メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:1
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
見る: メッセージを見る
偽りの教師たち、すなわち神の真理を教えない教師たちの出現と彼らによる惑わしを知ったペテロは小アジヤの教会に、またそこに住むクリスチャンたちに、この手紙の冒頭1節の最初から救いというものがどういうものなのかということ、最も大切な教えである救いについて改めて彼らに教えるわけです。
1節で「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」とペテロは記しました。つまり神の恵みによって救われた人たちへと記し、ペテロはこの救いというのが神の恵みであるということを教えていました。なぜそれがわかるのかというと、この「尊い信仰を受けた」の「受けた」という動詞がそのことを我々に明らかにしてくれているということを我々は前回見てきました。これは「くじが当たって」とか「神のご意思で得た」とか「手に入れた」という意味を持ったことばで、そのことによって救いというのは自分の努力ではなくて神様から一方的に与えられる賜物であることをペテロは教えました。
☆ 神様からの最高の贈り物:救いとは
私たちは今朝も1節に記されている神が私たちクリスチャンに与えてくださった最高の贈り物である信仰について、救いについて大切な教えをご一緒に見てまいります。
1節をもう一度見ると、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」とあります。注目していただきたいのは、「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって……信仰を受けた」と書いてあります。つまりこのすばらしい救いというのは、主イエスの義によって与えられるものなのだと教えるわけです。
① 私たちは自分の力で救いを得ることはできない
少し考えてみないといけないのは、「イエス・キリストの義によって」の「よって」という前置詞は二つの解釈が可能です。一つは新解約聖書で訳されているように、救いをいただいた手段、また道具を表しています。主イエスの義という手段をもって私たちが救いにあずかったのだと。またこの前置詞を「主イエスの義において」と訳すと、救いと救われた者たちとの関係や関連を意味し、主イエスの義という領域においてこの義が与えられたということを意味することになります。どちらとも考えられますが、それよりもっと大切なことは、救いというものは自分自身の義によるのではなくて、主イエスの義によるということ。なぜかというと、私たちは自分自身の行いによって義を得ることはありません。ローマ3:10で「義人はいない。ひとりもいない。」と教えています。私たちがどんなに努力をしても、神様の基準に到達しないということです。たとえ私たちが一生懸命いいことを行っていきましょう、神が喜ばれると思うことをやっていきましょうと決心したとしても、我々自身生まれながらに義人でないゆえに、私たちの行いというのは不完全で、私たちは望んでいる救いを得ることは絶対にないということです。そしてこの箇所が私たちに教えてくれていることは、救いというのが神様からのギフト、賜物である以上、救われた者たちは例外なくイエス・キリストの義をいただいているのです。後でそのことを見て行きますが、きょう皆さんにどうしてもわかっていただきたいのは、救いというのはどんなにすばらしい神様からの贈り物なのかということです。そのことをみことばを通してしっかりと見ていただきたいと思います。
実はパウロは今私たちが見ている救いに関して、ローマ3:20-22の中でこんなふうに教えています。20節には「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」とあります。律法を行うことによって――いいことを行ったり、正しいことを行ったりという行いによってはだれひとり神の前に義と認められない、あなたがどんなに一生懸命努力をしてもあなたの努力によって神の義、つまり救いを得ることは絶対にないということをパウロは教えています。「律法によっては、かえって罪の意識が生じる」というのは、我々がいいことをやっていきましょう、正しいことをやっていきましょうと一生懸命決心しても、それができない自分に気づけば気づくほど、何と情けない自分だろうと罪悪感が増して行くということです。その自分の姿に気づいて、自分で救いを得ようと努力することは、我々がいかに神の基準から外れた存在であるかということを我々に悟らせてくれる。「かえって罪の意識が生じる」のだと言っています。
② 私たちは神の義をいただくことで救いを得る
そして21節「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」、律法、つまり行いとは別の方法で義が与えられる手段が神によって備えられたと言うのです。22節「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、
