メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 1テモテ2:9-15
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
きょうは母の日ということもあって、お母さんたちに対して何かみことばをと思い、選ばせていただいたテキストはテモテへの手紙第一の2章です。9-15節までをご一緒に見たいと思います。
Ⅰテモテ2:9-15
:9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、
:10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。
:11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
:13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
:14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
:15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。
9節は「同じように」ということばで始まっています。ということはその前の8節に関連していることは明らかです。では、8節に何が記されているのかというと、ここには特に教会における男性の働き、特にその中でも大切な祈りについての教えが記されています。礼拝に集まった群衆の中に男性たちがいて、彼らが公の、みんなのまえで祈りを捧げていました。どうもこれはリーダーだけに限ったものではなくて、そうでない人たちも祈りを捧げていたようです。ただ言えることは、教会の中における公の祈りは男性に限られていたようです。そこでパウロはそのための注意事項をここに記しています。「どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」とあります。「きよい手を上げて祈る」というこの姿勢は、ユダヤ人たちや初代教会の間では神への畏敬を表す行為として見られていました。もちろん皆さんもご存じのようにこの姿勢でなければ神が祈りをお聞きにならないということではありません。またこの姿勢だけが祈りの姿勢として神の前にふさわしいのでもありません。ただそのような姿勢によって、人々はまさに神を敬っているということを表していたわけです。そこでパウロはそのことを引き合いに出して、祈りを捧げるにおいてどんな姿勢で祈るかよりも、どんな心の姿勢で祈るかが大切だと教えるのです。私たちはすぐに形だけにとらわれてしまう。パウロが教えるのは、もっと大切なのはその心だと言うわけです。だからここでも「きよい手を上げて」、つまりきよい心でもって神の前で祈らなければならない。それこそが祈りにおいて最も大切なものであると教えるのです。
それを教えた後で9節に入っていきます。今度は話題が男性から女性へと移っていきます。同じようにこの集まりの中においての女性の大切な役割、働きについてパウロは教えようとするのです。私たちは今からそれをご一緒に見て行きます。確かにこの9節を見ると、日本語では同じような副詞で始まっているのですが、原語でこの9節、10節を見ると、一番最初に出てくることばは、10節の最後に出てくる「しなさい」という動詞です。つまり9節、10節はまず「しなさい」ということばから始まるのです。この動詞は一人称単数で命令形ですが、実際は原語では命令形ではないのです。ただ非常に興味深いのは、ここで使われているこのことばはパウロの個人的な願望を表しているのではなくて、辞書によればパウロが使徒としての権威をもって語っていることがこの表現に含まれていると説明します。ですから「しなさい」と言った時に、ただパウロが何となく自分の願望を語ったのではない。神から使徒として召されたパウロが神ご自身のメッセージとしてこのように語ったのです。ですからあえて日本語で「しなさい」と命令形にしたのはそういう意味が含まれているからです。まさにこれは使徒パウロから、そして神からの命令なのです。8節の教えもそうです。そして9節から見ていく教えもこれは神からの教えであるゆえに、必ず守らなければならないという強い意味があるのです。
A.神を敬う者として生きる:特に礼拝において 9-10節
