メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:9-11
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
Ⅱペテロ1章をお開きください。
本当に救いにあずかった者たちは、その信仰において成長するということをペテロは確信していました。神によって救われたひとりひとりは必ず成長すると。しかし、同時にそこには終わることのない罪との葛藤、度重なる敗北が現実の問題としてあることも彼は十分に知っていました。またペテロは救われた者が現実に罪の中を歩み続けることも知っています。しかし、ペテロは、救いにあずかったひとりひとりがその信仰において成長することがどれほど大切なのかを知っていたゆえに、信仰者にそのことを教え続けるのです。
そこでペテロはまず1章で霊的成長の重要さを話し、同時に霊的成長が滞る愚かさ、霊的に成長しないことの恐ろしさの両方を教えることによって、すべての読者たちが霊的成長を目指して正しく歩み続けて行くようにと励まします。霊的に成長することがどんなにすばらしいことであり、しないことがどんなに悲しい愚かなことなのかを明らかにすることによって、ひとりひとりが私も霊的に成長したいという願いを持って歩み始めて行くように、ペテロはそのことを願ってこの手紙を記しているのです。
C.霊的成長の結果 8-9節
1.七つの美徳における成長
2.霊的成長の結果:
既に見て来たように、なぜ霊的に成長することが重要なのか、ペテロは二つのことを教えました。
①主にとって役に立つ者となる
その一つは、成長することによってあなたは主にとって役に立つ者になるということでした。神様はあなたをただ救っただけではなく、喜んであなたを神の栄光のために使おうとしてくださっている。もし、なぜ私は使われていないのかと言う方がおられたら、その原因はあなたの霊性が成長していないからです。神はあなたが成長するならば、そのプロセスにあるならば、間違いなくあなたを用いてくださると。ですからペテロが教えてくれたように、主があなたを用いるかどうかはすべてあなたにかかっているのです。もちろんこの地上にいて私たちはすべての点において完璧な者になることはありません。ただ私たちがより神に喜ばれる者になっていきたい、より信仰において成長していきたいと願って歩んで行くならば、神はそんなあなたや私を使ってくださるということです。「尊いことに使われる器と」(Ⅱテモテ2:21)なると。ですからクリスチャンの皆さんにぜひ覚えていただきたいのは、神様はあなたをそんな器として使ってくださろうとしておられるということです。私のように信仰歴が浅いとか、私のようにいろいろなことで疑ってしまうとか、いろいろなエクスキューズを我々はつけるのですが、でも神が言われているのは、あなたを使うということです。ですから正しい応答というのは、「どうぞ神様、私を使ってください」です。主が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」(イザヤ6:8)と言った時に、ちょうどイザヤが「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言ったように。神様に用いていただけるのです。でもそのためには霊的成長がどうしても必要だということをまずペテロは言ったのです。
②主のよりよい証し人となる
そして、もしあなたの信仰が成長しているならば、間違いなくあなたはよりよい証し人になると言いました。なぜなら霊的成長というのは、知識において成長することではありません。霊的成長というのはその人の生き方が変わってくる話です。その人がよりイエス様に似た者に変わってくるわけです。そうすれば間違いなくその人が置かれているどこにあっても、人々はその人を通して、あなたを通してイエス様を見るわけです。そのイエス様が鮮明に見えれば見えるほど、彼らはそのイエス様に対する渇きを覚えます。もちろん多くの人たちはイエスを見る時に反発を覚えます。でも我々は地の塩であり、世の光であり、私たちが世に示して行くのはこのイエス様である以上、正しい主を証しするために私たちが主に似た者に変えられ続けて行くことが必要だとペテロは私たちに教えてくれたのです。
