メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 2ペテロ1:20-21
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
ペテロは教会の中に入り込んで来た偽教師たち、偽預言者たちがキリストの来臨を否定しているということを知っていました。そこでペテロは、彼らの問題は彼らの教えが真理ではなく、自分たちの知恵に基づいてうまく考え出した作り話であると16節で触れています。そのようにペテロは彼らの問題点を見抜いていました。彼らがしていることは神の真理を語っているのではなく、自分たちに都合の良いこと、自分たちの考えていること、自分たちの勝手な思いを伝えているに過ぎないと言います。しかも、彼らのそのメッセージの目的は、人々を惑わして真理から遠ざけようとすることだと言います。確かに、パウロが言ったように、彼らが伝えていたことは悪霊たちの教えそのものでした。このように危険にさらされている教会にあってペテロは、どのように自分たちを守っていくべきか、その方法を教えるのです。いろいろな誤った教え、間違った教えから自分たちを守るには、しっかりと真理に立ち続けていくことが必要である。言い方を変えるなら、私たちはどんな時でも神のおことばである聖書に立つことが必要であると、そのことをペテロはこの読者たちに思い起こさせるのです。
これまでの学びを通して、この読者たちだけでなく私たち自身も聖書の大切さを強く覚えたはずです。いかに聖書が我々にとって大切なのか、この聖書こそが私たちの信仰の土台であり、そして、私たちのいのちの指針です。なぜなら、この聖書こそ神のみこころが記されているからです。聖書の大切さはみな分かっているはずです。みな自覚しているはずです。私たちは聖書のみことばに立って歩んでいるでしょうか?
*聖書は:
(1)私たちを歩むべき方向にしっかり導いていってくれる
ですから、詩篇の著者はこのように言っています。119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と。どのように生きていくべきか、どのように歩んでくべきかをこの聖書が私たちに教えてくれると言うのです。
(2)私たちに対して罪への勝利をもたらしてくれる
私たちが常に罪に敗北しなくても良い、罪に対して勝利することを可能にしてくれるのです。同じ詩篇119:11に「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」とある通りです。また、パウロはエペソ人への手紙6:11から「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」と言い、17節で「…また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」と言っています。
(3)聖書は私たちに励ましと慰めを与えてくれる
Ⅱサムエル22:31に「神、その道は完全。【主】のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」とあります。同じことが詩篇18:30にも記されています。また、詩篇119:50には「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」とあります。
皆さん、信仰の先輩たちはこうして私たちにみことばがどれ程大切であるかを教え続けてくれています。どのように生きていけば良いのか、それをみことばは教えてくれるし、どうすれば罪に勝利できるのか、それも教えてくれ、その力も私たちに与えてくれます。そして、このみことばを通して、私たちは神ご自身の慰めや励ましを受けることができるのです。このようなことを聖書が教えていること、このような力を聖書は持っているということ、私たちはそのことを知っていながらなぜこの聖書に信頼を置かないのか?それが私たちの問題です。なぜ私たちは、日々様々な問題を抱えていろんなことで悩むのでしょう?どうして、神のところに助けを求めにいかないで人間のところに助けを求めに行くのでしょう?なぜ、最高の知恵を持っている神のところに、しかも、その方が約束されているように、本当の慰めや励ましをいただくことができるのに、神以外のところにその解決を求めていこうとするのでしょうか?私たちの問題に気付かれますか?神はこのような祝福を約束してくださったにも関わらず、私たちがそうでない選択をしているのです。もっと言えば「神がこう言われている」と知っていながら、それとは違うことを選択しているのです。私たちは本当にみことばに立っているのかどうか?そのことを真剣に考えなければいけません。
(4)みことばは私たちに喜びを与えてくれる
エレミヤはこのように言いました。エレミヤ書15:16「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、【主】よ。私
にはあなたの名がつけられているからです。」、主のみことばを学ぶことによって私たちの心が喜んでいる、なぜなら、ここには神のことが記されているからと言います。
