メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:5-7
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
ペテロは小アジアに住む当時のクリスチャンたちに対して、彼らの記憶を何とか呼び覚まさせて、彼らの信仰、彼らの心を奮い立たせようとしました。そのことをⅡペテロ3:1で教えています。「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」と。ですから、ペテロがここに記したことは、新しいことというよりも、すでに彼らが信じて来たことです。それを改めて記すことによって、読者たち、信仰者たちが強い確信を持つようにと促すのです。その理由を私たちは見て来ました。教会の中に偽りの教師たちが入り込んで来て、彼らは真理を曲げて人々を惑わします。人々の信仰をぐらつかせようとするのです。そこでペテロはこの手紙を記して、私たちの信じて来た真理とはいったい何なのか?最も大切なことを彼はここに記してくれたのです。もうすでに私たちは見て来ました。ペテロが教えたのは神は私たち信じる一人ひとりに一番すばらしい救いを与えてくださった。それは神からのギフトであると。同時に、与えられた信仰は確実に成長するのだということを明らかにしました。救いに与ったなら、あなたの信仰は必ず成長するということです。
ですから、ペテロはまず1:1−4で、その霊的成長の現実性、必ず、成長するということ、また、その成長の意義について教えるのです。なぜ、霊的な成長が大切なのかということです。
A.神の働き : 神からの祝福・恵み
1.霊的成長の「現実性」
: ペテロは二つの理由を上げていた。整理すると、
1)神の助けがあるのだから : 私たちはそのことをしっかりと学び、私たちの心に刻まなければいけません。信仰生活におけるカギは「私たちの力である神に信頼を置いて歩み続けること」です。神の助けが私たちの成長には必要だということです。
2)神のご性質に与ったのだから : 二つ目に、もう私たちは神のご性質に与った、だから、私たちは信仰において成長することができると教えたのです。2節に「…恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」とあります。私たちこの神の救いに与った一人ひとりは、この地上にあって恵みと平安を持って歩み続けることができるということです。神は私たちに命令を与えてくれますが、その命令を実践する力を備えてくださっただけでなく、私たちがこの地上にあって神の約束された平安をもってどんな時にでも歩み続けることができるということです。私たちが日々経験することは嬉しいことばかりではありません。辛いことも苦しいこと、悲しいこともあります。どちらかと言うとそちらの方が多いのかもしれません。しかし、私たちはクリスチャンに神が約束してくださったことは、どのような状況にあったとしても、どのようなことをあなたが経験していようと、その中にあってそれに優る神の平安があなたを満たし続けるということです。そのように記されていました。信仰者であるあなたは、この地上にあって神が約束されたすばらしい祝福を楽しみながら、それを喜びながら生きることができるのです。皆さん、それに対して「アーメン」とおっしゃいますか?
神が言われたことを信じるというのが私たちの信仰ではないですか?神がそのように言われた以上、必ず、それが成るわけでしょう?そのように私たちは信じています。ですから、皆さんに是非思い出していただきたいのは、この救いに与った私たちに神が約束されたすばらしい祝福というのは、この世の中の神を知らない人たちが絶対に味わうことができない経験することのできない祝福です。そのような祝福をいただきながらこの地上を生きていくことができるというのです。
ですから、この3、4節を見ると、神は敢えてあなたに「力」と「約束」を与えたと言っています。ということは、私たちがこの地上にあって本当に祝福されたすばらしい神からの幸せをもって歩み続けて行くためには、私たちは神の約束を知らなければいけないし、その約束にしっかりと立ち続けることが必要だと言うのです。あなたの考えることと聖書の教えていること、ときには、このギャップの中に、その狭間の中にあなたは置かれることがいつもあります。こんなことは信じられない!と思うような約束もあります。しかし、私たちはそこで主がどんなお方であるかということを覚えることによって、私たちが不可能と思うことであっても、神がそう言われているならそのように成るという信仰をもって神を崇めているのです。
