メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: ヘブル9:26-28
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新約聖書ヘブル9:26からみことばを学んでまいります。
このクリスマスというのは主イエス・キリストの降誕をお祝いする日です。救い主の誕生を記念する日です。きょうのテキストも私たちにこのイエスの誕生について、大切なことを教えてくれています。26節「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」とあります。今お読みした聖書の箇所は、私たちひとりひとりに主イエス・キリストがお生まれになった目的が何であるかを教えてくれています。それは罪を取り除くためであり、言い方を変えれば、あなたの罪からあなたを救うために主イエス・キリストは来てくださった。あなたに救いを与えるためにイエスは来られたのだと、この聖書の箇所は私たちに教えてくれています。だから、彼にはキリスト、つまり救い主という称号がつけられているのです。彼の名前はイエスです。そこにキリスト、つまり救い主という称号がつけられています。私たちが「イエス・キリスト」と言う時、イエスは救世主である、イエスは救い主だと言っているのです。
問題なのは、それが本当かどうかです。いろいろな教えを聞くと、どこに行ってもみんな必ず自分たちの教えが真実であると言います。ですから初めてイエス・キリストのことをお聞きになる皆さんも、教会に来ればイエス・キリストが救い主だと教えている。ほかのところに行けば、またほかの人が救世主であると、神であると教えていると。どれも同じだと思っておられるかもしれません。かつて浄土真宗のお坊さんとお話をしている時に罪からの救いの話をされたので、終わってから、今罪からの救いの話をされたましたが、本当に罪からの救いが与えられるという根拠はどこにあるのですかと質問しました。なぜなら聖書が言うように、信仰にはあなたの永遠がかかっている以上、信じることが本当に真実なのかどうか、その根拠がないとどうやって信じられます?真実でないものにあなたの永遠をかけることができますか?先ほどの質問に「ただそうなんだ」と言われただけで、答えは返って来ませんでした。
しかし、今お読みした聖書の箇所はイエス・キリストがこの世にお生まれになったのは、あなたを救うためであり、あなたの罪を赦すためであると私たちに教えています。繰り返しますが、このメッセージが本当なのかどうかです。本当にイエス・キリストは信じるあなたのすべての罪を赦してくださるお方なのかどうかです。どの時代にも、どの国にも自分こそが神であり、自分こそが救い主だと名乗る者がたくさん出て来ました。今もそういう人たちが世の中にいます。これを信じればあなたは間違いなく天国に行けると。これを信じさえすればあなたは必ず救いを得ることができる、罪の赦しを得ることができると。でも本当にそうなのかどうか、我々はしっかりと吟味することが必要です。
☆ イエスがまことの救世主である根拠
実はきょう私たちが見ようとしているこの聖書の箇所、この著者は私たちにイエス・キリストこそが我々の罪を完全に赦すことのできる救世主であるという根拠を示しましょう、これがゆえにイエス・キリストこそがまことの救い主なのだ、まことのキリストなのだということを証明しましょうと、あたかもそう教えているようです。ですから今私たちはこの26-28節を通して、この著者が教える三つのイエス・キリストこそがまことの救世主なのだとするその根拠をご一緒に見ていきたいと思います。
1.イエス・キリストの誕生 26節
まず一つ目に彼が教えることは、イエス・キリストの誕生の話です。もう一度26節の途中からお読みしますと、「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」と、過去の話です。つまりもう既に生まれたという話です。そのことは歴史が明らかにしています。確かにイエス・キリストは今から2000年前にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そのことはこの日本でも歴史上の人物として歴史の時間に学校でそのように習いました。ただ私たちが学ばなかったことは、このイエス・キリストは、私たちのように私たちの意思とは全く関係なく生まれて来たのではなかったということです。
