メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:2
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
映像: メッセージを見る
きょう私たちはⅡペテロ1:2を見ていきます。ペテロは小アジヤの教会とそこに住むクリスチャンたちにこの手紙を送っています。もちろんⅠペテロと同じ教会、同じ人々に送られていますが、状況は少し変わりました。Ⅰペテロが送られた時、クリスチャンたちは大変な迫害に直面していました。紀元64年にローマは焼けます。私たちは歴史によってあれはネロによって火がつけられたことを知っていますが、彼はその責任をクリスチャンたちに負わせるわけです。恐らく大変な迫害がクリスチャンたちに襲いかかっていたでしょう。ですから、Ⅰペテロは64年の大きな火事の前後、64年か65年に書かれたと言われています。それから数年たってこのⅡペテロが書かれますが、この手紙を書いた後ペテロはネロの迫害によって殉教したと歴史は言います。ネロが亡くなったのが紀元68年と言われていますから、恐らくⅡペテロはその前後67年か68年に記されている。どちらにしても第一の時は信仰ゆえにクリスチャンたちが受ける迫害の中でしっかりと主を見上げて歩んで行くようにとペテロは励ましを与えるわけです。そして第二の手紙では偽りの教師たちが教会に入り込んで来た、その中にあってもしっかりと主を見上げて歩み続けるようにと、ペテロは励ましを与えます。
2節には、「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」と、ペテロがこのクリスチャンたちにどんなことを望んでいたのかが記されています。いろいろなことが周りに起こり、予期せぬ出来事を日々経験するかもしれないけれども、その中にあって、あなたたちが「恵みと平安」において成長するように、これがペテロが彼らに望んだことでした。今の私たちの日々の生活においてもいろいろなことが起こっています。皆さんも日々いろいろなことに直面しておられます。ペテロはこの読者たちがどのようなことに直面しようと神の「平安」を持って歩んで行けるように望みました。ということは、神は当然あなたにも同じことを望んでおられる。時代がどう移り変わろうと、人間が抱える問題というのはよく似ています。あなた個人がどのようなことに直面していようと、みことばはどのように生きて行くべきかを私たちに教えてくれます。どうしたら、私たちはそういうさまざまなことに惑わされない、そういったことに心を騒がせることのない「平安」を持った生き方を実践することができるのか、ペテロが教えてくれています。なぜならそのように生きることがあなたにはできるのです。
きょう、私たちは特に2節「恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」、このみことばからどのような信仰者にあなたが成長することを主が期待しておられるのかを見るとともに、どうしたらそういう人になることができるのかをご一緒に見て行きます。
A.「恵みと平安」の意味 2節
1.「恵み」
その前にまず2節「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が……」と続きますが、この「恵みと平安が」豊かになりますようにというみことばを理解するには、この「恵みと平安」がどういう意味なのかを知ることが必要です。まずこの「恵み」ですけれども、詳しい説明をする必要はないと確信しています。「恵み」に関して、こんな定義を何度も耳にされていると思います。「罪人に与えられる無償で受けるに値しない、ふさわしくない神のご厚意であったり恩恵である」と。つまり神様が「恵み」としてあなたに与えてくださっているもの、そのどれを見ても、我々がいただくにふさわしくないものばかりだということです。なぜなら私たちが受けるにふさわしいものはただ一つ、神の永遠のさばき、地獄です。ですから、神様が私たちに与えてくださったもの、また与えてくださっているものは、まさに受けるにふさわしくない、ただ神が一方的にご自身の愛でもって、ご自身のご厚意でもって与えてくださっているものです。それを理解するためにこの「恵み」について三つのことを見て行きます。
1)「救い」において エペソ2:8、9 ローマ3:24(エペソ1:7、テトス3:7)
