メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 黙示録22:12-21
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
映像: メッセージを見る
ヨハネの黙示録22章をお開きください。
この黙示録の最後の最後に主イエス・キリストご自身が人類への最後のメッセージを語っておられる。その箇所をきょう私たちはご一緒に学んでいきます。
A.メッセージの真実性 12-13節
まず、前回見た12節とこの後見る13節でこのメッセージの真実さ、このメッセージが神のメッセージであることをいま一度明らかにします。
もう一度12節を見ると、「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」と、主イエス・キリストご自身がこのように語っておられます。12節でイエス様は主イエス・キリストこそが人々をさばき、また報いをお与えになるお方であるということを教えました。そして13節「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」と。これまでにイエス様ご自身がご自分のことをこのように称されるのを何度も見てきました。簡単に言うと、この13節でイエス様はご自分が完全なお方であるということを明らかにするのです。
1.永遠性
まずこの「アルファであり、オメガである」というのは1:8や21:6にも出てきました。これはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字です。この言い回しが表していることは永遠性です。1:4が言うように「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」(第二版)、まさにそれを教えるわけです。主イエス・キリストは永遠から永遠に存在しておられる方だから、イエス様の言われたことは絶対に変わらないということです。
2.全知なる方
また全知、完全な知恵を持っておられることを表します。永遠から永遠に至るまでのすべてのことをご存じであると。だから「わたしはアルファであり、オメガである」と言われた。
3.主権者なるお方
21:6では、この「アルファであり、オメガである」に「最初であり、最後である」ということばがつけられていました。まさにそれがここにも出てきていますが、この「最初であり、最後である」というのは、主権者であることを明らかにしていました。最初というのは歴史の最初、歴史を始められたお方であり、最後というのはそれを終わらせるお方、その権利を持っておられるのだと。すべてのことを支配しておられ、すべての主権者なのだということを、この「最初であり、最後である」ということばが教えていました。
4.神なるお方
22:13にはもうひとつ「初めであり、終わりである」ということばが付け加えられています。これも初めて出てきた表現ではなくて、1:17にも2:8にも出てきていました。同じことを繰り返すのですが、歴史の初めから歴史の終わりまで、この世界の終わりに至るまでのすべてのことを主はご存じであり、主はすべてのことを支配しておられるのだということを繰り返しています。こうしてご自分が神だということをいま一度明らかになさるわけです。
ですから、この黙示録の中に記されている約束は、永遠にわたるすべての主権者であり、そして全知なる神によって与えられたものなのだということを読者たちにいま一度教えようとするのです。だからこの預言のことばにしっかりと耳を傾け、この預言のことばをしっかりと信じておきなさいと、そのように勧めるわけです。
B.備えられた祝福 14-15節
改めて、このメッセージが神のメッセージであると、神が与えたものだということを明らかにした後、14-15節を見ると、主によって備えられたすばらしい祝福が記されています。
1.祝福を得る者 14節
14節「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」と。まず14節のところでは祝福を得る者の話があります。神様の祝福をいただくのは「自分の着物を洗」う人です。黙示録7:14には「衣を小羊の血で洗って、白くした」と書かれています。つまりこの「衣を洗う」ということは救いを表しています。今読んだ14節のみことばは日本語では最後に「幸いである」と出ていますが、ちょうど山上の説教と同じように「幸福(さいわい)なるかな」ということばで始まるのです。どのような人が本当の幸せをつかむ人なのかかが記されています。幸いな人よ、「自分の着物を洗っ」た人――この救いにあずかった者たちはと。原語では、「幸福なるかな、自分の着物を洗っ」た人はと書かれた後に、結果や目的を表す接続詞がつけられています。ですからここで言わんとしていることは救いにあずかった人々は結果として次のことが与えられる、これらのことが目的であなたのうちに救いが与えられたのだということで、二つの祝福が約束されています。「いのちの木の実を食べる権利」が与えられたとあります。そしてもう一つは「門を通って都に入れるようになる」ということです。黙示録21、22章の新天新地の話で、この都がどんなにすばらしい都なのかを見て来ました。神の御座からいのちの水の川が流れ、その両脇にはいのちの木が植わってあって、そこに実が成り、人々はこのすばらしい祝福にあずかるいのちの木の実を食べることが許される。そして「門を通って都に入」る、あの新しいエルサレムに入る権利をいただいたのです。救いにあずかった者たちにはこのようなすばらしい特権、祝福が約束されているのです。
