メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 黙示録22:1-5
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ヨハネの黙示録22章、新約聖書の最後の章になりますが、お開きください。主イエス・キリストは彼の弟子たちに対して「私はあなたがたのために場所を備えに行く」と言われました。ヨハネは私たちにその場所がどんな場所なのか、どんなところなのか、そのことを教えてくれています。私たちがこの前の21章に入ったときに、今のすべてのものが滅ぼされて、神は新天新地をお造りになるということを見て来ました。
A.新天新地 21:1
B.新しいエルサレム 21:2-5
C.主の贖いの歴史の完結 21:6-8
D.聖なる都エルサレムの詳細 21:9-27
1.その特徴 9-11節
2.その外観 12-14節
3.その内容 22-23節
新天新地、天国とも言えるのですが、その都、首都となっているところが新しいエルサレムでした。そして、ヨハネはその新しいエルサレムについてかなりの説明を与えてくれました。その城壁について、大きさについて、そして、21章の最後のところで私たちが見たのは、その新しいエルサレムに住むすべての救いに与った者たち、あなたのことを言っているのですが、あなたが神の栄光の輝きの中に一切の不安から解放され、完全な平安をもって、また、完全な休息という祝福をいただきながら過ごしている姿です。そのことが21章の最後に記されていました。あなたはその神の祝福の中にあって、神を崇め誉め称えながら永遠を過ごすと、そのような約束を神はこの救いに与ったあなたに与えてくださっています。少なくとも、私たちはその日を待ち望みながら、その約束が成就されることを心待ちにしながら、今日生きることができます。確かに、イエスが言われたように、「私たちは死んでも生きる」のです。その先にすばらしい約束が主イエス・キリストによってなされているのです。
今日、私たちが見ていく22章、ヨハネは続けてこの新しいエルサレムについての説明を加えます。あなたが永遠を過ごす場所がどのような場所なのかを22:1-5で教えてくれます。22章のみことばを見ていきましょう。
E.聖なる都エルサレムの内部の様子 1-2節
ヨハネはここであなたが住むその永遠の住まいについて、また、そこに住むあなたについて、22章1-5節で教えるのです。確かに、新しいエルサレムについてはある程度の詳細を見て来ましたが、1-2節を見ると、特に、象徴的なもの重要なものが二つ記されていることに気付かされます。それらは「いのちの水の川」であり、もう一つは「いのちの木」です。これらは非常に重要な意味を持っています。
1.いのちの水の川 1節
1節「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、」、
天使がヨハネに対して、ヨハネを連れてこの新しいエルサレムのその中の様子をより詳細に示すのです。このエルサレムの町の中、都の中には大通りがあってその中央に川が流れているとヨハネは記しています。「いのちの水の川」と書かれています。でも、「川」というと私たちの近くを流れている川を思いますが、ここに出て来ている川とは私たちが今見ている川とは全く違うものです。私たちが知っている水循環によってできた川ではないのです。つまり、水が蒸発してそれが雨となってまた地上に戻って来て、それが流れて川になるという水循環、それによってできる川ではないということです。
なぜなら、この新天新地にはまず太陽がありません。海がありません。間違いなく、そこには湖もありません。すると、この川は私たちが見ている川とは全く違うものです。特別な川です。私たちが今まで見たこともない、ちょうど、この新しいエルサレムが私たちが見たことのない都であると同じように、この川も私たちが経験したことのないそのような特別なものだということ、私たちはそのことを先ず覚えておくことが必要です。この「川」についてヨハネは三つのことを教えています。
1)水晶のように光っている 1a節
つまり、水晶が光に当たるとキラキラと美しくその光を反射させるように、この川も神の栄光を妨げることなく輝かせているということです。というのは、21章の18節、また、21節にも、この新しい都エルサレムの大通り、また、この都自体が純金でできていること、しかも、透き通ったガラスのように神の栄光を輝かせていたとあるように、この新天新地においてはすべてのものが神の栄光をそのとおり現すのです。この川も神の栄光をそのとおりに輝かせて反映させていると、そのことを教えます。
2)神と小羊の御座から流れ出ている 1b節