(5)みことばは私たちの信仰の成長、霊的成長に役立つもの
ペテロが何度も教えていることです。Ⅰペテロ1:23-2:2をご覧ください。
「1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
「2:1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
*ペテロは聖書の大切さを十分に理解していた。だから、「真理を曲げずに伝える」ことを命じた。
Ⅰペテロ4:11「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」と。この箇所では、神は信仰者一人ひとりに霊的な賜物を与えてくださっている、だから、その賜物をしっかり用いて主に仕えていきなさいということを言っているのです。その中で「語る」という賜物を持っている者たちはその働きをしっかししなさいと言うのですが、彼は敢えてこう言っています。「神のことばにふさわしく語り、」と。語る賜物をいただいた人たちは「これは神のおことばだ」ということをしっかり覚えて、それを正確に語るという責任があるということです。
でも残念ながら、教会に入り込んで来た、また、人々を惑わしていた偽教師たちや偽預言者たちは、そのようなことをしなかった。ペテロのことばを借りるなら、Ⅱペテロ3:16で、彼らがしていたことが記されています。このように言っています。「…それらの手紙を曲解し、」と。手紙とは何のことか?15節に書かれています。「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。」と、つまり、ペテロはパウロ自身が記した書簡のことを言っているのです。16節「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、…」つまり、偽教師たち、偽預言者たちのことです。彼らは「聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」と、神の真理を勝手に解釈してそれを用いて自分たちに都合の良いことを語っていたのです。
だから、ペテロが言うように「気をつけなければいけない。もっと恐れなければいけない。これは神のことばなのだから、そのようなことをしてはならない。」と、ペテロは警告するのです。こんなことを語ったのは、ペテロ自身がこの聖書の大切さを十分に理解していたからです。
今日見ようとしている20、21節は、ペテロが改めて聖書の大切さを教えようとしている箇所です。☆聖書がなぜ大切なのか?二つの理由を挙げて説明する 20-21節
A.神のおことばだから 20節
20節「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」、「何よりも」とは「最も重要な」という意味です。ですから、ペテロはこの20節の初めに、これから記すことの大切さ、重大さを伝えようとしているのです。これから私が記すこと、こらから私があなたがたに教えることはとても大切なものであると言うのです。
1.すべての聖句が神のおことば
20節は「すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」と続きます。なぜ、聖書が大切なのか?一つ目の理由は、「聖書は神のおことばである」とペテロはそのように教えます。「すなわち」という接続詞が書かれています。ペテロがもう先に語ったことの説明をこれから始めていこうとするのです。ペテロが改めて教えたかったことは、聖書の預言、預言のみことば、敢えてそういう表現を使ったのはペテロ自身が使っているからですが、「聖書の預言」、19節では「預言のみことば」と言っていますが、これは全く違うものを指しているのではありません。「聖書」のことです。「聖書」ということばを新約聖書の中に見たとき、それは一般的には「旧約聖書」を指しているとすでに見ました。なぜなら、このときにはまだ新約聖書は完成していなかったからです。
ですから、「聖書の預言」、また「預言のみことば」と敢えてペテロが言ったのは、すでに学んだように、旧約聖書には預言的要素が含まれているからです。20節の「預言」ということばには「預言者のメッセージ」という意味があります。旧約聖書を思い出してみると、多くの預言者たちのメッセージが記されています。大預言書にはイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルを見ます。小預言書にはたくさんの預言者たちがメッセージを語りそれが記されています。
「預言」ということを考えた時に、旧約聖書には「約束の救世主、救い主が来られる」という預言が記されたもので、そして、新約聖書はその「約束されていた救世主、救い主が来られて、旧約の預言が成就した」とそのことが記されています。ペテロはこうして「預言」ということばを使いながら、私たちに旧約聖書のことを教えようとするのです。
2.神のおことばである
