メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:1
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
映像: メッセージを見る
Ⅱペテロ1章をお開きください。
前回、この手紙がペテロによって記されたものであるということで、ペテロという人物がどういう信仰者であったのかということを見て来ました。また、この1節はこの手紙の受取人がだれなのかを示してくれています。実はこの1節には大変大切な教理が含まれています。わずかなところですが、ペテロは私たちにとってとても大切な教理を教えようとしてくれています。きょう我々はご一緒にそれを見て行きます。教理と言うと皆さんは構えられるかもしれませんが、この箇所は私たちの信仰とはどういうものなのか、救いとは一体どういうものなのかを改めて教えてくれます。あえてその学びに時間を取るのは、それが私たちにとって最も大切なものだからです。
A.「手紙の送り先」
もう一度1節を見ると、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。」とあります。今私たちが注目したいのは、後半の「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」というところです。これがペテロが送ったこの手紙の受取人です。彼らは一体だれかというと、救われている人たちです。
1.「時制」による
そのことをペテロはこんなふうに教えてくれます。「尊い信仰を受けた方々へ」、ペテロはまずこの「受けた」ということばをあえて不定過去という時制で記しています。なぜかというと、この不定過去という時制を使うことによって、この出来事が既に起こったこと、その事実だけを明らかにしようとしているわけです。だからいつかという話ではないのです。こういう出来事があったということ、こういう事実があったのだということを明らかにしている。つまり、この人たち、ペテロからこの手紙を受け取った者たち、ペテロがこの手紙を送った対象となっている人たちは、既にこの信仰を、この救いを受け入れた者たちだということです。
2.「手紙自体」による Ⅱペテロ3:1
そして、そのことはⅡペテロ3:1にも見て取ることができます。「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」とあります。ペテロがちゃんと教えてくれているように、この第二の手紙は第一の手紙と同じ人々に対して書かれたもので、第一の手紙を受け取った人たちがいま一度この第二の手紙を読むことによって、教えられたことをもう一回思い出して、心を奮い立たせるためであると。だからこのペテロの手紙の第一も第二も受取人は同じだということがわかります。
◎ この手紙の受取人たち
ではもう少し彼らについて学んでいきましょう。
① 住んでいた地域
Ⅰペテロ1:1を見ると、そこにいろいろな地名が出てきています。「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々」と書いてあります。恐らくこの地名を見て、今も「カパドキヤ」というところが実在していることにお気づきになると思います。これはすべて今のトルコ、かつて小アジヤと言われた地域を指しています。聖書の地図を見ると、確かにトルコの北と西側の部分にこういった地名が存在しています。ですから、そこにいる選ばれた人々、つまり救いにあずかった人たちにこの手紙が送られていることを我々に教えています。
この手紙は、この5つの地域の救われた人々に送られているわけですが、実はもうその時にそれらの地域には教会が誕生していたことをペテロ自身が教えてくれています。少し進んでⅠペテロ5:1を見ると、「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として(つまりペテロ自身ですけれども)、お勧めします。」とあります。つまり長老であるペテロからその地域に存在する長老たちにということは、教会が存在していたからです。そこにある教会の長老たちにこの手紙が送られ、勧めがなされていることがここに記されています。また同じ5:13に「バビロンにいる」とあります。これはローマを象徴的に表していますから、ローマにいる「あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。」、つまりペテロ自身はローマにいて、この手紙を記しているということがわかります。ローマのペテロの周りにいる信仰による婦人たちがこの小アジヤのクリスチャンたちに対してこのようなあいさつを送っているということを我々はここで見て取ることができるのです。