1)救世主の預言の成就
イエス・キリストの誕生というのは、実は聖書が教えていた救世主の預言の成就だったということです。聖書の中に、最初のアダムとエバが神に逆らって罪を犯し、エデンの園から追放される時から、神は救い主を送るという約束を人類に与えられました。そしてその救い主が来た時に、この方こそが約束の救い主だと人々が明確にわかるように、幾つかの約束を与えたのです。
(1)救世主は女から生まれる 創世記3:16
例えばエデンの園からアダムとエバを追放する時に、この救世主は女から生まれて、サタンの力を滅ぼすのだと神は言われた。創世記3:16です。そして、今から2000年前、ある方が女を通して生まれて来ました。そしてその方はサタンの力、サタンが拘束している人間の力ではどうにもならない死の力を敢然と打ち破られた。
(2)救世主はベツレヘムで生まれる
また同時に、約束の救世主はベツレヘムという町で生まれるのだという預言がされていました。これも実はイエス・キリストが生まれる約700年ほど前に預言されていたことです。
(3)救世主は処女から生まれる
また、この救世主は私たち人間と同じではなくて、処女から生まれるということも預言されていました。ちょうどイエス・キリストがお生まれになる約700年も前の預言の話です。
(4)救世主の誕生を王たちが祝う 詩篇72篇
また、イエスが生まれた時には王様たちがやって来て、贈り物を捧げると詩篇72篇の中に記されています。。
(5)救世主の誕生によってたくさんの子どもたちが殺される エレミヤ31章
また、この救世主が生まれることによってたくさんの子どもたちが殺されてしまうことを皆さん、覚えておられると思います。イエス・キリストがお生まれになった後、ヘロデ王様の所に東方の博士たちがやって来て、イスラエルの王としてお生まれになった方はどこにいらっしゃいますかと尋ねた時に、。自分以外の王が誕生したとヘロデ王様は大変な恐れを抱きました。それで、博士たちにその生まれた王を見つけたら場所を知らせてくれ、私も行って拝むからと。本当のところは拝むのではなくて、自分の王位を守るために彼を殺そうとしたのです。神は博士たちに別の道から帰れと命じ、彼らがそれに従って帰って行った後、王様は大変なことをするのです。その町の2歳以下の男の子を全員殺したのです。しかし、神はマリアとヨセフの間に生まれたイエスをエジプトの地に逃れさせておられましたが、大変な数の子どもたちが死を経験したことが記されています。実はこれも聖書がエレミヤ31に預言したことでした。これはイエス・キリストが生まれる約580年前の預言です。
(6)救世主が生まれる前に道を整える者が送られる
またマラキ3章には、イエス・キリスト、この救い主が来る前には、彼のことについて語るメッセンジャーが前もって送られるのだということがイエス・キリストが生まれる430年ほど前に預言されています。
こうして挙げて行くと、イエス・キリストが約束されていた預言者であるということがわかります。最初にもお話したように、神はこうして生まれてくる約束の預言者はどこで生まれるのか、どんな家系に生まれるのか、その時にどういうことが起こるのか、数々の預言をしていました。そして、イエスが生まれた時にその預言が成就したのです。このことを通してお生まれになったイエス・キリストこそが確かに約束されていた救世主であったということを証明するのです。ただイエス・キリストが何となくあのベツレヘムでお生まれになったのか、私たちと同じように何も知らずに生まれて来たのかというとそうではなかった。イエス・キリストの誕生は、神の約束の成就だったのです。約束されていた救世主が罪を取り除くために遂にこの人間の世界に、人として来てくださったということをこの箇所は私たちに教えてくれるのです。
2. イエス・キリストの十字架での死 27-28a節
二つ目の根拠は27-28節の初めに「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました」と書かれています。自分をささげたというのは死の話です。イエス・キリストは十字架に架かって処刑されました。そのことはみんな知っています。でも同じように知らないことは、なぜイエス・キリストが十字架で処刑されたのかです。実はこのイエス・キリストが十字架で死ぬという出来事も彼が約束の救世主であったことを明らかにしたのです。先ほどお話した約束の救世主の誕生に関していろいろな預言がありました。この生まれて来る約束の救世主に関しては誕生だけではなく、この救世主はどのように死んで行くのかについての預言もあったのです。
