メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅱペテロ1:1
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文書: メッセージを読む
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ペテロの手紙第二をお開きください。1章1節にこの手紙の著者がだれなのかが記されています。この手紙はペテロが書いたのではないと言う人たちもいます。でも、私たちはここに書かれている通り、ペテロによって記されたと信じます。今日、私たちはこのペテロの手紙第二を学ぶに当たって、まず、ペテロという人物を皆さんに紹介したいと思います。今日、成人を迎える人も私たちの群れの中にいるわけですが、その若い人たちにとってもペテロはすばらしい模範だと、そのように確信しています。
A.ペテロの自己紹介
1節はこのように記されています。「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、」と。ペテロは自分のことを紹介しています。まさに、ペテロ自身の自己紹介です。なぜ、このように彼が自分の名前を綴ったのかというと、この手紙が彼自身のものであるということを明らかにしたのです。というのは、偽りの教師たちがこのような使徒たちの名前を語って偽りのメッセージを伝えていたからです。ペテロの手紙第一の方は、迫害に直面している多くのクリスチャンたちを励ますためにペテロが記しました。この第二の手紙は、教会に中に偽教師たちが密かに入り込んで来て、間違った教えを広めていたので、この人たちに対して警告を発するのです。いろんな教えが入って来ても、そのようなものに動かされないように、惑わされないようにしっかりと真理に立ちなさいとして、ペテロはこのペテロの手紙第二を記したのです。「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロ」、「シモン・ペテロ」と名乗ったのはこのような意図があるのです。
ここでペテロの自己紹介と言いましたが、彼は自分に関して二つのことを語っています。一つは「イエス・キリストのしもべ」、もう一つは「イエス・キリストの使徒」と言っています。これがこのペテロです。
1.イエス・キリストのしもべ
「しもべ」と書かれていますが、自分のことを「しもべ」、もっと正確に言えば、「デュロス」というギリシャ語ですから「奴隷」と訳すべきですが、「イエス・キリストの奴隷」と自らのことを呼んだ人はペテロだけではありません。パウロもそのように呼んでいます。ローマ1:1「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、」やピリピ1:1「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、」に、ヤコブもヤコブ書1:1「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、」と、そして、ユダもユダ書1:1「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、」と記しています。彼らは「私はイエス・キリストの奴隷である」とペテロと同じように自らのことを呼んでいるのです。救われている者が自分のことを「奴隷」と呼ぶのは新約聖書だけではありません。
旧約聖書においても、信仰の勇者たちは自分たちのことを「主のしもべ・奴隷」と呼んでいます。また、人々からそのように呼ばれています。たとえば、
・モーセ : 申命記34:5に「こうして、【主】の命令によって、【主】のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。」とあります。「【主】のしもべモーセは、」、同じことです。父なる神の奴隷であると言います。詩篇105:26にも「主は、そのしもべモーセと、主が選んだアロンを遣わされた。」、マラキ書4:4にも「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。」と書かれています。
・ヨシュア : ヨシュア記24:29には「これらのことの後、【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。」と、「【主】のしもべ」ということばがあります。