この点から見ても私たちが知っている川とは全く違います。私たちが知っている川は水源があります。でも、この新しいエルサレムの川は神の御座から流れ出ているというのです。この「いのちの水の川」とは何を象徴しているのでしょう?それは「永遠のいのち」です。だから、この川が神の御座から流れ出るのです。この「御座」ということばは「神の主権」を表すことばです。ですから、川が象徴する永遠のいのちは、主権者なる神によって備えられ、その神によって私たちに与えられたものであるということです。救いのすべての主権は神にあるということをこの箇所は私たちに教えるのです。
思い出していただきたいのは、イエスが地上に来られたときに、イエス・キリストが人々に何を話しておられたのかということです?サマリヤの女と話をしていたときのことを思い出してください。彼女が考えていた「水」はH2Oでした。飲む水でした。ところがイエスはそれよりももっと大切な水のことを話されました。ヨハネの福音書4:13、14「:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」、これは罪からの救いのこと、永遠のいのちのことです。また、ヨハネ7:38でも「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と、同じようにイエスは救いのこと言っておられます。
ですから、イエスは救いのことをお語りになった。でも、それだけでなく、自分は「救いを与えることが出来る」ということを同じように語っておられました。「ですから、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。」(マタイ9:6)と書かれているように、奇蹟を行い病いの人をいやされたのです。イエスはただ永遠のいのちを与えますと言っただけでなく、奇蹟を行うことによって、その永遠のいのちを与えることのできるお方であることを明らかにされたのです。しかも、この救いに与っている皆さん、ヨハネの福音書が私たちに教えるのは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(15:16)と、つまり、救いの主権はだれにあるのか、だれがあなたを選び、だれがあなたに救いを与えてくれたのか?それは神だということです。
主イエス・キリストは信じる者に永遠のいのちを与える権利も、また、その力もお持ちだということを繰り返し人々にお話しになったのです。今、私たちがここで見ているのは、このいのちの水の川が神の御座から流れ出ていること、この永遠のいのちは主権者なる神が、私たち罪人に備えてくださり与えてくださったすばらしい恵みであることを表わしているということです。ウィリアム・ヘンドリクセン師はこのように説明します。「川が、神と小羊との御座『から』流れ出ていると言う場合、そこで強調したいのは、私たちの救いが神の主権的意志によってもたらされ、キリストの贖罪の血によって私たちのために獲得されたという事実である。」と。救いの一切は神があなたのために為してくださったものであること。あなたが良い人間だから神が救ったのではない、あなたが良いことをしているから神が救ってくださろうと気持ちを変えられたのではないのです。神は一方的に働きあなたは救われたのです。
そのことを私たちはこの黙示録の中でも見ることができるのです。次に進む前に、皆さんに見ておいていただきたいことは、「神と小羊との御座から出て」というこの箇所が言っていることは、この神の御座に父なる神もイエス・キリストもともに着座しておられるということです。主イエス・キリストは父なる神と同じ真の神だということです。神が二人おられるのではありません。一人だけです。しかし、イエスも父なる神も一人の神だということを明らかにしているのです。イエス・キリストの神性がここでもこのように記されているのです。
3)都の中央を流れていた 2節
さて、この川は2節の初めに「都の大通りの中央を流れていた。」と書かれています。水晶のように光るこの川、神と小羊との御座から流れ出ているこの川、この川は都の中央を流れていたと言います。ただ単に「中央を流れていた」と言うよりもそこにも意味があるのでしょう。恐らく、都の中央であるということは、この永遠のいのちこそ神の恵みのみわざの中心だということです。この永遠のいのちこそ神のご計画の中心だと。そして、二つ目にこの神こそすべての称賛の中心であるということです。この方だけが誉め称えられるべきだと言います。なぜなら、この方が私たちに一番必要な救いを備えてくださり、そして、私たちに与えてくださったからです。
