メッセンジャー: 和智忠昭
聖書箇所: 創世記18-22章
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
“旧約に見る神の救いのご計画”というタイトルでお話しさせていただいてから、きょうで10回目になります。最初にアダムとイブが罪を犯したとき、神様は神様ご自身の福音を私たちに伝えてくださいました。創世記3:15です。女の子孫から一人の種が生まれる、男の子が生まれると。そのみことばは私たちに神様が救い主を備えてくださっているということを教えているのだということを学びました。そしてそこから信仰者というのはどのようなものであるかということを私たちは学んできました。その中にあって、神様はアダムの子アベルの捧げ物に目をとめられ、それによって彼の信仰が義と認められたことはヘブル人への手紙が教えています。またエノクは「神とともに歩んだ。」、またノアは正しい人、「全き人であった」彼もまた神とともに歩んだとヘブル11章で教えています。
信仰ということばはアベルやエノク、ノアの時代ではなくて、アブラハムの時に彼の信仰が義と認められたと創世記15:6で初めて出てきます。ですから、信仰とは一体何なのか――。どうしたら救われるのか――。神様の救いの計画はどういうものか――。アベルやエノクやノアのように正しい人、完全な人でなければ救われないとしたら、ほとんどの人たちは救いに値しない人たちであろうと思いますが、アブラハムの時になって、アブラハムのような人であっても神様は私たちを救ってくださるということを学ぶことができます。
1.アブラハムへの祝福 創世記12:1-3
創世記12章からはアブラハムの祝福が記されています。
① 神が示される地へ行きなさい。
② あなたは大いなる国民とする。
③ あなたの名を大いなるものとする。
④ 地上のすべての民族はあなたによって祝福される。
アブラハムがウルを出た時彼は75歳、サラが65歳でしたがまだ子どもがなかった。にもかかわらずこのような年老いた夫婦に大いなる国民とする、子孫を繫栄させて国を与えるという約束をされたことを見ることができます。
2.アブラムの心配事 15:1~
そしてアブラハムには一つの心配事がありました。そうは言うものの本当に私たちに子どもが与えられるのであろうか。またこれから出て行く先にどのような危険が待ち受けているかわからない。私の妻、サラはとても美人だから、私を殺してサラを手に入れようとする者が出てくるに違いないと。ききんのためアブラハムは約束のカナンの地を通り過ぎてエジプトへ行きました。案の定エジプト王、パロはサラに目をやるわけです。アブラハムに聞くと「これは私の妹だ」と言い、サラも「私は妹です」と言ったと。それはアブラハムがそう言うようにとサラに言っていたからです。確かにサラはアブラハムの腹違いの妹でした。でも彼らは正式に結婚した夫婦だったのです。ところがそのことを隠していたことでパロにいろいろな災いが降りかかります。そのことを問われた時にアブラハムは言い訳をしますが、神様は「恐れるな。わたしはあなたの盾」だからと言われます。「恐れるな」ということばは「心配するな」ということでした。決して心配してはいけません、わたしがあなたの盾だからあなたを守ってあげると言われたのです。
3.信仰の義認と神の契約 15:6
やがてアブラハムは神様のことばを信じて、神様はアブラハムを義と認められたということを15:6で学びました。
4.アブラム、アブラハムへ 16、17章
アブラハムはもともとアブラムという名前で、サラはサライでしたが、これをアブラハムとサラに名前を変えるようにと神様は命じられました。神様の聖なる四文字YHWHの一つ、Hの字をそれぞれの名前に入れよと言われました。そしてアブラム、「高貴なる者の父」からアブラハム、「多くの国民の父」に名前を変えられました。サライは「女主人」とか「女王」という名前でした。そしてその時、神様はこのサラを通してあなたにひとりの男の子を与えると約束をされたことを私たちは見てきました。
その後、このような約束があったにもかかわらず、アブラハムとサラは過ちを犯します。神様が約束されたことが私たちの上になかなか起こらない。だんだんと私たちは年をとっていく。このままではこのアブラハム家の跡継ぎはこの家に仕える人たちの中のだれかにしなければいけないのかと。それでは
困るから、サラはエジプトの女奴隷のハガルをアブラハムにあてがうわけです。アブラハムも彼女を受け入れてひとりの男の子ができる。それがイシュマエルでした。このようにして神様の約束とは異なった子どもがアブラハム家に誕生したのです。これが今までのいきさつです。
5.イサクの誕生 創世記18-22章
そして今回イサクの誕生というところを私たちは学びます。創世記18章をお開きください。
Ⅰ.3人の来客 18:1-19
創世記18:1-2「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。」とあります。恐らく暑い日だったと思いますが、アブラハムはマムレという所で樫の木のそばにある自分の天幕の入り口に座っていました。そこに3人の人が彼に向かって立っていたと言うのです。
1.3人の来客 2-8節