さて、どんなことをパウロが女性に対して教えようとしているのでしょう。まず彼が9-10節で最初に教えようとしているのは、あなたは神を敬う女性として生きていくようにということです。それを教えるに当たってまず外面的なこと、そして内面的なこと、そして結論という順序で述べています。神を敬う女性としてあなたの外面はこうあるべきだ、そしてあなたはこのような行動、行いをすべきだ、そして最後にそのまとめを彼が記しています。
1.外見(身なり):「つつましい身なり」 9節
まず身なりです。「つつましい身なり」ということばが9節の中に出てきます。「同じように女も、つつましい身なりで」と。この外見についてもその女性の身なりについても総合的な、まとめて話していることから、今度は具体的な話へと移っていることをここで見ることができます。
1)総合的
まず総合的な話です。礼拝に集まるならば、どういった身なりで集まるべきなのかを教えます。この「身なり」というのは「洋服」です。そして「つつましい」ということばは「整頓している」とか「きちんとしている」、「上品である」とか「礼儀正しい」、「まじめ」とかいう意味です。また「肌の露出を抑えた」とか「派手ではない」という意味があると説明しています。言わんとしていることは大体おわかりだと思います。つまりパウロがまず最初に言うのは、あなたが礼拝の集まりに来る時、その身なりには十分注意をしなさいと。きちんとしたつつましい神を礼拝するにふさわしい服装でもって集まって来るようにと。ではその逆とはどういうことかというと、非常に情欲を抱かせるような服装であったり、そういった点に十分注意をしなさいということです。
2)具体的:「はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく」
このことはまた後で触れることにして、次に総合的な話から特定された具体的な事案についてパウロは触れています。「はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、」と記しています。なぜパウロがこういうことを記したかというと、実は初代教会のこの時代においてこういったことが教会の中で実際の問題としてあったからです。
バークレーは当時のことについて「ギリシャの社会にはただ高価な着物を着たり、髪を編んだりすることに一生を費やす女性たちもいた。プリニウス(これはローマの役人の一人ですが)の伝えることによると、ローマではノリヤパウリナという花嫁の衣装は現在の価格で大体6,000万円以上に相当するものであったと言われています。ギリシャ人やローマ人でさえ女性の衣服や装身具、またおしゃれに対する愛着にあきれていた。」と説明してくれます。そういう時代だったということです。女性たちがそういったものに心を奪われて、大変な関心を払っていた。そのためだったらどれだけのお金を払っても構わない、そういった社会でした。間違いなくそういった人々が教会の中にも入ってきていたわけです。そういう価値観を教会の中に持ち込んでいた。パウロはテモテへの手紙を送っていますが、テモテが牧会していた教会はエペソの教会です。このエペソの教会がこういった問題を抱えていたことはもう明らかです。
皆さんにわかっていただきたいのは、パウロはここで、例えばブランド品であるとか、高価な装飾品を身につけることが問題だとか、それが罪だと教えているのではないということです。問題にしているのがその目的なのです。というのはこういった外面的なものにだけ関心を払っている人は、神ではなくて人の目を意識して人々の関心を引くこと、また自分自身が人々の前で自慢することを目的としている可能性があります。パウロはそれは神を礼拝するにふさわしくないことだと教えているのです。女性が礼拝に集まって来る時に考えることは、何を目的として礼拝に集まるのかです。神を愛し、神を畏れる者としてそれにふさわしい姿で出席しようとしているのかどうかです。先ほど男性が祈りを捧げることにおいて大切なのは心だと言いました。女性たちも同じで、どういう心を持ってあなたは礼拝に出てきているのか、本当に心から神への礼拝を捧げたいという思いで出てきているのかという話をまずパウロはするわけです。
2.内側:「控えめに慎み深く身を飾り」
次に内面的、内側の話に移っていくことがここに見て取ることができます。「控えめに慎み深く身を飾り」とあります。パウロはここで「控えめに」というのと「慎み深く」という神を愛する女性が持つべき二つの動機を記してくれています。
1)「控えめに」
