メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 2ペテロ1:12-15
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
今朝はⅡペテロ1:12からご一緒にみことばを学んでいきたいと思います。
ペテロがこの手紙を記した理由は、教会の中ににせ教師たちが入り込んで来たからでした。彼らの教えに惑わされないようにと、ペテロは神の真理をいま一度彼らに教えます。最初に彼が教えたことは、救いとはどういうものか、救いについての真理でした。またその上で偽りの教えから自分を守るためにはそれぞれが霊的に成長し続けることが大切だということを教え、そしてその成長のためにはみことばの学びと実践が重要だということを教えました。ペテロは読者たち、現在のトルコにいたクリスチャンたち、教会にこのメッセージを送るのですが、彼が教えたことは全く新しい真理ではありませんでした。この後私たちが見ていくとそのことがわかりますが、既に彼らが学び、彼らが実際に実践していたことを改めて彼は教えます。神の真理に立って生きることが重要だと読者たちに教えようとしたペテロは、神の真理とはまさに神のおことばであり、そのみことばを実践するためにどうしたらいいのか、そして我々が立つべきそのみことばがどうして真理だと言い切れるのかを教えていくわけです。
A.聖書の大切さ 12-15節
きょう我々は12-15節を見ていきますが、ペテロは聖書の大切さについて教えていきます。いかに聖書があなたの信仰の歩みにおいて大切なものかを教えます。ペテロはこの読者たちのことを心から愛していました。そこで彼らがこの教えを実践して成長することを望んだわけです。そのためにペテロはまず真理を教えることによって彼らを励まそうとします。二つ目に行いによって彼らを励ましていこうとします。
1.聖書の実践 12-13節
まず最初に、彼らがみことばを実践することを実現するために、読者たちが神の真理、みことばの教えを日々の生活において実践していくためにペテロが二つのことをするのです。それが12-13節に記されています。
1)聖書を思い起こさせる 12節
12節「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、」、まずペテロは、先ほどもお話ししたように新しい真理を教えているのではないということを記しています。彼が教えようとしている真理はあなたたちは既にそれを知っていると書いてあります。それは自分たちに与えられたこの救いというのがどれほど大きな犠牲に基づいたものかです。私たちは主から罪の赦しを与えられ、それを喜び楽しんでいますが、その背後にどんな大きな犠牲があるのかを我々は見てきました。神ご自身が人として来られ、そしてその罪のない方ががあなたの罪を負って身代わりとなって死んでくださる。この大きな犠牲のゆえに、この救いは完成し、そしてそのすばらしい神が完成された救いをあなたは無償でいただいたと。それだけではない。あなたに与えられたこのすばらしい信仰はあなたのうちにおいて成長していくものだと。確かにいろいろな障害もあるし、いろんな闘いはあるけれども、しかし神はあなたを成長させてくださると。このような真理をペテロはもう既に教えていたのです1章の初めのところでも、我々はそのことを学んできました。だからペテロは12節で既にこれらのことをあなたたちはもう知っている、「現に持っている真理に堅く立っているあなたがたで」と書かれています。彼らはそのことを聞いて、そのことをただ信じているだけではなくて、その真理にしっかりと立って、それを実践していたとペテロが教えるわけです。
それでいてペテロがなぜ改めてこの真理を彼らに教えようとしたのか――。12節の後半に「私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」とあります。もう既に彼らが信じており、彼らが実践していることを改めて伝えることによって、彼らがこの真理を忘れることなく、いつもその真理を思い起こすためであると。つまりペテロはここで、私たちがみことばに従っていくためには、その真理を繰り返し、繰り返し教えられ、それを常に思い出すことが必要だ、反復が必要だと言っているのです。私たちも聞いたことはその時は覚えていると思っていますが、すぐに忘れてしまう者です。神のみことばに従おうとしていながら、その神のみことばを忘れてしまったとしたら、どうやって実践できます?そこでペテロは、もう既にあなたたちはそのように生きているけれども、私は繰り返しこの真理をあなたたちに教えることによってこの真理をあなたたちのうちで思い起こさせようとしているのです。ペテロは、彼も含めて私たち人間の弱さをちゃんとわかっています。こうして正しい真理を繰り返し、繰り返し教えられることによって、私たちはその真理を決して忘れることがないと。
