メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 黙示録22:6-9
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
映像: メッセージを見る
どうぞヨハネの黙示録22:6をごらんください。
選挙があると必ず候補者はこれこれのことをお約束しますと公約をします。しかし、それを聞いている有権者たちはそれがただの選挙公約であることを知っています。つまりその公約のすべてを信じてはいません。人間だから絶対というのがないことを知っています。しかし、神の場合は違います。もし神様が約束なさったことを100%実現されないとしたら、その時点でその方が神でないことを証明したことになります。聖書が教える神は完全であり、神には絶対しか存在しないのです。私たちが学んで来た黙示録、新約聖書の一番最後の書に記されていること、しかもこの最後の書の最後に記されているのは「わたしはすぐに来る。」という約束です。つまり主イエス・キリストの再臨についての約束です。この22章の中に7節、12節、20節と、この約束は三度繰り返されています。主はこの黙示録の最後の箇所にあって、主の再臨が近いから、再臨に備えた生き方、終末にふさわしい生き方を教えようとするわけです。今から見ていく6節は、それに先立って、このメッセージの真実さについて改めて教えています。そしてその後、再臨が近づいている今、そこまで来ている今、私たちはどんなふうに生きていくべきなのかをご一緒に見ていきたいと思います。
☆ メッセージの真実さ 6節a
6節の初め「御使いはまた私に、『これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです』と言った。」とあります。
① 「御使いはまた私に言った」
まず「御使いはまた私に……言った。」とあるように、ヨハネにこのメッセージを伝えたのは「御使い」、つまり天使だと記されています。
② 「これらのことば」
「これらのことばは」とはこの黙示録全体を指しています。
③ 「信ずべきものであり、真実なのです」(3:14、19:11、21:5)
そして「信ずべきものであり、真実なのです」と記されています。「信ずべきもの」というのは「信頼できる」とか、「正確な」とか、「確かな」とか、「信用できる」、そんな意味があります。この「信ずべきものであり、真実なのです」というフレーズは黙示録の中にはここ以外にも3回出てきます。
主イエス・キリスト
黙示録3:14ではラオデキアの教会に宛てられたメッセージですが、「アーメンである方、忠実で、真実な証人」と訳されていますが、まさに言わんとしていることは同じです。黙示録19:11にも「私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。」と。つまり「信ずべきものであり、真実」ですという表現が今お読みした3:14、また19:11では主イエス・キリストに当てて使われています。主イエス・キリストご自身が「信ずべきものであり、真実な」お方であると黙示録は言います。
神のみことば
そしてもう1カ所21:5「『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』」でも、全く同じギリシャ語が使われていますが、この箇所は主イエス・キリストではなく、神様のおことばのことを指しています。
この6節の前半が教えることは、この黙示録は信頼できるもの、信頼する価値のあるもの、そして真実なものであるということです。つまりこれらの預言のことばは必ず成就し、神が真実であられるようにこの書も同様に真実であるということを教えるわけです。
預言者たちのたましいの神である主 ルカ1:70、Ⅱペテロ3:2
6節の後半には「預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。」と続きます。これは一体何を言おうとしているのか。「たましい」と書かれていることばは新約聖書の中に379回も出てきます。それを順番に見ていきますと、あるところでは「霊」とか「心」、また人間のする「息」や「風」、また「たましい」と訳されています。ここでは「たましい」と訳されていますが、実はこのことばが「たましい」と訳されているのはここともう1カ所、ヤコブ2:26だけです。ヘブル4:12にも「たましい」と出てきますが、ここはこの「たましい」と訳された「プニウマ」というギリシャ語ではないことばを使っています。ですからどちらかというと「たましい」と言うよりも人間の心や霊と考えた方がいいのかもしれません。
6節の後半で著者が私たちに教えてくれることは、神様は預言者たちの「たましい」、つまり彼らの霊、彼らの心に働かれたのだということです。皆さんもよくご存じのように神は旧約また新約において預言者たちの心に働かれました。彼らの心に、また彼らの霊に働いて、神様の真理を示し、そして彼らはそれを記したわけです。霊感です。聖書はすべて神の霊感によるものでと、その話をしているのです。
