メッセンジャー: 土井義広
聖書箇所: ルカ11:14-28
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
先日、こちらの教会から何人かの方たちがイスラエルへ行かれました。そのイスラエル旅行には、八田西CCのメンバーも3人が参加させていただきまして、本当に感謝しております。実は、私も今から約19年ほど前、この教会のイスラエル旅行に参加させていただきまして、聖書に登場してくるエルサレムやガリラヤ地方、ベツレヘム、シナイ山などに連れて行っていただき、非常に良い経験をさせていただきました。その旅行によって、今から約2000年前、イエス様がご覧になったであろうオリーブ山やガリラヤ湖周辺、また、イエス様が十字架に架かられる直前に通られた「悲しみの道」などを自分自身も歩くことができて、それまで以上にイエス様というお方を身近に感じることができたように思います。
でも、残念なことに聖書の中には、約束の救い主であられるイエス・キリストがすぐ身近におられて、直接イエス様にお会いできたどころか、そのイエス様の奇蹟を見たり、そのお話しを直接その耳で聴くことができたにも関わらず、そういったことを軽々しく受け止めてしまったために、せっかくの素晴らしい祝福をみすみす逃してしまった者たちが登場しています。
命題:真理を受け入れようとしない者たちの言い訳と間違いについて
そこで、今日はルカ11:14-28のみことばを通して、真理を受け入れようとしない者たちの言い訳とその間違い、問題点について、聖書のみことばを学んでいきたいと思います。そうすることによって、ここにおられる皆さんがイエス様のことを正しく受け入れることができ、まことの神様が皆さんに与えようとしてくださっている素晴らしい祝福を皆さんがご自分のものとしてくださることを願います。ルカ11:14をお開きください。
Ⅰ.あからさまに、イエス様のことを攻撃する者たち(14-19節)
そこを見ると、まず最初に登場するのは、イエス様のことをあからさまに“攻撃”する者たちです。まずは、その者たちの問題点と間違いについて、聖書のみことばを観察していきたいと思います。
14 イエスは悪霊、それも口をきけなくする悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、口がきけなかった者がものを言い始めたので、群衆は驚いた。
15 しかし、彼らのうちには、『悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ』と言う者もいた。
16 また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。
17 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。『どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
18 サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。
19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。
●15節、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とは?
今お読みしましたみことばを見ると、イエス様はこの時「悪霊を追い出」すという働きをされていたことが分かります。しかも、それは「口をきけなくする悪霊」であったので、その悪霊が出て行った後は、それまで「口がきけなかった者がものを言い始めた…」と記されています。当時、そのことを見た群衆が驚いたのも無理はありません。
しかし、今日のみことばが一番に教えようとしてくれている内容は、この癒しに関することではありません。一番の問題はイエス様がなされた、「悪霊を追い出」すという奇蹟を見た者が発した言葉、イエス様のことを快く思っていない者たちの態度です。それが15節のみことばです。何と彼らは、イエス様が悪霊を追い出しているのを見て、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」!と言ったというのです。実は、この「ベルゼブル」という言葉は、イエス様に対するとんでもない、ある意味、史上最低最悪とも言い得るような侮蔑語(≒他者を侮り、蔑み、馬鹿にして、ないがしろにする言葉)なのです。この言葉が「悪霊どものかしら」を指す言葉であるということは、この文脈からも明らかです。そして欄外の注釈見ると、「異本に15、18、19節のこの語を「ベエゼブル」とするものもある…」というふうに説明されています。実は、この「ベエゼブル」という言葉は、アラム語(≒現在では、シリア地方で昔用いられていた言葉)では、「牛や馬(≒家畜)のフンの神」、「肥やしの神」という意味にもなるような言葉で、イスラエル人たちは、その元々の言葉を少しだけ変えて、「ベルゼブル」という言葉にして、それを本当に忌み嫌うものとして扱い、そして、その名を一番忌み嫌うべき対象である悪魔に対して与えたのです。つまり、ここのみことばが何を言わんとしているかというと、当時の者たちは、イエス様のことを悪魔扱いしたわけです。確かにもしもイエス様が悪霊たちのかしらである悪魔であるならば、悪霊たちが皆、そのかしらであったイエス様のお言葉に従ったことも頷けます。実に、ここ15節ではそういったことが言われているのです。でも、余りにもこれはひどいと思いません!?