この「控えめに」ということばは非常に面白いことばで、このことばの意味は「羞恥心」、「淑やかさ」、「慎み深いこと」です。このことばは新約聖書の中でここにしか出てきていません。何を言いたいのかというと、自分が礼拝に来た時に、ほかの礼拝者の心を妨げるようなきっかけになってしまうことを恥と思うということです。つまりこの「控えめに」ということばが言わんとしていることは、どのような形であったとしても、もしほかの信仰者の礼拝を妨げる原因となったのであれば、これは大変恥ずかしいことだという意識を持って集まるべきだ、そういう心を持っている人という話をしているのです。
先ほども、私たちが礼拝に集まる時に心が大切だと見てきました。女性はまずその服装において注意しなければならないと。私が何を着ても勝手でしょう?と言って集まってきて、それが神を礼拝しようとしている人々の心を誘惑に導いて行ってしまう、よからぬ思いを抱かせるようなきっかけになってしまったとしたら、大変恥ずかしいことだと。
2)「慎み深く」
また「慎み深く」ということばが出てきていますが、「考え方の健全さ」とか「まじめさ」とか「穏健」という意味で、これも新約聖書の中に3回しか出てきていません。この箇所と2:15と使徒26:25にしか出てきません。このことばが我々に教えてくれることは、どのような形ででも他の信仰者の礼拝を妨げる原因をつくらないようにと正しく考えることのできる人、そういった考えを持って行動しているという話です。どんな洋服を身に着けるか、どんな装飾品を身につけるかよりも、心が大切だという話です。そして、神を敬う女性は自分が礼拝することだけではなくて、自分がほかの礼拝者の妨げにならないように、誘惑の原因にならないように、注意を払いながら行動すると言うわけです。
*「身を飾り」
「身を飾り」と記されています。それがあなたの特徴であるように、こういった控えめで慎み深いものであなたの身を飾りなさい。それが本当の美しさだとパウロは言うわけです。実はペテロも同じことを言っています。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」、Ⅰペテロ3:3-4です。外見にばかり心がとらわれている、そうであってはならないと。神がごらんになっているのはあなたの内側であると。そして注意しなければならないのは、あなたが着ていく洋服においても、もちろんあなたの態度においても人々の妨げにならないように、十分に配慮しながら生きている信仰者、まさにそれが神を敬う人々であるということです。
3.神を敬う者:「良い行いを自分の飾りとしなさい」 10節
神を敬う女性の外見についてパウロは教えたわけですが、10節では内面の話に移っていきます。「むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。」と。「神を敬うと言っている女にふさわしく」とあります。どんな人か紹介します。この人は自分は神を敬っていると継続して公に告白している人です。なぜかというと、この「言っている」という動詞は現在形を使っています。これは「公に告白している」という意味です。人々の前で自分は神を敬っていると公言している人です。しかもそれを継続して行っている人。でも実はこれは我々ひとりひとりのことであるとも言えます。あなたのことを指していると言えるのです。
なぜかというと、この「神を敬う」ということばは「神を畏れている」という意味です。つまり神を愛し、神をいつも礼拝し、神に喜ばれることをしたいと願いながら生きている人、また神にお会いすることを楽しみにしている人です。あなたもそういう人でしょう?いつも神を愛して、神を礼拝して、神に喜ばれることを選択して、一日も早くイエス様にお会いしたいと願いながら生きている。そんなあなたは良い行いをあなたの飾りとすることがふさわしいとパウロは言うのです。あなたはその良い行いを継続して行くことが大切だ、まさにそれがあなたの生きざまとなるようにと。
ではこの良いこととは何でしょう?神の前に良いことというのは神のみことばに従い続けていくことです。それが神の喜ばれることです。それが神が望んでいることです。これが神が私たちに命じておられること、神のみこころであり、私たちに問われていることは、あなたは私が命じたことを守って来たか、私が命じたことを行ってきたか、あなたはこれに従うかということです。
8節でパウロは男性の特に祈りについて、祈りという行為よりも、祈りを捧げる心に神は関心を持っておられると教えました。だから心を正しく保ちなさいと言いました。そして今度は女性に対して、同じく神の関心はあなたの心なのだ、その心を正しく保つようにと教えます。ここに記された人は、心よりも自分の外側、人の目を意識して行動していました。そこでパウロはもっと大切なのはあなたの心だ、そのことをいま一度この女性たちに教えようとするのです。神を敬っている女性として生きて行きなさいと。