この3人の人たちは一体何者か――。このうちの2人は19:1を見ると、「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。」とあります、3人のうちの2人は「御使い」と書かれていますから、いわゆる天の使い、天使であろうと考えられます。そうすると残りのひとりは一体何者なのかというと、18:1にはっきりと「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。」とありますから3人のうちの1人は主だということがわかります。そうすると神様は人の形を取って来られるのかという私たちの疑問が生じます。神様は目に見えない、神様を見た者はいないと聖書は教えていますから、これは一体だれかということになります。神学者たちはここをいろいろ勉強して、これは人の形を取って来られた神だからイエス・キリストが、ロゴスが、子なる神であるに違いないと。ヨハネ1:1に「初めに、ことばがあった。……ことばは神であった。」とあります。この「ことば」はロゴスというギリシャ語が使われていますが、このロゴスがイエス・キリストであることは聖書が教えています。だから子なる神イエス・キリストが人の形をとってここに顕現されたに違いないと考えるわけです。このような3人の来客がアブラハム家にあったということです。
2.サラの笑い 9-15節
① 主の約束 10、14節
そしてごちそうを作って歓待した後、3人のうちの1人が9節「あなたの妻サラはどこにいますか。」と尋ねます。。初めて来た見ず知らずの来客が自分の妻の名前を知っている。一体この人たちはだれだろうとアブラハムは不思議に思ったに違いありません。はい、「天幕の中にいます。」と彼は答えます。するとその中の1人、恐らく主であったと思われますが、10節「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができてい」ますと言われた。
② サラはそれを聞いて心の中で笑った 12節
今まで待ちに待ってできなかった子どもができるのだろうか。この時アブラハムは一体何歳だったかというと、17:24「アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。」とあります。アブラハムが99歳の時、サラは89歳です。それなのにそのような約束をしたということです。サラはそれを後ろの天幕で聞いていました。それで彼女は、私は年を重ねて老人になっていて普通の女にあることは既にないのにと思うわけです。「サラは心の中で笑っ」たと12節に書いてあります。「老いぼれてしまった(89歳の)この私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄り(もう99歳)で。」と。どうして来年の今ごろ男の子ができることがありましょうと、恐らく苦笑いをしたというのです。
③ 主とのやりとり 13-15節
でも、主はアブラハムに、13節「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。 主に不可能なことがあろうか。」と言われます。神様はエルシャダイ――全能の神として彼らに現れました。神様は全能の方であることを既に明らかにされていたにもかかわらず、サラはどうして本当に子を産めるのだろうかと言って笑うのだろうかと言うのです。「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」ともう一度言います。するとサラは言い訳をします。「『私は笑いませんでした。』と言って打ち消した。恐ろしかったのである。」と。どうして私の名前を知っているのだろう、影に隠れているのに笑ったことがどうしてわかったのだろうかという恐れがあったということです。3人の来客が来た時、「私は笑いませんでした」、「いや、確かにあなたは笑った。」と、そういうやりとりがありました。あり得ないことが起こる、それが神様のなさることです。それを受け入れるかどうかが、不信仰か信仰があるかどうかの分かれ目であるということです。
3.神の選び 18-19節
さて、このような出来事があった後、彼らは18:18-19でこのように言います。「アブラハムは
必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。』」と。「わたしが彼を選び出した」と主が言われます。アブラハムは神様によって選ばれたということになりますが、ここで言う「選び」とは何かというと、このことばの原語の意味は「知る」ということです。交わりを通して相手を深く知るということです。だから特別にアブラハムを選んでという意味ではないということを聖書は教えています。
その目的は、アブラハムの「子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため」、二つ目は「主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するため」です。「主の道」というのは信仰の道です。信仰によって生きる道を彼らに守らせること、そして「正義と公正とを行なわせる」こと。「正義」というのは神様の義という基準に合って生きるということです。「公正」とは善悪を見分けるということです。そのような基準によって彼らが生きて行くためだと言うのです。
そして、もう一つは「アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するため」です。「選び」についてはネヘミヤ9:7に「あなたはアブラムを選んでカルデヤ人のウルから連れ出し、彼にアブラハムという名を与えられました。」とはっきりと記されています。ですから、ウルから連れ出した、名前を与えたというのは選ばれた理由です。救いとは関係がないということがわかります。あくまでアブラハムが救われたのは彼の信仰によって義と認められたからだということを私たちは聖書によって教えられているのです。
