メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:3
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
映像: メッセージを見る
「信仰において成長しなさい」、これがペテロのメッセージでした。教会に入り込んで来た偽教師たちの教えに惑わされないためには、信仰において成長し続けることであると、そのようにペテロは教えます。「信仰の成長」、つまり、霊的成長について、ペテロはそれが可能であるということを教えています。しかし、実際はどうでしょう。そのことを信じ切れていない信仰者が多いのではないでしょうか。信仰をもってから年数だけは長いけれど、成長していない自分に失望し、また、悲観ばかりしている信仰者、そんな人が多いのではないでしょうか?普通なら、もっと大人になっていなければならないのに、まだミルクしか飲めないでいる、そんな信仰者たち、もしかすると、そのような信仰者がこの中にもおられるかもしれません。もしそうなら、今日、私たちに教えてくれるペテロのみことばをしっかりと見てください。彼は私たちに希望を与えます。彼は私たちにどうすれば成長できるのかを教えます。
まず、3節を見ると、「というのは」ということばがあります。これは「原因、理由」を示しています。「なぜなら」とも訳せることばです。この3節と4節でペテロは、あなたが霊的に成長するために主が備えてくださったことについて話をするのです。3節では「神の力」があなたのために備えられているということを教え、4節では「神の約束」があなたの成長のために備えられていると教えるのです。
☆主が備えてくださったこと
A.神の力 3節
3節「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」、あなたが信仰において成長するために、神は「神の力」を備えてくださったのです。どうして信仰の成長が可能なのか?どうしてあなたが霊的に成長していくことが可能なのか?この箇所は私たちに教えます。今、皆さんに注目していただきたいのは、この中の二つの動詞です。一つは最後に出て来る「与える」です。もう一つは初めの方にある「お召しになった」です。この二つの動詞が、あなたが信仰において成長できることを保証するのです。
1.与える
1)何を与えてくださったのか? : 主が与えてくださったもの
3節に「主イエスの、神としての御力は、」と記されています。原語では「主イエスの」とは書かれていません。直訳するなら「彼の神としての力」と書かれています。でも、敢えて訳者は「主イエスの」と、より明確にしようと訳しています。文脈を見るとだれのことなのかは明らかです。1節にもイエスが神であることが記されていました。そこで3節でも同じことをペテロは教えるのです。この「主イエスの、神としての御力は」と訳されている箇所は二つのことを教えています。
(1)主イエスが神だということ = これは疑う余地がありません。神のみことばはそのことを繰り返し教えています。主イエスは100%神であられるお方、100%人であられるお方です。ですから、ここでも「主イエスの神としての御力」とあるのです。
(2)神である主イエスの力が与えられている = 主イエスが神であること、同時に、神である主イエスの力が与えられているということです。神の力が与えられている、信仰者の皆さん、クリスチャンの皆さん、あなたはそのことを絶対に忘れてはならないのです。
ペテロが教えてくれるように、あなたの信仰が揺るぎないものになるために必要なのは、あなたがどのように感じるかとか、どのように思うかではないのです。神のことばが何を教えてくれているのか、神のことばがあなたに何を命じているのか、何を約束しているのかです。私たちがどうしても覚えておかなければいけないことは、信仰者なら、あなたには神の力がもうすでに与えられているということです。頭でそのことを知っておられる方はたくさんおられると思います。初めて聞くことではないからです。問題は、その確信を持っているかどうかです。それがあなたの生き方に反映されているかどうかです。主イエスの神としての御力、それがあなたに与えられている、どんなにすごい力がもうすでに与えられたのか思い出してください。神の力です。
*私たちに与えられている神の力とは?
