メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: ガラテヤ6:14-16
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文書: メッセージを読む
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「十字架のほかには誇りはあらざれ この世のものみな 消えなば消され」と歌ったのは、讃美歌の父と言われるアイザック・ワットです。讃美歌142「栄えの主イエスの」の中にそのように記されています。パウロはこの「ガラテヤ人への手紙」をガラテヤの諸教会に送りました。特に、今から私たちが学ぼうとしている6章の中でパウロがしたことは、クリスチャンたちに「あなたの誇りとするものはいったい何なのだ?」と問いかけるのです。あなたにとって十字架が最も誇りとなっているのかどうか?と読者たちに問い掛けるのです。この6:14から見ていきますが、その前に少し説明します。
「ガラテヤ人への手紙」というと、多くの人はガラテヤという地にある教会への手紙と思うでしょう。でも、このガラテヤ人への手紙がパウロの他の書簡と違うところがあるのです。この手紙はある一つの教会にだけ宛てて送られたものではないということです。というのは、1:2にこのように書かれているからです。「および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。」と。実は、パウロとバルナバが第一次宣教旅行を行ったときに、現在のトルコの南を旅して、いくつかの町で教会が誕生していきます。ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベという町々で教会が誕生します。恐らく、これらの教会にパウロは手紙を送ったものと思われます。
そして、これらの教会にある問題が起こって来ました。そこでパウロは今言ったように「あなたは十字架を誇りとしているのかどうか?」ということを問いかけるのです。これらの教会に偽教師たちが入り込んで来たのです。彼らは「私たちの最も誇りとするべきものは律法だ」と教えたのです。特に、その中でも彼らは「割礼」を強要しました。割礼を受けなければ救いに与らないかのように、彼らはそのような間違った教えを人々に伝えたのです。
ですから、この6章を見ると、12節に「あなたがたに割礼を強制する人たちは、…」、13節にも「…それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、…」と書かれています。こうして偽教師たちは「イエス・キリストを信じるだけではだめであって、こういった律法を守らなければならないのだ」とこのような教えをしていたのです。このような悪影響を教会が受けていたために、パウロは真理を伝えようとするのです。もちろん、このような偽教師たちの影響はこの地域だけではありませんでした。使徒の働きを見ると、古代シリヤのアンテオケという町、この町から宣教が為されていきますが、この町で初めて「クリスチャン」と呼ばれたとも記されています。使徒11:26「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」。異邦人の最初の教会が誕生した町です。現在では、トルコの南部のアンタキヤという町で地図にも載っています。実は、このアンテオケでもこの教師たちがこのような教えをしていたと使徒15:1に書かれています。「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。」と。ですから、偽りの教師たちはこうして神の真理を曲げて教会に混乱をもたらしたのです。
感謝なことに、この後何が起こるのか?このような教えが出て来て混乱が生じたゆえに、十二使徒たちはエルサレムに向かいます。そこでエルサレム教会の長老たち、教会のリーダーたちといっしょになって話し合います。彼らは「人はどうすれば救われるのか?」という「救い」について話し合います。これを「エルサレム会議」と呼んでいます。そして、その会議において「救いはキリストを信じる信仰のみによって与えられる神の恵みである」という決議が引き出されます。そして、人々はこのメッセージを携えて出て行く様子が使徒15章に書かれているのです。ですから、結果的に「どうすれば救われるのか?」「聖書は何を教えているのか?」ということを人々が考える機会をもたらしたのです。
