メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:4
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
どうぞⅡペテロ1:4をお開き下さい。
教会に入り込んで来たにせ教師たちの教えに惑わされないためには、それぞれが信仰において成長しなさいというのがペテロのメッセージでした。霊的成長、信仰において成長する、信仰において大人となって行くことは、信仰者ひとりひとりにとって可能だということをペテロは教えます。その歩みをなして行くために神様はあなたに神の力を備えてくださり、それが与えられていることを前回我々は見ました。あなた自身の中には罪に勝利する力はありません。どんなに頑張っても、どんなに努力をしても我々の力で罪に勝利する生活を継続すること、維持することは不可能です。我々は自分の死に対して勝利する力を持っていません。また主に喜ばれる歩みを継続して行く力もないし、主のみことばに従い続けていく力も我々のうちにはありません。もっと言えば我々の生かされている目的である主の栄光を現し続けることも私たちの力で実現することはできない。我々には主の御力、主の助けが必要なのです。
そこで、パウロやペテロ、また信仰の偉人たちは我々には神の助けが、神の力が必要なのだと教えてくれるわけです。パウロはローマ6:4で「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」。つまり、かつての神に逆らって来た私はキリストとともに死んだと言うのです。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」、つまりパウロは、クリスチャンとはどういう人たちを指しているのか、救われた人々がどういう人々なのかを説明してくれるのです。クリスチャンというのは神に逆らって来た自分はキリストとともに死んだ者であり、そしてイエス様がよみがえられたように私たちも死からよみがえり、新しい歩みをする者となったということです。そういう者として生まれ変わった以上、私たちは新しい歩みを実践することができるのです。
A.「神の約束」
前回ペテロは、そのために神は新しい力を私たちに備えてくださった、与えてくださったことを3節で教えてくれました。きょうは我々の霊的成長のために主が備えてくださった二つ目のこと、神の約束についてこの4節から見て行きます。
まず「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。」と記されています。新改訳聖書は「その栄光と徳によって」と訳してくれています。これを原語では「によって」という前置詞とその後に関係代名詞がついています。ですから直訳すれば、「これらによって」というのがこの4節の始まりです。ところが新改訳聖書を訳された先生方はこの「これらのこと」という関係代名詞が3節の中に出てきた「ご自身の栄光と徳によって」を指しているから、4節で「その栄光と徳によって」と説明されたのです。ですからこの3節と4節は関連しているということを我々はこういうことを通しても知ることができます。少し復習すると、この「ご自身の栄光と徳によって」というのは、主イエス・キリストご自身のご性質、また本質を明らかにしていました。「栄光」というのは主イエス・キリストが栄光に満ちあふれた方、神だということです。また「徳」というのは道徳においても完全である、すべてにおいてきよい正しいお方であるとペテロはここで説明しました。
さて皆さんに覚えていただきたいのは、そのようなお方によって我々クリスチャンは救われ、そして同時にそのようなお方へと私たちが変えられて行くということです。この「栄光」と「徳」に象徴されるような完全な神、すべてにおいてきよい主によって救われた私たちはその主に似た者へと変えられて行くということです。それがクリスチャン生活です。
この4節を見ると、「その栄光と徳によって、」、この神様によって救われた私たちには「尊い、すばらしい約束が」与えられたと。このすばらしい神様によって救われた私たちに、神はすばらしい約束を与えてくれたと言っています。この「与えられ」たという動詞は完了形です。つまりもう既に与えられていて、その結果が今も継続しているということです。その約束は永遠に続くわけです。
1.「神の約束」の特徴
では我々クリスチャンは神によってどんな約束をいただいたのか――。ペテロは二つの形容詞を用いてこの神様の約束を説明してくれています。4節に「尊い」、「すばらしい」と書かれています。これが神がクリスチャンであるあなたに与えてくださった約束の特徴を表しています。
1)「尊い」
この「尊い」ということばは大変な価値があるという意味です。なぜかというと、この約束には霊的な宝が含まれているからです。大変な価値があると教えています。
2)「すばらしい」
「すばらしい」というのはこの上もないという意味です。このことばの文字どおりの意味は最も偉大、グレートではなく最上級のグレーティストなのです。