B.神のみこころに従って生きる 11-15節
11-15節を見ると、神のみこころに従って生きていくようにと教え励まします。教会内での女性たちの身なりについて教えたパウロは、今度は教会内における行動について語ろうとするのです。
1.リーダーたちに対して 11節
まず11節を見ると、リーダーたちに対する女性の行動についてです。「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。」とあります。この「女」ということばは「女性」や「妻」という意味があることばが使われています。ですから既婚者だけではなくて、すべての女性に該当する教えです。何を言っているかというと、「静か」にすることと「よく従う心をもって教えを受け」ることの二つがここに書かれています。
1)「静かにする」こと
「静か」にするというのは、教会の礼拝において男性が教えをする時の女性の態度の話です。11節にも12節にも「静か」ということばが出ています。つまりあなたが礼拝の場にあって、その場で解き明かされるみことばを聞いている時に、いろいろな反発が出てきた。それをただ黙っていなさい、口を開い
てはいけませんということを言っているのではないのです。実はここでも問題は心だと言っているのです。
2)「よく従う心をもって教えを受ける」こと
それを説明する前に次のみことばを見てください。「よく従う心をもって教えを受け」ると続いています。「よく従う心」というのは「心から」とか「心のすべてをもって」、「心を込めて」とか「誠意を持って」、つまり心の全部です。心の100%です。そのような心で教えを受けるということは何を意味しているかというと、その教えを心から歓迎して受け入れるということです。
ですから先ほど見たように、いっぱい不満があるけど黙っていなさいではなくて、その与えられる教えを心から歓迎するようにと、そしてそのような態度で学びを受けることにこの女性は満足し、感謝しているのです。そのことをパウロはここで教えたのです。あなたが教会で男性たちから教えを受ける時に、それを心から歓迎しなさいと。この当時の女性の地位は、社会的に認められていなかったということは皆さんよくご存じです。その当時の様子についてバークレーはこんなふうに教えています。「ギリシャの高貴な女性はといえば、きわめて慎ましやかな閉じ込められた生活を送っていた。夫以外のだれも入ることのできない一角に住み、食事にさえ姿を見せなかった。ひとりで通りを歩くことなど絶対になかった。公的な集まりには決して顔を出さず、ましてやそのような集会で能動的な役割を担うことは絶対になかった。」と。女性が蔑視される、そういう時代だったのです。だからパウロもこんなことを語ったのではないか、このパウロの言っていることは女性蔑視ではないかと言う人たちもいます。
でも、そうではなかったのです。パウロは神によって造られた男性も女性もどちらも神の前に平等であることを確信しています。それが聖書の教えていることです。ではパウロは何を言わんとしたのかというと、パウロは男女には異なった務めが神によって与えられているということを教えようとしたのです。つまり女性はリーダーたちに対して従順にあるようにと。それは教会だけではなくて家庭においても同じことが言えます。そしてそのことをこの後パウロは詳しく説明していきます。ですから11節のでパウロが「静かにして」いなさいと言ったのは、もう一つ付け加えると、この当時ユダヤ人の女性たちは教えを受けることはほとんどなかったのです。そこでパウロは教えを受けるようにと。しかもその時に大切な教えを受けるだけではなくて、正しい心を持って受けなさいと。教会というところで男性のリーダーたちが語っていることに対してそれを心から歓迎して、喜んで受け入れなさい。そういう態度が、そういう心が必要なのだと言います。
2.リーダーシップに対して 12節
次に12節を見ていただくと、今度は教会のリーダーシップに関してパウロは教えます。「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」と。見ていただきたいのは「許しません」ということばです。これは「許可をしない」とか「認めない」という意味です。つまりこれらは決して行ってはならないことだとパウロは強く言っています。一つは「教え」ること、二つ目は「男を支配」すること、この二つの禁止事項がここに記されています。
1)「教えること」
