メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:5-7
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
今朝私たちはⅡペテロ1:5からみことばを学んでまいります。
救いにあずかったあなたの信仰は霊的に成長するのだということをペテロは私たちに教え続けてくれています。1-4節をもう一度思い出していただくと、ペテロはここでそのために神の助けが備えられていること、あなたの信仰が成長するために、そこには神の働きがあることを教えてくれました。神の助けがあるからあなたの信仰は成長するのだと言い、またあなたは新しく生まれ変わった、つまり神のご性質にあずかった者だから、あなたの信仰は成長すると彼は教えます。そしてなぜ信仰が霊的に成長することが大切なのかと言うと、あなたの信仰の成長によってあなたが救われ、あなたが生かされている目的である神の栄光をより現すことができるからです。
また同時に、ペテロは私たちにあなたの信仰が成長することによって、あなた自身は偽りの教えから自分自身を守ることができるようになると教えます。まさにそれがこのペテロの手紙第二が書かれた理由でした。小アジヤの教会やクリスチャンたちに偽りの教えが入り込んで、教会や人々を惑わしていた。そこで神様の真理にしっかりと立つことがそういった惑わしや偽りの教えから自分たちを守る方法であるとして、この真理をペテロは教えたわけです。そしてこの教えを通して私たちも同じように大切なことを学びました。
4節までにあなたの信仰が成長するために神がどんなことをしてくださったのか、またしてくださるのかという神の働きが記されていました。その働きを、そのメッセージを皆さんお聞きになったわけで、だれひとりとして私の信仰は成長しませんということが言えなくなったわけです。5-7節には、我々信仰者の責任が書かれています。というのは何となく救いをいただくこと、罪から解放されること、天国の切符をいただくことが何か救いのゴールであるかのように思うのですが、それは違うということを我々は何回も学んできました。それは新しいスタートです。本来の人生が、本来の歩みがそこから始まるのです。神の栄光を現すという人生であり、神のすばらしさを証しするという人生です。そういう歩みをなすことができるのだ、神の助けがあるのだということを話した上で、今度はその人生を生きて行くために実はあなたにも責任があるということを教えるわけです。
☆ “七つの美徳”
既に見て来ましたが、5節は「こういうわけですから」ということばで始まっています。信仰者であるあなたが神のご性質にあずかる者となるために神はこれらの約束を与えてくださり、クリスチャンというのは神のご性質にあずかる者となったのだと。神のご性質にあずかったあなたは、間違いなく新しい人生を生きて行くことが可能となったのです。ですから当然新しくされた者として生きて行くことは救いにあずかった私たちの責任です。神様が一方的にあなたに働いてこの救いに導いてくださった、救われたあなたは救われた者として、新しくされた者としてその神のみこころに従いながら生きて行くことは当然のことです。ペテロは私たちにそのことを教えるのです。救いにあずかったあなたには責任があるのです。救いにあずかったあなたは次のように生きて行くことが必要なのだとペテロはここで教えます。5節には「あなたがたは、あらゆる努力をして、」、そして7節後半には「加えなさい」という動詞が出ています。あらゆる努力をして加えなさい、これらのものをと。そのこれらのものというのを我々は今から見ていきますが、既に見たように「あらゆる努力をして、」というのはどんな時にも熱心に一生懸命務めを果たしなさいという意味でした。怠けてむだに時間を過ごしていてはならないと。ですから「あらゆる努力をして、……加えなさい」というのはありとあらゆる努力を払い、一生懸命やりなさいと教えていたわけです。
しかし、ペテロはここで、これから見て行く“七つの美徳”と言われるものがあなたに加わるならば、あなたは救いにあずかるとは教えていません。あなたが救われるために、これらの美徳を加えなければならないのだと教えているのではないのです。どんな行いによっても私たちは救いにあずかることはない。なぜかというと、5節「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして」、「信仰には」ということばに続いてその後に“七つの美徳”が並んでいます。ですから、救われた者たちにこういったものを加えて行く、こういったものをあなたの生活の中で増し加えて行くために、こういうものにおいて成長して行くために、一生懸命努力が要るのだという話をペテロはするわけです。ですからこういったものをあなたが得ることによって救いにあずかるのではなく、救いにあずかった者としてこういったものをあなたに加えて行きなさい、しかも熱心に加えて行きなさいと教えるわけです。
