メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:8
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
Ⅱペテロ1:8をご覧ください。ペテロは繰り返し信仰者たちに「霊的成長」を教えています。信仰において成長するようにとペテロは繰り返して読者たちに教えるのです。それは、霊的成長によって、信仰の成長によってあなたは神の栄光を現すことができるからです。また、信仰が成長することによって、いかなる誤った教えにも惑わされない、そのような大人の信仰者になれる。だから、信仰において成長することが必要なのだと、ペテロはそのメッセージを与えるのですが、同時に、あなたにとって霊的成長は可能だということを教えていました。なぜなら、神の助けがそこにあるからです。前回、見たように、あなたは1:5-7に記されていた七つの美徳をただ持つだけでなく、それにおいて成長する者となることが出来ると言います。
道徳的に成長した者、主に似た者へと成長していくことができる。毎日の生活において、いったい何が神の前に正しいか、あるいは、そうでないのかを見極めるその知識を、実践的な知識をもってあなたは生き、また、成長していくことができるのです。自分の願望にではなく、内住する主なる神の働きに導きに服従して生きる、そのような信仰者として成長できるのです。どんなときにも主に希望をおいて、どんなときにも主の約束を信じ信頼を置いて歩み続ける信仰者としてあなたは成長できるのです。
また、主に対する正しい畏敬の念をもって礼拝者として成長することができるし、同時に、兄弟姉妹に対して愛を示すことができるし、まだこのすばらしい救いを信じていない人に対しても、神の愛を実践することができる、こういう信仰者として成長することができるとペテロは教えるのです。先に話したように、なぜ、それが可能なのか?私たちは神から「こうしなさい」と言われたときにまず思うことは「それは私にはできない、私には無理だ」ということです。そのような言い訳ができないようにと、ペテロは私たちに「もう、あなたには神の助けが備えられている。しかも、全能の神が助けてくださるのだから、成長することは可能だ。」と教えました。
また、ペテロは「生まれ変わったあなたは神のご性質に与る者となった。神のご性質に与る者として新しい生活が始まった。そのように生まれ変わったのだ。だから、あなたには成長が可能だ。」と、この1-4節を通して教えて来ました。確かに、罪からの救いも神の恵みでした。しかし、救われた後の信仰生活も神の恵みです。つまり、神の助けがなくてはならないということです。
そこでペテロは、その神のわざとともに、私たち信仰者にも実は責任があるということを明らかにしています。救いにおいても信仰生活においても神の助け、神の知恵がなければ神に喜ばれることを為していくことはできませんが、同時に、私たちには責任があるということを聖書は私たちに教えています。そのことが5-7節に記されていました。「あらゆる努力をして」と5節に記されていたのは、どんなときにも熱心に、一生懸命その務めを果たしなさいという意味でした。怠けて無駄に時間を過ごすことなく、あらゆる努力を払って、主からいただいた新しい人生を生きていきなさいと、そのように教えていました。
ですから、私たちが気付かなければいけないことは、確かに、救いも信仰生活にも神の助けが要りますが、同時に、生まれ変わった者として「このように生きていくことが必要だ」と、その責任も自覚しなければいけません。しかも、7節に書かれていた「加えなさい」という動詞にはこういう意味がありました。「神の為された働きの傍らにこれら七つの美徳を加えていきなさい」と。 神が与えてくださった救いに、あなたは七つの美徳が益々加わっていくようにという、私たちの責任を教えるのです。しかも、この「加えなさい」という動詞は命令形で記されています。
ですから、救いに与ったひとり一人の信仰者は、神と人に対する正しい態度において成長するように、それがあなたの責任だとペテロは教えました。しかも、それは神の助けによって可能だと言います。ですから、私たちが覚えるべきことは、イエスを信じて救いに与ったときもそうですが、私たちは神の恵みによって救われましたが、同時に、私たちはイエス・キリストの福音を聞いて「信じる」という選択をしたということです。信仰生活も神がしてくださる、しかし、私たちには神が命じたことを「神さま、私はあなたの助けによってそれを行っていきます。」という選択が必要なのです。そのように歩むことが必要なのです。バークレーはこのことについてこう言います。「人生は私たちの努力が神の恵みとともに働き、不可欠の麗しさを生み出すときに最も高尚で最善のものとなるのである。」と。どちらも必要だということです。私たちクリスチャンとしての歩みにおいて、私たちの努力が神の恵みとともに働くことによってすばらしいものになるというのです。まず、そのことを覚えてください。