私たちが注意しなければならないことは、私たちの愚かさによって私たちの全能な神を小さな存在にしてしまうことです。この方はすべてのものをお造りになり、すべてのものを治めておられる神ですから、この方が言われたなら必ずそのようになる、確かに、これまでもそのように成って来ました。ということは、これからも必ずそうなっていくのです。神は何を私たちに約束してくださったのか?主イエス・キリストを信じる者に永遠のいのちを約束してくださった、だから、あなたはその約束によって救いをいただいたわけです。そして、救いに与った私たちは天国に行けるという希望をもってただ生きるだけでなく、この地上にいて、この日を、神を知らない人たちが絶対に経験できない祝福を味わいながら楽しみながら過ごすことができるのです。それが神の約束なのです。私たちがそのことを経験していないとするなら、それは神に問題があるのではない、私たちの歩みに問題があるのです。ですから、みことばは私たちに、神の約束とともに、では、どのように私たちがそれを楽しんでいけば良いのか、どうすれがそれを得ることができるのか、どうすればそのような人に変わっていくことができるのか、そのことを教えてくれるのです。
神は間違いなく、あなたを救いに与った瞬間からイエスに似た者へと変えようとしています。もう何度も見て来たことです。ですから、私たちは変わっていくのです。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのです。でも、そのために私たちに必要なのは、神のみことばをしっかりと学び、その真理にしっかりと立つことが必要です。そして、私たちはその神のみことばに従って行こうとするのです。そして、そのみことばに従うための助けを神はもう備えてくださったとみことばは教えます。
見えて来ませんか?私たちがどのように生きていくのかを…。私たちは神のみことばを通して神のみこころを知り、そのみこころに従って行こうとするのです。そして、「従う」というその行ないにおいて神はもう十分な助けをすでに与えてくれています。だから、私たちは助けを求めながら神のみこころに従って行こうとします。そのときに、神が約束された祝福を楽しむことができるし、もっとすばらしいことは、私たちを救ってくださった神の栄光が現されていくことです。
聖歌の中に「みことばなる」という曲があります(聖歌500)。コーラスで「実に、主は拠り頼みて、従う者を恵みたまわん」と歌います。ジョン・サミスという人がこの曲を書いています。彼が最後に歌いたかったことは「信頼と服従、イエスにあって幸せになるためにはそれ以外の方法はないのだから、信頼と服従以外に、」です。主のみことばに信頼を置き、主に信頼を置き、主のみことばに従って行くこと、それ以外に、私たちがこの地上にあって神の約束された祝福を、この幸せを経験して歩む術はないのです。だから、もし、あなたが約束された祝福をもって生きようとするなら、神のみことばにしっかりと立ち、その神に信頼をおいて従い続けて行くことです。
当然、私たちが考えることは、神はこのような生活ができると言われた、しかし、私たちがそれを歩んでいないなら、私たちのうちのどこかに問題があるということです。ご自分に問い掛けてみてください。「私は神の教えておられるそのみこころに喜んで従って行こうとしているのかどうか?しかも、神が備えてくださった助けによってそのように生きていこうとしているかどうか?」と。実は、それが私たちにとってしっかりと覚えなければならないことです。
そのように私たちが生きる、そのことをみことばは私たちに教え続けてくれているのです。繰り返します。私たち信仰者は、みことばを通して示される神のみこころに従って行こうとするのです。ですから、皆さんがこの場にあってみことばを聞かれた時に、神はあなたの心の中に「これがわたしのみこころである」とちゃんと教えてくださっています。あなたはそれに対してどうするのか?「はい主よ、分かりました。従います。」と言うのです。しかし、その実践において必要なのは、あなたの知恵や力、あなたの意志ではなく神の助けです。ですから「私はそのように従って行きます。主よ、どうぞ私を助けてください。」と、そのようにして歩み続けるのです。でも、そのように歩み続けても私たちは失敗するでしょう。その失敗を神の前に告白しながらまた従い続けて行くのです。それがクリスチャンとしての歩みなのです。神は私たちが信仰者として歩み、そして、成長していくために神の力を助けを備えてくださり、そして、約束をくださった。