「聖書の預言はみな、」とあります。「みな」とは「すべて」ということです。敢えて「みな」という形容詞を付けているのは「旧約聖書のすべてが」という意味です。一部分だけではない、旧約聖書のすべてということを言うのです。その後を見ると「人の私的解釈を施してはならない、ということです。」とあります。初めに結論を言うと「神のおことばだ」ということを言っているのです。
実は、この「人の私的解釈を施してはならない」というこのみことばについて、代表的な二つの解釈を皆さんにご紹介したいと思います。ややこしくならないように簡単に説明しますから、皆さん注意して聞いていてください。
1) 解釈に関する警告
一つ目は「解釈に関する警告である」とこのように取ることができます。人が勝手に、自分勝手な私的解釈を施してはならない。そうではなく、聖書は聖霊なる神の助けを仰ぎつつ、字義通りに、また、文法的に歴史的に正しく解釈しなければならないと、そのように皆さんは学んで来られたし、私たちもそのように語って来ました。実際に、この箇所は文語訳聖書、口語訳聖書を見ても同じように書かれています。文語訳聖書「汝らまず知れ、聖書の預言はすべておのがままに解くべきものにあらぬこと。」、口語訳聖書は「聖書の預言はすべて自分勝手に解釈すべきでないことをまず第一に知るべきである。」と。ですから、これらの訳は、最初に話したように「勝手に解釈してはならない」という原則に基づいて為されたのです。確かに、そのように取れるのです。でも、どうもこの文脈、ことばを見ていくときに、次の二つ目の解釈が正しいのではないかと思われます。
2)聖書の根源 - 誕生の要因
ここでは「聖書の根源、聖書の誕生の要因」というものを教えていると言います。というのは、
・「私的」 : このことばは「独自の(独特)」、「人間独自の」という意味です。
・「解釈」 : このことばは「その意味を理解すること、また、解き明かすこと」と考えてしまいまが、「解釈」と訳されたギリシャ語は解釈以外にもこんな意味があります。それは「公開、公表する、説明、解説」という意味で、その意味を持ったことばが使われています。私たちが考える「解釈」とは少し違っています。
・「施す」 : この動詞は「~となる、生まれる、創作された」という意味です。これも私たちが考える「施す」というのと意味が違います。実は、このことばを理解するために使徒の働き20:3を見てください。ここにこのことばが使われています。「パウロはここで三か月を過ごしたが、そこからシリヤに向けて船出しようというときに、彼に対するユダヤ人の陰謀があったため、彼はマケドニヤを経て帰ることにした。」と。「ユダヤ人の陰謀があったため、」と、この「あった」ということばが今私たちが見ている「施す」と同じことばが使われているのです。意味から見ても大分違います。
この3節の「陰謀があった」ということは、パウロに敵対する者たちはパウロを何とか殺してしまおうという、そのような陰謀をただ考えただけでなく、彼らはそれに基づいてあるグループを組織するのです。ただ、考えていただけでない、それが実際に形となっているのです。パウロに対する陰謀が「組織された」、つまり、実際に形となったということです。だから、パウロはシリヤに向けて行こうとしていたのに「マケドニヤを経て帰ることにした。」とルートを変えているのです。ただ、そのような噂を聞いただけならそんなことはしません。実際に、そのようないちぶんがいたのです。明らかに、パウロのいのちを狙っている、パウロを快く思っていない人たち、そういう人たちが何かを企てている。だから、先に見たように「施す」とは「生まれる、作り出す」という意味がありました。まさに、こういう陰謀を企ててそこで何かが生まれていた、何か形になるものを作っていた、何かを組織していたと、そういう意味のあることばがこの20節で使われているのです。
今日のテキストに戻ってください。ペテロはここで「人の私的解釈を…」、つまり、「人間の独自の解釈、説明が、―「施してはならない」と「施す」という動詞に「否定」が付いているので―、形になったのではない」と言っているのです。ですから、この20節の後半でペテロが言わんとしていることは「この聖書は人間が勝手に作り出したもの、人間の知恵や考えに基づいて生み出したものではない。」ということです。聖書の預言はすべて人の(つまり、ここでは預言者たちですが)彼らが直面したことや、また、預言者が神から与えられた幻に、彼ら独自の解釈を施したもの、それを記したのではない。幻を神から与えられたときに彼らは自分たちで勝手に解釈して、多分こういう意味だと自分勝手な説明を記した、それが聖書ではないということを言っているのです。
なぜなら、実は、偽預言者たちはそのようなことをしていたからです。神からのメッセージがないのにあたかも神からメッセージをもらったかのように語っていたのです。神からのメッセージを私的に解釈をしていたのです。エレミヤ書14章にこのようなやりとりが記されています。エレミヤ14:1