①「全世界を創造された力」が : この神は世界のすべてを、宇宙のすべてをそのことばをもってお造りになった方です。「光よ。あれ。」と言われたら光ができたのです。この宇宙を見た時にそこに存在するすばらしいもの、そして、人間にとってはまだそのすべてを理解し難い法則、知恵が存在してい
ます。いのちあるもののそれぞれを見る時に、そこには余りにも不思議が溢れています。私たち人間のからだを見ても不思議だらけです。私たちの神はそれらをお造りになった。その神の力があなたのうちに与えられていると言うのです。
②「悪魔・悪霊を服従させた力」が : 主イエスがこの地上におられたとき、悪霊たちが、またそのかしらであるサタンでさえもその命令に全く服従しました。主イエスが命じたらそのとおりに彼らは従ったのです。あのゲラサ人の地方にイエスが行かれたとき、レギオンに憑かれていた男が出て来ます。単数なのか複数なのか?これはもうすでに見ましたが、問題は、彼らがこう言います。「私たちを苦しめに来られたのですか?」と。悪霊たちは知っているのです。このイエスが神であられ、この方が命じたらその通りになるということ、だれ一人としてこの方に逆らうことはできないということを。彼らの証がそれを明らかにしています。悪霊たちも、そのかしらであるサタンも主の命令には従うのです。その神の力があなたに与えられているのです。マルコ1:34、39「:34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」「:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」、マルコ3:14、15「:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、:15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」
③「自然を服従させた力」が : イエスはこの自然を完全に支配しておられました。ですから、風を治めたり波を沈めたりという奇蹟をもって、ご自分が神であることを明らかにされたのです。つまり、神はこの自然をコントロールしておられます。神が命じたら自然界もその命令に服従するのです。ルカ8:22-25「:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
④「死を服従させた力」が : 人間にはどうすることもできない死を服従させたお方、それが神です。神が命じたら死でさえも従ったのです。ラザロはもう墓に入って数日経っていました。人々は言いました。「もう彼のからだは腐っています」と。それでもイエス・キリストがラザロに向かって「出て来い」と言われたらそのからだはよみがえって出て来るのです。ヨハネ11:43「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」、死から人をよみがえらせることのできるお方、その神のその力が信仰者であるあなたに与えられていると言っているのです。
⑤「人を生まれ変わらせた力」が : 私たちはこの主によって新しく生まれ変わりました。ただ自分の生き方にイエス・キリストを加えたのではありません。主イエス・キリストの救いに与った者たちは、根底から新しく生まれ変わりました。ヨハネ3:3「…「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われたように、私たちは新しく造り変えられました。だれがそれをしてくださったのですか?神です。その方の力があなたに与えられています。
⑥「永遠のいのちを与える力」が : 神は言われました。ヨハネ10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」、ヨハネ11:25、26「:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」、信仰者の皆さん、あなたは今日死んでも間違いなく神のみもと、天国に行くことを確信しているでしょう?なぜ、あなたはその約束を確信されているのですか?なぜなら、主イエス・キリストがそれをあなたに与えてくださったからでしょう?この神は、永遠の地獄に向かっていたあなたや私を生まれ変わらせて、そして、永遠のいのちを天国を与えることのおできになる方、その力を持っておられるお方です。
⑦「罪の赦しを与える力」が : この神はあなたに罪の赦しを与えました。一部分の罪ではない、すべての罪です。過去も現在も、そして未来もすべての罪です。それを赦すだけの力を持っておられます。使徒26:18でこのように教えています。「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」と。すごいことが記されています。神ご自身は霊的に死んでいたあなたの目を開いて、そして、暗やみの中に罪の中に生きていたあなたをそこから救い出して光の中に入れてくださり、サタンの支配から神の支配へとあなたを変えてくださった。このようなことを神が為してくださったのです。つまり、このようなことがおできになるのが神だと言うのです。
*皆さん、この神の力が信仰者であるあなたにもう与えられている!
