メッセンジャー: 成田宜庸
聖書箇所: マタイ22:37-39 創世4:3-5 6:22他
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
今日は「心から」というテーマでみことばを学んでいきます。「心」、私たちが生活の中でよく使うことばです。
1.心とは
1)聖書では
聖書ではどういう意味をもっているのか?あるいは、どういうことを指しているのか?聖書辞典で調べてみました。このように書かれていました。「心とは人間の内面を意味することばで、ときには、人そのものを表す総括的な用語だ。人間の中心、あるいは、主体を表す。人間の深み、奥である。」と。
(1)人間の内面を意味する
エレミヤ17:9-10「:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。:10 わたし、【主】が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」、マタイ5:8「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」、
Ⅰコリント14:25「心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」、人格とは、性格、または、「たましい」を指し、人そのものを表す総括的な用語です。マタイ12:34「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」、Ⅰペテロ1:22「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」
(2)旧約聖書では、ヘブル語のレーブは胸、心臓などと訳されているときもある
出エジプト記28:29-30「:29 アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの子らの名をその胸の上に載せ、絶えず【主】の前で記念としなければならない。:30 さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが【主】の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず【主】の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。」、ヨブ記41:24「その心臓は石のように堅く、臼の下石のように堅い。」
(3)人間の「中心」「主体」を表す
感情の主体 : ローマ9:2「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」
思考活動の主体 : ローマ1:21「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」
意志の主体 : マルコ12:30「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」
イザヤ63:4「わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。」
ダニエル1:8「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」
(4)人間の「深み」「奥」であり、神のみが知られる人間の精神領域で、神が「心」を照らし開くときに、信仰が与えられる
Ⅱコリント4:6「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
使徒16:14「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」
このように記されています。今日は「心から愛する」「心からささげる」「心から従う」という三つのことをみことばから学んでいきます。
2.心から愛する
1)主イエス・キリストが教えた一番大切な命令
マタイ22:37-39に書かれています。「:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』:38 これがたいせつな第一の戒めです。:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」、神を愛する、隣人を愛する、これが大切なことだとイエスは教えられました。
・神を愛する : 申命記6:5の引用、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。」
・隣人を愛する : レビ記19:18の引用、「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。」
私たちは最初から「心から愛する」ことをしなかった、できなかった者です。そのことについて見ていきます。今見た箇所の前の22:35、36を見ましょう。「:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」、
a)律法学者の意図 : イエスに尋ねたのはひとりの律法の専門家でした。恐らく、この周りには他の律法学者やパリサイ人たちがいて、その代表のひとりがイエスに質問したのでしょう。この質問した者の意図はどうだったのか?35節に「イエスをためそうとして、」と書かれています。22:15には
このように書かれています。「そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。」、「ことばのわなにかけようかと」と。それを知ったイエスはこのように言われました。22:18「イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。」と。だから、このような質問をした者たちの心のうちには「悪意」があったのです。悪意をもってこのような質問をイエスに投げかけたのです。
b)質問に対するイエスの答え : それが22:37-39であるわけです。
(1)パリサイ人、律法学者たちの姿 23:1-34
彼らは常日頃から自分たちは律法を守っていると自負する者たちであったし、また、彼ら自身、律法に精通していましたから、人々にその律法を教える者たちでした。そのことは23:2、3を見るとよく分かります。「:2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」。しかし、彼らに対するイエスの厳しいことばがあります。それが23章に書かれています。「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と。何と、このことばは23章の中に7回も使われています。その一つ23:13には「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」と書かれています。ここに書かれていることばの通りに、パリサイ人や律法学者はこのような者であったと私たちは知ることができます。