・ダビデ : Ⅱサムエル3:18に「今、それをしなさい。【主】がダビデについて、『わたしのしもべダビデの手によって、わたしはわたしの民イスラエルをペリシテ人の手、およびすべての敵の手から救う』と仰せられているからだ。」と、このように主なる神がダビデについて語っています。詩篇78:70にも「主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、」と記されています。
☆新約聖書においては、クリスチャンたちの名称として「奴隷」という表現が使われています
ローマ6:22 : 「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」
Ⅰコリント7:22 : 「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」
ですから、少なくとも、このように旧約聖書、新約聖書を見るときに、主のあわれみによって恵みに
よって救いに与った者たちのことをそのように呼んでいたということが言えるのです。
この「奴隷」という表現ですが、ウィリアム・バークレーという神学者は非常に分かり易い説明をしているので、その解説を次の通り記します。
クリスチャンを神の「奴隷」と呼ぶことは次のことを意味するとして彼は四つのことを挙げています。
(1)クリスチャンは、だれにも奪われないように神によって支配されていることを意味する
というのは、古代世界では、主人は道具を所有するのと同じ意味で奴隷を所有していたのです。人間ですが道具と同じように扱っていたのです。しもべと奴隷は違います。しもべは主人を変えることができたのですが、奴隷にはそれができませんでした。ですから、キリスト者とは、クリスチャンとは奪われないように神に属している者である、神がしっかりと捕えてくれていてだれも神の手から奪うことがないというのです。それが一つ目の意味です。
(2)クリスチャンは、神の思い通りにできる権利に口を挟む資格がないこと、全く神の思いのままであることを意味する
実は、この「奴隷」ということば、古代世界では主人は好むがままに奴隷を扱うことができました。彼はいのちのない所有物に対するのと同じ権力をその奴隷に対して持つことができたのです。彼は生殺与奪の権を持っていたのです。殺すことも生かすこともその主人の意のままであったのです。キリスト者は神のものであり、神はご自身の意図することを彼になさるのです。キリスト者とは自分自身の権利を持たない者である。それはすべての権利を神に放棄したからである。ですから、神の奴隷である私たちクリスチャンは、神がなすことに「どうしてですか?なぜですか?」と、そのような口を挟む権利を持っていない、主人がなさることを受け入れる者だということです。
(3)クリスチャンは、神に対して無条件に服従しなければならないことを意味する
古代世界の法律では、主人の命令が奴隷の唯一の法律であったのです。例え、奴隷に法律を破ることを命じても奴隷はそれに抗議することはできなかった。いかなる場合でも、キリスト者は「主よ、あなたは私に今何を求めておられますか?」という問いだけをするのである。神の命令が彼の唯一の法律なのです。ですから、「神の奴隷」と言われた時にそれが意味することは、奴隷である私たちは主人である神に無条件に服従するということです。私たちが神である主人に言えることは何か?その当時の奴隷たちがそうであったように「主よ、あなたは今私に何を求めておられるのですか?私は今それを行ないますから。」と、そういう意味を持っていると言います。
(4)クリスチャンは、常に神に仕えなければならないことを意味する
古代世界では、奴隷には文字通り自分の時間はもとより休日も休暇時間も余暇もなかった。彼のすべての時間が主人のものであった。キリスト者は意識的にしろ無意識的にしろ、時間と行動を神に属するものと、自分の好きなことをするものとに二分することはできない。キリスト者とは必然的にその人生のあらゆる瞬間と時を、神に仕えるために費やす人間なのである。
ですから、私たちは旧約聖書を見ても新約聖書を見ても、この神の恵みによって救いに与っている者は「神の奴隷」と言うのです。でも、「奴隷」と言われても私たちにとってはピンと来ません。ですから、「神の奴隷」と言った時に、そのことばがどういう意味を持っているのか、どういう意味を含んでいるのかをバークレーは分かりやすく説明してくれました。私たちは主人である神によってだれにも奪われないように支配されているし、神が為さることに関して口を挟む一切の権利を持っていない。私たちは奴隷なのです。そして、神が命じられることに私たちは無条件に従って行きます。そして、どんな時でも、24時間、365日、主に仕え続ける者たちです。これが神の奴隷だと、もっと言えば、これがクリスチャンであるあなたなのです。クリスチャンとはこういう者たちです。