実は、この「与えられた」という動詞は完了形で書かれています。つまり、もうすでに起こったことです。もう、あなたには神の力が与えられたのです。完了形というのはその結果が継続していることを示します。過去にあなたにそのようなことが起こり、その結果が今も継続しているのです。あなたは神の力をいただき、その神の力はあなたのうちに働き続けているのです。そのことをまずペテロは私たちに教えているのです。
どうか、イエス・キリストの恵みによって救われた皆さん、そのことをしっかりと脳裏に焼き付けることです。心に刻み続けることです。あなたにはこの神の力がすでに与えられ、その力はあなたのうちに働いているのです。それがクリスチャンたちです。それが救いに与った私たちです。
2)何のために神はこの力をあなたに与えてくださったのか?
「いのちと敬虔に関するすべてのことを」と3節にあります。
(1)「いのち」 : 人として生まれてもっているいのちのことではありません。これは、新しく生まれ変わった者として神からいただいたものです。あなたは新しく生まれ変わることによって神の栄光を現す人生を歩み始めたのです。その新しい人生を生きることができる、そのことを言っているのです。
(2)「敬虔」 : 「神を敬う、また、敬虔のことば、敬虔な行ない」という意味をもったことばです。新約聖書には15回出て来ます。そのうちの14回は「敬虔」と訳されていますが、一箇所だけ、使徒の働き3:12では「信仰深さ」と訳されています。「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」と。
敬虔、神を敬いつつ神に仕えていくわけです。そうすると、ここで「いのちと敬虔に関する」というのはこういうことです。あなたが生まれ変わった者として、あなたが救われた者として、それにふさわしく生きること、神の前に正しく神の前に義なる者とされたあなたがそのような歩みを為していくことです。そのために神の力が与えられたと言うのです。
パウロは、特に信仰者の女性たちに対してⅠテモテ2:10で「むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。」と教えています。気づいていただきたいのは、「神を敬っている人たち」とは、その良い行いによってそのことが明らかにされるということです。救われていると言うなら、神を愛していると言うなら、神を敬っていると言うなら、それはその人の言動によって明らかにされます。ですから、今見たⅠテモテ2:10に「良い行いを自分の飾りとしなさい。」とあるように、大切なのはそのことです。
ヤコブ書1:26でも「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」と言われているように、大切なことは、私たちがどのように生きるかということです。「イエスさまはすばらしい!」と伝えることはできます。でも、問題は、そのことを生き方をもって現わしているかどうかです。人々はあなたの行いを見ているからです。あなたがどんなことばを発するか、あなたがどのように行動するか見ているわけでしょう。ですから、ここでペテロは言うのです。新しく生まれ変わったあなたは、神の栄光を現す者として生まれ変わったあなたは、神に喜ばれる生き方ができるように生まれ変わったあなたは、それらを実践するために必要なすべてのことをもう主によってすでに与えられているのだと。神の栄光を現す者として生まれ変わったなら、そのような歩みをするために必要なすべてのものが、力が与えられている、これがクリスチャンたちだと言っているのです。
パウロも同じことを教えています。ピリピ3:10「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、」と。パウロは、主イエス・キリストの死からよみがえって来た御力が実は私のうちに働いていると言っているのです。あのすばらしい信仰者であったパウロが、あのような歩みをすることができたその秘訣とも言えること、それは主イエス・キリストの力、死からもよみがえって来られたイエス・キリストの力が私のうちには備わっていて、与えられていて、その力によって生きていくことが可能になったのだと言うのです。言い方を変えるなら、キリスト者として新しく生きるのに必要な力がもう私には与えられているということです。そのことをパウロは言っているのです。パウロは私たちに比べて意志が強かったのか?そんなことではありません。パウロは自分に与えられている力がどんなにすごいものか、そのことを知っていたのです。ちょうど、ペテロと同じように。