・「モーセ」 申命記6:7-9
このような方法で、真理をしっかりと覚え続けて生きたというのは、旧約の人々も同じでした。モーセがイスラエルの民に申命記6:6で「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」と教えています。まずモーセがイスラエルの民に命じたのは、私がこれからあなたたちに言うことをしっかりとあなたたちの心に刻めと。なぜ心に刻むことが必要かというと、心が私たちの行動を生み出していくからです。その行動を生み出していくところにしっかりと神のおことばを刻むことによって、そのみことばを実践する者になっていくからです。その後こう続いています。「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」(7-9節)と。モーセが言ったことはこういうことです。まずあなたはみことばを聞いたら、すぐに消えてしまわないようにそれをあなたの心にしっかりと刻みつけるようにと。そのためには、あなたはそれを繰り返し繰り返し思い起こすことが必要だと。ここに記されているのは、もしあなたに子どもが与えられているのであれば、その子どもたちに常にその真理を教え続けていくようにと。「家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい」、それを教え続けていきなさいと。教えるためには我々自身がそれを実践しなければいけない。ですから四六時中、機会があるごとに神の真理を教えていくように、つまりまず自分自身が機会あるごとにその真理をしっかりと思い起こして従っていくように、それを実践していくようにと。
聖書を見た時に、このすばらしい神の教えを次の世代に伝えていく責任は教会ではなく家庭にあるのです。我々先に救われた信仰者にもし子どもが与えられたとすれば、その子どもたちにしっかりと真理を教えていく、その教える場所というのは家庭です。多くのクリスチャンたちはその働きをしてくれるのは教会だと誤解しているかもしれない。聖書はあなたがそれをしなさいと言っています。だれかに任すのではないのです。我々に与えられた責任としてその働きをなすのです。あなた自身がすべきことは神があなたに示してくださった真理を心に刻み、そしてそれを忘れないために常に思い起こしていくことです。「しるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」、そして「家の門柱と門に書きしるしなさい。」。今もイスラエルの人たちは何千年前のこの教えを守り続けています。何のために神様はこんなことを命じたかというと、神の教えを忘れないためにです。忘れたら実践できないからです。
・「過越の祭りを守ること」 申命記16:3
イスラエルの民がエジプトを出てきました。そして神が彼らに命じたことは過ぎ越しの祭りを守ることでした。申命記16:3から記されています。「パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。」、それは「あなたが急いでエジプトの国を出たからである。」と。なぜこんなことをするのか――。「それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。」と、みことばはちゃんと教えてくれています。この祭りを彼らが毎年祝い続けるのは覚えるためだと。
・「聖餐式」 Ⅰコリント11:24-25
新約の時代でもイエス様は教会に「わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と、聖餐式を命じられました。私たちは何のために聖餐式を守り続けるのかというと、聖餐式をすることによって私たちの霊性が向上するとか、特別な力をいただくということではありません。イエス様が言われたのは「わたしを覚えて、これを行ないなさい。」、つまりイエス・キリストが私のために何をしてくださったのかを覚えるためです。
2)聖書の教えを反復する 13節
旧約を見ても、新約を見ても、人々がこの神の真理を常に覚え続けるためには繰り返さなければならないのです。私たちはこうして反芻したり反復をしなければすぐに忘れてしまう、だからやりなさいと。ペテロはそのことをよくわかっていました。そこで彼は大切な神の真理を教え続けたのです。繰り返しこの真理を教えたのです。たとえ人々がそれをもう実践していようと、その人々に常にそのことを教えた。つまり、私たちは何のためにこれをしているのかを常にみずからに問いかけないと、同じことを繰り返していながらただそれが形だけのものになってしまう可能性があります。もし私たちが意義を忘れてしまったら、本来なら実のある行為だったとしても、実のない行為になってしまう。なぜ私がこうして礼拝に来ているのか、なぜ私が教会の集会に出て行くのか、なぜ私がこれをしているのかと。そのことを我々はいつも覚えていないと、神が喜ばれない礼拝をささげてしまうことになる。神がお喜びにならない奉仕をささげてしまうことになるのです。私たちはこうして繰り返し神の真理を教えられることによって、願わくばそれが私たちの心に定着し、決してそれを忘れることなく、それを実践する者になっていくと。ペテロはそのことをよく知っていました。そこで彼は聖書の真理をこの読者たちに繰り返