よく考えてみると、私たちクリスチャンは「自分を日々十字架につけて生きる者たちだ」と言うことができませんか?イエスの招きはそうでした。マタイ16:24ではイエスが弟子たちにこのように言われています。「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と。マルコ8:34、ルカ9:23でも同じことが記されています。主はこうして罪人を招かれたわけです。もし、わたしを信じてわたしについて来たいと思うのなら、このようにしなさいと言われたのです。
自分を捨てるとはどういう意味ですか?これは、これまでの自分中心、自分勝手な、神を無視した生き方との決別です。生まれながらの人間は、創造主なる神を全く無視して好き勝手に生きています。「自分の人生、自分の時間、自分のお金だ」と言っていたかつての神を無視した、神に逆らったその自分を十字架につける、その自分と決別することです。このことばにはそれを拒絶するとか、それと縁を切るという意味があります。そして「自分の十字架を負って」とあります。かつての自分に「NO」と言って、間違った生き方をしてきた自分に対して「NO」と言って、そして、正しいことをするのです。それが「自分の十字架を負う」ことです。つまり、これは「私は何があってもどんなに苦しいことがあっても、あなたに従って行きます」という決意です。「イエスさま、私はあなたに従って行きます」と。
「そしてわたしについて来なさい」と言われています。この最後の「わたしについて来なさい」という動詞だけが現在形を使っています。従い続けて行くからです。それまでの二つのこと、「自分を捨てること」も、「十字架を負うこと」も継続した行動とは見えません。そして、この三つの動詞はすべて命令形です。神の命令です。「あなたは自分自身、神に逆らって来たあなたを捨てる決意ができていますか?」「あなたは自分を捨てて、わたしを信じてわたしについて来ますか?」と、これが主が私たち罪人に語られた救いのメッセージです。大変狭い門です。でも、確かにそのように教えられたのです。
よく考えていただくと、自分の今までの間違った生活に「NO」と言って、神の前に正しい歩みをして行こうというのは方向を変えることです。悔い改めです。主が私たちに命じられたように、私たちは神の前に自らの罪を悔い改めて、そして、私たちはこの真の神に従って行く決心をする。そのようにして信仰者たちは救いに与り、そのように歩んで来たのです。だから、彼は神の奴隷なのです。なぜなら、救いに与ったすべての人たちが考えていることは、どうすれば私の主人であるこの神を喜ばせることができるのか?と、主人を喜ばせることしか考えていません。だから、その方に喜んで従っていきたいし、忠実に従っていきたいのです。そのような願いをもって、失敗を繰り返しながらもそのように生きていくのです。
ペテロは自らのことを「私はイエス・キリストの奴隷である」と言いました。彼はもう自分を捨てたのです。そして、このイエスを自分の主としてこの方に従っていくという決心をしました。だから、彼は神の奴隷として生まれ変わったのです。自分を喜ばせて来たこれまでの生き方から、神を喜ばせるという新しい生き方を歩み始める、救われた者として彼はこのことを記しているのです。
皆さん、神の恵みによって救いに与った者であるなら、あなたも同じようにイエス・キリストの奴隷なのです。奴隷であるあなたが考えなければいけないことは、あなたの歩みが奴隷としてふさわしい歩みをしているかどうかです。本当に主が喜ばれることをいつも選択しながら生きているかどうかです。あなたの人生のその目標は自分ではなくて神を喜ばせること、それを目標にして生きているかどうか?「そんな生き方は難しすぎます」と言われるかもしれません。でも、このように言えます。そのようにして信仰者は生きて来たのです。ということは、そのようにあなたも私も生きることができるということです。
まず、ペテロは自分のことを「私はイエス・キリストの奴隷である。」、「私はこのイエス・キリストによって救いに与っている信仰者である、クリスチャンである。」と、そのように宣言するのです。
2.使徒であるシモン・ペテロ
「イエス・キリストの奴隷である」と言ったペテロ、彼は二つ目に「私はイエス・キリストの使徒である」と、自分自身のその身元を明らかにしています。「奴隷」と「使徒」、この二つのことをもって彼は自分のことを紹介するわけですが、まず、皆さんに覚えていただきたいのは、ペテロが「イエス・キリストの奴隷だ」と言ったときに、これは彼自身の神との関係を語っています。「私はイエス・キリストの奴隷です。イエスは私の主人です。」と、救われた者たちが新しくいただいた神との関係のことです。でも、この二つ目の「使徒」というのは神との関係ではなく、神からいただいた働きのことです。神からいただいた務めのことです。お気付きになりますか?
