メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅰコリント16:21-24
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今日は、コリント人への手紙第一の最後、16章の21-24節を見ていきます。ご存じのように、コリント人への手紙第一は、信仰が弱く罪深くこの世的であったコリントの教会に対してパウロがメッセージを送っています。非常に世的な罪深い教会でした。ですから、パウロは大変厳しいメッセージを送っています。彼らは異教的な考え方から完全に決別することができなかったのです。かつての考え方、かつての生き方にまだ囚われている部分があったのです。そこでパウロはこの手紙を通して、彼らの罪を指摘し彼らの信仰の未熟さを厳しく責めています。なぜなら、パウロは約1年半の間、このコリントに滞在していたからです。
☆コリント教会へのパウロのメッセージ
今日、私たちが見るのはこの手紙の最後の部分、16:21からです。このように記されています。「パウロが、自分の手であいさつを書きます。」、不思議に思いませんか?この手紙はパウロの手紙であるのに最後にこのように記していることは何か不思議に思います。実は、パウロは自分の手紙を書記に口述筆記させていたのです。コリント人への手紙第一も兄弟ソステネによって書かれました。彼がパウロが語ることを記したのです。ですから、1:1にこのように記されています。「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、」と。このようなことは頻繁になされていました。ローマ人への手紙ではテルテオという人物がパウロのメッセージを筆記したと書かれています。16:22「この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。」と。
ですから、パウロが記した手紙というと私たちはパウロが初めから終わりまで自分の手で書いたと思いますが、このように書記によってパウロのメッセージは記されたのです。ところが、このⅠコリント16:21から最後までは、パウロ自身が彼の手によってメッセージを加えるのです。パウロが自分の手であいさつを書きます。こういうことは他の書にも出て来ます。ガラテヤ6:11には「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。」とあります。コロサイ4:18にも「パウロが自筆であいさつを送ります。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。」と記されています。
さて、なぜ、このようなことをパウロは敢えてしたのでしょう?それは、このメッセージが彼自身のメッセージであることを、パウロ自身が記したメッセージであることを証明するためです。というのは、実は、パウロたちの名を語って真実でない、真理でないメッセージを教えていた者たちがたくさんいたからです。Ⅱテサロニケ2:2には「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」とあります。多くの偽教師たちが、あたかもこれはパウロのメッセージであるかのように、神からのメッセージであるかのように、そのような手紙を送って人々を惑わしていたのです。そのような中にあったのでパウロは「これは私の手紙だ、私自身の手紙だ」ということを明らかにするのです。ですから、この締めくくりを見るときに、この手紙がパウロによるものであることを認証しているのです。
このような背景を見ましたが、パウロが最後に記したこのメッセージは大変興味深いものなので、それをこの一年の初めのこのときにごいっしょに見ていきたいと思います。22a節には「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」と書かれています。私たちは果たしてこのようなメッセージを送ってもいいのかと思います。なぜなら、これはパウロがこのコリント人への手紙の中で教えて来た教えに反することではないか?と思うからです。なぜなら、皆さんもよくご存じのように、特に13章では「愛」について語っているからです。愛とはどういうものかを教えています。「愛は寛容であり、愛は親切です。…怒らず、人のした悪を思わず、…すべてをがまんし、…」と一部を抜粋しました。そうすると、パウロが「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」と言うのは全く愛が見えない、愛のないメッセージのように思えます。愛とは何かを教えていたパウロがそれと全く相反することがここに記されているからです。
いったいパウロは何を言いたかったのか?このメッセージで何を伝えたかったのでしょう?実は、非常に大切なメッセージがここに記されているのです。ここには「主に逆らう者たちへの愛のメッセージ」が記されているのです。説明していきます。
1. 主に逆らう者たちに対する愛のメッセージ