また同時に、あなたが成長できるのは、あなたが神のご性質に与った者だからと見て来ました。ペテロは驚くべきことを教えてくれました。救いに与った私たちは神のご性質に与ったと。だから、成長が可能だとみことばは私たちに教えてくれました。それが証拠に、私たちは救いに与ってから、確かに、徐々にでも変化が起こり続けています。神が愛されるものを愛し、神が憎まれるものを憎む者として、そのように生きようとしているし、そのように生きています。そういう人に私たちは生まれ変わったのです。お気付きになるでしょう。この恵みによって救われたその時から神の働きがあなたのうちに始まっているということです。そうして徐々に、神はあなたをご自身に似た者へと変えていってくださるのです。
2.霊的成長の意義 : 霊的成長の重要さ
霊的成長が可能だということは分かりました。では、なぜ、それが大切なのでしょう?「もう救われて、罪赦されて天国に行けるのだから、それで十分ではないか?」と…。なぜ、霊的成長が重要なのか?その意義です。
1)神の栄光を現す
それは、あなたが成長すればするほど神の栄光を現すからです。信仰の成長とイエスに似た者へと変えられていくというのは別のことではありません。信仰が成長するということは、あなたがイエスに似た者へと変えられていくことです。イエスが地上にあって、人類の歴史の中で、神の栄光を現された完璧なお方です。その人に似た者に変えられていくということです。間違いなく、あなたが成長すればするほど、あなたはイエスに似た者へと変えられていくのです。ということは、あなたが益々神の栄光を現し続けていくということです。だから、私たちは霊的に成長することが必要だというのです。
2)偽りの教えから自分の身を守る
もう一つ言えることは、成長することによって様々な偽りの教えからあなた自身を守るからです。最初に話したように、ペテロは教会の中に様々な偽りの教師たちが入り込んで来たことを知っていました。そして、このクリスチャンたちがそれらの教えに惑わされないために、この救いの最も大切なこと、核心部分をペテロはここに記したのです。救いについて、また、その成長について教えてくれたわけです。
ペテロはこの真理をしっかり覚えていなさい、この真理にしっかりと立っていなさい、この真理があなたの確信となっているなら、あなたはいろんな教えが入って来たとしても、それらに惑わされることはないと言います。
恐らく、皆さんの自宅にも「聖書を勉強しませんか?」と勧誘したり、その目的で訪問して来るカルトの団体がいるでしょう。彼らは「聖書を勉強しませんか?」と言います。悲劇は、聖書の教えと言いながら彼らは聖書の教えに反することを行っているのです。彼らが教えていることは神の教えではなくサタンの教えです。もし、皆さんが「私は教会に行っています。聖書を勉強しています。」と言うと、彼らはそれを聞いて喜びませんか?なぜなら、彼らはそのように言う人々をどのように惑わすかを知っているからです。しかももっと言えば、教会に行っていると言う人、聖書を勉強していると言う人、その多くの人たちに確信がないことを知っているのです。質問されたらそれに答えることができるかもしれない。しかし、「なぜ、あなたはそれを真理だと信じているのですか?何を根拠に信じているのですか?」と質問されて来ると、「分からない…」と言うクリスチャンたちが多いのです。彼らはそのようなことを知っているゆえに惑わして来るのです。
でも、もし、あなたがどのようなことを聞かれても、神が何と言われているのか、聖書が何を教えているのかを知っているなら、彼らはあなたに近づいて来ません。恐らく、多くの皆さんも経験されていると思います。私も日本でいろいろな国でも数回会っています。話し終わってから彼らが必ず言うことは「勉強してもう一回来ても良いですか?」です。「どうぞ」と言いますが、一度も帰って来ません。彼らが探しているのは確信のない人たちです。そういう人たちなら惑わすことができるからです。でも、あなたや私がしっかりと神の真理に立っているなら、彼らは遠ざけていきます。同じように、ペテロもクリスチャンたちが本当に確信を持って生きていけるように、この真理をしっかり信じてそれに立って生きていくことを願ったのです。それが自分たちをそのような間違った教えから守ることをペテロはよく知っているのです。