ですから、パウロはローマ6:4でこのように言っています。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と。私たちは新しい歩みをすることができる。なぜなら、もう私はキリストともに死に、そして、キリストともによみがえったからだ、
そのよみがえりの力が私に与えられていると。あなたはイエスとともに死んで、あなたはイエスとともによみがえった、これがクリスチャンなのです。これが救いに与った人たちなのです。
ペテロにしてもパウロにしても、彼らは間違いなくこう言うでしょう。「私のうちには罪に勝利する力はありません。」と。なぜなら、救われる前の私たちを振り返ってみると、私たちは罪しか犯しませんでした。罪の奴隷だったわけです。私たちはこの罪という力に対して全く無力でした。どうすることもできなかった。ですから、ペテロもパウロにしても「私のうちに罪に勝利する力はありません。死に対する勝利の力もありません。私には主に喜ばれる歩みをしていく力もない。主のみことばに従い続ける力もない。主の栄光を現し続ける力もない。私には助けが必要なのです。そして、感謝なことに、主は助けを与えてくださった。主の御力がもう私には与えられているのです。」と、そのことを言っているのです。そのことを教えているのです。
信仰者の皆さん、あなたが気づかなければいけないのは、これは神が与えてくださった大切な真理だということです。クリスチャンはよく「私はまだ信仰が弱いです。信仰において私は幼いです。」と言いますが、問題は、あなたがこのような力を神からいただいていることを知っているかどうかということです。確かに、私たちの力で主に従っていこうとするなら失敗だらけで「私はだめな信仰者だ」と、間違いなく、そのような結論に導かれていきます。恐らく、ペテロにしてもパウロにしても同じことを言ったでしょう。でも、彼らが私たちに教えてくれる信仰者としての歩みの秘訣は、自分のうちに力があるのではない、力ある方の力が私に与えられていることです。神の力が私に与えられている、それが信仰者として生きる秘訣だと教えてくれるのです。神の力があなたには与えられていると。
ですから、ペテロにしてもパウロにしても、その神の御力をいただいた者としてその力によって生きていきたいと願ったのです。そして、結果を見てください、彼らの歩みは神の御力を証する生き方でした。ペテロを見てパウロを見て彼らはすばらしい信仰者だった!いや、それ以上に、この人たちを使って神が為されたみわざ、それが偉大だった、彼らは大変なことを為したのです。
だから、皆さんにぜひ覚えていただきたいこと、信仰者の皆さん、あなたの力はあなたのうちにあるのではありません。私たちの力など無いに等しいのです。私たちは何もできない、主に従うこともできない、主を信じることもできない、すべて、神の恵みです。そして、信仰者として生まれ変わった私たちが覚えておかなければいけないことは、私たちが主に従って行くために、主の栄光を現していくために、主に喜ばれる生き方をしていくために、神はちゃんとあなたにご自身の力を与えてくださったということです。もうすでに、イエスを信じて、救いに与ったときにその力は与えられ、その力は今もあなたのうちに存在しているのです。だから、主の御力をいただきながら、その力に頼りながら私たちは生きていくのです。
今日のテキストを見ると「主イエスの、神としても御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える」と書かれています。「すべてのこと」です。あなたが主に喜ばれる歩みをしていくために必要なすべてのことを神は与えてくれる、あなたが神の栄光を現わし続けるために必要なすべてのことを神は与え続けてくださるのです。皆さんに質問です。皆さん、そう書いてありますね?皆さんの反応を見たいのです。私が何かを言っている?ではなくて、神が何を言われているのかということです。そう言っていませんか、神は? どうですか、皆さん? 神のおことばは、この神の力が主の栄光を現す、主に喜ばれる歩みを為していく、その歩みを為すために必要なすべての力があなたに与えられていると記されていますね!!