救われた者にはどのように生きるかの責任です。だからあなたは神の前に立って、神の前でさばきを受けるのです。あなたの信仰者としての歩みに対する正しい評価が下るわけです。我々が覚えなければいけないのは、ひとりひとりはどのように生きるかという責任を負っているということです。ではペテロが熱心に、真剣に追い求めなさいと言った“七つの美徳”がどんなものなのかをご一緒に見て行きましょう。
1.徳 Ⅰテモテ4:12 Ⅰコリント11:1
最初に「信仰には徳を」と出てきます。この「徳」というのは道徳的な話です。道徳的なことにおいて成長するようにということです。3節に「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、」とあります。つまりこの3節のみことばの「徳」というのは神ご自身のご性質を指しています。神とはこういう方だと言っているのです。つまり神は道徳において、きよさにおいて、正しさにおいて、完全なお方だということです。神がどういうお方であるかを教えて、5節では救われた者としてあなたの信仰に「徳」を加えていきなさいと。なぜかというと、私たち、主イエス・キリストの救いにあずかった者は、その瞬間から主イエスに似る者として変えられ続けていきます。神はすべてにおいて完全にきよく正しいお方であった。ということは、あなたに内住する聖霊は間違いなくそういう人にあなたを変えていこうとします。ペテロは、救いにあずかったあなたは、聖霊があなたを変えていこうとしているし、あなたの新しい歩みの模範であるイエス様がすべてにおいて完全であったように、その模範にならって歩んで行くようにと教え、ペテロ自身は確かにそのように生きていたはずです。
パウロも自分の歩みについてⅠコリント11:1で「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」と言います。パウロの人生はイエス・キリストを模範にし、この方に忠実に従っていたのです。それだけではなく、だから彼は私を見ならうようになりなさいと言います。ということは、救いにあずかったあなたは間違いなくイエス様を模範にし、そしてあなたに内住している聖霊の助けをいただきながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行く。そのような働きを日々経験しながら成長して行くわけです。そのような働きがもう既にあなたのうちに始まったのですが、我々が歩みにおいてしっかり覚えなければいけないのは、私の模範とするお方は主であると。そして、あなたの後に続いて来る者たちに私を見てこの行いに従っていきなさいと伝えるのです。それだけの責任があるということです。パウロにしても、ペテロにしても、そして私たちにしても、イエス様以外だれひとりとして完璧な歩みをした人はありません。でもペテロもほかの人々の模範になるようにと言いました。パウロ自身も私の歩みを見て、私にならって生きていきなさい、後をついて来なさいと。
なぜ神様は私たちのような者を救ってくださり、この地上に置いてくださっているのか――。なぜ私たちを救われた瞬間に完全な者にしなかったのかです。我々は日々の生活を通して、罪との葛藤を経験します。弱い存在だということは日々いろいろなことを通して教えられています。でもその中で、主とともに生きることによって、主は私たちを変えていってくださっている。その生きざまというものを通して後から続いて来る者たちにあなたたちもこのように生きたらいいのだということを示して行くわけです。悲しいことに罪を犯します。その時に我々はそれを悔い改めて正しく対処して、私たちは主に従うのだということを示して行くわけです。でなければ神様は私たちのような者をこの地上に置いておくはずはないでしょう?こんな厄介な人間が地上に置かれているよりは天に召した方がずっとはるかに優れている。でも神はあなたや私を救ってくださり、この地上に置いてくださっている。そして私たちが失敗しながらも主に従っていくことによって、後から続いて来る連中もこうやって生きていくのだということを学んでいくのです。