ペテロは、神様が我々クリスチャンに与えてくださった約束というのは最高のものだと言っているのです。最高にすばらしいものを神は約束してくださったと。ですからペテロは、その約束のすばらしさを何とか読者たちに伝えようとしてこういう表現を使うわけです。「尊い」、また「すばらしい」約束、この上もない、これ以上の約束はない、最高の約束です。なぜその約束がこんなにすばらしいのかというと、この約束を与えたお方がこのようなお方だからです。私たちの神は最高のお方です。この方に勝る方はどこにも存在していない。そのような偉大な神から与えられたものだから、その約束は「尊い」、「すばらしい」ものであると、ペテロはまず言うわけです。
また同時に、この約束は信じるひとりひとりを尊くすばらしい人生へと導いて行くものだと言います。信仰者であるあなたを尊くすばらしい人生へと導いて行く、それがこの神が下さった約束だということをペテロは言っているわけです。信仰者の皆さん、まず覚えておいてください。救いにあずかったということは、この地上の神を知らない人たちがどんなに願っても、どんなに欲しても、絶対に生きることのできないすばらしい人生を生きる者へと私たちは変えられたということです。それをこの後見て行きます。
2.「神の約束」とは
1)「救い」 Ⅱペテロ3:13
すばらしい約束が私たちに与えられた、では我々が関心を持つのは、この約束とは一体どういうものなのかということです。これは間違いなく救いの話です。なぜそう言うかというと、この「約束」という名詞は新約聖書の中に2回しか出てきていません。この4節とⅡペテロ3:13です。そこには「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」と書かれています。つまりここが教えていることは、最終的に我々クリスチャンはこの罪のからだから解放されて、そして完全な救いを経験するのだということです。我々は主イエス・キリストを信じる信仰によって罪から完全に救われました。でも残念ながら私たちはこの罪のからだを持っているのであって、この罪のからだは永遠の天国にはふさわしくないものです。我々はこのからだが新しくされなければいけない。それがイエス様にお会いした時に起こるのです。そして救いが完成するのです。イエス様のなされた救いのみわざが不完全だと言っているわけではありません。罪赦された者が神とともに歩み続け、そして最終的に栄光のからだをいただく、そのすべてを救いと呼んでいるのです。最終的に私たちが栄光のからだをいただくことを栄化と言います。ですから、このⅡペテロ3:13で教えられていることは将来のことであり、そして私たちは天国に入って行くということです。その時に救いが完成すると。ということからしてもこの約束は、まず我々に救いについて教えてくれていると。
よく考えてみると、旧約聖書の中で神が何を教えていたかというと、救世主が来るという約束でした。創世記の最初から神が約束されたのは、罪を犯した人間に、神に逆らう選択をした人間に救世主を与えるということでした。イエス・キリストの誕生とイエス・キリストの十字架は、その救世主がまさに来られたこと、神の約束が成就したことを証明しました。そのことを通して神様というお方は真実なお方、神というお方は約束されたら必ずその約束を守られるお方であると。約束されていた救世主が約束どおり来てくださり、約束されていたように私たちに一番必要な、完全な罪の赦しを成し遂げてくださった。そしてその救いにあずかった者たちは確実に天国にあって、その時私たちはこの罪のからだから解放されて、栄光のからだをいただきながら、その永遠の生活へと移って行くと。このすべての約束を通して我々は神というお方は約束されたことを必ず守られる真実なお方だということを学ぶのです。でなければ神様は確かにそう言われているけれども、果たして信頼できるでしょうかと、我々はこの聖書のみことばを信用することができません。私たちの信仰というのは、神が言われたことは必ずそうなると信じるのです。あなたはそうやってこの救いにあずかったはずです。ですからまずこの約束というのは救いのことです。
2.「祝福」 エペソ1:18-19
同時に祝福のことです。なぜかというと、このすばらしい約束を神様が私たちに下さったのは、我々が尊くすばらしい人生を過ごしていくためだと言いました。皆さんにぜひ考えていただきたいのは、確かに私たちにはすばらしい永遠の約束が神によって与えられています。でも今はどうなのでしょう?聖書が私たちに教えるのは、今この地上にあって救いにあずかった私たちは世の中の人たちが絶対に絶対に味わうことのできない祝福を持って生きることができるということです。それが神が約束してくださった救いです。