何の差別もありません。」と説明しています。救いというのは我々人間が生まれながらに持っているものではありません。また自分の努力をもって得ることのできないものです。救いというのは主イエス・キリストの義、神の義をいただくことであると言うことができます。
私たち人間の中で義なる存在、すべてにおいて正しい存在などイエス様を除いてはどこにもいません。つまり神だけがすべてにおいて正しいお方です。神だけがすべてにおいてきよいお方です。詩篇119:142はこう言います。「あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです。」と。神様の義は永遠に続くもの、変わることのないものです。神は永遠に正しいお方であると。また箴言8:8にも、「わたしの言うことはみな正しい。そのうちには曲がったことやよこしまはない。」とあります。神の言われることはすべてにおいて正しい、それが神だと。神だけが義なるお方であると。そしてその神様だけが持っておられる義を主イエス・キリストを信じるすべての者に与えてくださるのです。その結果、救われた人々はすべて神の前に義と認められるのです。
ローマ3:28でパウロは「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」と言います。「考えです」という動詞は、「みなす」とか「~だと思う」とか「評価する」とか「考える」という意味のことばですが、実はこのことばが持っている意味は会計士、会計係の用語で「会計簿に入れる」ということです。また別の辞書を見ると、「勘定に入れる」とか「考慮する」。ウエストミンスター神学校の組織神学の先生のジョン・マレー先生は「彼の勘定に入れられた。それは彼に転嫁されたという意味である。」と言っておられます。
*『転嫁』について
実はこのⅡペテロ1:1に記されているのは『転嫁』という大変大切な聖書の教理です。このことを我々はしっかりと知らなければいけない。大変重要な真理です。救いとは一体どういうものなのかを教えている教理がこの『転嫁』ということです。ですからしばらくこの『転嫁』ということについて説明していきたいと思います。『転嫁』ということばを広辞苑で引くと「自分の罪過、責任などを他人になすりつけることである」と定義されています。しかし、神学的にこの『転嫁』ということばを見ると、「何かを人の勘定につける」とか「その不足を補う」、「だれかの口座に何かを入れること」です。これが神学的に見た『転嫁』の意味です。
まだピンと来ないと思いますので、幾つかの箇所を見て行きましょう。
ピレモン18-19を見ると、パウロがピレモンに対してこの手紙を送るのですが、奴隷オネシモが主人であったピレモンに対していろいろな損害をかけたということがこの箇所によってうかがい知ることができます。「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。」、ここに書かれていることが先ほどからお話ししている『転嫁』という教理の説明です。オネシモ自身が支払うことのできない彼の負債をパウロが肩代わりしますと言っているのです。そこでパウロは、オネシモがあなたに対して持っている負債を私自身の勘定につけるように、私自身の口座に振り込むようにと言うわけです。そしてパウロが彼に代わって彼の負債を支払いますと言っているのです。これが『転嫁』なのです。ジョン・カルビンが「転嫁的義である」とか「転嫁された義」と呼んだものです。
今説明してきたように、『転嫁』というのは何かを人の勘定につけるとか、だれかの口座に何かを入れることであるということを覚えておいてください。これが救いの核心なのです。クリスチャンのあなたはイエス様の口座に何かを振り込んだのです。そしてイエス様はあなたの口座に何かを振り込んでくださったのです。これが『転嫁』と言い、これを正しく理解することによって救いとはどういうものかが正しくわかるのです。それをペテロは教えるわけです。
① あなたが主イエスの口座に入れたもの:イザヤ53:4-6、1ペテロ2:24、2コリント5:21
まず、あなたが主イエス・キリストの口座に何を振り込んだのか――。それはあなたの過去、現在、未来、すべての罪です。あなたのすべての罪をイエス様の口座に振り込んだということです。イザヤ53:4-6で約束の預言者の話が出てきます。主イエス・キリストが生まれる約700年ほど前に預言者イザヤが約束の救世主、救い主についての預言しています。53:4に「彼(生まれて来る預言者、救世主)は私たち(人間の、罪人)の病を負い、私たちの痛みをになった。」と書いてあります。私たちの身代わりだと言っているのです。また5節にも「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」と。強調されているのは「私たち」ということです。この生まれてくる預言者、救世主は自分の罪のために「刺し通され」る、十字架で殺されるわけではない。身代わりだということです。「私たち」、あなたの身代わりとなってこの救世主は死んでくださるという話です。また6節にも「私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と書かれています。この箇所が何を言っているかというと、「私たちのそむきの罪」を、「私たちのすべての咎」を「彼に負わせ」、彼を私たちに代わって罰したと。別の言い方をすると、あなたの「そむきの罪」、あなたの「咎」、あなたのあらゆる過ちをイエス・キリストの口座にあなた自身