1) 主を愛さない者 22a節
22節には「主を愛さない者はだれでも、」と書かれています。「主を愛さない者」とはどういう意味なのでしょう?この「愛する」ということばですが、ここでは「フィレオ」というギリシャ語を使っています。このことばはもう皆さんよくご存じです。「親しい、好む、感情から出て来る愛で愛する、だれかのことを好く、好む」、また、「近しい関係にある者への愛、人間相互に対する愛、神キリストの信者、弟子に対する愛」と、このようにギリシャ語の辞典はこのことばを定義しています。このようにまとめることができます。「人に対する愛」です。私たち人間が人に対して感情的に抱くような愛です。神が私たちに対して示してくださっている完全な愛ではありません。だれかのことが好きであると、そういう愛のことです。
実は、このことばは新約聖書の中には25回出て来ます。皆さんがこのことばの意味を正しく理解するために、その箇所を紹介します。
・イエスは偽善者たちに対して : 彼らは祈るときに人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからと書かれています。この「好き」ということばがそうです。彼らはそのようにすると皆から注目される、「あの人は霊的な人だ」と思われる、そのことがとても好きだと、このことばが使われています。
・イエスは律法学者、パリサイ人に対して : 宴会の上座、会堂の上席が大好きで、彼らはそこに座りたいのです。それを好んでいる様子。
・黙示録22:15 : 「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」、彼らは進んで偽りを言う、嘘を付くことを好むのです。このような意味でも使われていることばなのです。
パウロはこのことばを25回のうちわずか2回しか使っていません。一箇所は今見ているⅠコリント16:22で、もう一箇所はテトス3:15です。「私といっしょにいる者たち一同が、あなたによろしくと言っています。私たちの信仰の友である人々に、よろしく言ってください。恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」。
さて、もう一度22節を見ます。「主を愛さない者は」とあります。すでに話したように、これは神の愛と言われる「アガパオー」の愛ではないということ、友人が好きであるという感情から出た愛を表すことばが使われていると説明しましたが、「主を愛さない者は」は、アガパオーの愛ではない、友人たちに持つ感情的な愛さえも、主イエス・キリストに対して持っていない人のことです。もし、ここでアガパオーという神の愛が使われているなら、その愛をもっていない人はだれでものろわれよとなります。でも、ここで言われているのはその愛ではなくて、人間が持つ、だれかのことが好きであるという、そういう感情さえも、主イエス・キリストに対して持っていない人には、このような「のろわれよ」ということばが向けられているのです。
この「主を愛さない者は」ということについてレオン・モリス師は「キリストへの愛が全く欠落している人のことである」と言っています。今、私たちはそのことを見て来ました。皆さんも自分が救いに与る前の姿を思い出していただくと、まさに、これがあなたの姿だったはずです。主イエス・キリストのことを歓迎しないばかりか、怒りを覚えた人もいたはずです。その名は聞きたくない、その話は聞きたくないと。私たちもそのような人に何度も出会いました。
ですから、この「主を愛する者たち」とは救われている人たちのことであり、「主を愛さない者」とはその逆、救われていない人のことです。なぜなら、私たちがもう何度も学んで来ているように「主を愛するという愛」は救いに与った者たち一人ひとりに神が与えてくださった祝福です。神があなたを救ってくださったなら、その証拠としてあなたのうちに与えられるものは「神に対する愛」です。ペテロが言うように「:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」、なぜなら、9節「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8、9)と言います。
救いというのは神から私たち罪人に与えられるギフト、神の恵み、神の賜物です。神があなたを救ってくださったなら、あなたは生まれ変わって新しくされて、そして、あなたの心にはかつて持っていなかった神に対する愛が与えられるのです。ヨハネもこう言っています。Ⅰヨハネ5:1「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」と。つまり、救いに与った者は神を愛するだけでなく、神を信じている兄弟姉妹も同じように愛するのです。ですから、ヨハネはⅠヨハネ4:7でも19節でもそのことについて教えています。「4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」、つまり、このような愛をもっているということが神の救いに与っている証拠だと言うのです。「4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」と、ですから、神によって救いに与った者たちは神によって自分が愛されていたことを本当に理解するとともに、その神の愛をいただいた者として、神を愛し、神によって救いに与った兄弟姉妹たちを愛するのです。これが救われた者たちの特徴です。ですから、パウロはこのⅠコリント16:22で「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」と救いに与っていない人たちのことをこのように言っているのです。
