メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅰペテロ1:3
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
ペテロの手紙第一1章3節を、今日、このイースターの日にごいっしょに見ていきましょう。
あのローマ皇帝ネロの時代にクリスチャンたちが迫害されたことは周知の事実です。その迫害のきっかけは、紀元64年7月にローマに大きな火事があったことです。この火事は新しい都市計画を実現するためにネロ自身が起こしたものでしたが、この大火を命じたのはネロだと民衆が信じて疑わないことが分かった後、彼はこの風評をもみ消すために、スケープゴード、すなわち、身代わりとして立てたのがクリスチャンたちでした。ネロはクリスチャンを放火犯に仕立て上げ、その結果、ローマ帝国内でクリスチャンに対する迫害が始まったわけです。
今から見ていくこのペテロの手紙第一は、恐らく、その64年7月以降に書かれたか、それよりも少し前に書かれたか、いずれにせよ、紀元64年から65年に書かれました。ペテロは大変な迫害が訪れること、そのことを予期していました。そこで、読者たちを励まそうとしてこの手紙を記したわけです。
1:3をご覧ください。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」、まず、神に対する賛美「神をほめたたえる」ということばで始まっています。なぜかということがその後に記されていますが、その答えは、神はすばらしい祝福を私たちクリスチャンに与えてくださった、それゆえに、私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますようにと、祝福をいただいた者たちがその祝福をくださった神を誉め称えているのです。
☆神がクリスチャンに与えてくださった二つの祝福について学ぶ
3節の後半に「私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」と、ここに二つの祝福が記されています。
1.与えられた祝福
1) 私たちを新しく生まれさせて :
「新生」ということです。思い出してください。ニコデモに対してイエスは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。「新しく生まれる」、「新生」のことです。人は新しく生まれ変わらなければ永遠のいのちをいただくことはないと、そのように主ご自身がお教えになったのです。ここに記されているのはまさにその「新生」、「救い」のことです。「新しく生まれさせて」と記されていますが、「再び生まれる」ということです。この箇所が私たちに教えることは、私たちが何かをしたからではなくて、これは一方的な神のみわざであるということです。実は、そのことをこの後見ていきますが、ペテロは神が与えたすばらしい祝福の一つ目は「罪からの救い」であると言います。神はあなたを新しく造り変えて、新しく生まれ変わらせてくださる、これは神のみわざである、あなたが何かをしたからではない、神の一方的な恵みのみわざであると教えるのです。
2)生ける望みを持つようにしてくださいました :
「持つようにしてくださった」」とは、新しく生まれ変わったその結果としてその人に与えられることを言います。新しく生まれ変わった者に「生ける希望」を神が与えてくださったということです。「希望」ということばを私たちはよく使いますが、ある人はこのように使うかもしれません。いろんなことにくよくよしないように、すべてのことをポジティブに考えるように、積極的に物事を見るようにと。しかし、そういう意味でこの「希望」ということばが使われているのではないということを皆さんはお分かりになると思います。ここで言われている希望というのは、私たちがどんな考え方をするのかではなくて、神が与えてくれるものだとペテロは教えるのです。
ペテロはイエス・キリストを信じた者たちに罪の赦しが与えられるだけでない、その人が新しく生まれ変わるだけでない、その人は神が与えてくれる希望を持って生きることができるのだということを言うわけです。Ⅰペテロ1:21にはこのように書かれています。「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」、救いも希望もすべて神にかかっている、神がそれを私たちに与えてくださるのだと言います。この「生ける望み」ということばを見ると、「生ける」とは「生きている、いのちがある、活気がある」という意味を持ったことばが使われています。つまり、救いに与った人たちは、この望みその希望がその人のうちで活き活きとしている様子、希望がそのクリスチャンの生活の中にあって活気づいている様子、まさに、希望が押し出す、そのような人生を生きている人たちのことです。
