メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 黙示録22:10-12
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
映像: メッセージを見る
御使いはヨハネに対して、この黙示録は信頼する価値がある神の真理のことばであるということを伝えました。つまり、これらの預言のことばは必ず成就する、神が真実であられるように、この書に記されていることも同様に真実であると、そのことを天使が告げるのです。旧約聖書も新約聖書もすべては神の霊感によって記された神のおことばです。そして、この黙示録も同様に、神のことばなのだということを天使はヨハネに改めて教えたのです。
そのことを明らかにした上で、これから先について、将来に私たちはどのようにふさわしく生きていくのか、終末にふさわしい生き方、主の再臨に備えた生き方を教えて、その実践に励むようにと勧めるのです。終末にふさわしい生き方とは、どのように生きることなのか、前回からその生き方を見て来ました。イエス・キリストが帰って来られる日が近い今、どのように生きるべきなのか?
A.従順であり続けること 7節
これまで主に従順に従って来たあなたはこれからもなお従順であり続けるようにと勧めました。
1. 真理を守ること
2.真理を守り行うこと
神のことばであるゆえにその真理をしっかりと守るようにと、それに何かを付け加えたり、そこから何かを取り除いてはならないと言います。そして、あなたはその真理に従って生きていく、それが終末にふさわしい生き方だと一つ目に教えました。
B.礼拝し続けること 8、9節
私たちは礼拝をする者として生まれ変わった。どんな時にも私たちは主を誉め称えながら、感謝を現わしながら生きていく存在であるということです。ですから、この救いに与った者として、益々、主を喜びながら感謝をささげながら礼拝者として歩み続けていきなさいと教えました。
C.宣教に励み続けること 10節
10節「また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。」、「彼は」とは「御使い、天使」のことです。初めに言ったとおり、天使がヨハネにこのようなメッセージを与えたのです。そして、「封じる」とあります。このことばは「人の口を封じる、口止めする」という意味があります。また、「封じてそれを秘密にする」という意味を持っています。この命令は、否定的には「隠したままにしておいてはいけない」で、肯定的には「人の前でこのメッセージを明らかにしなさい、それを宣ベ伝えなさい」ということを教えます。黙っていないで、秘密にしないでこの黙示録のメッセージを語り続けていきなさい、それが終末にふさわしい生き方だとみことばは教えるのです。
思い出していただきたいのは、この黙示録がどんなメッセージを記していたのかということです。少なくとも、そこには救いをいただいていない罪の中を生きている罪人に対するメッセージが記されていました。さばきが近づいているから一刻も早く悔い改めて救われよ、というメッセージが繰り返し記されていました。今、主はまだその機会を与えてくださっている、だから、その機会を失う前に早く自らの罪を悔い改めてこの救いに与るようにという主の招きが記されています。神は忍耐をもって一人でも多くの罪人がこの救いに与るようにと待っておられる、忍耐をもってあなたを待っておられる神がいることを黙示録は明らかにしてくれました。このすばらしい救いを、先に救われたあなたは黙っていてはいけない、この救いのメッセージ、すばらしい福音のメッセージを語り続けよと、そのことがこの10節の初めで教えられています。
救いのメッセージ、それは天使が言うまでもなく、確かに、私たちが語り続けていかなければならないメッセージです。黙示録に記されていて、そして、聖書全体に記されているこのすばらしい神からのメッセージです。皆さんはもうそのメッセージを語り続けるということ、その大切さを十分ご存じです。思い出してください。なぜ、私たちがこのメッセージを語るようにと命じられているのでしょうか?それは罪人が救われるためにはだれかがこのメッセージを語らなければならないからです。パウロはローマ書10:14、17でこのように教えています。「:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」、話す人がだれもいなかったらどうやって人々はこの救いのメッセージを、このすばらしい神のことを知ることができるかと言います。「:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」、だれかが語らなければならないのです。そして、ここにおられる信仰者の皆さんは、だれかが語ってくれたからこの救いに与ったのでしょう?だれかが語ってくれた、勇気を出してイエス・キリストのことを話してくれたのです。こんなにすばらしい神がおられること、こんなにすばらしい救いがあることを話してくれたのです。