1)木につるされる 申命記21:23
聖書の中を見てみると、彼は十字架に架かって死ぬということが申命記21章の中に告げられています。モーセによって記されたわけで、紀元前1445-1400年ぐらいの間に記されたものです。今から3400年も昔の話です。そこにはこうあります。「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」(申命記21:23)と。約束の救世主は木につるされることが預言されていました。
2)友の裏切りによって 詩篇41:9
またこの救世主は親友によって裏切られるということも預言されていました。詩篇41:9には「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」とあります。もう皆さんはだれのことかよくわかりますよね。なぜなら我々にしてみたら、このすべての出来事は過去の出来事だからです。聖書を通して一体何が起こったのかを我々は知ることができます。十二弟子の一人のあのイスカリオテのユダがイエスを裏切りました。でもその出来事は、この十字架に架けられたイエスが約束されていた救世主だったということを証明しました。親しい友が彼を裏切るのだと。それが約束の救世主のしるしなのだと。
3)犯罪人とともに イザヤ53:12
またこういう預言があります。イザヤ書53章の中に、イエス・キリストが生まれる約700年前に、彼は犯罪人とともに十字架につけられるとあります。「そむいた人たちとともに数えられたからである。」(12節)と。そしてこれはマルコ15:28に「こうして『この人は罪人とともに数えられた』とある聖書が実現したのである」(欄外)と書かれています。つまりこうしてマルコの福音書はイエスが十字架にかけられたのは、このイザヤ書53章に約束されていたことがまさに私たちの前で成就したと教えます。彼は一人で十字架にかけられたのではない。そのとおりイエス・キリストはふたりの犯罪人とともに十字架で処刑されたわけです。
4)手足が突き刺される 詩篇22:16
もう一つ、この約束の救世主の手足が突き刺されることが約束されています。詩篇22:16には「悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。」とあります。ゼカリヤ12:10には「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」ると。このゼカリヤというのは預言者で、主イエス・キリストの誕生の480年ほど前に記したと言います。約束の救世主は手足が突き刺されるのだと。十字架を思い出してください。その手もその足も釘によって突き刺されました。
今私は何年前にかということを言いました。なぜそんなことがわかるかというと、旧約聖書を見ると、どの時代にこの人物が生存していたのか、どの時代にこの人物が活躍していたのかを知ることができます。今挙げた多くの預言者たちは、北の王国イスラエルや南の王国ユダといったところで活躍した預言者たちです。ですからその時の王様の名前が挙がっているわけです。そうすると、その王が歴史上の人物ですから、一体何年ぐらいにこの預言者が活躍したのかを割り出すことができます。その時に預言されているのです。すべてイエス・キリストが生まれる数百年も前の話です。ですから、イエス・キリストの十字架だけを見たら、何となく彼は十字架に架かっていった、それで終わりのように思うのですが、イエスが十字架に架かったという出来事は、この聖書から私たちが見るならば、明らかにこの十字架に架けられたイエスこそが約束の救世主だったということを明確に知ることができるのです。
ですから先ほど見たヘブル9:26が教えたように、イエス・キリストの誕生というのは、約束の救世主の預言の成就であったと。このイエス・キリストの十字架を見た時に、その死を見た時にこれもまさに約束されていた救世主の預言の成就であったと。ヘブル9章のこの箇所を記した著者は、そのことを私たちに明らかにしてくれるのです。イエス・キリストの誕生、そしてイエス・キリストの十字架での死、この二つの出来事は私たちにこの方こそが約束されていた救世主なのだということを証明していると教えるわけです。
◎ イエスの十字架が明らかにすること