もう一つ言えば、皆さんが望んでいるか望んでいないかわかりませんが、後から続いて来る人たちは確実にあなたを見てあなたの生き方にならっています。そう思いませんか?我々の信仰が弱ければ間違いなく私たちの後を続いて来る者の信仰は弱いです。私たちが妥協的な生き方をしているとするならば、後から続いて来る者もそんなふうになっていきます。ですから私たちは自分がどのように生きていくのかをしっかり考えなければいけないし、同時に主のみこころに従って行く時に、神はその助けを下さると。
そしてもう一つだけ言っておかなければいけないのは、我々は信仰生活において新しいスタートが切れるということです。主は救いにあずかった私たちが過去を振り返ってみて、あの時こうすればよかった、この時こういうふうに生きてくればよかったといろいろな後悔をしながら生きることを喜びとするか――。違いますでしょう?我々はいっぱいいろいろなミスを犯してきたのです。問題はこれからどう生きるかです。過去はもう過去として、問題はきょうをどうやって生きていくかです。あしたどうやって生きていくかです。ひょっとしたら清算しなければいけないことがあるかもしれない。だったらすればいいことです。「お父さんこれまで本当に不信仰だったから、許してほしい」とか、「お父さんの歩み
は本当に模範になっていなかったから許してほしい。これから正しく歩んでいきたい」と。パウロがテモテにこう言っています。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(Ⅰテモテ4:12)と。年齢は関係ない。あなたや私の責任は後から続いて来る者たちの模範になることです。まず救われたあなたには、この「徳」において成長することが必要だと。救いにあずかった者たちは正しさにおいて、きよさにおいて成長して行くことが必要だと。より神が喜ばれること、より神の栄光が現されること、しっかりとみことばを見てみこころを知り、そのみこころに従っていくことです。
2.知識
その次に「徳」には何を加えるかというと「知識」と出てきます。なぜ「知識」が出てきているかというと、私たちが神に喜ばれる歩みをして行くためにはこの助けが要るのです。この「知識」ということばは日々の生活において何が神の前に正しく、また間違っているのかを見きわめる実践的な知識のことです。ここで言われているのは、たくさんの知識を蓄えなさい、いろいろなことを勉強していろんなことをたくさん蓄えるようにということではない。大切なことは信仰者として生まれ変わったあなたは、日々の生活において一体何が神の前に喜ばれることなのか、何が神の前に正しいことなのか、そのことを正しく見きわめて歩んでいくことだと教えます。ここではグノーシンという名詞が使われているのですが、これはグノーシスということばと関連しています。バークレー師はこのグノーシスということばについてこんな説明を加えています。「このグノーシス(つまり知識と訳せることばですが)は実践的な知識である。それは与えられた状況において何をなすべきかという知識である。人生の日常の環境や状況にあって正しく判断し、立派にかつ有効に行動させてくれる知識である」と。神が与えてくださった状況、状況において何をなすことが神の喜ばれることなのか、そのことを正しく判断できる知識のことです。
模範となるためにはその知識が要ります。模範となるためには状況に応じて一体何が神の前に正しいことなのか、一体何が神のみこころなのか、そのことを正しく見きわめる知識が要るわけです。それをあなたに加えて行きなさいというのです。我々は間違いなくすべてのことを、神を愛するゆえになしているはずです。神への愛というのが私たちの行動のすべての動機になっているはずです。そうであるならば間違いなく神様に喜んでいただきたい、どうしたら神をもっと喜ばせることができるのかを考えながら、皆さんも歩んでおられるわけです。どうしたらいいのかというと、主のみこころに従うことです。神が喜ばれる歩みをなして行くために必要なのは、神が私たちに教えてくださったみことばを正しく知ることであり、そして私たちに与えてくださった聖霊なる神様の支配にみずからを委ねて主に従い続けていくことです。その歩みが神が私たちに教えてくださっていることであり、その歩みが神の前に喜ばれる歩みであることを我々は知っています。ですから正しく選択するための知識が要るのです。この神の助けが私たちには必要なのです。