a)偽善者 : ギリシャ語でヒュポクリーテス、英語ではhypocriteで、元々は「役者」を意味することばです。役者は様々な演技をする者ですから、内と外では違う、全く違うのです。別のことばで言うと「見せかけだけのもの」、そういう意味を持っています。そして、「忌まわしい」とは「わざわい」ということで、このことばの意味は、マタイの福音書5章から7章にかけて、山上の説教が記されていますが、5:3-12に8回書かれている「幸いです」の逆の意味です。
b)彼らの本当の心 : このようにイエスは彼らのことを指摘しましたが、彼らの心をこのように明らかにしています。23:28「そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」と。イエスは彼らの心を見抜いていたということを知ることができます。
見て来たように、あるひとりの律法の専門家がイエスに質問したのです。イエスは申命記6:5とレビ記19:18を引用してお答えになりました。
(2)22:37 申命記6:5の引用
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」と。彼らはそのような愛し方をしていませんでした。自分のすべてをもって神を愛することをしていない、それどころか、彼らは神に敵対する者でした。この後、彼らがイエスに対してどのような企てをしていくのか、みことばはそのことをはっきりと教えています。「心」「思い」「知力」、これら三つの名詞は一つになって人間の本質的性質を示します。
(3)22:39 レビ記19:18の引用
「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」、パリサイ人や律法学者が一番愛していたのは「自分」です。だから、「あなた自身のように」と言われたことばは彼らはよく理解できたかもしれません。でも、彼らはこのようには実践していなかったのです。それはみことばからすぐに分かります。23:3、4にこのように書かれています。「:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。:4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」と。
⇒パリサイ人、律法学者たちは「心から」神を、また、人を愛する者ではなかった。そして、そのような者からの質問を受けて、イエスは彼らに「心から愛する」ことを悟らせようとして、旧約聖書のみことばを引用されたのです。しかし、彼らはそれを悟ることができませんでした。それどころが、彼らは
益々、イエスを殺そうという思いに駆られていくことになるのです。
このように「心から愛する」ことができなかった、心から愛さなかった者たちを見ました。
2)ペテロ
次に、「心から愛する」者に変えられた人物を見ましょう。それは「ペテロ」です。ヨハネの福音書21章、ここには二つの大切なことが書かれています。21:15-19にイエスを三度否んだペテロに対するイエスのことばがあります。もう一つは21:20-23に愛した弟子、ヨハネに対するイエスのことばがあります。また、この21章は、20章で完結している「ヨハネの福音書」に、この二つの記事を書き記すために付加された章であると言われています。
(1)ヨハネ21:15-17
イエスが宣教を始められて、キリスト教か始まった時期を、また、その後を考えると、ペテロという人物は非常に大きな責任と使命を託された者でした。そのペテロに対してイエスは、そのような責任と使命があることをもう一度自覚させ、21章に記されていることを通して、イエスに対する愛と献身を問うのです。
a)ペテロに、主に対する愛と献身を問う
イエスが十字架に架けられる前、ペテロはどのような人物であったのか、みことばから知ることができます。マタイ26:33-35(並行箇所マルコ14:29-31)「:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。」、このときのペテロは自信満々でした。他の弟子たちよりも自信がありました。それは「つまずきません」「知らないなどとは決して申しません」ということばに明らかです。彼の心のうちにある「高慢」を私たちは知ります。
しかし、このペテロ、26:75にはこのように記されています。「そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」と。恐らく、このときペテロは、イエスがもうすでに自分の心を知っておられてそのような者になる、そのようなことばを言いますよと言われたことを思い出し、イエスのことばを自分を吟味するために思い起こしたのでしょう。
ペテロはこのときに自分はイエスを「心から」愛していないこと、また、心からイエスに従う、そのような思いがなかったことに気付くのです。だから、「出て行って、激しく泣いた。」のです。ペテロは心が変えられたのです。
b)21:15、16、17 イエス・キリストによるペテロの回心
そして、そのようなペテロに対して、復活されたイエスが問うのです。そのことが21:15-17に書かれています。イエスはペテロに三度「あなたはわたしを愛しますか」と問うのです。
「:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
「:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
「:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
三度聞かれたペテロは「心を痛めて」と17節に書かれています。恐らく、ペテロは自分がイエスを三度「知らない」と言ったことを思い出して、心を打たれてイエスのことばを聞いたのでしょう。そして、「あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」と言っています。あの失敗を通して、高慢なペテロから謙遜なペテロへと変えられることになったのです。「私の心をご存じのあなたは、三度否んだ私はなく、あなたを心から愛する者に変えられた今の私のことを知っておられます。なぜなら、わなたが私を変えたからです。」とペテロはここで言うのです。そのことばを聞かれてイエスはこう答えておられます。「わたしの羊を飼いなさい。」、19節では「わたしに従いなさい。」と。
皆さん、私たちは恵みによって救われました。救われた私たちクリスチャンの働き、奉仕において、私たちがまず吟味するべきことは「私は心からイエスを愛しているかどうか」です。もし、私たちの心のうちにその愛がないなら、私たちのすべての働きは虚しいものです。
この後のペテロの生き方、働きは本当に心から主イエスを愛する者にふさわしいものであったし、歩みでした。ペテロは自分が記したⅡペテロ1:1で自分のことをこう述べています。「イエス・キリスト
のしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、」と。「しもべ」とはここで使われているギリシャ語の意味では「奴隷」です。「私はイエス・キリストの奴隷です。」とはっきり自分の立場を主張するのです。