私のその信仰におけるヒーローの一人はハドソン・テーラー、中国に伝道に行ったイギリス人の宣教師です。73歳で召天するまでの51年間、彼は中国で福音宣教に励みました。17歳で主イエス・キリストの救いに与り、その年に、神から宣教するようにという大きな召命をいただきました。21歳のとき、1854年3月1日彼はついに上海に上陸するわけです。そして、約51年後、1905年彼は最後の中国宣教を行うのです。そして、6月3日に湖南省において彼は天に召されます。自分の生涯をこの中国の人々の救いのためにささげたすばらしい宣教師です。
こんな話が彼の本に記されています。彼の最も親しい人であり助力者の一人に「ニー」という人がいました。この人物は、以前は仏教徒であり指導的立場にいる人物であり、また、町で綿の商人をしていました。彼は大変真面目な人で、ある偶像礼拝の団体の会長として様々な神々に仕え、多くの時間と金を費やしていました。その彼がこのハドソン・テーラーの集会に参加し、その集会が終わろうとしたとき、彼は自分の席で立ち上がって聴衆を見回しながら次のように語ったのです。「私は長い間真理を求めて来ましたが見出せないままでした。遠近を問わずあちこちに旅行しました。しかし、結果は同じことでした。儒教、仏教、道教などにも安息はありませんでした。しかし、今日聞いたことに本当の安心があることが分かりました。私は今日からイエスの信者です。」と、このように宣言をしたニーという一人の信仰者、その後彼は熱心に聖書を学び始め、そして、信仰においてめまぐるしい成長を遂げるのです。彼が救われてから間もなく、以前会長をしていた団体の集会で話すことになりました。ハドソン・テーラーは彼に同行してその集会へ出かけて行くのです。その場で彼ははっきりと、そして、十分にこのイエス・キリストの福音を語るのです。そして、かつてこのニーに付いていたある人物が、この話を聞いてイエス・キリストを信じる信仰へと導かれていきます。この後ニ―は救霊の喜びを知り、福音宣教に励みます。
さて、この人がハドソン・テーラーにこんな質問をしたことがある書物に記されています。「英国ではこの良い知らせをどの位前から知っていたのですか?」と。テーラーは英国は何百年も前から福音を知っていたことを認めます。するとニーは「何ですって!何百年も!」、そして、彼は悲しそうな顔をしてこう続けます。「私の父は真理を求めました。しかし、見出せないまま死んでしまいました。なぜ、もっと早く来てくださらなかったのですか!」と。これはハドソン・テーラーがその後も忘れなかった苦難の瞬間であると言っています。「なぜ、もっと早くこの知らせを伝えてくれなかったのですか!」と、私たちの周りにはそのような人がいっぱい溢れています。皆さんの家族はどうでしょう?皆さんに対して言わないでしょうか?「なぜ、もっと早くこの救いを教えてくれなかったのか!」と。
ヨハネはこのメッセージを天使から聞きます。黙示録のメッセージを黙っていてはならない。このメッセージを語り続けなさいと。私たちも同じようにこの黙示録のメッセージを語るわけで、この聖書が教えているメッセージを語り続けていきます。この聖書が、そして、黙示録が、まだこの救いを受けていない人々に対して何を語っているのか、一刻も早く罪を悔い改めてこの救いに与るようにと、そのメッセージを語るようにと、神があなたに命じておられるのです。
10節にはこのように続いています。「時が近づいているからである。」と。ヨハネの時代から見るならもう二千年近く時間が経ちました。彼らは危機感をもってこのメッセージを語りました。それなら、私たちはもっと危機感をもってこのメッセージを語り続けていかなければいけません。この救いを受け入れていなければ間違いなく彼らは永遠の滅びに至ります。私たちの愛する者たちが、私たちの家族が、友人が確実に永遠の地獄へといくのです。それが神が私たちに警告されていることです。こんなことを語れば友人は気分を害してしまうかもしれない、親族はこんなことを聞いたらもう付き合いを止めてしまうかもわからないと、確かに、いろんなことがあるでしょう。私たちもいろんなことを経験して来ました。でも、私たちがどう思われるかではなくて、彼らが聞かなければならないメッセージがあるのです。この世にはどんな罪でも赦してくださる神がおられるのです。その方が罪の赦しを与え、永遠のいのちを与えてくださるのです。これは彼らが聞かなければならないメッセージです。彼らにとって最も大切なメッセージです。それを「語れ!」と天使はヨハネに告げるのです。