この「教え」るということは「教師となる」ということです。なぜそう言い切れるかというと、これはギリシャ語の文法によるのですが、「教え」ることという動詞は現在形の不定詞として使われています。そのような用いられ方をした時にはギリシャ語の文法に基づくならば、これは教師になることを意味するのです。ですからここには「教え」ることと書かれていますが、パウロが禁止したことは教師となることです。もちろん教師として女性たちが教えることがどんなところでもだめなのかというと、そうではありません。あくまでこれは教会という、しかも礼拝という場所においてです。子どもたちを教えているすばらしい女性たちがいるのを知っています。そういう話をしているわけではないのです。パウロは、大人の男性たちが集まっている所、自分たちの夫が集まっているような所で教師として働くことに対してそれはあってはならないことだと言うのです。
2)「男を支配すること」
次に出てきているのは、「男を支配」することであって、この「男」というのも「男性」であり、また「夫」のことです。この「支配」するということばは、「権力を振るう」とか、「主人である」とか「支配する」とか「上に立つ」という意味を持ったことばです。そしてこの「支配」するという動詞も先ほどの「教え」ると同じように現在形の不定詞として使われています。ですから、言わんとしていることは支配者となるとか、男性の上に立つ人となる、男性たちの上に立って彼らを治める、支配する人となるということです。
ですからこの12節のみことばが何を教えているか――。教会の中にあってリーダーとしての務めは女性に与えられていないということです。そのリーダーの務め――男性たちを教える、また支配する、教会の中において長老たちや牧師たちの働き――というのは女性には与えられていないのです。それが聖書が教えていることです。でも確かに私たちの周りにはそういう働きをしている人がたくさんいます。男性のリーダーがいないからとか、いろいろな理由を聞きます。
私たちの問題というのはこの後も続いてパウロが教えてくれるのですが、神が言ったことを行うかどうかです。神がだめだと言ったことはだめなのです。どんな人間的なエクスキューズをつけたとしても、神がノーと言ったものはノーでしかないのです。残念ながらそこを人間的な理由でもって妥協してしまうところに問題があるのです。この箇所は私たちに明確にこのことを教えてくれています。十二使徒はみんな男性です。ところが残念ながらウーマンリブのような考え方が入ってきて、男女平等であると。それは世の中の考え方であって、聖書の教えは違うのです。そのことについてこの後もパウロが私たちに教えてくれます。ですからまず、リーダーに対して女性たちはどういう態度で接するべきなのかを教えて、その後リーダーシップに関して女性たちはどのように考えるべきなのかを教えてくれたのです。そして先ほども見たように、教会において、また家庭においてそのリーダーに従って行くように、教会において、家庭において女性はリーダーとなってはならないということです。なぜなら神様は女性を助け手として造ったからです。
3.神のみこころである証明 13-14節
そのことをパウロは13節から教えています。今パウロが語ったことが確かに神の教えておられることである、みこころであるという理由をこの後記してくれています。
1)創造からの教え 13節 創世記2:18
まず彼はそのことを創造から証明しようとします。13節「アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。」、皆さんもご存じように確かに最初にアダムが造られて、後にエバが造られました。ではなぜエバが造られたのか――。創世記2:18が教えるように「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」と。ですからどっちが偉くてどっちが偉くないという話をしているのではないのです。違う役割があるのです。男性はリーダーとしてリーダーシップを発揮する責任が与えられている。女性はそれをサポートするという働きが神から与えれているのだとパウロは言います。ですから先ほども見て来たように、この神様のみこころに従うべきだと言うのです。でも残念ながら、創造主なる神のみこころに従うよりも自分たちの考える最善に従って生きようとしている人たち、それをよしとしている者たち、そういう人たちがいることも事実です。気づかなければいけないのは、それは神の教えに反することであると、そのことに気づかなければいけないのです。パウロは今私たちが学んできたことを創造から証明しようとしています。
2)失敗(不従順)からの教え 14節(創世記3:1―7)