② 教会の構成メンバー:ユダヤ人と異邦人
さて、その地域に存在していた教会を構成したメンバーは間違いなくユダヤ人、そして異邦人です。なぜそう言えるかというと、実際にこの手紙を見ると、ペテロは旧約聖書を引用してメッセージをなしています。旧約聖書を引用するということは聴衆の中にユダヤ人たちがいたからです。ユダヤ人たちに伝道する場合は、どの時代であれ、場所がどこであれ、必ず旧約聖書を使います。つい最近ユダヤ人たちに伝道しているサイトの紹介があって、それを見ると、ヘブル語でもってユダヤ人たちに伝道している様子がビデオで写されていました。ヘブル語で語りながら、ユダヤ人たちが絶対に見ないと言われるイザヤ書53章を読ませて、一体この箇所が何を教えているか彼らに質問していました。救世主の話であり、その救世主は死ぬのだという、まさに我々がよく知っているイザヤ53章をユダヤ人たちはよく知らない。そこでその箇所を読ませて、旧約聖書はメシヤについて、救世主についてこのような預言をなしていると。一体その人物が誰かという説明をして、イエスの福音を伝えておられた。ですから、ペテロが旧約聖書を使うということは、会衆の中にユダヤ人たちがいたことは確かです。あともちろん異邦人がいたことは言うまでもありません。
③ 時代背景と手紙の目的:各人がみことばによって確信を持つために
Ⅰペテロは政治的にも、社会的にも、経済的にも、また道徳的にも大変不安定な時代に生きたクリスチャンたちに宛てて書かれています。なぜかというと、皆さんもよく覚えておられるように、あのローマ皇帝ネロによっての迫害が起こりました。クリスチャンたちがローマが焼けた責任を負わされるわけです。彼らはクリスチャンたちはこういう人々だから迫害すべきだとうそを吹聴するのですが、当時のクリスチャンたちがどんなふうに言われていたかというと、クリスチャンというのは反社会的な人々で、無神論だと。もちろん事実ではありませんが、ローマの人々は多神教徒でしたから、自分たちと同じように信じないからと言って、そのように言ったのです。また聖餐式などを見て、血を飲むとか、肉を食べるということで、この人々は共食いをするとか、人の肉を食うというふうなことも言ったし、兄弟姉妹を愛するということを教えれているゆえに、彼らは近親相姦者であると。もうさまざまな非難を受け、そういった迫害の中に彼らはいたわけです。
そこでペテロは悪人呼ばわりされていた彼らを励まそうとするわけです。それがこのペテロ第一の手紙でした。その迫害の中にあって、どのように生きて行くのか、信仰をしっかりと持って主に対して忠実に歩み続けて行くために必要なアドバイスを与えたのです。そして今私たちが見ようとしているこのペテロ第二の手紙は、もう一度彼らの信仰が奮い立つようにとの目的から書かれています。そしてペテロはなおも迫害の中にいるクリスチャンたちに対して、主に対して、特に主のみことばに対して忠実であり続けるようにと教え励まします。いろいろな偽りを語る教師たちが教会の中に入り込んで来るから、あなたたちはしっかりとみことばに立つようにと、神の真理に立つようにとペテロは励ますわけです。これがこの手紙が書かれた背景です。
でもよく考えてみると、教会の中にいろいろな偽りの教師たちが入り込んで来て、神のことばだと言いながら実はそうでないものを教える、こんなことは私たちの周りでも起こっています。皆さんの家を訪問する異端は、「聖書を一緒に勉強しませんか」と言います。そうは言いながら、聖書を学ぶことはありません。自分たちの聖書でないものをあたかも聖書のようにして教えていく。そうして人々を惑わすのです。彼らは自分たちの教えを吹き込むために一番ふさわしい存在、教え込みやすい存在はクリスチャンたちだと言います。クリスチャンたちはある程度聖書に触れていますが、悲しいことにその聖書の真理に立っていない人がたくさんいるからです。いろいろなことを聞くと動揺してしまうのです。そういうのは格好のターゲットです。
ですからどの時代であっても、神が常に教えられることは、あなたは一体何を信じているのか、なぜそれが真理だと言えるのか。信仰において成長しないといけないということです。この神様のおことばが、このみことばの真理が、我々に確信というものをもたらします。その時に私たちはいろいろな教えを聞いても、それは聖書の教えに反すると、それは真理ではないと見極めがつく、判断することができるわけです。パウロがこんなことを言ったのを皆さんよく覚えておられるでしょう。「後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。」(Ⅰテモテ4:1-2)と。終わりの時代になると、惑わす教えがどんどん入り込むということです。そういう人々が増えていくということです。今そういう時代になっています。私たちの周りには聖書やキリスト教の名のもとにいろいろな教えがなされている。