皆さん、救いに与った私たちクリスチャンの特徴の一つを挙げるとするなら、それが「希望」だということはよくお分かりだと思います。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(Ⅰコリント13:13)とある通りです。それを神は私たちにくださったのです。ですから、ペテロはⅠペテロ3:15で「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」と言っています。神があなたを救って
くださった目的は、あなたを通して「神に希望がある」ということを明らかにするためです。だから、「弁明できる用意をしていなさい。」と、人々が「なぜ?」と問い掛けるから答えてあげなさいと言います。それは、神が私を新しく生まれ変わらせてくださって、神ご自身がこの生ける希望を与えてくださったからです。
かつての私たち : 私たちは救われる前にはそのような希望を持っていませんでした。パウロが言うように「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ2:12)。思い出してください、クリスチャンの皆さん。救いに与る前のあなたはただ何となく日々を過ごしていました。目先のことだけを見て、今が楽しければそれで良いと、死んでから先のことを考えることは私たちにとってはタブーでした。死んでから先の永遠に関して私たちには何の希望もなかったからです。私たちは「死」に関して考えないようにして、ある面では恐れながら生きていました。
新しくされた私たち : しかし、私たちはこの救いに与ることによって、希望を持って生きる者になりました。ですから、私たちは、たとえ今日いのちがなくなったとしても、永遠に生きるという希望を持っているゆえに、私たちにとって「死」は恐ろしいものではなく、逆に、それを待望しているのです。なぜなら、「死」は苦しみから解放されるという意味ではなく、私たちの主にお会いできるからです。もちろん、イエスにお会いした時に私たちはすばらしい祝福をいただきますが、感謝なことに、今この地上にあってもこの「希望」が私たちの生活をよりすばらしいものにしてくれます。テトス2:13に「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」と書かれている通りです。
ペテロはこの二つの祝福を今一度クリスチャンたちに明らかにしました。「しっかり覚えていなさい。あなたがたはこのような祝福をいただいたのです。」と。クリスチャンであるなら例外なくすべての人にこの祝福が与えられたのです。恐らく、ペテロがそのことを強調したのは、それがこの時代にあってすばらしい証となることをペテロ自身がよく知っていたからでしょう。というのは、実はこの時代、人々は希望を失っていました。先程も話したように、64年7月にローマで大火事がありましたが、それによって住居が神殿が宮が、町の殆どの物が消失してしまいました。この当時の住居は、この火事以降禁止されるようになりましたが、床や建物の梁、屋根に木材が使われていました。ですから、大変燃え易かったわけです。火事に遭ってほとんどのものが燃えてしまった後、ローマの人たちの多くはすべてのものを失ったという喪失感に襲われ、それは大変なものだったでしょう。
また同時に、彼らは物に対するだけでなく、彼らが崇めて来た神々に対する失望感も大変大きなものでした。自分たちが手を合わせて来た存在、崇拝して来た偶像は町の中だけでなく自分たちの家の中にもあったのです。そして、彼らが気付いたのは、このような偶像は自分たちを火事から守ってくれなかった、もっと言えば、偶像自身が自分を守ることができなかった。それらもすべて燃えてなくなってしまったからです。ですから、彼らは大変な失望を自分たちが崇拝して来た神々に対しても抱いたのです。これまで自分たちが信頼して来た神々への疑心が彼らから希望を奪っていったのです。そこで、ペテロが言うのです。「私たちに与えられた希望をしっかり示すように、我々イエス・キリストを信じる者に与えられたその希望を人々の前で明らかにするように。この人々はそれが必要だ。この人々には希望が必要だから。そして、その本当の希望は神しか与えることができないから。」と。
そこでペテロはもう一度、この迫害下にあるクリスチャンたちに、喪失感に満たされているこのクリスチャンたちに、どうすればそのような中にあっても勝利できるのかを教えるのです。私たちの生活の中にも残念ながらいろんな悲しいことや辛いことが訪れます。でも、神の約束してくださったこの地上での生活は、そのようなものに負けるのではなく、それらに白旗を挙げるのではなくて、その中にあっても私たちは希望を持ってそれらに勝利できる、そのような生活です。どうすればいいのか?私たちは
この祝福をしっかりと覚えることです。どんな祝福を神が私に与えてくださったのか?そのことを覚え
るのです。
2.祝福が与えられた要因