では、どうやったら私たちの信仰は成長して行くのか、どうやったら我々は日々変えられていくのかです。もう言うまでもありません。聞いたことを実践することです。それ以外の方法はありません。どんなにセミナーに出て、どんなにたくさんの神学的な学びをしても、そのような知識はあなたを高ぶらせ、あなたを変えることには必ずしもならない。ではどうしたらいいかというと、学んだ神様のみことば、神が示してくださった神のみこころを毎日の生活の中で実践して行くことです。それ以外に神があなたを変えていかれる方法はないのです。私たちは私たちの神が恵みの主であると言います。確かにそのとおりです。恵みの主、つまりこの方は必要な助けと力を与え続けてく下さる方です。だとすれば、主に喜ばれる者に日々変えられていくために、この方の恵みを、この方の助けを、力をいただき続けていくことが必要です。
救いにあずかったあなたに神様が教えてくださっていることは、神はあなたをイエス様に似た者に日々変えていくということです。そして神の役に立つ者として、神のすばらしい証をする者としてあなたを使っていくと言うのです。願わくばここにおられるすべてのクリスチャンが「主よ、どうぞそのために私を使ってください」と応答してくださることを期待します。もしあなたが日々主とともに歩み、霊的に成長しているならば、間違いなく神様は使ってくださるのであって、役に立たない者や実を結ばない者に決してならないという約束をこの8節は私たちに与えてくれました。ですから、霊的に成長することは、我々クリスチャンにとってとても大切なことだということをぜひ皆さんの心にしっかりと刻んでおいてください。
3.霊的成長をしないことの問題点 9節
9節では、霊的に成長しないことの問題点についてペテロは教えます。「これらを備えていない者は」の「これら」というのは霊的に成長すること、もっと具体的に言えば、5-7節に教えていた七つの美徳があなたのうちに豊かに備わっているなら、それがまたあなたのうちで増し加わっているならば、霊的成長の話です。もしあなたがこういったものを供えていなければ、あなたが成長していないのであればという意味です。もしご自分を見て、私の信仰は余り成長していないとか、私の生活は変わっていない、私の生き方は変わっていないとするならば、次の二つのことを問いかけてみることです。どちらかに該当します。
1) 救われているかどうか? マタイ13:20-22
一つはあなたは救われていない可能性があるから、自分は救われているかどうかを問いかけてみないといけない。なぜかというと、救われた人々というのは必ず成長するのです。もう少し言えば神が救ってくださった方は、必ず神によって変えられていくということです。でもクリスチャンだと言う人々の中に自分で救われていると思い込んでいるだけの人がいます。残念ながらこの人のうちには何も起こってこないのです。例えば礼拝に来るとか、集会に行くとか、ひょっとしたら同じことをしているかもしれない。問題なのはその人の心が変わっているかどうかです。救いというのはあなたの心を神が変えてくださるのです。だから新しい願いを持ち、新しい目的を持ち、そして新しい生き方が始まって行くのです。ですから、イエス様を信じたと言っても自分の生活が救われる前と全く変わっていない、同じような状態であるならば、本当に自分は主によって、神によって救われたのかどうかを自分に問いかけてみることが必要です。
2) 罪がないかどうか?
二つ目は非常に大切な質問です。自分の信仰が成長していない時、次に質問することは、自分の生活のうちに罪がないかどうかです。私の生活の中に罪が潜んでいないかどうかです。9節で「近視眼であり、盲目であって」と言っています。
・「罪の悪影響」:Ⅱコリント4:3、4
ペテロはここで罪は視力に影響を及ぼすという話をします。もちろんこれは肉体的な視力ではなくて霊的な視力の話です。ご存じのようにサタンはイエス様を信じておられない皆さんの心に働いて、この救いがそれほどすばらしいものであるとは見せません。救いの話を聞いても、イエス様のその十字架の復活の話を聞いても別にだからどうなのと思ってしまう。彼らはそのすばらしさに気づくことがない。まさに霊的に「盲目」の状態です。パウロが言うように滅びの人々、つまり救いにあずかっていない人たちに「おおいが掛かっている」と。「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」、Ⅱコリント4:4です。つまりサタンは救いにあずかっていない人たちの霊的な目を開かせないと。彼らがこの霊的な真理に気づかないように、それをしっかり見て信じることがないようにそのような妨げをなすということです。サタンはイエス様を信じていない人々のうちにそうやって働き続けるのですが、実はクリスチャンであるあなたのうちにも働くのです。
(1)「近視眼」
どんなふうに働くかというと、主が与えてくださった祝福がかすんで見えてくるのです。「近視」というのは手前の物は見えますが、遠くの物がぼけます。目をすぼめてみたりいろいろして遠くの物をしっかり見ようとするのですが、よく見えなくなってしまう。つまり霊的な真理や神様が下さった祝福がぼやけてしまってよく見えなくなってしまう状態を言っているのです。