そして、この川を見るときに、だれでもこの川に近づいていくことができます。私たちはいつでもその川のところに出て行くことができるのです。この「近づける」ことに関して、マスター神学校のドクター・トーマスは「このいのちを与える水に制限なく近づけることは、この住人は、いのちを永遠に楽しむことが約束されている。」と言います。私たちはその川に近づくことによって、いつでも出て行くことによって、私たちは主から与えられたこの永遠のいのちを、永遠に渡って楽しむことができるのです。私たちはそこにあってこの救いに与ったこと、罪の赦しをいただいたことを永遠に喜び、永遠に感謝し続けているのです。その川に近づけることによって、私たちはそのことをいつも思い出しながらそのことを感謝している、まさに、そのような様子がここに記されているのです。
これが最初に出て来た「いのちの水の川」です。もう少しだけ説明しておくと、普通、私たちは川を考えるときにどこかに流れて行き、どこかに貯水されていきます。この箇所はそのようなことが全く言われていません。だから、この川は私たちが今までに見たことのないものです。この新しいエルサレムにおいてこの川がどこかに流れ出て行くとは書かれていません。しかし、この都の中央をこの川が流れていると言うのです。
2.いのちの木 2節
2節「…川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」、皆さんの頭の中にこの様子を描いてください。新しいエルサレムが存在し、その都の大通りの真ん中に川が流れている、そして、その川は神の御座から流れ出ている、そして、その川の両側にいのちの木が植わっていると、情景を描けましたか?そのような場所だと教えるのです。
1)その本数 : この両岸の「いのちの木」の「木」は原語では単数です。そうすると、一本しかないのなら川の両岸に存在することは不可能だと思います。両岸に存在するには最低でも二本必要です。「いのちの木」と書かれていますが、実は、これは集合名詞を使っています。単数形で記されているのは集合体として扱っているに過ぎないのです。ですから、ここで言っていることは、一本だけでなく、いのちの木がたくさんあるということです。もう一度描いてみてください。
2)その実 :この木には「十二種の実がなり」と書かれています。聖書の中には様々な果実が出て来ます。例えば、ぶどう、ザクロ、オリーブ、アーモンド、いちじくなど、その木には12種類の実がついていると言います。どんな実がついているのかを敢えて説明しようとしているのではありません。言いたいことは、大変な祝福の中に私たちが入れられるということです。ジョン・マッカーサー師は「いのちの木は祝福を表す彼らによく知られた観念であった。」と言われます。黙示録2:7「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』、箴言11:30「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。」。
3)その収穫 : 続いて見ると「毎月、実ができた」と書かれています。「毎月」と言うと、私たちはひと月ずつに実がなっていくように思います。一年間十二ヶ月。でも、ここで言う「毎月」とは今私たちが言う「月」とは違うのです。なぜなら、太陽も月もないのです。新天新地に私たちが行くとき、そこには時間が存在していません。では、なぜ、このように「毎月」という表現が使われたのでしょう?それは擬人法を使っているのです。つまり、私たち人間に分かるようにこのような表現を使ったに過ぎないのです。
つまり、ここで言っていることは、この祝福は終わることがないということです。このいのちの木は十二種類の実を常に実らせている、それは止むことがないということです。そのことから、そこに住むすべての人たちは完全な充足を経験するという意味です。常に満ち足りている状態です。そのことをこうしてヨハネは私たちに教えるのです。
4)その効果 : しかも実だけではありません。葉のことも書かれています。「その木の葉は諸国の民をいやした。」と、恐らく、皆さんはこのことばを見て、なぜ、完全な状態にあって「いやし」が必要なのか?と思われるでしょう。「いやし」と言うと「病気から癒される」と使います。でも、この新天新地に入るなら、この新しいエルサレムに住むときに、私たちが病気を患うとか、死を経験するとか、そういうことは一切ないのです。それらのことから完全に解放されるのです。では、なぜ「いやし」が
必要なのか? この「いやし」ということばはどちらかというと「健康を与える」という意味があるこ
とばです。ある人は、ちょうど、私たちに元気を与えるビタミン剤のようなものだと言います。
ジョン・ワルボード師は「この語の語根は仕えるとか奉仕するという意味を持っている。」と言っています。こういう意味をもっているところから「健康を与える」という意味に理解するべきだと。また、言い換えるなら、木の葉は新しいエルサレムでの生活を楽しむことを推進させるものだ、そこにいてすべての人がもっとそこで喜ぶように、そこでの生活をもっと楽しむようにと、そのような役割をすると言います。もちろん、これがないと喜んでいないということではありません。もっと喜ぶようにと、その役割を為すということです。