また、16節を見ると、「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」と書かれてあります。長年、病に苦しめられていて、その癒しを求めるとか、本当に救いや真理を求めていて、その証しとして「天からのしるしを求める…」というのなら、まだ分からないでもありません。しかし、ここのみことばには、そういった純粋な動機からではなく、もっと軽い、不純な動機であろう、「イエスをためそうとして…」という説明がなされています。こういったことから、この時の様子が皆さんにも伝わって来ると思います。イエス様が口をきけなくする悪霊を追い出された時、その周りに居た者たちは、イエス様のことをあざけるような感じで、イエス様のことを悪魔呼ばわりしたり、あるいは、いたずら半分で「天からのしるし」を求めたりと、イエス様のことをバカにしたようです。
並行記事である、マタイ12章やマルコ3章を見ると、そこには、案の定、パリサイ人たちや律法学者たちがいたことが記されています。このパリサイ人たちというのは、当時、民衆たちの支持を得ていた宗教家たちでした。確かに、彼らは一見、非常に敬虔な教師たちでした。民衆の模範でもありました。しかし、イエス様は、彼らが本当の信仰心からではなく、周りの者たちからの称賛を得たいがために、つまりは、自分自身のために信仰深い素振りをしていたに過ぎないということをいち早く見抜かれました。そしてイエス様がそのことを指摘したがために、パリサイ人たちから「目の敵」にされたのです。
●イエス様による反論
そういった者たちに対してイエス様のなされた反論が今日のみことばの17節以降です。ここでイエス様は、ごくごく当たり前のことをおっしゃって、ご自分のことを弁護なさっています。至極当然のことですが、どんな国であっても内輪もめを起こしたら、その国は立ち行きません。それは各家庭であっても同じです。だったら、どうして悪魔が同じグループであるはずの悪霊たちの邪魔をするのかをイエス様は指摘するわけです。
それともう1つ、イエス様が反論なさったのが19節のみことばです。実は、この当時、悪霊たちを追い出すという働きをしていたのは、何もイエス様だけではなかったようです。では、イエス様以外の誰かが悪霊を追い出した場合は、一体誰の力によって悪霊を追い出していると言うのですか?ということです。そんなことを堂々と言い始めてしまうと、結局彼らの中で内輪もめが起こってしまいます。そういったことからも分かりますのは、結局、彼らはイエス様のことを、初めから認めたくなかったし、ただ単に、非難したかっただけなのです
今日のみことばの並行記事である、マルコ3:28-30を見てください。
28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。』
30 このように言われたのは、彼らが、『イエスは、汚れた霊につかれている』と言っていたからである。
実は、ここのみことばの理解は非常に難しいとされています。確かにそうだと思います。しかし、ある程度、ここのみことばを理解するためのヒントはあります。それは、イエス様が30節で「このように言われたのは、彼らが、『イエスは、汚れた霊につかれている』と言っていたからである。」と言われた言葉です。改めて言うまでもなく、イエス様こそはまことの神が私たちを救うために、天から遣わされた約束の救い主であられると同時に、子なる神様という存在でした。それこそがこの聖書のメッセージです。にも関わらず、一部の者たちはそのイエス様を指して悪魔呼ばわりし、あろうことか悪霊を追いやってくださったはずのイエス様に対して、「汚れた霊につかれている!」と言ってあざけったのです。
ここマルコ3:28でイエス様が教えてくださったように、神様は私たち人間に対する、その大きな憐れみの故に、私たちの犯すどんな罪であっても赦してくださいます。また、私たちが、もしも万が一、神様を汚すようなことを言ったとしても、それであったとしても神は赦してくださる!とイエス様は教えてくださいました。しかし、唯一赦されない罪があります。それは、神が遣わしてくださった救い主を信じないばかりか、その救い主のことを悪魔呼ばわりすることです。