ルカ1:70に「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。」と、神はご自身のみこころを預言者たちを通して明らかにされた。またⅡペテロ3:2には「それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。」とあります。「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことば」とあります。何を書いているかというと、彼らは霊感によって神様からのことばを語り、神様からのことばを記したわけです。ですから神がこの預言者たちの霊に、彼らの心に働いてそのようなみわざをなされたわけです。ですからここで、「預言者たちのたましいの神である主は」というのは、神様が預言者たちになされた霊感のみわざのことを言うわけです。
しもべたちに
そしてその続きを見てください。「その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされた」と。この「しもべたち」というのは、クリスチャンたち、信者たちの話です。「(彼の)しもべたち」と書かれています。神のしもべたち、神の奴隷たち、つまり我々クリスチャンたちの話です。
すぐに起こるべき事を
そして、「すぐに起こるべき事」とあるのは、すぐに起こる必要があること、起こらなければならないことを意味しています。黙示録1:1には「すぐに起こるはずの事を」と、同じことばが出てくるのですが、ずっと先のことではなく、すぐに起こるはずのこと、起こらなければならないことを神はこの預言者たちを通して明らかにされたというわけです。
ジョン・ワルボード先生は、「これを字義どおりに訳せば『速やかに必ず起こるべきこと』となる。ここで言わんとしていることは、それが起こる時には突然起こるということであろう。同時にそれはいつでも成就するかのように切迫していると考えられる。どちらの場合もそれを信じる者は目を覚ましているようにという警告の使信である。」と言われました。すぐに起こるべきことを信者たち、あなたに明らかにしてくださった。それはあなたが目を覚ましているためです。あなたはいつ起こるかもわからない、この再臨の出来事に対して目を覚ましていなければならないと、警告の使信であると。
ヨハネは6節で、この黙示録も神から遣わされた天使によって速やかに起こる神の真理がそのしもべたち、すなわち信者たちにヨハネを通して明らかにされたのだということを教えています。神は預言者たちを通して霊感をもって神のことばを記させたように、この黙示録も同じように神の霊感によるもので、これまでの預言者たちと同じように神はヨハネを通して神様からの真理を記させたのだと。だから信頼に値するのだと、神のことばだからあなたたちはこれをしっかりと信じなければならないと、この6節で強調するのです。
初めに言ったように、黙示録1:1に「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」と書かれていました。今私たちが見ている6節と非常に似通ったこと、同じことを言っています。神がこのメッセージをキリストに与え、そしてキリストが御使い、天使を遣わしてヨハネに明らかにされたと。ですから、まずここでヨハネは、この黙示録のメッセージは神の霊感によるもので、神ご自身のメッセージなのだから、私たちはしっかりとこのメッセージを受け止めなければいけないと教えます。
バークレー師も次のようにこのことばを説明しています。「預言者たちの霊と心に霊感を与え、預言者に語り、預言者を通して語る神である。ヨハネに与えられた使信、言葉、幻は旧約の偉大な預言者に語りかけられた同じ神から出ている。したがってヨハネの使信は旧約の預言者のことばと同様に、神からのものとして真剣に受け取らなければならない。」と。それがまさにこの6節でヨハネが明らかにしようとしたことです。旧約、新約聖書のすべては神の霊感によって記された神のおことばであり、この黙示録も同様に神のことばであることを改めてここでヨハネは強調するわけです。なぜこんなことをヨハネがしているかというのが、これからの内容を見ていくことで明らかになります。
☆ 終末にふさわしい生き方
ヨハネはそのことをいま一度読者たちに思い起こさせた上で、終末にふさわしい生き方、主の再臨に備えた生き方をただ教えるだけではなく、それをすぐ実践しなさいと勧めるのです。ここで言われていることが神からのメッセージであり、真理であるがゆえに、あなたはこれに基づいて今すぐ生きていきなさいということを勧めようとするわけです。主イエス・キリストが帰ってくるのが大変近いということは、もう皆さんよくご存じです。今から約2000年前の彼らもそれが非常に近い、切迫した出来事であると確信していました。神はあわれみをもって2000年間私たち人間に時間を下さった。でも確実にその日はそこまで来ています。その事実を知った私たちはその最後の時間をどう生きていくのか、どう生きて行かなければならないのか、どう生きて行くことを神様が望んでおられるのか、そのことがこの後に記されています。ヨハネは私たちに4つのことを教えるのですが、残念ながらきょう我々はその中の2つしか見ることができませんけれども、どういうふうに生きるべきなのかをご一緒に見ていきましょう。
