メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 使徒の働き2:36
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
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主イエス・キリストが天に凱旋なさった後、10日目にある出来事がエルサレムの町で起こりました。聖霊が下るという出来事です。人々はこれまでに経験したことのないこの出来事を見て、大変な動揺を覚えたのです。そこでペテロはいったい何が起こったのか?そのことを人々に説明するのです。ペテロが人々に語ったそのメッセージがこの使徒の働き2章14節から記されています。ペテロが彼らに伝えたかったことが36節にこのように要約されています。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。」、「はっきりと知らなければ」ならないと言います。ペテロが言ったことは「確実に、確かに、間違いなく」このことを知らなければならないということです。一部だけでなくそのすべてをしっかりと正しく知らなければならないと、そのようにペテロは言うのです。「すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と、ペテロがここで伝えたかったことは二つあります。
A.神が人類のために、あなたのために何をなされたのか?
B.その神に対して、人類が、あなたが何をしたのか?
この二つのことを正しく知りなさいと、それがペテロが語ったメッセージです。ペテロは彼らに大切な真理だから正しく知りなさいと言いましたが、この真理は2000年経った今の私たちにも大切な真理です。今日はこのみことばを通してあなたが知らなければならない大切なメッセージを見ていきます。
A.神が人類のために、あなたのために何をなされたのか?
あなたが知らなければならないことです。
1.主イエスをこの世に遣わされた
私たちはこの季節になると主イエス・キリストの降誕をお祝します。イエス・キリストがこの世に送られて来たこと、イエスの誕生を記念してお祝するのです。まず、神が為してくださった最初のことは、イエス・キリストをこの地上に送ってくださったことです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあります。イエス・キリストは今から約2000年前にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。実は、これは神のみわざであって、神がイエスを地上に送ってくださったのです。このことを知っている人はたくさんいるでしょう。もう、クリスマスはイエスの誕生であるという情報が流れているからです。そのことを知っている人は私たちの国にもたくさんいます。でも、ペテロはこの真実をはっきりと知らなければいけない、余すところなく知らなければいけないと言います。というのは、神はイエス・キリストを送ってくださった、それだけではない、実は、この送られたイエス・キリストがだれなのかを知らなければいけないということです。
2.イエスが救い主であることを神ご自身が証言しておられる
そこで、イエスはこのようなお方であるということを、今私たちが見ている2:36で教えています。
*主イエスに関する神の証言 36節
「すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、…」と書かれています。イエスが自分で「わたしはこういう存在です」と言われただけではないのです。神ご自身がこのイエスはこういう存在だということを明らかにされたということです。
・「主」 : 見ていただきたいのは「主」ということばです。これは旧約聖書では「ヤーウェ」という神の名が、新約聖書のギリシャ語では「主」と訳されています。ヤーウェという神の名は旧約聖書の中には6826回も出て来ます。最も用いられた神の名です。どんな意味があるのか?「主権者なるお方、支配者なる方、すべてを所有されているお方、権威ある方、約束されたことは必ず守られるお方」です。つまり、この「主」ということばが表しているのは「このお方は神だ」ということです。神は主権者であり支配者であり、所有者であり権威あるお方です。そして、約束を守られるお方です。
ですから、この36節で「イエスとはだれなのか?」⇒「イエスは主である、イエスはヤーウェである、イエスは神である」と言っているのです。
・「キリスト」 : 「救い主」「メシヤ」ということです。
ですから、この36節でペテロが教えることは、「今や、このイエスが主であること、また、キリストであることを神が明らかにされた」ということです。確かに、「すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、…」と「された」ということばによって、元々神でも救い主でもなかったイエスが
あるとき神によって「神、また、救世主」にされたかのように読むことはできます。でも、そういう意
味ではありません。なぜなら、22節のみことばを見てください。「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。」、つまり、神はイエスがどんなお方であるのかを証されたと言っているからです。神がイエスを主にしたのでもなくキリストにしたのでもない、彼が主でありキリストであるということを神は証されたということを言っているのです。「あかしをされた」とは「証明する、はっきりと示す、本物であることを証明する」という意味です。
*では、神はどのよう方法でそのことを証されたのか?