2.祝福を逃す者 15節
それを語った上で、15節には「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」と、この祝福を逃す者たちの話が出てきます。祝福にあずかれない者たち、祝福の中に入ることのできない人たちの話がここに記されています。
1)「犬ども」
まず「犬ども」と記されています。ここには軽蔑の意味が含まれています。我々が考える愛玩用のかわいい「犬」のことではなくて、ユダヤ人たちにとって「犬」といえば、飼い主もなく、ごみをただあさり歩く不潔で獰猛な野犬を覚えたわけです。自分たちは救われていると思い込んでいたユダヤ人たちにとって、罪に汚れ、救われていない異邦人たちのことを「犬」と呼んだのです。ですからまずここに出てきているのは、救いにあずかっていない者たち。そしてこの「犬」ということばは、比喩的には男娼という意味があります。性的に汚れた者たち、男性でそのように快楽を求めるような人という意味が含まれています。
2)「魔術を行う者」
また、その後に出てくるリストは、21:8や27節でも既に見てきました。「魔術を行う者」というのは、特に宗教と結びついている時はまことの神以外を崇拝する者たちです。
3)「不品行の者」
不品行の者、性的な罪を犯し続けている者たち。
4)「人殺し」
人殺し、実際に人をあやめるだけではなくて、艱難時代の終わりになると、神を選ぶのか獣を選ぶのか選択を迫られます。獣を選んだ者たちはクリスチャンたちを迫害する、彼らを殺すことに賛成する者たちです。そういう意味で人殺しのグループの属すると。
5)「偶像を拝む者」
6)「好んで偽りを行う者」
そして最後に出てくるのは「好んで偽りを行う者」です。これは偽り、うそを愛してうそをつき続ける人の話です。この人はうそをつくこと、偽りを言うことを何とも思っていません。だから彼はうそをつき続けるだけではなく、うそを愛している人です。ですからこの「好んで偽りを行う者」というのを原語から直訳すると、偽りを愛し、偽りを行い続けているすべての者と訳せます。
こうしてこのリストを見た時に、彼らの主人であるサタンの特徴を見事に表しています。神を愛することなく、神が憎まれる汚れを愛し、神に逆らい続けている。だから彼らは「外に出される」のだと。彼らはこの祝福の中に入れられることはない。この祝福は彼らとは無関係なものだと教えるのです。
非常に悲しい現実です。ある人々はこのすばらしい祝福の中に招き入れられ、いのちの木の実を食べる権利が与えられ、このすばらしい新しいエルサレムにおいて主を礼拝することが許されていると。この祝福にあずかっているあなたは幸いです。しかし、そうでない人もいます。この中にもいるかもしれない。あなたが覚えなければいけないのは、あなたの選択は正しくないし、あなたの選択は大変大きな罪です。神に逆らい続けて一体何の得があります?神に背き続けて一体どんな祝福があります?神に逆らい続けるならば、その人に待っているのは永遠のさばき、永遠の地獄です。なぜならあなたは神が備えてくださった救いをみずからの意思をもって拒み続けているからです。神の備えた救いを要らないと言い続けるからです。我々人間は決めなければいけない。みずからの罪を神の前に悔い改めて、この神のあわれみをいただくのか、それとも神に逆らい続けて、自分の犯して来た罪の報いを自分自身がその身に受けるのか。永遠の祝福の中で過ごすのか、永遠の呪いの中で過ごすのか。それをあなたは決めなければいけない。そしてもっと言えば、その選択をもうあなたはしているのです。救いを拒んでいるのはあなたの選択です。主は最後の最後に至るまでそんなあなたに対してあなたの罪を悔い改めてこの救い主の前に救いを求めて出て来るように招き続けてくださっている。実はそのことがこの中にも繰り返し記されています。あなたの罪を知った上であなたを赦そうとしてくださっている神がいてくださるのです。
C.最後の招き 16-17節
1.救い主からのメッセージ 16a節
16-17節を見ると、「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」と、その神様からの最後の招きが記されています。16節の初め「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。」と、このメッセージは主イエス・キリスト、つまり救い主からのメッセージだということを改めてここで教えています。もちろん聖書のみことばはすべてそうですけれども、ヨハネが記したこの黙示録のメッセージは救い主なる神様からのメッセージだと。