しかし、偽りの教師たちはこのような誤った働きを止めることはありませんでした。ガラテヤ人への手紙を見て、6:13には彼らがなぜこのような誤った教えをもたらしたのか?いったい、彼らが狙いとしたのは何だったのか?そのことが記されています。6:13「なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」、この偽教師たち、彼らはユダヤ教徒ですが、彼らが望んでいたのはここに書かれているように「あなたがたの肉を誇りたいため」です。どういう意味か?彼らが考えていたことは「救われていない人たちをユダヤ教に改宗させること」でした。また、救われているクリスチャンたちをも惑わしてユダヤ教に改宗するようにと、そのことを競っていたということです。「あなたがたの肉を誇りたいため」と、つまり、どれだけの人を改宗させたか、彼らはそれを競っていたのです。そのことを13節で教えているのです。
この当時、このようなことが為されていたのです。そこでパウロは、彼らがしていることのその愚かさとともに、イエス・キリストの十字架の偉大さを明らかにしようとするのです。14節の初めは「しかし」ということばで始まっています。この接続詞は、肉を誇っていたユダヤ教徒たちとパウロ自身とを対比しています。ユダヤ教徒たちは自分たちは割礼を受けている、律法を遵守していると自分たちの行いを自慢し、そうでない人たちを見下してさばいていたのです。これこれのことをしているから自分たちだけは正しいという考えは危険です。しかし、私たちは注意していなければそのような過ちに陥ってしまいます。パウロは「我々は律法を遵守しているのだ」と言うこのユダヤ教徒に対して、「割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。」とはっきり指摘しています。
そしてパウロは、彼らは「自分は何をしているのか」という外見だけを誇っているが、私はそれよりももっとすばらしいものを誇ると言います。彼らが言っている最高のもの、それよりもはるかにすばらしいものを私は知りそれを誇っていると。そのことをこの14節から教えようとするのです。いったい、パウロは何を誇っていたのか?14節「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」と、私の一番の誇りは主イエス・キリストの十字架であるとパウロは言うのです。彼はただの十字架を誇ったのではありません。「主イエス・キリストの」と特定しています。あのイエスが架かられた十字架、あれが私の最も誇りとするものであると言います。そして、14節から16節に、このイエス・キリストの十字架がどうして彼にとって最高のものなのか?そして、このイエス・キリストの十字架をなぜクリスチャンである私たちが誇るべきなのか?このイエス・キリストの十字架がどうして私たちにとって最も重要なもの、価値あるものなのかを説明していきます。
☆主イエスの十字架が偉大である理由
イエス・キリストの十字架はこのような力をもっているゆえに私たちはそれを誇りとするのだと、パウロはそのことを教えます。
1.世に対する勝利をもたらす 14節
14節の後半に「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」とあります。つまり、イエス・キリストの十字架はこの世に対する勝利、もっと言えば、この世の誘惑に対する勝利、罪に対する勝利、それを与えてくれるものだと言うのです。今から説明していきますが、この14節でパウロが言わんとしたことは「生まれ変わったクリスチャンたちとこの世との新しい関係」についてです。もう皆さんお分かりのように、「この世界」と言ったとき、それは地理的な世界のことではありません。それはサタンによって支配されている世界のことです。つまり、この世の体制、制度、流行、思想、価値観、そして、あらゆる宗教です。それらはすべてサタンの影響を受けたものです。人間が考え出したもの、人間が愛するものはすべてサタンの影響を受けているのです。ヨハネはこのように言っています。Ⅰヨハネ5:19「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」と。この世は悪い者の支配下にあると言っているのです。悪い者とはだれですか?サタンでありそれに仕える悪霊たちです。それらが支配しているのです。
実は、このことについてサタン自身がその口でそのように言っています。彼自身とこの世との関係について興味深いことを告白しています。皆さんがよく知っておられるところです。イエス・キリストがサタンによって誘惑を受けた時です。マタイ4:8、9「:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」、この並行箇所であるルカの福音書4:5、6には「:5 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、:6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」とあります。「それは私に任されているので、」と言います。