ということは、神の恵みによって救いに与ったあなたも神の奴隷なのです。そして、神はあなたにペテロと同じように特別な務めを与えてくださっているということです。みなが霊的な賜物をもっているのはなぜですか?それは神が救いに与ったあなたに特別な賜物を与えたからです。そして、ペテロが使徒としての特権を用いて主に仕えたように、私たちも同じように、主が与えてくださった霊的賜物を用いて主に仕えていくことを、神は当然、要求されています。
1)召命 : 主の召し
「私はイエス・キリストの使徒である」とペテロはそのように言いました。これは彼自身が勝手に希望したことではなくて、主の導きによるものでした。思い出してください。マタイ4章で、イエスが宣教を開始されたことが書かれています。4:17「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と、そうしてメッセージを伝え始められました。そこで、イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたときに二人の漁師に出会うのです。二人の名前は一人がペテロ、「ペテロと呼ばれるシモンと」(4:18)と書かれています。その兄弟アンデレでした。二人は湖で網を打っていました。漁師だったからです。この二人に対してイエスは言われました。マタイ4:19「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」、そして、20節「彼らはすぐに網を捨てて従った。」、こうして神は直接ペテロを導かれたのです。
ペテロは使徒でした。そして、この「使徒」とはどういう人のことなのか?その定義をベーカー神学事典から記します。「明確な使命のもとに正当に遣わされた者であって、派遣者の代わりにその権威を十分に行使し、派遣者に対して責任のある者のことを言う。」と。「使徒」とは「正式に遣わされた者」です。遣わしてくれた方の権威をもって、その方に対して責任をもって働きをする人のことです。ペテロもそうでしたが、この使徒というのは、イエス・キリストの復活の目撃者として、復活の主を証するために、権威をもって神の真理を宣べ伝えるために、主イエスによって正式に派遣された者でした。ペテロは復活の主に出会っています。その主から権威をいただいて彼はこの働きに就いていくのです。
この1節に敢えて「使徒である」ということばを加えているのは、これから語るペテロのメッセージが確かに神からのものであるということ、自分の名前を「シモン・ペテロ」とみながよく知っている名前を用いることによって、同時に、自分が使徒であることを明らかにすることによって、これから語るメッセージの信憑性を明らかにしているのです。
イエス・キリストの奴隷である、そして、使徒であるペテロ。ペテロとはどのような人だったのか?いろいろなペテロ像が出て来ると思います。ペテロはこのような長所があり短所があると。まず、私たちに分かっているのは「彼は漁師」でした。彼の特徴の中で三つだけ挙げます。
(1)衝動的な人 : どちらかというと、よく考えないで行動をする人と言えると思います。なぜか?イエスが湖の上を歩いて来られたとき、マタイ14章に書かれていますが、25-29節「:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」、ペテロはびっくりするようなことを言っています。「もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と、すごい発想です。イエスは責めるどころか「来なさい」と言われ、ペテロは水の上を歩くのです。
また、ゲッセセネマの園でイエスを捕えるために群衆がやって来たとき、ペテロは他の弟子たちとは違う行動を取りました。ヨハネ18:10「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。」と。 今、この二つのことしか
挙げませんでしたが、このようにペテロは衝動的な人物でした。よく考えて行動を取るというよりも、思いつきで行動してしまう、そのような特徴をもつ人であったと思います。
(2)勇敢な人 : 人を恐れることなく真実を告白しています。マタイ16:15、16「:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」、このときペテロが真っ先に答えています。「:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と。また、ヨハネ6章でも、多くの弟子たちがイエスの話を聞いてイエスから離れていったとき、イエスは12弟子たちに言われました。6:67―69「:67…まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」と、するとここでもシモン・ペテロが真っ先に答えます。「:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」と。このようなことを言うと自分の身にどんなことが降り懸るかなど考えていません。彼は自分が本当に信じた真実というものを恐れなく語っています。そういう面では非常に勇敢な人物だったと言えるのです。