間違いなくあなたは神の前に「神様、私を救ってくださってありがとうございます」と、ご自分の救いを感謝しておられるはずです。では皆さんに質問しますが、あなたは救いの何を感謝してますか?今も触れましたが、救われた皆さんは救いにあずかって罪を永遠に赦していただいたことを感謝していますよね?先ほども見たように、罪赦された者に天国は約束されたわけです。罪を赦してくださって、天国を与えてくださって神様ありがとうございますと天国を約束されたことを感謝されていますよね?では、新しい人生を過ごせるようになったこと、主の栄光を現すことができるようになったことを感謝されていますか?我々クリスチャンは、罪赦されたことや天国に住まいを設けてくださったことを感謝します。救われていたら、ここはみんなイエスなのです。でもあなたは新しく生まれ変わって、新しい人生を生きることができる者となったことを感謝されていますか?神の栄光を現す者として我々は造り変えられたのです。そのような人に生まれ変わったことを感謝していますか?救いというのはただ天国の切符をもらっただけではない。救いというのは神のみわざだと何度も学んできました。神様はあなたを新しく造り変えてくださった。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは」ない(ヨハネ3:3)、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)、神は我々を新しく造り変えてくださるのです。それが救いです。そうすると、私たちは神のみこころに従って行く者として新しく造り変えられたのです。そのように生まれ変わったことを感謝していますか?多くのクリスチャンたちは自分が新しく生まれ変わり、神の栄光を現す者となったということ、そのような者に生まれ変わったことを感謝しているかというと、そうでない人たちもたくさんおられる。先の二つに関しては感謝するのです。でも神様は私を新しく造り変えてくださって、あなたの栄光を現す人に私を造り変えてくださってそのように生きることができることを感謝します、あなたに喜ばれる人生を生きることができること、そんな人に私を造り変えてくださったことを感謝します。そのことに感謝しておられる人はどれぐらいおられるでしょう?
なぜそのことに感謝できないのか――。その理由は、あなたが神の約束を知らないからです。確かに罪が赦されたことや天国に行けることは知っています。でもそれに限定されてしまっている。もっとすばらしい祝福があるのです。我々が救われたということは、生まれ変わったということはただそれだけではない。罪赦されて天国が約束されている。でもそれと同じようにすばらしい約束を神様は私たちに与えてくださっているのです。だから我々は神の約束を正しく知ることが必要なのです。パウロはそのことをエペソのクリスチャンたちに望んでいました。エペソ1:18-19に「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」とあります。お気づきになりました?「知ることができますように」と、パウロはそのことを祈っていたのです。エペソのクリスチャンたちが、信じることによって神からいただいた祝福がどんなにすばらしいものかを正確に知ることができるようにと彼は願っているのです。
主イエス・キリストを信じて罪の赦しをいただいた、救いにあずかったと。でもそれで信仰生活が終わったわけではありません。信仰生活が始まったのです。そして私たちのうちに内住を始めた聖霊なる神様は主イエス・キリストにお会いするその時まで私たちを変え続けてくださる、それが信仰生活です。聖霊は私たちのうちに日々働いて私たちを主イエス・キリストに似た者に変えようとしています。ですからⅡコリント3:18「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」と。イエス様を信じたならばその瞬間に、もっと言えば神があなたを救ってくださった瞬間にこの働きはあなたのうちに始まるのです。あなたのうちに内住しておられる聖霊は、そこをご自分の住家としてあなたのうちに住んでくださっているけれども、その聖霊なる神様はあなたを変え続けて行こう、主ご自身に似た者へ変えていこうとするのです。罪との葛藤を経験しながら、罪に対する敗北を経験しながら、それでも我々はそれを告白しながら主に従って行こうとする。それが信仰生活です。パウロはその大切な真理を教えた後、エペソ1章で、あなたに与えられた祝福がどんなにすばらしいものか、それをあなたが正しく知れるように、つまりあなたの心の目がはっきり見えて、こんな祝福を神様が下さったことにあなたが気づくようにと、そのことを教えた後、あなたは生まれ変わったのだから、祝福をいただいたのだから、忠実な信仰生活を歩むことができるのだと19節で教えるのです。しかもこのメッセージを聞いただれしもが私にはできませんというエクスキューズができないようにパウロはこの19節ですごい真理を教えてくれるのです。