1)主イエスのみわざにより 22節
22節を見てください。「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。」と、行ったのはだれですか?神です。神がイエスを通してこのことを行ったと言うのです。
「力あるわざ」 : これは超自然的な働きのことです。
「不思議なわざ」 : それを目撃した人に驚きと恐れをもたらしたことです。見た者たちはみな不思議に思ったのです。なぜ、彼はこんなことを行えるのだろう?と。
「しるし」 : 「あかしの奇蹟を」、それらを目撃した人たちに考えさせるみわざです。
ですから、これらはよく似たことです。つまり、「奇蹟のみわざ」です。思い出してください。主イエス・キリストは様々な奇蹟を行われました。人々の病を癒された。そのときに人々は大変な驚きを覚えました。また、死人を生かすこともされました。会堂管理者のヤイロの娘を癒された。また、ラザロを癒した。人々は大変な驚きに襲われました。また、イエスがガリラヤ湖で船に乗っているとき嵐に襲われました。イエスが命じると風は止み波がなぎになった。弟子たちはどんな反応を示したか?この方はいったいどんな方なのだろう?この方が命じると風も波も言うことを聞く…と。また、2匹の魚と五つのパンで男だけで5千人の空腹を満たされました。また、イエスが命じたならどんな悪霊もその命令に従って出て行きました。
この箇所が私たちに教えることは、神はイエスを通してこのようなみわざを為された。そのことを通して、このイエスが「神であり、救い主であること」を証明されたのです。そうすると、2:36のみことばで「今や主ともキリストともされたこのイエスを…」とは、あるときに神がイエスを主にまたキリストにしたのではなく、神はイエスがどんなお方であるかということをずっと証して来られたということです。ですから、イエスは主、つまり、神であり、キリスト救世主であるということを言うのです。
2)主イエスの復活により 24-32節
また、イエスが確かに神であり救世主であるということはそれだけでなく、イエスを死からよみがえらせるという復活の奇蹟を通しても明らかにされました。24節をご覧ください。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」、「死につながれている」とは「死が捕らえ続ける」ということです。というのは、このことばは「支配する」という意味があるからです。ですから、この24節では「死は主イエスを支配し続けることができない」と言っているのです。
なぜ、死はイエスを捕らえ続けることができないのか?イエスはこの「死」に勝るお方だからです。死の力をもってしてもイエスを縛り続けることはできない、支配し続けることはできないのです。なぜなら、イエスは神だということです。ですから、イエスのその復活のみわざを通して「イエスは神であり救世主である」ということを明らかにしたのです。24節の後半は「この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」と続いています。また、同じように31-32節にも「:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」と書かれている通りです。
ですから、イエスが死からよみがえって来たというこの歴史上の事実、ペテロは「私たちはそれを目撃した。十字架で死んで墓に葬られ三日後に肉体をもってよみがえって来られたイエス・キリストを目撃した。」と証言しています。この復活は確かにイエス・キリストが救い主だということを明らかにするのです。
3)預言の成就により 30、33-35節
また、ペテロはこのメッセージの中で三つ目の理由を挙げています。神はイエスが主、神であることキリストであることを明らかにされた。キリストを通して為される奇蹟のみわざを通して、また、キリストが死からよみがえって来るということを通して、そして、もう一つ挙げているのは「預言の成就によって」と言います。預言の成就によってイエスがだれであるかを明らかにされたのです。
(1)ダビデの子孫であること
2:30を見ると「彼は預言者でしたから、…」、この「彼」とはその前を見るとダビデのことです。
「神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。」、つまり、ペテロがこのように語ったのは、ダビデは預言者であり、ダビデは自分の子孫に約束の救世主が生まれることを知っていたということを言うからです。その通り、主イエス・キリストはダビデの家系に生まれました。偶然に生まれて来たのではありません。神の約束通りです。イザヤ書11:1に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」と預言されています。
ですから、私たちはイエス・キリストの系図を見たときに何を知るのか?この方こそが神が約束しておられた「約束の救世主」だということです。ですから、ペテロはこうして救い主に関する預言が与えられていたがそれが成就することによって、確かに、イエスが神であり救世主であることが明らかにされたと言うのです。