A.「従順であり続ける」こと 7節
まず最初に7節を見てください。主の再臨が近いからこそあなたは従順であり続けなさいということを教えます。「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」と記してあります。「見よ。」という感嘆詞で始まるのですが、これは注意を促しています。このみことばが会堂で朗読される時に、人々にいま一度注意しなさいと、まさにこれから言われることにしっかりと耳を傾けなさい、聞きなさいと、そのように読者に語るわけです。この「見よ。わたしはすぐに来る。」ということばは、22章の中で3度繰り返されています。今私たちが見ている7節と12節「見よ。わたしはすぐに来る。」、また20節にも「しかり。わたしはすぐに来る。」と。つまりこうしてみことばは私たちにこの主の再臨が今にも起こるのだということを強調しているのです。「わたしはすぐに来る」のだとこれだけ繰り返されると、聞いている者たちはそのメッセージを受け取りますよね。なぜこんなことを繰り返しているかというと、出来事の切迫性を強調しているわけです。だからこそ今このように生きなければならないのだと勧めるのです。
◎ この書のことばを堅く守る生き方
「この書の預言のことばを堅く守る者は」と書いてあります。ヨハネはまず最初に、この書のことばを堅く守る生き方をしなさいと教えます。まずここにあるように、「この書の預言のことば」というのは、ヨハネの黙示録の中に記されている内容です。大切なことはそれを「堅く守る」ということ、そこが鍵です。この「堅く守る」という動詞は、「保つこと」とか、「守ること」とか、「守り続けること」。また「見張ること」とか「そっくりそのままで手付かずでそれを保護する、守る」という意味もあります。また、ある神学者は、「この意味は宝物として守ることである。」と説明しています。ですからまずこの「堅く守」りなさい、しかも継続して守り続けなさいというのは、それをそのままの状態で保っていくように、保護していくようにということです。
このことばは私たちに二つの生き方を教えています。
1.「真理を守る」こと:申命記4:2、箴言30:5-6
一つ目は真理を守るということです。これはこの黙示録に記されている真理を決して曲げてはならないということです。22:18-19に「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」とあります。なぜこんなことが記されているかというと、ここにあるようにこのヨハネの黙示録に付け加えることもここから何か除くことも、神に対する大変大きな罪だと警告されています。この書を読んで、これから起こるさまざまなことを見てきましたが、それを見た時にいろいろな思いが出てきます。例えばそんなことはなかなか信じられないわと。でもヨハネは、あなたはこの神様の真理を曲げることなく、しっかりとそれに立ち続けることが必要なのだと言うわけです。申命記の中でもモーセがこう言います。4:2「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。」と。なぜかというと、そのメッセージが神からのものだからです。また箴言30:5-6にも「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」とあります。ですから、神のみことばに自分の思いをつけ足してみたり、神の真理を除いてみたりするようなことを決してしてはならないと教えているのはここだけではないのです。この「堅く守る」ということは、神様のおことばである聖書を勝手に変えたり、書き換えたりすることの危険について教えているのです。当時はみことばを写していましたから、読んでいるうちにこれはおかしいなと思って、書き換えることは十分可能でした。ですからそういうことを決してしてはならないと言うのですが、これはこのメッセージを聞いている人たちに対するメッセージです。ですから、この書の朗読を聞いている人々に対しては、このメッセージを自分勝手に解釈をしてはならない、自分にとって都合よく解釈することの危険さの話です。