もう一度19節を見てください。「また、」ということばで始まった後、「神の全能の」ということばが出ています。「全能」が一つ目の名詞です。次は「力」という名詞が出ています。三つ目は「働き」という名詞です。そして最後はその後に「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」、この「すぐれた力」です。この四つのギリシャ語はすべて「力」と訳すことができることばです。でもパウロはあえて異なる四つのギリシャ語を使っています。最初の「全能」というのは最高の力ということです。もちろん「全能」というのはどんなことでもできるから「全能」です。「力」というのはその人が神様から与えられた「力」であり、「働き」というのはただ力が与えられただけではなくて、その力で実際に働くという話です。そして「すぐれた力」というのは能力や可能な力、このことばからダイナマイトということばが出ています。多くのクリスチャンたちが神の恵みや祝福について聞いてもなかなかそれを信じることができなかった。なぜかというと、みことばの約束を見た時に、これはちょっと自分には難し過ぎるとか、今の私にはちょっとできませんとか、そういったエクスキューズを人間は常にするからです。そこでパウロは、神がなさることは、あなたは神の前に何一つとしてエクスキューズができないということを教えるためにあえて四つのギリシャ語を使って大切なメッセージをあなたに与えてくれています。つまり彼が言いたいことは、この「力」というのは、あなたの弱さや愚かさをだれよりも知っている神が神の命じていること、神のみこころに従って行けるようにと神があなたに与えてくれた。それをあなたに悟らせるために、このような書き方であなたに確信を与えようとするのです。
もしあなたが神によって与えられている祝福や力や宝を知らないで歩んでいるなら、確実にあなたの信仰は弱まって行きます。あなたの信仰生活は力のないものになります。それはパウロがそういったことにならないように、クリスチャンたちが神の力を確信して信仰生活を実際に生きて行くようにと願ってこのメッセージを記しているわけです。つまり、パウロはすべての信仰者たちが例外なく神が約束されたことは必ず実現するという強い揺るがない確信を持って生きることを強く、強く願っていたのです。あなたが神の言われたことはそうなるのだという確信を持って生きるように、そのような信仰者として生きることを神は願って、このようなメッセージをパウロを通して与えたわけです。だから私たちはみことばを通して神があなたに与えてくださった祝福を正しく理解すること、知ることが必要なのです。何を神は私に約束してくださったのか、聖書のみことばの中には神様の約束があふれています。あなたがみことばを正しく学び、そしてそこに記されている神の約束を知るたびに自分にこう言い聞かせることです、これは神から私に与えれた約束であると。そのことを疑わずに信じることです。あなたがご自分に問いかけなければいけないのは、あなたはそういう信仰者として歩んでいるかどうかです。パウロが「あなたがたが知ることができますように」、知ってくださいということばを繰り返していたのは、エペソのクリスチャンたちがただたくさんの知識を蓄えていることだけに満足したのではないのです。彼らが実際に神様の下さった祝福がこんなにすばらしいのだと、私の神はこのように偉大なのだということを明らかにする存在としてひとりひとりが生きて行くために、このメッセージを与えているのです。
マリヤがどうして神様によって祝されたのか、皆さんよくご存じですよね。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)、幸いな人とはこういう人だと言うのです。神が祝される人、神が喜ばれる人はこういう人だ、どういう人かというと、神が言われたことは必ずそうなると信じ切った人。我々が過去を振り返った時に、もちろん聖書の中に出て来ない勇者たちは山ほどおられます。神が彼らを用いて神の栄光を現されたのは、彼らはまさにこんなふうに生きたからです。みんな自分たちのうちには、みことばに従っていく、みこころに従って行く力がないことを知っていました。彼らは力は神のうちにあることを知っていました。それで彼らは神様が言われたことは神の力によって実現できると信じてその方に信頼を置いたのです。その時に神はそういった信仰者を通して神様ご自身の御力を示されたのです。私たちは全能なる神様の御栄えが現されるために用いられる神の道具に過ぎないのです。でも神に用いていただくために私たちに必要なことは神の言われていることを知ることです。また神が言っておられるように生きることです。主よ、どうぞ私を通してあなたの偉大さを示してくださいと。私の弱さ、愚かさをあなたに説明する必要はないでしょう。あなたは私よりも私のことを知っている。それでいてあなたは私を用いようとしてくださっている。主よ、どうぞ私を使ってくださいと。神が約束されたことは絶対に絶対に実現すると。こういう信仰者を神がお使いになった。こういう信仰者を今も神はお使いになるのです。そしてこういう信仰者が今我々には必要なのです。この教会においても、この国においても。問題はあなたがそういう信仰者になりたいと願っておられるかどうかです。