この1、2節が教えることは、この新しいエルサレムにはいのちの水の川が流れ、そこにいのちの木があり十二種類の実を常に実らせ、私たちはそこで何一つ欠けることのない、何一つ足らないものがない、そういう中で満ち足りた永遠の日々を過ごすということです。今見ているこの光景は、どことなくエデンの園を彷彿させませんか?創世記2章を見ると、一つの川がこの園を満たすためにエデンから出て、そこから4本の川が分かれていくことが記されています。創世記2:10「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。」と。しかも、このエデンの園にはいのちの木がありました。アダムとエバが罪を犯したことによって、彼らはこのいのちの木の実を取って食べることを禁止されました。彼らが罪を犯したことによって彼らはいのちの木の実を食べることができなくなったのです。創世記3:22「神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」。
新天新地が神によって造られた後、この新しいエルサレムにあって、私たちはそのいのちの木からその実を取って食べることがいつでもできるようになったのです。まさに、アダムとエバがいた状態に私たちが戻されるのです。私はこれを見て思いました。そのいのちの木の実を食べないとどうなってしまうのだろう?と。私たちはもう永遠のいのちをいただいているのですから、その実を食べなくても私たちは永遠に生きる訳です。それを食べないと私たちはひもじくなって死んでしまうのか?そんなことはありません。恐らく、私たちはそれを食するのでしょう。そして、私たちはそのすばらしい完全な果実の実を食べて楽しむのです。食べないと死ぬとか、空腹を覚えるなどということは全くなく、ただ、私たちはそこにあって楽しむために神はそれを用意してくださったのです。すべてに満ち足りた楽しみの満ちあふれる喜びの満ちあふれる、そのようなところだと言います。
F.住人への祝福 3ー5節
3-5節にはそこに住む人々、住民への祝福が特に三つ記されています。エルサレムに住むことが約束された者たち、つまり、クリスチャンであるあなたに約束されている三つの祝福を見ます。
1.完全な世界 3a節
「もはや、のろわれるものは何もない。」とあります。最初の祝福は「完全な世界」です。のろわれるものがもう何一つない、そういう世界にあなたが招かれるということです。「のろい」は創世記3章の中に出て来ます。「のろい」が訪れたのは人間が罪を犯したことによってでした。創世記3:14-19「:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」、神がアダムに対して「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」と言われました。罪によってすべてがのろわれてしまったのです。この新天新地においては、また、この新しいエルサレムにおいてはのろわれるものが一切存在しない、罪に汚れたもの、聖い神の前にふさわしくないものは一切存在しないということです。すべてが聖いもの、すべてが完全なものだと言います。
千年王国という時代を学んだとき、それはすばらしい時代だということを見ました。でも、そのすばらしい千年王国も、実は、今私たちが見ているように完全ではなかったのです。なぜなら、千年王国においても人々は死んだからです。「…百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」(イザヤ65:20)と教えています。千年王国は確かにすばらしい、しかし、それはまだ完全でなかったのです。しかし、この新天新地においてはすべてが完全なのです。だから、ヨハネは「のろわれるものは何もない。」と言って、神の前にふさわしくないものは何一つ存在していないことを教えます。
2.完全な奉仕 3b節
3節の続きに「神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、」とあります。ここにあなたが新しいエルサレムにあって何をするのか、何をして永遠を過ごすのかが書かれてあるのです。ここです!この3節の終わりにわずかのことばでそのことが書かれています。
1)主に仕える