そこで、皆さんに確認したいのですが、あなたはクリスチャンですね?救いに与っていますね?あなたが救われているとどうして言えますか?あなたの救いの根拠は何でしょう?あなたが救われているというその確証はどこにありますか?これらの質問にどのように答えますか?私が何回か目撃した光景は、信仰の先輩が若い人に対して、つまり、自分の救いに関して疑問を持っている、救われているかどうか分からない、そういう人に「あなたは救われているのです」と一生懸命説得しているその情景です。
*救いの根拠は神の約束、救いの確証は内住する聖霊なる神
皆さん、救いの根拠は聖書の約束です。「あなたは自分が救われていることがどうして分かりますか?」と聞かれたら、私たちが答えるのは「それが聖書の教えだからです。聖書がそう言っているからです。」です。そして、救いの確証は私たちに内住する聖霊なる神です。そのことをパウロが教えています。ロー人への手紙8章を見てください。私たちは人々に「あなたは救われています」ということを何度も話して彼らを納得させること、彼らに信じさせる必要はないのです。それは私たちの働きではなくて神の働きなのです。そのように聖書は教えています。8:14-16には「救われた人の三つの証拠」が書かれています。「:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」。
◎救われた人の三つの証拠
(1)聖霊によって導かれて生きる 14節 : この「導かれる」とは「支配される」ということです。神の子どもである人、すなわち、救いに与っている者たちは、喜んで自分自身を主にささげて主の支配に自らを委ねようとするのです。「神さま、どうぞ、私を導いていってください。どうぞ、私を用いてください。」と、そのようなことを心から求める者たちです。クリスチャンだと言いながら「神さま、あなたの支配など必要ではありませんし、望んでもいません。私の好きなように生きさせてください。」と、ずっとそのように生き続けているとするなら、その信仰自体が疑われます。なぜなら、神の御霊に導かれる人、喜んで自分のすべてを主のご支配に委ねようとする者は「神の子ども」だと書かれているからです。そのような生き方が生まれて来るということです。救われた者たちはそのように生きていこうとするということです。
(2)「アバ、父」と心から神を呼ぶ 15節 : 救われた者たちはこうして神を呼ぶと言うのです。「アバ」とはアラム語の「父」という意味です。そして、ギリシャ語で「父」と言ったのです。ギリシャ語を話している者たちに対して、敢えて、ギリシャ語を加えたのです。父なる神との親密さを言っているのです。神のことを「お父さん」と言っているのです。だから、救いに与った者たちには神は遠い存在ではなく、いつも傍にいてくれる「お父さん」と呼べるような親密な関係で、そのことを神が与えてくださったのです。これもその人が救われたことの証明だと言っているのです。
(3)救われて神の子どもになったことを聖霊が証ししてくれる 16節 : 救われている人は、救われていることを聖霊なる神ご自身が明らかにしてくれると書かれています。私たちが一生懸命その人にそのような確信を与える必要はないのです。神が救ってくださったなら神ご自身がその人に確信をもたらすということです。
14節と16節に「神の子ども」ということばが出て来ました。このように日本語では同じことばが繰り返されていますが、ギリシャ語では違うことばが使われています。まず、16節の「神の子ども」は「生まれた人のこと、つまり、神によって生まれた人」ということです。神との関係、神によってその人は生まれたのです。14節にある「神のこども」は「十分に成長した子どもであって、大人として家族の特権や権利を引き受ける」ということです。これは生まれたということではなく、その家族の責任を自分は十分に担いますということです。14節では、神によって救われた者だから、神の家族の一員としての責任を果たしていく。そのことは実は、今日のテキストⅡペテロ1:5以降に書かれているのです。「人間の責任」、そして、「救われた者たちの責任」が記されています。