B.「神の約束が保証したこと」
きょうのテキストに戻ると、その後接続詞「それは、」ということばが続いています。これは結果を表すことばです。その約束のゆえに、これらの約束によって、これらのすばらしい約束によって、実はこういった結果があなたには伴うのだという話をするわけです。
1.神のご性質にあずかる ローマ8:9、ガラテヤ2:20
なぜ神様がすばらしい約束を与えてくださったのか――。それはそれを通してあなたが「神のご性質にあずかる者となるため」であると書いてあります。この「あずかる」ということばは仲間とか共有するという意味です。つまり私たちクリスチャンというのは救いにあずかった時に神ご自身のご性質を共有する
ようになったということです。あなたは救いにあずかった時に、神ご自身のご性質のすべてではなく、一部を共有するようになったのです。なぜかというと、あなたのうちに神がおられるからです。「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、」とローマ8:9は教えます。またガラテヤ2:20では「キリストが私のうちに生きて」いるのだと。ちょうど子どもが親の性質の幾つかを共有しているように、信仰者も我々を生んでくださった父なる神のご性質を共有するのです。これは私たちが神になるとか、また人間でなくなるとか、そんな話をしているのではありません。そのような人へと造り変えられたということです。
しかもこの「なるためです」という動詞は、継続した成長というものを私たちに教えてくれます。「なるためです」というと一回きりのように思いますが、実はこれは不定過去の特殊な使い方なのですが、この動詞はその行動を初めから終わりまで総括的に見ているのです。何を言っているかというと、そういうふうになってその状態は継続するということです。ここでペテロが私たちに教えようとしたことは、このご性質にあずかった者たちは継続してご性質にあずかり続ける者たちであると。主イエス・キリストを信じた者たち、神によって救われた者たちは失敗をしながらでも主に従い続けて行こうとしています。クリスチャンである皆さんは信仰生活を振り返ってみた時に、いろいろなことを通って来たけれども、それでも信仰を捨てなかった、それでもあなたは主を愛して主に従おうとした。あなたが神のご性質にあずかったら、ご性質にあずかった者として継続して生き続けるのです。つまり本当に神によって救われた人はその救いを捨てることがないのです。でもある人たちは信じたと言いながら途中で信仰を捨ててしまって、この世的な生活を継続して問題もなく、罪悪感もなく、悔い改めることもなく歩み続けている。果たしてその信仰が本物かというと、聖書を見るならばその信仰は本物でないようにみことばから学ぶことができるわけです。
だからここでペテロが言っていることは、このすばらしい神様の約束をいただいた者たちにはまず神様のご性質を与えてくださると。そしてその性質というものはなくなることがないのです。しかもその性質をいただいた者はその性質にあって成長して行く。ですから先ほども言ったように、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。変えられていくというのは主と同じ姿、イエス様に似た者に変えられていく。イエス様とご性質を共有した者はどんどんその方に似た者へと変えられていくという話です。地上の親子でもそういうことがあるではないですか。霊的な親子においてもそうなのです。生まれ変わった私たちは神のご性質をいただき、そしてその性質において成長して行くのです。救いにあずかった者たちは、神様が持っておられる性質を共有する者として新しい生活をして行く。
ザアカイの話を思い出してください。ザアカイはイエス様にルカ19:8で「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。でも、イエス様はその行為によってこの人が救われたと言ったのではありません。その行為は彼が心において救われていることの証拠だったのです。なぜなら行いによって救われるのだったら聖書が教える教えに反します。行いによっては救われないとエペソ2章で教えています。でも神がその人を救ってくださったら、その人は新しく造られた者として、神のご性質を共有する者として神が喜ばれることを行っていこうとするのです。ですから、このザアカイの行いは彼が救いにあずかっていたことを証明したのです。ですからイエス様は「きょう、救いがこの家に来」た、彼が本当に救いにあずかっていると言われたのです。だから皆さんもイエス様の救いにあずかったならば、主が喜ばれることを行っていこうとするし、さっきから見ているようにそれを継続してやっていこうとするのです。