そして、この黙示録のメッセージは2章3節を見ると七つの教会に送られています。その教会がこの働きをするようにと、そして、当然、私たちもその責任を負っていることはよく理解できます。確かに、黙示録を見る時に、このようにまだ救いに与っていない人たちが一日も早くこの救いに与るようにというメッセージがあります。同時に、先に救われた者たちへのメッセージも記しています。それぞれの信仰をしっかり吟味して、益々忠実でありなさいというメッセージです。「時が近づいているから、クリスチャンたちよ、益々忠実でありなさい。時が近づいているから、益々主に喜ばれる者として成長しなさい。」と。
ここで少し考えなければいけないことがあります。世の終わりが近いということ、主イエス・キリストの再臨が近いということ、そのことはもう私たちが何度も耳にしていることです。また、皆さんも口にしていることかもしれません。問題は、この事実を私たちはどれだけ真剣に受け止めているか?ということです。そう思いませんか?「主は今日戻って来られるかもしれない。皆さんそう思いますか?」と皆さんにお尋ねすると、きっと皆さんは「はい」とお答えになるでしょう。問題は、本当にそのことを信じている人が私たちのうちにどれだけいるかです。もし、本当にそのことを信じているならそれはその人に生き方に必ず反映されるはずです。パウロがそのことを語っています。Ⅰテサロニケ5章です。パウロは主イエス・キリストが帰って来られること、この再臨の確信をもっていました。
◎パウロの確信
1.再臨への確信 Ⅰテサロニケ5章
1)主のさばきの日は突然に訪れる 2節
5:2「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」、パウロは言います。主イエス・キリストの再臨は突然に訪れるものだ。夜中の盗人のように、突然にやって来るということを告白しています。
2)人々が油断しているときに訪れる 3a節
5:3a「人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」と、パウロは人々が油断しているときに主の再臨が訪れることを教えています。突然に、そして、油断しているときだと言います。
3)必ず起こる 3b節
3節の後半には「ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」と、つまり、妊婦は苦しみの後に必ず子を出産するように、主イエス・キリストの再臨も必ず起こることであると言うのです。
こうして、このⅠテサロニケ5章の中でパウロは再臨を確信していたことを明らかにします。そして、その再臨について説明しています。それは突然に、予期していないときに、必ず起こると。そして、
2.再臨への備え Ⅰテサロニケ4章
このように再臨のことを教えるパウロは、Ⅰテサロニケ4章では「では、どのように生きるのか?」ということを記しています。テサロニケの教会に与えたパウロの教えを見ましょう。
1)主を喜ばせることにより励む 1節
Ⅰテサロニケ4:1に「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」とあります。まず、パウロが教えることは「主を喜ばせることをより熱心に行っていきなさい。益々、主を喜ばせる者として生きていきなさい」ということです。イエスが帰って来るのだから、もう間もなく帰って来るのだから、もっと主を喜ばせていこう!と。
2)主の命令により忠実に従う 2節
「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」と、つまり、命令に従うことを教えるのですが、パウロの与えている命令がこの後出て来ますが、それは彼自身の命令ではなくて神からの命令であるということが8節を見ると明らかです。「ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」と。パウロは命令を
与えます。神からの命令を与えるのです。そして、主イエス・キリストにお会いする日が近づいている今、あなたがたが覚えなければならないのは、その命令をしっかりと守っていくことであると。
◎だから、油断することなくその日の備えをしておくようにとテサロニケ教会に勧める!
