メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: エゼキエル18:31
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文書: メッセージを読む
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今朝は旧約聖書エゼキエル18章をお開きください。
あなたは神と聞いてどのようなお方を連想されますか――。
神と聞いた時に皆さんはどんな神を思い描かれるでしょう。つい最近あるお寺の住職とお話をする機会がありました。日本人は仏教であっても神道であっても、何でも構わんのですよねと嘆いておられました。それを聞いて私は、私たちの問題は考えないところにあるのではないですかと言いました。信じていたらそれでいい。何を信じているかを考えもしない。自分が信じていることが正しいかどうかも考えもしない。これまで聞いて来たことをただ熱心に忠実に守り続けることばかりに関心が行って、何が正しいのか、なぜこれを信じていいのか、なぜこれが真実だと言えるのかを考えなくなってしまっている。本当に神と呼ばれる方が世界じゅうに何人もおられるのでしょうか?それぞれの国にはそれぞれの神が存在するのでしょうか?考えてみなければなりません。
この預言者エゼキエルは、神のメッセージを語りました。神は彼を通してイスラエルにご自分を明らかにされた。神とはどういうお方なのかを明らかにされました。今朝皆さんと一緒に考えたいことは、神が与えてくださったこの聖書が教える神とは、エゼキエルが教える神とはどういうお方なのかということです。エゼキエルは私たちに神とはこういうお方なのだと四つのことを説明します。なぜこのレッスンが大切なのか、その理由を言います。実はこれがこの地上だけではない、その先、あなた自身の永遠を決定するからです。このエゼキエルを通して語られた神のメッセージにしっかりと耳を傾けてください。
A.義なる(正しい)お方:あなたの選択の責任を問われるお方
彼は一つ目に神とは創造主なるお方であると教えます。まず18:4を見てください。「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。」と記されています。
1.神はいのちの源:「すべてのいのちはわたしのもの」
なぜ神がこんなことを言われるかというと、すべてのものをお造りになり、すべてのものを神ご自身が支配しておられるからです。神がいのちあるものすべてをお造りになったのです。創世記の一番最初に「初めに、神が天と地を創造した。」と記されています。
そして神は六日間かかって、すべてのものをお造りになった。この一日一日というのは何年とか何百年ではなく、24時間です。神は最初は光を造り、昼と夜ができた。それが第一日の創造であると。そして第二日には空、この天をお造りになったと。そして第三日目にはこの大地と海と、そしてその地に植物をお造りになったと。四日目には太陽と月と星でした。そして五日目には魚と鳥でした。そして六日目には獣と家畜、そして私たち人間を造ってくださった。いのちあるものはすべてこの神によって造られたのです。エゼキエルはまずそのことを明らかにするのです。「すべてのいのちはわたしのもの」である。いのちの源である神が創造なさり、それらにいのちを与えられた。
こうして聖書の神がどんな神であるかというのを聞くと、私たちが神と呼んで来た存在がいかにそうでないことがはっきりします。なぜなら私たちが手を合わせてきた存在は、創造主でもないし、いのちを与えることのできる存在でもありません。聖書が私たちに明らかにすることは、神という方はすべてを造り、そのすべてにいのちをお与えになったお方であると。神はあなたを最高のものとしてお造りになった。この世の人間的な基準によれば、ハンディがあるとかないとか、何か人間にランクをつけるようなことを残念ながらしてしまいます。でも神の目から我々人間をごらんになると神様はすべての人を最高のものとしてお造りになった。あなたは最高のものとして神によって造られた。そのことを明らかにします。聖書が教える神はいのちあるものすべてをお造りになった方であると。
しかし、皆さんも覚えておられるように、その神がお造りになったアダムとエバが罪を犯すことによってどんな悪影響をこの世界に及ぼしたのか。創世記3:17は「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」と言います。既に私たちは黙示録を学ぶ中で見て来たように、人間の罪によって、この世界がのろわれ、この世界に死が入ったと。ですから被造物はすべてが贖われる日を待ち望んでいると、パウロはローマ書の中で教えています。
B.神はきよいお方:「罪を犯した者は、その者が死ぬ。」
二つ目に私たちが学ぶことは、神というお方は義なる正しいお方であるということです。続けて4節を見ると、「罪を犯した者は、その者が死ぬ。」と書かれています。この神というお方は、どのような罪でも、どのような汚れでも必ずおさばきになると教えるわけです。
1 「自分の罪の責任転嫁」:さばきを自分のことと受け入れない