私たちが「恵み」を考える時、まず思い浮かべることは、間違いなく救いです。私たちは救いは「恵み」によって与えられたということを知っています。「恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とエペソ2:8が教えます。またローマ3:24でも「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」、この方にあって私たちはその「血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)とあります。ですからみことばは、あなたがこの救いにあずかったのはあなたが何かをしたからではなくて、神が一方的にあなたに与えてくださったのだと教えています。
2)「日々の必要」において
ただ「恵み」はそれだけではありません。「恵み」は日々の必要においても十分にあなたや私に与えられています。神は日々の必要を満たし続けてくださっています。私たちにはちゃんと食べる物が与えられています。暖かいところで休むことができます。着る物も与えられている。これはすべて神が私たちに与え続けてくださっているものです。最初にお話ししたように、私たちが受けるべきものは神の呪いであり、神のさばきです。しかし、神はご自身のご厚意によって日々このような祝福を私たちに与え続けてくださり、日々の必要に神がこたえ続けてくださっている、これも神の「恵み」です。忘れてはなりません、当たり前だと思わないことです。すべてのことを神様は「恵み」でもって私たちに与えてくださっている。
3)「生きること」において Ⅰコリント15:10
三つ目に私たちが覚えることは、生きることにおいて神は「恵み」を与え続けてくれています。私たちは神様に従って行く者として生まれ変わりました。クリスチャンというのはそういう人です。天国に行きたいから天国をもらったのではない。クリスチャンというのは神に逆らって来た、神の敵であった私たちが、神によって生まれ変わることによって、神の子どもとされて、神に従う者になった。それも「恵み」だと今見て来ました、救いですよね。しかし、私たちが新しく生まれ変わるだけではない。救われた者として神に従い神の栄光を現していく、このクリスチャンとして生き方においても神は力を与え続けてくれている。助けを与え続けてくれている、それが「恵み」なのです。ですから私たちは「恵み」によって救われて、神の「恵み」によって神の助け、神の力をいただき、神のみこころに従って行くという新しい歩みを実践することができるようになったのです。
パウロはⅠコリント15:10でそのことを非常にわかりやすく教えています。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」、救いの話です。救いにあずかった、これは神の「恵み」によるのであると教えています。「そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」、パウロ自身が主に従い続けたこと、主に仕え続けたことを教えます。その後で、「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と。救いだけではない、救われた後の信仰生活にも神の「恵み」が与えられ続けているということです。「恵み」によって救われ、「恵み」によって生きて行くということはそういうことです。神の助けによって救いにあずかり、神の助けによって信仰者として生きて行くのです。
2.「平安」 ヨハネ14:27
もう一度テキストに戻って、「恵みと平安」の二つ目のことば、「平安」というのはどうでしょう。ここで言われている「平安」というのは、ちょうどイエス様が弟子たちに約束されたものでした。ヨハネの福音書14章はイエス様が動揺していた弟子たちに心配することはないとして教えたものです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」と言われた。あなた方の住まいは天に用意されているからと。ヨハネ14:27でイエス様はこう言われています。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」、これだけでも驚きですよね。神ご自身、イエス様が持っておられた「平安」をあなた方に与えると。「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と。イエス様はこうして弟子たちにイエス様ご自身の「平安」を約束されたのです。でもその約束は彼らにとどまるのではなくて、あなたが主によって救われ、主によって罪の赦しをいただいたのであれば、この約束はあなたに与えられている約束だと言えるわけです。あなたはイエス様の持っておられる「平安」を持って日々を生きることができる者へと生まれ変わっているのです。