ところが、弱さもありました。主イエス・キリストが捕えられた後、大祭司の女中の一人がペテロを見つけて、マルコ14:67「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」と言いました。すると68節~「:68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。:69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。:70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」:71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。:72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」、女中の一つのことばで彼は大変な驚き恐れを抱いたわけです。ですから、確かに勇敢な面がありますが、同時に、このような恐れを持つ弱さを持っている面を見ます。もちろん、私たちはだれ一人として、このペテロを責める者はいません。彼は大変な信仰者であったわけです。しかし、このような弱さを見た時に、私たちとよく似ていると思います。私たちも今、いろんな所に遣わされてイエス・キリストの福音を語りたいと思ってもその勇気がなかったりします。そのような弱さを覚えることがあります。ペテロもそんな人物でした。
(3)信念の人 : 彼は確信がぶれることがなかった。何事にも動じない人物でした。使徒の働き4章で大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンダル、そのほか大祭司の一族がいる所でペテロはこんなことを言っています。使徒4:19、20「:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」と。この大祭司たちはみな、ペテロたちの宣教に頭を悩ませていました。どんなにプレッシャーをかけても、彼らは自分たちが見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきませんと言って、真実を語り続けていたからです。
使徒5:27-29「:27 彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、:28 言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」:29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」、大祭司たちはペテロたちがこのエルサレムの至る所でイエス・キリストの福音を語っているゆえに、彼らを責めました。しかし、ペテロはこう言っています。「人に従うより、神に従うべきです。」と。全くぶれていません。どんなに人々から脅されてもその告白はぶれていません。同じように、5:40-42にも「:40 使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。:42 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」と書かれています。大祭司をはじめ宗教家たちは大変だったでしょう。何をしても彼らを黙らせることができなかったからです。彼らはどこに行っても、どんな時でも、だれであっても、このキリストの福音を語り続けたのです。
今、私たちはペテロという人物を見ていますが、彼は確実に変えられています。今読んだ「使徒の働き」は、ペンテコステがあった後、ペテロは確かに教会のリーダーとして神によって大いに用いられていく、その記録が記されています。最初に私たちが見て来た召されたときからのペテロと比べると、大いに変えられている姿、成長している姿を見ることができます。
確かに、ペテロはリーダーでした。使徒たちの間でも彼がリーダーであったことは言うまでもありません。12使徒たちのリストを見る時に、マタイ10章、マルコ3章、ルカ6章に出て来ますが、また、使徒1:13にも「…この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。」とあります。そのリストを見た時に、最初に書かれているのはペテロです。必ず、ペテロが最初に出て来ます。そして、最後はイスカリオテのユダです。そのリストを見てもペテロがこのグループにおいてリーダーであったということが分かります。
2)改名
このペテロのことを考える時にある出来事を思い出します。ちょうど、イエスが12弟子を任命された時のことです。マルコ3:16、マタイ16:18に書かれています。「こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、」(マルコ3:16)とあります。先ほども見たように「シモン・ペテロ」なのです。彼はシモンだったのです。ところが、イエスによってペテロという名が付けられたのです。ヨハネ1:42には「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」と書かれています。ですから、ペテロという名前はイエスからいただいたのです。ここに「ケパ、ペテロ」とありますが、これはどちらも同じ意味です。ペテロはギリシャ語で「岩」、そして、ケパもアラム語で「岩」という意味です。このペテロの「イエスはだれか?」という問いへの「あなたは、生ける神の御子キリストです。」というその告白によって、教会の土台が据えられていきました。それが教会の土台となったのです。もちろん、ペテロと使徒たちは「使徒の働き」を見ていくと、教会が誕生したときにその土台を作ったのはこの使徒たちでした。まさに、ペテロは「岩」としてすばらしい働きをするのです。「岩」と呼ばれたペテロは、その名にふさわしい霊的リーダーとして成長していくのです。