神の子どもとされた者たちは、神の子どもとしての責任を果たしていく、それが14節の「神の子ども」ということばの意味です。ですから、彼らは御霊の支配の元に自分を置いて従っていこうとするのです。16節は、神によって生まれたということ、救われたということを御霊ご自身が証してくれると言うのです。だから、その人が救われているなら、放っておいてもその人は自分が救われたということが分かるということです。注意しなければいけないのは、もしかすると、救われていない人に偽りの保証を私たちが提供する可能性もあるということでしょう。聖書を見たときに、私たちはそのようなことをしなければならないとは書かれていません。もちろん、私たちは聖書のみことばを通して、どのようにして救いに与るのかということを明らかにします。福音を語ります。「あなたはそのことを信じましたか?」と確認をします。でも、神が救うわけですから、神が救った人はその人自身の中に神が働いてその救いの確信を与えてくれるのです。
Ⅰヨハネ4:13に「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」とあり、ガラテヤ4:6にも「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」とあります。つまり、クリスチャンは自分のうちに聖霊なる神がいてくださることが分かると言うのです。例えば、皆さんが祈りをささげるときに、神はその祈りに答えてくださって、日々いろいろなことを経験する中で「あぁ、神は私とともにいてくださる」と実感します。神は私のうちにおられるという約束がただの机上の空論ではなくて実際のこと、本当だという確信を日々の生活から与えられるのです。信仰者の皆さん、それを経験されているでしょう?あなたは自分がクリスチャンだということを、周りの人たちが自分に説得してくれたからクリスチャンだと思っているか?それとも、神があなたのうちに働いてその確信を与えてくださったのか?どちらかです。
もし、皆さんの中で自分の救いが定かでないと思っている方がおられるなら、また、そういう人が皆さんの周りにいるとしたら、私たちはこのようなことを問い掛ける必要があります。それは、どうしてそのような状態のまま過ごそうとしているのか?です。私も何回か聞いたことがありますが、そのときにいつも言うことは「もし、あなたが自分の救いがはっきりしないなら、なぜ、今はっきりさせようとしないのですか?なぜ、その状態で留まり続けようとするのですか?あなたの永遠に関わることでしょう?」です。私たちはからだのどこかが悪くて、例えば、出血しているなら病院へ行って調べてもらいます、不安だから…。自分の永遠が不安ならなぜ今それを解決しようとしないのか?なぜ、聖書にいこうとしないのか?です。聖書が私たちに真理を教え、確信を与えてくれるのです。
確かに、クリスチャンの中でも自分の救いを疑ってみたり、救いに確信が持てないというクリスチャンたちがいます。簡単にその理由を言うと、
◎救いに確信がもてないという人の問題は?
(1)聖書の教えに立っていない : 人間の考えや教え、自分の感情などに立っている人、そのように思うとか思わないとか、それは立っている土台が違うのです。聖書の土台に立たなければいけない。(2)罪の中を歩み続けている : そういう人は確信を失っていきます。罪の中を生き続けている人は自分の信仰、救いに対して疑問を抱き始めます。救いをいただいた一人ひとりは神から喜びをいただいた、でも、罪の中を歩み続けているとその喜びを失っていきます。喜びだけでなく、確信も失っていきます。ダビデは大きな罪を犯した時にそれを神の前に告白しました。そして、このように言いました。詩篇51:12「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」と。ただ喜びを戻してくださいということだけでなく、私が今までと同じように、喜んであなたに仕えていけるようにと願っています。ですから、罪の中を歩み続けていると、救い事態もその確信も失ってしまいます。だから、皆さん、神のことばに立つのです。疑問を抱いたときには、私たちは神のことばに立つのです。神が何とおっしゃっているのかを見るのです。そして、その約束に立って生きていくのです。そのことをペテロは私たちに教えてくれるわけです。
B.人の責任 : 自らの責任を果たす