神はそのことを警告して来られましたが、罪に関する人間の対応は、創造の初めから、自分の罪を悔い改めないばかりか、その罪の責任を人に転嫁する、人のせいにする、そのようなことを繰り返しています。アダムが罪を犯した時に、それはエバのせいだと言いました。エバが責められた時にそれはヘビのせいだと言いました。自分の罪を自分の責任として受け取ることなく、必ずだれかのせいにしてしまう、他人への責任転嫁です。2節には「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」と書かれています。当時イスラエルの間ではこういうことわざがよく知られていたのです。何を言っているかというと、父の罪を子どもが償うのだと言っているのです。本来なら酸いぶどうを食べた父の歯が浮くはずですが、食べたのは父親でその報いを経験するのが子どもだと言っているわけです。つまり自分たちが今経験しているさまざまな苦しみは自分たちのせいではなくて、自分たちの親や先祖たちのせいだと彼らは信じていたわけです。だから自分たちは被害者で、父親や先祖が悪を行ったからその報いを受けているのだと人々は信じていたわけです。
しかし、こういった考え方を認めてしまうと、いつもだれかのせいにするのですから、大変無責任な社会になります。自分がこんなことを経験しているのはだれかのせいだ、私は被害者なのだと。全盲のひとりの人物がイエス様の前に出て来た時に、人々は「一体、なぜ彼が全盲なのですか?親が罪を犯したからですか?」と言いました。そういう考え方は、イスラエルにあって大変広がっていたわけです。私たちも同じようなことをしています。私が悪いのではないです、だれだれさんですと。必ず自分で責任を取ろうとしないでだれかのせいにしてしまうのです。自分は悪くない、ちょっと運が悪かっただけだと。こんなことを認めてしまう社会になって行きます。もちろん今もうそういう社会です。結局、人間は自分の思いどおりに生きて行きたいのです。だれからも邪魔されたくない。私のやりたいことを私がやって何で悪いのだと。でも、聖書の教える神はあなたが行ったこと、あなたの選択に関してその責任はあなたに問うと言われている。これが神だと言うのです。だれかのせいにしたかったらしてもいいけれども、この聖書の神はその選択をしたあなたに責任を問うと言っているとみことばが教えるのです。
エゼキエルはこの後18章の中で3種類の例を挙げて今お話ししたことを説明します。
まず最初の例は、正しい人です。こういう人が正しい人であり、こういう人が神様の祝福をいただく人であると。二つ目はその正しい父親のもとにいる罪を犯している息子の場合はどうなるのか。三つ目は正しくない父親のもとにいる正しい息子の場合はどうなるのか。一緒に見て行きましょう。
1)正しい人:主の祝福が約束
6-9節を見ると、「丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、さわりのある女に近寄らず、だれをもしいたげず、質物を返し、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、わたしのおきてに従って歩み、まことをもってわたしの定めを守り行おう。こういう人が正しい人で、必ず生きる。──神である主の御告げ──」とあります。こういうことをしていない人たちが正しいのだと。6節の「丘の上で食事をせず」の「丘の上」と訳されているのは「高い所」です。旧約の時代において、人々がそういう高い所に何をしたかというと、偶像を据えました。それとこの「食事」というのはかかわっているのです。そこでは必ずそういう食事がなされ、またこの後続くさまざまな淫行がなされたわけです。そういった偶像と関連したものです。ですから、そのような偶像崇拝に関するようなさまざまな罪、また後半は人々に対してあわれみを全く示すことのない、そんな姿が書かれています。貧しい人が何か借りる時に彼らが担保として自分たちの着ている洋服を納めたとすると、ひどい寒さの中で裸でいることは大変苦痛でした。その彼らにあわれみを示すかどうかの話をするわけです。ですから、このような罪から離れ、人々にあわれみを示している人々に対して神様のすばらしい祝福があるということをまず教えるわけです。これが神様から豊かな祝福をいただく人であると。
2) 正しい人の罪を犯す息子 10-13節
二つ目の例です。先ほどもお話ししましたが、このように正しい人に子どもができるのです。10節の初め「しかし、彼が子を生み、」と続いています。前にかかっています。このように正しい人は神の祝福をいただく。でもこの正しい人に子どもが生まれ、その子どもが父親のように歩まなかったらどうなるのかが書かれています。
:10 しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で、人の血を流し、先に述べたことの一つさえ行なわず、
:11 これらのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、
:12 乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをし、
:13 利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。
つまり、父親がすばらしく正しい人で神が喜んでおられる、神が祝福を与える人。でもその子どもが父親とは全く違って罪の中を生きた場合、父親がこんなにすばらしい人だったからといって、彼のさばきが免れるのか、そのさばきが緩和されるのか、父親に免じてこの子の罪が軽減されるのか、人間はそんなことを考えるわけです。そこで神は、そんなことはあり得ないと言っているのです。たとえ父親がどんなにすばらしい信仰者であったとしても、その子どもが選択したことはその子どもの責任なのだと言っているのです。