2.救いのメッセージ 16b節
そして16節後半には「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」と救いのメッセージが記されています。この「ダビデの根」というのは5:5でも学んだようにダビデの子孫ということです。つまり救世主はダビデの子孫から生まれると預言されていた。そしてその預言は私によって成就した、私は約束されていた救世主なのだ、救い主なのだということをいま一度明らかにしておられるのです。あなたを罪から救うために来てくださった救い主、それがこの「ダビデの根、また子孫」ということばの意味です。
そして、「輝く明けの明星である」と出てきます。この「輝く明けの明星」というのは夜が明ける前、太陽が昇って来る前に東の空に見える金星のことを指しています。しかし、実はこの「明けの明星」というのは、イエスのことであるということを我々は2:28で既に学びました。なぜこんな表現を使ったのかというと、この金星の役割というものを思い出したらよくわかります。金星が輝いているその後に日が昇って来るのです。主イエス・キリストが来られたことによって、もう間もなくこの暗闇が終わることを明らかにしているのです。明けの明星であるイエス様が来られることによって、もう間もなくすると、その栄光ある神の王国の到来が実現するのだということです。
また先ほどもお話したように、暗闇の中に輝いている星、もう間もなくすると、日が昇ってきます。夜が明けます。まさにそれはイエス様がこの世にお見えになった時の働きです。また今もなしておられる働きです。この罪の暗闇の中に光が来られたのです。そしてその光がまばゆく輝いたのです。救いの道を明らかにしてくださったのです。神のみこころを明らかにしてくださったのです。ちょうどイエス様がヨハネ8:12で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことが」ありませんと言われたように、イエス様は「世の光」として輝いてくださった。ですから確かにイエス・キリストが来られたということはその後に続く約束がもう間もなく実現するということです。光であるイエス様がこの闇の中に来られたのは、我々罪人に歩むべき道を明らかに示してくださった。彼は救い主であり、我々罪人に救いを明らかにしてくださった。このイエスによってすべての罪が赦されるのだ。それが主が与えてくださった救いのメッセージです。
3.救い主の招き 17節
17節にはこの救い主の招きが記されています。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』」、この「御霊」というのは聖霊なる神です。そして「花嫁」というのは教会を指しています。この箇所は私たちに聖霊なる神も教会も「来てください。」と望んでいる姿が記されています。主イエス・キリストが帰って来てくださる。主イエス・キリストの再臨を待望している姿が書いてあります。しかも、「御霊も花嫁も言う」ということばは継続して言い続けている姿です。つまりイエス様の再臨を待ち続けている、早く帰って来てくださいと言い続けている様子がここに記されているのです。それを聞いた者たちの正しい応答がここにも記されています。
1)信者へ
この後に「これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。」と出てきます。この「言いなさい」というのは命令です。聖霊や教会が「イエス様、早く帰って来てください」と言うのを聞いたら、あなたたちは「主よ、早く来てください。」と言うようにと命じられています。つまり我々救いにあずかった者たちはいつイエス様にお会いしてもいいように、その備えをなしていなければならない。そのことをここでみことばは明らかにするのです。なぜなら我々クリスチャンというのは、主イエス・キリストの再臨を待ち望む者として生まれ変わっているからです。今言ったことを少し考えてください。例えば永遠のいのちをいただいた、それで万事終わった、これから好きに生きて行きましょうというのは人間の言う救いであって、神の与えてくださる救いとは違います。神の下さる救いというのは、私たちを作り変えてくださるわけです。作り変えられた私たちは私たちを作り変えてくださった、私たちを罪から救ってくださったイエス様に早くお会いしたいという思いを持って生きる者へと変わったのです。
「私たちの国籍は天に」あると言ったパウロは「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)とも言っています。パウロ一人の話ではない。「私たちは待ち望んでいます」と言っています。もしそうでない信仰者がいたら思い出してください。あなたが救いにあずかった時には早くイエス様にお会いしたいという願いを持ったはずです。私のために十字架で死によみがえられたイエス様にお会いしたいと。もしその思いがあなたのうちから薄れているのなら、きっとあなたの心の中に何か罪があるはずです。まだイエス様にお会いしたくない理由があるはずです。主に従った者たちというのは、早くこの主にお会いしたいという思いを持って生きる者へと生まれ変わっているのです。