4節には非常におもしろいことが出てきます。初めのところに「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が」だれに与えられると書いてあるかというと、「私たちに」とあります。その後、「あなたがたが、」と主語が変わっています。この「私たちに与えられました」というのは、この祝福はペテロ自身も含めてすべての信じる者に与えられたのです。その結果、今度は主語が「あなたがた」と変わっている。この約束が救いをいただいたすべての者に確実に例外なく与えられていることを明示しています。我々はこの救いにあずかった。でもあなたたちひとりひとりにもこのすばらしい約束を神がお与えになったのだと。こうして見た時に、クリスチャンであるならばだれひとりとして私にはこんなすばらしい祝福が与えられていませんと言える人はいないのです。我々はたくさんの祝福をいただいた。そしてあなたがたにこの祝福が与えられていると。こうしてペテロはこの読者たちに、例外なくひとりひとりのクリスチャンたちにこの祝福が与えられているのだということを教えます。きょう見てきたように、神様のご性質にあずかる者にされ、神の栄光を現すことが可能になったのです。この世にあって私たちクリスチャンは神の偉大さをことばだけでなく、生き方をもって現すことが可能になったのです。なぜなら神があなたのうちに働いてくださっているからです。ですから救いにあずかった者たちが、信仰によって成長することは可能なのです。
2.滅びからの解放
1)「世の欲に対する神の約束」
4節には、神のご性質にあずかる者になったということだけではなくて、もう一つ「あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、」と書いてあります。
(1)「世」
この「世」ということばは神に反するもの、神に逆らうものです。イエス様がヨハネ7:7で「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。」と言われています。だからヨハネはⅠヨハネ2:15で「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」と、この世を愛する者は神を愛することにならないのだと教えています。
この4節は「世」と言っただけではなくて、「世にある欲」と書いてあります。「欲」ということばは新約聖書の中で38回出てきます。その中の3回はよい意味として使われています。強い願望とか渇望の意味です。残った35回は悪い意味で用いられています。神のみこころに反する自分中心の願いや渇望を表すことばです。ここでペテロは「世にある欲のもたらす」と、この「世」がどんな状態にあるのかということを明らかにしています。みんな自分の「欲」のままに生きていると。神に逆らう「世」であるのは、神に逆らう人々がこの「世」を支配しているからだと。心が罪によって汚れた人間が支配し、その「欲」の欲するままに歩んでいるこの社会、この「世」が神に喜ばれるはずがありません。ペテロはここでこの「世」に「欲」を加えることで、この「世」の本性というものを明らかにします。どれほど汚れているのか、なぜこの「世」が滅びるのか、神に逆らっているからだということを明らかにします。
(2)「滅び」
そしてこの「滅び」ということばが出てきます。神はこのような警告を与えておられる。我々は罪から来る報酬は死である(ローマ6:23)ことを知っています。必ずさばきがあると。この天地は滅びます。しかし、私のことばは決して滅びることはないと。マタイ24:35、並行箇所はマルコ13:31です。必ず神様の審判が下ると。神に背を向けて逆らっているこの社会、この「世」は必ず滅ぼされるし、神に逆らい続けている者たちは同じように滅びるのだと。
2)「救われた者への神の約束」
(1)永遠のさばきから免れた
ですから、この約束を与えられた人たちというのはそのような滅びから免れた人たちであると。罪のもたらす結果から、しかもこの時制は不定過去でもう既に起こった出来事として書かれています。イエス様を信じた時、救いにあずかった時、もうあなたはその時点であなたの罪のもたらすさばきから完全に救われていると。
(2)この世の邪悪さから免れる
この「免れ」るということばは、今見たように永遠のさばきから救われると同時に、この地上にあって「世」の邪悪さからも「免れ」ると。神のくださったこの約束は、あなたがあなたに一番ふさわしい永遠のさばきからあなたを救ってくださるだけではない。この地上にあっても、クリスチャンとしてあなたが生きて行くにあってさまざまな誘惑からもあなたを守ってくださると。そのために神のことばがいつもあなたを支配していることが必要です。Ⅱテモテ3:16-17で「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」と言います。ですから聖書が与えられているのは、信仰者であるあなたや私がこのみことばを通して成長していくためだと。だから私たちがそういう悪から守られていくためには、しっかりとみことばを蓄えていくことです。みことばに立つことです。しかし、パウロが言うように、罪に関心を払い、その誘惑に少しでも心を許してしまうならば、みこころに逆らう結果を招いてしまします。ですからパウロはローマ13:14で「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」と。もし悪い考えが心の中にとどまっているなら必ずそこから正しくない行動が生まれて来ると。だからパウロは心をきよく保ち続けて行きなさい、罪に機会を与えてはならないのだと言うのです。確かに大変な罪の中に我々は生きているのです。でもパウロが教えてくれたように、またペテロが我々に教えるように、神はそれに対する勝利も与えてくださる。