(2)「盲目」
「盲目」状態はもっとひどいです。霊的なことが何も見えなくなってしまっている、そういう霊性です。そういう霊的な信仰の状態の話です。例えば皆さんはこの礼拝堂の配置をよくご存じですが、今ここから目隠ししてホールまで歩いてくださいと言ったら、間違いなく手を前に伸ばして何かにぶつからないように、普通と同じ歩幅では歩かないですよね。ぶつかることが怖いからです。こけることを恐れるのです。この「盲目」である状態というのはまさにそうなのです。いろいろなことに恐れを抱くということです。いろいろなことに疑いを抱いてしまうということです。大丈夫だと言われてもどうも大丈夫とは思えないのです。神がこうだと言っていても、どうもそれを信じられない、疑ってしまう。みことばの教えは明確であっても、それをどうしてもそのとおり受け入れることができない。人間的な不安や人間的な思いがそうさせるのです。まさにそういった状態をペテロは教えているのです。
ですから、「盲目」な人というのは、自分が救われたことを感謝していません。もっと言えば、自分が救われていること自体に疑問を抱くのです。9節に「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまった」と書いてあります。かつて罪の中を生きていた私がその生活から洗いきよめられたことを忘れてしまうと。この「忘れてしまった」ということばは、物忘れとか健忘症を受け取るとか、それを選ぶという意味です。ですから、その情報自体を思い出さないために、その意義までも忘れてしまう。だからどんな犠牲をもって神が私を救ってくださったのか、もっと言えば何のために神が私を救ってくださったのか、そのことがわからなくなる。まさに健忘症、物忘れの状態です。「あなたはクリスチャンですか?」と聞くと、「はい」と言うのです。では「あなたは何のために生かされているのですか?」という問いには「いや、ちょっとそれは……」と。「何のために神様はこの日をあなたに与えてくださっていると思いますか?」、「いや、ちょっとそれは……」と。どこかでは聞いていたのですが、いつの間にかそれを忘れてしまっている、そんな状態です。
あなたが何のためにきょう生かされているか覚えておられますよね?あなたは救いにあずかった者として、新しい歩みを継続するために生かされているのです。パウロはローマ6:4で「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と言っています。我々クリスチャンは罪の赦しをいただいて、天国の切符をもらって、「はい、それですべてが終わり。」ではないのです。神とともに生きるという新しい人生のスタートなのです。神の栄光を現すために生きるという本来の姿に立ち返り、そしてその本来の人生がスタートしたのです。新しく生まれ変わった者としての新しい生き方が始まったのです。我々信仰者は、神が何のために私を救ってくれたのかをいつも覚えておかなければいけない。救われた者としていのちにあって新しい歩みをするために生かされているのです。救われた者として、私たちのすばらしい神様の栄光を現すために生かされているのです。この偉大な神様を喜ばせるために生きているのです。そのために私たちが生かされているということを我々はしっかりと覚えなければいけないのです。
罪は、こういった喜びや真理がよく見えないように私たちに働きかけるのです。こういった悪い影響を間違いなく私たちに及ぼすものです。残念ながら、クリスチャンと言われる皆さんの中に、救われたことを余り喜んでおられないクリスチャンがいることも事実です。しかめっ面しているクリスチャンもたくさんいます。あなたは死んでも天国に行けると信じているけれども、救われたことを喜びながら、感謝しながら歩んでいるかというと、いろいろな毎日の問題がその人から喜びを奪ってしまって、そのうちにその人は自分は本当に救われているのか、救い自体にも疑問を抱き始めるのです。これは罪がなすわざです。もちろん罪というと、例えば何かを盗むとかそういうことだけではありません。神のみことばを信じないこと、神の言われたことをそのとおり受け入れて従っていかないこと、こういう不従順も罪です。どうしてこういうふうに「近視眼」になったり「盲目」になってしまうのか、どうして自分の救い自体を忘れてしまうということが起こるのかというと、それはまさに罪がもたらす悪影響だということです。