3.自制 Ⅱペテロ2:2
三つ目に、6節「知識には自制を」と書いてあります。「自制」というのはセルフコントロールです。自分の願望や自分の願いをコントロールすることです。
なぜこんなことを言っているかというと、私たちの願望、我々の願いというものが必ずしもみこころに沿ったものではないからです。やはり私たちは自分の願っていること、自分のしたいことが先に出てきてしまう。まだ罪を持っていますから、我々はそれを優先してしまいます。ですから常にみこころを求めるためには、自分の願望や欲望をちゃんとコントロールすることが必要です。いつもそういう思いが出てきてしまうと、私たちは悲しいことに主のみこころに反することを選択してしまう可能性があります。
Ⅱペテロ2:2にも「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。」とあります。いろいろな誘惑によって多くの信仰者たちが真理の道から外れてしまう。ですから大切なことは自分の考えや思いではなくて、私たちに内住する主の導きに服従して行くことです。神はちゃんとあなたを導いてくださる、そして神の導きは必ずみことばと一致しています。神様はこんなふうに導いてくださったと言っても、聖書の教えに反するような導きを神様はなさらない。なぜならこのみことばは神が与えてくれたものだからです。
三つ目に出てきたのは自制でした。厄介な自分というものをちゃんとコントロールしなさいと、そういうものにコントロールされるのではなくて、そういうものをコントロールしなさいと。そして聖霊があなたをコントロールできるように、みことばがあなたをコントロールできるようにと。
4.忍耐 2ペテロ3:3-4、ヤコブ1:3-4、ローマ4:20-21
四つ目に出てきたのは「自制には忍耐を」、「忍耐」を持って生きなさいと。つまり主に希望を置いて生きるということです。最初にも見たように、小アジヤにおいて教会の中にいろいろな偽りの教師たちが入り込んできたことをペテロは知っていました。彼らはいろいろな惑わしの教えをもって人々を惑わ
していた。そこでペテロは真理を教えることによって、彼らがそういう惑わしに惑わされない、しっかりとした信仰を持って生きることができる、それを教えていることを何回も見てきました。
Ⅱペテロ3:3-4を見ると、「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。」、ペテロが教えたように、世の終わりが近づけば近づくほど、クリスチャンたちをあざける者たちが出てくると。そして彼らは自分たちの欲望に従って歩んでいると。彼らは人々にそういう生き方を勧め、そしてクリスチャンでみことばに従う人たちに対して、彼らはあざけるのです。4節「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」とあります。つまり神様が言われたことをあなたたちは信じていると言うけれども、一体どこにその約束が成就された証拠があるのかと。神様はそんなことを言っているとあなたたちは言うけれども、見てごらん、何も起こってないではないかと。こうして主のみことばに対する信頼をぐらつかせようとするのです。何回も見てきたように、神のみこころに逆らう者たちにとって一番厄介な信仰者というのは、何があっても神のみことばにしっかり立ち続ける者たちです。いろいろな惑わしに対して神がこう言われています、私はそれを信じていますというような強固な確信を持った信仰者は厄介な存在です。一番好都合なのはぐらついている信仰者です。そういう人々がいっぱい出てくるという話です。皆さんをあざけり、そして彼らの生き方になびいて行くように働く者たちがいるということです。そういう人たちがふえて行くという話です。私たちにとって大切なことは、どんなことがあろうと、どんなことを言われようと、どんなことをされようと、我々はその中にあっても主を信じ、その約束に信頼を置いて歩み続けることです。
我々の生活にはいろいろな試練が襲ってきます。でも、我々が神の約束に立っているならば、どのような困難を経験しようと、神がともにいてくださることを信じています。そうして神様は必ずこういう試練の中にあっても、勝利を与えてくださるということを我々は信じています。なぜならみことばに立っているからです。そう約束してくださっているからです。「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:3-4)、我々は信仰の試練をたくさん経験します。でもその中にあってしっかりと主を見て、主のみことばに立って、主に信頼を置いて、そして主のみこころがなされることを忍耐を持って待っているならば、それらのことを通して信仰が成長して行くということです。みことばを聞き、神の約束を聞き、それを信じると。