イエス様が持っておられた「平安」というのは、いつも心を満たしていたものです。どんな時でも主ご自身はまさに安らかに憩っている状態。どんなに悲しくても、どんなに辛くても、どんなに苦しい出来事があったとしても、また孤独から来る寂しさを経験していても、その心をこの「平安」が守っていると。イエス様の生涯を我々が振り返る時に、まさにイエス様はこの「平安」に満たされて歩まれた唯一のお方です。感謝なことにその「平安」が主イエス・キリストによって救われたあなたにも与えられていると。ですから、先ほど言ったことにもう一回戻ると、主イエス・キリストによって救われたあなたは、主の「平安」を持って過ごすことが可能になったのです。どのような状況に置かれても、心が「平安」で満たされ続けることが可能なのです。今のこの混沌とした時代にあって、こういう人々がどれだけ必要であるか、おわかりになりますでしょう?どの時代においても残念ながら人間の心というのは、神を信じるまで本当の「平安」を持っていないのです。だから私たちは本当の「平安」をいただいた者として、神が約束された「平安」とはこんなにすばらしいものであり、こんなすばらしい「平安」を与えることのできる「平安」の神がどんなに偉大なお方であるかということを人々に証する務めをいただいていることを忘れてはならないのです。
B.「恵みと平安」を持って生きる方法 2節
2節「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」、神はあなたがどんな信仰者に変えられることを望んでいるかということです。今「恵みと平安」を見てきました。どんなことが人生に起ころうと、どんなことにあなたが遭遇しようと、どんな時にもあなたが主を見て、主を信頼して、そしてその主が約束してくださった「平安」を持って歩み続ける、そういう信仰者に成長して行くことを神は望んでおられると。繰り返しますが、そういう生き方ができるのです。問題はどうしたらいいのかです。実はそのことを教えるのです。
1.救われること
まず一つ目にペテロが我々に教えることは当たり前の話ですが、救いにあずかることです。2節には「恵みと平安」と、このような順序で二つの名詞が並んでいます。これは新約聖書の中に13回出てきます。おもしろいのは1回たりとも「平安と恵み」とは出てこないのです。全部「恵みと平安」なのです。偶然そんなふうに書かれたのでない、意味があってこのように書かれているのです。なぜかというと、神の約束された「平安」を持つためにはまず「恵み」をいただくことが必要だからです。「恵み」、つまり神様の恩恵です。救いが必要だということです。つまり最初にも見たように、救いにあずかった者だけがこの神の約束された「平安」を持って生きることが可能なのです。ですからそういう順序で記されているのです。まずはひとりひとりが救いにあずかることです。罪の赦しをいただくことです。神と和解することです。その時にこの約束をいただくのです。
ローマ5:1に「ですから、信仰によって義と認められた私たち(つまり救われた私たち)は、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。神様との新しい関係です。神との間に平和、ピースが存在するのです。生まれながらの私たちはそのような関係にいません。生まれながらの私たちはみんな神の敵として、神に逆らう者として生きています。だからこの神の祝福を経験することはありません。でも私たちが神様との関係を修復する、和解することによってこの祝福をいただくことができると聖書は我々に教えてくれるのです。ですから、「恵みと平安」がとペテロは告げたわけです。
2.主の助けをいただくこと:ピリピ4:6、7
さて、ここまで見てきて、先ほどから何回も救われたあなたにはこういう生き方ができるのだと言ってきました。確かにみことばはそう言っています。信仰者であるあなたが主なる神の「平安」を持ち、またどのような状況でも心が「平安」に満たされ続ける。これは可能なのです。もちろん私たちがその「平安」を経験するためには、今見てきたように、神に助けをもらわなければなりません。皆さんの人生を振り返ってみてください。救いにあずかっているのに、神のところではなくてほかのところに助けを求めて行っていませんか?神様と和解して、神のところに出て行くことを許されていながら、神ではなくてほかのところに解決を求めたり慰めを求めたり。もしそうしているのなら、いつまでたっても神の「平安」を経験することはありません。みことばが私たちに教えてくれていることは、神しかその「平安」を与えることはできないのです。だから私たちはその方のところに出ていかなければいけないのです。