し思い起こさせたのです。
13節を見ると同じようなことが記されています。聖書の教えというのは反復しています。「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」とあります。この大切な神様の真理を繰り返し何度も教えることの大切さをペテロは知っていました。13節「私が地上の幕屋にいる間は」の「幕屋」というのは「テント」という意味もあります。つまり一時的な仮住まいであって永遠の住まいではないということです。イスラエルの民がエジプトを出てきたとき、彼らはさまざまなところに宿営しました。そこに彼らは家を建てませんでした。そこは自分たちにとっての定住の場所ではないからです。みことばが言うように我々信仰者はこの地上をただ旅しているに過ぎないと。我々は寄留者であると。なぜなら私たちの住まいはこの地にないのです。我々の住まいは天にあるのです。そこに向かって私たちは生きているわけです。この地上に皆さんが定住しようとしても残念ながら定住することはできないのです。この地上は滅びるからです。イエス様は、私はあなた方の住まいを備えます、そして備えたらあなたを迎えに来ると言われた。我々クリスチャンはその約束に立っているわけです。永遠に続くすばらしい住まいを神が設けてくださった。そこが私たちの定住の地です。
ペテロはそのことを知っていたゆえに、「地上の幕屋にいる」と言っています。この地上でのいのちの話です。それは一時的なものだと。永遠から見たらほんの小さな小さな期間に過ぎないと。ペテロは私が生きている間、この真理を繰り返しあなたたちに教えることによって、この真理をあなたたちが思い起こすことによって、あなたたちの信仰が奮い立つこと、それが私のなすべきことだと。「奮い立たせる」というのは「目覚めさせる」とか「倒れたものを起こす」という意味です。ペテロはこの真理を教え続けることによって、彼らの信仰を励まし続けていきたいと、神のおことばに従い続け、天のすばらしい住まいを待望しながら生きることはすばらしいことなのだと、彼らに教え続けることによって、彼らが喜びを持って、確信を持って歩み続けていけるようにと、それが「私のなすべきこと」だと13節で言っています。この「なすべき」という形容詞は、「正しい」とか「当然な」という意味です。つまりペテロはこれは私が当然しなければならないことだと、これは私にとって正しいことなのだと。なぜこんなことを言ったかというと、実はこれこそがペテロに与えられた使命だということを確信していたからです。
・「子羊を飼いなさい」 ヨハネ21:16
この使命がいつペテロに与えられたのかというと、ヨハネ21章に出てきます。復活したイエス様にペテロが出会った時に、主がペテロにヨハネ21:15で「わたしの小羊を飼いなさい。」、また17節でも「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。この飼うということばは「えさを与える」とか、羊ですから「牧草を与える」という意味です。彼らが生きるように、彼らが成長するように、必要な食物を与えていくという意味です。
・「羊を牧しなさい」 Ⅰペテロ5:2 使徒20:28
真ん中の16節には「わたしの羊を牧しなさい。」と出てきます。牧するというのは羊たちの世話をしていくことです。ただ食べ物を与えるだけではない、この羊の世話をしなさいと。21:15―17を見ると、「小羊」もそうだし、「羊」もそうです。「小羊」というのは幼い「羊」です。成長した「羊」であったとしても、主が言われたのはそのどちらも私の「小羊」であり、私の「羊」であり主に属するものだと。ですから救われている者たち、私に属する者たちを、私を信じる者たちを、彼らが成長するためにしっかりと養って、この「羊」たちをきちんと世話していきなさいと、それがペテロに与えられた神からの使命でした。
2.牧会者ペテロ:読者たちのことを愛していた 14-15節
1)模範を示したペテロ:忠実であり続けた