が振り込んだのだということを言っているのです。
そのことをペテロも、そしてパウロも私たちにわかりやすく教えてくれています。Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」と書かれています。イエス様ご自身がみずから進んで十字架の上で私たち、あなたの「罪をその身に負われ」たとペテロは教えます。イエス様の死はあなたの身代わりの死だったと。あなたがしたことはあなたのすべての罪をイエス様の口座に振り込んだのです。そしてイエス様はあなたに代わってあなたが受けるべき罪の罰を受けてくださったということです。またⅡコリント5章の中で、パウロはこんなふうにこのイエス・キリストの死について教えます。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」、つまり全く罪のない、完全にきよい方を私たちに代わって罪とされたと。なぜかというと、あなたのすべての罪がイエスの口座に振り込まれたからです。そしてイエス様が十字架で罪のさばきを受けたのはご自分の罪ではなく、あなたの身代わりとなってあなたの罪のさばきを受けてくださった。「それは、私たちが、この方にあって、神の義となるため」だと。
② 主イエスがあなたの口座に入れてくださったもの:ローマ3:26
先ほどから私たちは『転嫁』について学んでいます。私たちがイエス様の神様の口座に何かを振り込み、神様があなたの口座に何かを振り込んでくださった。今こうして私たちがみことばを通して教えられたことは、私たちは我々自身の過去も現在も未来もすべての罪をイエス様の口座に振り込んだということです。では主イエス・キリストが何をあなたの口座に入れてくださったのか――。主があなたの口座に入れてくださったのは、ご自身の義です。神ゆえに主イエス・キリストが持っておられる完全な正しさを今度はあなたの口座に入れてくださった。だからその義をいただいたあなたは神の前に義と認められるのだと聖書は教えています。
もう一度ローマ3:26を見てください。「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」と書いてあります。「神ご自身が義」である、神ご自身がすべてにおいて正しいお方であると。「また、イエスを信じる者を義とお認めになる」、この「認め」るということばは「宣言する」とか「宣告する」ということです。義と認める、これは『義認』とも言いますが、これはイエス様を信じる者が神の前に義と認められるという裁判上の行為です。つまり、あなたのすべてのことを知っておられる裁判官が主イエス・キリストを信じたあなたに対して、あなたは正しい、あなたはきよいと宣告してくださるということです。神ご自身が義であり、イエスを信じる者を義とお認めになる。ですから私たちクリスチャンというのは、神ご自身がこの人物はきよい、この人物は正しいと宣告してくださった者たちなのです。裁判官なる神がそのように宣告してくださった。だから私たちはこのきよい正しい神の前に立つことが赦されているのです。これが聖書が教えてくれている救いなのです。
このみことばは私たちに、この救いにあずかったひとりひとり、あなたが罪を犯さない義なる人へと変えられたとは教えていません。私たちはそれを望んでいますが。「イエスを信じる者を義とお認めになる」と言われたのは、義なる者として神が宣告なさっただけで、そのように宣言をされただけで、あなたが罪を犯さない完全にきよい正しい者になったと教えてはいないのです。だから私たちは地上にいて罪との葛藤を日々経験しているのです。栄光の体をいただくその日までその葛藤は続いていきます。でも私たちが覚えなければいけないのは、私たちにはこの神様の憐れみが必要だったのです。神様が私たちにあなたは正しいと宣告してくださるために、私たちはこのキリストの義を、神の義をいただくことが必要だったのです。ですからこのみことばは、イエス様を信じた者たちにはこの神の義が与えられ、そしてあなたは神の前に義なる者と認められたのだと救いを説明してくれているのです。
復習すると、主イエス・キリストをお信じになったあなたは、神様の救いにあずかった。このことは『転嫁』ということばが我々に教えるわけですが、あなたがしたことはあなたの罪を神の口座に振り込むことであり、神はそんなあなたに彼ご自身のきよい正しい義をあなたの口座に振り込んでくださった。それゆえに神はあなたを義なる者としてきよい正しい者と宣言してくださって、今その神の前に立つことができた。これが救いなのです。ペテロはそのことをこの1節で教えています。というのは、私たちはこの真理をしっかりと覚えておかなければいけないからです。これが神様が教えてくださっている救いなのです。
* これが救いである!