大変恐ろしいことは、周りだけではなくて、教会の中にも問題が生じてきている。つまり教会が自分たちが聞きたいことを語ってくれる人、そういう教師たちを集め始めると。いろいろな牧師たちと話をした時に、そんなことを何度も耳にします。ある方が「浜寺で語られているようなメッセージが私たちの教会で語られたら、教会員はいなくなってしまう。」と言われました。彼は一体何を語っているのでしょう。会衆が聞きたいことを語るのか、それとも神が語れということを語るのか。パウロが私たちに教えてくれるように、これは神の教会であって、神の教会に送られた働き人に神ご自身が託された責任というのは、神のことばを忠実に語ることです。エペソ4章が教えるように、みことばをしっかりと語ることによって、教会の人々が成長するためにです。エペソ4:12-13「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」、つまり教会に与えられているこの働き人、牧師は神様のお言葉を語ることによって教会員ひとりひとりが信仰において成長するようにと。続いて14節に「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、」とあります。こうしてみことばを通して、それを聞き、それを学んでいるひとりひとり、信仰者であるあなたが成長して、いろいろな教えが入ってきても、そういったものに惑わされることのない信仰者へと成長するためであると。これが神様の意図されているところです。だから私たちは神様のおことばを忠実に語らなければいけない。皆さんが聞きたいことを語るのではなくて、皆さんが聞かなければいけないことを私たちは語らなければいけない。
なぜかというと、我々が何回も繰り返し見てきたように、信仰の成長はみことばの学びとみことばの実践によってのみ起こるのです。私たちはすぐにでも信仰において成長したいと思うかもしれない。でも残念ながらそれは継続した働きです。みことばを学び、それを実践することによって徐々に私たちは変えられていきます。感謝なことにそういったクリスチャンが私たちの群れの中にはたくさんおられる。みことばを正しく学び、それを実践していく。だからパウロは「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(Ⅱテモテ4:2)と言ったのは、まさに我々が今見てきたようにみことばが私たちの信仰生活の中で最も大切なものだからです。
ですから、信仰者であるあなたの大きな責任は、先ほどからお話ししているように、あなた自身がみことばにしっかりと立つことです。語られたメッセージが真に神のみことばである聖書の教えに沿っているものであるかどうか、しっかりと吟味することです。著名な先生方が語られているから、お書きになったから真実だというのではなくて、本当にそれは聖書が言っていることなのかどうか、そのことをいつも吟味することが必要です。
模範:使徒17:10-12
あのべレヤというところにあった教会をパウロは非常に賞賛していました。パウロとシラスはテサロニケからべレヤへと向かい、彼らは着いたらすぐにユダヤ人の会堂に入ってみことばを語りました。そして、使徒17:11に「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たち」だと書いてあります。「良い人たち」と聞くと、私たちは何か道徳的によい人たち、人間的によい人たちと思いますが、ここで使われていることばは実はそうではないのです。この「良い人たち」というのは、学ぶことに大変意欲があって、そして彼らはあることに対してそれを公正に評価する、そういうことを実践していたのです。その後11節に「良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」と続きます。だから彼らは「良い人」だったと言うのです。彼らは、みことばを非常に熱心に聞いて、学ぶことに関して大変な意欲を持った人たちでした。もっとみことばを知りたい、もっとみことばを学びたい、もっと神のことを知りたいという意欲があった。同時に彼らは偏見のない心、偏狭でない人々だったのです。彼らは聞いたのです。そしてその上で聞いた内容が本当に聖書が教えていることかどうかを彼らは吟味したのです。だからすばらしい信仰者だったのです。