その働きをペテロがしていることがここで見られると思います。ペテロがこのクリスチャンたちに対して、この真理を一生懸命繰り返し何度も教え続けたのは彼らが成長することを望んだからです。わたしの羊を養いなさいと、それを実践していたのです。彼らが成長するために神の真理を与え続けた。霊的な食べ物を与え続けることによって、彼らが成長するようにです。まさにこれは、教会の長老たちの働きです。長老たちに託されたその大きな責任の一つは、みことばを教えるということです。なぜなら聖書のみことばによって人々は成長するからです。その神のみことばを正しく伝えていくというその責任、そしてそれを聞いたひとりひとりの信仰者がそれを実践することによって、それはかないます。動物を思い出してください。えさをあげてもそれを口の中に含んだだけで飲み込まなかったら、その動物は成長しません。それを飲み込んで初めてその体の力になるのです。神のことばを幾ら聞いておられても、それを飲み込んで自分のものにしなければ、それはあなたの力にならない。ですからもう何度も学んできたように、ただみことばを聞くだけではなくて、聞いたみことばを実践するという責任があなたにはあるのです。そしてそれを神が可能にしてくださるとみことばが繰り返し教えています。でもその責任を覚えていかなければいけない。それをしっかりと噛み砕いて飲み込んであなたのものにしなければいけないのです。この真理をしっかりとあなたが受け入れて、それに従って行く時に確実にあなたの信仰が成長すると。ペテロはそのことを願って、この真理を教え続けていたのです。
ペテロがイエス様にお会いしてこの大切な使命をいただいた時、同時にペテロは主ご自身から彼自身の死について教えられています。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。』これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」(ヨハネ21:18-19)と。ペテロが復活の主にお会いした時、自分の使命を示されただけではなく、どのような死に方をするかを主から教えられたのです。14-15節を見ると、彼は大切な真理を彼自身の模範をもって、行いをもって教えています。14節「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」、今見てきたようにここでペテロは主キリストご自身から示された自分自身の死についての話をしています。ペテロはここで「知っているからです」と書いています。
過去においてもそれを知っていたし、それをずっと知り続けているという話です。何を知っていたのかというと、「私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている」ことです。この「脱ぎ捨てる」ということばは、もちろんこれは「脱ぐ」とか「何かを捨てる」、「取り去る」とか「取り除く」という意味です。ペテロは、この地上の一時的な肉体を脱ぎ捨てるというような婉曲的な表現を使うことによって、肉体的な死の話をします。ペテロはここでこの「幕屋」、一時的なものを私は取り除くのだ、私は捨てるのだと。さっきも見たように、この地上での住まいが一時的であるように、私たちのからだも同様に一時的なものです。我々にはすばらしい永遠の住まいが備えられているだけではなくて、すばらしい栄光のからだが備えられているのです。私たちが待っているのはこの罪のからだから解放されて、この栄光の、死ぬことのない、栄光ある神の前に立つことのできる完全なからだをいただくのです。ペテロ自身この地上を生きていて、この地上のことに何の未練もなかった。持っているものはみんな一時的なもので滅んでしまいます。彼が見たのは永遠に滅ばない都、永遠の住まいです。自分の体も日々衰え、確実に死に向かっているのです。でも彼はその先を見たのです。その先にはすばらしい死ぬことのない栄光の体が約束されていると。
15節「私の去った後に」と、ここでも同じことが書かれています。14節では「幕屋を脱ぎ捨てるのが」、つまり自分の死が近いと。そして15節で「私の去った後に」と、死の話を彼はこんなふうに表現しています。異なる表現です。でもあえてペテロがこういう表現を使ったのは、意図があるからです。15節のこの「去る」ということばは「エクソドス」というギリシャ語を使っています。これは「その道から出て行く」という意味です。旧約聖書の出エジプト記を英語でそのように呼びます。出エジプトというのは奴隷とされていたイスラエルが、そこから解放されてそこを出て、約束の地に向かっていくわけです。まさにペテロはここで同じことばを使うことによって彼自身が死についてどのように考えていたのかを明らかにしています。彼は死をすべての終わりとか絶望というふうに見ていません。死はちょうどあのエジプトを出てきたように、神の約束の地に向かっての出発であると。私たちがこの死のからだから出て行ってもっとすばらしい神の約束された祝福の中に入るのだと。ペテロは自分の死が近いことを知っていましたが、彼はそのことを喜んでいた。その先にすばらしい神の約束があるからです。クリスチャンの皆さん、私たちはその約束に立って生きているのです。もし我々が死んで滅んでしまうのだったら、これらの聖書の教えは、そしてこの聖書の教えに従ったクリスチャンたちの人生というのは全く空しいものです。しかし、我々が何度も学んだようにイエス様が死からよみがえってきたことによって、人は死んで終わるのではない。その先があることを明らかにしてくださった。そしてこのイエス・キリストの救いにあずかった者たちは、ペテロが教えたように、私たちのこの一時的な肉体が滅んだ後、永遠の祝福の中に栄光の体を持って招かれるのです。我々はこの神とともに永遠を過ごすのです。