主イエス・キリストは必ず帰って来られる。約束なさっていたように必ずその日がやって来る。そのことを知っているあなたがたは益々主が喜ばれることを選択し、そして、主の命令により忠実に従い続けていくようにと言います。
5:6には「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」と書かれています。いつイエス・キリストの再臨が起こるか分からないから、いつ起こってもおかしくないから、だから、私たちはこのように心を整えてその備えを為すことが必要だと、そのことをパウロは
教えています。
・眠っていないで : 多くの人が眠っているからです。眠っている信仰者がたくさんいるのです。イエスが帰って来るとか、さばきの日が近いとか、そんなことを聞いても多くの信仰者は全く無関心です。何回聞いてもその人の耳も心も鈍感になってしまって、どんな反応も示さないのです。だから、パウロは「眠っていてはいけない」と言います。多くの人はそのように無感覚になっているけれど、あなたはそうであってはいけないと。
・目を覚まして : 油断なく注意するということです。いつ来られるか分からないのだから、しっかり目を覚ましていなさいと。
・慎み深く : このことばは「自制する」という意味があります。実際に、このことばの語源は「酔っていない、しらふ、まじめ、謹厳、冷静」です。 ですから、
*終わりがいつ来てもいいように、油断することなく、そして、冷静に、正しいことを判断するようにとパウロは勧めています
しかも、この「眠っていないで、目をさまして、慎み深く」という三つの動詞はいずれも激励を表す方法で記されています。つまり、パウロはテサロニケのクリスチャンたちに対して、主イエス・キリストがいつ帰って来られるのか分からないから、あなたがたは多くの信者たちのように眠っていてはいけない、目を覚まして、そして、しっかり冷静に何が正しいか判断できるように生きていきなさいと勧めますが、なぜ、パウロがこのように勧めたのか?実は、これがパウロ自身の生き方だったからです。
*つまり、パウロ自身もそのようにして日々を過ごしていたのです
そして、このようにいっしょに生きていこうと彼らを励ますのです。
こうして見たときに、確かに、パウロは今日イエスが帰って来るかもしれないと信じてそのように生きていました。彼は眠っていませんでした。今日、イエスが帰って来るかもしれないということを本当に信じているゆえに、注意を払っていました。自分の行ないにおいても、ことばにおいても態度においてもすべてにおいて、本当に神が喜ばれることをやっているかどうかと。そして、慎み深く冷静に自分の行いを判断しながら、吟味しながら、イエスにお会いする準備ができているかどうかを考えながら歩んでいたのです。イエスの再臨が近いと私たちは口にするかもしれません。でも、問題はそのように生きているかどうか、パウロが生きたように私たちも生きているかどうか、そのことを私たちは考えなければいけないのです。
先ほど、テサロニケ4:1、2を見ました。主を喜ばせることを選択していこう、神の命令により従っていこうと。神の命令により忠実に歩んで行こうと、そのように思っている人たちは益々宣教に力を入れるはずです。というのは、イエスご自身が「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と命じておられるからです。マタイ28:19でも「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じられました。大命令と言われているところです。私たちは思い出さなければいけません。私たちはこの救いに与らせていただいた者として神からこの大きな責任をいただいたのです。「この救いを語りなさい」というのは神の命令です。
パウロは教えます。主イエス・キリストの再臨が近い、そのことを信じている人たちはこの神の命令により熱心に忠実に従っていくと。だから、パウロは福音宣教にとても熱心だったのです。彼はこのようなことを言っています。Ⅰコリント9:16「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。」、主がそのことを望んでおられる、主がそのことを私に命じておられる、だから、私はそれを喜んでしようと言うのです。この「わざわいだ」というのは、もし、私たちが救われていながら福音宣教に励まなかったら救いを失うということではありません。救いに与った者は永遠に救われているのです。この「わざわい」とは「神の懲らしめ」のことです。懲らしめがその人に臨むということです。神の命令に不忠実な者たち、それに従わない者たちには必ず主の懲らしめがあるのです。そのような懲らしめを経験しているのなら、神が約束された祝福をすべていただくことはできません。罪が邪魔するからです。