イエス様のお言葉にもあった通り、この時、イエス様のことを非難した者たちは、イエス様が悪霊を追い出すと、イエス様のことを悪魔呼ばわりして、そうして、今度は、自分たちの仲間が悪霊たちを追い出したら、それはそれで自分たちの手柄にしていたはずです。このことに関する一番の問題は彼らの偏見です。彼らは初めから聞く耳を持とうとせず、真偽を見極めようとせず、イエス様は偽り者だと決めつけていたのです。彼らは、ただ単に救い主であるイエス様のことを拒んだだけではなく、そのイエス様がなさった御業を悪魔の仕業であると吹聴し、イエス様のことを悪魔呼ばわりしたのです。そんな彼らにはマルコ3章にあるように「永遠に赦されず、とこしえの罪に定められ(る)」という報いが与えられるのではないでしょうか?ここで一つ、はっきりと分かることは、イエス様のことを悪魔呼ばわりするということはとんでもなく重い罪であるということです。なぜなら、この時、イエス様を非難した者たちは、みことばに関する知識がなかったわけでは決してなく、むしろ、聖書のみことばに通じていたにも関わらず、悪意を持ってイエス様のことを非難して、イエス様の宣教活動を阻害し、イエス様のことを意識的に拒もうとしたからです。
このように、神様に対して悪意をもって報いた者たち、神様からの恵みをおとしめつつ、拒み続けた者たちに罪の赦しや救いはありません。でも、それは果たして神様のせいなのでしょうか?彼らが救われないのは、神様の側に憐れみや恵みが足りないからなのでしょうか?私はそうは思いません。残念ながら、彼らが救われなかったのは彼ら自身の側に責任があるのです。というのは、彼らは聖書という神様からのメッセージを持っていました。しかも、彼らはそういったことの専門家であったにも関わらず、意図的に、つまり、悪意をもって、イエス様の善意と善行をおとしめ、しかも、自分自身でイエス様のことを拒むという選択をしたのです。そんな彼らが救われなかったのは、神様のせいではありません。残念ながら、彼らが救われなかったのは、彼ら自身の責任、選択だったのです。私たちはそういったことをしっかりと受け入れ、理解しなければいけないと思います。
Ⅱ.イエス様を認めつつも信じようとはしない者たち(20-26節)
そういったことの次に、今日のみことばが教えてくれていることは、先程の例ほどは頑なにイエス様のことを拒んだわけではなくて、イエス様のことをある程度認めつつも、イエス様のことを“信じよう”とはしなかった者たちのことです。どうぞ、今日のみことばルカ11:20-26をご覧ください。
20 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。
22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
24 汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
25 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
26 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」
●21節の「強い人」とは?
この20節以降で、イエス様は悪霊の話に絡ませて、実はもう既に「神の国」が来ているのだということを教えてくださっています。ここで使われている、「(神の)国)」という言葉には、「国や王国」という意味以外に、「王権(=王の権力&権威)、支配」という意味があります。実は、この当時、恐らく、多くのイスラエル人たちは、自分たちを支配していたローマ帝国をも脅かすような強大な国が興されることを期待していたと思われます。しかし、神の計画は違いました。それは天の神様が私たち人間の一番の必要をご存じだったからです。そういったことから、今日のみことばで言われているところの「神の国」とは、まず第一に「まことの神様の権威や力による、個人個人に対するご支配」を指すものだと思われます。つまり、ここで言われている「神の国」は、もっと霊的なものであって、神様を知った者たちに到来する(=訪れる)ものなのです。ですから、今日のみことばの20節でイエス様は「神の国はあなたがたに来ている…」と言われます。この言葉からも分かるとおり、「神の国」とは誰の前にも同じように現れる「地上の王国」ではなく、もっと霊的な個人個人に対するものだということがわかります。