パウロはローマ4:5-8でアブラハムとダビデの例を用いて、今私たちが見てきた救いについて教えます。
① 救いは神の恵みのみわざである 5-6節:行いによるのではない
5-6節「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。」とあ
ります。まず最初にこの5-6節が私たちに教えることは、救いというのは神の恵みのみわざなのだ、あなたの行いによるのではないということです。
【アブラハム】:5-6節
まずアブラハムを見てみましょう。5節「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」とあります。まずこの「何の働きもない」というのがどういう意味かというと、救いのために何もできないということです。人間が行うあらゆる宗教的な行為、さまざまな宗教的な儀式は、私たちに救いをもたらすものではないと。例えば社会で慈善活動を行うとか、人に対して善行を繰り返すとかいうよいことをしたからと言って、あなたを神に近づけるのではない、かえって神の怒りを積み上げるのだとみことばが教えます。神様はそんな方法であなたの罪を赦そうとしているのではないのです。一生懸命善行を積むことによって、結果的に自分にもたらすものは自己満足です。私はこれだけのことをしたのだと。問題なのは赦しを与えてくださる神ご自身が満足なさることを我々がしているかどうかです。「何の働きもない」と、私たちが何をしたとしても、きよい正しい神を満足させることはできないのだと言うわけです。どんな儀式も、どんな行為も決して神を満足させることはできない。それが「何の働きもない者が」ということばの意味です。ですから我々人間にとって自分で救いを得ることは不可能なゆえに自分で頑張って天国に行くということは絶対に絶対に不可能なことなのです。
次に「不敬虔な者」ということばが出てきます。だれに対する「不敬虔」かというと、神に対する「不敬虔」の話です。神に逆らう者です。「不敬虔」と言ったら、「不信心」であったり「神を敬わない」とか「神を敬いつつしまない」とか「神に対してつつしみ仕えないこと」です。まさに私たち生まれながらにそのような生き方をしてきました。神を愛することもしない。神を畏れることもしない。ですからパウロはこうして「何の働きもない者が」、そして「不敬虔」である私たちを「義と認めてくださる方を信じるなら」と続くのです。私たちにできないことを神はしてくださるのです。自分で神が喜ばれる、神が望んでおられるような完全な人になることはできない、それができるのは神だと言っているのです。神がそのような人に私たちを変えてくださる。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰」によって我々は「義とみなされる」のだと。それによって神ご自身がこの人はきよいと宣告してくださると。全く人間の行いによるのではないのです。
【ダビデ】:6-8節
6-8節を見ると、今度はダビデの話が出てきます。「行ないとは別の道で」と書いてあります。つまり行いに関係なく、行いから離れてということです。ダビデ自身も人間の行いによって救いにあずかる可能性はゼロなのだと言います。そこで彼は「別の道で神によって義と認められる人の幸いを」と言っています。神ご自身がこの人は正しいと評価してくださる。ですからアブラハムにしてもダビデにしても、救いというものは人間の行いによるのではないと。神ご自身の義を私たちの口座にいただくことによって、我々は救いにあずかるのだと。口座に入れていただくためには、救い主を信じることであると、みことばは我々に教えてくれるのです。ですから6節でダビデは、救いというのは人にできないことを神によってなされることであって、神によって義と認められるのだと教えています。
② 救いは神が罪を認めないことである 7節:ダビデの救いに関する証言
そして7節、救いは神の恵みのみわざであることだけではなく、救いは神が罪を認めないことであると教えます。7-8節に「『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」とあります。この「幸い」ということばは皆さんよくご存じのように、あの山上の説教でイエス様が言われたように、「幸いなるかな」ということです。「祝福された者よ」、「幸せな者たちよ」と。どんな人が幸せな者か、どんな人が祝された者かを三つ教えます。
