メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 2ペテロ1:19
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
Ⅱペテロ1:19を読みます。「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」、教会ににせ教師たちが入り込んで来ました。彼らが教えたことはキリストの来臨を否定するものでした。「創造されたときからこの方、何も変わっていないのではないか?だから、ペテロは来臨のことを語っているが事実ではない。」と、こうして偽りの教えを教会の中に持ち込んで来たのです。そこでペテロは自分たちが語ったメッセージが真理であることを証明しようとします。
A.威光の目撃者
まず、自分たちは来られるべきキリストの威光の目撃者であると言いました。つまり、私たちはイエス・キリストが神であり、その偉大さを、その御力を実際にあの山で目撃したと告げたのです。実際に、自分たちの目で見、耳で聞いたことが、自分たちのメッセージの真実さを証明する証拠の一つであると教えたのです。ペテロは、このにせ教師たちが自分たちの知恵に基づいて作り上げた話を語っていることを知っていました。そこで、私たちが語っているメッセージはそうではない、それが真理であるという根拠がある、私たちはその威光の目撃者であると言うのです。
また同時に、私たちは来られるべきイエス・キリストの栄光を実際に垣間見ただけでなく、天からその声を聞いた、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と。この声を聞いたときに、彼らはその意味を理解しました。父なる神は子なる神であるイエス・キリストのことを愛しておられ、イエス・キリストの言動のすべてに完全に満足しておられた。なぜなら、イエス・キリストはすべてにおいて聖く正しいお方だからです。そのことを理解していました。そして、これらのことを通して、確かに、主イエス・キリストと父なる神は本質的に同じ神だということを確信するのです。
そして、彼らはペテロを含め、自分たちの見たことの証人としていのちがけでこのメッセージを伝え続けたのです。私たちの語っているメッセージは偽りの教師たちのような勝手に作り上げたものではなく、実際に見たこと、実際に聞いたことを話していると言います。こうして、自分たちのメッセージが確かに真実であるということを証明したのです。
そして、ペテロは今日私たちが学ぶ1:19を通して、どうして自分たちの語るメッセージが真実だと言えるのか?その証拠を挙げます。二つ目の証拠です。
B.神のことば
それは「神のことば」であると教えます。私たちが語っているのは「神のことば」である、それも証拠であると言います。19節に「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。」と記されています。「私たちは、」とはいったいだれを指しているのでしょう?これは「すべてのクリスチャンたちを含む」のです。というのは、この後の文脈を見ていくと明らかです。ペテロたちだけでなく、すべてのクリスチャンには、これから見ていきますが、すばらしい神からの宝物をいただいている。すべての信仰者はもうすでにそれを持っているということを伝えるのです。19節の初めのところですが、新改訳聖書の脚注をご覧ください。そこには別訳として「こうして私たちには、預言のことばがいっそう確実なものとされたのです。」と書かれています。つまり、この別訳によれば、イエス・キリストがあの山上で御姿が変わったこと、山上の変貌の出来事が預言のことばの真実さを明らかにしたと、このように訳すことが出来ると記しているのです。ただこの19節のみことばを原語で見るときに、どうもそうではなく、別訳でないほうの訳が原語が教えていることだと思えるのです。
ここに「さらに確かな」という形容詞が出て来ます。これは「信じるに足る、当てになる約束」という意味で、この形容詞は比較をするのです。何かと比較をします。それと比較して「より確実である、より信頼できる、揺るぎのない」という、そういう意味でこのことばは使われています。つまり、ペテロはあることと「預言のみことば」を比較するのです。あることとは、ペテロ自身が実際に経験した出来事です。確かに、ペテロは山上の変貌でイエス・キリストの栄光ある姿を垣間見たのです。イエスがこの地上に栄光を帯びて帰って来られるそのときの様子を少しだけ見ることができたのです。確かに「イエス・キリストは栄光を帯びた神だ」とその確信をもったのです。そのペテロ自身がもった経験と比較するのです。自分たちが実際に目で見、耳で聞いたあの経験よりももっと確かな証拠があると言うのです。その証拠が「預言のみことば」だと言います。
1. 聖書の信憑性