⇒しかし、そのような働きにふさわしい者とするために、主はペテロを砕かれた
こうして成長したペテロを私たちが見るときに、どのようにして彼が信仰において成長していったのか?を考えます。ひとつ、私たちが考えられることはこういうことです。神がこのペテロを用いるためになさった一つのことは「ペテロを砕かれたこと」です。神が彼を大いに用いるためには彼を砕く必要があったのです。
⇒その結果、確かに彼は謙遜な人へ謙虚な人へと変えられて行く、そのカギは「主を知ること」
ペテロが私たちに教えてくれます。どうすれば私たちの信仰が成長するのか?と。一つは、今見ているⅡペテロ1:2に「神と私たちの主イエスを知ることによって、…」とあります。少なくとも、それが成長することのカギです。ペテロは様々な経験を通して主イエスを知ったのです。
・失敗 : 先ほども話したように、「みながつまづいたとしても、みながあなたのことを知らないと言ったとしても、私はそんなことは言いません。たとえ、その結果、自分が死ぬことになったとして
かまいません。」と、ペテロはそのように言っていました(マタイ26:33、35)。ところが、イエスは「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(26:34)と言われ、その通りになりました。「そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」(26:75)と記されています。
・赦し : そして、そのペテロが主から赦しをいただくのです。ヨハネ21:15-19「:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われた」、「シモン、あなたはわたしを愛するか?神の愛でもって、最高の愛でもってわたしを愛するか?」と問われたときに、ペテロはもう今までのペテロではありませんでした。「イエスさま、私はあなたがおっしゃっている最高の神の愛であなたを愛せるかどうか分かりません。ただ、言えることは私はあなたのことが大好きでたまらないのです。」でした。前回見たように、イエスはそれを責めておられません。
何が起こったのか?この大変な失敗の経験を通して、ペテロは砕かれたのです。彼のプライドが砕かれた。自分が持っていた自信が砕かれたのです。確かに、こうして経験を通して主を知ることができます。それによって成長します。また同時に、ペテロ自身が教えています。Ⅰペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と、みことばを通して私たちは成長するということを。つまり、彼が言っているのは、私たちの信仰が成長するために必要なものは「神のおことばだ」ということです。
でも、私たちが神のみことばを学ぶに当たってどんな思いを持っているでしょう?「もっと主のことを知りたい」という思い、「もっと自分が変わっていきたい」という思い、「もっと自分は成長していきたい」という思い、それらをもって神のみことばを学び、そのみことばの教えに従って行こうとしているのなら、現実の問題があっても、確実に、あなたは成長します。残念ながら、いろんな考え方があって、人々はいろんなことを言います。でも、聖書という神のことばに戻れば、そのように神ご自身が教えてくださっています。時間のかかるプロセス、行程ですが、しかし、その方法によって人々は成長していくのです。これまでもそうだったし、これからもそうです。
ペテロは、彼自身が神のおことばを通して砕かれて、そして、神を知ることによって成長していったのです。そのように言うことができます。
この謙遜なペテロに関して、もう一度1:1を見てください。「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、…」と、この順序です。なぜ、最初に「使徒」をもって来なかったのか?自分の権威を見せびらかせたかったら、当然、「自分は使徒だ」と強調したいはずです。「使徒である私が語っているのです」と。ところが、ペテロはそうしていません。彼は「キリストの奴隷だ」ということを前面に出しています。恐らく、ペテロは信仰の成長とともに、自分がどれ程罪深い者であるのか、自分には何一つ誇るものがないということに何度も気付かされたのでしょう。
*「神のことを知っている人」と、「神を知っている人」との違いがここにある
・ペテロ : そのペテロがこう言っています。Ⅰペテロ5:5「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」と。「謙遜であれ」と言うのです。高ぶる者を神は喜ばれないし用いられないと。ですから、神がお用いになった人々を見た時にみな、「謙遜」が彼らの特徴になっています。
・モーセ : 民数記12:3に「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」とあります。道理で神はモーセをお用いになったはずです。
・ソロモン : 箴言18:12「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」、22:4「謙遜と、【主】を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」、ソロモンも謙遜の大切さを知っていました。