3)罪ある父の正しい息子 14-20節
そして三つ目は、14節「しかし、彼が子を生み、」と続きます。この「彼」というのは前に語った父親にならうことなく神に逆らい続けて神の前に罪を犯した人物です。その人物がまた子を生むのです。
:14 その子が父の行ったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行わず、
:15 丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、
:16 だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、
:17 卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行い、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。
つまりここでは、物すごく悪い父親に子どもが生まれて、その子どもが父親を見ていて、こういう生き方はだめだと正しい行いをした。ではその子は父親の災いを自分の身に被ることになるのかと。自分が苦しむのは自分以外の人たちの報いだという2節のことわざが人々の間で流行していましたから、エゼキエルはたとえあなたの父親がどんなに罪深い存在であっても、あなたが正しいことをするならば、あなたはそのあなたの選択にふさわしい報いを受けるのだと言うのです。こうして私たちがだれかの報いを経験するということは絶対にないのだと言うのです。神は正しい方であって、あなたの選択にふさわしい報いをあなたにお与えになるのです。
2「各自の罪が公平にさばかれる」 4節
こうしてエゼキエルは、たとえ人間が他人に自分の罪の責任転嫁をしたとしても、神はあなたのしたことはあなたが責任をとらなければいけない、まずそう言うわけです。そして、18:25を見ると、人間のエクスキューズが出ているのですが、他人に罪を責任転嫁するだけではなくて、神に対しても行っているようです。「あなたがたは、『主の態度は公正でない』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。」と。つまり、イスラエルはバビロンの捕囚を経験したりして、自分がいろいろな苦しみに遭うと、先ほどから見て来たように、彼らは、父や先祖が犯した罪に対して今我々がこうやって苦しんでいるのだと思ったわけです。父親の犯した罪の報いを私たちに与えるようなこと、我々がやっていないことを私たちがやったかのようにして苦しむというのは不公平ではないですかと、神に対して主の態度は公正でないと考える人たちがいたわけです。そこで神様はどこが不正だと言うのかと、神が言われていることは変わらないのです。罪を犯せばその人にその責任が問われるということです。ですからだれかのせいだという言い訳も通用しないし、神様がこういうことを許しているから不公正だ、公正でないというエクスキューズも通用しないとみことばは言うわけです。
神はこうして人々の前で彼らの罪を明らかにし、彼らの間違いを明らかにして来られた。そうして今の私たちには聖書を通して歴史を明らかにしてくれるわけです。イスラエルの歴史を振り返る時に神は常に罪を犯した者たちにその報いをお与えになって来られた。こうして私たちに神とはどういう方なのかを明らかにしてくださった。だから我々が二つ目に覚えなければいけないのは、神は完全に正しいきよい方であって、あなたのしたことに対して神はあなたに責任を問うているということです。
1)あなたは神に逆らっている
では人間は何をしたのかというと、人間はこの神によって造られていながらその神を信じることもなく、その方に従うこともなく、まさにイザヤが非常にうまく言っています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)と。これは我々の姿です。神があなたの人生はこうだと言われるのです。あなたは羊のように目先のことばかりに気を取られてしまって、何が正しいのか、何が間違っているのか、そんなことも考えずにただ時間を過ごしている。あなたを造った神である私のことを全然思いもしないで、自分勝手な道を歩んでいると。あなたを造った神様にはちゃんと目的があるのです。目的を持ってあなたを造ってくださった。その目的とはあなたがこの造り主なる神を心から愛してこの方に喜んで従って行くことです。でもあなたの選択は、その方を愛することもなく、その方に従うこともなく、これは私の人生なのだから、自分の好きなように生きて行きますと言って神に逆らい、そのように歩み続けて来た。聖書ではこれを罪と呼んでいるのです。神の目的に、みこころに逆らって生きることです。神に背いて生きることです。神に従わないことです。
2)神は警告しておられる
こういう歩みをしているあなたに対して神様が警告されているのは、神に逆らうというあなたの生き方はまさに神の前に神の怒りを積み上げて行くことになると。「かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げている」(ローマ2:5)と。神に逆らって生きているあなたの歩みを見て、神は怒りを持っておられる。神はあなたの罪を憎んでおられる。そして神はさまざまな形をもって警告を発し続けてくださっている。でもあなたはその警告に耳を傾けようとしない。そしてなおもあなたの思いどおりに自分の人生を歩み続けようとしている。死んだら終わりなのだと。だれがそんなことを言いました?死んだら眠ってしまうと。だれがどんな根拠でもってそんなことを言っています?神が与えてくださった聖書はそんなことを教えていません。人は死んだ後必ず神の前で一人ずつさばきを受けると神は言われた。あなたが神に逆らい続けるならば、神の前に怒りが積み上げられて行くと聖書は言います。その怒りがあなたの上に注がれる日が来るのです。約束されたことを必ず守られるお方、これが神です。神は言われたことを必ずそのようになさいます。
