メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: Ⅰヨハネ4:9-10
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文書: メッセージを読む
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ヨハネの手紙第一4章、今朝は9節と10節を見ていきます。9節を読みます。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」。今日のメッセージのタイトルを「あなたのためにいのちを捨てた神」としました。まさに、そのことをこの聖書の箇所は教えてくれるのです。そして、今日お集いの皆さんに是非そのことを知っていただきたい。この世にはあなたのために喜んでいのちを捨ててくださった神がいらっしゃるのです。実は、この箇所には、私たちに、そのような神について、また、その神があなたに示されたすばらしい愛が記されています。
まず、9節を見ますが、日本語の訳ではこのようになっていますが、原語ではこの9節はこのようなことばで始まっています。「これによって私たちに神の愛がはっきりと示されたのです。」と。神の愛があなたがたの前に明らかにされたと言うのです。「示された」ということばがここにありますが、ここで使われている時制はアオリストで「いつか分からないが行動がすでに為された、歴史上の事実だ」ということを明らかにしています。神がどんなことをもうすでに為してくださったのか、どんなことが歴史上の事実なのか、実は、今読んだこの9節には「ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」と書かれていますが、この後にある接続詞が付いているのです。その接続詞にはこういう意味があります。明白な事実に基づく原因とか理由を示すものであると。
つまり、これを記したヨハネは、これによって私たちに神の愛がはっきりと示された、そして、神の愛とはこういうものだとその神の愛の説明を加えようとするのです。実は、この9節だけでなく10節にも同じようにヨハネは、先ず、大切なメッセージを伝えて、その後で説明を加えています。そのことをこの9節と10節に見ることができます。
☆神はどのようにその愛を示されたのか?
先ず、9節を見ていきます。神のあなたに対する愛とはどのようなものなのか?ヨハネは言います。その愛ははっきりとした形、行動をもってあなたに示されたと。
1.イエス・キリストの誕生によって 9節
9節「神はそのひとり子を世に遣わし、」と、まさに、これがクリスマスです。主イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになったと、クリスマスのことを言うのです。ご存じのように、クリスマスはイエス・キリストがお生まれになったことを記念して祝うものです。この日本でもクリスマスのデコレーションがあちこちに見られますし、クリスマスの音楽も流れています。正直なところ、イエス・キリストの誕生に関する真実を知らない人に、もちろん、私たちの国にはそういう人が溢れています。私たちもその中の一人であったと思いますが、ヨハネはこの読者たちに対して、人としてお生まれになった主イエス・キリストがいったいだれなのかということを初めに明らかにするのです。
1)そのひとり子を
「神はそのひとり子を世に遣わした」、これはイエス・キリストのことを指すのですが、この「ひとり子」ということば、実は、日本語ではこのように訳されていますが、これは「神の息子」です。そこに「ひとり」という形容詞によって説明が加えられているのです。ですから、直訳すると「神は唯一の彼の息子をこの世に遣わした」となります。確かに、「ひとり子」ということばは多くの誤解をよびます。人間の「ひとり子」と言うと、その家に産まれた一人の子どもです。ですから、神も私たちと同じように子どもを産んで、そのひとりがイエスなのだろうと、そのように解釈する人がいることも事実です。しかし、ここの「ひとり子」とはそういう意味ではありません。この「ひとり子」の「ひとり」というのは「唯一の、他に類を見ない、比類のない、独特な、ユニークな」という意味を持ったことばです。ですから、ひとりの子どもがいるとその数を言っているのではなく、この方は他のだれとも比較できない独特な存在である、比類のない存在だということを言わんとしているのです。数のことではなくて、このイエスのような存在は他にはいない、これまでもいなかったしこれからもいないと、そのことを言うわけです。
実は、そのことがこの9節の中のこういう箇所にも出て来るのです。「神はそのひとり子を」を今「神の息子」、そして、その後に「ひとりの」と付いていると説明しました。これが原語です。それを日本語に訳した時に「そのひとり子」となったと言いました。この「神の息子」という「息子」の前にも冠詞が付いています。そして、「ひとりの」という形容詞の前にも冠詞が付いています。そのことからも先ほど話したことがこの箇所が言わんとしていることだということが証明できるのです。つまり、そこに冠詞をつけることによって、この神の息子であるイエスは比類なき存在であると、このイエスの独特さを強調しているのです。