「私は何もしなくても神がしてくださるのでしょう」ではなく、確かに、神が助けてくださり、神がそのことを為さしめてくださるのですが、私たちには責任があって、示されることに対して「私はそのように生きていきたいです。神さま、どうぞ助けてください。」と正しい選択をして従っていく決心がそれぞれには常に必要だということです。どうして、このことがこれほどまでに大切かということが、実は、この8節から記されています。「霊的成長」が大切な理由が挙げられています。
C.霊的成長の結果 8-9節
1.七つの美徳における成長 8a節
8節「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、…」、「これら」とはすでに見て来たように、七つの美徳のことです。
1)あなたがたに備わり : 「備わり」ということばは「その人の所有となる、その人の持ち物である」ということを意味しています。ですから、ペテロは「あなたがたはこれらのものをもう神からいただいているでしょう。」と言います。努力をして自分にないものを得ようとしているのではなく、もう私たちに信仰とともに神から与えられたものなのです。思い出してください。「御霊の実」とガラテヤ書に記されているのは、信仰をもってその成長によってそれらの実をいただくのではなく、救われたことによってそれらの実をいただいたのです。だから、それによって成長しなさいということです。
ここに記されていた美徳に関してもそうなのです。私たちはこういうことを実践できる者へと生まれ変わったのです。ですから、ペテロが言いたいことは「もうすでにあなたがたにはそういうものは備わっている。これらの美徳はもうあなたの所有となっている。」ということです。
2)益々豊かになり : そして、「ますます豊かになるなら、」と続きます。これは「増し加わる、成長する、」、辞書で見ると「過度とか過剰を意味して必要以上に得ること」と、そういう意味があります。
しかも、この動詞は現在形を使っています。継続してそのように…と言います。つまり、「美徳がその人のうちで成長し続けるなら…」と、ペテロはそのことをここで言うのです。
ペテロは本当の救いに与った者たちは信仰において成長するということを信じていました。神によって救われた人は必ず成長すると、皆さんも信じていますか?必ず、成長します。なぜなら、救いは神のわざであり、その人にうちに神が内住してくださる、神がその人を新しく生まれ変わらせてくださるからです。ですから、その人のうちに新しい神の働きが始まったのです。それぞれそのペースは違っても、神によって救われた人には確実に神の働きが始まっていきます。ですから、救いに与った人の信仰は確実に成長するのです。ペテロもそのことを知っていました。
同時にペテロが知っていたことは、救われた者が罪の中を歩むこと、また、歩み続けることの現実です。私たちも自分のことを振り返ってみるとその通りです。私たちのうちには罪を憎むという思いが与えられました。でも、実際の生活の中で私たちは罪を選択したり、その中に自分から浸っている場合もあります。そこで、ペテロは信仰者たちに「霊的成長」の重要さと「霊的成長が滞る愚かさ」の両方を教えることで、すべての信仰者たちが霊的成長を目指して正しく歩み続けることを奨励しているのです。ですから、8節の初めにそのことが記されています。
2.霊的成長の結果 ⇒ 主に用いられる
そして、その後に、あなたの信仰が成長していくならどのような結果が伴うのか?「霊的成長の結果」が8節の後半に記されています。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、…」とあります。
1)救われている人
この箇所は「私たちの主イエス・キリストの真の知識」と訳せるのですが、ペテロはいったい何を言わんとしたのでしょう?今、私たちが学んで来たことと関連しているのですが、「知る」ということばが出ています。「知る」とは、まず、「救われている人」のことです。救われている人は主イエスについての正しい知識を持っています。イエスがいったいだれなのか?何をされたのか?と。それがなくては正しい信仰に至ることはありません。世の中が何といっているかではなく、聖書がイエスについて何と言っているか?です。イエスは真の神であり、私たち罪人をその罪から救うためにこの世に送られて来た約束の救世主であると。Ⅱペテロ2:20を見ると「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、…」とあります。ここの「イエス・キリストを知ること」ということばと8節の「知る」は同じことばが使われています。救いのこと、主を個人的に知ることです。ただその方についての情報を得たのではない、その方と個人的な関係を持つということです。
しかし、この文脈を見るときに、ペテロがこの手紙を送った対象の読者たちはもうすでにエス・キリストを信じた者たちです。ですから、クリスチャンに対するメッセージがここに記されているのです。では、この「知る」が信じることでないとするなら何なのか?