皆さんにちょっと考えていただきたいことを話します。もし、人が主イエス・キリストに対して、友だちとして好きであるという、そのような感情の愛さえもなければその人は救われていないと、ということは、そのような愛をもっているなら、その人は救われているということです。思い出してください。主イエスとペテロのやりとりです。ヨハネの福音書21章に書かれています。彼らが食事を済ませた後、イエスはペテロにこのような質問をします。「…ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」、皆さんよくご存じの箇所です。イエスがペテロにこの質問をしたときは「あなたはわたしをアガパオーの愛で、神の愛をもってわたしを愛するか?」と問いかけたのです。ペテロは「もちろんです、イエスさま、あなたが持っておられるアガパオーの愛で私はあなたを愛します。」と答えたかというとそうではなかった。ペテロが言ったのは「私はフィレオの愛であなたのことを愛しています。」でした。言い方を変えるなら、ペテロが言うのは「主よ、私はあなたのことが大好きです。」です。
どうしてペテロはこれまでのようにアガパオーの愛を使わなかったのか?ご存じのように、ペテロはすばらしい信仰をもっていましたが、自分の力に過信をしていたところがあります。他の者がみなあなたにつまづいても私はつまづきません、あなたとごいっしょなら私は死ぬ覚悟もできていますと、こんなことを言っていた人物です。しかし、様々な出来事によって彼のプライドはすべて崩されてしまった。ペテロ自身は本当に自分はいかに信仰の弱い者か、いかに愚かな者か、そのことに痛いほど気付いていました。これまでのように自分に自信をもって語るようなことはできなかったのです。なぜなら、彼は主イエス・キリストを3度、のろいをかけて否定したからです。神はこうして彼を砕いてくださったのです。神の大切な働きのためにこのようなプライドをすべて打ち砕いてくださったのです。ですから、このイエスの問い掛けに対して、彼はこれまでのように「もちろんです。アガパオーの愛であなたを愛します。」とは言わなかったのです。彼が言ったのは「主よ、私はあなたのことが大好きです。」でした。思い出していただきたいのは、このペテロの応答に対してイエスはどのように対応されたか?です。
主はペテロを受け入れられました。なぜなら、今、私たちが見ているように、神の救いに与った者たちは主イエス・キリストのことが大好きだからです。たとえ、感情的であったとしても、そのような主に対する思いを神は救いに与った者たちひとり一人に与えてくださっています。私たちもそうです。「あなたは主を愛しますか?」と問われたときに、必ず、心の中で「はい」と言っているはずです。ときには「私はアガパオーの愛であなたを愛します。」と言いたくなるようなこともあるでしょう。でも、自分の日々の歩みを振り返ってみたときに、余りにも罪深くて不信仰であるゆえに「神さま、私は自信がありません。でも、私はあなたのことを大好きです。こんな私をこんなにも愛してくださったあなたのことが好きです。それはもうあなたがご存じです。」と、ペテロが告白したように…。
きっと皆さんもそのように思われたことが何度もあったはずです。このテキストが私たちに教えていることは、そのような思いが存在するということは、あなたが主によって救いに与っているからです。救われていない者たちはそのような思いもないと言っています。ですから、この22節は救われていない者たちへのメッセージが書かれているのです。
2)のろわれよ 22b節
「のろわれよ」というのは、ある人たちに災いが生じることを念じることです。間違ってもその人に幸せが訪れることなどないように、不幸が訪れることを願うのです。そうすると、初めに話したように、パウロは神を愛していない者たち、すなわち、救いに与っていない者たちに対して不幸が訪れるようにと願っているのか?そのように思います。結論から言うと、彼はそんなことは少しも願っていません。では、どういう意味でしょう?「のろわれよ」と日本語に訳されていますが、これは「~になる」という動詞の後に「のろい」という名詞が付いています。そこで日本語で「のろわれよ」と訳しているのです。皆さんにぜひ覚えていただきたいのは、「のろわれよ」ということばの動詞の部分は現在形の命令形が使われています。なぜ、このような書き方をしたのか?