こうして見ると、私たちが目指すべき教会の姿、信仰者の姿がわかります。私たちは教会にやって来て、ただ何か話を聞いて帰るだけではない。我々がこうして集まって来ているのは、私たちの愛する神に礼拝を捧げるためです。そして神は私たちにこの神のおことばを通して神のみこころを明らかに示してくださる。なぜかというと、それを聞くことによって私たちはそれを実践しようとするからです。実践しなければ私たちの信仰は成長しないからです。信仰が成長しなければ、私たちが生かされている目的である神の栄光を現すことができないからです。ペテロはこの手紙を小アジヤにあるクリスチャンたちに、この教会の人々に送っています。彼らの信仰がいろいろな教えで惑わされたり、動揺することがないように、しっかりと真理に立つように。そのことをまず私たちはここに見ることができます。そしてその教えというのはどの時代でも、どの場所にあっても我々ひとりひとり信仰者がしっかりと耳を傾けなければいけない教えであることは言うまでもありません。
B.「救い」:「神の恵み」である。
さて、この1節は「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」とこの手紙の送り先が記されているわけですが、ペテロはここで救いについて教えています。しかもその救いは神の恵みなのだと教えているのです。最初にお話ししたように、大変大切なことをペテロはここに記してくれています。
1.「受けた」 ルカ1:9、ヨハネ19:24
まず先ほど見た「受けた」という動詞です。先ほどは時制を見ました。実際に起こった出来事だと、その事実を明らかにしたと言いました。ではこの「受けた」ということばの意味は、「くじが当たって」とか、また「神のご意思でもって得る」とか「手に入れる」という意味です。これは新約聖書の中で実は4回しか出てきていません。この箇所以外のその中の2回は「くじを引く」と訳されています。例えばルカ1:9で祭司ザカリヤがくじを引いて、くじに当たって主の神殿に入って行ったと。主の神殿に入って香をたくためにです。少し考えてみると、確かにくじを引くのはひとりひとりの人間のなすことですが、当たるかどうかは私たちはコントロールできません。このザカリヤもくじに当たったから、結果として香をたくという務めをもらったのです。ですから、この信仰というものも、いただいたのであって、自分の努力で得たものではないのだということをペテロは言わんとするわけです。ペテロはこの小アジヤのクリスチャンたちに対して、この救いというのは実は神様からのすばらしいギフトであると、贈り物なのだということを明らかにします。
実はペテロ自身使徒11章で、こんなことをエルサレムで語っています。何があったかというと、ペテロがエルサレムに上った時に割礼を受けたユダヤ人たちは、「あなたは割礼のない人々のところに行って彼らと一緒に食事をした」と言って彼のことを非難しました。ユダヤ人たちはよく異邦人と交わったことに対してその人物を大変厳しく非難したわけです。そのことがここでも起こったのです。そこでペテロはなぜ異邦人と交わったのか、その理由を説明します。皆さんもよくご存じの話です。ペテロはヨッパという町にいました。そこで祈っていると、うっとりと夢心地になって幻を見たと。どんな幻だったかというと、四隅を吊り下げられた大きな敷布のような入れ物が降りて来て、そこにあるものを食べなさいと言われた。ペテロは「それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答えた。その時に天から「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」という答えがあった。こんなことが3回ありました。そして3回が終わった後、そのすべてのものが天に引き上げられた。すると、その時にカイザリヤから遣わされた3人の人が自分のいた家の前に立っていたとみことばが教えます。だれによって遣わされたのかというと、コルネリオでした。イタリア隊という部隊の百人隊長であったと聖書が教えています。なぜかというと、コルネリオに神が働かれたのです。そしてヨッパにいるシモン・ペテロを呼んで来るようにということでこの使いたちが遣わされたのです。こういう話が確かに記されていました。(使徒10:10-22)
さて、見ていただきたいのは11:17で「こういうわけですから、(これはペテロが語るわけです)私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。』」とペテロが答えるのです。何を彼らがもらったのかというと、聖霊なる神様、つまり救いの話です。ペテロは私ではなくて神がそのようなわざをなさり、神がそのように導かれたのだと言うわけです。その説明を聞いた人々が何と答えたのかというと、18節「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。』と言って、神をほめたたえた。」とあります。救いというのは神様からのギフトであると、ペテロは異邦人の救いに反対する者たちに対して答えているわけです。