17:19にサラが男の子を産む、その子をイサクと名づけよと記されています。男の子の名前は既に神様がお決めになっておられた。神は彼と永遠の契約を結ぼうと言われました。イサクという名前は「イ」ということばと「サク」ということばが合体したものだと言われています。「イ」というのは先ほど言った神の聖四文字YHWHの最初のYが用いられていると言われています。ことばの意味は三人称男性未来形と言われています。英語で言うと、“He will~”です。彼は~するだろうという意味です。だからイサクというのは「彼は笑うだろう」という意味を持っていると言われています。
サラは21:6で「神は私を笑われました。聞く者は」私のことを笑うだろうと言うわけです。イサクという名前に関して、サラはこのように言っています。「神は私を笑われました」、すなわち神は私を笑わせてくださったと口語訳聖書では記されています。サラを笑わせてくださった神様、そして「聞く者は」、周りにいる人たちはイサクが生まれたことをともに笑ってくれるだろうと。こういう出来事が記されています。私とイサクとを一緒に笑ってくれるという意味があることを聖書は教えているのです。
Ⅱ.アブラハムの失敗 20:1-18
1.再びサラを自分の妹と 1-2節
さて、そのような出来事があった後、創世記20章、アブラハムの失敗を見て行きます。
20:1「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、」、そこでアブラハムはまた過ちを犯します。
① アブラハムの言い訳 11-12節
2節「自分の妻サラのことを、『これは私の妹です。』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。」、同じような失敗の繰り返しをまたしてしまうのです。考えてみたら、89歳と99歳のご夫婦で幾らサラがきれいだったとしても89歳の女性ですから、そんなに心配することはなかったと思うのですが、アブラハムは心配して「これは私の妹」だと言ってしまうのです。しかもゲラルの王アビメレクはそのサラに目をとめて自分のところへ入れるわけです。アブラハムとサラ、それぞれにちゃんと確認したのですけれども、二人はそのように口をそろえて言うものですからアビメレクは召し入れた。
ところが夢の中で神様がアビメレクに現れたと3節に記してあります。「ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。『あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。』」、ちゃんと確認して兄弟だと聞いたのに、神様が夢の中で夫婦だと言われた。でもまだ私は彼女とは関係を持っておりません、だから私が死ぬなどということはないようにしてくださいと彼は言うわけです。そのようにあなたがまだ彼女に手をつけないでいたのは私がそのようにさせたのだと神様は言われました。そして7節「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。」、サラをアブラハムに返した後、アブラハムに祈ってくださいと頼めと言うのです。「あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」と。次の朝早く「アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、」こんな恐ろしい出来事あったと言ったので、「人々は非常に恐れた。」と聖書は記しています。
② 失敗 13節
呼び寄せられて、何ということをしてくれたのだ、大変なことが起こっているではないかとアビメレクに言われたアブラハムはまたエジプトのパロにしたような言い訳をします。ここで、彼の言い訳の中で20:13「神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき」、カナンの地を目指して目的地を明らかにせずにさすらいの旅に出た時に、「私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ。』と頼んだのです。」と。カナンの地に向かってウルから出立した時から、既にそういう恐れを持っていて、そういう約束をしていたようです。だから、何かが起きたから過ちを犯したのではなくて、もう最初からそのことを危惧していたと言うのです。神様が恐れるなと言われる前にもう既に心配していたということがわかります。こんなアブラハムでした。でも神様は不思議にこのふたりを守られます。
③ アブラハムの祈り 7、17、18節
そしてアビメレクはどうぞ私たちのために祈ってほしいと彼に頼みます。そして、サラをアブラハムに返します。20:17「アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。」とあります。一体どういう問題が起きていたかというと、この出来事のために神様はアビメレクの周りにいる女性の上にあるひとつのことを行われて、そして子どもを産まないようにされたということを見ることができます。そのためにアビメレクは祈ってほしいと、神様がそのようにさせたわけです。アブラハムはどうぞアビメレクの家族の女性たちのためにまた子どもを産むことができるようにと祈りました。彼は子どもを産めなくなっていた女性のために祈ることができたのです。では今まで自分の場合はどうだったか――。たとえ年をとっていたからと言って、神様が約束されたにもかかわらず自分たちには子どもができないと思っていた。でもこの出来事を通して、祈ったことによって子どもを産めるように回復された女性たちがある。彼は自分たちのためにも祈ることができたのではないでしょうか。そのために祈ったとは書いていませんが。アブラハムに与えられたひとつの大きな試練であり、励ましであったと思います。恐らくアブラハムはここで神様は間違いなくその約束を実行される方だということを確信したと思います。