つまり、ここでこのような現在形の命令形を使っているということは次のことを意味するのです。「今していること、すでに行っている行為をし続けてはならない」と、その行為の継続を禁ずる命令なのです。ということは、「のろい」に値する行為を今あなたは行っているけれど、その行為を直ちに止めるようにという命令なのです。言い方を変えるなら、神に逆らう生き方をしている人たちに対して、その生き方をすぐに止めなさいと命じているのです。主イエス・キリストを愛していない者、つまり、救いに与っていない者たちはみな「のろわれた者たち」です。彼らは神からの災いを受ける者たちです。
主イエス・キリストに背を向けて神に逆らい続けている者たちは、神から災いを受けることが約束されています。マタイの福音書25章で、王がグループを二つに分けます。その一つのグループに対してこう言われます。「25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』と。片方のグループには祝福が約束されました。でも、もう片方には祝福ではなく永遠の火、地獄が約束されました。その人たちは「のろわれた者ども」と呼ばれています。だれのことを言っているのかは分かります。主イエス・キリストの救いに背を向けて救いを受け入れることなく拒み続けている者たち、神に逆らい続けている者たちに対してです。彼らに対して神ご自身が言われることは「あなたがたはのろわれた者たちだ。ゆえに、あなたがたには永遠の地獄が約束されている。」です。
ですから、パウロは「この人たちに災いが訪れますように」と祈ったのではありません。主を愛していない者たち、主の救いを受け入れていない者たちはもうすでにのろわれているのです。そこでパウロが願ったことは、そののろいを受ける、神からの災いを受ける、永遠の滅びに至る者たちが、その行為を今すぐ止めて神の恵みに立ち返るようにということです。パウロがのろったのではありません。彼らはもうすでに神ののろいのもとにあるのです。私たちは残念ながらそのことを考えません。楽しく人生を過ごして死んだらそれで終わりと思っています。でも、聖書は私たちに警告を与え続けています。必ず、あなたの人生の清算をするときがやって来ます。あなたが救われていると思っていても、神があなたを救ってくださったかどうかです。なぜなら、その日には救われていると思っている未信者がいっぱい、神から「あなたがたは救われていない」ということが明らかにされるからです。
では、どうすれば救われていることが分かるのか?今見て来たように、主に対する愛があるかどうかです。主を愛して主に喜んで従っていきたいと思っているかどうかです。主が喜ばれることをしていきたいと思っているかどうかです。それとも、ただ教会に来てクリスチャンらしく振舞っているだけかもしれません。もしかすると、クリスチャンという名をどこかに付けているだけかもしれません。皆さん、私たちは自分の永遠について考えなければいけません。
パウロがコリントの教会に対して最後に願ったことは、教会にいる神を信じていない者たちが悔い改めに与ることです。そして、このメッセージを彼自身の手で記しているのです。たくさんの偽教師たちが存在していました。というのは、ここに「のろわれよ」とありますが、同じ表現がガラテヤ人への手紙にも書かれています。1:8、9「:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」、「のろわれるべきです」とあります。ですから、パウロはこうしてコリント教会だけでなく、ガラテヤの教会にも見られた「これが福音だ」と言ってみことばの真理に反する正しくない福音を語っていた偽教師たち、その人たちに対してこのような厳しいことを語ったのです。なぜなら、彼らのしていることは神ののろいに値することです。神から災いを、神からそのさばきを受けるに値することを行っているのです。そのような偽教師たちがガラテヤの教会にも存在し、恐らく、コリントの教会にもいたのでしょう。ですから、パウロはそのようなのろいに値するような、永遠の災いに値するような誤った行為を今すぐ止めなさいと言うのです。
また、Ⅰコリント16:9には「というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。」と書かれています。パウロたちの働きに反対する者たちがコリント教会にいたことをパウロ自身が記しています。神のみことばを聞いてもそれに不従順な者たちがいたのです。この人たちに対する警告でもあったのでしょう。主イエス・キリストを信じていない人たちも、正しくないメッセージを語っている者たちに対して、そして、神のメッセージに逆らい続けている者たちに対して、警告のメッセージがこのように発せられていたのです。そのことを私たちはここに見ることができます。