4「【主】は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。」、偽りの預言者たちはこういうことをやっていたのです。神が働いていないのにあたかも神が働いているかのようにしていたのです。エレミヤ23:16、17も見ましょう。「:16 万軍の【主】はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。【主】の口からではなく、自分の心の幻を語っている。:17 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『【主】はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」、神を侮っている者に「心配しなくてもいい。あなたがたにはわざわいは来ない」と言っていると言います。神のメッセージでないメッセージをあたかも神のメッセージであるかのように語っていた、これが偽預言者たちだったのです。
もう一箇所、エレミヤ23:21「:21 わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。」、そして、エゼキエル書13:1-6にも同じことが記されています。「:1 次のような【主】のことばが私にあった。:2 「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、【主】のことばを聞けと言え。:3 神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。:4 イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。:5 あなたがたは、【主】の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。:6 彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『【主】の御告げ』と言っている。【主】が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。」と。このようなことが実際にあったので、ペテロはここで改めて「でも、旧約聖書の預言者たちが語ったことばは、このような偽預言者たちのことばとは違う。彼らは自分勝手な解釈をしたのではない。神の幻を自分勝手に解釈してそれを記したのではない。」と言います。お気付きになりますか?その当時存在していた、いや、その前から存在していたこのような偽りの預言者や偽りの教師たちと、旧約を記した預言たちとは全く違うということをペテロは明らかにしようとしているのです。
ペテロは「聖書はその人の独自の解釈によって記されたものではない」と言います。そのことがこの20節に記されているのです。ですから、確かに、日本語訳では「人の私的解釈を施してはならない」と言って、どのように解釈するのか?とも取れるのでそのことを否定しているわけではありません。もちろん、私たちが聖書を解釈するときには、注意して解釈しなければいけない。それはそうなのですが、どうもこの20節が言わんとしていることは、説明したように、聖書のことばは偽りの預言者たちがしていることとは全く違うということを教えているのだと思います。
もう一つ、その理由があります。実は、この「私的解釈」の「解釈」という名詞は「属格」で使われているということです。「属格」とは余り聞き慣れないことばかもしれませんが、「所有格」と同じです。だれが所有しているのか?いったい、だれに属しているのか?その形でこのことばは使われています。つまり、属格を用いることによって、ここで言わんとしていることが、この解釈の元である、解釈の根源が何であるかということを明らかにしようとしているのです。つまり、「人の独自の解釈」だということです。
この箇所が明らかにしていることは「聖書の預言というのは人間が勝手に作り上げたものではない、勝手に記したものではない」と、そのようにここで否定するのです。まず、それが教えられていることを覚えてください。それを受けて、ペテロは21節でさらに詳しい説明を加えています。
B.聖霊が著者だから 21節
21節「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」、なぜ、聖書が大切か?というペテロの二つ目の理由として、実は「聖書は聖霊によって書かれたもの」、この聖書の本当の著者は聖霊なのだということを教えているのです。まず、「なぜなら、」というこの接続詞を見ましょう。20節で語ったことの確実性を明らかにし、そして、その理由をペテロはここで説明しようとするのです。なぜ、聖書は人間が勝手に作り上げたものではないのか?「なぜなら」とその説明をするのです。同時に、これは人間が勝手に作り上げたものではないということを確実にして、その上で、その理由を説明しています。
原語では、21節の最初に出て来ることばは「~ではなく」という否定語です。NOT、NOが最初に出て来るのです。そして、この21節の主語は「預言」です。旧約聖書全体のことです。それが人間の意志にもってもたらされたのではないのだということを明らかにしていくのです。