さて、三つ目の根拠を見ていく前に、実はこの主イエス・キリストが十字架に架けられて死んだということが私たちに三つのことを教えてくれています。少しそれを見て、この著者が与える最後の根拠を見たいと思います。
① 人間は死後必ずさばきを受ける
イエス・キリストが十字架で死んだことが何を明らかにしているかというと、まず一つ目は人間は死んで終わることはないということです。死んだ後必ずさばきを受けなければならないということです。27節「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。「定まっている」というのは「備えてある」、「待っている」、「保留されている」とか「予約されている」という意味を持ったことばです。もうちゃんと予約され、備えられていて誰ひとりとしてそのさばきから逃れることはできないということです。
先ほどから主イエス・キリストがこの世にお生まれになったのは、26節「ご自身をいけにえとして罪を取り除くため」だと言っています。あなたをその罪から救い出すためだと言っています。なぜそんなことをわざわざイエス・キリストがする必要があったのか、その理由がここにあるのです。あなたは死んで終わらないから、あなたに神が約束していること、あなたに神が警告していることは、あなたは必ず神の前で審判を受けなければならないということが予約されているということです。例外なくです。この中に例外は記されていませんでした。「人間には」と書いてあります。ありとあらゆる人間です。間違いなくあなたもその中に含まれているのです。肉体的に一度死ぬことと、そしてその後に何があるかというと、あなたを造った神の前に立ってあなたはさばきを受けること、それがもう予約されていると。
このさばきは、あなたが生まれてからあなたが死ぬまでの間、この地上でのすべての罪が明らかにされます。あなたが実際に行ったことも、あなたが実際に考えたことも、あなたが実際に口にしたことも、あなたが頭の中で思い描いていたことも、すべてのことが明らかにされる。聖書の教える神というのはすべてにおいて100%きよく正しい方です。この方はどんな汚れでもそのまま受け入れることはできません。光があったらそこには闇は存在しないように、このきよい神の前に罪ある者は立ちおおすことはできないのです。神様の警告は、あなたのすべてを知っている神はあなたのすべての罪、汚れを正しくさばくということです。
もしそれがなければ、イエス・キリストは来る必要がなかったわけです。イエス・キリストは「罪を取り除くため」に来たと聖書が教えていました。あなたの罪を除くために、あなたの罪を洗いきよめるために、あなたの罪を赦すために、主イエス・キリストはあなたがどこに向かっているのか、あなたが死んだ後何があなたを待っているのかご存じです。永遠のさばきがあるのです。永遠の滅びがあるのです。永遠の地獄が待っている。それが現実だからこそ主はこの世に来てくださって、そして十字架に架かってくださった。まずイエス・キリストの死が明らかにすることは、我々が死を迎えた後さばきがあると。だから救い主は来てくれた。
② 神に対する罪の償いは死のみ
二つ目に我々が言えることは、私たちの神に対して犯してきた罪は、死でもってしか償うことができないということです。あなたや私が神に対して犯して来た罪は私たちの死をもってしか償うことができないと。皆さん考えてください。なぜイエスが死んだのかです。先ほどから見てきたように、イエス・キリストがこの世にお見えになったのはあなたの罪を赦すためです。あなたの罪を赦すためになぜ彼が十字架で死ぬ必要があったのかです。このイエス・キリストが十字架で死んだということが明らかにしていることは、実はあなたには死でもって自分の罪を償うしか選択肢がないということです。それほどあなたも私も神の前に罪を犯して来たのです。
今の私たちの社会でも、いろいろな犯罪に応じて刑の重さ軽さが決まります。大変大きな犯罪を犯した人には極刑が待っています。非常に重たい刑がそこに待っています。神の前に犯す罪は、大変大きな罪です。神の前に犯す罪はあなたや私が死をもってしか償うことのできないものです。だからイエスは死んだのです。イエスの死が私たちにそのことを明らかにしてくれるのです。
③ 十字架はあなたの罪の報い:イエスはあなたの身代わり