3)神は確実にさばかれる
また、パウロはガラテヤ6:7で「思い違いをしてはいけません。」と言っています。神に対して思い違いをしてはいけないと。神がどんなお方であるかというのを正しく知らなければならない。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」と。自分が蒔けば自分がそれを刈り取のです。自分が罪を犯せばその罪は自分が刈り取らなければいけない。その責任は自分にあるのです。そして必ずそのさばきが来ることを聖書は警告しています。神はすべてにおいて正しいきよい方だからです。どんな罪をもお赦しにならない。どんな小さな罪でも神の前に立ちおおせる場所はないのです。罪に汚れた人間は神の前に立つことはできません。神の前に立つならばすべてその瞬間に滅ぼされてしまう。それほど神はきよい方です。だからその神があなたや私に警告を発しているのです。罪を犯せば、正しい神は、そのすべてを知っている神はそのすべてをさばいて、その報いがあなたに必ず来ると。それが聖書の教える神なのです。
C.愛なるお方:あなたが救われることを願っておられるお方
三つ目は、それでいてこの神は愛なるお方であるということです。18:21-23を見ると、「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」、またこのエゼキエル33:11に、今お読みした23節と同じことが記されています。「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。──神である主の御告げ──わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」と。ここに何が神の喜びなのかが記されています。それは罪人が、「悪者がその態度を悔い改めて、生きること」であると。
神が何を喜ばれるかというと、あなたが罪を悔い改めてこの救いにあずかることを喜ばれるのです。神は私たちのように、罪を犯した人間がその当然の報いを受けて永遠の地獄に行くことを喜ばれるのかというと、神はそれをお喜びにならないと聖書は言っています。悪者が滅びることを、永遠の地獄に行くことを神様はお喜びにならないと。神の喜びは罪人がその罪を悔い改めてこの救いにあずかろうと神のもとの出て来ることだと。神はさばきを喜ぶのではなくて、救いを喜ばれる。それだけ神様は私たちのことを愛してくださっていると。なぜ神様は私たちのことをこんなにも思ってくださるのでしょう。神に逆らい続ける私たちのことを滅ばされても我々は何も反論できません。当然の報いを受けたことになる。地獄こそが一番ふさわしい私たちを神はあわれんで、そしてそんな私たちを神様は心にとめて愛を示してくださった。この中でまだイエス様をお信じになっておられない方、神はあなたが永遠の滅びに至ること、地獄に行くことをお喜びになりません。 かえってあなたがその罪を悔い改めて、神のもとに出て来ることを喜ばれると言っています。
そこで神は罪人のあなたを招き続けてくださっていることが記されています。先ほどお読みした33:11にもあったように、「悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。」と。18:23でも「彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」と。神はそうして、あなたを救いへと招いてくださっている。皆さんに少し考えていただきたいのは、全能なる神様がその態度を悔い改めて、神の救いをいただきなさいと言われているということは、これ以外の方法
での救いは人間にはないということです。神はさまざまな救いの方法をお与えになったのではない。神が与えられた唯一の救いの方法は罪人が自分の罪を悔い改めて、救いを備えてくださった神の救いにあずかることです。必要なことは、まずあなたが神の目にいかに映っているのか、どれほど罪深い存在で永遠の地獄がふさわしい存在だという本当の姿に気づくことです。しかも、あなたが神の前に汚れているだけではない。あなたはどんなに努力をしようと、どんなに頑張ろうと、あなたは自分を変えること、救うことはできないということです。その無力さは我々がよくわかっています。これまでいい人間になろうといっぱい努力したものの、私たちの心を変えることはできない。あなたは自分で自分を救うことはできないのです。それをなしてくださるのは神だけです。
悪者はその態度を悔い改めなさい、あなたが神に逆らい続けて自分勝手な道を歩み続けている、それが間違っていることに気づいて、神様、私は間違っていました、私を赦してくださいと。そして私はあなたの前に正しいことをしたいと。神が備えてくださった救い主イエス・キリストが一体だれなのかを正しく知ることです。彼は神であり、神が送ってくださった唯一の救い主です。その方を信じ、そしてその方があなたのためになしてくださった救いのみわざを心から信じるのです。私の身代わりとなって十字架で死んでよみがえられたイエス・キリストだけが私を罪から救ってくださると。この真理をあなたが心から受け入れることです。その時に神はあわれみをもってあなたを罪から救い出してくださる。