・「人間の意志」 : 人間の考えや願望によってということです。
・「もたらされた」 : この動詞は非常に重要です。これは「ことばに出す、語る、運ぶ、動かされる、追いやられる」という意味があります。また、別の辞書を見ると「神の宣言・布告を運ぶ、伝える、
ことばで表現する、公にするという意味で用いられたり、またもしくは、制作する、生み出すこと、隠れた事実などを明らかにするという意味で用いられた」と説明されています。
ですから、この21節でペテロが教えていることは、聖書というのは、だれか人間が語ったことを記したものでも、ある人間の考えや、また、それに感化された者によって作り出されたものでもないということです。20節を受けて、そのような説明を加えているのです。こうして、ペテロは偽りの教師、偽預言者たちとこの聖書との違いを明確にしているのです。偽りの預言者たちや教師たちの教えは人間の考えによって作り上げられたものでした。しかし、聖書はそうではないと言うのです。こうして、ペテロは三つの方法で、偽りの教師たちと聖書の違いを証明しようとしています。ペテロが記したことをしっかり見ていきましょう。
*偽教師たちと聖書との違い
1)21節「預言は決して人間の意志によってもたらされたものではなく、」の文頭に否定語 : 21節の文頭はNOT、NOということばで始まると言いました。この否定語を最初にもって来ることで、「聖書が人間の意志によってもたらされた」という人々の見解、憶測をペテロは完全に否定しようとするのです。人々はいろんなことを言います。「聖書だってだれかが勝手に作ったのではないですか?だれかが書いたのではないですか?」と。ペテロはそれに対して21節で真っ向から完全にそのことを否定するのです。最初に「NOT」ということばを入れることによって、これは人間によって作り上げられたものではないということを強調しているのです。そのことをまずペテロは言わんとするのです。そして、それを確固たるものにするために、ペテロはあることばをここに加えているのです。
2)「決して」 : 「預言は決して人間の意志によって…」と「決して」ということばを使います。日本語訳ではこのことばが真ん中に入っていますが、原語では普遍化詞である「決して」は最後に付いているのです。これは「かつて、あるときに、昔は」という意味です。なぜ、これを最後に付けたのか?ペテロは「過去においてもこの聖書は人間によって作られたものではない。この聖書はどの時点でも人間によって書かれたものではない」ということを強調しようとしているのです。最初に否定語をもって来て、そして最後に、「決して」ということばをもって来ることによって、これは人間の考えを記したものではない、そして、今だけでない過去においてもどの時点においても、これは人間の考えを記したものではないということ、これがペテロがこの21節で読者たちに伝えようとしたメッセージです。
3)「預言は決して人間の意志によってもたらされたものではなく、」と述べた後に、反対の意見を導入する接続詞が付いている : 日本語訳には出て来ませんが「しかし、むしろ、反対に」という接続詞があるのです。ですから、聖書とは、人間の意志によって作られたものではない、却って、この聖書とはこういうものだということを後半で明らかにしようとするのです。
人間の意志によって人間が勝手に作り上げたものではないとするなら、聖書とはいったい何ものなのでしょう?みことばが言うように21b節「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」、つまり、これはだれが聖書の本当の著者なのか?だれがこの聖書を書いたのか?を教えているのです。「聖霊に動かされた人たち、」、このことばが私たちに聖書の本当の著者がだれなのかを明らかしているのです。この「動かされた」という動詞は、風を受けて進んでいる帆船に使われるのです。その当時の船にはモーターなどはありません。帆船が帆を大きく広げて風を受けて航行している様子です。実は、その様子が書かれているので光景を描いてください。使徒の働き27:15-17「:15 船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができないので、しかたなく吹き流されるままにした。」、嵐の中でもう抵抗できない、どうすることもできない、だから、風に任せようとします。「:16 しかしクラウダという小さな島の陰に入ったので、ようやくのことで小舟を処置することができた。:17 小舟を船に引き上げ、備え綱で船体を巻いた。また、スルテスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて、船具をはずして流れるに任せた。」と、嵐の中、強風の中で帆船はもう流れに任せるしかなかった、そういう状態です。しかも、21節の「動かされた」ということばは、比喩的に、預言者たちが自らの帆をいっぱいに広げて、そして、聖霊が彼らの帆をいっぱいに満たして、聖霊ご自身が望まれる方向へと彼らの船を進めている、そのような意味で説明されるのです。皆さん、描いていただけましたか?