そして二つ目に、彼はアダムとエバの失敗からそのことを証明しようとするのです。14節に「また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」とあります。パウロはアダムとエバの罪を引き合いに出して説明しようとします。創世記3:1-7に出てくる話ですが、言うまでもなくエバは誘惑を受けました。エバは惑わされました。サタンが彼女を誘惑したのです。この出来事の問題が一体何だったかというと、本来ならばアダムがリーダーシップを取らなければならないところを悲しいことにエバがそれを取ったということです。何かを選択したり、何か行動する時――しかも大変大きなことです――に、本来ならエバはリーダーであるアダムに相談した上でそれをなすべきでした。しかし、彼女は彼女の思いでもってよかれと思うことを選択して行くわけです。14節のみことばの中で、「あやまちを犯しました」と出てきます。この「あやまち」ということばは「不従順」という意味です。このすべてのことがまさに神に対する不従順だったのです。エバはアダムの選択を応援する者、助け手だったのです。ところが彼女は自分の判断でそれを選択してしまうのです。ですから、リーダーシップを取るべきでない者が取るという不従順の罪を犯したのです。パウロはここでそのことを言っているのです。アダムが惑わされたのではない。エバが惑わされた。エバ、つまり女性が惑わされやすいからリーダーシップを取ってはならない、そういう意味ではありません。ここで言っていることはそれぞれに責任があるということです。それぞれには違う務めが与えられているということです。
このようなことを記したパウロは、ほかのところで人類の罪に関して全部エバのせいだと教えているかというとそうではありません。ローマ5:12に「ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、」と言っています。この「ひとりの人」はだれかというとアダムです。同じローマ5:14にも「死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。」、「アダムの違反」と書いてあります。でも実際はエバが誘惑されて、神に逆らった。でもそのことをここで記したパウロはアダムが罪を犯したと言っています。なぜかというと、この夫婦の責任者はアダムだからです。アダムはリーダーとして立てられたのです。そしてそれに逆らった。その責任はそのリーダーにあるのです。ですからパウロはこうして女性に与えられている務め、男性に与えられている務め、それぞれの務めをしっかりと果たしなさいと教えるのです。
4.女性に約束された救い 15節
1)母親に託された重要な務め 15a節
最後の15節を見ると、「しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」と、女性に与えられたすばらしい救いが記されています。文脈を見ると「女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。しかし、女が」と続いています。パウロはここで女性、特に母親に与えられた重要な務めを記しています。ここに「子を産むことによって救われます」とあります。これは救われる方法でないことは明らかです。もし子どもを産むことによって救われるならそうでない人は救われないのか、男性は救われないのかということになります。これは魂の、罪からの救いではないということは明らかです。では一体何のことなのか、順番に見ていきましょう。
「子を産むことによって」というのは間違いなく出産の話です。ではこの「救」いとは何かというと、これは「守る」、例えば「危険から守る」とか、「苦しみからの解放」という意味があります。またある辞書によれば「人類を罪へと導いた苦しみとか不名誉からの解放」と説明しているものもあります。前置詞を見ると、「子を産むことによって」と書いてあります。これは出産に伴う責任を語っているのです。「子を産むことによって」生じる責任です。それはその子を育てる、子育てのことです。つまり子育てこそ、あなたに苦しみや不名誉からの解放をもたらすものだと言うわけです。ですからこの14、15節を見ると女は惑わされてあやまちを犯した、でもあなたが子どもを産んでその子どもを育てていくことによって、あなたはこの不名誉なことから解放されていくのだと言っているのですが、もう少し説明しましょう。