この一時的な住まいから解放されて、永遠に備えられたすばらしい祝福に私たちは招かれていくと。ですからペテロはそのことをいつも覚えて希望を持って生きていたことは明らかです。彼はその祝福を覚えるだけではない。その祝福を覚える時にいつ主にお会いしてもいいように、その備えをしていたはずです。なぜなら、特にこのペテロの時代はネロによっていのちを狙われていました。このペテロ第二の手紙を記した後すぐにペテロは殉教していきます。そのペテロがこうして私たちにすばらしいところが約束されていると、その希望を告白し、そして、そのすばらしい祝福を心待ちにして生きていたこと、だから死が近づいていることを覚えても彼の心は乱れなかった。この希望が彼の信仰の歩みの土台にあったからです。
≪例≫
① 十人の娘たち マタイ25:1-13
ちょうどイエス様がお話になった十人の娘たちの話を思い出します。十人の娘たちの半分五人は、備えができていたと。残りの半分五人は備えができていなかったという例えです。五人の娘たちは賢く、五人の娘たちは愚かであった。ともしびのため油を持っている者たちと持っていなかった者たち。つまりこの箇所が言っていることは、五人の賢い娘たちは花婿が来るのを待っていたのです。花婿が花嫁を迎えに来た後に花婿の家に連れて行き祝宴がもたれます。その時にともしび、つまり松明が必要だったのです。この娘たちは準備ができていました。でも五人の愚かな娘たちは準備ができていなかった。花婿が来た時に彼女たちはそこに招かれませんでした。祝宴の場に入ろうとしても悲しいことに「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と(マタイ25:12)。確かに救いの話です。主イエス・キリストが地上に帰ってこられる前に備えができている者たちと備えができていなかった者たちがここに記されています。
今私たちが見たいことは、私たちは主に会う備えが日々できているかどうかです。今救いの話をしています。クリスチャンである皆さんがペテロがそうであったように、私たち自身もいつ主にお会いしてもいいような備えをもってきょうを生きているかどうかです。なぜならその日は来るからです。
②「主のみこころよりも、自分の考えに従い、人生をむだにしている人たち。」ヤコブ4:13―15
そこで私たちがこの地上を歩むにおいてどうしても忘れてはならないことがあります。ヤコブはそのことを我々に教えるのですが、ヤコブ4章の中でユダヤ人たちに対して大切なことを教えてくれます。というのはユダヤ人たちは、貿易において大変成功した者たちでした。そこでこういった警告がされています。ヤコブ4:13-15「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。」、ここにいる人たちの特徴がわかります。この人たちは自分の計画は絶対実現するのだと信じ切っているのです。ですから見ていただくと、全部自分の計画です。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と。彼は自分が立てた計画がそのようになると信じ切っていたし、彼の人生の目的は金をもうけることしかなかった。この人の特徴は永遠を考えていたのではないのです。この世のことだけしか考えていない。この人の問題は神のみこころではなくて、自分の計画に沿って生きていこうとしているのです。この人の問題は神の恵みではなくて、自分の力ですべてのことが達成できると信じているのです。そこでヤコブは「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎ」ないと教えるのです。人生がいかにはかなものかということを言うわけです。そのことは我々みんな知っているはずなのです。その上で、ではどうやって我々は生きるべきなのかをヤコブは教えてくれます。そういう愚かな人の生き方ではなくて、「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」と。つまり大切なのは「主のみこころ」に従って生きていこうとすることだと言ったのです。
神様から託された私たちの人生を、自分の計画に基づいて生きていくのは、まさに神の前にむだな人生です。我々にとって必要なのは神が与えてくださったこの日々を神のみこころに沿って生きるならばそれは価値ある生き方です。ヤコブは教えてくれるのです。神のみこころに沿って生きることが最善な歩みであると。ペテロが私たちに教えてくれていること、彼自身の歩みをもって、模範をもって愛する読者たちに教えたこと、それはそのすばらしい神様の約束を覚え、主にお会いするその時を覚えながら、日々を生きたということです。その備えができた歩みを彼は日々行っていたということです。