この「動かされた」ということばは、まさに、帆船が風に流されている様子です。そして、ここでペテロが言いたかったのは、実際に聖書というものは、人間によって確かに記されているが、その聖書のみことばを記した人たちは、その預言者たちは、まさに、この帆船のように、聖霊なる神のその力を受けて、その導きに従って為したのだということです。だから、彼ら自身が自分の望むままに何かをしようなどということはできなかった。まさに、この帆船が風に流されたように、聖霊なる神の働きによって、このみことばが誕生するようになったということを言っているのです。ですから、ペテロは「この聖書の本当の著者は神ご自身なのだ」と言うのです。
なぜ、聖霊なる神がこのみことばを記す必要があったのか?それは神のみこころをご存じなのは神しかいないからです。パウロがⅠコリント2:9でこう言っています。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」、神の為さることを私たちはみな知ることなどできないのです。神の知恵は余りにも優れているゆえに。10節「 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。」、神が私たちに啓示しよう、つまり、私たちに知らせようとすることを聖霊なる神が私たちに知らせてくれたのです。もし、神がそのように考えなかったなら、私たちは知らないことだらけです。神が私たちにこのことを知らせようとしてそれを与えてくださった、だから、私たちはそれを知ることが出来るというのです。
続けて見てください。10b節ー11節「:10…御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」、だから、大切なのです。神のみこころをご存じである聖霊なる神が働かなければ、どのようにして神のみこころを知ることができますか?
ペテロは私たちに、この聖書というのは人間が勝手に考えたり、人間が勝手に書いたものではない、聖霊なる神が実はこの聖書の著者なのだと教えるのです。ここには神のみこころが記されている。でも、そのみこころを記すためには、みこころを知っている人が記さなければいけない。そんな人は人間の中にはいないのです。だから、聖霊なる神が働く必要があった。聖霊なる神がそのように人間を動かしたのだと、そのようにペテロが教えるのです。ペテロは「聖霊に動かされた人たち」と言って、聖書の本当の著者は神ご自身であるけれど、その神が人間を用いられたことを教えているのです。
実際に、神が人々のうちに働いて神のメッセージを記させたということが書かれています。エレミヤ書36:2「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。」、こうして預言者たちは、神が彼らに示してくださった神のみこころを、真理を書き記したのです。
今日のテキスト、21節に「神からのことばを語った」とありますが、「神からのことば」とは「神ご自身のメッセージ」ということです。彼らは自分のメッセージを神からのメッセージとして語ったのではありません。彼らが語ったのは神のメッセージ、神が与えてくださったメッセージだったのです。この「語ったのです」ということばが描いているのは、今説明したように、神が預言者たちに与えてくださった神のメッセージを預言者たちは実際にことばを発して語ったというその様子です。そのことを「語ったのです」ということばによって私たちに示してくれているのです。
エゼキエルに対して神はこのように言われました。エゼキエル書3:4「その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」と。また、使徒の働き28:25には「こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。」と書かれています。その他のみことばもいくつか見ましょう。
エレミヤ1:9「そのとき、【主】は御手を伸ばして、私の口に触れ、【主】は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」
エレミヤ36:28「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。」
エレミヤ25:13「わたしは、この国について語ったすべてのことば、すなわち、エレミヤが万国について預言し、この書にしるされている事をみな、この地にもたらす。」
エゼキエル2:8「人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」