Ⅲ.イサク誕生 21:1-5、22:1-18
1.イサク誕生 1-5節
そして、21:1-3「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。」と、神様が言われたとおりイサクと名前をつけました。彼は笑うだろう、神様は私に笑ってくださるでしょう、そういう名前をつけたというわけです。そして8日目に神様が命じられたように「自分の子イサクに割礼を施した。」とあります。「その子イサクが生まれたときは百歳であった。」と聖書は教えます。ちょうど神様が約束されたように1年後にサラによって男の子が与えられました。「サラは言った。『神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。』」、先ほど説明したとおりです。本当に喜びがサラを覆うわけです。
2.アブラハム試練に遭う 22:1-19
① 神の命令 1-2節
そしてこのように与えられたひとり子のイサクですが、本当に幸せに浸っているアブラハムに神様は次に大きな試練を与えます。22:1「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ。』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります。』と答えた。神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』」、とても大きな試練でした。「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげ」よというのです。神様はよくご存じでした。あなたの愛している子、どれほど待ちわびた子どもであったでしょうか。そしてこの時、「これらの出来事の後」というのは一体何年たったのかというと、大体18~20年ぐらいたったのではないかと思います。イサクが18~20歳ぐらいの時です。イサクの成長を本当に楽しみにして、夫婦は歩んできたと思いますし、イシュマエルはいましたけれども、ひとり子ですから、このイサクを本当に愛していたと思います。「モリヤの地」というのは一体どこかというと、Ⅱ歴代誌3:1にこのような聖書のことばがあります。「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。」、ソロモンが主の家、すなわちソロモンの神殿と言われる建物を建てるところが「モリヤ山上」だと言われています。いろいろ説があって本当にここがそうだと確認されたわけではありませんが、恐らく距離的、地理的に見てここが一番正しいのではないかと考えられています。「全焼のいけにえ」というのは文字どおり捧げられたその犠牲を焼き尽くすことによって神様への献身を表す儀式です。
② アブラハムの従順 3-10節
この大きな試練にアブラハムはどのように対処したでありましょうか。私たちでしたら、神様そんなこと言わないでくださいと。もしどうしても捧げないといけないとしたら、少なくともあと1年待ってください、1カ月でもいいです、それもだめなら1週間、1日でいいから延ばしてくれませんかと言う
と思います。でもアブラハムはそうではありませんでした。3節を見ると、「翌朝早く、」とあります。言われたその次の朝、しかも早朝に彼は準備をして出かけていくのです。「アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。」、アブラハムがいた所から三日の距離、先ほどのソロモンの神殿があったあたりはちょうど三日の道のりであることから、この場所が正しいのだろうと考えられるのですが、「三日目に」、その目的地がはるかかなたに見える所に着いたわけです。私たちはこの「三日目」ということばにも意味があるのではないかと思います。イエス・キリストが十字架で死なれ、よみがえられたのは「三日目」でした。アブラハムは神様によってあなたの愛するひとり子を全焼のいけにえとして捧げよと言われましたが、彼は何の文句も言いませんでした。その時には彼はもうイサクを全焼のいけにえとして神様の前に捧げる決心をしていたのです。だからイサクはアブラハムの心ではもう死んだも同然だったのです。そして三日たったということを私たちは見ることができるのです。
イサクは父アブラハムとともにここへやって来ました。アブラハムはふたりの若い者たちに5節「あなたがたは、……ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。』と言った。」とあります。彼の信仰です。私はこの子とふたりで戻って来る。全焼のいけにえとしてイサクを捧げる決心をしながら、なおアブラハムはイサクと戻って来るという信仰を持っていたのです。6節「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。」、全焼のいけにえとして捧げるために、その犠牲を焼くためのたきぎを取ってイサクに負わせたと言うのです。もう120歳になろうかというおじいさんがたきぎを持っていくのには無理があると思います。ろばは置いて来ましたからありません。当然イサクが持って行くものと思われます。私たちはここでもまた一つの型を見ることができるのではないでしょうか?あのイエス・キリストがゴルゴタの丘に十字架につけられに行く時に、ご自分でご自分が架かられる十字架を背負って行かれた。本当に重かったと思います。イサクは自分自身が全焼にされるたきぎを背負って行ったということをここで見ます。
