまざまな迫害の中にあって、神によって守られる者たちです。14万4000人は出て行ってイエス・キリストの福音を語り続けるのです。彼らは守られながらこの患難時代を過ごして行くわけです。この人たちもそのままで千年王国に入って行きます。千年王国に入るすべての人たちはどの時代であろうと救いにあずかっている者たちです。救われていない人はだれひとりとして千年王国に入ることはありません。ただし入って来る人々の中に、栄光のからだを持っている人と栄光のからだではなくて私たちの今持っている肉体を持って入って来る人たちの2種類の人々が存在するのです。そして栄光のからだをいただいた者たちがイエス・キリストとともに千年王国において肉体を持った人々を治めるのです。この千年王国において、肉体を持って入って来た人
たちは今と同じように家庭を持ち子どもを産んで行きます。彼らの寿命がどれぐらいあるのか、1000年生きるのかどうなのか。関心がありますよね。そういったことを私たちは来週見て行きます。
3.第一の復活 5、6節
この座に着いている人々がさばきを行なう権威をいただいていると記されています。その後で5節を見ると、「第一の復活」の話が出て来ます。「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。」と書いてあります。見ていただきたいのは4節の終わりからです。この患難時代の人々が、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は」となります。イエス様がこの地上に帰って来られた時によみがえるグループとよみがえらないグループの二つのグループが存在していると言っているのです。ですから5節の「そのほかの死者は」というのは、イエス様が地上に帰って来た時によみがえらないグループの人たちなのです。「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。」のです。今私たちが話しているのはイエス様が地上に帰って来る時にだれがよみがえるのかという話です。そして今私たちが見て来たのは、そのような座に着く人々、旧約の人々も患難時代のクリスチャンたちも、イエス様が地上に帰って来た時によみがえるのです。新約の人々はもう既にイエス様のもとにいます。イエス様とともに帰って来ます。イエス様が地上に帰って来られた時に救われていた者たちはみんな栄光のからだを持って千年王国に入って行きます。ですからイエス様が地上に帰って来た時によみがえる人々なのか、千年王国が終わった時によみがえる人々なのか、この二つのグループをこの箇所は我々に明らかにしています。ですから5節の初めに「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった」のです。イエス様が地上に帰って来た時、千年王国の前に彼らはよみがえらなかったのです。だからまずこういう2種類の人たちがいることを覚えてください。イエス様が地上に帰って来た時によみがえって、祝福の千年王国に入る人たちと千年王国が終わってからよみがえる人たち、そういう人たちがいるということです。そしてイエス様が地上に帰って来た時によみがえる人々のことを「第一の復活にあずかる」人々だと言っています。千年王国の後によみがえりを経験する人たちは第二の復活にあずかる者たちなのです。
そして6節「この第一の復活にあずかる者は幸いな者」とあります。「第一の復活にあずかる」者は神様によって祝された者たちです。第二の復活にあずかる者たちは神によって呪われた者たちです。この二つのグループが存在するのです。なぜ彼らは祝されているかというと、彼らは救いにあずかっていたからです。今我々が見て来たように、第一の復活であろうと、第二の復活であろうとすべての人々は復活するのです。そこに例外はありません。人は死んだ後眠りについてしまうとか、消えてなくなってしまうとか、いろいろなことをこの世は言いますが、聖書はそんなことは教えていません。よみがえってすべての人々がそれぞれにふさわしいさばきを受けるのです。
1)第一の復活の別名 5節
ここで「第一の復活」と記されている復活は、ほかの聖書の箇所を見るとほかの呼び名が使われています。それぞれすばらしいので皆さん聞いていてください。
(1)「義人の復活」 ルカ14:14、使徒24:15
ルカ14:14や使徒24:15では「義人の復活」と言っています。義とされた者たちの復活の話です。きよい者たちの復活です。使徒24:15は「また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。」と。今話して来たように「義人も悪人も必ず復活する」と。ですからこの「第一の復活」というのは義人の復活なのです。第二の復活というのは悪人の復活なのです。そういう表現も使われています。
(2)「さらにすぐれたよみがえり」 ヘブル11:35
