メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 2ペテロ1:16-18
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
神の真理を知り、その真理を日々の生活において実践していくこと、その大切な真理をペテロは改めて小アジアのクリスチャンたちに教えました。ペテロはそれが教会に入り込んで来た、にせ教師たちの教えに惑わされないための得策であることを知っていたからです。ペテロが最初にしたことは、彼らに最も大切な救いについてその真理を改めて教えました。そして、その後、霊的に成長し続けることの大切さを説き、そのためにはみことばの学びと実践が必要だと改めて彼らに教えました。それらを教えた後、今度はこの聖書のみことばの真理の証明をしていくのです。このみことばこそ、ペテロたちが語った教えこそが真理だということを教えるのです。すでに見てき来たように、
A.聖書の大切さ 12-15節
私たちの信仰は成長するものであって、信仰が成長するためには神のみことばであるこの聖書が必要であると。みことばの真理をしっかりと学び、それを実践することによって成長すると最初にも話しました。彼は繰り返してその真理を教え続けていくことによって、彼らがみことばの実践に励むようにと願ったのです。
B.聖書の真実さ 16-21節
その後でペテロは、神からのメッセージを記した聖書が信頼に値するものであるということを、今日から学んでいく16節からのみことばを通して教えようとするのです。神のおことばが、ペテロたちが教えた真理が信頼に値するものであるということをペテロはこの後証明していくのです。
1.ペテロたちの教えの真実さ 16-18節
16節「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」。先ず、ペテロは「私たちは」ということばで始めています。ペテロ一人のことではなくて、ペテロと同じ十二使徒たち、また、このみことばを記した者たち、彼らがそこには含まれるのでしょう。というのは、彼らはペテロが教えたのと同じ真理を教え続けていたからです。16節のみことばを原語で見ると、最初に出て来ることばは「NO」という否定語です。そのことばで16節は始まります。なぜ、ペテロはそのような書き方をしたのか?それは自分たちと、そして、教会に入り込んで混乱をもたらしているにせ教師たちとを比較しているからです。
このような人たちが教会に入り込んで来て、こういうことを教えている、しかし、私たちは…と、彼らと自分たちを比較するのです。対比しながら、なぜ、自分たちの教えていることが真理なのかということを導き出していくのです。ペテロは自分たちと彼らの教えを比較することによって、自分たちの教えがにせ教師たちのものとは根本的に異なる、違うということを強調しています。
1)偽りの教師たちの教え 16節
16節に「…それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。」と書かれています。つまり、ペテロは「偽りの教師たちは、うまく考え出した作り話を語っている。そういうものに従っている。」と言って、彼らの大きな間違いを指摘するのです。この「作り話」ということばは「寓話、架空の話、伝説、言い伝え」という意味をもっています。新約聖書に5回しか出て来ません。5回のうちの1回は今見ているところですが、後の4回はすべてパウロによって用いられています。それらはすべて日本語の聖書では「空想話」と訳されています。しかも、この「作り話」に関してペテロは「うまく考え出した作り話」と説明を加えています。この「うまく考え出した」という動詞は「人間の知恵によって考え出されてもの、人間の知恵によって作り上げられたもの」という意味を持ったことばです。
ペテロはこの偽りの教師たちが教えていること、彼らが教会の中に持ち込んで来た偽りの教えというのは、人間の知恵によって彼らが勝手に作り上げた話に過ぎないと、その教えがいかに真実でないかということを明らかにするのです。最初に話したように、そして、私たちはこの箇所を何度も学んでいますが、確かに、教会の中に偽りの教え、にせ教師たちが入り込んで来たこと、これは小アジアだけの問題ではありません。また、この初代教会の時代だけの問題でもありません。どの時代であってもどの場所であっても同じような問題が存在しているわけです。
いったい、このにせ教師たちは何を達成しようとしているのでしょう?偽りの教えを持ち込むことによって何を達成したいと考えているのでしょうか?いくつかのことが考えられます。
*にせ教師たちの目的 =
(1)真理から遠ざけるため : 彼らがしようとしていることは人々を惑わすことです。人々を真理から遠ざけようとします。パウロはテトス1:14に「ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。」と記しています。真理から離れた彼らの教えに心を寄せないように、真理から離れた人たちが真理から離れたことを教えているその目的は、聞いている者たちが同じように真理から離れることです。Ⅱペテロ2:1-3にはこのように書かれています。「:1 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」、ペテロはこのようなことが起こると警告しています。「:2そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。」、彼らによって惑わされている様子が書かれています。そして、みことばが教えていない、みことばが警告するような罪の生活がそれによってもたらされると言っています。「:3 また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」、にせ教師たちは混乱をもたらし、人々を惑わし、そして、人々が真理から遠ざかるようにと、そのような働きをするのです。