余談になりますが、あなたが神とともに神のみことばに従って歩んでおられるなら、間違いなくあなたの信仰は成長します。神様の教えてくださるみことばをただ聞くだけではなくて、どこかノートに書いてそれをどこかに置いておくだけではない。レジメにいっぱい書いて、それをたたんでしまって、また来週ではなくて、聞いたこと、主が教えてくださったことを神様、私は行いたいから助けてくださいと。そしてそれを毎日の生活の中で生かしていこうとするならば、確実にあなたの生き方は変わっていきます。だってあなたは成長しているからです。成長している人々というのは必ず特徴が顕著に現れます。どんな特徴かというと、その人のうちには間違いなく喜びがある。よく皆さんご存じのガラテヤの御霊の実を見た時に、愛があって喜びがあって、平安があるでしょう?それがあなたにはもう与えられているので、それがあなたの成長とともにどんどん大きくなるわけです。霊的に成長した人はイエス様に似た人へと変えられていくのですから、その人が喜びを持っていないとか、感謝していないと言ったらみことばに反しています。イエス様がどんな時でも喜んでおられて、イエス様がどんな時でも平安を持っておられたように、イエス様がどんな時にも感謝されていたように、そういう人へと私たちは変わって行く。それは確実に見ていてわかるのです。
エペソ5:18で「御霊に満たされなさい。」と教えられていて、19節は「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。パウロは何を言ったのかというと、聖霊に満たされている人、つまり神の前を正しく歩んでいる人には、賛美がわき上がって来ると。なぜなら心に喜びがあるからそれが形となって現れてくるわけです。ですから、聖霊が支配している人、見方を変えれば神が喜んでいるそういう信仰者とそうでない信仰者というのは、そのような大きな違いがあるということです。
例:カイン 創世記4章
でも罪というのがいかに私たちにとって厄介な存在であるかというのは皆さんご存じです。実は罪というのは、聖書の中の人物だけではなくて、我々にも同じような働きをするのですが、少し見ていただきたいのは、カインの話です。罪の力というものを見てみたいのですが、創世記4章をお開きください。エデンの園からアダムとエバが追放された様子が3章の終わりに出てきます。4章になると、今度はアダムとエバに子どもが生まれてくる話が出てきます。最初に生まれた子どもの名前はカイン、二人目がアベルです。アベルは羊を飼う者になって、カインは土を耕す農夫となったわけです。この職業に問題があったわけではありません。3-4節を見ると、「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。」とあります。ふたりが神の前にささげ物をささげに行くわけです。そして何が起こったかというと、神は「アベルとそのささげ物とに目を留められた。」とあります。なぜ神様がアベルのささげ物に目を留められたかのヒントがここに出てきています。主はアベルのささげ物に目を留められたとは書いていません。「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。」と書いてあります。ささげ物の子羊とそれを持ってきたアベル、その両方に目を留められ、神は両方を喜ばれたのです。我々が覚えなければいけないのは、何をささげるかも大切だけれども、どんな心でささげているかです。時間であったり才能であったり、我々はすべてのものを神様にささげて神の栄光のために生きようとします。神のためにやっていると言うかもしれないけれども、問題はどんな心でやっているかです。アベルが喜ばれたのは、彼が持ってきた物よりも彼の心が正しかったことです。なぜなら心が正しければ必ず正しいささげ物をするからです。心が正しければ必ず正しい行いが出てくるのです。心が正しくないから罪が出てくるのです。
その後、創世記4:5「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」と。この「顔を伏せ」るというのはカインの行った行為、行いです。でもおもしろいのは、行動には必ず原因があるのです。何かをするためには何か原因があるのです。「顔を伏せ」るという行為に至らせる何か原因があるのです。聖書には「カインはひどく怒」ったと書いてあります。つまりこの行為は怒りという心がもたらした行為だったのです。なぜ彼が怒ったのか、いろいろな理由が考えられます。人間ですから、ひょっとしたら弟の物が受け入れられたということで長子としてのプライドが傷ついてしまったのかもしれないし、また自分が持ってきたささげ物を受け入れられなかったという、否定されたことに対するものだったのかもしれない。少なくとも言えることは自分の思いどおりにならなかったので彼は怒りを持った。そしてこの怒りが行動を生み出したのです。