さて、問題はその後に書かれている例え話です。ここでは、戦における様々な状況について説明がなされています。たとえ戦国時代であったとしても、そこの場所を統治している領主が十分に武装して、自分のお城や領地を守っている時、その家来や領民たちは平穏です。でも、そこにさらに強い武将が攻め込んで来たと考えてください。しかも、後から来た者の方が強くて、そこの家来や領民たち、あるいは、財産が奪われてしまいます。戦ではよくある話ですよね。実は、ここ21節の「強い人」という存在は悪魔を指しています。そうして、その次の22節に現れる、「もっと強い者…」というのがイエス様です。このことは間違いありません。と言うのも、悪魔はその強大な力でこの世を支配しているということがエペソ2章やマタイ4章で教えられているからです。かつて、私たちもまた悪魔の側の存在であり、神様の陣営とは敵対していました。確かにそのような時、ある意味において、私たちは平穏な日々を過ごしていたかもしれません。しかし、それは本物の平安ではなく偽りの平安でした。そんな中で、私たちが真理を知るようになり、イエス様を信じるようになると、そこに信仰ゆえの戦いやこの世との摩擦などが生じてきます。それが、ここ21-23節で言われている内容です。
このみことばが教えてくれていることは、私たちはまことの神様の側についてイエス様に従っていくか、あるいは、イエス様に逆らって生きていこうとするかのどちらかを選ばないといけない。いや、もう今既にあなたはその選択をしているのだということです。特に、戦というような特殊な状況下に私たちがいる場合、否が応でも、私たちは自分自身の立場をはっきりさせないといけません。皆さんも時代劇か何かでご覧になったことがあるかと思います。戦で、相反する勢力が戦っている時、私たちはそのどちらかに加勢することが求められます。そこに「どちらにも付かない」という選択肢はありません。だから、当時の領主たちはどちらに付くかで散々頭を悩ませたわけです。実は、それと同じようなことを今日のみことばは教えてくれています。私も、また、皆さんも今現在、神様の側か、あるいは悪魔の側に属しているのです。そのどちらにも属していない、中立だという立場はあり得ないのです。
そういったことを、今日のみことばの23節でイエス様が教えてくださっています。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」というのは、そういうことです。ひょっとしたら、この中には、「いえ、私はまだ、イエス様を信じて従っていくかどうか決めていないのです」と言われる方がおられるかもしれません。しかし、23節でイエス様が言われたように、「今、イエス様の味方でない皆さんは現時点ではイエス様に逆らう者であり、イエス様に敵対している」と言えるのです。残念ながら、この神の前にはどっちつかずという選択はありません。真の神様を信じ、この神様に従っていく決心をするのか、あるいはこの神様を信じることを拒んで、神が遣わされたイエス様に逆らい続けて生きていくのか。そのどちらかを皆さんは今現在もう既に選んでおられるのです。しかし、そうは言ってもなかなか私たち人間とは優柔不断な生き物です。私たち人間は、はっきりとした決断が迫られない限りは1日1日と自分がなすべき決断を延ばして、自分がどっちに転んでも良いように、ある種の保険を掛けてしまいがちなのではないでしょうか?
実は30年以上前になりますが、私もイエス様を信じようとした時、同じような言い訳をして、イエス様を信じることを引き延ばそうとしたことがありました。当時の私はまだ高校生でしたが、個人的に話をしてくださっていた近藤先生に対して、「いや、そんなことを言われても、今まで17年間全く聖書のことを知らないで生きてきて、そんなにすぐは自分の考え方を変えられません」と言ったことがあります。その時、当時押しの強かった近藤先生の「強い勧め」に負けて、そう言った1時間後に信仰を告白することになりました(笑)。でも、実は天の神様はそのような弱い私たちのことをご存じで、だからこそ24節以降のみことばを語ってくださっているのだと思われます。
●イエス様からの警告
24節以降を見ると、そこでイエス様は1つのエピソードを紹介してくださっています。その内容はこういったものでした。ある悪霊がとりつりついていた人物から出て行ったのですが、しかし、その悪霊からすると、どこを捜しても自分が休めるような場所がありません。そこで、その悪霊はかつて自分がとりつりついていた人物のもとへ帰ろうとするのですが、帰ってみると、その人物の心はしばらくの間自分が居なかったこともあって、きれいに片付いていた。すると、その悪霊は自分の他にも悪霊を連れて来て、もう一度その人物にとりつりついてしまって、悪霊にとりつかれてしまったその人物は、もともとの状態よりもさらに悪いものになってしまったというのです。実際に、悪霊たちがこんなふうにお気楽な感じで、物事を考えているかどうか定かではありませんが、イエス様がここで言わんとしていることは、神様の前には中立なんてあり得ないということです。それは、私たち人間の立場においても言えることであると同時に、私たち人間の心の状態においても言えることなのです。このように、悪霊にとりつりつかれている者から悪霊が出て行ったとしても、それだけで喜ぶことはできません。と言うのは、その人はまだ神のものとはされていないからです。せっかく悪霊が出て行ったとしても、その人の心に聖霊なる神様を迎え入れていなければ、また元の木阿弥です。いえ、それどころか、さらに悪くなってしまう可能性だってあるということをイエス様は教えてくださいました。