(2)人々から救いを遠ざけるため : 同時に、彼らは人々を救いから遠ざけるためにこのような誤った教えを持ち込むのです。Ⅰテモテ1:4に「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」と書かれています。真理でないことをどれ程教えたとしても、どんなに熱心に教えたとしても、真理ではないので約束しているものを得ることはありません。ですから、この偽りの教師たちは偽りの教えによってそれを聞いている者たちを惑わして、彼らが間違っても救いに至らないようにとそのような妨げを為すのです。
(3)信仰の成長を妨げるため : もう一つ考えられることは「信仰の成長を妨げるため」に誤った教えを持ち込んで来るということです。パウロはⅠテモテ4:7で「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。」と言っています。このような誤った教えをいくら聞いていても、あなたたちの信仰の成長にはならないということです。ですから、にせ教師たちが持ち込む教えは何の益ももたらさないということです。パウロは非常におもしろいことを言っています。にせ教師たちが持ち込む教えに関して「それらは悪霊たちの教えである。悪霊たちの教理である。」とⅠテモテ4:1でこのように言っています。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」と。厳しいですが、まさに真実を語っています。ですから、ペテロもこのように言うのです。にせ教師たちの教えは悪霊の教えに従ったものである。人間の知恵が考え出した寓話、作り話に従ったに過ぎない。でも、私たちの教えはそうではないとそのことを彼は強調するのです。
皆さんもよくご存じのように、そういう時代になっていく、教会が神の真理から益々離れていくと、そのことをみことばは警告していました。パウロはⅡテモテ4:3、4でこのように言っています。「:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」と。もうそのような時代になっています。私たちにとって神のおことばを正しく学んでその権威に従って行くというのは当たり前のことです。でも、その当たり前のことが当たり前でなくなってしまう、パウロが警告したような時代がもう私たちの周りに訪れていることは明らかです。だから、この警告を発したパウロは同じようにこのように記しています。Ⅱテモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」と。特にパウロはテモテに対して、あなたの務めはどんな時でも人々が聞こうと聞くまいと神の真理を語り続けていきなさい、それが務めだと改めて教えるのです。そして、その責任は今の私たちも同じように負っているのです。
テキストに戻って、16節に「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、」とありますが、「知らせました」という動詞の意味は「人々の前で教える、人々の前で宣べ伝える」です。しかも、動詞の時制は不定過去を使っています。これが歴史的な事実だということを明らかにしたのです。確かに、ペテロたちはこの事実を語ったのです。そのことを明らかにしているのです。そして「私たちは」と記されているのはこのメッセージを語ったのはペテロ一人だけではなかったということです。使徒たちも同じように、人々の前で「私たちの主イエス・キリストの力と来臨」というメッセージを語って来たと、そのことをペテロは明らかにするのです。
皆さん、ここまで聞いて来て、ペテロたちは間違いなくそれ以外のことも語って来たはずです。ペテロたちはこの主イエス・キリストの「力と来臨」だけを語ったのではありません。それ以外にも多くの真理を語って来ました。それなのにどうしてこの16節でペテロは敢えて「力と来臨」ということばに言及したのでしょう?不思議だと思いませんか?なぜ、他のことに触れないでこのことだけに触れているのか?実は、そのことはペテロ自身が教えています。Ⅱペテロ3:3からを見てください。「:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」、偽りの教師たちが入り込んで来て、彼らが攻撃したのはイエス・キリストの来臨についてだったからです。「どうしてそのようなことがあり得るのか?今日まで何も変わってないし、そんな兆候もないじゃないか。」と、偽りの教師たちは私たちの主イエス・キリストの力と来臨の教えを完全に否定し、また、信じている者たちを揶揄し嘲笑っていたのです。だから、ペテロは敢えてそのことについて、ここで真理を教えようとするのです。
16節に「主イエス・キリストの力と来臨」と二つの名詞が書かれています。「力」と「来臨」です。「力」 : 全能の力、神の力です。
「来臨」 : このことばは「来られる、姿を見せる」という意味があります。キリストが戻って来られる、「キリストの来臨」のことです。
⇒ この二つの名詞は一つの冠詞でつながっている