パウロはテサロニケのクリスチャンたちも生まれ変わったと言います。そして彼らが本当に生まれ変わって本当のクリスチャンになったのを周りの人々が言い広めているとⅠテサロニケ1章の中でパウロが言っています。周りの人たちがテサロニケのクリスチャンに関してどんなことを言っていたかというと、「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」とあります。テサロニケのクリスチャンたちはイエス様に早くお会いしたいと待っていたのです。そのように生きているテサロニケのクリスチャンたちの様子を見て、周りの人たちがその証をしているとⅠテサロニケ1:10が教えます。
生まれ変わった私たちは一日も早くイエス・キリストにお会いしたいという願いを持って生きる者たちです。だから我々信仰者が自分に問いかけなければいけないのは、本当にそういう思いを持って今日を生きているかどうかです。そのことを自分自身に問いかけてみなければいけない。もう少しやりたいことがありますから、神様、まだ帰って来てほしくないと。ひょっとしたらそのやりたいことが主イエス・キリストにお会いすることよりも自分にとっての楽しみかもしれない。ひょっとしたらそれが偶像になっているかもしれない。こうして信者に対してイエス様の招きがあります。
2)未信者へ
同時に未信者に対する招きもここに記されています。17節「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」とあります。17節の初めの主の再臨が一日も早く実現することの願いから話のテーマが一変しています。今度は「渇く者は」、「いのちの水がほしい者は」と、主イエス・キリストの救いにあずかっていない者たちへの招きが記されています。
(1)「渇く者」への招き
心に渇きを覚え、一生懸命どんな努力をしても心は満たされない。自分の努力では、自分の力では罪の赦しをいただくことはできない。きよめられたい、救いにあずかりたい、そのような渇きを持っている人。新しく生まれ変わりたいと、そのような渇きを持っている人は「来なさい」とイエス様は言われるのです。命令形です。あなたを招いてくださっているのです。
(2)「いのちの水がほしい者」への招き
「いのちの水がほしい者」、イエス様が与えてくださる水を飲む者は「その人のうちで泉」となると。そして「いのちへの水がわき出」ると言われた。その救いを求めるのだったら、救いを求めているのだったら、「それをただで受けなさい」と。私がそれを与えてあげるから私のところに来なさいと。「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」、イザヤ55:1です。主ご自身がそれを与えてくれる、私のところに来なさいと。そのように主があなたを招いておられる。まだこの救いを拒み続けている方がおられるなら、あなたが覚えなければいけないのは、きょうこの瞬間も神はあなたに招きを与えてくださっているということです。
D.メッセージへの警告 18-19節
そして、18-19節を見ると、メッセージに対する警告が記されています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。」、まず「この書の預言のことばを」と書かれています。これはこの黙示録のことです。1:3に「この預言のことばを朗読する者」とあります。この22:18、また19にも出てくる「預言のことば」、「預言の書」というのは直接的には黙示録を指しています。そしてここに神の警告が記されています。「この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」と。ここに神様からの警告が記されています。一体誰に対する警告なのかと当然私たちは考えます。対象は二つあると思います。
1)「語る者たちへ」
一つはこのメッセージを語る者たちに対する警告です。今見てきたように、このメッセージは神様からのメッセージです。ですから神のメッセージを正しく語るという責任があります。このメッセージを曲げて、自分勝手なメッセージを語るということに対する警告です。実にそういった働き人はどの時代にも存在しました。