ですから、私たちがこの世の様々なものを見るときに、たとえば、それは音楽かもしれません。ベストセラーで並ぶ本、テレビ番組、映画かもしれませんが、恐らく、皆さんも気付かれているように、それらは私たちに働いて私たちを神から遠ざけていきます。彼らが伝えたいメッセージは神を敬うことではなく、神に逆らって罪の中を生きることを勧めるのです。いったい、これらの背後に存在しているのはだれなのか?です。いったい、だれがそのようなアイデアを与えるのか?聖書が私たちに教えるのは「それはサタンだ」ということです。そして、私たちは生まれながらにその力の虜になって、その束縛から逃れることができません。生まれながらにこの世の罪に汚れにどっぷり浸かってしまって、そこから抜け出すことができないのです。そうして私たちは生きて来たのです。しかし、このみことばが私たちに教えてくれることは、イエス・キリストの十字架によって、そのような束縛から私たちは自由にされる、解放されるということです。
14節の後半に「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」とあ
りますが、何を言っているのか?皆さんの理解を助けるために口語訳の聖書を読みます。この箇所はこのように訳されています。「この十字架につけられて、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまったのである。」と。お互いがお互いに対して死んだということを言っているのです。ここで、「世界は私に対して十字架につけられ、」と言っています。これまで私を支配して来たこの世が十字架につけられて死んだと言っているのです。そして、死ぬことによって、これまで私に対してもっていた束縛力、拘束力のその力を失ったと言うのです。この世は死んだからです。これまで私たちはこの世の力の虜にされていたのです。でも、この世が死んだ以上、その束縛から私は解放されるということです。
ですから、イエスキリストの救いに与った私たちは神が喜ばれる新しい生き方を実践できるのです。救いに与るまでの私たちは、この世の流れに従って神に逆らい続ける生き方しか選択できなかったのです。これが罪の奴隷であった私たちの姿です。しかし、イエス・キリストの十字架はその束縛から私たちを解放してくれるのです。なぜなら、私たちを虜にしていたこの世は死んだからです。神が望んでおられる正しい生き方を実践することが可能になったということです。
また、同時に、「私も世界に対して十字架につけられた」とは、この世界を愛して来た私は死んだということです。この世を愛してこの世の流れに従って来たこれまでの私は死んだのです。そして、死ぬことによって、本当に愛するべきお方はだれなのかを見出したのです。ですから、もし、この世界が私を見るとするなら、十字架に架かっている私を見るのです。つまり、これまでのこの世界を愛して来た私の死のことです。私がこの世界を見たとするなら、そこには十字架に架かっている世界があるのです。これまで私を虜にして苦しめて来た世界の死です。
ですから、パウロが言わんとしていることは、私たちは新しく造り変えられたということです。世界が一変したのです。イエス・キリストの十字架は私たちを虜にしてきた罪の力から解放する力をもっているのです。だから、私たち信仰者はこの地上にあって神に喜ばれる歩みを為すことができるのです。もちろん、私たちはイエス・キリストを信じた後の信仰の歩みは失敗の連続であることを知っています。私たちはしたいことよりもしたくないことの選択を繰り返しています。しかし、私たちの心の中には「主に喜んでいただきたい、主のみこころを行っていきたい、主の栄光を現していきたい」という強い思いがあります。そのようにして私たちは生きています。今までとは違うのです。罪に支配されていたところから救い出されて神を喜ばせる生き方を失敗しながらでも実践していく、そのような者へと生まれ変わっているのです。まず、そのことをパウロは教えるのです。だから、十字架は私の誇りなのだと言うのです。
2.滅びからの救いをもたらす 15節
二つ目に、十字架は滅びからの救いをもたらすと言います。永遠の滅びから永遠の地獄からの救いです。15節には「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」とあります。パウロがここで言っていることは、このイエス・キリストの十字架には永遠の滅びから救いをもたらす力があるということです。罪の赦しを与える力があると。ユダヤ教徒たちは律法を守る行いに救いがあると信じていました。しかし、考えなければいけません。本当に律法を守り行うことによって救いに与るのかどうかです。確かに、人間にはいろいろなことを信じる自由があります。でも、考えるべきことは、自分が信じるものが真実であるかどうかです。ユダヤ教徒たちは律法を守り行う、その行いが救いへと導くと信じそのように教えていたのです。しかし、聖書は私たちに答えを与えてくれています。行いによって救いに与る人は一人もいないと。
◎ユダヤ教徒の大きな間違いとは?