あなたは「神に仕える」のです。ここに「しもべたちは」とありますが、これは奴隷ということばを使っています。このしもべたちは神に仕える、実は、このような特権をいただくということです。なぜ、そのように言ったのか?この罪から救い出された私たち一人ひとりは神に仕える者に生まれ変わりました。かつての私たちは神ではなくてサタンに仕える者でした。そして、サタンに仕えていたから、私たちは永遠の滅びに至る者であったのです。言い方を変えるなら、仕えて来たサタンとともに永遠を過ごすことになっていたのです。でも、神はそこから私たちを救い出してくださった、神に仕える者として生まれ変わったのです。なぜ、今私たちが神に仕えるものとなったのか?私たちは永遠を神に仕える者として生きるからです。私たちは天国に行ってからそのような歩みをするのではないと何回も学んでいます。罪の赦しをいただいたその時にあなたは生まれ変わって、天国民としての新しい歩みが始まったのです。それ「は神に仕える」という歩みです。
私たちは神から救いをいただいたときに、特別な霊的賜物をいただいています。みなに例外なく、すべてのクリスチャンたちに与えられています。ということは、あなたはその賜物を用いて働くという責任があるということです。そして、あなたが神に喜んで仕えているときは、― 今そのような歩みをしておられると信じますが、― もしそうでなかったとしたら思い出してください。神に喜んで仕えているときは、間違いなく、私たちの心が一番喜んでいるときではありませんか?何があろうとなかろうと、健康であろうと病気であろうと、私たちが神と親しく交わりを持ち、神に喜んで仕えているときは、私たちの心は言いようのない喜びに満たされます。なぜなら、神に仕える者として私たちは造られ、神に仕える者として生かされているからです。そして、神に仕える者として永遠を過ごしていくのです。だから、特権なのです。この偉大な神に、すべてをお造りなった神に、すべてを支配している真の神に仕えることが出来る者としての新しい人生が始まったのです。
私たちは天において神に仕えるとありますが、どのように仕えていくのか、その仕えることについての詳細は記されていません。それしか書かれていません。私たちは何をするのだろう?と思います。「神に仕える」といってもどんなことをして仕えるのだろう?と。そのことは記されていないのです。なぜなら、それは知らなくていいことだからです。今のあなたはそんなことは知らなくてもいいのです。でも、今、あなたが知らなければならないことが実はあるのです。それは「あなたが地上でどのように生きるかが天においてどのように神に仕えるかを決定する」ということです。
そのことについてイエスが話しておられるので見てみましょう。ルカの福音書19章です。主人が十人のしもべたちを呼びます。そして、その十人のしもべたちそれぞれに1ミナを渡します。全員で10ミナです。「ミナ」というのは通貨の単位ですが、だいたい、100日間の賃金に価する金額です。
分かり易くこの価値を知るために一日1万円と計算すると100万円になります。これが1ミナです。1ミナがそれぞれに与えられた。何のために? ルカ19:13ー「:13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』」と。そして、主人が帰って来ます。こんなことがあります。「:15さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。:16 さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』:18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』:19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』」、十ミナもうけた者には十の町を治めるように、五ミナもうけた者には五つの町を治めるようにと、つまり、この報いはその人がどんな働きをしたのかに掛かっているということです。私たちは天でどんなことをしてどのように神に仕えるのか?それを心配するのではなく、今、私はどのように仕えているのかに目を向け、そのことを考えなさいということです。今、私たちが神に対して忠実であるなら、それにふさわしい報いが天に用意されているということです。
今、忠実でありなさい、今、地上に置かれているこの日を忠実に主に従って生きていきなさいという
ことです。1ミナ預かった二人は誉められました。 「あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、」です。神があなたに託されたものすべてに忠実であるなら、神はそれを覚えて、あなたが天に上がったときにそれにふさわしい報いを与えてくださるのです。そのことを今私たちはしっかり覚えなければいけないのです。天における奉仕、働きは今のあなたの歩みにすべて掛かっているということです。
2)主を礼拝する