◎ ヨセフの例
あのヨセフという旧約聖書の人物を見る時に、我々は罪に対する大切な勝利の一つの方法を見ることができます。
① 誘惑から離れる、近づかない 10節
パロに仕える者で侍従長のポティファルという人物の妻が彼に言い寄ってきました。その時にヨセフは、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(創世記39:9)と言って罪から離れようとしている。実際にどのようにして罪に勝利したかというと、おもしろいのは、
創世記39:10に彼女は毎日ヨセフに言い寄るわけですが、「彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。」、つまりその誘惑から遠ざかったのです。
② 誘惑から逃げる 11、12節
そして12節に彼女が言い寄って来た時に「ヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」とあります。誘惑に近づかないだけではない、誘惑から逃げ去ったのです。そうやって我々は罪に対して自分を守って行くことができます。
≪結論≫
きょうのまとめですが、我々信仰者にとって与えられた約束がどんなにすばらしいものであるかを知ることが大切です。私たちは神様の約束を知っていると言う。そしてその約束に沿って生きていると言う。今から言うことを少し聞いてください。神は永遠の救いの約束を下さった。しかし多くのクリスチャンと呼ばれる人たちが自分の救いに関して確信を持っていません。自分が救われているかどうかわからないと言う人がいる。聖書は永遠の救いを約束してくださったと言っているにもかかわらず、ここにその約束を疑っている人がいる。神は神の喜びや平安を与えると約束してくださった。我々クリスチャンにはその約束が与えられています。それでいて、多くのクリスチャンと言われる人たちが日々の生活で不安を抱えているのです。悲しいことは未信者よりも恐れや不安を抱いている人が多いということです。矛盾に気づきません?神はあなたに主イエス・キリストの喜びや平安を与えると言われたのです。それでいて私たちの日々の生活はというと、それを楽しんでいない。神は最善をなすと約束された。でも我々は神の最善よりも自分の最善を選択していませんか?神はあなたを導いて行くと言われた。でも自分の考えで、自分のタイミングですべてのことをしようと思っていません?神はあなたに力を与えると約束してくださった。しかしそれでいて自分自身の力ですべてのことをしようとするし、そしてその時に自分の力のなさに失望して、自己憐憫に陥っている人々がいる。神は知恵を与えると約束された。しかし、自分の考えや自分の経験を優先している人がいる。神はすべてのことにおいて本当の満足を与えると言ってくださっている。どんな状況でも満足を持って生きることができると約束してくださった。しかし、それでいてクリスチャンと呼ばれる人たちが不満を抱え、不満を口にしながら過ごしている。神は助けを約束してくださった。しかし、大丈夫です、自分でできるからとみずからの意思でその助けを断っている人たちがいる。神はすべての必要を満たすと約束された。しかしそれでいて神様の約束に信頼を置いてみわざを期待することなく、現実によってのみ判断をしてしまう人がいる。
今ざっと見ただけでも、神が約束されていながら私たちはその約束を日々の生活で楽しんでいないのです。今見た約束はあなたに与えられたものです。あなたはイエス様が持っていた喜びを持って生きることができるのです。平安を持って生きることができるのです。しかし、悲しいことに多くのクリスチャンたちはそのような約束が与えられていることもどこかで忘れてしまっている。約束は約束、そして実生活は実生活というようにしていませんか?私たちが知らなければならないのは、我々がこの地上にあって、信仰において成長するために神が約束を下さったのです。でも我々は学んでいながら、知っていながら、聞いていながら、その約束を信頼していない。どうやって信仰が成長します?どうやってこの祝福をいただいた者としてそれを感謝しながら新しく生きられる、そんな人生を神が与えてくださったそのことを感謝しますと。神の栄光を現す者として私は生まれ変わった、そのように生きられることを感謝しますと、なぜ多くのクリスチャンたちはそのように感謝して生きて行かないのか――。少し問題が見えて来ませんか?