ですから、パウロは最後に自分の手であいさつを書くことによって、この手紙がパウロからのものであり、ここに記されていることが真実であるということを証明したのです。だからこそ、この教えにただ耳を傾けるだけでなく、それに服従することが大切であるとパウロは改めて教えようとするのです。
2.主よ、来てください 22b節
新改訳聖書の下の注には「ギリシャ語「マラナ・タ」」と書かれています。この「マラナ・タ」は実はアラム語です。「マラ」と「ナ」と「タ」、「マラ」は「主」、「ナ」は「私たち」という意味です。「私たちの主」、そして、「タ」あるいは「サ」は「来る」です。「主よ、来てください」ということばが最後に記されています。実は、ヨハネも黙示録22:20でそのように祈っています。「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」と。黙示録の最後でヨハネは何を教えたのか?それは「再臨の確実性」でした。「しかり。」ということばは言われたことの確かさを強調しているのです。つまり、いつかは分からないけれども必ず主は帰っ
て来られるということを教えているのです。そして、「アーメン。主イエスよ、来てください。」と、それが事実であるゆえに、先に救いに与った者たちはそのイエス・キリストの再臨を日々待ち望みながら生きていくこと、主の再臨に備えて今日を生きることであると私たちは見て来ました。眠っていてはいけない、目覚めなさいと、そのようにヨハネは最後に語っていました。
実は、このⅠコリント16:22でも同じようことをパウロは私たちに教えるのです。「再臨への待望」についてこの22節は教えます。先に話したように、この「マラナ・タ」とか「マラナ・サ」はアラム語であると言いました。でも、このコリントという町はギリシャ語圏です。ギリシャ語を話しているのです。なぜ、この教会の人たちに宛てた手紙の中でこのようなアラム語の表現を使っているのか?
バークレーはこう言っています。「この文句は一種の合ことばになっていた。それは初代教会の活き活きとした希望を要約したものであり、クリスチャンたちはお互いにこのことばを囁き交わし、異教徒には分からないこの合ことばを用いてお互いを確認し合ったのである。」と。
恐らく、このことばをクリスチャンたちが使うことによって、彼らは様々な迫害に耐えて来たのでしょう。主がもうすぐ帰って来られる、もうすぐ主にお会いすることができるのだから、妥協しないでしっかり主に仕え続けていこうと。というのは、主イエスにお会いするというこの真実は私たち信仰者に希望をもたらします。もうすぐイエスにお会いできる、それは私たちを奮い立たせていきます。
パウロがテサロニケの人々に送った手紙の中で「4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。」と、つまり、死んだ人たちはどうなってしまうのだろうと、そのことを考えていたテサロニケの人たちに対してパウロはこのように言います。「あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」と、イエスを信じていない多くの人たちはこの「死」という問題を考えるとみな悲しんでしまう、でも、私たちクリスチャンはそうであってはならないと。そこでパウロは再臨のこと、復活のことを話すのです。そして、こう言います。18節「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」と。
私たちは死んで終わらないのです。イエスが帰って来られたら「それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」と、だから、「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」と言うのです。また、Ⅰコリントでもそうです。15章にイエス・キリストの復活のことを話したパウロ、イエスが肉体をもってよみがえられた、そして、私たちも変えられるときがやって来ると、そのことを15章34、35節、51-58節のところに記しています。イエス・キリストは敢然とよみがえられた、ということは、私たちも死んで終わるのではなく、死んだ後よみがえるのです。