メッセンジャー: 成田宜庸
聖書箇所: ルカ19:1-10
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
近藤牧師が声帯の炎症のため声が出ない状態で45分のメッセージは難しいということで、急遽、私が代わってさせていただくことになりました。今日は、ルカ19:1-10から、ザアカイの救いを通してごいっしょに学んでいきたいと思います。
9:51にこのように記されています。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、」と。このときまでイエスはガリラヤ地方で伝道されていました。そのガリラヤ伝道を終えて、イエスはいよいよエルサレムに向かって旅をしていかれるのです。そのことが19章まで記されています。19:28に「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。」と書かれています。
今日、私たちは19章1−10節を学びますが、その前の18:35-43には「盲人のいやし」のことが記されています。18:42にはこのように書かれています。「イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、」と。この盲人のいやしは、イエスは人間の外側、肉体をいやすことがお出来になる、そのことが記されています。そして、19章ではザアカイとの出会いがあって、ザアカイの救いのことが記されています。イエスは人間の内側、霊をも新しく造り変えることができるということを学んでいきたいと思います。
1.イエスとザアカイの出会い
19:1-7はイエスとザアカイとの出会いが記されています。「:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。」、1節に「それからイエスは、エリコに入って」と書かれています。このエリコという町は、ヨシュア記6章に書かれている町でヨシュアによって陥落しました。エルサレムの東北約25kmのところ、また、死海の少し北にある町です。この町は紀元前7千年頃にすでに町として存在していたと言われています。私たちは今回のイスラエル旅行でこのエリコにも行って来ました。現在はパレスチナ自治区になっています。ですから、外務省の渡航危険度は3になっています。必要な時以外は行くなという地域のようですが、特に危険を感じたことはありませんでした。住んでいる人たちは今はほとんどがアラブ人です。ユダヤ人はいないだろうと思います。
1)ザアカイという人
イエスがおられたこの当時、エリコの町はなつめやしやバルサムをたくさん輸出する地点だったので、ローマはここに税関を置いていました。その取税人がザアカイだったわけです。また、この地は交通の要衝でもあったと言われています。2節には「ザアカイ」という人物が出て来て、この町の取税人であると記されています。この名前の意味は「義人、あるいは、聖い人」です。「彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」とあります。取税人とは当時、ローマ帝国の税金を取り立てる仕事をしていましたが、彼らはローマ帝国が課している税金よりも高い税金を人々に課していたのです。それは、その差額を自分の懐に入れるため、自分の懐を肥やすために不正に自分の立場を利用していたのです。だから、彼らは同胞のユダヤ人から「汚れた者」として忌み嫌われていました。彼らは異邦人や遊女と同じように見られていたとみことばは教えています。皆さんよくご存じのように、あの十二弟子の一人マタイも取税人でした。彼はガリラヤ湖の岸辺にあるカペナウムという町の取税人であったと、マタイ9:9で教えています。「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」と。
2)ザアカイの態度
ザアカイとイエスが出会うわけです。3節「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、…」、イエスはこのエリコの町に入るまでに、ガリラヤ湖周辺で、また、その道々で人々を教え、病人をいやし、様々なわざを為されていました。恐らく、ザアカイはそのようなイエスの評判を聞いていたのでしょう。すごい人だ、病人をいやしすごい奇蹟をすると…。だから、ザアカイは是非イエスを見たいと思ったに違いありません。3b-4節「…背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。:4 それで、イエス
を見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。」、イエスを見るために、何としても見たかった、イエスがどんな方か?この自分の目でイエスのことを確認したかったのです。
私たちは時々、見たいと思っても見に行くことを諦めることがあります。でも、ザアカイは違いました。ザアカイは見たいと思ったからそれを実行に移したのです。「前方に走り出て、いちじく桑の木に登った」とあります。今回の旅行で私たちはその木を見ました。当時の木は今から二千年前のことですから、恐らく、何代かに渡ってそこに植えられて来たのでしょう。何代位後の木なのか?結構大きな木でした。今は木の周りは囲いがしてあって中に入ることはできませんでした。表札には「ザアカイが登った木」と書かれていましたが、実際の木とは違うのです。
このザアカイの行動、「前方に走り出て、いちじく桑の木に登った」、私たちはここからザアカイが何としてもイエスにお会いしたかった、イエスをこの目で見たかったという熱心さを見ることができます。
3)イエスの対応
5節「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。…」、イエスはいちじく桑の木に登っているザアカイを見て「ザアカイ」と呼ばれました。これまでにイエスはザアカイに会ったことはありませんでした。初めて会ったザアカイに「ザアカイ」と呼ばれたと書かれているのです。皆さん、私たちがザアカイだったらどうでしょうか?周りの人から忌み嫌われている、友だちのいない、そのような自分に初めて会ったイエスが自分の名前を呼んでくださった、恐らく、ザアカイの心は驚きと喜びが溢れたでしょう。だれも自分のことを気にかけてくれていない、そのようなザアカイでしたから、イエスが「ザアカイ」と呼ばれたこのことばは、彼にとってものすごい喜びになったに違いありません。