2)増し加わる知識
この8節までの間に「知る」ということばが何回か出て来ています。6節は「知識」ですが、このこ
とばと8節の「知る」は同じことばではありません。8節の「知る」は2節と3節にある「知る」と同じことばです。「主イエスを知ることによって」「私たちが知ったことによって」と書かれています。8節の「知る」ということばは「見分ける、理解する、知識を増す」という意味です。バークレー師は「増し加わる知識」と言っています。繰り返して言っているように、ただイエスを知っているだけでなく、その知識において成長していくということです。
つまり、ペテロがここで言わんとしているのは、私たちの主イエスを知ると言ったときに、ただイエスを知って信じたというだけでなく、そのイエスのことをより深くより詳しく知っていくということだということです。なぜなら、私たちクリスチャンはそのことを願いながら生きている者たちだからです。「神のことをもっと知りたい、イエスのことをもっと知りたい」と。だから、コロサイ1:10にはこのように書かれています。「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」、同じ2:2にも「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」とある通りです。ここにある「知る」ということばはⅡペテロ1:8の「知る」ということばと同じなのです。
まとめます。ペテロが言いたいことは「もし、あなたがこれらの徳において成長していくなら、それらはもうすでにあなたに与えられたものですが、あなたは益々イエスのことをより深く知っていく」ということです。信仰の成長と主を深く知っていくということは絶対に切り離すことができないからです。信仰が成長するなら、あなたは間違いなく主イエスについてのことをより深く知っていきます。なぜなら、愛している人のことをより深く知りたいというのは普通のことだからです。私たちの主はどのようなお方でありどんな犠牲を払ってくださったのか?いったい、どんな愛で自分は愛されているのか?どんな御力で自分は守られているのか?こういう神の真理を私たちはもっと知っていきたいと願います。ですから、私たちはみことばを通して「あぁ、神はこんなお方なのだ。こんなすばらしい恵みをくださったのだ。こんな恵みで私は守られているのだ。こんな約束が与えられているのだ。」と、そのことを知るほどに私たちはこの神をより愛する者に、より信頼する者になります。
さて、このように話したペテロはその上で、もし、あなたがそのような歩みをしているなら、あなたはこのような者になるということが、この後に記されています。「役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」と。
◎成長したいと望み、成長している信仰者は、
(1)主にとって役に立つ者となる : この「役に立つ」という形容詞は新約聖書に8回出て来ます。このギリシャ語にはいろいろな日本語訳が付けられています。マタイでは「無駄である、何もしない」と訳されています。マタイ20:6では「…一日中仕事もしないで…」と訳しています。Ⅰテモテ5:13「怠けて」、テトス1:12「なまけ者」、ヤコブ2:20「むなしい」、そして、Ⅱペテロ1:8は「役に立たない」と訳されています。このことばは「働きをしない怠惰」のことです。つまり、自分に課せられた責任や働きを果たさない人、それがこの「役に立たない者」です。よく見ると8節では「役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」と書かれていて、もし、あなたの信仰が成長したらこのような人には絶対にならないということです。つまり、あなたの信仰が成長すればあなたは役に立つ者になる、また、実を結ぶ者になるということです。働きをしない怠惰の者になることはないと言うのです。
よく考えていただきたいことは、主人がいてしもべ、奴隷がいた、そのような世界がありました。主人にとって役に立つ奴隷、しもべとはどういう者でしょう?間違いなく言えることは、主人が喜ぶことを心から行う者です。自分から喜んで進んで主人を喜ばせようと思っている奴隷は確かに役に立ちます。主人の命令に心から喜んで従う者、そのような奴隷は主人にとってとても役に立ちます。
私たち人間社会においてもそうであるなら、まして、神と私たちの関係を見たとき、神にとって役に立つ奴隷は、主人である神が喜ばれることを心から行う奴隷です。神の命令に心から喜んで従う者です。その奴隷の動機は、何とかこの主人を喜ばせたいと思ってすべてのことをするのです。そのような歩みをしている人は間違いなく信仰において成長している人です。