この「預言のみことば」が何か?お分かりですね。聖書のことです。聖書といっても厳密に言えば、この当時、新約聖書はまだ完成していませんから、これは旧約聖書のことです。新約聖書が完成したのは4世紀の後半ですからこのときはありません。ペテロは「どんな経験よりも、どんな個人的な体験よりももっと確かなものがある、それは聖書のことばである。」と言います。これは実は神のことばであると、彼はこの聖書の信憑性を明らかにします。
*みことばである聖書に信頼が置けるのはどうしてか?その理由は、
1)「神のことば」だから
私たちは今、私たちが手にしている新訳聖書、旧約聖書のすべては神のことばであると信じています。ペテロは、このときは旧約聖書しか存在していませんでしたが、旧約聖書を指して、これが信頼に値する「神のことば」だからと言うのです。すでに見ましたが、黙示録の最後22:18-19にこのようにヨハネが記しています。「:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」と。この聖書のことばから勝手に何かを取り除いてもいけないし、そこに何かを付け加えてもいけない、これは神からの完全な啓示であるからと言います。
これは「神のことば」です。神のことばが記されているのです。だから、ペテロは信頼に値すると言います。Ⅰペテロ1:23-25をご覧ください。「:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」、ペテロはこのことばで「聖書は人を新しく生まれ変わらせる力をもっている」と言います。「あなたがたが新しく生まれたのは、」、つまり、救われたということです。もう何度も学んでいるように、「救い」はその人を根底から造り変える神のみわざです。「新しく生まれたのは、…生ける、いつまでも変わらない、神のことばによる」、絶対に変わることがない、永遠に存在される神のおことばだからと言うのです。24、25節はイザヤ書からの引用です。イザヤ40:8「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」と。どうして聖書のことばに信頼を置くことが出来るのか?ペテロが教えてくれます。それは「神のことば」だからと。
2)真実だから
二つ目に「聖書は信頼できる」というその理由は、聖書は「真実」だからと言います。よくご存じのように、詩篇119篇にはいくつかのみことばが記されています。119:160「みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。」、119:172「私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。」、ヨハネ17:17にも「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」と記されています。神のことばは「真理」であると言います。また、ソロモンは伝道者の書12:10で「伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。」と書いています。神のことばであるゆえに、それを正しく書き残したのです。ですから、こうしてみことばは確かに聖書は信頼に値する、なぜなら、これは神のおことばであり、ここには真実が記されている、だから、神のことばに目を向けることだと言います。
さて、こうして聖書がいかにすばらしいものであるかを見て来ました。神が私たち人間にくださったものです。私たちが知らなければならないことがここに記されています。神ご自身からのメッセージが記されています。皆さんはそのことを信じておられますね。問題は、神のおことばである聖書にふさわしい敬意を払っているかどうか?です。そのことを私たちは考えなければいけません。どこかで買う小説と同じような価値なのか?同じような種類なのか?そうではないはずです。大切なことはここに記されている神のメッセージに従うことです。神のことばだから粗末には扱いません。これは私たちを造られた神が私たちにくださった大切な神からのメッセージです。
テサロニケのクリスチャンたちのことについてパウロが記しています。彼らの信仰の様子を知らせてくれています。Ⅰテサロニケ2:13「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。…」、ここには非常に大切なことが記されています。テサロニケのクリスチャンたちはパウロからメッセージを聞いたときに、それをパウロのメッセージとしてではなく、神からのメッセージとして受け取ったということです。「受け入れて」とは「客を歓迎する」という意味です。つまり、彼らはパウロたちが語る神からのメッセージを、まさに客を歓迎するかのように歓迎して受け入れたということです。
しかも、彼らがそのメッセージを聞いたときに、どのような態度でそのみことばに応答したのか?