でも信じていながら私たちはその約束がすぐに成就することを期待します。願ったらその答えがすぐに訪れることを期待します。私たちにとって一番大変なことは、神の最善の時を忍耐を持って待ち続けることです。神が言われたことを信じる、ここはできても、神は最善のことを最善の時になされると言われているのに、神様もっと早くしてくれませんか、いつまで待ったらいいのですかと。そんな経験ありませんか?あの信仰の父アブラハムもそうでした。彼が生まれ故郷を出て神が示す地へ出かけた時は75歳でした。神はアブラハムに彼を祝福し、彼の子孫はこの地のちりのようにふえ広がると約束を与えました。ところが76歳になっても、80歳になっても、約束は成就されませんでした。彼に約束の子どもが与えられたのは、彼が100歳の時です。25年間待つのです。パウロがこのアブラハムの信仰についてこう言っています。「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(ローマ4:20-21)と。アブラハムが信仰の父と言われたのは、神の最善がなされる時を忍耐を持って待ったからです。「約束されたことを成就する力があることを堅く信じ」た、だから神は喜んだのです。
もちろんアブラハムが失敗をしなかったわけではありません。この25年の中で彼も罪を犯しました。子孫が与えられないために、女奴隷のハガルが出てくるわけです。そしてアブラハムが86歳の時、彼女によって一人の男の子、イシュマエルが生まれました。感謝なことに、こうして聖書は私たちにその真実の記録を与えてくれます。アブラハムも神様、一体いつまでですかと。子どもが生まれるという話を聞いた時に100歳の者が、妻が90歳で子どもが生まれるだろうかと確かに疑うこともあったのです。自分たちで何とかしないといけないと思った。でもそのすべてのことを通して、神には約束されたことを成就する力があると、彼は大切なレッスンを学んだのです。我々も同じ神を信じています。あなたや私に必要なことは、私たちのスケジュールを神様にお渡ししてこのとおりになりますようにではなくて、神だけが最善をご存じです、神だけが最善の時をご存じです。その方を信じて生きて行くのです。ですからこの箇所は私たちに、「自制には忍耐を」加えなさいと。あなたや私に必要なのは神の最善の時に最善のみこころがなされることを信じて、この方に信頼を置いて従っていくことだと。
5.敬虔 Ⅰペテロ3:5、Ⅱテモテ3:5
次は「忍耐には敬虔を」とあります。「敬虔」ということばは神に対する正しい態度と人に対する正しい態度の両方が含まれています。神に対する正しい態度というのは神に対して正しい畏敬の念を持って仕えていくということです。Ⅰペテロ3:5に「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。」とあります。この婦人たちが「敬虔な婦人たち」だと。神に望みを置いて神に仕えていたと。心からそのような歩みを行っていたと。Ⅱテモテ3:5には「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」とパウロは教えます。見かけは確かに神を敬って、神に従っているようだけれども、実は心は違う、そんな人を避けなさいと。「敬虔」を加えなさいという時に、ただ形だけの話ではなく心から神を敬いながら畏敬の念を持って神に仕えて行くようにと、そういう歩みをしていきなさいと言うわけです。
この「敬虔」というギリシャ語は、ユーセベイヤということばです。バークレー師はこのことばの大きな特徴を二つの方向に見ることができると説明しています。「ユーセベイヤを持つ人は常に神を礼拝し、神にふさわしいものを捧げる」と。こうして神を敬いながら、畏敬の念を持ちながら神に仕えて行くのです。「しかし、ユーセベイヤを持つ人はいつも正しく同胞に仕え、人々にふさわしいものを与える。」と。神に対する正しい態度と人に対する正しい態度の両方の意味がこの「敬虔」ということばにはあります。
6.兄弟愛 Ⅰヨハネ3:13-18、4:12、20、Ⅰテサロニケ4:9、ローマ12:10