また、この当時、ヨハネを預言者と認めていなかったということが記されている箇所がヨハネの手紙の中に出てきます。Ⅱヨハネ10-11やⅢヨハネ9-10を見ると、神から遣わされたこのヨハネのことを認めていなかった人々が教会に存在していたこと、そして教会の中にはもっと厄介な者たちがいたことが記されています。偽りの教えをもたらす者たちでした。黙示録2章にエペソの教会に対するメッセージ、ペルガモの教会に対するメッセージ、テアテラの教会に対するメッセージが出てきますが、エペソの教会にもペルガモの教会にもニコライ派の人々がいたことが2:6、2:15に記されています。大変な偽りの教えをもたらしていた。こういう人々は教会に入り込んできて、少しずつ間違った方向へと導いて行こうとする働き人です。実際にそういった働きによって、かつてはすばらしい神学校が神様のおことばを否定する、聖書が神のおことばであるということを否定するような神学校へと変わってしまった例があります。なぜそんなことが起こったのかとその歴史を読んでみると、一人の人がそこに入り込むことによって、主が用いておられたその神学校が全く違う教理を信じる神学校へと変わってしまった。そういう働き人がこのヨハネの時代にもいたのです。また、2:20に出てきたテアテラの教会にもイザベルという働き人、偽りの預言者がいました。この人物は自分が預言者だと言いながら、神のメッセージを語っていなかった。人々を過ちに導き、不品行を行わせ、偶像崇拝を容認していた。
ですからこういった教える人々に対して、神の真理をしっかりと教え続けて行きなさいと。もしそうしなければ神様の懲らしめがあることは十分に理解できます。みことばがこんなふうに言います。申命記4:2に「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令を、守らなければならない。」、また申命記12:32にも「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」と。また箴言30:6でも「神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」と。語る者たちは注意して語らなければいけない。神様のおことばであるゆえに正しくこのメッセージを伝えなければならない。
2)「読者たちへ」:「この書の預言のことばを聞くすべての者」
同時に語る人たちに対する警告だけではなくて、このメッセージを聞く者たち、このメッセージを読む者たちに対する警告もここで与えられています。このみことばの権威を認めないという人たちに対する警告です。神様のおことばが語られる時に私たちがどう思うかではない。神が語っておられるのだ。もちろん我々はその語られているメッセージが本当に聖書どおりかを調べる必要があります。しかし、聖書が教えていることを語っているのだったら、それは神からあなたに対するメッセージです。それを受け入れることです。みことばを蔑んだ者たちがたくさんいます。そして、彼らが大変な懲らしめに遭っていることをみことばが教えています。Ⅱ歴代誌36:16にも「彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、【主】の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」とあります。神のことばが宣べ伝えられる時に、聞くひとりひとりは、これは神様の権威を帯びたことばであることを認めて、それを心から受け入れることです。聞いている者たちもこれはおかしいから、これは納得できないからと付け加えたりそこから取り除いてはならないと。
3)「報い」:「二つの災害」
そういう間違った扱いをする人たちに対する二つの報い、二つの災害が18-19節には書かれていました。
(1)18節
18節に「預言のことば……につけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。」とあります。おもしろいですね。つけ加える者があれば神はその人に災害をつけ加えると記されています。加えた者にはこのような災害が加えられる。どんな災害なのかというと、既に黙示録の中で三つの災害、神のさばきを見てきました。封印が解かれることによるさばき、七つのラッパのさばき、七つの鉢のさばき。それがその人の上に加えられるという話です。つまりこの人たちはさばかれるということです。
(2)19節
二つ目に19節を見ると、ここにも「この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」とあります。取り除くならば取り除かれると。「この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から」、もう既に我々が見て来たように永遠の祝福の話です。クリスチャンたちにはこのいのちの木に近づいてそれを食する権利と新しいエルサレムに入る権利が与えられた。しかし、その都から「その人の受ける分を取り除かれる」と言ったら、いのちの木を食する権利が与えられ、新しい都に入る権利が与えられている人からその権利が奪い取られるかのようにとれます。だからある人たちはこの箇所を使って、一度救われたとしても救いを失うことがあると教えるのです。でもこの箇所が教えているのはそういうことではありません。神が救われたのであればその人は永遠に救われています。救われていると思い込んでいる未信者はいっぱいいます。でも神が救ってくださったのなら、その救いは絶対に絶対に失われることはない。