なぜ、そのように言えるのか?説明します。主イエス・キリストは人としてこの世にお生まれになった。それがクリスマスだと話しました。イエス・キリストがお生まれになり、そして、だれ一人として彼が人間ではないとは思いませんでした。全く、私たちと同じようであったからです。ですから、人々がイエスを見ると、イエスは私たちと同じように人間であると思いました。ただ、違ったところがあります。確かに、容姿はそうでした。でも、イエス・キリストだけに存在したユニークさというのは「彼には罪がなかった」ということです。
私たちと同じように空腹を覚えたり、疲れを覚えたりしましたが、イエスのうちには一つも罪がなかったのです。だから独特なのです。だから比類のない存在なのです。なぜなら、私たちはみな罪を持って生まれて来ているからです。ですから、人としてイエスを見た時に、こんな存在はどこにもいなかった。罪のない人などこの世に存在していませんし、これからも存在しません。イエス・キリストだけです。また同時に、人となられたこのイエス・キリストは確かに100%人でしたが、また100%神であられました。だから、その点からしてもユニークな存在なのです。イエス・キリストが、神であられる方がこの地上に来た時に神でなくなったのではありません。彼は神でした。永遠から永遠に神です。しかし、彼は肉体をもって人間としてこの世にお生まれになった。ですから、100%人間であり、100%神である、全く罪のないお方であり完全なお方であった。だから、比類のない存在なのです。このような方はこれまでも存在していなかったし、今もいないし、これからも存在することはない。
そこで、ヨハネは言うのです。「ひとり子を」と。そのような存在です。このひとり子を、この神であられる方を人としてこの世に遣わした。これが神の愛の証明である、これが神があなたを愛していることの証拠だと教えるのです。
2)遣わされた目的
続けて見てください。9節「世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。」と、これらのことによって神の愛が明らかに示された。神はひとり子であるイエス・キリストをこの地上に送ってくださった。人として神が来てくださった、それが神の愛が実際に示された出来事であると言い、実は、このひとり子イエスを遣わされたのはある目的があるからだと言うのです。
「遣わす」とは「使者、使命を負わせて任地に遣わす、派遣する、目的をもって働きに遣わす、また、だれかの代理として遣わす」という意味をもったことばです。だから、イエスは偶然産まれてきたのではないのです。イエスは神からある目的をもってこの地上に送られて来たということです。
その目的とは何か?書かれています。「その方、イエスによって、私たちに、あなたにいのちを得させてくださいました」と。つまり、主イエス・キリストが送られて来た目的は、あなたにいのちを与えるため、あなたに罪からの救いを与えるためであったと、ヨハネはこのようにここで教えるのです。それが「神の愛の核心」です。神はあなたをご覧になって、あなたに救いが必要であることをご覧になって、そして、あなたを救うためにひとり子イエスをこの地上に送ったと、そのことがここで言われているのです。クリスマスがなぜすばらしいのか?クリスマスが意味することは、神はあなたを愛して、あなたを罪から永遠のさばきから救い出そうとしてくださった、ここまで神はあなたのことを愛しているということです。そのことがこの9節の中に記されているのです。
聖書が教える神は、あなたのことをあなた以上にご存じです。主イエス・キリストはすべての町や村を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気やあらゆる煩いをいやされていました。そのときに、主は「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)、「かわいそうに思われた」のです。イエスのもとにたくさんの群衆が集まって来たのです。いろいろな必要がありました。病いの人も、精神的に辛い人もいたでしょう。いろんな人がイエスのもとに集まって来る様子を見た時に、イエスは彼らを見て「かわいそうに思われた」。なぜなら、主はうわべではなく心をご覧になっているからです。人間はどんなに豊かそうに見えても心の中がどれ程疲弊しているのか、私たちはよく知っています。物がどんなに豊かでも、物は私たちの心を満たしてくれません。一生懸命みんな生きています。頑張って生きています。何のために?幸せになりたいからです。でも、一生懸命生きても、どこかで私たちはこういう結論を自らにもたらさなければいけません。それは「現状で満足しよう、だって、どんなに頑張っても、私たちが得たいと願っているものは私たちの手に入らないから」です。