(2)聖霊降臨 2:33-35
最初に戻って、なぜ、人々は驚きをもっていたのか?それは「聖霊が下った」という出来事でした。そのことについてもペテロは最後に教えます。この出来事(ペンテコステ)の理由を説明するのです。33-35節「:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』」、聖霊が下るという出来事を今あなたがたは目撃したが、これは何を意味しているのか?旧約聖書のヨエル書に約束されていたことが今あなたがたの前で成就したということです。ヨエル2:28-32「:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。:30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。:31 【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。:32 しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。【主】が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、【主】が呼ばれる者がいる。」、ここでは「必ず、神のさばきの日が来る」ということを言っています。ヨエルが預言した「終わりの日」が来るということです。ここには「主の日」と記されています。つまり、人間の罪に対する神のさばきの日が近いということ、そのことを今あなたがたは目撃したということです。なぜなら、預言者ヨエルは神のさばきの日、「主の日」の前にメシヤが来られると預言しているからです。
ですから、今からもう2千年前に、ペテロはその終わりが近いということを人々に告げるのです。聖霊降臨という出来事は「さばきがあること」、また、その日が近いということを私たちに教えているのです。だから、救いが必要なのです。2千年前にペテロが伝えようとしたことは何か?イエスがだれなのかを明らかにしました。神が送ってくださったこのイエスがだれなのかを明らかにしました。そして、神のさばきの日が近い今、この送られた救い主キリストによって救いを受ける必要があるということです。そのメッセージは2千年経った今も変わることがありません。もっと言えば、2千年前よりも今はもっとそのさばきの日が近づいています。ですから、私たちが声を大にして言わなければいけないことは、まだこの救いを受けていないなら今すぐ救いを受け入れてくださいということです。今日、この瞬間にこの救いをあなた自身のものにしていただくことを心からお勧めします。なぜなら、「主の日」が近いからです。
今日見ている2:36のみことばが私たちに教えていることは、神がいったいあなたのために何をしてくださったのか?神はイエス・キリストを送ってくださった。神である方、約束の救世主である方を送ってくださったのです。皆さん、不思議だと思いませんか?なぜ、神はわざわざそんなことをしなければならなかったのか?なぜ、神が人として来られ、救い主としてこの世に来られる必要があったのか?別の方法がなかったのでしょうか?皆さん、簡単です。救い主にふさわしい人間が今までもいなかったし、これからもいないからです。人を救うことができるような、救い主になり得るような、罪のない完全に聖い正しい人間は今までもいなかったしこれからもいないのです。だから、だれ一人として救い主にふさわしい存在はいないのです。だから、神ご自身が救い主として来る必要があったのです。
聖書が言うように「義人はいない。ひとりもいない。」からです。ローマ3:10-12「:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」、私たちの心がどれ程罪に汚れているかということ、どんなに醜いかということは説明してもらう必要はありません。自分の心を見たときにそのことは明らかだからです。なぜ、こんな思いを持ってしまうのか?なぜ、こんなに醜いのかと、私たちは何度もそのことに気付きました。そんな私たちが人を救うことはできません。私たちは救いを必要としているのです。
だから、唯一、罪汚れの何ひとつない神が救い主にふさわしいお方です。そして、その方が私たちのためにこの世に来てくださったのです。これが神があなたのために為してくださったことだと、そのようにみことばは私たちに教えるのです。
B.その神に対して、人類が、あなたが何をしたのか?
人間がしたことです。続けて36節を見てください。そのような神の一方的な恵みに対して人間は何をしたのか?「…このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と、神であられるお方、私たちを罪から救うという私たちに最も必要な救いのみわざを為すためにこの世に来てくださった方、神が遣わしてくださった救世主を私たちは歓迎するどころか、十字架につけて殺したということです。考えて見てください。この主はいったい何をしたというのでしょう?