なぜ、このように言うのか?これが私たちの歩みだからです。神が何を言われているのかを正確に知らなければどのようにして神に従いますか?メッセンジャーが前に立ってメッセージをしたからと、そのメッセージを信じるよりも、あなたが信じなければいけないのは神が言われていることです。
だから、皆さんに見ていただきたい、皆さんの確信になっていただきたいのです。神はそのように言われているからです。何か欠けているなどという、そのような言い訳はできないのです。私はまだ信仰が弱いとか信仰歴が短いとか、それがいったい何でしょう?神はあなたが信仰の年数に関係なく、主のみこころに従って行くために必要なすべての力をもうすでに備えてくださっています。問題は、信仰歴が何年とかではなくて、あなたはその力をいただきながら、その神の約束を信頼しながら歩んでおられるかどうかです。
3)だれに与えられたのか?
見てください。だれにこの力が与えられたのか?もうすでに見て来ました。「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、」とあります。神のすばらしい力をいただいたのは、この主を知った人たちにです。「神を知った者に」この祝福が与えられたのです。よくこの場でも話すことですが、「神のことを知っている人」と「神を知っている人」は違うということです。「神のことを知っている人」はこの世の中にいっぱいいます。学問として学んでいるとか、あのパリサイ人や律法学者も大半の者たちがそうでした。知識はたくさんあったのです。ですから、彼らに質問したら正しい答えが返って来ます。問題は、「神を知っているかどうか」です。
イエスはこんなことを人々にお話になりました。マタイ7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と。すると、それを聞いた者たちはこう言うのです。7:22『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』、なぜ、私が永遠の地獄なのですか?と。そこで、そのさばきのとき主はこう言われます。7:23「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」と。ショッキングでしょう。彼らは言うのです。私はあなたの名によっていろんなことをしたではないですか?と。でも、その時主は言われます、「あなたのことを全然知らない」と。彼について知識がないというのではありません。神がお造りになった被造物ですから、彼がどんな歩みをして来たのか、どんなことを考えたのかすべてのことをご存じです。「知らない」というのは「神と個人的なつながりがない」ということです。だから、神のことを知っている人はたくさんいます。でも、神を知っている人は少ないのです。
あなたは神を知っていますか?あなたはあなたを造られた、そして、あなたを救うために救い主を送ってくださったこの神と、あなたを救うためにこの世に来てくださった救い主イエスと個人的つながりがありますか?この方はあなたの神ですか?この方はあなたの救い主ですか?この方はあなたの主人ですか?あなたはこの方の奴隷ですか? 頭だけで、知識だけを持っている人々はたくさんいるのです。だから、私たちはこの救いというものを正しく伝えなければいけないのです。皆さん、多くの人たちが天国に行きたいからイエスを信じる、また、そのように勧める教えもあります。「天国に行きたいですか?では、イエスさまを信じなさい。」と。悔い改めというものを全く話さないのです。しかし、聖書は私たちに教えています。あなたは自らの罪に気づいて、そして、自分は永遠の滅びに向かっている者であり、自分で自分を救うことのできないどうしようもない存在であり、助けが必要である者であることに気づいて、そして、神が備えてくださった救いを心から信じ受け入れて、この方に従って行く決心ができているかどうか?と。
なぜ、私たちがこのようなことを話すのか?思い出してください。自分で自分を救うことのできない私たち、神が最初にどんな働きをするのか?神はその人のうちに働いて、罪について義についてさばきについてその人の誤りを認めさせるのです。つまり、聖霊なる神が一人ひとりのうちに働いて、あなたの歩みは間違っている、あなたを造りあなたを愛している神に逆らうその生き方は間違っていると、そのことを明らかにしてくれるのです。ヨハネ16:8「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」と。こうして神は働き、救いが必要であることに本当に心から気づかされ、そして、神の前に助けを求めて出て行く、こうして、その人は救いに与るのです。そのことを語らずして、どのようにして人々に正しいメッセージを伝えることができますか?