二つ目に「祝福が与えられた要因」についても教えてくれます。神はなぜ信じる私たちに祝福を与えてくださったのか?3節に「…神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、」とあります。これが祝福が与えられた要因です。この「あわれみ」ということばは「深刻な必要を抱えている人に親切、また、関心を払う」ということです。大変な必要を覚えている人たちに対して、彼らに関心を払って、彼らを何とか助けようとする、それがこの「あわれみ」ということばです。神はあなたに大変な深刻な必要があることをご覧になったのです。神はあなたをご覧になった時に「あなたは生まれ変わらなくてはいけない。あなたは罪から解放されなくてはいけない。あなたの罪は赦されなければいけない。聖められなければいけない。そうでなければ、あなたは自分の罪によって永遠のさばきを、永遠ののろいを自分の身に招いてしまう。」と言われます。その必要をご覧になった神はあなたに関心を払われたのです。あなたのことを心に留められたのです。
パウロはこのように言います。エペソ2:3-5「:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」、あわれみ豊かな神はあなたのことを見て、あなたの必要を知って、あなたに最も必要な救いを備えてくださったのです。また、テトス3:5には今話している大切な真理が記されています。「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」と。あなたが何か特別なこと、すばらしいこと、人々の喜ぶようなことをしたからではない、あなたが何かをしたからではないと言うのです。この箇所が教えていることは、あなたが何かをしたから神はそれに対して救いを褒美として与えましょう、ということではなかった。神は「ご自分のあわれみによって」、神が一方的にあなたをあわれみ、そして、あなたのために聖霊によって新生を与えたと言います。「新生」とは「その人を洗い清める」ということ、すなわち、救いのことです。そして、聖霊によって神はあなたに「更新」を与えた。「更新」とは全く新しい者に造り変えてくださるということです。この救いのみわざを神ご自身が為さったのだとこの箇所は私たちに教えるのです。
私たちが神に対してして来たことは何でしょう?神は本来私たちの創造主です。私たちを造り、いのちを与えられた方です。この方を愛してこの方に従うのは当たり前です。しかし、私たちは全く違うこと、この方に逆らうという選択をしそのような生き方をして来たのです。ですから、本来なら、私たちは祝福ではなくてのろいを受けるべきです。救いではなくてさばきを受けるべきです。でも、神はあわれみをもってあなたに救いを与えてくださった。あなたを新しく造り変えてくださった。あなたの罪をすべて洗い清めてくださった。なぜなら、神はあわれみ深いお方だからと言います。
実は、この3節を見ると「神は、ご自分のあわれみのゆえに」とは書かれていません。「大きな」という形容詞がついています。ペテロは神の恵みを「大きなあわれみのゆえに」と説明しています。この「大きな」という形容詞は一つは「量における多さ」のことです。神のあわれみとは私たちが考えられないほど多いのです。私たちの罪に勝るあわれみ、私たちがその一つ一つを数えることができないほどの神のあわれみです。また、このことばには「偉大」という意味もあります。ペテロが言いたかったのは、神があなたに示してくださったあわれみというのは、量においても計り知ることができないだけでなく、余りにも偉大なあわれみであった、人間が想像できないようなそんな偉大なあわれみを神はあなたに示してくださったということです。
神が私たちに示されたあわれみの中の最も偉大なものは「贖い」です。Ⅰペテロ1:18をご覧ください。「:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、…」、ここに書かれている「贖い出された」ということばは新約聖書の中に3回しか出て来ません。
贖いの説明 : その意味は「代価を払ってだれかを自由にする、解放する」という意味です。パウロはⅠコリント6:20でこう言っています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と。「贖い」というのは「代価を払ってその人を束縛されている状態から解放して自由にする」ということです。ですから、支払うべき代価はその人を自由にするに余りある物でないといけない、それに見合った物でなければならない。みことばが教えている神があなたのために支払われた代価はどれ程価値あるものだったのか?もう一度Ⅰペテロ1:18の後半をご覧ください。「…銀や金のような朽ちる物にはよらず、」と、実際に銀や金をもって奴隷の売買がなさ
れていたのです。ペテロはそんなものによってあなたは自由にされたのではない。また、解放されたのではないと言います。