7節には「加えなさい」ということばがありました。この動詞は命令形だということを思い出してください。あなたがこういう美徳をしっかり身に付けてそれによって成長していくということは、私たちの選択ではなくて神の命令です。神がそのことを命じておられるのです。してもしなくてもどちらでもいい、ということではありません。これは神ご自身が私たちにこのように生きなさいと命じておられるのです。ですから、そのことを喜んでしようとする者たちは、間違いなく、神にとって「役に立つ者」ではないですか?「私はこんな難しいことはできないから、まぁ、自分の思うようにしていきます。」なら、どうして神はそのような人を使われるでしょう?
皆さんにぜひ覚えていただきたいことは、どの時代においても、神がお用いになった人たちには共通していることがあります。学歴があるから、教育があるから、この社会で様々な実績を挙げて来たから、いろいろな地位を築き上げて来たから、だから、神が使ったのか?そういうこととは全く関係ありません。神が使った人は神に忠実な人たちです。ある人は、小学校の教育もなかった。メッセージをしてもその語られている英語が完全ではなかった、でも、神はその人を使って大変な働きをされました。彼が築いた学校を卒業した牧師たち、宣教師たちは世界中に出て行きました。この日本にもやって来ました。そのような働きを始めた人は、社会から見ると、この人ができることは限られていると思ったかもしれません。教育がないから…と。でも、神が用いられる人は神に対して忠実な人です。神を愛して、神に喜んで従っていこうとする、そのような人々を神は使われるのです。
パウロはこう言っています。Ⅱテモテ2:20、21「:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」と。非常に分かり易いたとえです。いろいろな器があって、あるものは尊いことに使うが、あるものは卑しいことに使う、私たちの家庭でも特別なお客さん用の器があるかもしれません。日常で普通に使う割れてもいいと思うものもあるでしょう。でも、このみことばが私たちに教えているのは、どのように用いられるのかは私たちひとり一人に係っているということです。神が尊い器としてこれを作り尊いことに使い、卑しいことに使おうとしてそのように作ったのか?違います。いろいろな用途があると言いました。でも、尊いことに用いられたいと願うなら、条件が書かれています。「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。」と。つまり、尊いことに用いられるか、卑しいことに用いられるかは私たちが決めなければならないのです。私たちにその選択の責任があるということです。どのような選択をするのか?です。
ペテロも教えます。もし、あなたが信仰において成長しているなら、それは神を愛しているから、愛しているから神が言われていることを実践していこうとします。心から従っていこうとします。そうすることによって、あなたは成長するしより深く主を知っていく、そういう人を神はお使いになるとペテロはここで教えるのです。ということは、神はあなたを喜んで尊いことに用いてくださるのです。あなたは神にとって役に立つ者になるのです。すべてを造りあなたのために犠牲を払い救いを与えてくださった全知全能の主権者なる神が、喜んであなたを使ってくれるのです。でも、そのためには、あなたがどのような選択をしてどのように生きるかにすべて係っているということです。
ムーディーが始めたムーディー教会の牧師であったウォーレン・ウァーズビー師は「なぜなら、彼らはイエス・キリストに益々似た者へと変えられ続けていたから、神は彼らを用いた。」と言います。信仰において成長する、イエス・キリストをより深く知っていく、その人は間違いなく、主イエス・キリストに似た者に日々変えられていきます。それが霊的成長、信仰における成長です。どの時代でも、どの地域でも、どの民族どの国、どの国籍であっても、イエス・キリストに似た者に変えられている人を神は使って来られたし、今も使っておられるのです。
だから、私たち信仰者が考えなければいけないことは、いったい、私の歩みはどうなのか?神が喜んで私を用いてくださる、神にとって役に立つ、そのような歩みを私はしているのだろうか?ということです。神に用いられるためには、神の前を正しく歩みなさいと言われるのです。神を愛しているからそのように歩むし、その人を神はお使いになるからです。ですからペテロは、もし、あなたの信仰が成長するなら間違いなくあなたは神にとって役に立つ者になると教えるのです。
(2)主のより良い証人となる : 「実を結ばない者になることはありません。」と、つまり、「実を結ぶ」ということです。実は、この「実を結ばない」という形容詞は新約聖書に7回出て来ます。そのすべての箇所は「実を結ばない」と訳しています。実を結ばない人とは、その人のうちに実、果実がないのです。それなら、その人は救われていない人と全く同じような歩みをしています。つまり、この世にあって影響力が余りないのです。では、なぜ、この人たちは実を結ばないのでしょう?