1)平安を失う方法 ピリピ4:6
今話していることを実はパウロが私たちにわかりやすく教えてくれているので、ピリピ4:6を見てください。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と。パウロは私たちに「平安」を失う方法を教えてくれています。どうやったら心から「平安」がなくなるか書いています。「思い煩」えばいいのです。いろいろなことを考えて気をもんで、苦しんでいる様子です。心の中に心配があるのです。何か起きるのではないかとか、そういった不安が心を支配しているために、時には眠ることもできない。気持ちがなかなか落ち着くことがない。心を騒がせることはたくさんあります。自分の生活を振り返ると、あなたの心の中に思い煩いはありません?あなたの心の中に心配はありません?不安がありません?もしあなたがそういうものを自分の心の中に赦しているならば、あなたのうちに「平安」はありません。なぜならこの6節には「何も思い煩わないで」とあります。つまり今すぐ思い煩うことをやめなさいという命令なのです。
2)平安を保ち続ける方法 6節
(1) 否定的命令:今すぐにやめること
どうしたらいいかというと、続けて「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。「思い煩」うのではなくてかえって祈りなさいと言っているのです。なぜ「思い煩」うかというと、自分でできないことを自分でやろうとするからです。不安になるのはそういうことです。できることをやる時には不安にはならないです。できるかな、どうかなと思っていることだったら不安が少しあります。これ、絶対できないなあと思えば、不安は増していきます。つまりできないことを自分でやろうとした時に「思い煩」うのです。不安になるのです。「思い煩」っている人たちは、自分でできないことを一生懸命自分でやろうとしているから、その誤った選択
の結果を自分に招いているのです。
(2) 肯定的命令:すべきこと
みことばが私たちに教えてくれること、神が私たちに教えてくれていることはそうではないのです。神のところへ持って行けと言うのです。多くの人たちが抱えている多くの問題を彼のところに持って行っています。神様、あれが困っています、こういう必要があります、病気が治りますようにいろいろなこと。でも、聖書を見た時にただそうしたらいいとは教えていません。そんなふうに書いていなかった。確かに祈ることが書いてあるのですが、「感謝をもってささげる祈りと願いによって」とあります。
つまりあなたを不安にさせるもの、あなたに心配をもたらすこと、あなたの気ががりを神に感謝しなさいと。それがこの箇所が私たちに教えてくれていることです。私たちが神の前に何か祈りを捧げる時、私たちが言うことは「神様、どうぞこれを除いてください。そうすれば感謝します。」、「この願い事にこたえてくださったら感謝を捧げます」です。みことばが言っているのは、その問題自体を感謝しなさいと。そこなのです。あなたは一生懸命祈っておられるかもしれない。でも幾ら祈ってもあなたの心が不安から解放されない。それはあなたの祈りが間違っているからです。これ下さい、あれ下さいというのは世の中のみんながやっていることです。救われる前の私たちがやっていたことです。信仰者の祈りというのは、そのすべての人間から見たら問題だと思えることも神に感謝するのです。なぜ感謝するか、実は感謝するということは私は主を信頼するということを告白しているからです。神を信頼しているから、神様、私にはわからないけれども、でもあなたを信じています。だから「ハレルヤ」と言うのです。
3.その結果 ピリピ4:7
1)神の平安を得る「すべての考えに勝る神の平安」 Ⅱテサロニケ3:16
この箇所を見てください。もしあなたがそのようにするならば、7節「そうすれば、」と書いてあります。結果の話です。「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」、みことば――神様のおことばというのは、非常に明確です。どうしたらいいのかをちゃんと教えてくれている。もしあなたがだれかから、アドバイスを求められたとしたら、一番いいアドバイスは神のことばに戻りましょうと。神のことばが何と言っているのかに立ちましょうと。人間の知恵を聞いても意味がありません。その人の経験を聞いて、確かにそれがみことばに基づいてみことばに一致することだったらいいです。でも人々の経験を聞いてそれがどうなります?私たちが知りたいのは神が何と言われているかです。