代価の説明 :
19節「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」、ここにペテロはあなたはどんな代価をもって罪から解放されたのか、どんな代価が支払われることによってあなたが新しく生まれ変わったのかを教えてくれています。「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血」、そうです。この「血」とは「いのち」です。イエス・キリストのいのちという代価によってあなたは解放された、あなたは自由にされたとペテロは教えてくれるのです。大変な犠牲が伴っています。へブル書9:12には「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と書かれています。
ぜひ、皆さん想像してみてください。あなたのために十字架に架かっていのちを捨ててくださったイエスは、この世界のすべてをお造りになった神です。その方が人として来てくださり、罪の全くないこのお方があなたのすべての罪を負ってあなたの身代わりとして十字架で死んでくださったのです。考えられますか?ですから、ペテロは「大きなあわれみのゆえに」と言ったのです。私たちの思いをはるかに越えた大変大きな犠牲があなたのために払われたのです。先にも見ましたが、テトス2:13でパウロはこう言っています。「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」と。信仰者は主イエス・キリストにお会いするその日を待望しながら今日を生きている者たちだと言います。ここで使われていることばですが、ここに記されている姿というのは、まさに、もうつま先立ちをして、自分の愛する人が、待ち焦がれている人が来るのが今か今かと待っているような状態です。私たちもそういうことを経験したことがあります。いつ来てくれるのだろうと…、そうして待っている様子がこの箇所に記されているのです。私たちはそんな信仰者でありたいと思いませんか?なぜなら、この信仰者はイエスにお会いする準備ができているからです。
よく耳にすることは「もう少し待って欲しい。今来てもらったらちょっと困る、まだやりたいことが残っているから…」と、これが意味しているのはまだイエスにお会いする備えが出来ていないのです。でも、その備えができている人は「イエスさま、早く帰って来てください。早くお会いしたい。」と言います。なぜ準備ができているのか?この人は主が与えてくださったその命令に、神の助けをいただきながら従い続けていることによって信仰において成長しているからです。その人は日々の生活を通して、信仰が成長し、より神に喜ばれる者として成長しているからです。だから、彼らは待っているのです。早くこの愛する主にお会いできるように、早くこの方にお目にかかりたい!と。
皆さん、間違いなくペテロはそのように生きていました。そして、このメッセージを記したパウロもそのように生きていたはずです。信仰の勇者として神がお用いになった人々に共通しているところは、みんな不完全です、みんな罪を犯す者たちです。でも、その中にあって彼らは主にお会いしたいという願いをもってその日その日を生きていたのです。イエスにお会いする備えをもって彼らは生きていたのです。だから、主が教えてくださるみことばをしっかり学んで、そのみことばに神の恵みによって従って行こうとして生きていたのです。みことばの中には何度も、主人がその財産、宝をしもべに託して旅に出る様子が書かれています。その時に共通しているのは、主人から託されたしもべはそれを正しく用いることが要求されたことです。そして、主人が帰って来た時にそれについての精算がなされます。言うまでもありません。皆さんよくご存じです。ということは、今は私たちの主人であるイエスが未だ私たちのところに帰って来ていませんが、私たちには務めが与えられているということです。神が求めておられるのは、あなたや私がその務めを果たしているかどうかです。今、私たちが見て来たのは、神はあなたをこの救いへと導くために、この祝福を与えるために大変な犠牲を払ってくださった。神ご自身がご自分のいのちを犠牲にしてあなたに救いをくださった。そのことを分かっているクリスチャンたちはこの日を神のために生きたいと願うはずです。
ですから、このように言えます。クリスチャン生活というのはこのすばらしい神に対してどう答えていくのか、それを考えて生きる生活であると。神が為されたことはもう明確です、みことばの中に記されています。問われているのは「では、あなたはその神に対してどのように生きていくのですか?」ということです。そのことが問われているのでしょう?テトス2:13に記されている人たちはそのように生きていたのです。神が命じることを喜んで心から守り行っていくことによって自分たちの感謝を現わしていたのです。自分たちがその命令に従うことによって、神を愛していることを人々の前で明らかにしていたのです、そうして彼らはイエスに会う備えをしていたのです。今、私たちが考えなければい