◎実を結ばない原因 : 今話した七つの箇所を見ると、その原因は「罪」だということが分かります。七つの箇所は私たちに様々な罪を教えてくれます。
・不信心の罪 = マタイ13:22、マルコ4:19、この箇所は皆さんよくご存じです。種まきのことです。「マタ 13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」「マル 4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」、みことばを聞いていてもこの世に関心があるので惑わしに負けて、様々な欲望に負けて実を結ばないと言います。この人たちに共通していることは、どんなにみことばを聞いても心からそれを信じないことです。だから、このいばらの中に蒔かれるとは救われていない人のことです。みことばを聞いていても、心から主イエス・キリストの救いを受け入れていなければ救いに与っていません。確かに、そのことがこのマタイ、マルコの並行箇所に書かれているのです。
皆さん、これは私たち信仰者のことです。私たち信仰者がなぜ実を結ばないのか?私たちの神が言われることを信じていなければ実を結ぶことがないのです。確かに、この人たちは神のメッセージを聞いていても信じていない。クリスチャンたちは基本的なこと、主イエス・キリストについても、その救いについても信じたでしょう。でも、その後の信仰生活において、神が言われることを信じようとしない、その不信仰、その不信心では信仰は成長しないということです。私たちの信仰は神が言われたことを信じます。私たちがどう思うかではありません。神が何と言われたか?です。それを正しく知って信じたのです。ですから、神が言われたことを信じなければ、どのようにして成長しますか?不信仰は罪です。罪は確実にクリスチャンの成長を妨げます。
・神を恐れない罪 = ユダ12節「彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、」、何のことを言っているのか?ユダは教会の中に背教者が入り込んで来ると言います。偽教師たちが入り込んで来るのです。それが教会の最大の問題であると、「愛餐のしみ」ということばによってそのことを表しているのです。本来なら、クリスチャンがともに集まって愛の交わりの中にあったのです。聖餐式をしともに食事をしていたのです。その「しみ」、問題だと言うのです。
見てください。この人たちは立派なことを言うのですが、何の祝福ももたらさない、まさに、「水のない雲」です。雨が降ると言っても雲には水が含まれていない、だから、雨を降らせることがないのです。
彼らの問題は何か?彼らは神を恐れていないのです。そのような誤った行いがどれ程大きな罪かということを全く考えていない、神に対する恐れがないのです。
確かに、これは背教者のことです。でも、私たちも注意しなければいけないことは、もし、主に対する恐れを失ってしまうなら、その罪は私たちの信仰の成長を妨げるということです。いつの間にか、私たちは神に対する恐れ、神ゆえに「こわい」という思いがなくなってしまっているし、神への畏敬の念も失っています。何をしていても構わない、神が見ている、聞いているとしても構わないと、神を恐れない罪、この罪は間違いなくその人の信仰の成長を妨げるものです。
・罪への愛 = エペソ5:11「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」、「実を結ばない暗やみのわざ」と、これが「罪」だということは明らかです。そういう罪を愛する生活から離れるということです。罪を愛しているなら信仰が成長することなど期待できないのです。私たちの問題はそこにあると思いませんか?神よりも罪を愛していると。その結果、私たちの信仰は成長しません。その証拠に、罪の中を歩んでいるならその人には喜びも感謝もありません。