この箇所が明らかにしているのは、いのちの木や新しいエルサレムの祝福はこの人たちには全く無関係だということです。その人たちにはいのちの木に取り分がない、新しいエルサレムにも彼らの居場所がないと言っているのです。この人たちが救いを失うということではなくて、もともと救われていない人たちだと言い切れるのは、実はこういう理由です。神によって救われた者たちはみことばの権威を認めるからです。救いにあずかった皆さんはこの聖書はほかの小説やほかの本とは違うということを十分お感じになっておられるでしょう。聖書をどこかにポンと放っておくとかそれだけでも罪悪感を覚えます。まさにルターがやっていたように、私たちはこの聖書を本当に子どもをあやすように、小脇に抱えて大切なものとして扱う。これは神のおことばですから、ルターがやったことに共感を覚えます。そういう思いを信仰者は持っているのです。
詩篇の著者が詩篇1:1でこう言っています。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」、つまり救いにあずかっている者たちです。2節には「まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、」とあります。救いにあずかっている者たちは神の教えを喜ぶのです。神様のみことばを愛しているのです。「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」と続きます。またイエス様もヨハネ14:23-24で「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。……わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」と言われています。
ここに出て来た人々は神様の権威を認めていないのです。ですから自分勝手な解釈をしたり、その真理を除いたり、また自分が思う真理をつけ加えたりして、神のおことばであるみことばに対するリスペクトがない。イエス様が言われたように、私を愛する者は私のことばを守り、私を愛さない者は私のことばを守らないと。なぜかというとリスペクトがないからです。これはただの本だと思っているからです。だから私たち神様によって救いにあずかった者たちは、愛する神のおことばだからそれを大切に扱うのです。神から直接与えられているメッセージです。ですから私たちはこのみことばにリスペクトを払い、間違ってもここから何かを除いてみたり、勝手なものを加えたみたりすることに対する大変な恐れを持っています。神のおことばだからです。そういうリスペクトを払うのが救いにあずかった者たちだとみことばは言っています。ですからこのようなことを行う者たちというのは救いにあずかっていない。だから彼らは平気でこの神様のおことばにいろいろなものを付け加えてみたり、この神様のおことばから真理を除いてしまう。だからここにあったのは、そういう人たちにはこの災害が加えられ、この祝福に彼らは決してあずかることがないと警告を与えているのです。
E.最後のことば 20-21節
1.再臨の約束
さて、20-21節を見ると、最後のことばがここに記されています。「これらのことをあかしする方がこう言われる。」と、イエス様ご自身です。「しかり。わたしはすぐに来る。」。「しかり」、このことばは自分の言ったことの確かさを強調することばです。「わたしはすぐに来る」ということを強調しているのです。確かにいつ来られるかわかりません。しかし我々が覚えなければいけないのは主は絶対に帰って来られるということです。こうして最後に主イエス・キリストはこの約束を与えたのです。絶対に起こると断言されたのです。
2.再臨への備え:この約束に対する我々の応答
そして、その続きに再臨に対する備えの話があります。「アーメン。主イエスよ、来てください。」と。この主の約束に対する私たちのあるべき応答です。「アーメン。主よ、来てください。」と。この「アーメン」というのはそのとおりだと、またイエス様が言われたことに対して、イエス様が言われたとおりだとそれを心から受け入れている様子がここに記されています。そして「主イエスよ、来てください」と。イエス様がきょう来られるかもわからないと。その再臨を一日一日待ち望みながら生きて行くことです。再臨に備えてこの日を生きて行くことです。眠っていてはならない、油断していてはならない。