けないのはそこではないですか?私はどのようにして生きていくのか?私は何のために生きているのか?もし、あなたが主がみことばを通して教えてくださるこの真理にしっかりと立って、この神のみこころに神の助けをいただきながら従っていくなら、あなたは主に会う備えができた人であると言うことができます。神が求めておられること、神が命じていることをあなたが守り続けているなら、あなたは主に会う備えができているのです。そのようにして生きる責任があることを確かに私たちは聖書から教えられます。
でも、それは分かっているけれど確かに毎日主に従い続けることが難しいことも私たちは分かっています。他の方に心が向けられるし、他の方に関心が向いてしまいます。神よりも自分のことが優先してしまったり、神のみこころより自分の考えを優先したり…。では、どうすればいいのか?パウロはこのように言っています。ローマ15:4「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」、つまり、パウロが言いたいことは「聖書を見てご覧なさい。あのアブラハムがどんなふうに生きたのか?ノアがどんなふうに生きたのか?ダビデがどんなふうに生きたのか?みな完全ではなかった。でも、彼らが神のみことばを行うことによって、神がどのように彼らを祝し彼らを用いたのかをしっかり思い出しなさい。」ということです。だから、感謝だと思いませんか?こうして聖書が与えられていること、かつての信仰の勇者たちがどんなふうに生き、神がどのように彼らを扱われたのか?私たちは実際に見て知ることができるのです。パウロは言います。「それがあなたの希望になる」と。確かに、信仰生活は難しい、神に従い続けて行くことは難しい、でも、私たちもこういう信仰の勇者たちの生き方を見た時に、彼らも私たちと同じ罪人であっても神の助けをいただいて生きた時に、このように神が彼らを祝されたことを知るのです。また同時に、神に従わなかったときには災いを被ったことも知ります。
私たちに必要なことは神のみことばにしっかり立ってその教えに従いながら生きていくことです。失敗したら神の前にそれを告白してまた従っていくことです。また失敗したらまた同じことを繰り返すのです。そのようにして生きなさいと神が教えてくださったから、そうして生きていくのです。まさに、それこそが主に会う備えができた人の生き方なのです。どのような祝福がクリスチャンに与えられているのか?なぜ、このような祝福が与えられたのか?そのことが記されているだけではありません。
3.祝福が現実である保証 : イエスキリストの復活
三つ目に「祝福は現実であることの保証」がここに記されています。3節を見てください。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」とあります。ペテロはクリスチャンにはこんなすばらしい二つの祝福が与えられている。救いであり、生きる希望が与えられていると。でも、これは根拠のない、そうあって欲しいという淡い希望や願望ではないことを証明したのです。つまり、この約束された祝福が現実であるということをペテロは証明していくのです。その証明が「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」と、つまり、それを証明するのはイエス・キリストの復活だということです。
もし、イエス・キリストが死んだままで、今もそのからだが墓の中にあるとするなら、彼はただの良い立派な人だったということになります。この世が言うように、彼は歴史上の聖人の一人に数えられるそんな人でしかなかったかもしれない。しかし、主イエス・キリストは死から敢然とよみがえって来られました。このよみがえりによって、イエスはただの聖人ではなくそれ以上の存在であることを明らかにしました。Ⅰコリント15:17、20を見てください。「:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」、「:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」、イエス・キリストが死からよみがえって来ることによって、確かに、彼こそが約束されていた救世主であることが明らかになったのです。ですから、主イエス・キリストが約束されたこの祝福は、必ず、信じる一人ひとりに与えられるとペテロは教えます。なぜなら、イエスが確実に肉体をもってその死からよみがえって来たこと、この事実があるからです。