今、五つのことを見てきました。「徳」があり、「知識」があり、「自制」があり、「忍耐」があり、そして「敬虔」と。これらはまさに神に対する正しい態度です。主イエス・キリストがそうであったように、私たちもすべてにおいて正しくあるようにと。そして常に私たちは神の前に何が正しくて喜ばれるのかを見きわめる「知識」が必要だと。そして自分の思いや考えによって支配されてしまうのではなくて、常に神のみことばによって、みこころによって支配されるために「自制」心が要ると。そして同時に神のみこころがなされるためには、我々はその時を「忍耐」を持って待つ者でなければならないと。そして心から神を敬いながら仕えて行くことが必要だと。こういった歩みをあなたの生活に加えて行きなさいと言うわけです。
その後、人々に対する正しい態度が記されています。7節「敬虔には兄弟愛を」とあります。「兄弟愛」、フィラデルフィアです。町の名前にもそういう名前があります。兄弟姉妹を愛するということです。彼らの必要にこたえて行くということです。ヨハネがⅠヨハネ3:14で教えるように「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。」、「死からいのちに移った」、つまり救いの話です。私は救われたことを知っていますと言うのです。「それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」と。だから自分が救われているかどうやってわかるかというと、兄弟を愛しているからです。主イエス・キリストを信じている者たちを愛しているからです。そうでないものは「死のうちにとどまっている」と。そうでない者は救いにあずかっていないと言うのです。
また私たちが兄弟姉妹を本当に愛し、そして愛され、そのような愛の関係が存在するならば、世に対してすばらしい証しがなされるのだということがⅠヨハネ4:12に記されています。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」と。だれも神を見たことがない。でも我々がこのキリストによっていただいた愛をもって互いに愛し合っているならば、神を知らない人たちは私たちのうちに神がおられることを見ると。非常に大切な話です。私もいろいろなところを訪問した時に、よくいろいろなことを聞くのですが、イエス様を知らない人たちの一番悲しい教会評はというと、教会へ行ったけれども、だれも声をかけてくれない、冷たい教会だったからもうあそこに行かないということです。教会にやって来て、本当にみんなが歓迎してくれて、愛してくれて、それを批判するような人は余りいません。あの教会に行ったら本当にみんなが物すごく歓迎してくれたから、だからもう行きたくないわという人は余りいません。どっちかというとその逆が多いのです。
ペテロは我々救いにあずかった者たちは「兄弟愛」をしっかりと加えていかなければいけないと教えます。今お話ししたのは未信者がどう見るかという話です。彼らが見るのは、我々がこの教会にあってどんなふうに兄弟姉妹がお互いのことを愛し合っているかということです。もし私たちのうちにあの人は好きだけれども、あの人は嫌いだという思いを持った人がいっぱい集まっていたとしたら、教会の中に分裂や分派が出てきて、教会が一致していないと。その時に我々がどんな主を世に対して証ししているのかです。ペテロは「兄弟愛」をしっかりと加えなさいと言います。
7.愛 Ⅰヨハネ4:8、16
そして「兄弟愛には愛を加えなさい。」と、一番最後に「愛」が出てきています。そしてこの「愛」ということばはアガペーの「愛」、神様の愛です。神が愛されたように愛しなさいというのが最後に出てきています。我々信仰者が覚えなければいけないことは、我々クリスチャンは神の愛をすべての人に示す務めを負っているということです。私たちは神の栄光を現すと言いますが、それは神がどんなお方かを人々の前で証しするわけです。我々が証しする神というのは、ご自分のことよりも私たちのことを愛してくださり、我々のために喜んで犠牲を払い、私たちのために最善をなしてくださったお方です。この神を私たちが世に証しして行くのであれば、間違いなく私たちが覚えなければいけないことは、この神の「愛」を実践して行くことです。Ⅰヨハネ4:8は「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」と言います。16節はこう続きます。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」と。あなたが神の「愛」を人々に示すならば、間違いなく人々はあなたのうちに神がいることを知るのです。なぜなら神がそのような「愛」をあなたを通して人々に示すことを助けてくださるからです。