だから、58節「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」、我々はイエスにお会いする、その日が近づいている、救いに与っている者たちはイエスにお会いし、そして、あなたが主を愛するゆえに為して来たすべてのことに対して主は報いを与えてくださる、だから、しっかりと今の働きを継続していきなさい、天国に宝を積むように、永遠に価値あるもののためにしっかり生きていきなさいと、そのようにパウロはコリントの兄弟たちを励ましました。ですから、この22節の「主よ、来てください。」、イエスの再臨の日は近いという真実はその当時の多くのクリスチャンたちを励ましたのです。今の私たちも同じ希望をもって歩み続けていくことです。もう一つ、付け加えなければなりません。
3.いつまでも救いの機会があるわけではない
22節の文脈を見ていくと、22節には「罪人への悔い改め」がパウロによって勧められている、そのことを見て来ました。主を愛さない者たちに対して「悔い改めなさい」ということを記しています。その後で主の再臨を待望するメッセージが記されています。パウロは彼らに罪の悔い改めを心から命じました。その上で「主よ、来てください。」と主の再臨を語っています。ということは、パウロはあたかもこう言っているかのようです。「いつまでも救いの機会があるわけではない」と。
まだまだ救いに与るチャンスはあると、主イエス・キリストに背を向けている皆さんはそのように信じたいですね。神が言われることは「そうではない。この瞬間が最後かもしれないから、ひとり一人はその備えをしなければならない。悔い改めの機会が日々少なくなっているのだから、早くこの救いに与るように。」です。この文脈を見る限り、パウロがそのことを心から願ってこのメッセージを記したと思います。
また、次のみことばを見てください。23節「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」、確かに、パウロはこの挨拶を頻繁に用いています。主イエスは確かに帰って来られる。その日が来る前に、救いのチャンスを逃してしまう前に、救いの恵みに神の恵みに与るようにとパウロは祈り、そして、彼らに勧めている様子、そのことがこの22、23節から見て取れます。パウロは教会のことをよく知っていました。このコリントの教会の中に自称クリスチャンたちがいることを知っていました。真理に背いている者たちがたくさんいることも知っていました。この手紙を記した後、一番最後に、どうしてもパウロ自身がこれだけは記さなければいけない、これだけは自分の手で記さなければいけないとして記したメッセージ、主を愛さない者は、その罪を今すぐ悔い改めて主が救ってくださると言われている間にこの救いに与りなさいと、彼が望んでいるメッセージを最後に記すのです。
そして、最後に24節「私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。」と、パウロは厳しいメッセージを記しますが、これは彼らのことを愛したゆえであることを改めてここに記しています。どうしてもこれを記さなければならなかった、パウロは主を愛していない者たちに対しても愛をもって彼らの救いを願っていたのです。ですから、この最後のメッセージは未信者たちへのパウロの怒りのメッセージではなかった、実は、彼らの永遠を考えた「愛のメッセージ」だったのです。私たちもこの新しい一年を迎えるに当たって、主の福音を語り続けていくことを今一度覚えたいです。なぜなら、その務めのために私たちは救われ、この務めのために私たちは生かされているからです。人々は永遠の滅びに向かっているのです。死を迎えたその瞬間に彼らが目を覚ましたときにどこにいるのか?です。永遠の炎の中なのか?それとも主の祝福の中なのか?真理を知った私たちはその真理を語る責任を神からいただいています。そのことを今一度私たちは覚えることです。そして、「主よ、来てください」マラナ・タということばが、その当時の迫害下にあった多くの信仰者たちを励ましたように、私たちも「主は来られる」というメッセージを語りながら、励まし合いながら、主の再臨を待望するように、その日に備えて生きていくように、そのようにこの一年も励まし合っていくことができればと思います。
主は必ず、帰って来られます。でも、私たちひとり一人、救われた者たちにはまだ務めがあります。主の恵みをいただきながらその務めをしっかり果たしていきましょう。
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