神のことを知っている人はたくさんいますが、大切なのは神を心から信じている人、神を知っている人々、そういう人が増やされていくことです。願わくは、私たちの群れの中におられる皆さんは「神を心から知っている人」であることを心から願います。
まず、この3節の動詞が教えることは、神はあなたに「与えて」くださった。あなたは受け身なのです。神は何をあなたに与えてくださったか?「神の力」を与えてくださった、救われた者としてそれにふさわしい歩みを為していくためのそのすべての力を神はあなたに与えてくださったのです。そうすると皆さん、みことばを聞いて神の命令を聞いて「私にはできません」ということばは、もう二度と言わないことです。もし、あなたがそれを言うなら、あなたはこのみことばに反することを口にしているのです。神はあなたがみこころに従うために必要なすべての力を与えたと言うのです。「すべて」。でも、私たちは自分の中で勝手に例外を作るのです。これは可能かもしれないけどこれは不可能だと、そのような不信仰な歩みを止めることです。神が言われたことをそのとおり受け入れることです。
そのような人々を神が使って来られたことを皆さんご存じでしょう。これまで私たちはみことばを通して信仰の偉人たちをたくさん見て来ました。彼らに共通していることは、自分で考えて「これは無理だ、だから、神さまできません」と言いません。神はそのような人を使って来なかった。人間的に見て不可能と思えることでも、神が言われたことは必ずそうなると信じる人を神は使ったのです。あなたはそういう信仰者ですか?みことばを見た時に、神の命令を見た時に、「これは難しい、大変だ。」と、確かにそうです。でも、私たちはそこで止まって「神さま、だめです」と言うのではなく、そこから一歩進んで、主を信じて「あなたはできると言われたのですから信じます。どうぞ、私をあなたに忠実に従う者と変えていってください。あなたのおことばを聞いた時に私の肉は無理だと言います。この不信仰の私を赦してください。あなたの言われたことは必ずそうなる。どうぞ、その通りになりますように。」
と、そんな信仰者を神は使ったのです。
皆さん、神はあなたを通してあなたのすばらしさを示そうとしているのではないのです。神はあなたを通して神ご自身のすばらしさ、神の御力を示そうとしているのです。だから、神が喜ばれる、用いられる信仰者というのは「神さま、どうぞ私を使ってください。だめだ、できない、無理だと叫ぶ私を赦してください。あなたの言われたことは必ずそうなると信じ切る、そんな信仰者に私は変わっていきたい、成長していきたい、助けてください。」と、このような選択をしてこのように歩む時に、あなたは初めて主の御力があなたを通して現わされることを期待できるのです。なぜなら、私たちは自分のすばらしさを証するために生きているのではありません。神のすばらしさを証するために生きているのです。これまであなたは神にその機会を与えて来なかった、もう、あなたが自分で判断したのです。「これは無理です。私は信仰がまだ未熟だから、幼いから…」と。だから、何も起こって来なかったのは神のせ
いではない、あなたのせいなのです。そのことに私たちは気づかないといけません。
ペテロもパウロも教えるのです。「信仰において成長しなさい。霊的に成長しなさい。それは可能だから」と。では、なぜ私は成長しないのか?私が信じて来なかったからです。私が神に働いていただく機会を神に提供しなかったからです。そうすると、いつの間にかあなたの信仰は力に溢れるものではなく、杓子定規で形だけのものになります。神が約束された喜びや感謝というそんなダイナミックな歩みができるにも関わらず、その機会を神に与えなかったのです。みことばは言いました。「いのちと敬虔に関するすべてのことを」と。神はもうあなたに与えてくださった。そういう生き方が、そういう信仰者としての歩みができるのです。そのことをどうぞあなたの心にしっかり刻んでください。この聖書の
箇所があなたに教えてくれていること、この神のメッセージにしっかりとあなたは立つことです。
2.お召しになった
二つ目に見る動詞は「お召しになった」でした。「召し」ということばは「呼び出す、招く、呼び寄せる」ということです。ペテロはここで、人が救われるのは神の恵みによる、神のみわざによって救いに与ると言っています。ここにいる皆さん、世界中の皆さん、例外はありません。私たちは生まれながらに霊的に死んでいるゆえに、神や救いのことなど、霊的なことを全く理解することができないし、信じることもできないのです。だから、私たちには、救われるためには「助け」が必要なのです。