6-7節を見ると、主はカインに話しています。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」と。神様はこのカインに悔い改めの機会を与えるのです。何を問うているかというと、あなたのしたことが正しいのかどうかを吟味させるのです。つまり自分のささげ物が受け入れられなくて、弟アベルのささげ物が受け入れられたとこの現状に対して、当然カインはそこで私はどういう選択をすれば神に喜ばれるのかを考えるべきだったのに、彼はそのことを考えずに、自分の物が受け入れられなかったという怒りから、「顔を伏せ」るという行動が生まれた。つまり心の中に怒りが座を占めること、その人を支配することをよしとしたのです。
確かに私たちも毎日の生活の中でいろいろな感情が心を支配し始めることがあります。その時すぐに正しい選択をしないと、正しくない思いが支配し続けることを許してしまうことになる、その例がここに出ているわけです。神が悔い改めの機会を与えたにもかかわらず、カインは悔い改めようともしません。8節は「しかし、」という接続詞で始まっています。彼はそれを受け入れなかった。「カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。」と。殺すという行動に出たのはどうしてかというと、彼の心の中に怒りがあったからです。その怒りを解決しないで、その怒りがふつふつと大きくなってきたのです。そしてこのような殺人に至
ったということです。
ですから、小さな罪でもそれを放っておくと、大変なことをもたらしてしまうことがわかるはずです。その後9節「主はカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか。』と問われた。」、神は知らなかったのではない。あえてカインのために聞いているのです。「カインは答えた。『知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。』」と。もともと最初からあったかもしれないけれども、自分の弟を殺した後、神がカインに語りかけた時に、その神のことばに対してカインは反発を覚えています。神に対してまでもそのような態度を取るのです。我々の信仰でもそんなことありません?小さな罪がそのうちに神に向かって行って、「神様、どうしてこんなことをなさるのですか?」、「どうしてこんなことをとめてくださらない、どうして?神様」と。罪というのは大変恐ろしいものです。時間をかけて皆さんに説明するまでもありません。だから、注意しなければいけない。
ダビデはそのことをよく知っています。ですから彼は詩篇139:23で「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」という祈りをささげているのです。これはダビデの祈りですが、彼は罪の恐ろしさをよく知っていました。そこで彼が求めたのは、神に自分自身の心を探っていただき、そして正しくないことがあるならぜひそれを教えてくださいと心から神の前に祈っているのです。なぜダビデがこういう祈りをしたのかというと、ダビデは主に対して忠実に生きていくことを望んでいたし、そのために最善を尽くしたいと願っていたからです。彼はただ神様に喜ばれることをしたいと思っていただけではなく、実際にそのように生きたいと思って、そしてそのために神様、助けてくださいと。あなたに喜ばれるために私の心の中にどんな小さな罪でもあってはならないことを知っています。罪が恐ろしいことを知っています。ですからどうぞ私に教えてください。私はそれを悔い改めてあなたが喜ばれることを選択しますから教えてくださいと。こんな祈りをささげたのは罪の恐ろしさを知っていただけではなくて、神様に対して忠実に生きていきたいという願いの表れです。だからダビデは神に喜ばれたのです。ダビデは私たちと同じように罪を犯しました。でもダビデがその罪を悔い改めて、神に喜ばれることをしようとして生きていたのです。
信仰がなかなか成長しないと言った時に、ひょっとしたら皆さんの中に罪がある可能性があります。我々に必要なのは、ダビデと同じように「神様、どうぞ私を調べて私のうちにある罪を示してください。」と祈ることかもしれません。ここで使われていることばはまさにテストです。ちょうど金が溶かされて不純物が上に出てきて、その不純物を除いて純金になって行くように、そのようなことをダビデは望んだのです。神様、私のうちにある汚れた物を私は除いていきたい、それを除いてもっときよい者になっていきたい、喜ばれる者になったいきたい。ですから教えてほしいと。間違いなくそういう願いを持って歩んでおられる方がおられると思います。そういう方がおられたら間違いなくその人はこのすばらしい祝福を喜びながら、それを楽しみながら歩んでおられるはずです。