ここで警告されていることは、意図的に真理を変えてしまおうとすることに対する警告です。さっきも少しお話ししたように、みことばを学んでいる時に、またみことばを聞いている時に、これはおかしい、納得できない、間違っているなどの傲慢で反抗的な心の態度をもって解釈を自分勝手に変えてしまうことに対する警告です。黙示録を学んでいて、こんなことが起こるのだろうかということも確かに出てきました。でも私たちの責任は神様が言われていることをそのとおり受け取ることです。私たちが納得するかしないかの話ではないのです。神が言われていることが何かを知って、その真理と向き合うのです。意図的に自分勝手な解釈をしてしまう危険に陥ってしまうことに対する警告です。私たちは、神のおことばは権威あるものとして、神ご自身が発せられたみことばとして取らなければいけない。畏れをもってこのみことばを扱わなければいけないのです。適当な解釈をするのは危険です。大変注意を払って私たちはこのみことばを扱わなければいけない。ヨハネはここで、この神様のおことばを、この書の預言のことばを「堅く守る」、絶対に真理を曲げてはならないと警告しているのです。
私たちがこれから起こることを話すと、ある人は興味を示すだろうし、またある人たちはそういったことを聞いて怪しい集団のように思うかもしれません。なぜならそんなことを言う人たちはたくさんいますから。今でこそ少し下火になったかもしれませんが、大予言など、いろいろとあったではありませんか。それと同じようなことを言っているグループと思われるかもしれない。でも私たちの態度は人々がどう思うかではないのです。私たちはこの神様の与えてくださった真理のことばをそのとおり受け取る責任がまず問われています。
2.「真理を守り行う」こと:黙示録14:12、22:9
二つ目に言えることは、真理を守り行うことです。
1)「神の戒めを守る」 Ⅰヨハネ2:3、ヨハネ8:47
実はこの「堅く守る」というのは、既に14:12で学んでいます。そこには「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」と記されています。「神の戒めを守り」と。それはこのみことばを、神の戒めを、神の教えを従順に守り行うことでした。Ⅰヨハネ2:3でも同じことばが使われています。「もし、私たちが神の命令を守るなら、」、この「守る」ということばです。ですから確かにこの神の真理をしっかりと保護していくという意味もあるし、また我々が神の真理に守り従っていくこと、それを実践していくこと、そのことも同時にこの箇所は我々に教えてくれるわけです。神のみことばを聞き、そのみことばに従うこと。ですから、きょう我々が見ているように、キリストの再臨が近いから、あなたは常に神のおことばに従順でありなさい、それをしっかりと行いなさい、実践していきなさいと改めて教えるわけです。
また、このことばは黙示録22:9にも出てきます。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。」と、天使がこう言うわけです。後で少し見ますけれども、天使たちもみことばの実践をしていることを教えています。ですから、この「堅く守る」というのは、神様の真理をしっかり守って行っていくこと、そのこともこの7節のみことばが我々に教えてくれることです。
2)「イエスに対する信仰を持ち続ける」
もう一度7節を見ると、「幸いである」ということばが最後に出てきます。主イエス・キリストが山上の説教をお話しになった時に「幸いなるかな」ということばで始まっています。ここも同じなのです。「この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである」と。ここで言っているのは、幸いなるかな「この書の預言のことばを堅く守る者は」と、神によって祝される人の条件がここに書いてあるのです。こういう人を神は喜ばれる、こういう人を神様はお祝しになると。それはこのみことばを守り行っていく人、この真理をしっかりと保護していく人。そういう人を神様は祝福すると言われたのです。
神学者シーセンはこんなふうに言います。「この祝福に満ちた望みが使徒時代のキリスト教にとって強い奨励であったことは明白である。イエスが再び来られることを主ご自身から直接聞いた人々はこの世の誘惑に再び陥ることはなかった。彼らは主の再臨を待ち望む、そのために生き、他の人々を主のみもとに、そして主の再臨の望みに導こうと努めた。」と。チャールズ・G・トランブルは、当時ワシントンで閣僚の一人の下で働いていた彼の友人のことばを次のように引用している。「主の再臨は私にとって第二の回心とも言うべきものをもたらしたものである。それは私の生活全体の方向を変え、聖書を新しい書物とした。この教えこそは多くの批判に直面し古い流れから離れかけた時、私の信仰の錨となったのだと信じている。」と。つまりイエス・キリストが帰って来る、再臨という事実は、それを堅く信じた者たちの生き方を変えたと言うのです。この人々はイエス・キリストの再臨に備えてそれにふさわしく生きたと。イエス様が帰って来られる、私たちを迎えに来てくださるというメッセージを聞いた時に、では、いつイエス様にお会いしてもいいようにしっかりと備えをしていこうと、ある人々は生きたのです。