時が近づいている、そのことを本当に確信している信仰者たち、彼らはこの日を無駄にすることなく主を喜ばせることに、主の命令に従うことにより時間とエネルギーを費やす者たちです。皆さん、黙示録もこの聖書が教えていることは必ず実現します。それは神ご自身がそのように約束されており、保証されているからです。私たちはこのように考えるべきです。でも、神は私たちにほんのしばらくの時間を与えてくださっています。その時間が数時間なのか、数分なのか、数週間なのか、私たちには分かりません。でも、神はその時間を私たちにくださり、神の警告をしっかりと人々に伝えなさい、救いのメッセージを伝えなさいと私たちに語っておられます。そして、この福音を伝えるという宣教の働きこそ救いに与った私たちの神からの特権です。すばらしいニュースを知った者、すばらしい救いに与った者たちがそのすばらしい神を、すばらしい救いを伝えるというのは私たちに与えられたすばらしい特権です。その責任を負っていることを私たち一人ひとり忘れてはならないのです。
まず、御使いはこのヨハネに対して、この預言のことばを秘密にしてはいけない、このメッセージを語らないでいてはならない、語りなさい、語り続けていきなさい、時が近づいているから、福音宣教に励むようにと言います。
D.霊的に成長し続ける 11、12節
終末にふさわしい歩みとして四つ目にヨハネが挙げることは「霊的に成長し続けること」です。
1.不正を選ぶ者、汚れを行う者 11a節
11節「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」、この箇所は「不正を行っている者」と「正しいことを行っている者」の両方へのメッセージが記されています。最初にある「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。」とは、神ご自身が不正を勧めているのではありません。このメッセージが与えられたのは、神の真理のおことばを聞いてもそれを否定し続けている人々、救いを拒み続けている人たちに対してです。神はこの救いのメッセージを拒む者たちに対して、あなたには救いが与えられないだけでなく、間違いなく、あなたには永遠のさばきがあること、永遠の地獄があることを約束しておられます。なぜなら、神が備えてくださった唯一の救いを拒むならばそれ以外の方法で人間が救われることは不可能だからです。神の救いを拒むなら罪人が救われる方法はありません。
へブル2:3に「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、」とあるとおり、神の備えてくれた救いをないがしろにするなら罪のさばきから逃れることはできません。人間に与えられた唯一の方法は、このイエス・キリストを信じる信仰によって罪が赦されるということです。ですから、それを拒んでいる人たちに救いの希望がないことを聖書は教え続けます。まさに、これが聖書が教えている「赦されない罪」なのです。すべての罪は神によって赦していただけます。どんな罪でも…。しかし、救いを拒む罪には救いがありません。なぜなら、その救いを拒んでいるからです。神の赦しを拒んでいる人に赦しはありません。救いを拒絶するからです。ですから、この11節でみことばが何を教えているのか?主が備えてくださった罪の赦しを拒み続けるのであれば、神は「では、好きにしなさい。こうして、わたしがあなたに救いの手を差し伸べているにも関わらず、それを振り払うならば好きにしなさい。」と、そのことが記されているのです。
神によって罪を赦していただき、聖められることを拒んで、罪を愛して罪に従っていこうとするなら、その汚れをその歩みを継続しなさい、あなたはそれを望んでいるのだから好きにしなさいと、それがこの11節の前半で教えることです。神はこう言われます。「ただし、あなたのその選択における責任はあなた自身が負うことになる。それを覚えておきなさい。」と。ですから、これは神に逆らい続けている人たちに対する神からの警告です。そのような人がここにもおられるかもしれない。あなたが覚えなければいけないことは、神はあなたのことを愛してくださって、あなたにとって最も必要な罪の赦しを備えてくださったということです。その救いを拒んでいるのはあなただと言うのです。神があなたを新しく生まれ変わらせてくださるのに、それを拒んでいるのはあなただと言うのです。それゆえに、その責任はあなた自身が負うことになると、このように警告されているのです。
2.救いを選ぶ者 11b節
次に11b節「正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」、すなわち、救われた者たちは益々その正しさ、聖さにおいて成長するようにと命じているのです。主によって罪赦され正しくされた者は益々正しいこと神が喜ばれることを行っていきなさいと。「聖徒」、罪が聖められ赦されて聖なる者とされた人たちは、益々神が喜ばれる聖いことを追い求めて生きなさい。信仰において成長するようにと言います。パウロがエペソ4:13で「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」と教えたとおりです。信仰者として成長するためにそのように歩んでいきなさいと、11節の後半はそのように教えます。
3. 選択の重要さ 12節
11節は私たちに「選択の重要さ」を教えています。どちらであなたは永遠を過ごすのか?と。汚れ