全く自由を持たない主人にすべて従う、そのような者だと言います。
「心から愛する」、私たちは「心から愛する」ことができない者たちを見て、また、「心から愛する」者に変えられていったひとりの人物を見ました。
3.心からささげる
二つ目に「心からささげる」ことを見ていきましょう。
1)ささげ物 :
一般的にはヘブル語で「コルバン」ということばが使われていますが、それはレビ記やマルコの福音書の中に出て来ます。(レビ記1:2「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが【主】にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。」、マルコ7:11「それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、」)、この「ささげる」、また、「ささげ物」は神への信仰を証明する行為、または、その品物自体を表すと言われています。イスラエルの人たちはささげ物をしましたが、その主なものは動物のいけにえであったり、また、地から取れた穀物のささげものでした。ここで、二人の人物のささげ物を見ていきます。
2)カインとアベル :
(1)カインとアベルのささげ物=創世記4:2-5「:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」、カインは土を耕す者でしたから、当然そこでできた地の作物を持って来ました。アベルは羊を飼う者でしたから、自分の育てた羊の初子を持って来ました。皆さん、主はカインとアベルのささげ物を比較されたのでしょうか?いいえ、主はどちらのささげ物も喜んで受け入れられるそのようなお方です。
(2)何が問題であったのか?=【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」と書かれています。4:7を見ると「あなたが正しく行ったのであれば、…」とあります。これはカインに対する主のことばです。これは「あなたは正しい心で行っていなかった」と言われているのです。主が見られたのは、ささげ物ではなくて、ささげ物をするその心、動機です。4:4には「アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。」とあります。これはアベルが心から主にささげ物をしようとしたその姿を伺い知ることができます。だから、主はそのささげ物に目を留められたのです。良いものとして受けられたということです。箴言21:27には「悪者のいけにえは忌みきらわれる。悪意をもってささげるときは、なおさらのこと。」とあります。
目を留められなかったカインはどのような反応をしたでしょう?5節の後半に「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。自分が汗水流して作った作物をあなたのみ前に持って来たのに、あなたはそれを全く受け入れてくれなかったではないですかと、そのような思いがカインの心にわき起こったのです。だから、彼は怒って顔を伏せたとみことばは記しているのです。「私のささげ物を主が受け入れてくれなかった」、カインの心の中は不満と怒りで支配されました。「せっかく持って来たのに、なぜ?…なぜ、私のささげ物を受け取ってくだらないのだろう…」と。ヨハネはⅠヨハネ3:12の初めに「カインのようであってはいけません。…」と記しています。何が問題だったのか?それはささげるときの「心」です。カインは正しい心でみ前に出なかったということです。
(3)主の呼びかけ=このようなカインに対して主はこのように呼びかけています。4:6「そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」、「なぜ?なぜなんだ?」と主はカインに問うのです。まさに、主がカインに悔い改めを勧めているその機会でした。しかし、カインはそのことばに聞く耳を持たなかった。7節に「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。」とあります。この「受け入れられる」ということばの直訳は「持ち上げる」です。聖書の欄外には「まっすぐに立っておればよい」と書かれています。これは、6節にカインは「顔を伏せて」とありますが、それとは反対に「顔を上げていられる」という意味です。だから、主はカインに対して「あなたが正しい心をもって行ったのであれば顔を上げていられるでしょう」と言われたのです。
(4)信仰によってささげる=アベルのささげ物について、へブル書11章から少し知ることが出来ます。ヘブル11:4「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」、信仰によってささげる、それは神を信頼して神への感謝をささげるということです。もしかすると、カインはただ教えられたことを義務的にささげ物をしたと考えられるかもしれません。同じヘブル11:6を見ると「信仰がなくては、神に喜
ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」と書かれています。
信仰によらないささげ物、それは神はお受け取りにならない、喜ばれないということです。だから、カインのこのささげ物は本当に心から主に信頼して主に感謝してささげた物でなかったのかもしれません。カインに関しては、詳しいことはアベルを殺したということです。彼は兄弟を殺しました。そのことは先にも見たⅠヨハネ3:12にこのように書かれています。「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」、カインの行ないは悪くアベルの行ないは正しかった、それに憤ってカインはアベルを殺したのです。カインの行ないは悪く、それは悪い心から出たものです。それがささげ物という行ないとなって現われたのです。アベルのささげ物、アベルは正しい心をもって主の前にささげました。それを神は良しとされたということです。
3)2レプタ銅貨をささげたやもめ :
心からささげたもう一人の人物を新約聖書から見ます。マルコの福音書12:41-44(ルカ21:1-4)に記されています。「:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。:44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」、ここには二種類のささげ物のことが書かれています。一つは「金持ちのささげ物」、もう一つは「貧しいやもめのささげ物」です。
(1)金持ちのささげ物=44節には「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、」と書かれています。これは金持ちのことです。「あり余る中から」とあって「すべてを」とは書かれていません。恐らく、一部だったのでしょう。つまり、彼らにとってそれ程大きな犠牲ではなかったということが分かります。