テキストに戻って、ペテロは1:1-4で、神がどんなことをしてくださったのか、神の約束された祝福について教えています。5節からは、私たち救われた者たち、人間の責任について語っています。5節は「こういうわけですから」ということばで始まっています。当然、前のことに係っていることが分かります。4節でペテロは、信仰者は神のご性質に与る者になった、神のご性質にあなたはもう与ったのだと言いました。そして、その後に「こういうわけですから」と続くのです。ギリシャ語では三つのことばからできています。直訳すれば「まさしく、この、理由で」です。ですから、あなたが神のご性質に与る者になった、まさしく、その理由で…と続いていくのです。ペテロは、あなたは神のご性質に与った者だから次のように生きなさいと言って、新しい人生の歩みを教えるのです。
もちろん、その新しい人生とは、神の力に頼って生きる人生です。信仰者としての新しい人生を歩んで行きなさいと言います。皆さん、私たちが覚えなければいけないことは、救いに与るというのはゴールではありません。罪の赦しをいただき新しく生まれ変わるというのは、新しい人生のスタートです。これまでの人生を振り返って見ると、私たちは神に逆らい続けて来ました。その人生は神の前に全く価値のない人生でした。永遠の地獄にふさわしい人生を私たちは生きて来たのです。しかし、神はあわれみをもって私たちを生まれ変わらせてくださった。そして、生まれ変わった私たちは、本来の目的に沿って生きていくという新しい歩みを始めたのです。ですから、みことばの中には「このように生きていきなさい」という命令が記されているのです。このようなことを実践すればあなたは救われるのではありません。救われた者としてこのように生きていきなさいと言うのです。
1.あらゆる努力をして
5-7節に七つの美徳が記されています。これらをあなたは自分に加えていくということを記していますが、ペテロは、そのメッセージを聞いて「自分にはそれは無理です」という言い訳をだれもしないために、神の力がもうあなたに与えられているということを教えたのです。5節に「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、…」とあります。そして、その後に七つの美徳が続きます。「:5信仰には徳を、徳には知識を、:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」と。この5-7節でペテロが言わんとしたことは「あなたがたはあらゆる努力をしてこれらのものを加えなさい」ということです。加える内容について七つのことを見ました。ペテロはここで「これらのものをあなたは加えなさい」と命じているのです。
この「あらゆる努力をして」ということばも三つのことばからなっています。名詞と形容詞と動詞です。その意味は「あらゆる熱心さ真剣さを用いて、どんなときでも熱心に一生懸命にその務めを果していきなさい。怠けて時間を無駄にしてはいけない。真剣に取り組みなさい。」ということです。
2.加えなさい
「加えなさい」という動詞も命令形です。これは「自費で供給する」という意味があります。実は、ペテロは面白いことばを使っているのです。というのは、このことばはその当時の人々にとって聞き慣れないことばではなかったのです。次の通りです。「この『エピコレーゲイン』は名詞のコレーゴスから来ている。コレーゴスとは文字通りにはコーラスの指揮者という意味である。恐らく、ギリシャが、ことにアテネ人が人類に残した最大の贈り物は、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスのような偉大な劇作家の作品や文学、芸術作品であろう。これらの劇には大掛かりなコーラスを必要とした。従って、そのような演劇の上演には大金が必要であった。アテネの隆盛時には大変公共心のある市民がいて、自分たちの費用でそのようなコーラスを募集し、支え、訓練し、備える責任を自ら進んで引き受けた。自分の町に対する愛情からこの責任を自らの意志で自腹を切って引き受ける人々が「コレーゴイ」と呼ばれていたのである。動詞のコレーゲインはそのような責任を引き受けることである。従って、このことばには浪費の意味が含まれている。それはけちけちしたしみったれたやり方で準備することは意味しない。高尚なことに、必要なものすべてを惜しみなく喜んで注ぎ込むことを意味している。エピコレーゲインということばは、より広い世界に出て行って、コーラスを準備することのみならず、あらゆる装備に対して責任をもつという意味にまでなったのである。それはあらゆる必要な食糧や軍需品で軍隊の装備をすることも意味する。人生にとって不可欠な美しい徳でたましいを装備することも意味し得る。しかし、常に、その背後には装備のために心からの惜しみない気前の良さを発揮するという意味がある。」