テキストに戻ると、「信仰を受けた」というのは、この信仰、この救いというのは神様からのギフトであると。ペテロはそのように実際にコルネリオ自身が救いにあずかることを見たのです。神が働かれたことを見たのです。この救いというのはまさに神からの賜物なのだと。確信を持ってそのことを語るわけです。
2.「信仰」:「救い」のこと
今少し触れましたが、Ⅱペテロ1:1に「信仰」ということばが出ていました。先ほどからこれが救いだと繰り返しましたが、そこには理由があります。というのはある人たちは「信仰」というと、救いではなくて、信じている教えのことである、ことばをかえると教理のことではないのかと言います。でもここでペテロが使っているこの「信仰」というのは救いのことであると言えます。
その理由:
1) 文脈から(1:5)
なぜかというと、5節「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、」と書いてあります。つまりペテロは、道徳的な者が救いにあずかるのではなく、救われた者たちが道徳的に成長していくのだという話をしているのです。救いにあずかった者が道徳的によりきよい者になって行くという話です。ですからこの5節を見ると、「信仰には徳を」の「信仰」というのが救いを指していることは明らかです。
2) 冠詞がない
もう一つ1節の「信仰」という名詞には、ギリシャ語において冠詞がつけられていません。もしこれが
教理だとすれば、ちょうどユダ3節にあるように、そこには冠詞がつけられているはずです。ですからそこからしても、この「信仰」ということばは、教えられた教理の話ではなくて救いの話であると言えます。それで先ほどから「信仰を受けた」というのは救いを受けた、救われたのだと説明してきたのです。
3.「救い」とは
1)「神の働き」
この1節の中で、これは物すごく大切なところなのでよく聞いていてください。この救いは神様からの賜物であると、ギフトであるということを何回もお話しして来ました。そのことは聖書が私たちに教えてくれています。エペソ2:8-9は皆さん暗唱されているかと思います。もしそうではなかったら非常に大切ですから覚えることです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)、パウロも神からのギフトなのだと言っています。またイエス様ご自身も「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6:44)と言われています。
少し整理すると、聖書は確かに私たちにこのⅡペテロ1:1が言うように、この「信仰」、救いというのは神様からのギフトであると。パウロもそのように教えているし、主ご自身もそのように教えている。あなたが救いにあずかっている、これは神がこの救いというすばらしいギフトをあなたに与えてくれたのです。あなたが何か特別なことをしたから神様があなたに救いをくれたのではない。神は一方的にあなたを選び、あなたにこの救いをプレゼントしてくれたのです。なぜならそのことはみことばが我々にこうして教えてくれているからです。
2)「人の責任」
しかし、同時に人間の責任ということも聖書は問うています。例えばイエス様が私は罪人を救うために来たと、そしてイエス様のメッセージを聞いても、罪人に対してこの救いを受け入れるようにと言っておられます。またヨハネ3:18でも「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。注意していただきたいのは、「御子を信じる者はさばかれない」けれど、御子を信じない者はさばかれるという話です。先ほど私たちが見てきたのは、救いというのは神様からの賜物、ギフトでした。聖書はそのように教えていながら、同時に御子を信じる者はさばきを受けないけれども、御子を信じない者はさばきに遭うのだということを教えている。つまりこうして聖書は人間の責任を問うているわけです。