子どもが生まれたとしたら、特に親にとってその子は大変かわいいものです。すべての親はその子の幸せを願います。しかし、悲しい現実は、かわいい子どもたちもみんな罪を持って生まれてきています。そのかわいい赤子を抱いた時に思うことは、この子も永遠の滅びに向かっている、永遠の滅びにふさわしい者として、つまり罪を持って生まれてきたということです。悲しいことに私たちは罪のない子どもを産むことはできません。我々が罪を持っているだけではなくて、生まれてくる子どもたちも罪を持っている。これに関して私たちはどうすることもできません。でもみことばはあなたにはできることがあると言うのです。このような絶望の中にあってもあなたには希望があると言うのです。それは生まれてきた子どもたちに神の真理を教えることができるという希望を持っていると言うのです。その子に神様のみことばを教え、その子どもたちが主を愛して主の栄光を現す者へと変えられていく。信仰者として彼らが成長していく、そのような子どもたちに成長するように、あなたは教えることができると言うのです。出産の苦しみが増されたのは罪を犯した結果でした。しかし、その子を正しく導くというすばらしい祝福、大切な務めを神は母親に託したのです。
もちろん子どもたちを正しく導いていく、神のみことばに基づいて教え、正しく導いていくというのは母親だけに与えられた責任でないことは皆さんご存じです。申命記6:7に主のみことばを「子どもたちによく教え込みなさい。」と記されています。でもそれは母親だけに与えられた責任ではありません。両親に与えられたものです。しっかり父親の責任のもとにそれをしなければいけない。でも実際のところ、父親よりも母親の方が子どもとの時間が長いことは確かです。だからその時をしっかり用いて、神の真理を教えていきなさいと。神様はみんなに結婚をよしとされているわけではありません。また、すべてのカップルに子どもを託されるわけではない。でも子どもが託されたとしたら、覚えなければいけないのはあなたにはとても大切な務めが神から与えられたということです。もちろんそうでない人たちも祈りをもって支えることができます。でも子どもが託された母親、特にそのカップルに与えられた大きな責任は、神が託してくれた子どもたちをみことばに従って育てていくことです。
残念ながらこの大切な務めを放棄している母親がいます。だれかほかの人に託したり、ある人たちは子育てに関しては子育てのプロに任した方がいいと。残念ながら聖書はそんなことを教えていない。その責任はあなたに託されたのです。あなたの務めはしっかりと神のことばをもって神のことを、真理を教えていクコとです。そしてもちろんこれは神の憐れみですが、その子どもたちが神を愛する者として、神に従う者として成長していけるようにと。それがあなたを救うことになる、不名誉から解放することになるとパウロは教えます。
2)模範による教え 15b節
しかも彼は続けてこう言います。「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、」と。確かに神の真理を教えてはいくのですが、その教え方に関して、あなたの模範をもって教えていきなさいと。
(1)「慎み」 エペソ5:15-17
「慎み」とあります。これはそれぞれの欲をしっかりとコントロールして、賢く何が神の前に正しいのか、その判断を持って育てていくということです。その判断を持って生きていくということです。女性として神様は何を求めているか――。もちろん男性もそうですが、大切なことは何が正しいのかです。
あなたの心が赴くままに行動することではない。考えなければいけない。何が正しくて何が益になることなのか。そういう賢い歩みをする人の話です。そういうふうに歩みなさいと言っているのです。
(2)「信仰」
二つ目に、「信仰」と出ています。どんな時でも神に対する信仰を持って生きている人であることです。子どもが成長すると、いろいろな問題に遭遇して動揺したりします。母親はその中にあってしっかりと主を見上げて、どんな時でも主を信仰する、信頼する者として模範を示していくのです。主に信頼することがいかに大切かを身をもって教えていくのです。
(3)「愛」
三つ目に「愛」が出ています。神に対する愛もですし、もちろん兄弟姉妹に対する愛です。神を愛していない人にどうして神を愛するようにと教えることができます?兄弟姉妹を愛していない人にどうして兄弟姉妹を愛するようにと教えることができます?あなががそういう人になりなさいと言うのです。そういう歩みをしなさい。
(4)「きよさ」
そしてきよさを追い求めていきなさい。