また、「主に仕える」ということですが、この「仕える」ということばには「礼拝する」という意味があります。私たちは天に行って何をするのか?神に仕えると同時に、私たちは神を礼拝します。だから、私たちはこの救いに与ったとき、礼拝者として救われたのです。礼拝者として生まれ変わったのです。なぜか?クリスチャンはずっと神を礼拝する者だからです。そして、その人へとあなたは生まれ変わったのです。地上でもそのように生きて、天においてもそのように生き続けていくのです。
でも、私たちは地上にいるときには、神に仕えることにおいても神を礼拝することにおいても不完全です。皆さんが神のために一生懸命奉仕を始めたとして、そのとき周りを見渡して、自分と同じように奉仕をしていない人を見るとすぐに私たちは誤った思いを抱いてしまいます。「なぜ、自分ばかり…、なぜ、あの人は何もしないの…」と、そのような誘惑が確かにあります。悲しいことです。神のためにできるのであればそれを喜んでいたらいいのに、すぐに私たちは人と比較して、そして、様々な誤った思いを抱いてしまいます。神を礼拝するに当たってもそうではありませんか?こうして皆さんは神を礼拝するために集まって来られた。でも、礼拝の中で様々なことを考えてしまったりします。だから、私たちはこの罪のからだから解放されて栄光のからだをいただきたいのです。そのときに私たちは完全な正しい心をもって神に仕え、神を礼拝することができます。
この22章で言われている「神に仕える」ということ、正しい心をもって、罪から完全に解放されてこの神に仕え、神を礼拝する。しかも、この「仕える」という動詞は継続した働きを表わしています。ですから、私たちは継続して仕え続け、継続して神を礼拝し続けるということです。こうして私たちは永遠を過ごすのです。
どんなところに行くのか?そして、そこで私たちはいったい何をするのか?本当に短いことばですが、そのことをヨハネは私たちに教えてくれました。
3.完全な交わり 4ー5節
4-5節では「完全な交わり」について教えます。完全な世界に住むことを教え、完全な奉仕をすることを教え、最後に、完全な交わりをすることを教えています。4-5節「:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」。
1) 主を仰ぎ見る 4a節
「神の御顔を仰ぎ見る。」とあります。私たちはこの新しいエルサレムにあって、私たちの神を実際に仰ぎ見ることができます。
・モーセはできなかった : 旧約の時代、「神の御顔を仰ぎ見る。」、それは不可能でした。あのモーセでさえも神を直接見ることはできなかった。出エジプト記33:20、23をご覧ください。「:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」「:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」、なぜか?お分かりでしょう。罪です。どんなにすばらしい人間でも、モーセのようなすばらしい信仰者でも、残念ながら、罪を持っています。その人は神を見ることができないのです。
・主イエスはそれが可能であることを教えた : では、私たちは絶対に神を見ることができないのでしょうか?イエスはこう言っています。マタイ5:8「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」と。私たちに希望があることを言われました。ヘブル人への手紙の著者は12:14で「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」と言っています。詩篇11:7にも「【主】は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」と書かれています。つまり、確かに、罪をもった私たちはそのままでは神を見ることはできないけれども、しかし、いつか私たちは神を見ることができるということです。
・ヨブは神にお会いして、御顔を拝する日が来ることを確信していた
そのことをヨブはこのように言っています。ヨブ記19:25-27「:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。:27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内
なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」と。ヨブは知っていました。いつの日か私は自分の目で神を見
る、そういう日が来るのだと。その成就を今私たちは見ているのです。私たちは私たちのすべてをお造りになった神、私たちを罪から救い出してくださったイエス・キリスト、その神を実際に目の当たりにすることができる、その日が来るということです。私たちは神の御顔を仰ぎ見ると。こうして神と特別な交わりを私たちは楽しむことができる、神の御顔を見て交わりを楽しむことができるのです。