(バークレー) 少し説明すると、コレーゲスとは文字通りにコーラスの指揮者という意味があります。この当時、様々な演劇が上演されるのですが、そこには必ずコーラスが必要だったのです。でも、そのために非常な大金を要したわけです。その当時、このアテネやギリシャにおいては、自分の町に対する愛情からこの責任を自らの意志で自腹を切って引き受ける人たちがいたのです。その人たちのことをコレーゴイと呼んでいたのです。動詞のコレーゲインはそのような責任を引き受けること、コーラスが必要でそれにいろんな経費がかかる、それを喜んで引き受けましょうという人、この人たちのことをコレーゴイと呼び、そこから動詞のコレーゲインがあって、そのような責任を引き受けるという意味をもったことばが出て来ているのです。「あらゆる装備に対して責任を持つ」という意味です。
そこで、ペテロは「熱心に、真剣+あらゆる+用いて+加えなさい」と述べ、この5ー7節の中に日本語では「あらゆる努力をして…加えなさい」と書かれているのです。これは「ありとあらゆる努力を払うように」ということをイディオム的に述べているのです。ですから、ここでペテロが言わんとしたことは、あなたの救いのためにこれらのことを加えなさいということではなく、救われた者としてあなたはこれらのことを熱心にあなたの生活に加えていきなさいということです。喜んで、そのコーラス隊のために経費を払おうとするように、喜んでこのことのためにすべてを費やしていきなさいと、そういうことばがここで使われているのです。
ペテロは「救いに与ったあなたは、救われた者として神のみこころがここに記されているのだから、このようなことをしっかり実践していきなさい。このことをあなた自身の生き方の中に加えていきなさい。」と、そのことを教えたのです。皆さんに誤解していただきたくないのですが、救いに与るためには何か特別な働きが必要ですか?特別なことをしたから救いに与るのではありません。一方的な神の恵みによって救いに与ったのです。でも、救いに与った私たちに神は「このように生きていきなさい」ということを教えます。そして、このようにあなたが歩んでいくなら、あなたは益々変えられて成長しキリストに似た者へと変えられ、そして、栄光を現していくのです。様々な間違った教えに惑わされない者へと変えられていくということです。
実は、パウロも同じことを言います。ピリピ3:12をご覧ください。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」、パウロは罪からの赦しのことを言っているのではありません。罪からの赦しはもう完全に解決済みです。イエスを信じる信仰によって、その罪の赦しは完全に永遠に解決したのです。「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と、では、何を言っているのでしょう?クリスチャンとしての生き方です。クリスチャン生活のこと、「聖化」と言います。救いに与った者がどのように生きていくのか?ということです。パウロはもっと前に進んでいきたいと言うのです。他のクリスチャンたちに対してもパウロは「…恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2:12)と言っています。お分かりのように、これは一生懸命努力をして罪からの救いをいただきなさいということではありません。救われた者として信仰者として主に喜ばれる歩みを継続していきなさいと、聖化のことを言っているのです。
ですから、パウロもそうです。救われた者たちは救われた者としてそれにふさわしく生きていきなさいと、ペテロもそのように教えているのです。あなたは神の恵みによって救われた者として、それにふさわしく生きていきなさいと。そして、あなたがそのように生きていくなら、あなたは変えられていくと言います。