たまま罪が赦されないまま、永遠を地獄で過ごすのか?それとも、罪の汚れから聖められて聖い神とともに永遠を天国で過ごすのか?あなたはどちらを選択するのか?この選択の責任はすべての人に課せられています。そして、その選択が自らの永遠を決定するのだと教えています。私たちにとって最も恐ろしいこと、それは、この救いの機会を逃してしまうことです。みことばは繰り返しそのことを告げています。後になって後悔する人がたくさんいるのです。「あの時に信じておけば良かった。あの時に神の前に救いを求めておけば良かった。」と。ヘブル書の著者はこう言います。ヘブル3:15「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。」と。神があなたを救いへと招いてくださっている時に、なぜ、あなたは心を頑なにするのか?今この時に神の前に出て来ることだと。
黙示録22:12では、ヨハネは正しい選択をした者への神の祝福を教えています。「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」、ここで主ご自身が改めて「わたしはすぐに来る。」と言っておられます。「見よ。」とあるのは注意を払うためです。「わたしはすぐに来る」と。イエスが来られる時にはそれぞれのしわざに応じて報いるためです。それぞれが行った選択に応じて、それぞれの歩みに応じて主は報いを与えられると言います。先に見たように、神に逆らう選択をしそのように生きている人にはそれにふさわしい報いが与えられるのです。
しかし、主によって正しくされて救いに与り、主の前を正しく歩み、そして、私たちが見て来たように、パウロたちと同じように、今日イエスにお会いするかもしれないという思いをもって主の前を正しく歩んでいる者たちには、それにふさわしい報いが与えられるのです。どちらにしても、私たちはみなこの神の前に立ちます。そして、私たちの人生に対する神からの評価をいただくのです。
私たちはこの黙示録を通してそのことを繰り返し教えられて来ました。私たちは死んで眠ってしまうのではない、みな神の前に立つのだと。ある人はその罪ゆえに永遠のさばきへと、ある人はいただいたその救いゆえに神とともに永遠を過ごすと。でも、クリスチャンたちもそのキリストのさばきの座に立つ時に、あなたの主に対する忠実さに基づいて主がほうびを与えてくれると言うのです。
信仰者の皆さん、目を覚ましていなければいけません。いつその日が来るか分からないから、目を覚ましていなければならない、眠っていてはならない、注意していなければいけないのです。冷静に何をすべきなのかを考えて正しい選択をし続けていくことの必要性、そのことをみことばは私たちに今日もチャレンジしてくれます。だから、どうぞ信仰者の皆さん、今日からあなたがイエス・キリストにお会いするその日まで、どのように生きていくのかはあなた自身が決めなければいけません。ただ、みことばがあなたに教えることは、主が喜ばれることをしっかりと探ってそれを行っていきなさい、神のみことばに従って生きていきなさい、いつ主にお会いしても良いようにその備えをもって今日生きなさいということです。そのように生きるなら神は喜んでくださる、あなたを変えていってくださる。そして、イエスにお会いする時に「あの時、この正しい選択をしていて良かった!」ときっと言うことになるでしょう。
間違った選択をしている皆さん、あなたも神の前に立ちます。そのときにあなたが行って来たすべての罪が明らかにされ、そして、神があなたに救いを与えようとしてくださっているのに、あなたが自らの意志でその救いを拒み続けて来た、そのことも明らかにされます。それゆえに、あなたには永遠のさばきが与えられます。その判決を受けたとき、あなたは一言もその主に対して言い訳ができません。すべてのことが明らかにされるからです。大変大きな後悔だけが残ります。だから、救いが与えられる時に救いに与りなさいと神は命じられるのです。時が近づいている、だからこそ、今日この救いが与えられる日にこの救いをいただくことです。ルカの福音書13:24-28をご覧ください。「:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。」。
最後に考えてみてください。あなたは主のみことばに従いながら従順に生きているかどうか?あなたは主をいつも称えながら礼拝者として歩んでいるかどうか?あなたはいつも主の福音を宣べ伝えながら歩んでいるかどうか?あなたは主の恵みによって霊的に成長することを願いながら歩んでいるかどうか?このことを考えて正しい選択をすることが、主にお会いする備えをしている人の生き方です。終末にふさわしい生き方をしている人、そんな人になります。しっかりその日に備えて今日生きましょう!イエスにお会いする日、その日を心待ちにしながら、今日、私たちが為すべきことをしっかりと為していきましょう。Ⅱコリント5:10「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
《考えましょう》
1.「この書の預言のことばを封じてはいけない。」の意味を説明してください。
2.また、どうしてこの書に記されている神の真理を語り続けることが大切なのでしょう?
3.11節の教えをあなたのことばで記してください。
4.あなたは日々「正しい選択」をしておられますか?どうか、ご自分の歩みを吟味して、今日から
「いよいよ正しいことを行い、いよいよ聖なる者とされなさい。」のみことばの実践に励みましょう。
Podcast: Play in new window | Download