この二つの名詞は、原文の並び方を見ると、一つの冠詞があって、その後に二つの名詞が並んでいるのです。それぞれの名詞に冠詞は付いていません。一つの冠詞に二つの名詞を付けているのです。これは二つの出来事を指しているのではなく、一つの出来事を異なった側面から見ているのです。つまり、ペテロが教えていること、また、彼が実際に語ったこと、ペテロたちが語って来たことは「主イエス・キリストの来臨は、神としての御力と栄光を帯びたものである」ということです。イエスが戻って来られる時には神としての力をもって、そして、その栄光をもって帰って来られると、そのことをペテロたちが教えて来たと、改めてここにペテロは記すのです。
思い出してください。イエスご自身がそのようにお語りになっていました。主イエス・キリストが戻って来ることを教えられたし、その時にどのように帰って来られるのか?そのことも話しておられました。たとえば、マタイ25:31に「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」とあります。また、すでに学んだ黙示録を思い出してください。19:11-16「:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。」。この白い馬に乗った方はイエスです。イエスが白い馬に乗って帰って来るのです。そして、罪のさばきを下されます。そして、その方の頭には多くの冠があると教えています。つまり、このイエスはすべての主権者であられることを意味していました。この方はさばきを与え、そして、サタンとその軍勢に敢然と勝利されると、そのことがこの箇所で教えられているのです。
⇒ 主イエスの初臨のときとは大いに異なる
ですから皆さん、イエスも栄光をもって帰って来られることをお話しになった。黙示録もヨハネによってこのようなことが起こるということを明らかに記していました。そして、ペテロたちもそのメッセージを語っていたのです。ところが、教会に入り込んで来た偽りの教師たちは真っ向からその真理を否定したのです。このイエス・キリストがもう一度地上に帰って来られるその時、来臨されるとき、これはイエスが人としてこの世にお生まれになった初臨とは全く異なる出来事です。今から約二千年前にイエスがこの地上にお生まれになった時、栄光を帯びて力を帯びてこの世にお見えになったのか?そうではありませんでした。そのことをパウロはこう言っています。Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」、神であられる方が人になったのです。しかも、人に仕える者になられた。もっと言えば、私たち罪人のためにいのちを捨ててくださった。ここまで主はへりくだられたのです。パウロはピリピ2:6、7で「:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」と言っています。
驚くべき出来事です。神が人としてこの世に来てくださり、そして、あなたや私の罪を負って十字架に掛かってくださった。ですから、イエスが人としてこの世にお生まれになった時に、そこには栄光はなかった。力がなかった。もちろん、それを隠しておられたのです。イザヤはこう言いました。イザヤ書53:2、3「:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」。
ペテロがこの16節で明らかにしたのは、確かに、初臨で人としてこの世にお生まれになったときのイエスは、まさに、私たちと同じような姿だった。でも、イエス・キリストが帰って来られる時には、栄光に満ちあふれた神としてお帰りになるということです。そのメッセージを彼らは伝えたのです。
16節を見てください。「力と来臨」のことを言いましたが、それがいったいだれのことなのか、ペテロは明確に記しています。「私たちの主イエス・キリストの」と、この方が栄光をもって帰って来られると、そのことを今一度明らかに記しているのです。ペテロが教えたことは、偽りの教師たちは人間の知恵に基づいた教えを作り上げて、それに基づいてそれに従って勝手な話を作り上げたのに過ぎないということです。でも、私たちがあなたがたに教えた教えは全く異なると言います。この16節の後半から今度は自分たちの教えについてペテロは教えます。
2)ペテロたちの教え 16-18節
ここには、ここまで確信をもって語った理由が記されています。16節の後半に「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」とあります。
「威光」 : この「威光」ということばは新約聖書にわずか3回しか出て来ないことばです。このことばは「神の偉大さを表すことば」です。たとえば、「偉大な神の御力の現れ」とか「強力な御力、並外れたみわざ」と、そういう意味を持ったことばです。
「目撃」 : そのことを自分たちは目撃したのだとペテロは言うのです。しかも、その目撃したのはペテロ一人ではなかった。「この私たちは」と言っています。いったい何のことを言っているのでしょう?17、18節を読みます。「:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」とあります。ここを読むと、ペテロが何のことを言っているのかが分かります。あの「山上の変貌」というマタイの福音書17章に書かれている出来事です。どんなことが起こったのか見ましょう。17:1-9
「:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。」と、このような出来事が記されています。また、後でこの箇所を見ます。