(1)「不法を赦され」
一つ目は「不法を赦され」た者であると。その「不法」を、その罪を赦された者たち、その罰を免除された者たち。
(2)「罪をおおわれた人たち」
二つ目に「罪をおおわれた人たち」とあります。この「おおわれた」というこのギリシャ語は新約聖書にはここにしか出てきません。でも7節の引用箇所、欄外を見ると詩篇32:1、2と出ています。旧約聖書にはこの「おおわれた」というヘブライ語のことばが153回出てきます。どんなところで使われているかというと、一つはあのノアの洪水の時、水が「いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。」と創世記7:19が教えています。ノアの洪水ですべての山が水におおわれてしまった時です。またモーセがシナイ山に登った時に「雲は六日間、山をおおっていた」(出エジプト24:16)と。その映像を描くことができます?すべてのものが水でおおわれてしまって、何も見ることができない、山が雲におおわれていたためにその山を見ることができないという状態です。先ほど見た詩
篇32:1は「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」、詩篇85:2でも「あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。」と。つまり水がすべてをおおって何も見えなくなっている、雲が山を見えなくしてしまったように、神はあなたの罪が見えないように全部おおってくださるということです。そういう意味を持ったことばがここで使われています。つまり神様の完全な赦しです。主イエス・キリストの義をいただいてあなたの罪がすべて赦される時、神はあなたの罪をすべておおってくださって、神はあなたの罪をごらんにならないのです。ちょうど水でおおわれて一番高い山もその水の下になって見えなくなっている。雲がおおって山が見えなかったように、神はあなたのすべての罪をおおってくださる。神はそれをごらんになることはないのです。
(3)「主が罪を認めない人」 8節
三つ目に「主が罪を認めない人は幸いである」と出てきます。この人のうちに罪がある、そのように神様はごらんにならない。特にここで注目しなければいけないのは「罪を認めない」と書かれているのに、否定語が使われているのですが、否定語が二つ並んでいます。何回も見たように否定を強調する時にそういう使い方をします。つまりこの救いにあずかった者たち、神の義をいただいた者たち、神が義なる者と宣告した人を見た時に、神はそこに罪を全くごらんにならないと。まさに神の目が届くところから完全に届かないようにおおわれてしまうと、神の御前からそれは永遠に見えなくなると、二度と神はそれをごらんにならないということです。だから皆さん私たちが神の前に立った時に、あなたはあの罪どうしたのですか、この罪をどうしたのですかと神があなたに問うことはないと。赦されたのです。神が与えてくださる赦しはこういう赦しなのです。完全に赦してくださる。もう神はそれをごらんにならないと。我々人間はいろいろなものが記憶に残るけれども、神は赦すと言われたら完全に赦してくださる。神がごらんになるのはあなたに与えられた主イエス・キリストの義なのです。では神様があのイエス様が十字架に架かった時に何を見たかというとあなたの罪を見ているのです。そしてあなたの罪をさばかれたのです。これが神様が私たちのために備えてくださったすばらしい救いだったのです。信者の負債を帳消しにして、その人の罪を完全におおってくださると。
それだけではなくて神はご自身の御子イエス・キリストの義を私の口座に入れてくださり、それは私のものと見てくださる。詩篇103:11-13で「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」とあります。神様の赦しというのはそういう赦しなのです。東と西は絶対に出会わないのです。赦されたら神は完全に赦してくださる。だから今私たちはこうして自由に神の前に出て来ることができるのです。
* イエスがだれなのか