・怠惰 = テトス3:14「私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。」、これは良き証のことです。私たち信仰者もしっかりとその糧のために熱心に勤勉に働きなさいということです。なぜなら、そのような勤勉さが周りの人たちに良き証になるからです。ですから、勤勉でなければ実を結ばない、つまり、怠惰というもの、怠けという罪は実を実らせることにはならないのです。だから、勤勉でありなさい、そうすることで実を結ぶのだと言います。
8節の最後に「なることはありません。」と書かれています。霊的成長は重要です。実を結ばない人、いや、結んでいない人は、主が望んでおられるこの世に対する影響力がほとんどない人です。なぜなら、その生き方が主を知らない人のものと大変類似したものだからです。
皆さん、まとめです。大切なことは、私たちが学んで来たことを実生活に適用することです。私たちはそのことを何度も学んでいます。私たちは主が真実なお方だということを知っています。しかし、そのことを本当に心から確信するためには、神の約束を信じて歩まなければなりません。真実な方とは、約束したことを必ず守るということです。そのためには、本当に神の約束を信じて歩み始めなければ「本当に主はそうだ、約束されたことを必ず守ってくださるお方だ。」と確信を得ることはできないのです。多くの人たちはその知識をもっていますが、実生活に生かされていないからいつまで経っても確信がないのです。主は「思い煩うな」と言われた。でも、それを本当に確信するためには、主が心配してくださるから、思い煩うこともできるけれど、思い煩いを主にゆだねて主が約束してくださった平安をもって生きることです。でも、その約束が本当なのだという確信を持つためには、私たちがそのような歩みをしなければ、どのようにしてそれができるでしょう?「平安を与える、喜びを与える」という約束を知っていても、それを実生活で体験していない信仰者が余りにも多いのです。
こういうことです。私たち信仰者に神が約束された地上におけるすばらしい祝福を、私たちは残念ながら逃して生きているのです。その原因は私たちにあるのです。だから、私たちは聞いたみことばの実践に励んでいくことが必要なのです。それも信仰です。「できる」と言われた神を信じて、神のみことばの実践に励んでいくのです。
ペテロは私たちに「あなたの信仰は成長する」ということを言いました。それによって、あなたは神の栄光を現していくことができる。そして、あなたの信仰が成長していくなら、神にとって役に立つ者になる。そして、あなたの実がどんどん熟していくことによって、周りの人々に良き証が為されていきます。そういう人として神はあなたを用いようとしてくださっています。ご自分に問い掛けてみてください。そのような信仰者になりたいとあなたは望んでいますか?そんな人に主よ今変えてくださいという願いをもっていますか?そこから神の働きが始まるのです。
信仰者の皆さん、心からお願いします。その思いをもって今から歩み始めることです。主がどんなことをあなたを通して為されるか?主に働いていただかなければなりません。そのためには「主よ、どうぞ働いてください。私はあなたがおっしゃったことを信じ、そのように生きていきたいと願っています。」と、その選択の責任があるのです。どうか、その正しい歩みをあなたが今日から始めるために、主が教えてくださったように「成長しなさい」と、そして、その主に対して「分かりました主よ、私は成長を心から願って今日から生きていきます。どうぞ、私を助けてください。私を変えていってください。」と、その願いをもって歩んでくださることを期待し、そのことを心から祈ります。
《考えましょう》
1. あなたは主にとって「役に立つ者」になることができるでしょうか?
では、そのためには、どうすればいいのでしょうか?
2. 霊的に成長しない原因は何でしょう?
3. 罪が信者に与える影響を説明してください。
4. 今日学んだことを、信仰の友と分かち合って実践に励みましょう。
Podcast: Play in new window | Download