ペテロはⅡペテロ1:17で「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、」と、イエスがある時点で父なる神から栄光と誉れとをお受けになったと言っています。その出来事がまさにこの山上の変貌の出来事だと言うのです。この1:17、18を読むとそのことが明らかです。イエスは「父なる神から誉れと栄光をお受けになった」のです。
「誉れ」 : これは「尊敬、称賛」という意味があります。聖書の箇所をいくつか見ましょう。
ヨハネ5:23「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」
Ⅰテモテ1:17「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」
へブル2:9「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、
死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
黙示録4:9、11「:9 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、…:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
黙示録5:12-13「:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
「栄光」 : このことばが持っている意味は「神としての無類の輝き、神としての無比の輝き」です。マタイ24:30「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」
ルカ9:32「ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。」
ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
ヨハネ17:22「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
Ⅱテサロニケ1:9「そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」
では、イエスはいつどのようにしてそれらをお受けになったのでしょう?もう一度、マタイ17章をご覧ください。
(1)栄光 : 2節「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」、イエスの御姿が変わったのです。この変貌によってイエスは栄光をお受けになった。(2)「誉れ」 : 5節「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。」、父なる神の御声によってイエスは「誉れ」、尊敬と称讃をお受けになったと言います。
もう少し、イエスがこの山上の変貌でお受けになったものを見たいと思います。Ⅱペテロ1:17に「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」と記されていました。父なる神がこのように御子イエスに言われたのです。
*父なる神が主イエスに言われたことは?
1)これはわたしの愛する子である : このように父なる神がイエスに対して言われたのは新約聖書の中には2回ありました。1回目はイエスがバプテスマをお受けになった時に天からその声がしたこと。2回目はここに記されている山上の変貌の出来事のときでした。この「ある」という動詞は現在形ですから、それがずっと継続しているということです。父なる神はこのイエスをずっと愛しているということです。つまり、父なる神と子なる神であるイエス・キリストには完全な愛が存在しているということ、そこには変わらない愛があるということです。
2)わたしの喜ぶ者である : この「喜ぶ」とは「大変喜んでいる、満足している、同意する、賛成する」という意味があります。父なる神はイエスのすべてのことを喜んでおられる、イエスのすべての点において父なる神は主イエス・キリストに対して満足をしておられるという意味です。
父なる神が子なる神であるイエスのことを愛しておられ、イエスのすべてのこと、彼の言動も心においてもすべてのことにおいて完全に満足していると言うのです。なぜなら、主イエス・キリストがすべてにおいて完全に聖いお方であり、正しいお方だからです。つまり、この天からの声によって明らかにされたことは、この主イエス・キリストが、人としてこの世にお見えになったお方が、父なる神と本質的に同じ神であり、唯一真の創造主なる神であるということです。その宣言だったのです。
17節でペテロは父なる神に対して「おごそかな、栄光の神から」と、このように描写しています。これは「神の称号、神の呼び名」です。
「おごそか」 : 「荘厳である、威厳がある、崇高である」ということ。
「栄光」 : みことばの中では神が栄光に溢れた方であると記されています。たとえば、使徒の働き7:2「そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、」、詩篇29:3には「【主】の声は、水
の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。【主】は、大水の上にいます。」とあります。説明するまでもありません。神は栄光に満ち溢れたお方です。パウロはⅠテモテ6:16に「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」と記しています。