考えていただきたいことは、死からのよみがえり、これは人間には絶対に不可能です。しかも、死んでから三日目の復活なんてどうですか?三日経てば明らかにこの肉体は腐敗し始めます。しかも、イエス・キリストが納められたその墓を思い出してください。墓の周りは屈強なローマ兵たちによって警護されていたわけです。しかも、その墓の入り口は約2トンの岩が立て掛けられていました。このような状況からどのようにしてイエスが出て来ることができますか?イエス・キリストはむち打ちによって体中から出血していました。しかも、手と足に釘を打ち込まれていました。ローマ兵は彼が死んだことを確認するために、そのわき腹を槍で突き刺したのです。こんな重症を負った人物が墓の中で目を覚ましてそこからどのようにして2トンの岩を動かすことができますか?たとえ動かしたとしても、どのようにして屈強なローマ兵たちに勝利できますか?イエス・キリストは約束されていたように、その死からよみがえって来られた。そのことを証言したのはこの墓の番をしていたローマ兵たちでした。そのことはマタイ28章に書かれています。イエスは確かに言っておられたように死からよみがえられたのです。
ローマ4:25にはこのように書かれています。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と。
この「よみがえられた」ということが本当に真実であることの証拠として、今、私たちはこうして週の初めの日に集まっています。主イエス・キリストの復活までは人々は週の初めには集まっていません。イエスが復活なさった後、人々はそれを記念して週の初めに集まり始めたのです。そのことは使徒の働き20:7やⅠコリント16:2に書かれています。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」、「…あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」と。なぜ、そのようなことが起こったのか?人々はイエスの復活を見たからです。そこでそれを記念して週の初めの日に集まり始めたのです。
ペテロは主イエス・キリストを信じる一人ひとりに救いが与えられる、その証拠はイエス・キリストが死から敢然とよみがえって来たということ。あなたが生ける希望を持って生きることができる、その証拠はイエス・キリストがその死からよみがえって来たことであると、そのように言うのです。ですから、このイエス・キリストの復活は、彼が真の救い主であることを証明した出来事だったのです。
このイエスの復活についてこんなことが言えます。皆さん、是非お考えください。「復活というのは、主イエスの死が罪のさばきを約束し警告されている神を満足させたことの証だった」ということ。イエスの死は、私たちの罪、そのすべてに対して怒りを持っておられる神の怒りをなだめたのです。イエスは十字架に架かって息を引き取られる前に「完了した」と言われました。これは罪人を救うための救いのみわざが完成したという宣言をされたのです。どんな罪人でもその罪から救いを得ることができる、どんな罪人でもその罪を赦していただける、救いが完成したのです。すべての罪人を赦すその力を持った救いが完成したということをイエスは宣言なさったのです。ですから、イエスのあの叫びというのは、罪に対する勝利の宣言であっということが言えるのです。しかしもし、主イエスのからだが今も墓の中にあるとするのなら、それはイエスが言われたことがすべて真実でなかったことを明らかにするのです。また、彼が宣言された救いのみわざは完成したと言われたけれども、実は完成していなかったということを証明することになるのです。イエス・キリストがよみがえらなかったとするならば、それは主イエスの死は罪人の罪を赦すには不十分であると神が宣言されることになるのです。
イエス・キリストは何のために死なれたのか、あなたの罪を赦すためでしょう。そして、イエスがその死からよみがえって来たということは、神がこれで十分だということを明らかにされたのです。このイエス・キリストの死で、この身代わりの死で十分である、その証拠がその死からよみがえるという奇蹟のみわざだったのです。だから、ペテロは私たちに教えてくれるのです。イエス・キリストが死からよみがえって来たというこの事実が、イエス・キリストが真の救い主であること、神が約束されていた救世主であること、そのことを明らかにしたのだと。
ペテロはこのメッセージを迫害下にいるクリスチャンたちに今一度与えました。この復活というのは、だれかが作り上げた話ではなくて史実に基づくものであること、そして、そのことをしっかり覚えることによって、その迫害下にいるクリスチャンたちが大変な苦しみの中にあって、自分のいのちが狙われるそのような状況にあっても「私の主は死からよみがえって来られた」と、このよみがえりがこの方は真の救い主であることを証明したと確信し、そして、イエスを信じた私は約束されていた罪の赦しをいただき、私には生ける希望が与えられたと、そのことをしっかり覚えさせて、その中にあっても主に従い続けるようにとペテロは励ますのです。