今日、こちらにお見えになっておられる皆さんの中には、かつて悪霊にとりつかれていた方はおられないと思います。しかし、先程も言いましたように、聖書のみことば(エペソ2章など)は、私たちすべての人間は元々は悪魔の支配下にあったということを教えてくれています。聖書の、特にローマ6章では、私たち人間は皆、罪の奴隷か、あるいは神の奴隷であるかそのどちらかで、そのどちらかしかないということをはっきりと教えてくれています。ですから、皆さんが幾らみことばを学んで真理を理解することができたとしても、あるいはクリスチャンらしい生き方ができるようになったとしても、本当の意味で神様の奴隷とされていないと結局は罪の奴隷のままなのです。
例えば、泥棒はいつまで泥棒なのでしょう?泥棒はどうしたら泥棒じゃなくなるのでしょう?「もう盗みなんてしない!」と心に誓った時でしょうか?あるいは、警察に捕まった時でしょうか?あるいは、罪が裁かれて刑に服し終えた後でしょうか?でも、出所後にまた同じ罪を犯してしまうというのは、よく聞く話です。つまり、この人物は服役をしても、それでもまだ泥棒を辞められなかったのです。私は、泥棒が泥棒でなくなるのは、その者が本当に悔い改めて、盗みに代わる別のこと、つまり仕事をするか、もっと言えば他人に施しをし始めた時なのではないかと思います。それが彼が泥棒でなくなった証です。なぜなら、エペソ4:28で聖書のみことばはこう教えています。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」と。そのように私たちは自分たちの心を神様や本当に良いものによって積極的に満たしていかないといけないのです。果たして、皆さんの心はいかがでしょう?本当に皆さんの心には、全能者である聖霊なる神様が住んでくださっているでしょうか?また、皆さんの心はその聖霊なる神様によって満たされているでしょうか?そういったことが、私たち人間には必要なのです。
Ⅲ.イエス様以外の者に、栄光を帰そうとする者たち(27-28節)
最後三つ目にこのみことばが教えてくれていることは、真の神様であられるイエス様以外の者に“栄光”を帰そうとする者たちの過ちです。そういったことについて、イエス様はこのように教えてくださっています。ルカ11:27-28をご覧ください。
27 イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』
28 しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』
●27節の「ひとりの女」が叫んだ内容
イエス様が、一連のことを話し終えられた時、群衆の中でひとりの女がこういう言葉を口にします。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」と。正直、私はこの女の詳しい意図、目的はよくわかりません。でも、彼女が発した言葉の表面的な意味はわかります。この女性は、「イエス様のことを産んだ女性は素晴らしい!」ということを言ったのです。確かに、聖書のみことばはイエス様の母として選ばれたマリヤという女性のことを素晴らしい信仰者として描いています。しかし、それはあくまでもひとりの信仰者としてであって、間違いなくイエス様以上の存在としてではありません。今日のみことばに登場してくる、この女性がどうであったかは分かりません。しかし、現代において、一部のクリスチャンと呼ばれる者たち(≒特に、カトリック?)は、イエス様の母親とされたマリヤのことをイエス様と同等か、ひょっとしたらそれ以上の存在として扱ってしまっているようなことがまま見受けられます。私たち人間にとって重要なことは、今日私たちが学んだようなイエス様のお言葉を聞いて、それを何か別のことにすり変えることではなく、最後、イエス様が28節で教えてくださっているように、みことばを聞いてそれを実践していくことであるはずです。
●イエス様が教えてくださった、「真に幸いな者」とは?
正直言いまして、私たちがカトリックのマリヤ信仰に関してどうこう言うことは簡単かも知れません。しかし、そういったこと以上に大切なことは、私たちが聖書の御教えを正しく理解して、今度はそれを実践していくということではないでしょうか?
