メッセンジャー: 成田宜庸
聖書箇所: ヘブル12:5-11
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
きょうは皆さんとともにヘブル12:5-11を学んで行きたいと思います。
前回、私たちはこの12:1-4をともに学び、私たちを愛して忠実に従われたイエス・キリストのことを見ました。
① イエス・キリストの十字架
a.罪人たちの反抗
12:2に「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、」と書かれています。みことばが教えるように、イエス・キリストの十字架は罪人たちの「反抗」でした。「反抗」というギリシャ語の意味する所は「敵意」です。この「反抗」の頂点があの十字架でした。マタイはマタイ16:21にイエス・キリストのことばとして私は十字架に架かる、このような受難の予告を記しています。また、マタイ27章には人々のさまざまな「反抗」のことを記しています。
b.だれのために
あの十字架はだれのためにあったのか――。パウロはローマ5:8-10で「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」と述べています。イエス・キリストは私たち罪人のためにあの十字架を忍ばれ、イエス・キリストは私たち罪人のためにあの十字架で血を流されたのです。
② 私たちの信仰における戦い
著者はまた4節で私たちの信仰における戦いについても書き記しています。救われた者、キリスト者となった者たちにもさまざまな戦いがあります。それは内なる戦いであったり、外なる戦いです。
内なる戦いは内に潜む罪と肉の欲との戦いです。それは皆さんがよくご存じです。パウロはローマ7:19で自分のことを「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」と言っています。こういう戦いが実際に私たちの内にある、これは現実のことです。
また私たちには外なる戦いもあります。それは外から来る迫害や困難、苦しみです。Ⅱテモテ3:12で「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とパウロは述べています。私たちには内なる戦い、外なる戦いがあります。著者はここで、しかし、私たちクリスチャンはこの戦いでまだ血を流したことがありませんと教えています。ヘブル書の著者は「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と12:4で述べています。私たちはいのちが取られるような局面にまだ出会っていないと教えます。
☆ 私たちを愛するがゆえに、神は私たちを懲らしめられる
そして、きょう私たちは5-11節を通して、神が、主が私たちをどのように取り扱おうとしているのかを一緒に学んで行きたいと思います。私たちを取り扱う私たちのお父様の根本をなすものは愛です。私たちを愛するゆえにお父様は私たちを懲らしめられるとこの後教えています。きょうこの箇所で一番大切なことばを最初に学んで行きたいと思います。それは「懲らしめ」ということばです。これはギリシャ語で「パイデイア」ということばが使われているのですが、「訓練」とか「有益な訓練」、「教育的な訓練」という意味です。当時のユダヤ教において、父親は子どもたちを訓練して子どもたちによい振る舞いを教えるという役目がありました。父親はその訓練の手段の一つとして、子どもをむち打つことも認められていました。この「懲らしめ」には二つの面があります。一つは「矯正する」ということです。誤り、あるいは欠点を正して直すことです。そしてもう一つの面は、「罰を加える」、「懲罰」という面です。「懲らしめ」ということばを日本語の辞書で引くと、ほとんどの説明は「懲罰」に関してです。「矯正する」という説明をしているものは私が調べた中にはありませんでした。
この「懲らしめ」に使われているギリシャ語は、ほかの聖書の箇所では違う日本語に訳されています。エペソ6:4「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」、ここに使われている「訓戒」ということばが同じことばです。またⅡテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」の「訓練」に「懲らしめ」ということばが使われています。箴言13:24「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」、また箴言22:15「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。」、また申命記8:5「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを、知らなければならない。」で同じことばが使われています。