皆さんに知っていただきたいことは、あなたをお造りになった神はあなたの心のすべてのことを知っておられる、そして、あなたを見て「かわいそうに」思っておられるのです。そして、あなたに一番必要なものを与えてくださった。「救い主」です。あなたを罪から救い出すために、あなたを永遠の滅びから救い出すために、神は救い主を送ってくださった。この行為は神があなたのことを愛しておられることを証しているのです。
先ず、皆さんに覚えていただきたいことは、そのような神が存在するということです。そのような神がこの世におられるのです。あなたを愛しておられる神です。イエスは繰り返しこんなメッセージをお与えになりました。「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来た。」と。あなたをその罪から、罪の束縛から、永遠の滅びから救い出すためにイエスは来てくださった。このイエスの誕生、あなたを救うためにお生まれになった、これが神があなたを愛していることの証拠であると。
2.イエス・キリストの十字架 10節
イエス・キリストの十字架が神があなたを愛してくださっていることを証していると教えます。10節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と、この10節も原語では「ここに愛があるのです。」で始まっています。最初にも説明したように、9節は「これによって神の愛が私たちに示された」と言ってその説明を加えました。10節も「ここに愛があるのです。」と言った後に説明を加えているのです。ですから、この後に9節と同じ接続詞が付いています。その理由を説明するためです。
どのような愛であなたが愛されているのか?その説明があります。
1)無条件の愛 :
神のあなたに対する愛は「無条件の愛」であると教えます。神の愛に条件は付いていないということです。私たち人間の愛には条件がいっぱい付いています。~だから愛しましょうとか、私に良くしてくれるから、私のために尽くしてくれるから、私の欲しい物を提供してくれるから、だから愛そう、でも、私に意地悪するなら、私を苦しめるのなら愛さないと言います。説明するまでもありません。私たちの愛には条件が付いています。しかし、神の愛というのは私たちの愛とは全く異なるものです。そのような条件が一切付いていないことをこの箇所は教えるのです。
10節に「ここに愛があるのです。」とそのように記されていて、その後に理由を現わす接続詞が付いていると話しました。その後に続くのは「私たちが神を愛したのではなく、」という文です。つまり、この10節が教えるのは、あなた自身が持っている神への愛があなたへの神の愛の原因ではないと、そのことを言うのです。神があなたを愛してくださっている、それはあなたが神を愛したからではない、それとは全く無関係なものであると言うのです。なぜなら、この10節を見ると、神に対する私たちの愛は神が喜ばれるものでは全くないからです。もし、私たちの愛を「愛」と呼ぶなら、これは「愛」とは全くかけ離れたものなのです。
どういう意味か?説明します。神に対するあなたの愛とはどのようなものであったのか?10節に「私たちが神を愛したのではなく、」とありますが、実は、この「愛したのではなく」という動詞を完了形で記しています。なぜなら、あなたは最初から神を愛していない、そして、その後もずっと同じ結果が伴っているということです。生まれながらにあなたは神を愛していない、そして、その後もずっと神を愛し続けていないと言うのです。これまでもあなたは神を愛して来なかったし、今も愛していないと。
皆さんも憶えておられるでしょう。主イエス・キリストのもとに一人の律法学者がやって来て「:28…すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」と尋ねました。彼は律法学者でしたから旧約聖書には通じていました。旧約聖書の中にはたくさんの神の命令があります。その中でも特に十戒があります。神がモーセを通して人々に与えたものです。その律法についてよく知っていたこの律法学者がイエスにこのような質問をしたのです。すると、イエスはこう答えます。「:29…一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:28-31)、これが最も大切な命令だと言われました。
ここで神が言われたことは、あなたを造った神はあなたに対して何を命じておられるのか?それは「あなたがあなたを造った神をうちなるすべてをもって愛することだ」です。この世のすべてのものよりも神を愛すること、あなた自身よりも神を愛すること、それが神があなたに求めておられることだと言うのです。だから、あなたが考えなければいけないことは、あなたがそれを実践しているかどうかということです。「この世のいかなるものよりも、あなた自身よりも、わたしを愛するか?」と神は言われたのです。