多くのクリスチャンたちがみことばを聞くだけになってしまっている。我々に必要なのは神が約束されたことを信じる信仰なのです。神が言われたことをそのとおり受け入れて、それに従う信仰なのです。確かにイエス様を信じるという信仰は持ちました。私は天国に行くのだという約束も信じています。でもそれだけではなかった。我々がこの地上にいて、私たちに祝福を下さった神がどんなにすばらしいのかを明らかにするために、この祝福を楽しんで、この祝福によって生きることを神は望んでおられる。でも悲しい現実は、そのようなクリスチャンが少ないことです。なぜいろいろなことを心配し煩うのでしょう。解決の方法を神が与えてくださっているのに、なぜそこに行かないのでしょう。その時初めて神の働きを我々は見ることができ、その時初めてあなたは神が用いようとする道具としてあなたを使ってくださるのです。皆さんお気づきになりますか?結局私たちの不信仰なのです。神が言われたことは、そうだ、神は全能だと頭でわかっていても、実際の生活はそれを否定するような生き方をしている可能性があるのです。みことばが私たちに何を教えておられるのか――。あなたは私の言ったことを信じるか、私の約束を信じるかと言ったのです。その時に神が働くのです。どうです、信じておられますか?それを我々は自分に問わなければいけない。
私たちがこの地上にあって、主が与えてくださる一日一日を主の栄光のために生きていくことはもう可能なのです。神様のすばらしさを世に証ししながら生きていけるのです。もしあなたがそんなふうに生きたら、あなたの家族がこの神を信じることを約束することはできませんが、少なくともあなたの周りの人々はあなたのうちにいる神が生きて働いているまことの神であることを知る、少なくともそのことが明らかにされる、そうやって神は働くのです。そうやって神は働いて来られたのです。どんな人を通して働いたか、神の約束を信じた人です。神が言われたことだからです。そうして神に栄光を帰したのです。喜んで神は用いられた。そんな信仰者が今必要なのです、この国において。問題はあなたがそのような信仰者であるかどうかです。もっといえばあなたがそのような信仰者になりたいと願っているかどうかです。もしそうであれば、神の前にそのことを求めることです。神はあなたを変えてくださる。神は喜んであなたを使ってくださる。あなたを使って神のすばらしさを現してくださる。そんな信仰者として生きられるのです。まさに救われたその目的に沿って我々が生きていくことです。皆さん、そんなふうに生きましょう。残されたわずかな人生です。この神様のすばらしさが証しされるために生きていく。それこそ我々の生かされた目的であり、救われた目的です。そのように生きること、それを神があなたに望んでおられる。あなたはどうなさいます?
《考えましょう》
1.神の約束を正しく知る方法を挙げてください。
2.神の約束を正しく知ることが大切な理由を挙げてください。
3.神によって救われた者の生き方が変わるのはどうしてですか?
4.あなたが主から示されたことを信仰の友と分かち合って、お互いの実践に祈り励んでください。
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