2)主の名が額についている 4b節
「また、彼らの額には神の名がついている」と、これは彼らが神に属する者であることを示しています。この新しいエルサレムにいる者たち、彼らは神に属する者であると言うのです。思い出してください。患難時代には人間には選択が出て来ました。獣のしるしを右手の甲か額に付けるかどうかによって、神に背を向けるのかそれともそれを拒むのかという選択です。獣のマークを付けないと物を売ったり買ったりできなくなります。でも、そのマークを付けることは自分は獣に属しているということを意味したのです。この人たちは額に獣のしるしではなくて神の御名が記されているのです。つまり、彼らは神に属する者だということを表わしているのです。だから、私たちはこの神と親しい交わりを持つことができるのです。出エジプト28:36-38にはこのように記されています。「:36 また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『【主】への聖なるもの』と彫り、:37 これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。:38 これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が【主】の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。」と。
3)主とともに治める 5節
5節には「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。」とあり、黙示録21:22-26に記されていることが再びここに記されています。そして、その上に「彼らは永遠に王である。」と書かれています。私たちは王であるイエス・キリスとともに、王である神とともにすべてを治めると言うのです。先ほども見たように、では、だれを治めるのか?そのことは書かれていません。だれが私たちに仕えるのか?そのことも書かれていません。なぜなら、それは私たちは知る必要がないからです。しかし、神の約束というのは、神の奴隷である私たちを神はこのように祝してくださって、神とともに王としてすべてを治める、そのような特権に与らしてくださったのです。こんなすばらしい交わりを神は私たちに約束してくださったのです。
こうして私たちが見たときに、私たちが約束された永遠を過ごす場所、その永遠の住まいにおいて私たちに約束された祝福の一つ一つを見るときに、いったい私たちのだれがこれを受けるにふさわしいと言うことができるでしょう?罪の赦しも、このすばらしい天国にいて新しいエルサレムにいて神が約束された祝福、なぜ、神は私たちにこれを約束してくださったのでしょう?なぜ、私たちのような者がこんな祝福に与るのでしょう?救いは神が一方的にあなたに与えてくださったものです。少なくとも、私たちが神にお会いするときに最初に聞いてみたいのは「神さま、なぜ、私のような者にここまで祝福をくださるのですか?なぜ、こんな私のためにこのようなすばらしい救いを備えてくださったのですか?なぜなんですか、神さま?」です。
なぜなら、ここに約束されている祝福は、どれを取っても私たちが受けるのにふさわしくないものばかりだからです。でも、神はこれをあなたに約束してくれたのです。このすばらしい永遠の祝福を神はあなたに約束してくださったのです。あなたはこの神にどのように答えて生きていきますか?どのようにこの神を崇めて、この神に従っていくのか、これは私たちの責任です。神が何をなさったのか、何をしてくださったのか、聖書を通してこのように明らかに示してくださった。この神の恵みに対して私はどう応えていくのか、それがこの地上における私たちの信仰生活なのです。どうか、しっかりと主の恵みを覚えて私はどう応えていくのか?その答えを出してください。そして、あなたの歩みを通して「神さま、私はあなたに感謝します。あなたの恵みに心から感謝しています。私はあなたを心から愛しています。」と、そのことを証する歩みをもって、神にふさわしい感謝と賛美をささげ続けていきましょう。私たちは神を礼拝し、神に仕える者として生まれ変わったのです。それらしく生きましょう。
《考えましょう》
1.新しいエルサレムについてヨハネが教えてくれたことを記してください。
2.主に仕えることが喜びと感じなくなる原因は何だと思われますか?
3.主が私たちクリスチャンに約束された天での祝福を記してください。
4.あなたが教えられたことをだれかと分かち合って、実践のために祈り合ってください。
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