1) 彼らは律法を守れると考えていた
確かに、彼らは自分たちの行いを見て「私たちは他の人たちに比べてはるかに優れている。このような行いをしているから。」と自負していました。しかし、私たちが知っていることは、主イエス・キリストを除いて律法を完璧に守れる人はこれまでもいなかったし、これからも存在しません。なぜなら、ヤコブはこのように言っているからです。ヤコブ書2:10「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」と。99%守っていても1%破ったならそれは律法を犯したことになると言うのです。つまり、神が要求しているのは99%ではありません。100%です。
100%聖い正しい神が私たち人間に要求するのは、同じように100%聖く正しくあるということです。そんな人はどこにもいません。彼らはそのことに気付いていないのです。自分たちは守り行えると思っていたのです。「…善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:12)とパウロが言った通りです。すべての点において聖い人などどこにも存在していません。イエス・キリストを除いて…。でも、彼らは守れていないのに守っていると思っていたのです。それが大きな間違いです。
2) 彼らは律法が与えられた目的をはき違えていた
何のために律法が与えられたのか?そのことが正しく分かっていなかったのです。救いを得るために
律法が与えられたのではなく、救いが必要であることを悟らせるためだったのです。律法が与えられたのは、私たちが神の命令に背いた者であること、罪人であることを私たちに悟らせるためです。神はもうご存じです。私たちがそのことに気付いていないのです。ですから、パウロがローマ3:20で「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」と言う通り、行いによって救いを得ることは不可能であると、そして、「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」と言います。律法を守ろうとしてもそれを守ることができない自分に気付くのです。神が要求しておられる100%聖い正しい状態に、自分はどんなに努力しても達し得ないことに気付くのです。そのために主は私たちに律法を与えてくださったのです。
彼らはそのことが分かっていなかったのです。ユダヤ教徒たちは割礼を施すことを救いの条件に加えていました。そこで、パウロはそれよりもっと大切なことがあると教えたのです。15節「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。」と。パウロ自身も割礼を受けていました。もともとユダヤ教徒だからです。でも、彼は「そんなことはどうでもいい。それは救いとは無関係だから。大事なことは新しい創造だ。」と言います。もし、割礼を受けること、ある律法を守ることによって救いを得るのなら、パウロは「割礼を受けることは大事です。救いを得るために必要だから。」と言うでしょう。でも、パウロは割礼を受けていようと受けていまいとどちらでもいい。それによって救いを得ることはないからと言うのです。一番大切なことは救いを得ることです。こうして、パウロは、律法が割礼が救いとは全く無関係だということを明らかにするのです。
私たちの周りにもこのユダヤ教徒たちと同じような考えをもっている人たちがいます。徳を積めば…、善行によって、先祖を大切に敬えば、いい人間であり続ければ、最終的に天国に行けるのではないかと…。残念ながら、聖書はそんなことは教えていません。みことばが教えることは「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)です。聖書が教えることは、イエス・キリストだけが私たちを罪から救ってくれる唯一の救い主です。なぜなら、イエス・キリストだけが十字架で死んでくださったからです。私たちの身代わりとなって死んでくださった唯一のお方だから、この方だけが私たちに救いをもたらすことができるのです。だから、パウロは主イエス・キリストの十字架を誇ったのです。私の身代わりとなって十字架で死んでくださったあの十字架、その犠牲によって、信じる私の罪は赦される。そして、パウロは赦されたのです。だから、彼は十字架を誇ったのです。
3)新しい歩みの力をもたらす 16節
なぜ、十字架を誇るのか?三つ目の理由は「新しい歩みの力をもたらす」からです。16節に「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」と書かれています。「この基準に従って進む人々、」の「基準」は「信条、ルール、規準」という意味をもったことばです。つまり、パウロはここでどういう人々が神から祝されるのか?それは、神の教えに従って歩む人であると言います。皆さんもそうでしょう?神のことばである聖書は私たちにどうすれば罪の赦しを得ることができるのかを教えてくれた。それを私たちは信じたのです。その教えに従って歩んだのです。