ペテロがここで父なる神のことを「おごそかな、栄光の神」と記したときに、まさに、これが神の姿である、神とはこのようなお方であるということを明らかにしたのです。そして、このような「おごそかな、栄光の神」という名にふさわしいお方は、創造主なる唯一の神だけです。その完全なみわざゆえにすべての被造物によって崇められ、永遠に誉め称えられるお方、その完全な赦しのみわざゆえに、すべての贖われた者から崇められ、永遠に誉め称えられる唯一の方です。確かに、神は「おごそかな、栄光の神である」。その方がイエスに対して「この方は神だ」と言われたのです。
ひとつ補足しますが、17節に「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、」と記されていますが、山上の変貌において、このときにイエスが人間だったのに神になられたということではないということ、そのことをしっかり覚えておかなければいけません。ヘブル書の著者は1:3に「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」と記しています。はっきりしています。イエスは永遠に神であられるお方です。この出来事によってイエスが神になったのではありません。この出来事によってイエスが神であることが明らかにされたのです。
もう一度マタイ17章に戻ってください。大切なことをごいっしょに見ておきます。17:1から見ました。1節に「それから六日たって、」と記していますが、実は、この山上の変貌の六日前のこと、イエスは弟子たちに話をしておられます。16:27、28「:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。」」、ここでもイエスはちゃんと言っておられます。栄光を帯びて帰って来ると。「その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」、最初に見たように、主権者としてすべての罪をさばき、救いに与っている者たちに対してふさわしい報いをお与えになるのです。28節を見てください。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」とあります。
皆さん、恐らく、この箇所を読まれて非常に難解だと思われたことでしょう。ここには「ここに立っている人々の中には」と書かれているので、そのときイエスといっしょにいる人たちのことを言っています。その中には「人の子が御国とともに来るのを見るまでは」と、これはいつのことか?イエスが地上に帰って来られるときです。患難時代があってまだその先のことです。イエスは地上に帰って来られ、そして、御国を築かれるのです。そうすると、その時まで「死を味わわない人々が」いると言うと、初代教会のこの時代の人の何人かはイエスが地上に帰って来るまで、王国を築かれるまで死を経験する人がいないのだろうか?と、確かに、28節を見るとそのように教えられているように見えますが、イエスはそんなことを言われたのではありません。
「人の子が御国とともに来るのを見るまでは」と、イエスが帰って来られる時には27節で見たように「父の栄光を帯びて、御使いたちとともに」帰って来られます。神であられる方がこの地上に帰って来られる。そのときが来るのはまだ先のことだが、そのときの様子を少しだけあなたがたに見せてあげようと、そして、それが起こったのがこの山上の変貌です。イエスがこの28節で言われたこと、この後17章で明らかにされたのは、イエス・キリストがだれなのか?です。「栄光に溢れた神」である。それはイエスが地上に人としてお見えになったから、神である部分が消滅したのか?そうではありません。神であられ、そして、人であられた方、その栄光の部分が隠れていたけれども無くなってしなったのではありません。
ですから、山上の変貌においてイエス・キリストが栄光に溢れた神であることをこの弟子たちに示されたのです。28節でイエスが言われたことは、イエスが御国を築くために帰って来るそのときに、帰って来る御姿を今あなたがたに見せてあげよう。それを見るまで、あなたがたの中には決して死を経験する者がいない、それを見るまで死を経験する者はいないということです。この三人、ペテロとヤコブとヨハネはこのことを目撃しました。これを目撃するまで彼らは死を経験していません。このことを言われたのです。イエス・キリストはご自分の約束を改めて弟子たちにお話しになり、そして、ご自分がその約束の主であることをこの山上の変貌で明らかに示されたのです。地上に帰って来る、そのイエスの御姿をこの弟子たちに少しだけ示されたのです。だから、ペテロたちは確信したのです。確かに、イエスは言われていた通りのお方であり、それゆえに、この方が言われたことは必ず実現すると、そのように彼らは信じたのです。なぜ彼らは、イエスが帰って来られると、主イエス・キリストの力と来臨を語り続けたのか?この出来事を目撃したからです。栄光に満ち溢れたイエス・キリストの御姿を見たときに、この方が確かに帰って来られるお方であると、彼らは確信をもってこのメッセージを語り続けたのです。
イエスは確かに戻って来るということをお話しになりました。皆さんもよくご存じのように、ヨハネ14:3、18に「:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」「:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と書かれています。なぜ、この約束を信じることができるのか?これをお語りになった方が神だからです。だから、この方のおっしゃったことは必ずそうなるのです。ペテロたちはそれを見たのです。目撃者だと言いました。だから、自分たちの見たことを彼らは人々に語ったのです。彼らは主イエス・キリストが来臨されるときの「本当の姿」をあの山上で「目撃」したからです。