そして、ペテロ自身もそのように生きていたことは間違いありません。なぜなら、最初に話したように、ペテロ自身がこの手紙を記したのはあのネロの放火の前後でした。しかも、ペテロがこの手紙を記した場所はローマなのです。そこにいて彼は、様々な迫害を経験しているのです。実際に見ているのです。だから、きっとこの迫害が及ぶのに違いない人々に対して、しっかりと与えられた祝福を覚えていなさいと言うのです。この祝福というのはただの希望ではない、イエス・キリストが死からよみがえって来たという史実に基づいたもので、真に信頼できるということを今一度明らかにするのです。イエス・キリストは確かにその死からよみがえって来られた。そして、ご自身が救い主であることを明らかにされた。その復活は確かにイエス・キリストが言われていたように神であることを明らかにされた。同時に、皆さん、イエス・キリストが死からよみがえって来ることによって、私たち信仰者に神はすば
らしい約束を与えてくださいました。その約束によって、私たちは希望を持って生きることができるの
です。どのような約束をいただいているのか?いくつかのことを見ましょう。
*復活によって与えられる「生ける希望」
1.あなたはよみがえる
私たちは死んで墓に納められてそれで終わってしまうのではありません。必ず、よみがえります。パウロはこう言っています。Ⅰコリント15:13、15-16「:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」「:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」。つまり、イエスが死からよみがえって来たことは、あなたも私も死んで終わりではなくて必ずよみがえるということです。そして、よみがえって何があるのか?この後見ていきますが、先ず、一つ目は「死んで終わらない。眠ってしまうのではない。必ず、あなたはよみがえって神の前に立つ。」のです。
2.あなたは永遠のいのちを失わない
神は永遠のいのち、救いを与えてくださった。これは一時的なものではなくて永遠のものです。同じⅠコリント15:17-18に「:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。」、もし、イエスがよみがえらなければ、彼は救い主ではないし、救い主だと信じているあなたには救いが与えられない、なぜなら、彼は救い主でないからと逆説的に言うのです。でも、イエスがよみがえったゆえに、彼は救い主であり、その方を信じたあなたには救いが与えられるのです。15:20に「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とある通りです。すでにイエスを信じて死んだ人々は間違いなく永遠のいのちをいただいています。神が約束された救いというのは永遠のものです。永遠の神が永遠の救いを約束してくれたのです。永遠の神だけが持っておられるいのち、永遠のいのちです。それを信じる者に与えてくださるのです。ですから、あなたに与えられたいのちは永遠のものです。
3.あなたは主を証できる
この地上にあってあなたが実を結ぶことによって主の証ができるのです。ローマ7:4を見ましょう。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」、イエスと結ばれてイエスと一つとされることによって、あなたは神のために実を結ぶようになると言うのです。あなたの生き方が変わって来ると言うのです。あなたは神に喜ばれる歩みを為していくことができると言うのです。あなたを通して神のすばらしさがその香りが放たれていくということです。ですから、私たちクリスチャンは天国の切符をいただいてそれで終わりではないのです。その救いをいただいた後、私たちはイエスに似た者と変えられていきます。そして、この世にあってこのすばらしい神の証を為し続けていくのです。それが可能であると、ペテロは今私たちが学んでいるⅡペテロの手紙の中でも教えてくれています。救われた者たちは信仰において成長することができるのです。
4.あなたには主の約束が与えられた
イエスが死からよみがえることによって、イエスが言われていたことが真実であることが証明されたのです。この復活だけではありません。それ以外もすべて、イエスがお語りになったことは真実なのです。あの弟子の一人であるピリポが「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)と言いました。そこでイエスはこのように言われました。ヨハネ14:10、11「:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」、イエスは自分が話していることは自分が勝手に考えて話しているのではない、父なる神がわたしを通して語っておられるのだと言います。皆さん、神が語られていることだから必ず成就するのです。神の言われたことが実現できなければそれは神ではありません。