このことは、皆さんもよくご存じだと思いますが、どうぞ、ルカ8:9-15をお開きください。
9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。
13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。
15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」
ここで、イエス様はその前に話された例え話の解き明かしをしてくださっています。イエス様曰く、真剣にみことばを聞いて、それを実践しようとする意志のある者にしか解き明かしを聞くことが許されないと。そうして、イエス様は、①「道ばた」と称された者たちの特徴から始めて、②「岩の上」、③「いばらの中」、④「良い地」というふうに、合計4種類の者たちの傾向というか、聖書のみことばに対する態度の違いこそがそれぞれの霊的な変化に大きな影響を及ぼすことを教えてくださいました。ここの解き明かしに注目してみますと、驚くべきことに、最初の「道ばた」と称された者たちだけでなく、その後の「岩の上」、「いばらの中」、「良い地」と称された者たちの全員が、実は、みことばを聞いているのです。問題は彼らがみことばを聞いたか否かではなく、彼らがどういった思いでみことばを聞き、彼らがそれを実践するかどうかです。
今日のみことばでもそうでしたが、イエス様は「幸いなのは、神のことばを聞く人たちです…」と言われましたか?そうではなかった。イエス様は、「幸いなのは、神のことばを聞いて それを守る人たちです」と教えてくださったのです。ヤコブ1:22でも同じことが教えられています。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」と。果たして、皆さんはみことばをただ聞くだけの者でしょうか?それとも、その聞いたみことばを実践して、神様に従っていこうとする者でしょうか?
最後に、マタイ7:15-27をお開きください。山上の説教の最後の部分になります。
15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」」
ここでも明らかに2種類の者たちに対する説明がなされています。ここのみことばを見て、「これは、クリスチャンとノンクリスチャンとの違いを説明している」と言われる方たちがおられます。多分、それは間違いではないでしょう。でも、もう少し詳しく説明するなら、ここで教えられているのは「本当に救われたクリスチャンと、にせ預言者たちの違い」です。あるいは「本当に救われているクリスチャンと、本当は救われていない自称クリスチャンとの違い」です。なぜならこのみことばで教えられている2種類の者たちは、その両方ともがイエス様のことを、「主よ、主よ。」と呼んでいます。普通、ノンクリスチャンの方たちは、イエス様のことを「主」とは呼ばないです。また、今のみことばに出てきた者たちは、その両方ともが、イエス様の語ることばを聞いています。でも、普通、世間一般の方たちは教会に来ることも、また、聖書のみことばを聴くこともありません。つまり、ここのみことばが比較しているのは、教会に来ている者たちのことで、なおかつ信仰を告白している者たちのことです。でも、肝心なのは、その聞いたみことばを私やあなたが実践しようとしているか否か、そこにかかっているということをここのみことばは教えてくれているのです。
今日のみことばが教えてくれているように、イエス様を非難するかどうか、イエス様を信じるかどうかは皆さんの判断です。その選択は皆さん自身にあります。しかし、果たしてこのイエス様を非難するだけの根拠を皆さんはお持ちでしょうか?かつては私自身も初めから、この聖書の教えは間違いである、私はこのイエス・キリストを信じないのだという思いでいたように思います。なぜなら私の家は代々伝わって来た仏教の家だったからです。私には継がないといけないお墓があったからです。そういうことがあったから私はこのキリストの神を信じない、聖書の教えを信じないという思いでおりました。でもある時から、心を開いて、聞く耳を持ってこの聖書の教えが本当なのかどうか、教えられていることが信じるに値するものかどうかということを、自分なりの考えで、自分なりの目でしっかりと判断しようと思いました。果たして皆さんはそのような根拠をお持ちでしょうか?それは、皆さんに多くの恵みを与えてくださっている神様に対する大きな反逆とはなってはいないでしょうか?
あるいは、皆さんは、まことの神が救い主として遣わしてくださったイエス様を本当に心に迎えてくださっているでしょうか?果たして、皆さんの心はこのイエス様への思いでもって満たされているでしょうか?もしも、皆さんがイエス・キリストを信じて救われているのなら、皆さんはこのイエス様への感謝や従順といった思いであふれているはずです。みことばに従っていきたい!と今も強く願っておられるはずです。どうぞ、今一度、皆さんの信仰を、その心の内を皆さん自身で吟味していただきたいと思います。神様の前に、ボーダーライン上というのはありません。私たちは必ずまことの神様の側か、あるいは悪魔の側かに属しているはずなのです。どうか1日も早くこの神様を信じて救われていただきたいと思います。最後にお祈りをもって、今日のメッセージを終わらせていただきます。
《質問》
1.神はどうしてすべての者たちを救ってくださらないのでしょう?
2.神様はここのみことばからどのようなことを教えようとしてくださっているでしょう?
3.私たちが語っていくべきメッセージとはどのようなものであるべきだと思われますか?
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