なぜなら「平安」を下さるのは神なのですから、その神様が何と言われているかを見ないで、どうやって神の「平安」を手に入れられます?神の祝福をいただきたければ、我々は神のルールに沿ってやらなければいけないのです。私たちが手にしているこの神のことばが神のルールです。だから私たちはこの神のことばを正しく見て、正しく解釈しなければいけない。「そうすれば」、もしあなたが今、その問題に感謝できないことを抱えているのだったら、それをまず感謝しなさいと。なぜならば私の信じている、あなたの信じている神はすべてのことを働かせて益とする方だと。どんな神なのかを覚えた時に、私たちはその方の前に少なくとも感謝する。神様の「平安」が与えられると書かれてあるように、「人のすべての考えにまさる神の平安」だと。つまり人間のすべての考えに勝る、この世のものによっては決して得ることのできない「平安」です。すべてを超越した神様の「平安」です。この世の人々には決して理解できない「平安」です。そういう「平安」を神が与えてくださるからこそ証になるのです。喜べる状況で喜んでいても、だれも何とも思いません。でもだれが見ても絶対喜べない状況で喜んでいる姿を見た時に、この人たちは一体何者だと思うわけです。迫害の中にあって人々はそれを喜んでいたのです。すると人々は「一体なぜ彼らは喜んでいるのか」と思うわけです。
私はいろいろな証を教会員の皆さんから聞かせていただいています。いのちが危ない時に大変な「平安」を持っていた。神様の「平安」を持って大変な手術に臨んでいる。すべて神様がひとりひとりのうちになしてくださっているみわざを彼らは証ししているのです。神はこんな約束を与えてくれています。もし私たちが思い煩うことを今すぐやめて感謝を持って神の前にそれを委ねて行くならば、神は世の中の人たちが絶対に理解できない「平安」であなたの心を満たしてくれると。
2)神の平安を失わない
こんなすばらしい歩みができるのに、なぜそのような歩みをあえて選択しないのですか――。こんなすばらしい神様の祝福をいただきながら、この混沌とした世の中にあって、我々は神の偉大さを示すことができるのに、なぜそんな選択をしないのでしょう。しかも7節のみことばを見ると、神の「平安」が「あなたがたの心と思いを……守ってくれます。」とあります。あなたの心、つまり考えとか感情が出てくるところ、思い、あなたの意思や理性が出て来るところ、行動を生み出すところです。そういった影響を受けやすい部分をちゃんと神は守ってくれると。この「守る」というのは軍隊用語です。ちょうど兵士が門のところでその町を守るように、動揺しやすいあなたのその思いと心の部分を敵に襲われることがないようにちゃんと神が守ってくれると言っているのです。こんな約束を神様は与えてくださっているのです。すごい約束が我々クリスチャンには与えられています。
C.「恵みという平安」において成長する方法 2節
でも私たちは最初にも言ったように、どうやったらそういうものを得ることができるのか、そのことをしっかり知らなければいけない、また知るだけではなくてそれを実践しなければいけない。そこでもう少し実践法に入って行きます。
1.ペテロの祈り:「ますます豊かにされますように」
2.忠実な歩み
きょうのテキストに戻って2節のみことばを見ると、「恵み」と「平安」という二つの名詞に動詞がついています。それは日本語では非常に長く訳していますが、「ますます豊かにされますように」と訳されている動詞があります。二つの名詞があってこの動詞がついているのです。この動詞をよく見てみると、二つの名詞がついているのに単数になっています。なぜかというと、この「恵みと平安」の二つをペテロは一つの経験として見ているからです。つまりこの二つを切り離すことはできないのです。「恵み」において成長している人が「平安」を持たないというのはあり得ないのです。「恵み」において成長していない人が「平安」を持つことはあり得ないのです。
この「恵みと平安」において成長するにはどうしたらいいのか――。2節が我々に言ってくれています。「ますます豊かにされますように」と訳されたこの動詞、先ほど単数だと言いましたけれども、実は受身です。つまりこのような豊かな祝福というのはいただくものだということです。
3.主をより深く知ること
1)個人的に知る:信頼