イエス様がマルコ13章でこの天地が滅びるという話をされた。でもわたしのことばは決して滅びることはないと言われた後でイエス様は「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知」らないと。天使たちも知らないし、子も知らないと。ただ父なる神だけがご存じだと。そこでこう言うのです。「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないから」だと。この話をした後でイエス様はこんな話をしました。「旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなもの」だと。一人の主人が出かける前に自分のしもべたちにこれをしておきなさい、あれをしておきなさい、それぞれにそういった役割分担をして責任を明確にして出て行くという話です。そして「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。」(13:35-36)と続くのです。ここでイエス様は世の終わりにふさわしい生き方を教えておられます。33節にある「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。」というのは全部命令形です。つまり言いたいことは備えをなしていなさいということです。しかもそのしもべたちひとりひとりに仕事を割り当てて責任を持たせています。つまりここにおられるすべての信仰者には神ご自身からしなければならない務めが与えられている。あなたには責任があると言っているのです。
そして35-37節には、やっておけばよかったとか、そんな後悔がないように、今あなたに与えられた務めをしっかりと果たしていきなさいと言われています。その後に時間が出て来ました。「夕方」というのは18時から21時まで、「夜中」は21時から0時まで、「鶏の鳴くころ」というのは0時から3時まで、「明け方」というのは3時から6時です。この時間帯は全部夜です。この当時の人々は危険だから夜に旅行をしないのです。この時間帯はローマの夜警たちが四交代で見張ったのです。そこで夜だったら旅人は誰も来ないとみんなが思うとイエス様は言われたのです。出て行った主人も夜は物騒だからきっと戻って来ない、明日の朝、日が昇ってから来るに違いないと。そのように油断していてはならない。帰って来ないとあなたたちが思っている時に帰って来ると。一番油断するのは帰って来ないと思っている夜です。だから、イエス様はまだ帰って来ないと思っている時に帰って来るから備えていなさいと我々に対する警告なのです。イエス様の再臨はまだ先の話だと思っている時に帰って来るから備えていなさいと。つまりきょうイエス様が帰って来るかもしれない、その思いを持ってこの日を生きていきなさいと教えるのです。皆さんはどうですか?そんな話は何回も聞いているから、頭ではそう思っているかもしれないけれども、我々の生き方はどうですか?あなたはイエス様が帰って来るのはまだずっと先だと信じていることをあなたの行いが証明していませんか?イエス様が言われるのは、私は必ず帰って来る、だからきょうその備えをしていなさいと。そんな生き方が賢い人の生き方です。まだ先だと思っている愚か者にはならないでください。
3.祝祷 21節
そして最後に主イエス・キリストからの祝祷があります。「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」と。「主イエスの恵み」、この恵みによって私たちは救われたのです。あなたも私も主の恵みによって罪の赦しをいただきました。そしてこの主の恵みが「すべての者と」あるように、この恵みは救いにあずかっていないあなたにもまだ与えられるということです。あなたが求めて来るならば、その救いを神様は与えてくださる。そして、あなたもこのすばらしい永遠の祝福にあずかることができます。主の御顔を私たちとともに喜びながら感謝しながら拝することができます。主の恵みがあなたにあるようにと、この救いにあずかるようにと。同時にこのすばらしい救いに一人でも多くの罪人があずかるためには、あなたがそのことを伝えなければいけない。こんなすばらしい恵みがあること、こんなすばらしい恵みの主がおられることを伝えなければいけない。主イエス・キリストの恵みが「すべての者とともにあるように」と。私たちは恵みをいただいた者として恵みを伝える者となったのです。この世界にいる一人でも多くの人たちがこの同じ祝福にあずかるように伝えて行きなさいと。これが神様の真実のメッセージだ、「アーメン」と続いていきます。
主イエス・キリストは私たちに大切なメッセージを与えてくれました。主イエス・キリストの再臨が近づいている今、どんなふうに私たちが、あなたが生きるのかです。それはあなた自身がしなければならない選択です。主にお会いできるように、いやその備えを持ってこの日を生きてください。きょうがこの地上における最後の日かもしれない。むだにすることなく、主に会うにふさわしい心をもって、行いをもって主のすばらしい御顔を拝しましょう。
《考えましょう》
1.主イエスが再臨について語られたことを記してください。
2.再臨への備えができている人はどのように日々を過ごすと思われますか。あなたの思うことをお書きください。
3.そのような人へと変えられるにはどうすればよいのかをお書きください。
4.あるクリスチャンは再臨への備えができていません。それはどうしてだと思いますか。その理由をお書きください。
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