このように書かれています。「それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。」と、ただ聞くだけではなかった。彼らは神が語ってくださることを心から受け入れてそれに従っていこうとしたのです。ただみことばを聞いただけではないのです。「すばらしい」とか「慰められる」とかで終わったのではなかった。彼らは神が語ってくださっているのだから、それに従っていかなければいけないという思いをもってみことばを受け入れたというのです。それが証拠に続いてこのように書かれています。「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」と。神のことばが彼らの生活を通して生きているのです。皆さん、描けますか?テサロニケのクリスチャンたちは活き活きとした信仰者としてすばらしい神をその生き方をもって証していたのです。
どこにその秘訣があるのか?彼らはみことばを聞いてそれが神のことばだからとその通り受け入れてそれに従っていこうとしたのです。その結果、神が彼らのうちに働いたと言います。そのことは私たちは何度も学んで来ました。聞くだけでは何も起こって来ません。みことばを聞いて知識を蓄えるだけならプライドがどんどん増していくでしょう。大切なことは、聞いたみことばに従うという責任があるということです。
そして、あなたがみことばに従うことによって、神があなたの生活を変えていってくださる。このテサロニケのクリスチャンたちは彼らの生活の中にみことばが生きていたこと、それによって神の栄光を現していたように、私たちも同じように生きることを神が求めておられます。そのことはもう言うまでもありません。だから、パウロはテサロニケのクリスチャンのことを神に感謝したのです。
私たちもそのように生きた信仰者のことを聖書の中に見て来ました。皆さんがよく知っている人たちです。彼らには共通点があります。彼らはみことばを聞いてそれを信じたのです。
*神に大いに用いられた信仰者
・マリヤが祝されたわけ
マリヤの信仰を思い出してください。何度も皆さんに紹介しましたが、エリサベツがこのように言いました。ルカ1:45「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」と。マリヤの信仰を見事に語っています。なぜ、神が彼女を喜ばれたのか?なぜ、神は彼女をお用いになったのか?彼女は主によって語られたこと、それは必ず実現すると信じ切ったのです。「実現する」ということばは「成就する」という意味があります。神が言われたことは必ずその通りになる、それがマリヤの信仰であったと言います。45節の初めには原語では「祝福された者」ということばで始まります。こういう人を神は喜び、こういう人を神は祝福される。それは、神が言われたことはその通りになると、そこに絶対の確信を持っている人です。神がマリヤに言われたことは人間には理解できないことです。「あなたはみごもって、男の子を産みます。」(ルカ1:31)、マリヤは当然答えます。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(1:34)。でも、彼女は有り得ないことを信じたのです。神が言われたからです。その信仰を神は喜び祝したのです。私たちは自分の考えや思い、世の中の常識によって判断しようとしていませんか?マリヤが神に祝された理由は、神が言われたことはだれが不可能と言っても、この世が有り得ないといっても、彼女は信じたのです。
・アブラハムも同様であった
そのように生きたのはマリヤだけではありません。信仰の父アブラハムもそうでした。パウロはローマ書4:19-22でこのように言っています。神から子どもが与えられると聞いてから20年以上が経ち彼はもう百歳になっていました。「:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」。
神が喜ばれた信仰者は共通しています。人間的に見て不可能と思えることでも、神がそのように言われたならその通りになると信じきるのです。そのような信仰者を神は喜ばれ用いられるのです。
マリヤもそうでした。アブラハムもそうでした。テサロニケのクリスチャンたちもそうでした。今、私たちが自らに問い掛けなければいけないことは、私は彼らのような信仰をもって、みことばを信じ従っていこうとしているかどうかです。皆が言うから信じられない、そんなことを信じていたならどんなことを言われるか分からないから信じない…と。昔も今も変わらず、神が私たちに何を期待しておられるのか?神が言われたから絶対にそうなると信じ切る信仰者です。なぜなら、信仰は神の栄光を現すからです。そうして私たちは「神さま、周りのみなは『そんなこと信じられない!』というかもしれない。自分自身にもそのような気持ちがあります。でも、あなたが言われたのだから必ずそうなります。私はあなたを信じます。私はあなたを信頼します。」と。その信仰者を神が喜ばれるのは明らかです。
さて、今日のテキストをもう一度見てください。ペテロが教えたかったことは、たとえ、実際に見たこと、実際に聞いたこと、そのような体験があったとしても、それよりも神のおことばの方が信頼が置けるということです。神のおことばに関してペテロはこう言いました。「預言のみことばを」と。ただ「みことば」と言わないで「預言のみことば」と言ったのはどうしてか?どうして「預言の」という形容詞を付けたのか?「預言のみことば」ということばは聖書の中に2箇所しかありません。ここともう一つはローマ書16章です。