そして、その後イエスはこのように言われました。「急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」、これは、もうすでに泊まることが決まっている、それを変更することはできない、すでに前から、わたしがあなたの家に泊まることは決まっているのですよと。このイエスのザアカイに対することばはイエスのザアカイに対する愛の表われです。ローマ5:8にはパウロがこのように記しています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。私たちがまだ神に敵対する者であった、それにも関わらず、神の愛が私たちに注がれたと。同じように、罪深い取税人であるザアカイに対しても、イエスは愛とあわれみを注がれ声をかけられたということです。これはザアカイにとって驚きであったし、大きな喜びでした。だから、ザアカイは6節「…急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」のです。もちろん、家に招き入れたという行為ですが、ザアカイの心のうちを考えると、彼は心からイエスを迎え入れたということです。そのようなザアカイ、大喜びでイエスを迎えたこのザアカイの様子を、私たちは知ることができます。
4)群集の反応
このことを見ていた周りの人たちの反応が7節に書かれています。「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。」、「みなは、」とは、このイエスの取った行動、そのことばに批判的な者が大多数であったことが示されています。多くの群衆はザアカイに対するイエスの行動に不信感をもったのです。そして、批判して「つぶやいた」と書かれています。「あの方は罪人のところに行って客となられた」と、このような群衆の反応、その心を私たちは違う箇所で見ることができます。18章の最後、盲人をいやされたイエスを見て周りの人たちはどのような反応を示したでしょう?18:43「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」、ここでの反応は全く違います。このように人々の心はそのときの状況に応じて、右にいったり左に振れたりするものであることをここから知ることができます。
2.ザアカイの回心 8-10節
そのような群衆の反応の後、8節は「ところが」ということばで始まります。英語の聖書ではこれは
「But」となっています。「しかし、」という意味です。ということは、7節でイエスに示された群衆の反応とザアカイの反応は違うものだということを、この接続詞から知ることができます。
1)ザアカイの行動
「ところがザアカイは立って、主に言った。主よ。…」と、ザアカイは心が変えられたのです。キリスト教の教理ではこのことを「回心」と言います。ザアカイは回心させられました。ザアカイはイエスを自分の「主」と告白したのです。そして、ザアカイはこの時から生き方が変えられたのです。
この「回心」について、ヘンリー・シ-センは「組織神学」でこのように説明しているので、皆さんに紹介します。「回心とは、神に立ち返る行為を指し、それは悔い改めと信仰との二つの要素から成り立っている。…しかし、人間は、自分からは神に立ち返ることも、悔い改めることも、信じることもできない。先行的恵みによって人間にできるようになることといえば、ただ、自分を神のほうに向き返らせてくださいと、神に願うことだけである。…人間がそのように主に呼ばわるならば、主は彼に真の悔い改めと信仰とを与えてくださるのである。」と。真の回心、それは「罪の悔い改めと、イエス・キリストを主として受け入れる信仰によって神のもとに立ち返るということ」です。
8節の後半、ザアカイがどのような行動をとったのかが記されています。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」、ザアカイの回心には行いが伴っていました。ザアカイは律法で定められた以上のことを「私はします」と言ったのです。ザアカイの回心は「真の回心」であったことを知ることができます。
2)救いの核心 9-10節
「:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」
ここに「アブラハムの子」とありますが、この当時、ユダヤ教では「アブラハムの子孫」、それは血統と律法を守る者たちを指して「アブラハムの子孫」と呼んでいました。しかし、ここでイエスが言われた「アブラハムの子」とはそれとは違います。これは「アブラハムと同じ信仰をもって、その信仰を証する者」という意味です。創世記15:6に「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と書かれています。アブラハムは彼の行いによって義と認められたのではなく、彼は信仰によって義と認められたのです。パウロはガラテヤ3:6、7でこのように教えています。「:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」と。このようにイエスはザアカイに対して「あなたもアブラハムの子だ」と言われました。まさに、神の宣言です。
そして、10節「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」、「人の子」ということばは福音書の中で81回使われています。2回の例外を除いて、すべてはイエスご自身によって語られています。それはご自分のメシヤ性を表すことばとして用いられているのです。そして、「失われた人」ということば、ザアカイも失われた人、私たちもかつては失われた人でした。創世記3:8を見てください。3章には、アダムが造られて、しかし、彼らは神の命令に逆らったことが記されています。その後のことです。8節「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」、「身を隠した」、神から見えないところに自分を置いたということです。まさに、罪が人間にはいった時、人間は神の前から見えないところに自分を置いたのです。「失われた人」になったのです。エゼキエルもこのことに関してこのように言っています。34:15-16「:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。──神である主の御告げ──:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。」。罪が入った時から、私たちは暗やみを愛する者になったのです。パウロはこう言います。エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」と。
人の子はそのような「失われた人を捜して」と言います。それは、「何とか見つけ出して」という行動です。私たちも大切なものをなくしたなら、何とか見つけ出そうという思いに駆られて行動します。まさに、人の子、イエス・キリストはこのようにして失われた人を捜すということです。
・イエス・キリストがこの世に来られた目的