1.主イエスが為されたこと
イエスがこの世に来られたときにイエスが為さったことは、
1) ご自身のことばと行いをもって「真の神とはどのようなお方なのか?」を明示した
人々はいろいろなものを信じていました。今の私たちの国と同じように…。そこでイエスが明らかにされたことは、
・神はすべての創造主 : この真理は私たちの周りに存在している神と名の付くものがいかに偽りであるかということを明らかにします。私たちが崇拝するのは私たちの愛する祖先だったりします。愛し尊敬する対象ではあります。でも、創造主ではありません。どんなに美しい像でも人間が作ったものは創造主ではありません。神と呼ぶにふさわしい方はただ一人、すべてを造られた創造主なるお方です。
・神はすべてにおいて聖く正しいお方 : 主イエスの歩みを見たときに、すべてにおいて罪のない汚れのない完璧な正しい生き方を為さった。それを通して、神とはこのようなお方であるということを明らかにされました。その神によって造られた私たちに対して神は「わたしが聖であるように、わたしが正しいように、あなたたちも聖く正しくあれ、完全であるように」と言われたのです。
・神は行いよりも心をご覧になるお方 : だから、当時の多くの宗教家たちに対して「あなたがたは立派なことをしているが、残念ながら、神は喜んでおられない。」と言って彼らを責めました。なぜなら、彼らの目は神ではなく人間に向けられていたからです。人からの称賛を得るためにすべてのことをしていたからです。そこで彼らに対して、神は行いではなく心を見られるお方だということを明らかにしたのです。
こうして見たときに、そのどれがイエスを十字架に磔にするような悪でしょうか?いったいイエスのどこが十字架に値するのでしょうか?イエスは神を明らかにされました。なぜ、この方を十字架につけるのでしょう?
2) 私たちの本当の姿を明示した
また、イエスは私たち自身の、人間の本当の姿をも明らかにされました。
(1)私たちには救いが必要であることを示された : 私たちの心がいかに汚れているかということを明らかにされました。「人から出るもの、それが人を汚すのです。」と言われました。イエスは私たちが何をしているかではなく、どんな心をもっているかということを明らかにされるのです。なぜなら、心にあるものが外に出て来るからです。イエスは私たちの心がいかに神のみこころに反したものであるかということを明らかにされました。「父なる神が完全であるようにあなたがたも完全でありなさい」と言われたにも関わらず、私たちの心は不完全です。神に喜ばれることを選択しないで喜ばれないことばかりを選択する者です。神が憎まれることばかりを私たちは選択し続けています。だから、イエスは私たちの心がいかに汚れたものであるかを明らかにされたのです。この汚れた心が聖められることが必要です。この心が新しくされることが必要だと。その必要を教えただけではありません。
(2)私たちは自分の努力で救いを得ることができないことを示された : 自分自身でこの心を聖めることはできません。私たちもいろいろとトライして来ました。いい人間になろうとか、行動を改めて聖く生きようとか、でも、残念ながら、その決心は長く続きません。失敗に次ぐ失敗の連続です。もういい加減に私たちが学ばなければいけないことは、自分の努力で自分の心を聖くすることは絶対に有り得ないということです。皆さんがそのことの証人です。私たちはどんなに心を入れ替えようとしても、この汚れた心を新しくすることはできません。ですから、心が汚れているだけでない、自分の努力によってこの汚れた心をどうすることもできない、変えることができないのです。
マタイ19:25、26をご覧ください。「:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」、変えることができるのは神だけです。
(3)私たちを救い、罪の赦しを与えてくださることを示された : イエスは私たちに救いが必要だということを明らかにされ、そして、イエスが来たのはそんな私たちを救うためだということを明らかにしてくださったのです。イエスは優しく招いてくださっています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)、ヨハネ10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と。イエスは私たちの心を知って、どんなに神に逆らい汚れているかを知って、それでいてなお愛をもって私たちに接してくださった。神に逆らっているあなたを神は招いておられます。「わたしのところに出て来なさい」と。罪を悔い改めて、救いを求めてわたしのところに出て来なさいと。へブル書9:12にはこのように書かれています。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と。イエスが与えてくださるのは完全な、そして、永遠の救いです。
2.人間のしたこと
こうして、イエスが為さったこと、神を明らかにされ、私たちの本当の姿を明らかにされ、そして、私たちの心を新しくする、私たちを新しく生まれ変わらせてくださる、私たちの罪を赦してくださる、そして、招いてくださるイエス、いったい、イエスの為さったどの部分が十字架にふさわしいのでしょう?でも、みことばこのようなイエスを人間は十字架につけたと言います。「あなたがたは十字架につけた」(36節)とペテロは言いました。ペテロが言いたいことは「一人ひとりにその責任がある」ということです。ということは、ここにおられるすべての皆さんにその責任があるということです。