4.霊的成長の結果② 10-11節
続いて、10-11節にまた同じように霊的成長の結果が記されています。
1)信仰の確信を得る:救いの確信を強める
(1)命令:最善を尽くすこと
10節「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。」とあります。ペテロは、あなたの信仰が成長するとあなたは信仰の確信を得ると言います。自分は救われているのだという確信を持つということです。10節で「ますます熱心に」と兄弟たちに対して語っています。この「熱心に」ということばは緊急性とか熱心さという意味が含まれていることばです。ですから今すぐにそれを始めなさいと。しかも熱心にこれを始めていきなさいと。そういう意味がこのことばにはあります。ペテロはこのクリスチャンたちにあなたたちには大切な務め、責任が託されているのですよ、救われた者として主に従うという新しい歩みをしていくのですと言っています。そしてもしそれができていないのなら、今すぐ熱意を持ってやっていきなさい、今すぐその責任を果たしなさいと彼は勧めるのです。
(2)目的:「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとするため」
その後を見ると、その目的が書いてあります。「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。」と続きます。この「召されたこと」と「選ばれたこと」というのは救いの話です。「召された」ということばは新約聖書の中に11回出てきます。「聖なる招きをもって(神があなたを)召して」(Ⅱテモテ1:9)くださった、あなたを呼んでくれたという意味です。「選ばれた」というのは新約聖書の中に22回出てきます。世界を造る前から神はあなたを選んでくださった、ですからクリスチャンである私たちがこうして信仰にあずかっているのは神が私を呼んでくださったからであり、そして私を呼んでくださったのは世界を造る前から神が私を選んでいてくださったからだと。
なぜわざわざペテロはここで単純に「救い」と言わなかったのでしょう?思い出していただきたいのは、この手紙が書かれた対象は小アジヤ、現在のトルコに住むクリスチャンたち、教会たちにでした。そこに誤った教師たちが入り込んで来て、誤った教えをもたらしたわけです。そこでペテロはそのような誤った教えが入ってきた教会の中にあって、まず救いとは何かということを教えたわけです。そしてその後、霊的成長について教えたわけです。霊的成長をすることによって、あなたたちの信仰はぐらつくことがないのだと言うわけです。ただこの10節であえて「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。」と言って、ペテロがしようとしたのは、この誤った教えによって動揺しているクリスチャンたちに対して、またそうでないクリスチャンたちに、この救いというものがどれだけ高価なものか、この救いというのがどれだけ神ご自身の犠牲に基づいたものかをもう一度再認識させることです。ただ「救い」と言ったのでは「救われた、感謝だ」で終わってしまいます。でもここでペテロはあえてあなたたちは神によって召されたんですよ、あなたたちは神によって選ばれたんですよと強調しているのです。
「確かなものとしなさい」というのは、それについての確信を持ちなさいということです。私たちは神によって召された者だ、私は神によって選ばれた者だ、その確信をしっかり持ちなさい。ではどうしたら持てるか、文脈が教えてくれているのは、信仰の成長によってです。最初も見てきたように信仰において成長している人は自分が救われていることに対しての確信を持っています。そこでペテロはあなたは召されたのですよね?あなたは選ばれたのですよね?もう一回そこを思い出しなさいと。そしてこのようなすばらしい祝福にあずかったことを覚えて、そしてその確信をあなたがますます強めていけるように、成長していきなさいと言うわけです。
(3)結果:「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」