偽りの教師たちは自分たちの知恵で考え出したこと、偽りの話を教えているが、私たちは実際にこの目で見たことをあなたたちに教えるのだと言っているのです。「使徒の働き」4章の中で、ペテロが捕えられてさばきを受けた時にペテロは何と答えたのか?4:20「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」と。イエス・キリストの栄光を見た、イエスがいったいだれであるかを確信した。私たちはそれを見た者としてそれを話さないわけにはいかない、これが真実だから、私たちはそのことを人々の前で明らかにしなければならないと言うのです。使徒の働きの他の箇所も見ましょう。
2:32「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」
3:15「いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」
5:31、32「:31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
22:15「あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。」
26:16「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。」
イエスは弟子たちを証人として遣わされました。ルカ24:46-48をご覧ください。「:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
:48あなたがたは、これらのことの証人です。」、また、使徒1:8には「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。ペテロたちは自分たちが実際に見たこと、それを証人として語り続けたのです。このイエス・キリストこそが神であり、このイエス・キリストこそが救い主である、そのことを彼らは目撃者として語ったのです。そして、あなたにも私にも、この救いに与った私たちにも神は同じことを要求されるのです。あなたは救いを経験した者として、もちろん、我々はイエスを見たことがない、でも、我々は信じており、この救い主が今も生きておられる真の神であることを私たちは知っています。私たちの生活が変わって来たからです。私たちはこの方が今も生きておられる真の神であることを確信しています。神が言われていることは「あなたはそれを経験した者としてそれを証しなさい」です。ちょうど、ペテロたちがいのちがけでその証をしたように、私たちもこの恵みに与った者としてその証人としてこの働きをする責任があります。ペテロたちはいのちを賭けてこの働きをしました。私たちも見たことを語るのです。
クリスチャンの皆さん、私たちも同じです。私たちが経験したこと、それを語るのです。彼らも証人でした。そして、私たちも証人なのです。
=聖餐式=
今から私たちはパンと杯をいただこうとしています。このパンと杯に特別な力があるわけではありません。でも、私たちがこの聖餐式を通してすることは、イエス・キリストの十字架を思い出すのです。人としてこの世に来てくださった真の神、私たちのために成し遂げてくださったこのすばらしい完全な救いを、私たちは今一度覚えて感謝をもってこれをいただくわけでしょう。でも、その杯とパンをいただくに当たってしっかりと覚えなければいけないことは、私たちはこのイエス・キリストの死を宣べ続けていくという、その責任を持っているということです。そのことをパウロはⅠコリント11章で教えています。
皆さん、お気付きになりますか?神があなたにこの日をくださり、こうして生かしてくださっているのは「証人として生きるため」です。私たちの神が真の神であり、そして、唯一の救い主であるということを、私たちが人々に明らかにする、その目的をもって生かされているのです。私たちは証人です。もちろん、私たちはことばをもって語ります。でも、ペテロが教えてくれていることは、もちろん、ことばをもって語るのですが、私たちの生き方が変わって来ているというその事実をもって、私たちは人々にこの神こそが私たちを生まれ変わらせることのできる神だ、約束されたことを実際に実現できるその力を持っている神だと、そのことを私たちは生き方が変えられるというその生き様をもって明らかにするということです。そうして、神が真実なお方であることを明らかにするのです。この使命を私たちは忘れてはならないのです。ペテロたちはその働きを為した。私たちもその働きを負っているのです。
どうか、それぞれがこのパンと杯をいただくときに、どんな使命を私は帯びているのか?どんな使命を神は私に与えてくださったのか?そのことを思って「主よ、どうぞ私を証人として使ってください。そのように私は生きていきたい。」と、その決心をもってこのパンと杯をいただいて欲しいと思います。
《考えましょう》
1.「キリストの力と来臨」とはどういうことかを説明してください。
2.どうして真理を覚え続けることが大切なのですか?その理由を挙げてください。
3.あなたはどのように反復を実践されていますか?
4.今日学んだことを信仰の友と分かち合って、実践に励んでください。
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