ダニエル12:2にも、「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。(復活の話です)ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」と書いてあります。よみがえってくるけれども、そこに決定的な違いがあると言うのです。ある人たちはよみがえってきて永遠のいのちに至るし、ある者は永遠の滅びに至ると。それを決定しているのは、ひとりひとり、あなたがどんな選択をするかです。なぜ罪人が永遠の地獄に行くのかというと、それはその罪人が永遠の地獄を選択しているからです。なぜなら彼らは神が備えてくださった完璧な救いをみずからの意思でもって拒んでいるからです。この二つのことが確かに聖書によって教えられているわけであって、私たちが理解できるかできないかの話ではないのです。ですから、救いにおいて私たちがしっかりと覚えなければいけないのは、救いは確かに100%神の賜物だと、神様からのギフトだと。同時にすべての人間に神は責任を問われている。あなたはこの救いを受け入れるか、それとも拒むのか。その選択の責任がひとりひとりにあるのだと。このことは私たちがしっかりと理解しておかなければいけないことです。これが聖書が教えてくれる救いなのです。クリスチャンであるあなたは神様からこのすばらしい救いを贈られたのです。よく考えてみると、あなたはある時に、神の前に私はイエス様を信じますという選択をしたのです。そしてもっといえばあなたがイエス様を信じますという選択をしたのは実は神があなたのうちに働いてくださっていたからです。これが聖書が私たちに教えてくださる神様の救いです。我々にはその100%を理解できない。でも、これが聖書が言っていることです。
4.「恵み」とは
1)神様からの最高のギフト
神の恵みだと言われるのは、私たちが何かをしたから、その報酬として得たものではないからです。恵みとは「神の一方的な恩顧である。恵みとは、滅ぶべき罪人にとって最もふさわしくない神の憐れみ、ご好意である。」と。もし私たちが自分の権利を主張して、自分にふさわしいものを与えろと言うのであれば、我々に一番ふさわしいものは永遠の滅びです。永遠の地獄こそが私たちに一番ふさわしい。なぜなら私たちは生まれながら神にずっと逆らい続けているのです。今、テロでたくさんの人たちのいのちを奪った人たちを見て、大変重たい刑を科すべきだと私たちは思います。神の前にあなたの犯してきた罪の数々を思ってください。あなたの一体どこにこの神様の救いにあずかるべきすばらしいものがあるのかです。神の前に誇れるものもないし、神の心にご好意を抱かせるような何かが我々のうちにあるのでもありません。神が私たちに対して憐れみを持ってくださるような何かが我々のうちにあるのでもありません。キリストの祝福をいただく何かが我々のうちにあるのでもない。ただ一方的に神様はあなたを憐れんでくださって、このすばらしい救いというギフトを与えてくださった。
そこで、この救いというものがどんなものかを言ったペテロは、「私たちと同じ尊い信仰を」と言います。この「尊い」ということばは、「等しい」と「価値」という二つの意味を持ったことばからなっています。「同じように価値を持つ」とか「同等の価値を持つ」とか「高価」とか「貴重である」とか「むだにできない」とか「かけがえのない」という意味です。つまりペテロは、この救いほど価値あるものはないと言っているのです。この救いほど貴重なものはないと。かけがえのないものは存在していないと。これが至高のものだ、最高の神様からのギフトであると。
2)信じるすべての者に与えられるもの
救いのすばらしさをペテロは語るのですが、「私たちと同じ」という説明が加えられている。これは恐らくペテロは我々ユダヤ人と同じようにそうでないあなたたちがいただいたこのすばらしい救いというものがどれほど貴重なものなのかを言いたかったのでしょう。というのは最初にもお話ししたようにこの小アジヤの教会は、そこにたくさんのユダヤ人がいて、またたくさんの異邦人がいました。この当時の社会において、人種や民族、また社会的地位など、確かに格差が存在していました。しかし、ペテロが言いたいのは救いにおいては格差は存在しないのだという話です。人種がどうであれ、民族がどうであれ、社会的地位がどうであれ、神はこのすばらしい最も価値ある救いを信じるすべての人に平等に与えてくれるのだと。
実はペテロ自身そのメッセージをエルサレム会議の時に語っています。どんな時だったかというと、パウロたちがアンテオケに戻ってくるのです。アンテオケというのは、ここでクリスチャンたちが初めてクリスチャンと呼ばれた場所でもあります。パウロたちの宣教において中心的な役割を持った町です。パウロたちがこのアンテオケに着いた時に、教会の人々を集めたのです。そして神様がどんなことをなさったのか、その証をパウロたちがしました。異邦人が信仰に導かれたのだという話をパウロたちはしました。ところが、その神のなさったみわざに反対する者たちが来るわけです。その人たちはユダヤからやって来た者たちであって、こう言ったのです。「モーセの慣習に従って彼らに割礼を受けさせなければ救われない」と。よくある話です。ユダヤ人たちはこういった律法からまだ完全に自由にされていなかったので、律法を守るように教えなければ彼らは救われないと主張し、パウロたちとの間に激しい論争が生じ、こういう結論を彼らは引き出すのです。「じゃあ、エルサレムに行こうよ」と。エルサレムに行って、使徒たちと一緒になってこの件について考えようということで、みんながエルサレムに集まって来るのです。これがエルサレム会議です。