D.忍耐のお方:あなたの悔い改めを待ち続けておられるお方
神とはどういうお方なのか、エゼキエルが我々に教えてくれるように、すべての創造主であり、すべてにおいて正しくきよいお方であると。そしてあなたをさばく方だと。三つ目にこの方はあなたのことをこんなにも愛してくださっているお方だと。そして最後四つ目に、この方は忍耐のお方であるということが記されています。
18:21に「悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、」と書かれていました。22節「彼が行った正しいことのために、彼は生きる。」と。そうすると、まず救いにあずかるため、今お話ししてきましたけれども、罪を悔い改めなければならないのだと。このことはよくわかります。神に背いたまま我々は救いをいただくことはできないからです。しかし今お読みしたように21節のところから「わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、」と書いてあります。「彼が行った正しいことのために、彼は生きる。」と。つまり悔い改めて神の前に正しいことを行えばあなたは救いにあずかるように確かに書かれています。でも神のメッセージはそうではない。あなたが自分の罪を悔い改めて、そしてこの神の備えてくださった救いを心から受け入れるなら、その信仰によって救われるのです。
ではこの正しい行いとはどういうことなのかというと、それはあなたが救われたことを明らかにすることです。どこにそんなことが書いてあるかというと、18:31に「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。」とあります。問題なのはあなたが「新しい心」を得ることなのです。この「新しい心」を得るには自分の罪に気づいて、そしてその罪を悔い改めて神の備えてくださった救いをいただくのです。そしてあなたが「新しい心」を得たならば、その「新しい心」が新しい行いを生み出していくのです。どんな正しい行いも、どんなにすばらしい行いも、行いは人を救いへと導きません。でも救いにあずかったことを明らかにするのです。ここで言われていることはそういうことなのです。あなたが「新しい心」を神様からいただいたら、その「新しい心」は新しい行いを生み出します。あなたが救われたのだったら、あなたに「新しい心」が与えられたことを新しい行いが明らかにしていくのです。こうして神様はあなたが「新しい心」を持つようにと、ずっと待っておられる。
ノアの時代のことを思い出してください。Ⅰペテロ3:20でこう言います。「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、」と。箱舟を造るのに120年、神はずっと待っていたのです。一人でも多くの罪人が罪を悔い改めて神に立ち返ることを。そして同じように今もその神は待ち続けてくださっている。Ⅱペテロ3:9「ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」と。忍耐の神がおられるのです。神に逆らい続けているあなたのことを待ち続けてくださっている神がいるのです。あなたが悔い改めてこの救いにあずかるようにと待っておられる神がいるのです。31節の後半に「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」とあります。あなたが神に背を向け続けている、その間違った選択に対して神は悲しんでおられるのです。なぜ、死のうとするのかと。神なるお方の悲しみが出ています。なぜならその誤った選択は、その人に報いをもたらすからです。神に逆らう選択をし、その選択の行き着くところは永遠のさばきです。だから神は心を痛めておられる。そしてそのさばきの日が近づいています。だから神は忍耐をもってあなたが帰って来ることを待っているのです。
今私たちはこのエゼキエルを通して、聖書が教える神がどんな神なのかを見て来ました。あなたを造った方であり、すべてにおいて正しいきよい方であり、あなたを確実にさばかれる方です。それでいてあなたのことを愛し、あなたがこの救いにあずかるようにと待ち続けてくださっている。これが聖書の教える神です。この中にまだイエス様をお信じになっていない方もおられるでしょう。なぜあなたが神に対して心を閉ざし続けているのか、なぜ逆らい続けるのか、私たちも悲しいです。早く罪を悔い改めてこの救いにあずかることです。そのチャンスがあるうちに、この救いにあずかることを心からお勧めします。
救いにあずかっている皆さん、あなたの神はこんな神なのです。こんなにすばらしい神様ではないですか。この方を伝えることをどうして我々は躊躇するのでしょう。この犠牲でもって完成されたこの最高の救いを語ることがなぜ難しいことなのでしょう。この救いのメッセージこそ人々が聞かなければいけないメッセージです。歓迎はされないかもしれない。でも聞かなければいけないメッセージです。そしてその務めをいただいたのはあなたです。どうぞこのメッセージを携えて、このすばらしい主を証する者としてこの一週間歩んでください。
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