そして、この10節から私たちは「イエス・キリストがこの地上に来られた目的」をしっかりと知ることができます。イエス・キリストは「罪人を捜して救うために来た」ということです。みことばがそのように教えています。キリスト教の福音の中心的なことは「神が人を救う」ということです。「イエス・キリストを信じるすべての者を罪と罪のさばきから救う」、これがイエス・キリストの福音です。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」、また、使徒の働き4:12には「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」、イエス・キリスト以外にはだれによっても救いはないと、みことばははっきり断言しています。パウロはそのことをこのように言っています。Ⅰテモテ1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」、
この「救い」、これは「神の恵み」であるとみことばは教えています。エペソ2:8「:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」、「恵み」、それは全く値しないもの、そのような価値のない者に神が一方的に与える賜物です。この救いはまさにその恵みによって私たちに与えられるのです。そして、この救いは人を新しく造り変えるということです。なぜですか?それはすべて神のわざであるからです。私たち人間の力がたったの0.01%も入っていない、すべて、神のわざです。だから、そのわざによって救われた者は新しく造り変えられるのです。
パウロはそのことをⅡコリント5:17で「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と言っています。また、コロサイ3:9、10でも「:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」と、この救いは救われた者すべてを新しく造り変えるものだと教えています。
さて、このエリコの町でザアカイはイエスにお会いしました。ザアカイは金持ちであったと記されています。しかし、このルカ18章にも一人の金持ちのことが記されています。ザアカイはイエスのことばを受け入れてそのことばに従いました。ザアカイは救われたのです。でも、18:18から書かれている役人はどうだったでしょう?「:18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」、…22節「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」、23節「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。」、並行箇所であるマタイ19:22には「悲しんで去って行った。」と記されています。この役人はイエスのことばを受け入れることができなかった。救いを得ることができなかったということです。
ザアカイは神の恵みとあわれみによって救われました。私たちもザアカイと同じように神の恵みとあわれみによって救われた者です。ザアカイがこの後どのような信仰の人生を送ったのか、聖書には記されていません。一説には、ペテロからカイザリヤの監督に任命されたとも言われています。しかし、この真偽は分かりません。でも、私たちには、主が、また、このみことばが救われた者としてどのように歩むべきかを教えています。最後にそのことを見て、今日のメッセージを終わりたいと思います。
*救われた者の生き方、歩み方
(1)神を愛し、隣人を愛する
マタイ22:35-39「:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』:38 これがたいせつな第一の戒めです。:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」、救われた者の生き方、それは「神を愛し、隣人を愛する」ことです。
では、神を愛するとはどういうことでしょう?みことばはすばらしいです。私たちが考える前にこういうことだとはっきりと教えてくれています。Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」、神の命令を守ること、それが神を愛することだと教えています。では、
隣人を愛するとは?同じようにヨハネはⅠヨハネ3:18にこのように記しています。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」と、ことばだけの口先だけの空虚な愛ではなくて、実際の行ないとその真実をもって愛そうではありませんかとヨハネはここで教えています。
(2)仕える者となる
それはイエスが私たちにそのように教えているからです。マタイ20:28に「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」、「仕えるために来た」とイエスは言われています。そのことをパウロはこう言っています。ピリピ2:7「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」、仕える者となる、それは神にも仕え、人にも仕えるということです。私たちの救われる以前の主人はサタンでした。しかし、救われた後、私たちの主人は「主」です。主は私たちの主人です。しもべは主人に仕える、これは当たり前のことです。みことばはこのように教えます。ローマ12:11「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」、ガラテヤ5:13「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」、私たちは仕える者、それは「神にも人にも」です。
(3)みことばを宣べ伝える
三つ目も私たちに与えられた大きな命令です。マルコ16:15「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」、これは救われたすべての人に対する神からの命令です。パウロはそのことをこのように言います。ローマ10:14、15「:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。:15 遣わされなくては、ど
うして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」」。
エリコで取税人だったザアカイ、彼はイエスと出会って、罪深い者から救いを得ました。イエスによって救われました。彼のその後の生き方はどのようなものであったのか、私たちには分かりません。しかし、私たちの歩みを通して、ザアカイのその後の信仰を思うなら、きっとザアカイも主に忠実に仕えていった、そのような者であったろうと想像できます。
みことばは救われた者がどのように歩むべきか、また、どのように歩まなければいけないのかをはっきりと教えています。私たちもあのザアカイが歩んだように主に忠実に、神を愛し人を愛し、そして、仕え、みことばを宣べ伝える、そのような者として歩みます。一人ひとりが確かに救われたのです。私たち一人ひとり、託されている働きは違うでしょう。しかし、大切なことは、託された働きをいかに忠実に行うか、その「忠実さ」だけです。
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