ですから、こうして信仰者として、神を敬う女性として、このような歩みをあなたがなすことによってその模範をもって子どもたちに大切な真理を教えていく。そして願わくば彼らも同じように歩んでいく者に変えられていくと。パウロはエペソの教会の特に女性たちにこういうメッセージを送っています。ひょっとしたら、ほかの教会と同じようににせ教師たちが入り込んで来て、いろいろな教えで彼らを惑わしていたのかもしれません。でもこの中でパウロは、ちゃんとみことばに従って生きていきなさいと、あなたの責任は神のことばに従うことですと繰り返し教えようとするのです。あなたに神様が与えてくださったその務めにしっかりと専心するように。もしそのようにあなたが歩むならば、あなたは間違いなく家庭にあっても教会にあってもそれ以外のところでも祝福をもたらす人になると。
お母さんたち、神様は大切な務めをあなたに与えてくださった。どんな責任を負っているのかおわかりになりましたでしょう?家庭においても教会においてもリーダーになってはいけないのです。リーダーを支えるのです。そのリーダーシップをしっかりと発揮できるように助けていくのです。それが神があなたに与えた務めです。神様が言われることをしっかりと実践すること、それ以外にあなたが祝福をいただく方法はない。母親の役目というのは大変、大変大きなものです。
“アメージング・グレース”、“驚くばかりの”という曲を書いたジョン・ニュートンという人物をよくご存じだと思います。彼の母親は彼が7歳になる数日前に天に召されています。母親と過ごしたのは本当にわずかな間でしかなかった。その後父親が再婚し、大変苦しい生活が待っていました。でも彼はその当時のことを回顧してこんなことを言っています。「まだ3歳にもならないうちに、母に読み書きを教えてもらったので、4歳の時には普通の本ならどのようなものでも上手に読むことができました。また私の記憶力が優れていたので、母は聖書、教義問答、賛美歌、詩などを読んで暗記させたのです。そのころ私は子どもたちの好きな騒がしいスポーツには少しも興味がなく、むしろ母と一緒にいるのを好み、母が教えてくれることを喜んで学びました。最善の教育であってもなかなか心の奥底までは達しないということがやがて明らかになります。時がたつに連れて、私は幼い時の教育のすべてのよい点に背いて罪を犯してしまいます。それでもこの教育は長い間私を悪の道に行かないように拘束していたのです。教えられたことは繰り返しよみがえってきました。それを全部拭い去るには非常に長い間かかりました。そうして主が十分に目を開いてくださった時、私は幼いころの教育が非常に役立ったことを発見したのです。優しい母は痛みがあったにもかかわらず私を抱き、多くの祈りと涙をもって私を神に委ねていました。そして私の成長を特に喜び、主が赦してくださるなら、将来牧師になるようにと念願しながら育てたのです。」。彼は39歳で牧師になり、そして約43年間牧会者として働きました。わずか7年間の母親との時間、でもその時間に彼が母親から学んだことが彼の歩みを決めたのです。
母親にどれだけ大きな責任が与えられたか、おわかりになりますでしょう?みんなの家族がそうなるとは限りません。ここにおられるお母さんはみんな一生懸命してこられた。でも子どもたちがみんなの願っているとおりに育っているか、そうでないケースの方が多いかもしれない。しかし、結果がどうあれ、あなたの責任は変わらないということです。それはあなたが常にみことばに従い続けていくこと、それしか神が喜ばれる道はないのです。もう子どもたちは巣立ってしまいました。子どもたちは家にいません。それでもあなたが神のみことばに従い続けていくなら、神はあなたを通してみわざをなし続けてくださる。それを神はあなたや私に期待しているのです。結果は神に任さなければいけない。あなたや私の責任は神が言われたことに従っていくかどうかです。その時に初めて神のみわざを期待できるのです。あなたがどんなに頑張っても人間の力で人を変えることはできません。変えるのは神です。だから必要なことはしっかり神のみことばに従い続けていくことです。その時にこんな不完全な私たちでもあなたや私を使って神のみわざがなされることを信じて期待できます。そのように生きなさいと、そのように生き続けていきなさいと、神は私たちに教えてくださる。どうぞそのような歩みを継続してください。みことばに従う者として、神が喜んで用いてくださる人として歩み続けてください。
《考えましょう》
1.「神を敬っている女性」にふさわしい振る舞いについて説明してください。
2.「女性が教えたり、男性を支配することを許しません」の説明をしてください。
3.「子どもを産むことによって救われる」とはどういう意味かを説明してください。
4.きょう主によって示されたことを誰かと分かち合って、みことばの実践に励みましょう。
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