実際には、この10節で教えたように、あなたは神を愛して来なかったし今も愛していません。それが証拠に、あなたを造った神を信じてその方に従うのでもなく、その方の命令に従って行こうとするのでもない。自分の好きなように生きているでしょう。神が喜ばれることを行うどころか自分自身が喜ぶことをあなたは選択して行っています。それによって神がどれ程悲しまれても、どれ程心を痛められても知ったことでない、自分さえ良ければ…と。私たちはこうして生きています。こうしてあなた自身が生きています。あなたを造った神は、あなたがすべてのものをもってこの方を第一に愛すること、そのことを要求できるその権利を持っています。なぜなら、この神はあなたを造ったからです。
子どもが親を愛するのは当たり前のことです。なぜ、私たち人間は私たちを造ってくれた神を愛さないのでしょう?子どもが親に逆らったら親は悲しみます。正しくないからです。私たちが私たちを造った神に従わなければ、神自身がどんなに悲しまれるか?お分かりになるでしょう。ですから、私たちがこれまでして来たことを振り返って見たとき、私たちはだれ一人として、私たちの創造主なる神を愛してその方に感謝をしその方に従って来たでしょうか?全くそれと逆のことをして来ました。自分の人生だから私は好きなように生きると、それが私たちの歩みだということがこの10節の初めに書かれているのです。
私たちが神を愛したのではない。私たちは神を愛して来なかったし、今も愛していない。だから、私たちが神に対してやって来たことを振り返ってみると、私たちはだれ一人として神によって愛される資格のない者だということです。もし、神が私たちの愛をもっておられるなら、当然、私たちに対して言われることは「こんな人をどうして愛せるのか?」でしょう。私たちはそれだけのことをしているのです。でも、みことばを見てください。こう続きます。「神が私たちを愛し、」と。つまり、この箇所が教えていることは、あなたが神に対して示した不完全な愛、愛とは呼べない、まさに、神が悲しまれることを平気でやって来たそのあなたに対して神は「それでもあなたを愛した」と言うのです。
非常に興味深いのは「神が私たちを愛し、」というこの「愛する」ということばが、ここで使われている時制はギリシャ語でよく出て来るアオリストという形です。先ほども見たように、この時制が使われているのは、このこと、神があなたを愛したという出来事が、もう歴史上の事実だということを明らかにするのです。同時に、この「愛し」ということばはアオリストだと言いましたが、不定過去という時制ですが、その中でも特にこれは「行動を全体として見ている、一括して捉える」という包括的なアオリストとして使われているのです。つまり、神はその行動の全部を見て愛しているということです。神はずっと愛してくださっているということを言っているのです。あなたが良い時だけでない、あなたの悪い時もどんな時も神はあなたを愛している、これが神の愛なのです。
私たちはその愛を受けるに全くふさわしくない者です。神を愛して来なかったからです。神を愛する者として造られていながら、その方を愛することもなく、却って、自分を愛して自分の思い通りに生きて来た。でも、それでも神はあなたを愛して来られたと、それがこの10節でみことばが教えることです。まさに、神の愛は無条件なのです。神が一方的に「あなたを愛する」とお決めになったのです。
2)身代わりの愛 :
それだけではありません。続いて10節を見てください。「 私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」と続きます。この「なだめ」とは「供え物によって怒りが除かれること」を意味しています。私たち日本人にも理解できます。何か自然災害が起こった時にもしかすると神が怒っているのかもしれないから、その怒りをなだめるために何かささげましょうと。そういう意味が「なだめ」というギリシャ語の異教的な意味です。異教の人々はみなそんなことを信じたからです。神が怒っているからこんな自然災害が起こっている、だから、その神の怒りを鎮めないといけない、なだめないといけない。だから、いろいろないけにえをささげたり、供え物をもって、まさに、その神の機嫌を取るということです。
しかし、この聖書の教える創造主なる神は、あなたや私に神ご自身の怒りを鎮めるために、何かいけにえや供え物を要求されているでしょうか?そうではありません。私たちのささげるいかなるものをもってしても、神のあなたに対する怒りを鎮めることはできないからです。例外が一つだけありますが…。あなたがどんなに善行を積んだとしても、どんなに良い人間になるための努力をしたとしても、あなたの行いによっても、神のあなたに対する怒りをなだめることはできないのです。