使徒の働き15章の中にその話が出てきます。「パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」(使徒15:5)と言って、そこでも激しい論争があったことが書いてあります。その論争の中にあってペテロが立ち上がってこう言います。15:7「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。」と。ペテロは神様が私の口から出る福音のことばを通して、異邦人が信じるようにされたと言ったのです。先ほどの使徒11章にもありました。今この15章でもペテロは言うわけです。神様が私を使って異邦人が信じるようになさったのだと。8節に続けてこう言います。「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、」と。我々ユダヤ人と異邦人との間に何の差別もつけずと。こんなふうに語ったのはペテロです。
そして、Ⅱペテロ1:1で「私たちと同じ尊い信仰を」神様から賜った者たち、ユダヤ人だけでははい、異邦人も同じように神の賜物としてこの救いをいただいたと。恐らくここでペテロが言いたかったのはこのことでしょう。神はユダヤ人だけでなく異邦人も同じように救いの恵みが与えられたのだと。そのことをここで語っているのです。なぜなら彼自身あのエルサレム会議において、またコルネリオの救いを通して、こういった経験を通して、彼自身がこういった確信を持っていたからです。だからペテロは言うのです。あなたがユダヤ人であろうと、あなたが異邦人であろうと関係ないと。私たちこの救いにあずかったすべての信仰者は、みんな心をひとつにしてこう言えると。神が私たちに賜物として与えてくださったこの救い、これほど高価で価値のあるものは存在しないと。なんてすばらしいものを神様は私たちに与えてくださったのか――。
どうです、皆さん、それを聞いていて、アーメンと言えます?本当にそのとおりだと。神様は私のような者にこんなにすばらしい高価な物を、こんなにすばらしい価値ある物を与えてくださった。この救いを神は私に下さった。今それにアーメンと言えた人たちは、毎日神様に感謝を捧げて歩んでいる皆さんでしょう。私たちにはその救いの喜びが必要なのです。我々はいつも神がどんなに大きなことを私のために、あなたのためにしてくださったのかを覚えていなければならない。なぜならそれが私たち信仰者の原動力だからです。感謝しています?救われたことを喜んでいます?間違いなくペテロはそれを喜んでいた。そしてそのすばらしい喜びをすべてのクリスチャンが共有するようにと、改めて読者たちに対して救いのすばらしさを思い起こすようにと記しています。
パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)と言っています。ペテロだけではない、パウロもそのことを喜んでいたのです。ユダヤ人であろうと、ギリシャ人、異邦人であろうとそんなのどうでもいいと。人を完全に造り変えることのできる、罪人を生まれ変わらせることのできる、罪からの完全な救いを与えることのできるこの神の福音をだれよりも喜んでいた、だれよりも誇っていた。あなたはそんな信仰者ですか?救われたことを何よりも感謝し、神様、本当にありがとうと、その感謝の思いを持って毎日歩んでおられます?ペテロはそうでした。パウロもそうでした。そして彼らは当時の人々に対して同じように感謝する者であれと勧めています。この救いは神が一方的にあなたに個人的に与えてくださった最高の宝です。それを喜びながら生きること、それが主に喜ばれる本当の信仰者の歩みだと思いませんか?主が与えてくださったこのすばらしい価値ある、高価な救いをしっかり覚えて、感謝をもってこの一週間歩み続けてください。
《考えましょう》
1.「受けた」ということばは、救いが恵みであることを教えていました。その説明をしてください。
2.「信仰」は「救い」のことでした。救いに関する、神の働きと人の責任について説明してください。
3.「神の恵み」について説明してください。
4.神へのあなたの感謝を教会のだれかと話し合って主を崇めてください。
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