先ほどは「兄弟愛」の話でした。兄弟姉妹たちが互いに尊敬の心を持って愛し合うことでした。そして最後に「愛を加えなさい。」という時に、当然これはクリスチャンだけではありません。すべての人々に対しての話です。そのような「愛」をもって主は私たち人間を愛してくださった。だからそのような「愛」をもって人々を愛して行きなさいと。
◎ 加えなさい
最後にまた「加えなさい」ということばが出てきます。最初にも少し説明しました。この「加えなさい」という一つのギリシャ語は三つのことばからできています。一つは「傍らに」、もう一つは「中へ」、そして「もたらす」ということばです。そこからこのことばは「傍らに招かれた」という意味で用いられることがあります。ですから、ここでペテロが言わんとしていることは、「神のなされた働きの傍らにこれらのものを加えていきなさい」ということです。神はあなたにすばらしい救いを与えてくださっている。その神のなされた働きの傍らにこの大切なものをあなたは加えて行くことが必要なのだとペテロは教えるわけです。
きょう私たちは、神の恵みによって救いにあずかった我々信仰者ひとりひとりは、神に対しても、人々に対しても正しい態度をもって接すること、その態度において成長することが必要だと、それがあなたの責任だとペテロが教えてくれたことを見てきました。そしてこういう歩みは神の助けによって可能なのです。もう何回も見てきたように、神のみこころに従って行くことは確かに人間には不可能です。しかし、ペテロは神にあってそれができるのだということを教えてくれました。だから信仰者はみことばを見た時にそれはできませんとか、できますとか、我々が判断するのではなくて、神がしなさいということは神にあってできるということです。こういうものを加えていきなさいと神が命じてくださったということは、こういうことを加えることはできるし、このように神が望んでおられるような信仰者に私たちは変わって行くことができるということです。そのことを忘れてはならないのです。こんな人に神はあなたを変えようとしてくださっている。こんな信仰者にあなたを成長させようとしている。
なぜこんなことを神がしようとしているかというと、あなたが成長すればこの神の栄光が現されていくからです。きょうは見る時間はありませんが、8節以降を見た時に、もしあなたがこのようなものにおいて成長するならば、あなたは神にとって役に立つ者になると。つまり、神様は間違いなくあなたや私を使ってくださる。神様どうぞ私を使ってくださいと言うなら、神は使ってくださるのです。そして同時に私たち信仰者としてどんなふうに生きていくのか、こうしてペテロは教えてくれた。もしあなたが主によって用いられたいと思うのだったら、どうぞその主に神様、私はこんな信仰者に変えられて行きたいし、こんな信仰者として成長して行きたいですと、今見てきたことを生活の中でしっかりと生かして行くことです。神の助けによって。こういった美徳があなたの中で成長することによって喜んで神はあなたを使ってくれる。しかし、そのためには我々には責任があるという話です。こうして私たちがこのみことばが教えるように生きて行くことによって、あなたは神にとって有益な者となって、神が喜んでご自身の栄光のためにあなたを使ってくださる、そうやって多くの信仰者たちは生きたのです。そしてその中の一人であるペテロがこうして我々に言うのです。あなたたちもそうやって生きて行きなさいと。私が生きたようにあなたたちもこのように生きて行きなさいと。
みことばは我々にちゃんと神のみこころを教えてくださる。しかもそれを実践するためにもう助けが備えられていると。感謝だと思いませんか?主よ、どうぞ私を助けてください。私はこんなふうに生きて行きたい。その決心を持って、その願いを持って、きょうからまた新しく歩み始めてください。
《考えましょう》
1.信仰者に与えられた責任が何かを説明してください。
2.ペテロが教える七つの美徳について説明してください。
3.どうして七つの美徳を積むことが信仰者には大切なのでしょう。
4.きょう学んだことを信仰の友と分かち合って実践に励みましょう。
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