・パウロ : 使徒20:19「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」、パウロが主に仕えていったことはよく知っています。
しかし、パウロ自身が教えているのは、彼は「謙遜の限りを尽くし」と、謙遜の大切さです。
・主イエス・キリスト : 最後に私たちの主イエスです。ピリピ2:3-8に彼のことが記されています。「:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」。
この「仕える者」ということばで使われているギリシャ語は「デュロス・奴隷」です。神である方が奴隷となった。すべての者たちによって崇められるべき神が、人となっただけでなく奴隷となってくださった。これ以上の謙遜を私たちは見ることができません。でも、これが私たちの模範なのです。
ですから、言えることは、神がお用いになるためには、私たち一人ひとりが神の前に謙遜でなければいけないということです。プライドのある人間を神はお使いにならない。神がプライドをどれ程憎んでおられるかということは言うまでもありません。
よく「謙遜にならなければならない」ということばを聞きますが、そうではなくて、自分を正しく知っている者は、自らの愚かさ信仰の弱さゆえに謙遜にされていくのです。また、神を正しく知っている者は、自分の心を見透かしておられる神によってさばかれるという真実が、自分には神以外に誇りとするものはないという結論へと導かれ、謙遜へとされていくのです。自分を正しく知れば「いったい、私の何を誇ることができるだろう?何も誇るものはない。」と、その事実が私たちを謙遜へと導いていきます。
神を知れば知るほど、この神の前で、私の心をすべて見ておられる神の前で、いったい何を自慢しようとしているのか?そのときに私たちは何も誇るものがない、ただ、神のあわれみによって救いに与った罪人にすぎないと知らされるのです。ですから、そのような人は謙遜な人へと変えられていきます。
このように言えませんか?「謙遜」というのは「神のことを知っている人」と「神を知っている人」との違いを明確にすると。「神のことを知っている人」は世の中にたくさんいます。この当時もたくさんいました。パリサイ人や律法学者など、みな知っていました。でも、「神を知らなかった」のです。個人的に神を知った者たちは、その神を知れば知るほど自分を知ることになります。そのような人は益々神の前に謙遜な者へと変えられていくのです。
詩篇の著者が言うように「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(51:17)です。神が望んでおられるのは、何をするかではない、どんな人に私たちがなっているかです。
さて、今日、私たちはペテロという愛する信仰者のことを見て来ました。彼は自分のことを「私はキリストの奴隷である」と言いました。私たち一人ひとりもそのことを忘れてはならないのです。あなたも私もキリストの奴隷です。奴隷としてどのような務めが神から要求されているのかを見て来ました。そのことを忘れてはなりません。私は本当に良い奴隷なのかどうか?私を救ってくださったこの主の喜ばれることを継続しているのかどうか?そのことを考えて私たちは生きなければいけません。
信仰者の皆さん、ただ何となくこの日を過ごすようなことがあってはならないのです。私たちがこの日を神からいただいている、そのことを思うときに私たちには責任があるのです。どのようにこの日を過ごすか?です。「私は神の奴隷なのだ。主人に対して私は責任を負っている。」と、そのことをしっかりと覚えてその責任を果たすことです。また、見て来たように、一人ひとりには霊的な賜物が与えられています。あなたはその霊的な賜物を用いて、教会において、また、主に対して仕えておられるかどうかです。お互いを自慢し合うために霊的賜物が与えられているのではありません。繰り返しますが、霊的賜物というのは持って生まれた才能のことではありません。イエスを信じた時に神がくださる特別な賜物です。あなたが主に喜んで従っていく時にあなたの心の中に神は重荷をくださる、その賜物をあなたは生かしてあなたは主に仕えているかどうかです。
何となく、礼拝が終わったらそのままお帰りになりますか?働きは他の人に任せて、私には他にすることがあるからと言われますか?神はあなたを救ってくださり、あなたに霊的な賜物をくださった、それはあなたがその賜物を用いるということ、そのことを神は当然期待しておられます。そして皆さん、その賜物をあなたが用いることによって群れ全体が成長するのです。そして、あなたも成長するのです。
ペテロは奴隷として忠実に従い続けました。彼は神の使徒としてその働きを忠実に行ない続けました。あなたはどうですか?と神は問うておられます。どうですか?奴隷として忠実に歩み続けておられるかどうか?そして、神から与えられたその務めを忠実に果たしておられるのかどうか?ぜひ、そのことを考えて、改めるところがあるなら今それを悔い改めて、今日からまた新しく歩んでいきましょう。
主はこの日をくださった。感謝なことに、主は赦しの神です。そして、私たちに力をくださる神です。私たちを用いてくださる神です。この使命を帯びていることをしっかり覚えて、この1週間歩み続けて
ください。
《考えましょう》
1.神が信仰者であるあなたに求めておられることは何でしょう?
2.神があなたに霊的賜物を与えられた理由は何でしょう?
3.信仰において成長することは可能でしょうか? どうすれば成長することができるのかを記して
ください。
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