問題なのは、そのある人たちの中にあなたが入っているかどうかです。いつの間にか私たちは主イエス・キリストの再臨という話はずっと聞いて来たけれども、それがまだ起こっていないから、まだずっと先までその出来事が起こらないかのようにもし思っているのなら、あなたは備えができていないということです。みことばは私たちに、それがもうあたかも今すぐに起こってもおかしくない出来事として教えられている。ヨハネがここで我々ひとりひとりに語ることは、その備えをしなさいということです。そのためには、主が教えられていることをしっかりと守り行っていきなさい、従順に歩み続けていきなさい、その歩みをやめてはならないと彼は再びここで教えようとするわけです。
シーセンはこうも言います。「聖書は再臨の約束と期待とを神に対して我々が奉仕するための刺激として与えておられる。」と。ですから、主の再臨が本当に近いのだということを心から信じている人は、それを口にする人ではなくて、今しなければならないことをしっかりと行っている人です。永遠に価値あることのために生きている人です。一人でも多くの方にこの救いを語ろうとする人たちです。イエス様が帰って来られるということがあなたの信仰生活のいい刺激になっているかどうかです。
B.「礼拝し続ける」こと 8、9節
1.「礼拝を捧げる者」
二つ目にこの主の再臨に備えた生き方がどんな生き方なのかを8、9節でヨハネは教えるわけですが、それは礼拝をし続けなさいということです。8節「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。」とあります。まずここに「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。」と、この一連の出来事を目撃したのがヨハネ自身であったことを証ししています。7節の語り手と8節とは主語が変わっています。7節では「見よ。わたしはすぐに来る。」と、主ご自身が言われている。そして8節はヨハネ自身が語っています。「私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。」、これをしたのはヨハネ自身です。ヨハネは礼拝を捧げようとするわけです。この礼拝と考えた時に、これはしなければならないことではなくて、私たちが心から行いたいと思うことです。特に私たちは神様の偉大さが示された時、その神の偉大さに圧倒された時に内側から当然生まれて来る応答です。
あのギデオンという一人の人物を神様はお使いになりますけれども、彼は13万5000人のミデヤン人たちと戦わなければなりませんでした。彼らと戦うためにイスラエルが3万2000人集まりました。大変少ない数です。ご存じのようにそれでも神は多いと言って最終的には300人になりました。あなたがギデオンだとしたらどう思います?300人で13万5000人の敵に立ち向かっていくと。普通だったら考えられない。ギデオンも大変な恐れを抱いたほどです。それは間違いありません。そこで、神はギデオンに対して、敵陣に行って彼らの話を聞いてごらんなさいと言われたのです。そこでギデオンは若い者プラという人物を連れて敵陣ミデヤン人の中に出て行くわけです。そうすると一人の兵士が自分の見た夢を仲間に語っていました。大麦のパンの固まりの一つがミデヤン人の陣営に転がってきて、そして天幕の中まで入り、それを打ったのでそれは倒れたと。ひっくり返って天幕が倒れてしまって、一体これは何のことだろうと言った時に友人がこう言います。それはイスラエル人ヨシュアの子、ギデオンの剣のことであると。神が彼の手にミデヤンと陣営全部を渡されたのだと。こんな夢の解き明かしをするわけです。それをギデオンは聞いているわけです。そのときに彼は何をしたかというと、ギデオンはその夢の話と解釈を聞いた時に主を礼拝した。これは士師記7章に出てくる話です。神のなさるみわざに圧倒されるのです。神がいかに偉大な方であるかを知った時に、ギデオンは神の前に礼拝を捧げるのです。我々も神様のすばらしさに気づかされる時に、強いられてではなくて心から喜んでこの方を褒めたいと、この方に礼拝を捧げたいと思います。本来ならば私たちはそういう思いを持ってこの場に集まってくる、そのような心が喜ばれる礼拝を捧げるためには必要であることを我々はよく知っています。
◎ どうしてヨハネは御使いを礼拝しようとしたのか。
ヨハネは大変な信仰者です。確かにこのような一連の出来事を知らされて、圧倒されて礼拝の思いが出てきたことはよくわかります。しかし、なぜこのヨハネが御使いの足元にひれ伏して彼を拝もうとしたのか、疑問が出て来ます。それは間違っていることを知っているはずなのに、なぜこんなことをしたのかと。レオン・モリス先生は「黙示録を受け取った人の中にも天使礼拝に誘惑されていた人々がいたのかもしれない。ヨハネは禁じられていることを明らかにしようと思ったのであろう」と、こんなことを言います。恐らくそれがヨハネが天使の足元にひれ伏した理由ではないかと。