結果として、「これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」と。「これらのことを行なっていれば」、七つの美徳において成長、ここに記されていたように神に対する態度や人々に対する態度が変えられていくならば、あなたは決してつまずくことがないと。「つまずく」というのは、こういった誤った教え等に惑わされたりすることがないということです。しかも「決してありません」と、ここも否定語が複数使われています。なぜかというと、絶対にあり得ないということを教えているわけです。あなたの信仰が成長したら、あなたは絶対にこの救いに関して、また他の真理について疑いを抱くことはない、ぐらつことはないと。信仰の成長が私たちに確信をもたらし、私は救われているのだと。
2)主からの報い 11節
(1)成長している人
そして、救われた者の結果は信仰の確信を得るだけではなく、主からの報いを得るのだということが11節にあります。「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。」。新改訳では「このように」と訳していますが、口語訳聖書では「こうして」と訳しています。何を言っているかというと、これまで学んできた生き方にもう一度ここで触れているわけです。この七つの美徳においてあなたが成長し、救いの確信をしっかりと持って歩み続ける、つまり信者としての、生まれ変わった者としてのその責任をしっかりと果たしているあなたがたはと。
(2)その結果:「永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。」
どんな結果があるかというと、「永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられる」と。二つのことを言っています。
・「永遠の御国にはいること」の確信:
一つは「永遠の御国にはいる」ことの確信が「豊かに加えられる」ということです。つまりこの希望を日々強められて、より強くその希望を持ちながら、地上での生活を歩めるということです。つまり私は天国に行けるという希望を持って今を生きるのです。そうやって信仰者たちは生きてきたのです。ヘブル11:25-26でモーセは「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」と言っています。モーセは、エジプトにあって大変な地上の宝を持っていました。でも彼がエジプトを出た時、後ろを振り返って、あの宝、惜しいなあとは思っていなかった。モーセはこれよりももっとはるかにすばらしい物をいただいたからです。それはここにも出てきたように、神様から与えられる報いの話です。「キリストのゆえに受けるそしり」、つまり約束の救世主を信じる者たちとともに受けるいろいろな試練があるけれども、たとえそういうものを経験しても私にはすばらしい約束を神様によって与えられているのだと。モーセは現実だけではなくて、その先、永遠を見て生きていたのです。
実は、この11:14-16にはアブラハムやイサクやヤコブの話が出てきます。ご存じのようにアブラハムはウルという町を出てきたわけです。でもこの14-16節が教えるように、「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」、彼らは自分の生まれ育ったところに戻りたいと思っていなかった。彼らはもっとすばらしいところに向かっているのだと言って、その都を待ち望みながら生きたのです。つまり、この信仰の勇者たちは天というものの希望を持って生きていたのです。私は地上においてどんな迫害を受けるかも知れないし、私は望んでいるものを手にすることができないかもしれない。でも私はもっとすばらしい物を神様からいただいていると。私は死んでもそのすばらしい神のもとに上がり、その神とともに永遠を過ごせるのだと。この希望が彼らを忠実な歩みへとますます推し進めていったのです。
イエス様はこう言われています。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。」(マタイ5:10-12)と。なぜ迫害されている時に喜びおどるのか、こう続きます。「天ではあなたがたの報いは大きいから。」と。イエス様が言われたことは、いろいろな苦しみを経験するし、いろんな悩みを経験するでしょう。しかし、覚えていなさい、信仰ゆえに経験するすべてのことは、それにふさわしい報いを与えてくださるお方がいて、その方があなたがたが天に上がった時に、それにふさわしい報いを与えてくれると。つまりイエス様の言われたことは、今の地上の生活だけに目をとらわれるのではなくて、我々信仰者はその先を見て生きなさい、しっかり天国を見て生きなさいと教えています。ですから、この11節で教えている「永遠の御国にはいる恵みを豊かに」与えられますというのは、我々はその希望をいただいたのだ、死んでも生きるのだ、天国に行くのだ、その確信を強めて、そのしっかりとした確信を持って生きていくことができるようになるという話です。しかもこの「永遠の御国」というのは、私たちの主であり救い主イエス・キリストが所有されているものだと。