そして、それで終わったのではありません。救いに与った私たちはこの後この地上に置かれている間、神の栄光を現すために生きています。そのための教えが聖書の中に溢れています。ここに一人の人がいて、その人は神が教えてくださる聖書の教えに従い救いをいただき、そして、聖書の教えに従って神の栄光を現し続けている、そういう人が祝福に与ると言っているのです。皆さんはそのように歩んでおられます。
皆さんに注目いただきたいのですが、16節に「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、」と書かれていますが、日本語訳をされた先生方はここに付いている接続詞を「すなわち」と訳されました。「すなわち」という訳をした場合、ここには二つのグループではなくて一つのグループが存在していることを教えていることになります。「神のイスラエル」という一つのグループです。では、「基準に従って進む人々」とはだれのことですか?これは「教会」のことです。つまり、私たちのことです。建物ではありません。イエス・キリストの救いを信じてその救いに与った者たちです。ですから、この訳ではその人たちが神のイスラエルであるということになります。
しかし、この接続詞は「すなわち」ではなく「また」と訳すべきです。ギリシャ語のこの接続詞には「すなわち」も「また」もどちらの意味ももつことばです。ここでは「また」と取るべきです。その理由を三つ挙げます。
◎「また」と取る理由
(1)「上に」という前置詞が付いている :
「すなわち」の訳の場合は「神のイスラエルの上に」と「上に」という前置詞が「神のイスラエル」にだけしか付いていません。でも、原語では「この基準に従って進む人々の上に、」と「神のイスラエルの上に」と「上に」という前置詞が二ヶ所に付いている
のです。なぜ、両方に付いているのか?一つのグループではなくて二つのグループがあるからです。
(2)イスラエルということば :
新約聖書に68回出て来ますが、すべてユダヤ人かイスラエルの土地を指します。教会を指したりはしません。
(3)イスラエルの人々の中に二種類の人たちがいること :
それはイエス・キリストを信じて救いに与った人たちとそうでない人たちです。救いに与った人たちはまさに「神のイスラエル」、「救いに与ったイスラエル」と呼ぶにふさわしい者たちです。
ですから、この16節が言わんとしていることは、教会とイスラエルは一つではなく別のものであるということです。そして、パウロはこの中で、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、救いを信じたすべての人たちに神からの祝福があると、そのことを教えるのです。基準に従って歩んで来た人々である教会の上に、イエス・キリストの救いを信じたユダヤ人である神のイスラエルの上に、双方の上に神の祝福があると言うのです。
◎その祝福とは? 16節の続きに「平安とあわれみがありますように。」と書かれています。
「平安」 :
これは「罪を赦された人だけが得た神との新しい関係」を意味しています。パウロはこのことをローマ5:1でこのように言っています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と。神に敵対していた私たち罪人が救いに与ることによって神と和解することができた、神との平和を持つようになったのです。新しい関係です。神の子どもとしての歩みが始まるということです。ですから、この「平安」ということばはローマ5:1では「平和」と訳しています。同じギリシャ語が使われています。そして、この平和の神は信じた私たちをその後神の平安によって私たちを守り導いてくれるのです。今、その祝福をいただきながらあなたも生きておられるはずです。もちろん、条件があります。この神の教えに従って歩んでいくなら、あなたにはこの約束が常に与えられ続けるのです。救いに与ったあなたはこの地上で神の平安をいただきながら歩み続けることが可能になりました。
「あわれみ」 :
実は、これこそ私たちの罪が赦された理由です。神があわれみのお方だから、私たちの罪は赦されたのです。私たちが今この救いを楽しんでいるのは神があわれみ深いお方だからです。神が一方的なあわれみをもってあなたの罪を赦し救いへと招いてくださったのです。でも、神のあわれみはそこで終わったのではありません。救われた者が新しい歩みを継続するために必要な力、必要な助けを与え続けているのです。ユダヤ教徒たちは律法を守ることによって成長できると信じていました。しかしパウロは、信仰者として生きる力は神が与えてくれると言います。ガラテヤ2:20をご覧ください。「私はキリストとともに十字架につけられました。…」、これは救われた者たちのことです。神に逆らって来た私たちはもう死んだのです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」、これが私たちクリスチャンです。罪赦されたあなたのうちには神がおられるのです。「いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」、その神の助けによって私たちは信仰生活を歩み続けるのです。