パウロはⅡテモテ1:9で「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、」と言っています。今学んでいることをパウロは明確に教えてくれています。「神は私たちを救い」と、神が救ったと言っています。また、「聖なる招きをもって召してくださいましたが、」と、これはすべて神のわざです。「それは」は目的です。「私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。」と。神は、あなたが何かをしたからではない、神ご自身の計画と恵みによってあなたを救ってくださったのです。Ⅰペテロ5:10でも「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」とあります。この「招き入れて」ということばは、人間の価値とか業績に関係なく、神ご自身がご自分の意志をもって人を選び救いへと招いてくださるということです。
皆さん、あなたが何かをしたから神があなたに救いをくださったのではありません。何もできないあなたのうちに神が一方的に働いて、神ご自身があなたを救いへと呼んでくださった、招いてくださったのです。だから、神のことを聞いても全く理解できなかったあなたが理解できるようになり、自分の罪深さに気づき、神が備えてくださった救いを心から信じてこの方に従っていこうと、そのような選択ができたのは、真理が理解できたのはすべて神のみわざであると言うのです。このように神があなたのうちに働いて、神ご自身があなたを救いへと招いてくださった。この招き、これを神学的には「有効召命」と言います。神はあなたを選んでくださっただけでない、選ばれたあなたを神はご自分の恵みでもって救いへと招いてくださったのです。こうして今、私たちは救いを楽しんでいるのです。神が一方的にあなたを召してくださったから、今あなたはこの救いに与っているのです。
*このような恵みによってあなたは救われたのだということを忘れていないか?
テキストに戻って、ペテロはこの救いが100%神のみわざであること、ゆえに、心からの感謝と畏敬の念をもって従い続けるために、彼はこんなことを記してくれています。「…私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を…」と。簡単に言えば、これは神ご自身のご性質を現わしています。というのは、神は栄光に満ちあふれたお方だからです。山上の変貌の時に弟子たちがイエスを見たとき、イエスの御姿は光り輝いていた、栄光に溢れていました。神だからです。神はまた「徳に」、つまり、きよさ、正しさにおいても完全なお方です。このような神があなたを召してくださったのです。この神はあなたに何を期待しておられるのか、お分かりになるでしょう?
あなた自身が神の栄光を現すことです。だから皆さん、よくご存じのように、私たちの生きている目的は「神の栄光を表すため」です。栄光あるお方があなたをその栄光へと招いてくださった。ゆえに、あなたに栄光を現す存在として生きていきなさいと、当然、そのことを要求なさるはずです。
また同時に、すべてにおいて正しく聖いお方があなたを招いてくださったゆえに、あなたのすべてにおいて、道徳的にも主と同じように変えられていくように、道徳的にも主に似た者へと成長すること、そのことを神はあなたに望んでおられるのです。ですから、ペテロはⅠペテロ1:15で「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」と、あなたを招いてくださった方に倣ってあなた自身がそのように歩んでいくようにと、それが神があなたに求めておられることです。
神の栄光のために生きるだけでない、神がそうであられるように道徳的にも成長していくように、益々聖く正しい者へと変えられていくようにと、神が望んでおられること、神の命令とも言えますが、このことにおいても神の助けがあることが約束されています。皆さんよくご存じの箇所です。Ⅱコリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、」と、今見ています。栄光ある神によって召された私たちは、栄光を現していくようにと。「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」と、栄光を現す者として、そして、主がそうであったように道徳的にも私たちは主に似た者に変えられていきます。こう続きます。「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と、すごいと思いませんか?「わたしはこのことをあなたに命じます、頑張りなさい。」と神は言っておられません。神はあなたに「こうあってもらいたい、このようにありなさい。」と言われて、それを神ご自身が助けてくださることを教えています。このようにあなたを変えていくこの変態の働きというのは、姿が変えられていくこの働きは「聖霊なる神の働き」によると言うのです。