そして三つ目にイエス・キリストの死が我々に明らかにすることは、26節の中にも出て来ました。「ご自身をいけにえとして罪を取り除くために」と。28節にも「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられ」たと。イエス・キリストの死は自分の犯した罪の報いではなくて、あなたの身代わりであったということです。だからイエス・キリストは裁判官が幾ら調べても彼のうちに十字架に値するような罪は存在していなかった。「十字架に架けろ」と叫び続けた群衆にしてもそうでした。イエスを憎んでいた祭司長や律法学者たち、ユダヤ教の教師たちもそうでした。だれひとりとしてイエス・キリストの罪を指摘することができなかった。十字架に値する罪なんてイエス様はひとつも犯していないからです。でも彼が自分から十字架に架かろうとしたのは自分の罪のためではなく、あなたの罪のためです。イエス・キリストが十字架で味わわれたあの死、それは本来ならあなた自身が味わうべきあなたの罪の報いだったのです。
旧約の時代、人が罪を犯せば神はあなた自身のいけにえをささげなさいと言われた。特に年に一度、大贖罪の日には人々はいけにえを持って、自分の罪を赦していただくために、神の前に出てきたわけです。でも彼らがわかっていたことは、その羊の血は、その家畜の血は、私たちの罪を完全に、しかも永遠にきよめることができないということです。だから毎年やらなければいけなかった。彼らはその罪のいけにえをささげるたびに完全ないけにえが来ることを待望したのです。そうすればもうこのように毎年いけにえをささげる必要がないからです。でも神が言われたことは、動物のいけにえによって罪を完全に赦すことはできないと。「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができない」(ヘブル10:1)のだと。これらのささげものによって罪が年ごとに思い出されるのだと。ですから、ささげものをささげることによって、かわいい動物を自分の身代わりに殺すことによって、自分の罪を人々は思い出すわけです。それが何度も繰り返されてきたのです。動物の命の身代わりによっては、あなたや私の罪は完全に赦していただくことはできなかった。あなたや私の罪が完全に永遠に赦されるためには、完全ないけにえが必要だったのです。そしてその完全ないけにえが約束どおりにこの地上に送られたのです。その方の名前が主イエスです。
もう一度26節を見ると、「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られた」と、イエスはいけにえとしてこの世に来られたとあります。しかも、「ただ一度」と書かれています。28節にも「多くの人の罪を負うために一度」と書かれています。一回ですべてのことが完了したということです。イエス・キリストはこの世にいけにえとして来てくださった。神が備えてくださったこのいけにえは一回ですべての罪を完全に拭い去ることができる完全ないけにえであったと言うわけです。繰り返されているのは、そのことを強調するからです。だから、イエス・キリストはこんな約束を与えることができたのです。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)と。よく皆さんもご存じの「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)と、なぜイエス・キリストは、私を信じる者に私は永遠のいのちを与えますとそのように断言できたのかです。最初にも見てきたように、多くの人がそういうことを約束してくれます。多くの人がこれを信じたらあなたも天国に行ける、これを信じたらあなたの罪は赦されると言います。私たちが問いかけることは、それが真実だと言い切れる根拠は一体どこにあるのですかということです。この聖書の箇所は、私たちにその根拠を教えてくれました。イエス・キリストの誕生は、約束の救世主であることを証明した。イエス・キリストの十字架は、彼こそが約束の救世主だったことを証明しています。神が送ってくださった完全ないけにえであるイエスはあなたの身代わりとなって十字架で死んでくださった。ただ一度だけ。それによってあなたの罪を完全に永遠に拭い去ることができる、完全な赦しを与えることができる、そのようにこの著者は私たちに言うわけです。