だから、先ず覚えておくべきことは、あなたを造った神はあなたに対して怒りを持っておられるということです。神はあなたを愛していると言いました。そうすると何をしても赦してくれるのか?いいえ!あなたの犯した罪に対しては、あなた自身がその責任を取らなければいけません。ローマ人への手紙2章を開けてください。2:5-8「:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。:6 神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。:7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、:8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」、5節には二つの罪が記されています。「かたくなさと悔い改めのない心」と。
(1)頑なさ : 頑固さ、強情さという意味です。つまり、神はあなたを愛して、そして、あなたに神の救いのメッセージを聞く機会を与え続けてくださっている。それでもあなたはそのメッセージを受け入れようとしない。心が大変強情な状態にある、心が頑固な状態です。神のメッセージを聞こうとしない、神の救いのメッセージを頑として受け入れようとしない、そのような心の状態、そのような罪のことです。そのような方がこの中にもおられるはずです。神はあなたの心に迫ってくださって、あなたに救いが必要であること教えてくださっているにも関わらず、あなたは拒み続けるのです。「必要ない」と。
(2)悔い改めのない心 : 自分が神の前に間違っていることを示されても、神の前に自らの罪を悔い改めて神が備えてくださった救いを信じようとしないのです。神に逆らい続ける、「放っといて欲しい、自分の人生だから…、好きに生きていきたい、邪魔しないで欲しい」と。神はあなたの心に働きあなたが間違っていることを明らかにし、そして「わたしのところに帰って来なさい」と招いてくださっているのに、その神に対していつまで経っても罪を悔い改めてこの救いを受け入れようとしないのです。
多くの人たちがイエスの救いのことを聞いても、多くの人たちはそれに感謝することもなく、そして、自らの意志でその救いを拒み続けています。悲しいことです。先程から見て来ているように、神はあなたを愛して、あなたのために一番必要な救い主を送り、救いを備えてくださったのに、あなた自身がそれを自らの意志で拒んでいます。皆さん、これが罪です。神のみこころに反することです。神がお喜びにならないことです。
このローマ人への手紙2:5はこう続きます。「…御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを」と。なぜ、このように「正しいさばきの現れる日」と書かれてあるのか?神が正しいお方であり、あなたのすべてのことを知っている神は、あなたの犯した罪をすべてご存じだけでなく、その罪に従ってあなたにふさわしい報いを与える方だからです。神は絶対に過ちを犯すような、失敗を犯すようなお方ではないのです。神が為されることはすべて正しいことです。ですから、あなたの罪に対してふさわしいさばきをあなたに与えます。
この箇所が言うことは、その日のために人々は何をしているのか?「御怒りを自分のために積み上げている」と。この「積み上げる」とは「蓄える、貯蔵する、宝を蓄える」という意味があります。でも残念ながら、蓄えているのは宝ではなく神の怒りです。神の怒りを蓄えている、神の怒りを積み上げていると、それが神からのあなたへの警告です。救いを備えてくださった神に対してあなたはなおも逆らい続けている。その結果、あなたに対する神の怒りをあなたは積み上げている、蓄えていると言うのです。聖書はこう言います。ヨハネ3:36「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」と。是非、覚えてください。神に逆らい続けているあなたに対して、神は大変な怒りを持っておられます。それはあなたの罪を憎んでおられるからです。聖い正しい神はあなたの罪を喜んでおられない、その罪を憎み、そして、その罪に対して必ずさばきがあることを警告しておられます。
今日のテキストに戻ってください。少なくとも、私たちは、こうしてなぜ神はあなたに対して怒りを持っておられるのかが分かったはずです。神は救いを備えてくれているのに、あなたはそれを自らの意志で拒んでいる。神を愛しなさいと言うのに、あなたは神を愛するどころか神を憎み神が悲しまれることを平気で行ない続けている。あなたが神を憎んでいることは、あなたが神が憎んでいることを行ない続けていることによって明らかです。その罪をどうなだめることができるのか?その怒りをどうすれば鎮めることができるのか?鎮める唯一の方法はこれです。あなたが自分のいのちをあなたの罪のために捨てることなのです。あなたの死をもってその罪の償いをすること、そのときに神の怒りが静まるのです。先ほども言いましたが、あなたが何かを持って来たら、こういう行いをしたら神の怒りが静まるのか?静まりません。唯一の方法は、罪を犯しているあなた自身が自らのいのちを捨てることによって、死によってこの神の怒りを鎮めることができるのです。