(2)貧しいやもめのささげ物=しかし、貧しいやもめのささげ物は「乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を」です。大きな犠牲です。もしかすると、私たちにはとてもできないようなささげ物かもしれません。でも、このやもめはすべてをささげたのです。彼女のささげ物はまさに、神を信頼するゆえの「心からの」ささげ物でした。イエスはそのやもめのささげ物を良いものと見られたのです。額の大小ではなくて、ささげ物をしたその人の心をイエスはこのように教えられたのです。
ここでこの2レプタ銅貨がどの位の額なのか?まず、1デナリは一日分の労賃と書かれています。もし、それが1万円とするなら、1レプタは1/128デナリですから、1レプタは78円、2レプタ銅貨は156円です。恐らく、金持ちのささげ物は「あり余る中」の一部であっても、この156円よりは多かったことでしょう。でも、イエスは大きい小さいを見られたのではなくて、ささげ物をした者の心を見られたということです。正しい心をもって、そして、主に対する信頼と感謝をもってささげるとき、主は喜んでそのささげ物を受け入れてくださるのです。Ⅱコリント9:7に「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とある通りです。心からささげる、私たちはカインとアベルのささげ物、そして、2レプタ銅貨をささげたやもめのことを見ました。
4.心から従う
「従順」とは、旧約ではヘブル語で「シャーマ」ということばが使われており、新約ではギリシャ語で「ヒュパクオー」ということばが使われています。どちらもその意味するところは同じです。「聞いて~行う、聞いて従う」という意味をもったことばです。Ⅰサムエル15:22にはこのように書かれています。「するとサムエルは言った。「主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」と。「聞き従うこと」がいかに主に喜ばれることであるかをみことばははっきり教えています。
(1)ノア=
「聞き従った」一人の人物を旧約聖書から見ることができます。それは「ノア」です。創世記6:22に「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」と書かれています。神がノアに「箱舟を造りなさい」と言われたときはその必要が全くなかったときです。雨で地が水に満たされているような状況でなかったときに、主はノアに「箱舟を造りなさい」と言われたのです。ノアはその通りにしました。私なら必ず聞きます。「なぜですか?なぜ、今ですか?箱舟なんか必要がないでしょう…」と。皆さんはどうでしょう?
ノアはこの主の命令に全く疑いを挟まずにその通りに行ったとみことばは教えています。ノアは従順をもって神に仕えた者であったと知ることができます。へブル11:7に「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱
舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」と書かれています。ノアは心から神
に従う者でした。
(2)主イエスの従順=
また、この「従順」の最高の模範を主イエスを通して知ることができます。そのことはピリピ2:7-8に記されています。「:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」。
5.まとめ
今日、私たちは「心から愛する、心からささげる、心から従う」、そのことを実践した人物、また、そのことを実践しなかった人物をみことばから見て来ました。まとめです。
1)主はすべての人の心を見ておられる :
Ⅰサムエル16:7「しかし【主】はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」。ルカ16:14-15「:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。」。また、使徒の働き15:8「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、」。そうです。主は、神はすべての人の心を見ておられます。
2)罪人であったときの「心」 :
皆さん、私たちが救われる前の心、イエスを信じる前の心はどんな心だったでしょう?そのことはパウロが教えています。エペソ4:17-18にこのように書かれています。「:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」
(1)「むなしい心」 = 目当てのない、無益なという意味です。 (2)「暗い心」
(3)「無知な心」 (4)「かたくなな心」 = それは貝殻をかぶったような心です。開けようとしても開けることができない頑な心です。
3)主は私たちを新しく造り変えてくださった :
そのような心であった私たちをイエスは新しく造り変えてくださったのです。新しく造られた私たちは、「心から愛する」「心からささげる」「心から従う」、そのようなことができる者へと変えられたのです。
パウロは、ローマ書12:2で「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と言います。「心の一新によって自分を変えなさい」とパウロは勧めています。
「心の一新」 : 私たちキリスト者がみことばと聖霊の働きによって内側が変えられ、さらに、新しくされることです。そのことを言い表わしています。
「自分を変えなさい」 : このことばの時制は「受け身で現在形」です。「変えられ続けなさい」ということです。このことばと同じギリシャ語が、Ⅱコリント3:18で「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と「変えられて行きます。」と訳されています。
そして、変えられた私たちは、神のみこころをさらに深く知ることができます。みことばはそのように教えています。 ・「何が良いこと」 = 正しいこと ・「神に受け入れられ」 = 喜ばれる
・「完全であるのかをわきまえ知る」 = 完璧
そのように深くみこころを知るようになった者は、さらに「心から愛する」「心からささげる」「心から従う」者に変えられていくのです。これは私が言うのではありません。みことばがそのように教えています。だから、私たちはみことばと聖霊に従って行く、そのことが大切であるということを知ることができます。
もし、この中に本当に心から愛したい、心からささげたい、また、心から従いたい、とそういう思いをもつ方がおられましたなら、その人にぜひお勧めしたい。イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れてください。そうすれば、あなたは新しく造り変えられて、心から愛する、心からささげる、心から従う、そのような者になっていきます。
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