なぜイエス・キリストだけがあなたを救うことができるのか、十字架を見上げてみてください。あなたの罪を負ってあなたの身代わりとなって、いのちを捨ててくださった方はこの方以外にはありません。この方だけがあなたが受けるべきさばきを代わりに受けてくださったのです。だから救いがあるのです。この方は約束の救世主であり、この約束の救世主があなたに代わってあなたの受けるべきさばきを受けてくださったからあなたには完全な救いが与えられるのです。イエス・キリストはただ立派な教えを説くために来たのではないのです。彼は一つの宗教の開祖ではなかったのです。彼はあなたの身代わりとなって死んでくださった救い主なのです。彼の誕生と彼の死がそのことを明らかにします。
3.イエス・キリストの復活 28節
最後に、この著者が私たちに与えるイエス・キリストこそがまことの救い主だとする根拠の三つ目です。彼の誕生だけではない、彼の死だけではない、三つ目に彼が言うことは主イエス・キリストの復活がそのことを明らかにするということです。28節「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」、「来られる」ということばが再び出ています。26節には過去形でした。でも28節の「来られる」というのは未来形で書かれています。少し考えてください。イエス・キリストはこのように人としてお生まれになった。イエス・キリストは十字架に架かってあなたの身代わりとなって死んでくださった。その方がまた来ると言われているのです。その方が今も墓の中にいて死んでいるのなら来ることができますせん。彼が来ると言われた以上、彼は死の中にとどまっていないのです。彼はその死から敢然とよみがえってきて、今も生きておられるからです。イエス・キリストは約束されておられたように、ご自分が言っておられたように、三日後にその死から肉体を持ってよみがえられ、今生きておられるのです。だからこの約束を与えることができたのです。私は二回目は私を「待ち望んでいる人々の救いのために」来ると。イエス・キリストはイエスを信じるすべての人に永遠のいのちを約束し、天国の住まいを約束されました。私はあなた方のために住まいを設けに行くのです。そしてその住まいを設けたら、再び来てあなたをその場所に迎えます。我々クリスチャンがそのすばらしい天国の約束を持って生きているのは、神がその約束を下さったからです。そしてイエス・キリストは人間には絶対にできない死からよみがえるという奇跡をもって彼こそが救世主であり、彼こそがまことの神であることを明らかにしてくださった。だからあなたを救うことができるのです。だからあなたに罪の赦し、永遠のいのちを与えることができるのです。
イエス・キリスト、彼は預言されていたとおりに人としてこの世にお見えになりました。そして預言されていたように、彼はあなたの罪を負って十字架であなたの身代わりとなって死んでくださった。あなたの過去も現在も未来もあなたのすべての罪はイエス・キリストの上にすべて乗せてあなたに代わって彼がその罪の罰を受けてくださった。神はあなたに代わってイエスを罰したのです。そしてそのイエスは死から敢然とよみがえって来られ、彼こそが救い主であることを明らかにしてくださった。だから私たちは永遠の希望を持って生きるのです。約束されていた救世主だけではありません。その死から敢然とよみがえって今も生きておられるまことの神だからあなたや私にこのすばらしい永遠のいのちの約束を確実に与えてくれるのです。
主イエス・キリストがバプテスマのヨハネのもとに近づいて来た時に、バプテスマのヨハネはイエスを見てこんなふうに周りの人々に告げました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)。待望の救世主が来てくださった。この方がご自分のいのちをあなたの代わりに捨てることによって、このいけにえによって、あなたや私に完全な救いを与えてくださる。やっと待ち望んだ救世主が来てくれた。だからこの方はあなたに救いを与えることができます。このクリスマスの日に、あなたはこの方をご存じでしょうか。この救いをあなたはいただいておられるでしょうか。神はあなたをこの救いへと招いてくださっている。なぜならあなたにこの救いのメッセージを聞く機会を下さっているからです。背を向け続けることをやめることです。今、主はあなたの罪を赦してくださる。生まれ変わらせてくださる。約束された永遠のいのちを与えてくださいます。その主の元に出て来ることです。どうかこの救いをいただいて、そして、心から主に感謝する人へと生まれ変わってください。きょうがその日になることを心から願います。
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