この「懲らしめ」ということばは、確かに「矯正」と「懲罰」という二つの面があるのですが、これから私たちが見て行く「懲らしめ」ということばの持つ意味は、「矯正する」、「訓練する」という意味合いのことばとして使われています。
A.懲らしめの動機
1.主は愛する者を懲らしめられる 5-6節
まず最初に、この霊の父の「懲らしめ」の動機を考えてみたいと思います。5-6節をお読みします。「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』」。あなたがたはこの主のことばを忘れていませんかと言って著者は箴言3:11-12を引用しています。「主はその愛する者を懲らしめ」られる、これが霊の父の「懲らしめ」の動機です。
1)励ましとして 5節
5節に「この勧めを忘れています」と、「勧め」ということばは「パラクレーシス」というギリシャ語が使われています。このことばには「励ます」という意味もあります。恐らくこの「パラクレーシス」ということばを聞いた時、皆さんはある箇所を思い出したかもしれません。それはヨハネ14:16で天のお父様はあなたがたにもうひとりの助け主を送ってくださると言われたイエス様のことばです。「助け主」、それは「パラクレートス」というギリシャ語が使われていて、「励ます者」、あるいは「協力者」、「支持者」、「助言者」、「力づける者」という意味のことばです。「勧め」は「励ます」です。だからこの励ましを忘れていませんかと著者は私たちに問いかけるわけです。「わが子よ」、これはすべてのキリスト者に対する呼びかけです。「主の懲らしめを軽んじてはならない」の「軽んじ」るということばの意味は「矮小化する」、「小さくする」、あるいは「つまらないものとして扱う」です。主の懲らしめをつまらないものとして扱ってはだめだとここで教えているのです。私たち、ひとりひとり自分のことを考えてみると、もともとこの「懲らしめ」というのは喜ばしいものではありません。むしろ「懲らしめ」はない方がいいと思っているものです。自分の身にその「懲らしめ」が及んだ時、その「懲らしめ」を非常に軽く扱い、またそれによって私たちはすぐ元気を失ってしまうもので、その「懲らしめ」を受けることを、その「懲らしめ」の大切さを認めたくない、そういうものであります。
2)愛から生じるものとして 6節
そして6節「主はその愛する者を懲らしめ」、私たちが受ける主の「懲らしめ」は「愛」と結びついたものです。「愛」から生じる「懲らしめ」は懲罰的なものではありません。それは常に子どもにとっては有益なことです。「むちを加え」ると書かれています。過ち、正しくないことを矯正するということです。先ほども言いましたように、当時ユダヤ教では父親が子を懲らしめる、矯正するために「むちを加え」ることをも認められていました。
B.懲らしめの目的
そしてこの後7-11節で著者は、引用した箴言3:11-12について霊の父の「懲らしめ」とはどういうものであるのかを私たちに詳しく教えてくれています。
:7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
:8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
1.肉の父の懲らしめ 9-10節
今読んだところからふたりの「懲らしめ」を見ることができます。ひとりは肉の父の「懲らしめ」です。実際に私たち父親のことです。親の権威は2000年前の時代にあっても、現代にあっても、社会にお
いては権威の縮図であります。ここでみことばはその肉の父の「懲らしめ」がどういうものであるのか教えています。
1)短い期間
一つは10節に「短い期間」と書かれています。これは時間的なことです。今世界で一番長く生きている方でも115歳か116歳です。私たち人間が生きる寿命というのはそのくらいです。また親として子どもに親権を発揮できる時間は非常に短いものです。その短い期間だけ肉の父親は子を「懲らしめ」るということです。
2)自分が良いと思うままに
また「自分が良いと思うままに」とあります。このみことばから教えられることは、肉の父親の動機が自己的だということです。それはどういうことかと言いますと、親の知識や経験に基づいて、自分がよいと思ったことを「懲らしめ」の動機にしているということです。だからこの「懲らしめ」には時として間違いがあります。過ちがあるのです。肉の父の「懲らしめ」は子どもにとって有益でないこと、最良でないことがあるのです。それは親の知識や経験だけに基づいて与える「懲らしめ」だからです。
2.霊の父の懲らしめ 7-11節
1)霊的親子の関係
(1) 自分の子として 7-11節