皆さん、神があわれみの神であることをうれしく思いませんか?なぜなら、私たちはどれ程神の前に罪を重ねているでしょう?でも感謝なことに、私たちの神はあわれみの神ですからその罪を赦し続けてくださっています。日々の生活でもそうです。あなたを愛してくださっている神はあわれみをもってあなたに接してくださっています。私たちが自らの罪を告白するなら神は何度でも赦し続けてくださる。それが私たちの神です。罪の深みから、永遠の滅びに向かっていた私たちをそこから救い出してくださったのです。そのあわれみの神はあなたを助け、あなたが神に喜ばれる歩みを為していく力を与え続けてくださるのです。
だから、パウロは神に喜ばれる歩みをしていました。神に喜ばれるために一生懸命主に仕えていました。でも、自分のことを自慢してはいませんでした。神の助けによって神の恵みによってそれが可能になったということを教え続けています。私たちも同じです。神に喜ばれる信仰生活を歩み続けていくために必要なのは神の助けです。その助けはあなたに与えられ続けるのです。問題は、私たちがそれを求め続けて、求めながら歩んでいくかどうかです。
パウロがなぜイエス・キリストの十字架を誇りとしていたのか?この十字架によって私たちは罪の束縛から解放されるその力があるからです。イエス・キリストの十字架は私たちを罪から救い出してくれる。永遠の滅びから救い出してくれる。そして、日々の信仰者としての歩みにおいて必要な力を与えてくれる。だから、彼は誇ったのです。
しかし、ユダヤ教徒たちはどうでしょう?もう一度、ガラテヤ6:12を見てください。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」、つまり、この箇所が私たちに教えていることは、十字架が原因で起こる様々な迫害を彼らは避けていたということです。イエス・キリストのことを語ったならいろいろな問題が生じる、だから、語らないでおこうと。このように生きていたのです。まさに、これは十字架を恥としていることです。なぜ、彼らはこのような生き方ができたのか不思議です。恐らく、彼らは十字架のすばらしさを全く知らないのです。もしかすると、ある人たちはそれを忘れてしまっているかもしれません。このように生きている人たちにどうして神の祝福が与えられるでしょう?先ほどから見て来ているように、必要なことは、私たちがこの神の教えに従い続けていくことです。そのときに、神が喜び神が祝福を与え続けてくださるのです。
あなたはいったい何を一番の誇りとして歩んでいますか?私たち信仰者が覚えておかなければいけないことは次のことです。「私は必ず主の前に立つ」ということです。ルカの福音書9:26をご覧ください。「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」、あなたがイエスの前に立つときに主は何と言われるのか?そのことを私たちは考えながら今日を生きなければなりません。
パウロはイエス・キリストの十字架を誇りとして生きていました。これが私の喜びだと言いました。というのは、この「誇り」ということばは新約聖書では、ローマ書5:2、3、4以外はすべて「誇り」と訳していますが、この箇所だけは「喜び」と訳しているのです。パウロは十字架を誇っていた、十字架が私にとって最もすばらしい喜びであると言っていたのです。だから、パウロはこのように言うのです。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と。イエス・キリストの十字架を誇り一番喜んでいたパウロは、それを生き方をもって示しました。彼は福音を恥じなかった。彼はすべての人々に福音を語り続けたのです。これが十字架を誇る人の生き方です。
信仰者の皆さん、あなたの歩みはどうでしょうか?そのように歩んでおられますか?あなたを罪の束縛から解放してくださったイエス・キリストの十字架。あなたを永遠の地獄から救い出してくださったイエス・キリストの十字架。あなたの信仰者としての新しい歩みに日々力を与えてくれるイエス・キリストの十字架。このイエス・キリストの十字架はあなたにとって最も大切なものなのかどうか?あなたが一番に誇るものなのかどうか?ぜひ、そのことをお考えください。パウロは言います。「私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない。これが私の誇り、これ以外の何物もこの十字架に及ばない。」と。そのような信仰者として歩んでいきましょう。なぜなら、イエス・キリストの十字架は、パウロに働いたのと同じように私たちにも働いてくださっているからです。感謝をもって、十字架を見上げて、福音のメッセージをしっかりと伝えていきましょう。
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