そして彼は不思議に思います。お父さん、「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と。火とたきぎはあるのに羊がないことを不思議に思っていたのです。アブラハムは答えます。「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」、こうしてふたりは歩き続けます。そしてその場所に着き、祭壇を築き「そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。」と。普通できます?二十歳ぐらいの若い青年をおじいさんが。彼がもし暴れたり嫌がったらどうなるでしょう。でもイサクはお父さんのすることに従順に従った様子が目の当たりにできます。縛られてたきぎの上に横たわるわけです。アブラハムもそうでしたが、イサクも神様の前に本当に従順でした。
③ 神の備え(アドナイ・イルエ) 11-14節
10節、アブラハムはまさに「刀を取って自分の子をほふろうと」しました。そして、11-12節「そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」、あなたの信仰が本当にわかったと神様は言われました。13節「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。」というわけです。そしてアブラハムは自分の子のかわりにその雄羊を全焼のいけにえとして捧げたとここに記されています。彼はその場所に「アドナイ・イルエ」、「主の山の上には備えがある」という名前をつけたとあります。
④ 神の祝福 15-18節
それから主の使いは15-18節「再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。『これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」、あなたの信仰によって再び神様がなされていた約束を再確認されたというわけです。アブラハムの信仰がこのことをなしたと。神様は本当にアブラハムを選ばれた。彼をよく知られて、そしてこのようになるであろうということを確認されたということをアブラハムに教えられたということです。
彼による最終的な、本当に信仰の基となることば、ヘブル11:12に「ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれた」と記されているとおり、新約聖書ではそういうふうにアブラハムの信仰をたたえています。
Ⅳ.新約聖書の解き明かし
さて、新約聖書はこれらのことに関してどのようなことを言っているのかを見ていきたいと思います。
1.ひとり子
① わたしの愛する子
神様はイエス・キリストのことを「わたしの愛する子」と言われます。マタイ3:17、これはバプテスマのヨハネによってイエス・キリストがバプテスマを受けるところですが、「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」、アブラハムの愛するイサクはキリストの型だということを教えられます。いかにアブラハムがイサクを愛していたかということ、神様がイエス・キリストをどんなに愛していたかということを教えられることばです。
② ひとり子
また、ヘブル11:17では「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」と記されています。「ただひとりの子をささげた」、そうでした。イシュマエルは確かに彼の息子ではありましたが、神様の約束の子ではありませんでしたから、神様によってなされた約束の子はイサクだけだったのです。新約聖書Ⅰヨハネ4:9では「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」とあります。愛するひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださった。それは私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって死んでくださるためでした。神様に人間的な感情があると思いませんけれども、私たちを救うために、そのひとり子をこの世に遣わせてくださった。それは本当に神様の深い愛があったからこそだということを聖書は教えています。
③ 全焼のいけにえとして
またヘブル10:10、14で「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」、イエス・キリストが十字架で死んでくださったことによって、もう犠牲を捧げる必要はないと聖書は教えています。イエス・キリストの犠牲以外に、これに代わる犠牲はない。それまで人間の大祭司によって多くの動物が犠牲として捧げられていました。年に一度大贖罪日7月10日にそのことが行われていた。けれども、イエス・キリストが十字架に架かられたことによって、もうそれらのことは必要がなくなったと聖書は教えています。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」、永遠にそのことはなされたのだと。「一つのささげ物」――ご自身のことです。永遠の贖いがここで完成されたことを聖書は教えています。