今日、私たちはペテロの手紙を見たのです。あなたが信仰者としてそれにふさわしい生き方をするために必要なすべての力が与えられている。パウロも教えてくれるのです。「栄光から栄光へと主に似た者とあなたは変えられていく」、それはまさに聖霊なる神の働きだと。皆さん、お気付きになるでしょう?神が望んでおられることを神の助けによって達成するのです。そのときに、それを為さしめた神が誉め称えられるのです。そして、神の栄光が現されていくのです。
皆さんに今日気づいていただきたいこと、それは、神はご自分の命令にあなたが従うようにとすでに助けを与えてくださっているということです。しかも、その与えられた助けは完璧なものです。ですから、神のみことばに従えないのではないのです。神のみこころに従えないのではないのです。従うことができるのです。その神の力を「恵み」と言います。自分は信仰が弱くて神のみこころに従って行くことができないと、これまであなたが口にすることを赦して来たこのようなことばが、そのような心が正しくないことにお気付きになったでしょう。そのような思いは神から来ているのではない、あなたの肉から罪から来ているのです。そのような思い自体が神のみこころに反するものだということに皆さんお気付きになったでしょう。
そのような考えをもってあなたが生きることを神は喜ばれない。なぜなら、それは聖書の教えに反することです。だから、繰り返します。「出来ません」というそういうことばをあなたはもう今日から口にしないことです。いや、してはならないのです。却って、今日からあなたは「主よ、私はそのように生きていきたい。あなたが命じておられるように、あなたが言われているように生きていきたい。主よ、どうぞ、私を助けてください。」と言うことです。なぜなら、神はあなたが従うために十分な力、十分な恵みをもうすでに与えてくださっているからです。「できない」ということを良しとして来た信仰者から、私の力である神に信頼しますという信仰者に変わる決心をして、今日から歩み始めることです。
皆さん、みことばを信じて従う以外に主の祝福をいただく方法はありません。今日、ペテロが私たちに教えてくれたことは、あなたには神の力がもうすでに与えられている、私たちはその助けを力をいただきながら生きていくということです。なぜなら、神はもうあなたをこの救いへと招いてくださったからです。あなたにできないことを神がしてくださるのです。このすばらしい救いを永遠に楽しむ者に生まれ変わらせてくださったのです。確かに、私たちは天国に行ってこの神を崇拝しながら歩んでいきます。すばらしい祝福があります。でも、地上にいて私たちはそのような祝福をいただいた者として、このすばらしい祝福をこのすばらしい神を証しながら生きていけるのです。
それを神は望んでこの日をあなたにくださった。だから「できない」ということは、その神を悲しませることです。そのことに気づくことです。「あなたにあって出来ることを知っています。あなたが望んでおられるように生きていきたい。主よ、どうぞ私を助けながらあなたの栄光を現してください。私ではなくてあなたの力を示してください。私ではなくてあなたのすばらしい御力を示し、人々があなたの前にぬかずくように私を使ってください。」と言うのです。信仰の勇者たちが生きたように、あなたも生きていくことができるのです。それが出来ることを神がこのみことばを通して明らかにしてくださった。しっかりこのみことばをあなたの心に焼き付けることです、そして、ただ焼き付けるだけでなく、このみことばに従って今日から生きてください。
主がどんなみわざを為してくださるのか、その期待をしながら…。なぜなら、そのように歩む人は主のみわざを見るからです。主の栄光が現れるからです。そのようにして生きましょう。
《考えましょう》
1.「主イエスの、神としての御力」とはどういう意味ですか?
2.「与える」ということばがありました。神があなたに与えてくださったものを説明してください。
3.「いのちと敬虔に関するすべてのこと」の説明をしてください。
4.今日、あなたは主から何を教えられましたか?
教えられたことを分かち合って実践に励んでください。
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