エゼキエル3:1「その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
こうして、みことばは私たちに、確かに、神がある人たちのうちに働いて、そして、その人たちは神のメッセージを聞き、そのメッセージ正確に語ったと、そのことを教えているのです。ゆえに、彼らは正確に記そうとしました。
ペテロは、この聖書は人間が勝手に考え出したものではない、これは神のメッセージなのだと改めてここで教えようとするのです。確かに、聖書を見ると、いろいろな人が書いたというその著者それぞれの特徴が現われています。それぞれが持つ独自の表現であったり、語彙、ことば使い、それらをそのままにして、神のメッセージを記させたのです。神が彼らを用いて、神のメッセージを語らせ、それを記させたと、そのことをペテロが教えるのです。皆さん、不思議に思われるかもしれません。でも、このような働きをなさった神はどんなことでもできる神です。この方にとって不可能なことは何一つないのです。そして、これは神の作品なのだと、そのようにペテロが教えてくれるのです。
旧約聖書、そして、新約聖書もそうです。すべては神のメッセージであると、ペテロはこのように、これは聖霊によって動かされた者たちが神からのメッセージを語った、それを記録したと言います。パウロはご存じのように、Ⅱテモテ3:16で「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」と教えています。彼らが語っていることは同じです。すべて神のみわざであると言います。だから、パウロは、特にこの旧約聖書、もちろん、新約聖書もその後完成するので同じように神が働かれたわけですが、旧約聖書に関してこのように言っています。使徒24:14「しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。」とペリクス総督の前で弁明しています。その後「私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。」と続きます。パウロは旧約聖書のことばをすべて信じていると言います。なぜか?それは神のメッセージだ、神が記されたものだ、人間を使ったけれど、聖書の初めから終わりまでそこに記されているすべてのことは、神ご自身が記したメッセージだ、だから、すべてを信じていると、そのように告白をしたのです。
なぜ、聖書が大切なのか?ペテロはもう一度私たちに教えてくれます。これは神のおことばである、これは神が記されたものだと。だから、ペテロはみことばを語る人であれば正しく語れと言います。そして、私たち信仰者一人ひとりに、これは神のメッセージであるから、あなたがたはしっかりこの権威を認めて、それを心から受け入れるようにと言うのです。皆さん、私たちが学んでいるのは人間のメッセージではありません。私たちが手にして学んでいるのは神ご自身からのメッセージです。だから、そこには当然、聞いた者としてそれに従うという責任が伴うことは明らかです。
今日は今一度この大切なことを見て来ました。なぜ、私たちはこのことを時間をかけて学んだのでしょう?私たちは思い出さなければいけません。私たちが手にしているこの聖書は、私たちをお造りになり世界のすべてをお造りになり、すべてを治めておられ、永遠から永遠に存在している真の神があなたや私に与えてくれたメッセージだからです。
どうでしょう?私たちはこの聖書に対してその権威を認めて十分な敬意を払っているでしょうか?他の書物と同じように扱っていないでしょうか?私たちが知恵を得なければならないのはこの聖書からです。これは神のおことばだからです。私たちが従っていくのはこの神のおことばです。私たちは人間の知恵や教えに心を奪われてはならないのです。私たちがしっかりと心を傾けなければいけないのは、神が私たちにくださった唯一のおことば、この聖書です。
この聖書を愛する者として、その権威に服する者として、どうぞ、みことばに従い続けていきましょう。それがこのみことばをくださった神の前にふさわしい態度です。
《考えましょう》
1.「人の私的解釈を施してはならない」とは、どういう意味かを説明してください。
2.「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではない」の意味を説明してください。
3.「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです」を説明してください。
4.「聖書のみことばに立って生きる」ためにはどうすればいいかを考えてください。
そして、それを信仰の友と分かち合い、その実践に励んでください。
Podcast: Play in new window | Download