もうひとりは「霊の父」です。まず「霊の父」の「懲らしめ」は子どもとの関係において霊的な親子の関係です。7節を見ると、「神はあなたがたを子として扱っておられるのです」、8節「だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」とあります。「霊の父」が与える「懲らしめ」は、「霊の父」が子どもとして扱ってくれる者だけに与えられるものです。ヨハネはヨハネ1:12で「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と書き記しています。イエス様を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。その子どもだけが「霊の父」の「懲らしめ」を受けることが可能となったということです。
(2)子に対する訓練である 7節
そして7節「訓練と思って耐え忍びなさい」、この「霊の父」の「懲らしめ」は子に対する「訓練」です。ここに書かれている「訓練」ということばは、この「懲らしめ」と同じギリシャ語が使われています。日本語では「訓練」と訳されていますが、内容は「懲らしめ」と同じです。そして、「訓練と思って耐え忍びなさい」、「懲らしめ」と思って耐え忍びなさい。この「耐え忍」ぶですが、前回あの十字架を耐え忍んだひとりの方を見ました。まさに著者はそのことを受けて、イエス・キリストが忍ばれたように忍耐を持ってこの訓練を受け入れなさいと勧めるのです。
当時は子を「懲らしめ」ることを軽く見る、そのような父親はその資格が不十分な者として見られていました。だから子を「懲らしめ」る、その親の権威を持って「懲らしめ」ない父親は周りからその資格が不十分な者と見られていました。また、親の「懲らしめ」から逃げようとする子はその身分を失うこともありました。だからこの当時の親子関係からしても、親が子を懲らしめる、子が親の懲らしめを受ける、それは大切な教えでした。そのことを受けてこの著者は「霊の父」なる方は子として扱っている者にこの「懲らしめ」を与えられると教えているわけです。
2)霊の父に服従すべき 9節
二つ目はこの「霊の父」の「懲らしめ」は「霊の父」に服従することを教えるものであるということです。9節「私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。」とあります。私たちもよくわかるのです。私の父が私を懲らしめる。正しい方向に導いてくれる、そういう父親を私たちは尊敬します。みことばはそのことをもって「なおさらのこと」と「霊の父」の「懲らしめ」のことを解いているわけです。
ここで「霊の父」という非常に珍しい使い方をされています。まさに神、主はキリスト者の霊的なお父さんである。この「霊の父」と使われているのは新約ではここだけです。英語の聖書ではどういうふうに書かれているか調べてみると、“the father of our spirits and live”と書かれていました。英語の方が少しわかりやすいのかなと思ったのですが、 「霊の父」の「懲らしめ」によって私たちキリスト者がより霊的な者へと変えられる時、その生活こそ私たちの本質的なもの、真実のものであるということです。だから、キリスト者は神をうやまい服従して生きることが自身の信仰において唯一の道であるとみことばは教えるわけです。
ヨハネはⅠヨハネ5:3で、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」と教えています。神を愛するとは神に従うことだとヨハネは言います。ヤコブもヤコブ4:6-7で「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授け
になる。』ですから、神に従いなさい。」と教えています。「霊の父」の「懲らしめ」は霊的な親子関係にある者に訓練として与えられる。またその「懲らしめ」はお父様に服従することを教えるものであると。
3)霊の父は私たちのために 10-11節
そして三つ目は、その「霊の父」の「懲らしめ」は私たちのために与えられるものであるということです。肉の父の「懲らしめ」は肉の父が自分の思うままに子どもに与えるものでした。だから時には、子どもにとって最良でない、最善でない「懲らしめ」もあるわけですが、「霊の父」の「懲らしめ」は私たちキリスト者にとって、最善、最良、最高のものです。それが10-11節で書かれています。神は私たちキリスト者が成長するためにどんな「懲らしめ」が必要で、どんな試練が必要なのかをすべて完全に知っておられます。ヤコブはヤコブ1:2-4で、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」、霊的な大人になるとここで教えています。
(1)キリスト者の益のために 10節
まずこの「霊の父」の「懲らしめ」は私たちの益のために与えられるものだとみことばは教えます。10節「霊の父は、私たちの益のため、……懲らしめるのです。」、私たちが霊的に成長するために、お父様は私たちを懲らしめられる。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」、パウロはローマ8:28でこのように教えます。頭で知っているのではなく、体験的に知っているとパウロは言います。「霊の父」の「懲らしめ」は私たちの益のために与えられるものであると。