またヘブル11:35では「さらにすぐれたよみがえり」とあります。もう一度きょうのテキスト5節を見ると「第一の復活である。」とあります。「復活」ということばは新約聖書の中で42回出て来ます。そしてこの42回中1回以外は、すべてからだのよみがえりを意味しています。例外となっているところは、主イエス・キリストが誕生された後、両親はイエスを連れてエルサレムに来ます。そこでシメオンがこの幼子イエスを抱いて母マリヤに言うわけです。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、」、この子、主イエスが何をするかを語るわけです。そこで「立ち上がる」と訳されていることばが今私たちが見ているこの「復活」ということばなのです。今お読みしたルカ2:34は「復活」という意味ではありません。でもそれ以外の41回はすべてからだがよみがえるという意味で使われています。ですから、この「復活」ということば、何となく霊でよみがえって来たというのではなくて、からだがよみがえるということ。4節で「その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って」とあります。これも同じです。肉体的なよみがえりの話です。
2)第一の復活の祝福 6節
ですからまずこの「第一の復活」はこのようなすばらしい祝福の伴ったもので、「義人の復活」であると。「さらにすぐれたよみがえり」であると。なぜなら彼らは大きな祝福を神様からいただくからです。そのことが6節に出て来ます。どんな祝福をこの「第一の復活」にあずかる者たちが神からいただくのかです。
見てください。「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」と。幸いなるかなというわけです。神によって祝される者たちだと言うのです。どんな人か――。「第一の復活にあずかる者」たちの話です。そしてこの祝福にあずかった者たちに約束されている三つの祝福が書いてあります。
一つ目の祝福は、「この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。」ということです。二つ目の祝福は「彼らは神とキリストとの祭司とな」るということ。そして三つ目は「キリストとともに、千年の間王となる」という、この三つの祝福が「第一の復活にあずかる者」たちに約束されている祝福だと我々に教えます。どういう意味なのか少し見て行きましょう。
(1)「第二の死は、なんの力も持っていない」 Ⅰテサロニケ1:10、5:9
最初に出てきた祝福は、「この人々に対しては」、つまり「第一の復活にあずかる」人々に対しては「第二の死は、なんの力も持っていない」と。「第二の死」は彼らにとって全く無縁のものであると言うのです。ではこの「第二の死」とは一体何かというと、20:14を見ると、「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」と書いてあります。すなわちこの「第二の死」というのは永遠の地獄の話です。それがこの「第二の死」なのです。ですからこの「第一の復活にあずかる」人たちの最初の祝福というのは、あなたはこの救いをいただいたゆえに決して永遠の地獄に至ることはないという、それが祝福だと言っているのです。
確かに私たちは罪深い存在であり、愚かな存在であり、毎日の生活でさまざまな罪を犯し続けている愚かな者です。悲しくなる者です。嫌になってしまう者です。皆さんも罪との葛藤を経験しながら、何度も何度もその敗北を味わって来た。でも皆さんに覚えていただきたいのは、そうして罪との戦いを挑み続けるのはあなたが新しく生まれ変わっているからです。罪の中を生きていた私たち、罪の奴隷だった私たちは、罪を歓迎し、自分から進んで率先して罪の中を喜んで生きていました。しかし新しく生まれ変わった私たちはそれが神の前に喜ばれないということを知って、神に喜ばれることをしたい、そういう願いが与えられ、罪から離れようとし、でも悲しいことにその戦いにおいて私たちは繰り返し敗北をするのです。でもあなたが生まれ変わった証拠は、あなたが罪から離れたい、そして神に喜ばれることをして行きたいと思っているのです。あなたが生まれ変わっているからです。救いにあずかっているからです。そのような罪との戦いに挑んでいる人は罪との戦いを経験しているのです。みことばが言うのはあなたは絶対に、絶対に永遠の地獄に至らない。「第二の死」はあなたとは全く無縁なのだと。それが一つ目の祝福として、ヨハネがここに記していることです。