皆さん、どうも私たちは神のことばを聞いていながらその実践まではなかなかいきません。ですから、私たちはこれだけみことばに時間を費やして学んで来ています。なぜなら、この中でペテロが私たちに教えてくれるのは、信仰者の皆さん、神はこんなにすばらしい約束をくださった。それは永遠の天国だけのことではなく、地上にいても私たちはすばらしい約束をもって生きていくことができるということです。私たちクリスチャンたちに約束された祝福をもって本当に幸せな者としてこの地上を生きていくことができると。みことばが問い掛けているのは「あなたはそのように生きていますか?」です。そのことを私たちは何回も見て来ました。私たちはそれに答えなければいけないのです。なぜなら、私たちが神の前に立った時に問われるのは実はそのことだからです。私たちが喜びをもって主が約束してくださった幸せを本当に楽しみながら生きているなら、私たちは確実に主に喜んでいただいているし、主の前に立った時に主によって誉められるし、そして、地上にいて神がこんなにすばらしいお方だと人々の前で証し続けているのです。まさに、価値のある生き方を歩んでいることになります。そのような歩みをしているのか?していないのか?です。みことばが繰り返し私たちにチャレンジすることは、あなたの人生はどうですか?あなたはそのように生きていますか?わたしが教えているようにあなたは歩んでいますか?です。
残念ながら、何度聞いても私たちはただ聞くだけで終わってしまっています。この時間が終わればもうその次の瞬間から他のことに夢中になってしまいます。みことばを通して神が教えてくださっているみこころをすぐに忘れてしまっています。だから、私たちの生活が変わって来ないのです。だから、皆さん、あなたにもう一度チャレンジしているのです。私たちがこの地上にいる目的は、私たちのことを人々の前に明らかにするためではありません。自分がどんなにすばらしい人間なのか、どんなことをして来たのかと、そんなことを人々の前で見せびらかして自慢するためではありません。そんな人生はもう終わったのです。新しく生まれ変わった私たちは、私たちの神がどんなにすばらしい偉大なお方であるかを知らしめるために明らかにするために生きているのでしょう。でも、そのためには私たちは変わっていかなければなりません。そのためには私たちは主が約束されたように変えられていかなければいけません。その神の約束を止めているのは私たちの愚かさであり罪です。
だから、私たちは主の前に自らの罪を悔い改めて、主のみことばに従う者としての歩みを始めていくことが必要なのです。私たちは自分たちの家族が変わって欲しいと願います。友人たちが変わって欲しいと願います。自分たちの学校や社会、教会、この国…、そのリバイバルはあなたから始まらないといけないのです。私たちは人を変えるために一生懸命時間や労力を費やそうとしていますが、主が言われることは「わたしはあなたを変える」です。だから、私たちに必要なことは「神さま、あなたがおっしゃったことはよく分かりました。あなたは私を変えようとしてくださった。こんな私を救ってくださったのは私を変え続け私を通してあなたの栄光を現すためです。そのために私を使ってください。」と、その決心をするまで、神の働きをあなたを通して見ることはできないし、そのことを始めるまではあなたは神の前に無駄な人生を送り続けることになります。
警告はしました。あなたがどんな選択をするかはあなたが決めないといけません。でも、みことばはちゃんと教えてくれているように、そして、私たちが何回も見て来ているように、私たちの信仰というのは、神の約束に立ちます。神の言われたことを信じるのです。その時に、神の為されるみわざを私たちは期待できるのです。そして、そのように生きていく時に私たちは変わるし、私たちを通して、こんな罪深い愚かな私たちを通して神の栄光が現されていくのです。私たちはそのようにして生きるのです。そのように生きておられるかどうか?ご自分に問い掛けてください。神はまだやり直すチャンスをくださっています。この日をくださった。でも、それを聞きながら、それを否定し続けるなら、その報いも私たちは受けることになります。
信仰者の皆さん、私たちの神のすばらしさをしっかり証していきましょう。すごい神でしょう!私たちを赦してくださり、生まれ変わられてくださり、そして、天国を保証してくださり、そして、地上にいて神の祝福をもって生きることができる、こんな神がいることを世に知らしめていくことです。その
ためには、このみことばが教えていることを実践しなければ何も起こって来ない。今日があなたにとってのまた新しいスタートであることを心から願います。
《考えましょう》
1.神はどのような信仰者になることをあなたに求めておられるのかを記してください。
2.そのような信仰者になるためにはどうすれば良いのかを記してください。
3.どうして七つの美徳を積むことが信仰者には大切なのでしょう?
4.学んだことを分かち合って実践に励んでください。
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