ではどうやったらそれをいただくことができるのか――。「神と私たちの主イエスを知ることによって」と書いてあります。これがその祝福を得る手段です。この「知る」ということばは、一般的に「見分ける」とか「理解する」という意味のギノスコというギリシャ語の強調したものが使われています。ただのギノスコではなくてエピ・ギノスコ、エピという前置詞がついたことばが使われています。なぜペテロがそんなことばを使ったのかというと、彼が言いたかったのは「完全な」とか「豊かな」とか「徹底的な知識」とか「特別な題材に関する個人的理解の程度」なのです。つまり浅く知るのではない、もっと深く知るようにということをペテロはここで強調したかった。だれを知るのかというと、「神と私たちの主イエス」をと言っています。
バークレーはこの「知る」ということばについてこんな説明をしています。「キリスト者のキリストに関する知識とは、キリストとの人格的な知識である。それはキリストを人格として知ることであり、日々進歩するキリストとの密接で親密な関係に入ることである。ペテロはキリスト教とはイエス・キリストとの絶えず深まりゆく人格的関係なのだと語っているのである。」と。つまり、ここで言われている神を、イエスを「知る」ということは、図書館に行って神学書を取ってきて、神のご性質について見てそれを一生懸命覚えることではないのです。人格的に個人的にこの方を知りなさいと。私たちもいろいろな著名人のことをニュースを通して知ることができますが、それを知ったからと言って親近感はわきません。情報を得たに過ぎません。でも個人的に時間を過ごすことによって、その人のことがよくわかりその人に対する個人的な信頼が増して行きます。ここでペテロが言わんとしていることはまさにそうなのです。あなた自身があなたの神のことをもっと個人的に知っていきなさいと。
2)主は真実なお方:感謝
実はあなたが神を知れば知るほど、あなたが抱えるさまざまな事柄に例外なく感謝する人になるのです。今言ったことを少し考えてください。あなたが自分の神を知れば知るほど、あなたが日々直面するいろいろな予期せぬこと、悲しいこと、辛いこと、どんなことに対してもあなたはそれらを感謝する人になるのです。なぜならこの感謝を生み出すのは、その方に対する信頼です。例えば私たちが病にかかったとしたら、その時に私たちは「神様、なんで病なのですか」なのではなくて、私の神は最善しかなし得ない神であると。だから私たちは私にはわからなくても最善しかなし得ない神がなしてくださったから感謝します。私がもしあなたのように知恵を持っていたら、なぜというのがちゃんとわかるけれども、残念ながら私にはその知恵がない。でもあなたは完全な知恵をお持ちであり、あなたは最善しかなすことができない神だから、だから私はあなたを信頼しますと言っているのです。いろいろな必要を我々は抱えます。その時に私たちはどうするかというと、神様、あなたは必要を満たすと約束してくださった。どうぞあなたの約束なさったように必要を満たしてください。このことを通して私があなたがいかに真実なお方であることを学ぶことができるようにと。将来のことでもこれからどうなって行くのだろうといろいろな不安があります。病気になるのではないか、認知症になってしまうのではないか、寝たきりになってしまうのではないかとか、老後はどうなって行くのだろうと。不安に思うのは、私たちは未来のことがわからないからです。でも感謝なことにあなたの神、私の神は、全部知っておられます。その方のところに我々は持って行くことができるのです。わからないことで心配するのではなくて、神が常にそばにいてあなたや私を導き、みこころのままに私たちを用いてくださる。この神様に失敗はないのです。神様はちゃんとすべてのことを知った上で私たちのためにすべてのことをしてくださっている。だから確かにどうなるかわからないけれども、でもこの神がこんな約束を与えてくださったから、私はこの方を信じて行こうと。
感謝を生み出して行くのは神を信頼しているからです。感謝できないことでも神様、感謝しますと言えるのは、それはその人が神を信じていることを証ししているのです。あなたの神は全能なんでしょうか?あなたの神に不可能なことがあるのでしょうか?あなたの神はこれから先のことを知らないのでしょうか?あなたの神はあなたに意地悪しようとするのでしょうか?どんな神様をあなたは信じているのですか?だからペテロは教えるのです。私たちの責任は私たちの神を個人的に知ることなのです。どんなに知識を蓄えたって、あなたの生活にそれが生きていないのならそれは空しいのです。個人的に神を知ることによって、それが自分の生活に反映されていくのです。人間関係でもそうであるように、神との関係においてもそうなのです。
◎ そのためのレッスン:みことばに従う