なぜか?その説明をします。2千年前のことではないですか?しかも、日本ではありません。でも、よく思い出してください。イエス・キリストがなぜこの地上に来られたのか?です。それはあなたの罪に染まった心を聖めるためです。あなたの罪を赦すためです。あなたを生まれ変わらせて新しい永遠のいのちを与えるためです。もし、あなたのうちに罪がなければイエス・キリストはこの地上に来る必要はなかったのです。なぜなら、だれ一人として救い主が必要ではないからです。救い主が必要なのはごく一部の人ではありません。すべての人です。あなたです。私です。だから、イエス・キリストはあなたのために地上に来てくださり、あなたのすべての罪を負って十字架に架かってくださり、本来なら、あなたが受けなければならない罪のさばきをあなたに代わって受けてくださった。だれがイエスを十字架に追いやったのですか?罪を犯している私たちです。
だから、ペテロが言うように、神が私を救うためにこの世に来てくださり、私の本当の姿を示してくださり、救いが必要であること、自分で自分を救えない者であること、そのような希望のない私にここに希望がある、わたしがあなたを救うと、そのように示してくださったこのイエス・キリストを私たちは十字架に追いやったのです。気づかなければいけません。ペテロが言うようにはっきり知らなければいけないのです。「イエス・キリストが十字架で死んだのは私が罪を犯しているから、私の罪のためだ」と。確かに、2千年前のできごとです。日本ではありません。しかし、あのイエス・キリストの死の責任はあなたにある、あなたがイエスを十字架に追いやったのだと、そのことをペテロはここで人々に語ったのです。
あなたの身代わりとなって十字架で死んでくださったお方、この世界のすべてをお造りになった創造主なる神です。あなたを造られた創造主なるお方です。あなたを愛して喜んで人としてこの世に来てくださり、そして、あなたのために喜んでいのちを捨ててくださったお方、その方を私たちは十字架に磔にしただけでなく、その方に私たちは何の関心も払おうとしません。その方を心から感謝して、その方に愛を示そうとしません。私たちはどれ程大きな罪を神に対して犯しているのか?皆さん、お気付きになりますか?
イエス・キリストが十字架に架かられたときに、ある人たちはイエスに対して大変な憎しみを抱いていました。彼らの策略によってイエス・キリストは十字架に追いやられました。でも、そこにはよく理由も分からないまま同じように「十字架につけよ」と叫んでいる群衆がいました。彼らはその光景を見ても何もしようともしませんでした。ただ見ているだけです。実は、悲しいことにそのような人は今もいるのです。イエス・キリストのことを聞いて、この救いのメッセージを聞いて、それでもこの方に対して怒りを持つ人、憎しみを持つ人、この方を意図的に拒む人たち、彼らはこう言い続けています。「私はイエス・キリストなど必要としない。私はもう十分間に合っている。私は普段からいい行いをしているし、先祖を敬っているし、わたしにはそんな救いは必要としない。」と。ある人たちはその群衆と同じように、主イエス・キリストの救いのメッセージを聞いても関心を払おうとしません。自分とは無関係のことだと。そんな人は今この中にいませんか?
こうして、聖書は私たちに、なぜ、イエス・キリストはこの地上にお見えになったのか?その理由を教えてくれています。偶然生まれたのではない、彼は目的をもってこの世に来てくださったのです。彼は自分の犯した罪によって十字架に架かったのではない、彼はあなたの身代わりとなって十字架に架かってくださったのです。それでいて、あなたはその方を受け入れるどころか感謝をするどころか、その方を拒み続けているのです。これがあなたが知らなければならないことなのです。はっきりと知らなければならないと言われたその真実、それは、あなたがどんなことを神に対してしているのか、そのことです。
この中でまだイエス・キリストを信じていない皆さん、あなたが今間違いなく覚えなければならないこと、それは「あなたがイエスを十字架につけた」ということです。あなたの罪がイエスを十字架に追いやったのです。でも、イエスは喜んでそれをしてくださった、自分から進んで十字架でいのちを捨ててくださった、それほどあなたのことを愛してくださっているのです。なぜ、この方に背を向け続けるのでしょう?なぜ、主イエス・キリストがご自分のいのちをもって準備してくださった完全な救いを拒み続けるのでしょう?それがいかに愚かなことであるか?あなたはお分かりになるでしょう?なぜなら、神が備えてくださったこの救いをあなたが拒むなら、あなたに待っているのは、あなたの罪に対するふさわしい報いです。それがあなたに来るのです。人間が死んで終わってしまうなら、イエスはわざわざこの世に来る必要はありません。十字架に架かる必要はありません。人間は死んだ後必ず神のさばきを受け、そして、罪を犯し続けている者、赦しを拒んだ者たちには、確実に、永遠のさばきがあるからです。地獄があるからイエス・キリストは来てくださり、そして、あなたの身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。なぜ、この神を拒み続けるのですか?なぜ、この方に感謝をしないのですか?なぜ、この方が備えてくださった救いを感謝して受け取ろうとしないのですか?