実は確かにコロサイの教会というのはこのような問題を抱えていました。コロサイ2:18を見ると、「御使い礼拝をしようとする者」たちが存在していたことが書かれています。ですからひょっとしたらそういった人々がここにもいたのかもしれない。なぜなら御使いを崇拝することは間違っていると教えられているわけです。9節に「すると、彼は私に言った。『やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。』」と記されています。この天使のことばを聞くと、天使を崇拝すべきだと信じていた、またそのようなことを教えていた者たちが自分たちがやっていたことは間違っていたことを明らかにされる。天使は、この礼拝に最もふさわしい唯一のお方は被造物ではなくて創造主だということを明らかにします。天使は「やめなさい。」と告げ、彼も被造物であることを明らかにしています。見ていただきたいのは、「私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。」と言っています。この「同じしもべ」というのは、「ともに」と「しもべ」、「奴隷」ということばが合わさってできていることばです。ですから天使は、自分たちもあなたたちと同じように神の奴隷なのだということを明らかにしたのです。
そして私たちが教えられるのは、9節に「あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべ」だとあります。ここでこの天使がヨハネに言っていることは、あなたたちがこの神様のことばをしっかりと保護し、それを守り行っている、実践しているのと同じように、天使たちもそのように歩んでいることを明らかにしています。天使たちは、あなたと同じように神の命令に従順に従う者であると、神に仕える奴隷であるということを天使自身が告白しています。別の言い方をすると、この天使たちは継続して神様を崇めつつ、礼拝しつつ、そしてその命令に忠実に歩み続け、もっといえば完璧に従い続けているのです。それがこの天使たちです。この「堅く守る」という動詞も現在形を使っていますから、彼らは継続して神様を崇め続けている、継続して神様を礼拝し続けていると。我々と大きく違うところは、この天使たちはそれらを完璧に行っているのです。なぜかというと、よい天使たちには罪がないからです。彼らは喜んで心から神に仕え、そして神を礼拝し、神様に従順に従い続けている。その天使たちがあなたたちと同じように私たちも奴隷として、しもべとして歩んでいるのだと言うのです。
2.「礼拝を受けるお方」:ふさわしい唯一のお方
彼は「神を拝みなさい。」と言います。被造物を拝むのではなくて、それらをお造りになった創造主を拝みなさいと。これが私たちの礼拝を捧げる唯一の対象だと。この方だけが礼拝をお受けになるにふさわしいお方であると。
私たちはどうでしょう?きょう我々は二つのことを見てきました。主イエス・キリストの再臨が近いからこそ主の教えにしっかりと従順に忠実に従っていきなさいと。あなたはそのように歩んでおられますか?神様がこうしてみことばを通して示してくださるこの真理に対して、主よ、私はそのように歩んで行きたい、あなたが教えてくださっているこのみことばに私はきょうからまた忠実に、従順に従っていきたい、そういう願いを今皆さんはお持ちですか?神はそれを望んでおられる。この地上において神様に仕えることができるのは今だけです。仕えられない時がもうやって来るのです。私たちがこの世の生活を終えた時に、この世のいのちが終わった時に、その終わりを迎えるわけです。今生きているこの時にしか私たちは主に仕えることができない。あなたは従順に主に従い、そして礼拝者として生まれ変わったあなたはどんな時でも主を礼拝しながら、主のすばらしさをたたえながらこの方を崇め続けているかどうか。そういう生き方こそが主の再臨に備えた生き方であるとヨハネは教えてくれます。ぜひここにおられる信仰者の皆さんがそのようにしてイエス様にお会いする日を迎えることを心から勧めます。どうぞそのように歩んでください。その時に主ご自身が喜んでくださる。これは神様からあなたへの警告のメッセージです。信仰者の皆さん、目を覚ましなさいと。主の再臨が近い今、それにふさわしくきょうこの日を生きなさいと。どうぞそのように歩んでください。
《考えましょう》
1.「預言者たちのたましいの神である主」(6節)が教えていることは何ですか?
2.「この書の預言のことばを堅く守る者」(7節)の意味を説明してください。
3.この書の預言のことばを堅く守る者は、どうして「幸い」なのでしょう?その理由を説明してください。
4.きょうあなたが主から学んだことを、信仰の友と分かち合い、実践に励んでください。
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