実は、この聖書、旧約聖書には預言的要素がたくさん含まれているからです。主ご自身がそのことをお話になっています。エマオ途上でイエスが二人の弟子たちとしばらくいっしょに歩かれたときにこんなことを言われました。ルカの福音書24:27「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」と。ご自分について書いてあること、それを旧約聖書から話されたのです。旧約聖書はこのイエスのことを記しています。イエス・キリストに関する預言が記されています。確かに、旧約聖書には約束の救世主のことが記されています。どういう家系から生まれるのか?どこの町で生まれるのか?どのようにして死んでいくのか?死んだ後どうなっていくのか?そして、まさに彼らはその成就を見たのです。ですから、確かに、旧約聖書の中にはこうして数多くの預言が記されています。
もう少し見ていただきたいのは「預言のみことば」ということばですが、「預言の」は形容詞です。「みことば」は名詞です。原語では「預言のみことば」の前に定冠詞が付いています。ということは、読者たちがもうすでに知っていることを話したのです。読者たちは旧約聖書の中に救世主に関する様々な預言が記されてあることをもうすでに知っていました。同じルカ24:44にはこのように書かれています。「さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」、彼らは旧約聖書を知っていたのです。そして、その中に来られるべき救世主のことが預言されていた。主イエスは彼らにまさにその預言が成就したことを話して来られたのです。そのことが今見たルカの福音書24章に記されていました。読者たちは確かに、今学んでいる旧約聖書の中にそのような預言が記されていることを知っていたので、ペテロはこのような表現を使って記したのです。
ペテロが教えてくれたことは、この神のおことばである聖書、神の真理が記されている聖書、これこそが私たちが信頼を置くことができるものだということです。もし、あなたの信仰が個人の経験や体験に立っているのなら、その日の気分とかあなたを取り巻く環境の変化によって時にぐらついたりします。でも、もしあなたの信仰がみことばに立っているなら、何があっても決してぐらつくことはありません。なぜなら、この聖書のみことばだけが永遠に変わらない神のおことばだからです。だから、私たちの信仰はこのみことばに立とうとするのです。みことばが教えているから信じるのです。そのような信仰者に私たちは変わっていくことです。
ラッセル・カーターという一人の信仰者がある曲を書きました。皆さんもよくご存じの賛美です。聖歌456番の2節に「世は変わるとも変わらぬ みことばに堅く立ちて 惑い恐れの嵐に 心は乱されじ 立て立て 永久に変わらぬみことを 信じ立て 神のみことばに立て」とあります。世の中は変わっていくけれど、永遠に変わらない聖書のみことばに立ちなさいと、今、ペテロが教えていることと同じことをこのカーターさんは歌にしたのです。そこには真理が歌われています。信仰者の皆さん、我々はみことばに立つ信仰者として成長していくことが必要です。「だれかがこんなことを言っていました。こんな話を聞きました。」というような信仰者ではなく、神がこう言われているから私は信じますと。このことについては神がこう約束されているから私はその通り信じますと、みことばに立つ信仰者を目指すことが必要です。
2.聖書の力 : どのような働きができるのか?
ペテロはこの神のおことば、聖書は真理のことばだから私たちはこの聖書が信頼できるということを言いました。19節の後半を見るとこの聖書の力が記されています。聖書はどんな働きができるのか?そのことを私たちに教えてくれています。「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」と。先に見たⅠペテロ1章では、確かに、みことば、聖書は人を救う力を持っているということを見ました。皆さんもご存じのように、人が救われるのは、聖霊なる神が神のみことばを使って人々の心に働くからです。そうして人々を救いへと導きます。ですから、私たちはみことばの力をよく知っています。
実は、それだけでないと言うのです。そのことが19節の後半に書かれているのですが、まず見ていただきたいのは、この小アジアのクリスチャンたちに対してこのように記されているところです。19節の最後に「それに目を留めているとよいのです。」とあります。「それに」とは聖書のことです。聖書に目を留めているとよいということです。「目を留める」とは「注意を払う、留意する、〜に心を向ける」という意味があります。しかも、現在形です。継続して聖書に注意を払い続けるようにと、そのことを
ここで教えているのです。
なぜなら、このみことばが非常に大きな力を持っているからです。そして、「…暗い所を照らすともしびとして、」とあります。
1)「ともしび」としての働き