今日の箇所の10節を見てください。神に逆らい続けているあなたを神が一方的に愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。つまり、本来なら、罪を犯したあなたが、あなたの罪ゆえに死をもって償わなければならなかった。でも、神はあなたを愛するゆえに、イエス・キリストを送ってあなたに代わって彼を罰したと言うのです。イエスが十字架で死んだのは、本来なら、あなたが自らのいのちをもって償わなければならないその罪の報いを、主イエス・キリストが代わって受けてくださったのです。イエスのいのちをもって、あなたの罪に対するなだめを成し遂げてくださったのです。
あなたがどんなに頑張っても、あなた自身であなたの罪に対する神の怒りをなだめることはできません。神ご自身がそのわざをしてくださったのです。どんな方法で?あなたに代わってイエスを、あなたの身代わりとして殺すことによって、イエス・キリストのいのちによって、その死によって、あなたには赦しが与えられるのです。ヨハネはそのことを教えようとするのです。ヨハネは神はあなたを愛して、主イエス・キリスト救い主を送ってくださった。何のために?あなたを救うためだ、こうして神があなたを愛していることを明らかにしてくださった。それだけでない、この神があなたを愛しているということを、ひとり子イエス・キリストをあなたの身代わりに殺すということで、彼があなたの代わりにいのちを捨てることによって、あなたに赦しを救いを与えようとしてくださったと、このように言うのです。だから、イエスは自ら進んで十字架に掛かったのです。イエス・キリストがいのちを捨てるということによって、しかも、あなたの身代わりとして…、あなたの罪の赦しが完成したのです。
ヨハネはそのことを教えるのです。そこで、聖書はこう言います。「もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。」(エゼキエル3:19)。神はあなたに警告を与え、私も今あなたに警告を与えました。もし、あなたが自分の罪を悔い改めて、神が備えてくださった救い、主イエス・キリストのところに救いを求めて来るならば、神はあなたを救ってくださる。しかし、もしその警告を聞いてもあなたがその救い主を拒み続けるなら、あなたは自分のいのちをもって自分の罪の報いを受けなければならない。
主イエス・キリストはあなたの身代わりとなって死ぬために来てくださった。本来なら、罪を犯したあなた自身が死ななければならないところ、彼があなたの身代わりとなって、あなたに代わって死ぬためにこの世に来てくださり、そして、十字架でいのちを捨ててくれたのです。その死によって神の怒りをなだめてくださったのです。
なぜ、この救い主をあなたは拒み続けるのでしょうか?このイエス・キリストはあなたを罪から救ってくださるお方です。思い出してください。この9節、10節が教えたことは、あなたを愛する神がいるということです。あなたを愛していることはどうして分かるのか?神がこの世に人として来てくださった、そのことによって分かるのです。何のために来られたのか?あなたを罪から救うためです。その方はただ来られただけではない。良いお話をしただけでない。この方は自分の罪のないいのちを罪あるあなたの身代わりとして捨てることによって、あなたに完全な赦しを与えるためです。そのために神から送られた救い主なのです。だからキリストなのです。だからメシヤなのです。
この中にまだこの救い主に背を向けておられる方がいるでしょう。このすばらしい救いを拒み続けている方、クリスマスは主イエス・キリストの降誕を記念して祝うときです。そして、今なぜイエス・キリストがこの世にお生まれになったのか、なぜ、人として来られたのか、その理由を皆さんに聞いていただきました。神はあなたを愛していらっしゃる、あなたをその罪の滅びから救い出そうとしてくださっている。そのためにイエス・キリストを送ってくださったのです。
心から皆さんにお勧めすることは、この救いをあなたのものとしてお受けになることです。これまで神に逆らい続けて来たその罪を心から悔い改めて、神が備えてくださった救いを感謝をもっていただくことです。その時に神はあなたにこの救いを与えてくださる。そのためにイエスは来られたのです。そのために神はイエスを送ってくださった。皆さんに心からお勧めします。この救い主を受け入れて、この救いをご自分のものとしてくださることです。罪を悔い改め、そして、この救いを感謝をもっていただいてください。救われておられる皆さんも、今一度、主が為してくださったみわざを覚えて、どうすればこの主の恵みに報いることができるのか、そのことを考えながら、主を喜びながら、主を証しながら歩み続けてください。主は私たちを救うために来てくださった。私たちのためにいのちを捨ててくださった神がいらっしゃるのです。この方こそが私たちの神、私たちの救い主です。神に感謝しましょう。
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