・「永遠の天国での祝福」:天におけるふさわしい報い
もう一つ言えることは、実はこの「豊かに」ということばが表しているのは永遠の天国での祝福の話です。先ほども見たように、確かに私たちが天に行った時に我々の地上においての信仰者としての歩みに応じて、神様から報いをいただきます。黙示録22:12に「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」とあります。ですから、信仰者の皆さん、あなたが心から主に仕えて主のためになしていること、そのすべてのことを主は覚えてくださってそれにふさわしい報いを下さると。主のためになすことはどんなことでもむだではないのです。主のために犠牲を払うことは犠牲ではないのです。それは天に宝を積むことです。ですからクリスチャンである私たちはちゃんと清算の日が来ます。この「豊かに加えられる」ということばはある先生がこんなふうに説明しています。「この豊かにとは、温かい歓迎、勝利の凱旋の息子を歓迎するという意味がある。そしてこのことばの根底に流れている光景はちょうどオリンピックで金メダルを獲って選手の地元へ凱旋した時のよう」と。我々も何回も見ましたから、その状況は想像できます。オリンピックで金メダルを獲った人が地元に凱旋し、パレードが開かれます。多くの人たちがそこに出てきて、彼らを褒め称えます。まさにそのことがここに記されているのです。
それは霊的に成長した者たちが天に凱旋する時に、まさにヒーローたちが凱旋してきたかのように、歓迎されるということです。もちろん我々救われている者はみんな天に凱旋して行くのです。でも、そこに少し違いがあるように見えます。ここのことばが教えているのは、その中でも特に主に忠実に生きて、霊的に成長した者たちは、ちょうどオリンピアンがすべての者たちに歓迎されるようにして迎えられるのだと。なぜなら信仰者の中には救われていながら、一生懸命やっているのですが、木や草やわらで家を建てて、神のさばきの時には何も残らないというクリスチャンがいることが教えられています。あるクリスチャンたちは金や宝石でもって家を造るから火の中を通ってもそれは残ると。つまりクリスチャン生活の中で本当に永遠に価値ある歩みをしている人とそうでない歩みをしている人がいるわけです。価値ある歩みをしている人というのは、間違いなくみことばに従いながら主が喜ばれることをしながら成長している者たちです。そういう人たちは、主にお会いした時に、その歩みに対してそれにふさわしい祝福をいただける。まさに彼らを歓迎して迎えてくださるように。
だからみことばは我々に、あなたには大切な仕事が、責任が与えられているのではないですか?救いにあずかったならば、新しく生まれ変わった者としてそれにふさわしく生きていきなさい、この方の栄光を現す者のとして生きていきなさい、この方に喜ばれることを選択しながら生きていきなさいと教えます。あなたの人生はもうあなたのものではなくて、あなたのために代価を払って買い取ってくださった神のものだから、この方を喜ばせるために生きていきなさいと。それが永遠に価値のある生き方だと。そう生きて行きなさいと。この選択、その責任はあなたにあります。どちらの選択をあなたはなさるでしょう。願わくばここにおられるすべての信仰者の皆さんが、神が命じておられるように私は生きていきたい、その願いを持って歩み始めていかれるなら、神はあなたを使ってくださり、変えてくださる。
そしてあなたを喜んで迎えてくださる。私たちはこれから先を見て生きるのです。もう振り返っても仕方がない。きょうからどうやって生きていくか、このみことばに従って生きていきましょう。それが神を喜ばせる唯一の方法です。そしてそれが神があなたに望んでおられることです。
《考えましょう》
1.罪が信者に与える影響を説明してください。あなたは、自分自身を罪から守るために何をしておられますか?
2.「召されたことと、選ばれたことを確かなものとする」のみことばをあなたのことばで説明してください。
3.救われたことの確信を得るにはどうすればよいとペテロは教えていましたか?
4.きょう学んだことを信仰の友と分かち合って実践に励みましょう。
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