イエスは神が言われたことは必ずそうなる。そして、わたしが語ったことは神が語ったことだから必ずそうなると言うのです。それなら、私たち信仰者は神が約束してくださったことをしっかり覚えてその約束に立つことです。神はこんな約束をくださった、こんなことを私に言われたと、その約束に立って私たちは生きていくのです。私たちの信仰というのは、神が言われたことは必ずそうなる、この聖書のみことばは必ず実現するという確信です。なぜなら、神のことばだからです。イエス・キリストが死からよみがえって来られた、そのよみがえりが語っておられたことが真実であることを証明したように、神が言われたこと、この聖書のことばは必ず成就するのです。だから、私たちは約束に立てば良いのです。
5.あなたには褒美が与えられる
使徒の働き17章で、パウロはアテネに行った時にこのように言っています。使徒17:31「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」、神はこのイエスがさばき主だということを明らかになさった。そして、そのことを証明がイエスが死からよみがえって来られたことです。それによって、確かにこの方は神であり、確かにこの方の前で私たち一人ひとりが例外なくさばきを受けるということを明らかにしたのです。ある人たちは大きな白い御座に立って、自分の罪がすべて示されて、その罪の赦しを拒んだゆえに永遠のさばき、永遠の滅びに至ります。それをさばかれるのはイエスです。ある人たち、残った人たち、つまり、救いに与っている人たちは、大きな白い御座ではなくてキリストのさばきの座に立ちます。その場にあって、罪のさばきではない、あなたがクリスチャンとして主を愛して主のために行って来たすべてのことに対して神から褒美をいただくのです。いずれにしろ、私たちはみな、このイエスの前に立つのです。なぜなら、この方がさばき主だからです。そのことが証明された出来事、それが死からの復活であると。
ペテロの時代において、救われたことを喜び、活き活きとした希望を持って生きる信仰者が証のために必要でした。そして、今も同じことが言えます。大変物騒な世の中になって来ました。ミサイルが飛んで来るのではないか?難民が起こるのではないか?と。そんなことを真面目に語るような時代になって来ました。これからはだんだんと希望が奪われていきます。希望を持つことが困難になる混沌とした時代になっていきます。だから、我々クリスチャンは主が与えてくださった生きた希望をこの世に示す必要があるのです。私たちにはこんなすばらしい希望が与えられたということを人々に示す責任があるのです。イエス・キリストは私たちに罪の赦しを与え、永遠を保証し、しかも、この地上にあって神がともに私と歩んでくださる。この神は物質的な物だけでない、私たちの心の必要までも満たしてくださる。この神は確かに大牧者としてあなたを守り、あなたを導いてくださる、これ以上何を求めますか?
このような人生があるのです。このように生きることができる人生があるのです。これは神が信じる人に与えてくださるものです。そして、あなたはその救いに与ったのでしょう?しっかりとその祝福を示して上げなさい、あなたのうちにある希望を人々の前で明らかにして上げなさいと言います。なぜなら、人々はその希望を求めているからです。それを探しているからです。だからこそ、しっかりとみことばの約束を信じ、その教えに従って、日々の生活にそれを実践していくことです。そうすれば、あなたは変わっていきます。そして、人々はあなたのうちにあるその希望を明確に見て「なぜ、あなたに希望があるのか?」と問い掛けて来ます。その時に語って上げなさい。死からよみがえられたこのイエス・キリストだけが真の救い主であることを、この方が希望をくださるということを。
どうぞ、このイースター、主の復活を記念するこの日、今一度、主があなたのために何をしてくださったのか、それを覚えてください。すばらしい祝福を神はあなたに備えてくださり、それを与えてくださった。でも、大変大きな犠牲のもとにこの祝福が備えられたこと、そのことを私たちは覚えて、どのようにこの神に答えていくのか?どのように感謝を現わしていくのか?そのことを考えながらそのように生きてください。そして、そのように生きるあなたを神ご自身が助けてくださるのです。
この一週間、それぞれのところで、このイエス・キリストが、よみがえられたこの主こそが私たちの希望であること、そのことを伝えられるように、ぜひ、神の助けをいただきながら実践してください。
《考えましょう》
1.クリスチャンがいただいた二つの祝福を記してください。
2.この祝福が与えられる要因を説明してください。
3.クリスチャンに与えられた「生ける希望」を記してください。
4.この希望を持って生きていないクリスチャンが多いのはどうしてだと思いますか?
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