きょう私たちはこの救いという大切な教えをいま一度見てきました。特にこの『転嫁』ということばが持っている意味を通して我々はペテロが言わんとしている救いについて見てきました。神がイエス様を信じたあなたを義と認めてくださった。なぜイエス・キリストを信じることによってそれができるのか、なぜイエス・キリストを信じることによってイエス様の義があなたに与えられて、あなたが義なる者と神によって認められるのか、そのことが1節に書いてあります。もう一度Ⅱペテロ1:1を見てください。「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの」と書いてあります。どうしても皆さんに見ていただきたいのは、ここでペテロは私たちにイエスが一体だれなのかということを教えます。日本語を見ると「私たちの」、「神」、「救い主」、「イエス」、「キリスト」と5つのことばが並んでいます。原語では少し順番が違って、「神」(名詞)、「私たちの」(代名詞)、「救い主」(名詞)、「イエス」(名詞)、「キリスト」(名詞)と続きます。ところが非常におもしろいのは、この文に冠詞が一つしかついていない。どこについているかというと、まず最初に冠詞があって、5つのことばが続いています。どうして、「神」の前に冠詞があり、ほかのところにないのかというと、それはこれが同一人物を指しているからです。この箇所はイエスが一体だれなのかということを明確に教えています。イエス・キリストは神であり、イエス・キリストは救い主だということを教えているのです。イエス・キリストの神性を否定する人はたくさんいるかもしれない。でもそれはみことばに反することだと我々は教えなければいけない。なぜならみことばは明確にイエスは神であり、イエスは救い主だと言っているのです。だからイエスを信じることによって神の義が与えられ、神の義と認められるのです。この方が神であり、この方が救い主だからです。みことばのすばらしいところは、この大切な真理を私たちにわかるように明確に教えてくれているのです。疑う余地がない。これがペテロがこの小アジヤの人々に語りたかった真理なのです。これこそが救いだと彼は教えるのです。
◎ 救いは……
救いというのは一体何なのか――。主イエスを信じる信仰、救いは神から与えられるものである。1節がそのことを教えていました。あなたが楽しんでいるこの救いは神様から一方的に与えられた賜物で
ある、ギフトであると。同時に神を完全に満足させる、完全な義も神である主イエス・キリストから与えられたものだと。あなたが努力をして義を得たのではないのです。神があなたに義を下さった。これが救いだと。イエス様を信じる信仰もいただき、イエス様が持っておられる神の義を私たちはいただいたのです。こんなすばらしい祝福に私たちはあずかっています。こんなことを神はあなたのためにしてくださったのです。だからイエス様を信じて救いにあずかっている人は、みんなイエスの義をいただいているのです。だからみんな生き方が変わってくるのです。私たちはただ死んでからどこに行くのか、その永遠の保証をもらったのではない。私たちは生まれ変わったのです。生まれ変わったから私たちは新しい願いを持ち、新しい夢を持ち、ゴールを持って生きるのです。神が私を義なる者としてくださった。神はあなたを義なる者としてくださった。この救いに私たちはあずかったのです。
願わくば皆さんひとりひとりが救われたとはどういうことなのか、いま一度しっかりと考えてください。私たちが恵みだと言うのはどうしてなのか、すべて神のわざでしょう?救い主を備えてくださったのも神のわざ、あなたの罪を肩代わりしてくださったのも神のわざ、あなたにご自身の義を与えてくださったのも神のわざ、そしてそんなあなたをこの人は正しいと宣言してくださったのも神のわざです。こうして私たちは恵みによって救われたのです。もっともっと私たちは感謝しないといけないはずです。いま一度皆さんにこのペテロのメッセージを聞いていただきたかった。大変大切なことを我々に教えています。どうぞあなたがこの真理を喜ぶだけではなくて、真理を語る者になってください。こんなにすばらしい神がおられる、こんなにすばらしい救いがこの方によって与えられるのです。
《考えましょう》
1.ローマ3:28の「考えです」の意味を説明してください。
2.ローマ3:26の「お認めになる」の意味を説明してください。
3.「転嫁」とは「だれかの口座に何かを入れること」でしたが、あなたが主イエスの口座に入れたもの、また主イエスがあなたの口座に入れてくださったものを説明してください。
4.きょうのみことばを通してあなたが教えられたことを分かち合って、実践に励んでください。
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