心から皆さんにお勧めすること、それは、ペテロが言ったように、この真実をはっきりと知ることです。神が何をあなたのために為してくださったのか?そして、今、あなたが何を神に対してしているのか?です。そして、まだ、救いのチャンスがあるのです。神はあなたを受け入れてくださる。このときに、心からこの救いをいただくことです。今、主の前に救いを求めて出て行くことです。「主よ、私の罪を赦してください。あなたに逆らっていた私を赦してください。イエス・キリストが成し遂げてくださったこの十字架による救い、私はそれを心から信じてあなたに従っていきたい。」と、そのように今出て来ることです。
この神の為してくださったすばらしい恵みのみわざ、あなたのために為されたすばらしい救いのみわざ、心からお勧めします。今日、このみわざを心から信じて生まれ変わることです。主は新しくしてくださる。罪の赦しを与えてくださる。それが今日あなたの人生に起こることを心から願います。救いがあるときに救いに与ることです。
先に救われている皆さん、このイエス・キリストの十字架をいつも覚えることが必要です。なぜなら、その時に十字架が私たちにこのように叫び続けるからです。「あなたはわたしのために何をするのか?」と。救いに与った私たちがどう生きていくのかは救われた者がしっかりと考えなければいけません。どのように主の恵みに応えていくのか?それはあなたが答えなければならないことです。私たちにできることは、主がくださったこの人生を主にささげて主のために生きることです。主が下さっている人生です。主のために生きなさいといって下さっている人生です。そのように生きて、そして、人々にこのようにすばらしい救い主がおられること、救いがあることを伝えることです。
主イエス・キリストが為してくださった救いのみわざに対して、この大きな犠牲に対して、あなたがどう応えていくのか?そのことを考えながらこの日を歩んでください。間違いなく、私たちの群れの中に「主よ、私は救われたことを感謝し、私のすべてをささげてあなたに従っていきます。」と、そのような願いを持っている方がおられるでしょう?それなら、そのように生き続けてください。そのような人が私たちの群れには必要なのです。キリストを第一として、キリストを誇りとして生きていく、そんな人が必要なのです。そんな人が私たちの中に、この国に必要なのです。あなたはそのような人として、主が召してくださるそのときまで歩んでいきたいと決心されませんか?そんな人が私たちの群れに多く与えられて、イエスにお会いするその日まで、今日から、主が喜ばれる歩みをもって歩んでくださることを心から願い、期待します。感謝をささげましょう。
「父なる神さま、主イエス・キリストによって為されたすばらしい、それでいて大きな犠牲、このみわざを覚えて感謝をします。私たちがして来たことはあなたに逆らい続けることでした。それでも、あなたは私たちのことを心に留めてくださり、このようなすばらしい救い主を送り、救いを完成してくださいました。そして、その救いへと私たちを招き続けてくださっています。ここにいる一人ひとり、だれ一人としてこの救いに漏れることがないように、どうぞ、それぞれの心をあなたが探ってください。今、あなたの許へと召してください。先に救われている者たちもその信仰を今一度新たにしてくださりあなたが問いかけておられる『わたしのためにあなたは何を為すのか』と、それに対して『主よ、私はあなたの栄光のために生きます。』と正しい選択をして正しい歩みを今日からまた始めることができるように、ひとり一人の信仰を強めてください。主よ、あなたのみこころが今日も為され、この愛する皆さんの心の中にあなたのみわざがなされますように。…イエス・キリストの御名によって祈ります。」
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