聖書のみことばはこのような働きがあるとペテロは言います。「ともしび」としてと。ここで使われていることばは「ランプ」ということです。詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」、この「ともしび」というヘブライ語は「ニアー」ということばが使われていて、これも同じように「ランプ」と訳せます。つまり、明かりをともす働きがあると言うのです。この働きが重要なのは、この世が「暗い所」だからです。「暗い所を照らすともしびとして、」、聖書のみことばの働きのことです。みことばはこのような働きをすると書かれています。
(1)「暗い所」 : 暗い所と聞いて、皆さんはそれがこの世のことを指していることはお分かりでしょう。「暗い所」とは「汚れた、卑しい、乾ききった、からからになった」という意味のあることばを使っています。その場所がどういう所なのかを説明しているのです。「所」とあります。まさに、この世は、汚れた所、卑しい所、乾ききった所で、そのような人々に満たされています。二千年前も今も。この世は汚れ切っていると。でも、思い出してください。創造主なる神がこの天と地を造られたとき、それはすべて神の前に「良かった」、満足なさったのです。いったい何が起こったのか?アダムとエバが罪を犯した時に何が起こったか?創世記3章、3:17に「また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」、神によって造られた人間が神に逆らう罪の選択をしたことによって、この土地が全部のろわれてしまったのです。
土地だけでなく、人間も罪を持って生まれて来る、残念ながら、その心が罪に汚れた状態で生まれて来ます。ですから、人間はその汚れた心が欲するままに生きようとするのです。あのノアの洪水の前に、その当時の世界がどのような状態であったか?モーセが教えています。創世記6:5に「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」と書かれています。生まれながらの人間はだれ一人として神に従っていこうなどと思いません。生まれながらの人間はだれ一人として、聖い神の前に喜ばれるように聖く生きていこうとは思いません。生まれながらの人間はだれ一人として、正しい神の前に正しく生きていこうなどと思っていません。人間が考えることは「自分の思いのままに生きていこう、自分の欲を満たすために生きていこう」です。
(2)照らす : ですから、ペテロは言うのです。そのような世の中にあって、汚れ切っている世の中にあって、この暗い所にあって、みことばは「照らす」という働きをすると。「照らす」とは「光る、輝く」という意味です。汚れ切った世の中にあって、この暗い何が真理かも分からない世の中にあって、みことばはランプとして真理の光を当てていくということです。だから、私たちはどんな時でもみことばを語る責任があるのです。みことばを語ることの大切さがここからも見て取れます。みことばはそのような働きをするからです。人々に真理がいったい何かを明らかにする、その光を当てる役割を持っているのです。
2)「ともしび」としての働きの期間
でも、この働きがずっと続くわけではありません、「ともしび」としての働きの期間が記されています。「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、」と書かれています。「夜明けとなって」、つまり、この暗やみの時間、夜の時間が終わるということです。この世が神によってさばきを受けるときのことです。この世が消え去るときのことです。ちょうど、夜が白み始める頃、何が起こるのか?だんだん見えなかったものが見えて来ます。ここでペテロが言うことは、必ずこの日が来る、神がこの地上に帰って来られるとき、「来臨」される日が来る。その時に、夜が明けるときと同じように、これまでの暗やみは一瞬のうちに消えてなくなってしまう、彼らがさばかれるということです。そのことは後で見ます。
ここに「明けの明星」ということばが出て来ています。これは「金星」のことです。金星とは「明けの明星、宵の明星」と言われます。「明けの明星」は夜が明ける時に明け方に東の方に見える非常に明るい星です。月に次いで明るい星です。でも、ペテロは星のことを言いたかったのではありません。「明けの明星」ということばを使うことによって、イエスのこと言っているのです。黙示録22:16に「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」とあります。ですから、「明けの明星が」と言ってペテロが言いたかったのはイエスのことです。「明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、」、まさに、夜が明けようとしているというのです。つまり、イエス・キリストがこの地上に来臨されるということ、その話をするのです。
そのときに何が起こるのか?イエスが地上に帰って来られるときに何が起こるのでしょう?まず、