2)遺言を残したペテロ:彼がこのメッセージを記した理由 15節
最後にこの15節を見ると、「また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。」とあります。ペテロが残した最後の遺言のように思います。「私の去った後」、私が死んだ後「あなたがたがいつでもこれらのことを」、この真理を「思い起こせるよう、私は努めたい」と。ペテロは生きている間は彼自身のことばをもって彼の教えをもって繰り返し真理を教えることによってこのクリスチャンたちを励まし続けていこうとした。ペテロはもう死が間近に近づいていて、永遠に彼らとともにいることができないことを知っていたのです。そこで、自分が死んだ後もこの読者たちがしっかりとこの真理によって励まされ続けるように、この真理を常に思い起こすことができるために、ペテロはこの真理を記したのです。記されたメッセージならば人々はいつでもそれを読んでその真理に立つことができる。あやふやな時でも、忘れかけた時でも、この記された真理を見る時に、真理を確認することができます。ペテロは「私は努めたい」と言います。。つまり私はこのために最善を尽くしたいという意味です。ペテロは最後の最後までイエス様が命じられた私の羊を飼いなさい、私の羊を養いなさいという命令を忠実に守り続けたのです。彼はこの愛する羊たちが、自分がいても、自分が亡くなっても、この真理にしっかりと立って成長し続けていくように最善を尽くしたのです。このペテロの証が私たちに教えてくれることは、確かに彼は神の教えに従い続けたことです。この読者たちが、この愛するクリスチャンたちがこの真理をいつも思い起こしながら、それによって彼ら自身が奮い立って主に従い続けていくように。このみことばを見る時にペテロがいかにこの人々を愛して、牧会者として生きていたかを見ることができます。
15節のみことばの中で日本語の聖書には「いつでも」ということばが補われています。原語にはありません。しかし、「これらのことを思い起こせるよう」というのは「思い起こす」ということばと「させる」という二つのことばからなっています。「思い起こす」に「させる」という動詞がついているのです。この動詞が現在形だから訳者は「いつでも」ということばを加えて、ペテロが伝えたかったメッセージを正確に伝えようとしたのです。ペテロは、あなたたちがいつでもこの真理を思い起こすことによって、この真理をしっかりと覚え続けることによって、あなたたちがそのように歩んでいくことを望んでいたのです。そのために彼はいのちがけでこの働きを行ったのです。真理を伝えるという責任があります。同時に真理を聞いた者にはそれを実践するという責任があります。そしてその神のみことばを実践することによって個人も成長するし、その群れも成長する。ぜひ皆さんに覚えていただきたいことは、あなたの信仰が成長していくための秘訣です。それは主の真理を片時も忘れないことです。神が教えてくださっているその真理を忘れないことです。あなたの心にしっかりとその真理を刻むことです。それをいつもあなたが思い起こすことです。そのことによってあなたはそれに従う者になります。最初にも言ったように私たちの大きな問題は、何を神様がお命じになったのか――。その命令を忘れてしまうことです。忘れてしまってはその命令を実践することは不可能です。
ペテロがこんなことを私たちに教えてくれたのですが、パウロも同じようなことを言っています。使徒20:30で「目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」と。パウロは3年もの間クリスチャンたちを励まし続けてきたと彼が言うわけです。私があなたたちに教え続けてきたことを思い出してくださいと。これも現在形です。常に思い出すように、それを忘れないようにと。信仰者の皆さん、あなたが神のみことばから聞いたその真理、神のみこころを実践することによってあなたは変わってきます。そのためには、その真理をしっかりと覚え、実践することです。どうかあなたがこの真理をしっかりと心に刻んで、何度も繰り返し思い起こすことによってあなたがみことばに従う者として歩み、成長するように心からそのことを願います。
《考えましょう》
1.真理を反復することが重要な理由を挙げてください。
2.どうして真理を覚え続けることが大切なのですか。その理由を挙げてください。
3.あなたはどのように反復を実践されていますか。
4.きょう学んだことを信仰の友と分かち合って、実践に励んでください。
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