どうしたらいいか言います。主のみことばに従うことです。その時にあなたは主が確かに真実のお方であることを学んで行きます。主が約束されたことがそのとおりなされていく。その時に私たちは確信を得るのです。その確信が私たちに信頼をもたらし、信頼が感謝を呼ぶのです。この神だから、心配しないでいい。このような神様だから、安心していていいと。私たちが覚えなければいけないのは、神があなたに与えてくださっているさまざまなこと、いやすべてのことはあなた自身が主を知る機会として神が与えてくださっている。そのレッスンをちゃんと学べば、あなたはこの方に対する信頼を学んで行きます。
でも先ほどから見てきているように、いろいろな時に私たちは神を信頼するのではなくて、思い煩うなら、残念ながらあなたはレッスンをパスできなかった。その結果不安を抱きながら、心配を抱きながら、どうしましょうと。答えてください!あなたの神は信頼に値するお方なのかどうかです。あなたの神は言われたことを必ず実践なさる神なのかどうかです。私たちはいろいろなことを通してこの方だけが真実なお方である、約束を守られるお方であるということを学ぶのです。その機会を神があなたに与えてくださっているのです。救われたことを喜ぶだけではない。このすばらしい神様とともに日々を過ごせることがどんなにすばらしいのか、この信仰生活がどんなにすばらしいのかを喜ぶことを学ぶその機会を神があなたに与えてくださった。愚痴や不満を口から出すのをやめなければいけない、クリスチャンの皆さん。神の栄光を汚すのです。神を悲しませるのです。見なければいけないのはあなたの神です。どんな神なのかです。その時に、神への感謝があなたの口から出てくると。与えてくださった神様のみことばに従っていくことによって、あなたの確信は増して行きます。そうやって私たちは生きるのです。
詩篇9:1に「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」とあります。主がなしてくださったみわざを「語り告げ」て行くと。そのために私たちは生きているのです。私たちが生きているのは、この私たちを愛して私たちを救ってくださった恵みの神、この方を伝えるためであり、この方のみわざを明らかにするためです。そのためにはあなたがそれを経験していないでどうします?確かに私たちはことばをもってこの神様のすばらしさを証しします。でも大切なのは私たちの生き方をもってです。本当の「平安」をいただいた者として、本当の「平安」を持って生きる時に、人々はあなたに対して、いや、あなたの神に対する渇きを覚えるのです。
ペテロはこのクリスチャンたちが成長することを望みました。大変な信仰による迫害があり、そして偽りの教師たちの惑わしの中にあっても、動揺することなく「平安」を持って生きていくようにと。どうしたらいいのか、主を知ることだと。日々の生活を通してみことばに従うことによって主を知っていくことだと、主は確かに私のそばにいてくださる。主は確かに約束されたとおりのお方であると。そうして私たちはこの方への信頼を増すのです。その時に私たちの心はこの方の「平安」で満たされるのです。あなたが主を信頼して、主に従って行くならば、主はあなたに約束してくださった「平安」を与え続けてくれる。そうやって生きなさいと、それがペテロが言うことです。
最後にもう一度皆さんに尋ねなければいけない。それは、そのような「平安」をいただいたあなたはその「平安」を持って生きておられるかどうかです。せっかく神があなたを救ってくださった。神が約束された「平安」がこの世のいかなるものとも比べ物にならないものであることを明らかにするために。その目的のためにあなたは生きておられます?その目的に沿ってあなたは用いられていますか?みことばに従うことです。その時にあなたは神が与えてくれる「平安」を体験します。
フランシス・ハーバガルは43歳で召されます。でも彼女は聖歌471番「神のたもう安けさは」を書きました。
神のたもう安けさは 川のごとく流れ来て
この心を打ち浸し 世にあることを忘れしむ
主の手にある魂を 揺り動かすものあらじ
こんな人生を生きられるのです。そしてもし生きていなかったら、今すばらしい祝福を逃しているのです。みことばに立ち返ることです。主が言われていることに従うことです。その時に主があなたを通して働かれます。
《考えましょう》
1.神はあなたがどのような信仰者へと成長することを期待しておられるのでしょうか?
2.そのような信仰者へと成長することを妨げるものは何だと思いますか?
3.そのような信仰者へと成長するためにはどうすればいいのでしょう?
4.あなたが主から教えられたことを分かち合い、ともに実践に励んでください。
Podcast: Play in new window | Download