④ 死んでいたものがよみがえる
そしてヘブル11:19では「彼(アブラハム)は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼(アブラハム)は、死者の中からイサクを取り戻したのです。」とあります。もしもアブラハムがそんなことはできませんと言ったらどうなるかというのは私たち人間の考えですけれども、神様は先ほど選んだ、よくアブラハムを知っておられたからこのような試練を与えられたということがわかります。そしてアブラハムは「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせる」と考えた。そして「死者の中からイサクを取り戻した」、「これは型」だと書いてあります。十字架の型だと新約聖書は教えています。イサクのよみがえりは復活されたイエス・キリストの型です。
2.ただ疑わないで
ローマ4:19-24に「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」、「約束されたことを成就する力があることを堅く信じ」た、これは大事なことです。それが彼の信仰が義だとみなされたのだということです。それは「ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」、これが私たちが今救われて義とみなされているひとつの大きな根拠です。イエス・キリストはよみがえられた。そしてやがて私たちを迎えに来られると。それが私たちの信仰だと。神様はその信仰を義とみなしてくださると言うのです。
終わりに:
・ 私たちも私たちの最も愛するものを神にささげましょう
アブラハムはその最も愛するひとり子を神様に捧げました。ただ捧げるだけではなくて、神様がイサクを生かしてくださると信じたのです。私たちの愛するものとは一体何か?神様以外で愛を注いでいるものはないでしょうか?自分のため、お金、名声、あるいは時間、多くの私たちの信仰の障害となるものがありますけれども、そういうものは皆排除して本当に神様に愛を捧げたいと願います。
・ 神様が約束されたことは必ず成就すると信じましょう
こんなことは神にはできないと勝手に決めつけてはいないでしょうか。神にはできないことはありません。ピリピ4:13に「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」とあります。
先日、NHKの予告を見たら、「沈黙」というところがありました。「沈黙」という映画があるのは知っていましたが、それについての説明があるのかなと思って少し見てみました。「沈黙」という映画は遠藤周作原作の小説を映画化したものです。江戸末期、徳川幕府がクリスチャンたちを迫害し、改宗を強制した出来事を主題にしています。クリスチャンかどうかを調べるために、踏み絵――イエス・キリストの像を描いたものを踏ませ、それによって彼らに迫害が及ぶわけです。水責め、火責め、石責め、いろいろな責めに遭わされ、最終的には火あぶりにされて彼らは死んで行くわけです。そこで、彼らにイエス・キリストを伝えたひとりの宣教師を改宗させるために幕府の役人は考えたわけです。一つの条件を出します。「もしあなたがイエス・キリストを信じないと言ったら、クリスチャンであることをやめたら捕らえている人たちの命を救おう」と。何十人かの人たちが捕らえられていました。この人たちのいのちと引き換えにあなたは信仰を放棄しなさいと言うのです。宣教師は非常に悩みます。彼らのために自分の信仰を捨てるべきか、それとも信仰を全うするべきか、彼は祈るわけです。でも神様は答えてくれない。神様、どうしてあなたは沈黙しておられるのですか?なぜ私に答えてくれないのですか?それがタイトルの沈黙の意味らしいのですが、こういう祈りがなされたということです。
私はこの映画を特別に何か思ったわけではありません。その後、映画を製作した監督が呼ばれて、NHKのインタビュアーが、「監督がもし宣教師の立場に置かれたらどうされますか」という質問をしました。監督はそれには答えないで次のように言いました。「神に期待するのではなく、自分で何かをすること」。思わず耳を疑いました。それは信仰ではないではないかと私は思いました。すばらしい映画を作っておきながら、作った人がそういう考えでこの映画を作ったのかなと少し残念に思いました。
神様に期待をする、これが私たちの信仰ではないでしょうか。自分で何かをする、それはアブラハムが犯した過ちでしたよね。アブラハムとサラは自分の力で子どもを得ようとしてイシュマエルを産みました。そのためにこれからの世界の運命と言ってもいいぐらいの大きな問題が起きて来る、そういう過ちを犯した。私たちは決してそうであってはならないと、その時教えられました。
どうぞおひとりひとりが信仰の道を歩まれる時に、神様に信頼して歩んで行かれるようにと心からお勧めしたいと思います。イエス・キリストはあなたのためにあなたの罪の身代わりとして、神様がさばかれるその罪を背負って十字架で死んでくださった。イエス・キリストを信じたら、あなたの罪が赦されると神様は言っておられます。決してさばかれることはありません。でも罪をそのままで放置されているならば、あなたは必ず神様によってさばきを受け、永遠の滅びがあなたの行く道に待っていると聖書は教えています。まだ神様を信じておられない方がおられたとしたら、ぜひきょうこの神様がなされたすばらしいみわざを覚えてイエス・キリストをお信じになるようにお勧めしたいと思います。
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