パウロは神様の御怒りの日が来ることを警告しました。Ⅰテサロニケ1:10に「神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来」るのをと書いてあります。注目していただきたいのは、「やがて来る御怒りから」です。神様が罪をさばかれる日が必ず来るのです。神は罪を喜んでいるのではない、神は罪を憎んでおられる。罪に対して怒りを持っているのです。その「御怒り」をこの世に下される時が来ます。さばきの日が来ます。しかし感謝なことに私たちはその「御怒り」からもう既に救い出されたのです。それが救いです。
(2)「神とキリストとの祭司となる」 Ⅰペテロ2:9
二つ目の祝福は、「神とキリストとの祭司とな」ると。皆さんご存じだと思いますが、あなたが救いにあずかった時に、もう既にあなたはキリストの「祭司」です。Ⅰペテロ2:9が言うように「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司」と書いてあります。「祭司」はどんな働きをしたのかというと、彼らは礼拝を捧げ続けました。彼らは人々を神へと導きました。今あなたはキリストの「祭司」、日々神を礼拝し、人々をキリストへと導いて行くのです。それが私たち「祭司」に与えられた務めです。だからクリスチャンである私たちは常に神を礼拝し、このすばらしい救いを人々に伝え続けて行こうとするのです。そのために神様はあなたを地上に置いてくださっているのです。「祭司」とされたあなたが「祭司」としての務めをしっかりと果たし切るためにです。私たちはもう既に「祭司」なのですが、この箇所が私たちに教えるのは、千年王国においても我々は「祭司」としてキリストとともにすべてを治めて行くのだ。私たちはそこで主イエス・キリストを目の当たりにして、この方を礼拝し続けるのです。そしてそこにいる肉体を持ったままの人も千年王国に入った時にはすべて救われていました。しかし、彼らから生まれて来る子どもたちは今と同じように救いを必要としています。私たちは彼らにこの主イエス・キリストがどんなにすばらしい救い主であり、すばらしい神であるかを明らかにして行くのです。我々は今この地上でキリストの「祭司」として生きています。千年王国でも我々は神の「祭司」として生きるのです。
(3)「キリストとともに、千年の間王となる」 イザヤ11:3-5
そして三つ目に、「キリストとともに、千年の間王となる」と書かれています。千年王国になると今とは全く世の中が変わります。霊的にも政治的にも最高の統治者であるイエス様がすべてのものを治められます。そしてすべての被造物から礼拝の対象として崇められます。絶対的なきよい君主である方がすべてを治められる。私たちはこの方とともにこの王国を治めるのです。そこに入れるだけでもすばらしいのに、そこで祭司として役割をいただいて私たちは神を崇めるだけでも想像を超えているのに、我々はそこで王として主とともにすべてを治める。
少なくともきょう我々がこうしてみことばを見て来て、皆さんに覚えていただきたいのは、一体なぜ神があなたにこんな祝福を下さったのかです。多くの皆さんはこの祝福はもう既にいただいているのです。そしてあなたにどんな約束がこれから与えられているかを今見て来たのです。私たちはこの地上での生活が終わっても、すばらしい約束を持って神とともに永遠を生きるわけです。神様はその祝福をもう私たちに約束してくださった。そしてみことばを通して改めてそれを教えてくださった。私たち信仰者というのは、このすばらしい神様の祝福をいただいた者として、この地上にいる間、どのようにしてその感謝を表していくのかを考えながら生きるのです。私たちも子どもたちに、「何かもらったら感謝しなさい」と言います。感謝することの大切さはわかっています。我々クリスチャンはこの地上にいて、こんなすばらしい祝福を与えてくださった神に感謝をしながら生きて行くのです。その感謝を忘れていません?私たちの生き方そのものが神への感謝を表す、感謝の表現なのです。どんなふうに表しています?この前「感謝します」と言ったからそれでいいではなくて、主の恵みは日々私たちに十分に与えられています。神の恵みは与えられ続けているのです。私たちはこうしてこの恵みを与え続けてくださっている神様、そしてこのすばらしい祝福を約束された神様に感謝を持ってきょうを生きて行くのです。それはあなたの責任です。どんなふうに生きるのか、ぜひあなたの感謝を表しながら生きてください。あなたのすべてのものをもってこの方に感謝を表してください。なぜならこの方はすべてのものをもってあなたを愛していることを示してくださっている。それにこたえて行くのが私たちの生活です。どうぞ信仰者として、感謝にあふれたその歩みをもって、主に感謝を表してください。
《考えましょう》
1.主イエスが地上に再臨された時、悪魔に対してなさることを挙げてください。
2.第一の復活について説明してください。
3.第二の死について説明してください。
4.あなたはきょうみことばから何を学ばれましたか。主から教えられたことを信仰の友と分かち合ってください。
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