私たちが知っていることは、そのときに主は神に逆らった者たちに対して大変厳しい、けれども、正しい、彼らにふさわしいさばきを与えられます。そして、イエス・キリストの救いに与っていた者には「いやし」が与えられます。実は、そのことを預言者マラキがこのように教えています、マラキ書4:1-2「:1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は仰せられる──」、マラキはここで「その日が来る」と言っていますが、これは「主の日」のことです。神のさばきが訪れる日です。その日にはすべてのものが焼き尽くされると言います。イエス・キリストの救いを拒み逆らって来た者たちに対する罪のさばきが為されるということが預言されています。「:2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」、二種類の人々がいることが分かります。片方は焼き尽くされるのです。でも、片方は喜びをもって飛び跳ねていると言います。主イエス・キリストがこの地上に帰って来られたとき、患難時代を生き延びたクリスチャンたちは大変な喜びに与るということです。
ペテロがここで教えたこと、そして、にせ教師たちが否定したことを思い出してください。イエス・キリストの「来臨」のことでした。そして、ペテロはそれが事実であることを証明しています。神のおことばがそのことを明らかにしている、必ず、その日が来る、主イエス・キリストがこの地上に帰って来られると。もちろん、それよりも早く、私たちは患難時代の前に、主イエス・キリストのもとに引き上げられています。しかし、イエスが患難時代の終わりに地上に帰って来る時に、その患難時代を生き延びたクリスチャンたちには「いやし」が約束されているし、患難時代に神に逆らい続けてきた者たちにはこのような厳しい、それでいてふさわしいさばきが下ることが記されているのです。
ここで私たちに一つの疑問が起こります。ペテロはなぜ「あなたがたの心の中に上る」ということばを言ったのか?です。ペテロが言いたいことはこうです。主イエス・キリストが地上に帰って来られると、その後にイエスは千年王国を築かれます。そして、その後に新天新地が築かれるということは黙示録に記されていました。そのことはもう私たちは学びました。ということは、イエスが帰って来られることによってこの地を新しくされるのです。天と地を新しくされる。でも、新しくされるのはそれだけではないのです。主イエス・キリストの救いに与っていたその者たちも新しくされるということです。なぜなら、イエスの再臨を待ち望んでいる人々、今の私たちも同じです。私たちもイエスが帰って来られる日を待っています。なぜ、その日を待っているのか?その日に私たちはこの贖なわれていない罪のからだから解放されるからです。私たちのからだが新しくされるのです。患難時代も同じです。患難時代において救いに与ったクリスチャンたちは、その罪のからだが贖われること、それが新しくされることを同じように待っているのです。
ですから、ペテロが言いたいことは「神は天と地を新しくするだけでない。神は信者をも新しくされる。」ということです。それでここで敢えて「心の中に上るまで」とそのように記したのです。ピリピ書にこのように書かれています。3:20-21「:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」と。同じことをヨハネもⅠヨハネ3:2で言いました。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似 た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」と。
私たちはイエスに似た者に完全に変えられる。イエスになるわけではありません。似た者になるのです。罪から完全に解放されて栄光のからだをいただいて、この主を礼拝する者として永遠をともに過ごすのです。その日が来るということです。必ず、主が来臨される。そして、すべてを新しくされる。この天と地も、そして、信仰者も…。その日が来る、その時までしっかりとこのともしびを、このランプを輝かせていなさい。この神の真理を語り続けていきなさいと、まさに、このみことばが、この罪に染まった汚れた暗い所にあって、唯一の光であるからです。
ペテロは神のおことばである聖書のみことばに信頼を置きました。なぜ、信頼を置いたのか?そのみことばを記したお方を知っていたからです。これは神が記したものであると、そのことを知っていたからです。そこで読者たちにも同じことを勧めるのです。「あなたがたも、いろんな教えが入って来るけれど、このみことばにしっかりと立ちなさい。これは神のことばである。ここには真実が記されている。これが私たちが立つべき真理だから。」と、ペテロはそのように勧めるのです。
同じことを皆さんにもお勧めします。私たちが知りたいのは、みことばを通して記されている神の真理です。どうぞ、あなたの信仰がみことばに立ち、そして、どんな時でもみことばを語る人になってください。もちろん、あなたの経験も大切です。私たちはそれも語ります。でも、みことばを語るときに、
みことばを記された神のみわざが為されるということを私たちは確信することができます。
このみことばは私たちの信頼に値するものです。神ご自身が記されたものだからです。そのことを覚えてこのみことばに従い続けていきましょう。
《考えましょう》
1.「聖書」に信頼がおける理由を挙げてください。
2.「みことば」のこの世における働きを説明してください。
3.「明けの明星があなたがたの心の中に上る」の意味を説明してください。
4.今日学んだことを信仰の友と分かち合って、実践に励んでください。
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