① 他の人の苦しみをも分かち合える者へと
その中身を少し見てみたいと思うのですが、一つ目は他の人の苦しみをも分かち合える者へと私たちが造り変えられて行くということです。苦しんでいる人の苦しみがわかるということです、それも心から。Ⅱコリント1:4で「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」、私たちは周りにいる苦しみにある人の苦しみを分かち合うことができる者として成長するために「霊の父」の「懲らしめ」があるということです。
② 永遠の栄光を待ち望む者へと
また、私たちを霊的に成長させる、このような「懲らしめ」は私たちクリスチャンを永遠の栄光を待ち望む者へと変え続ける働きをも私たちのうちになすということです。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」、Ⅱコリント4:17です。このように「霊の父」の「懲らしめ」は私たちキリスト者の益のために、霊的成長のために与えられるものだとみことばは教えます。
(2)きよい者とするために 10節
そして二つ目、それは私たちをきよい者とするために与えられるものだと。10節に「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」とあります。ペテロはⅠペテロ1:15-16で「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」と書き記しています。きよい者となるために「霊の父」は私たちを「懲らしめ」られる。こうみことばは教えます。「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。」、Ⅰテサロニケ4:7です。神が私たちを救いへと導いてくださったのは、「汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」と。
(3)よりキリストに似た者へと → 聖化 11節
そして三つ目は、私たちをよりキリストに似た者へと変えるために、「霊の父」は私たちに「懲らしめ」を与えられるということです。11節「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。確かに私たちはよくわかるのです。私たちが実際に「懲らしめ」に遭っている時、それは苦痛を伴います。だから悲しく思う。ペテロもパウロもそのことを私たちに教えています。しかし、そのような「霊の父」の「懲らしめ」は「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」、ここで使われている「訓練」ということばは7節の「訓練」と違うことばが使われています。この11節の「訓練」はギムナゾーというギリシャ語が使われているのですが、それはトレーニングするということです。英語のギムナジウム、いわゆる体育館とか屋内競技場ということばはこのギムナゾーということばからできたと言われています。7節の「訓練」は「懲らしめ」る、11節の「訓練」は「トレーニングする」という意味です。だから「懲らしめ」によってトレーニングされた人々に「後になると……平安な義の実を結ばせます」となります。この「平安な義の実を結ばせます」というのは、英語の聖書では“produces a harbest of righteousness and peace.”と書かれていました。この英語を訳すと、「正義と平安はその収穫を生み出します」、あるいは「もたらします」となります。何がかというと、「懲らしめ」がです。その「懲らしめ」によってトレーニングを受けた者たちのうちに正義と平和の収穫を生み出しますとみことばは教えています。
この「生み出す」、「もたらす」という表現は、農夫が果物を刈り込みしたことによって一層よりよい実を結ぶという原則を用いたことばです。そのことをヨハネの福音書から教えられます。ヨハネ15:2でこう書かれています。イエス様が語られたことばです。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」、私たちに与えられる主の「懲らしめ」はまさにこの「刈り込み」なのです。私たちに与えられる主の「懲らしめ」は私たちを「刈り込」む働きをなすものです。だから私たちはその「刈り込み」によって「多く実を結ぶ」者となって行くということです。
私たちはきょうこのヤコブ12:5-11で、非常に大切なことを教えられました。それは私たちのお父様、「霊の父」が私たちに与える「懲らしめ」はお父様の愛が動機であるということ、その愛ゆえに私たちにその「懲らしめ」が与えられるということです。その「懲らしめ」の意味するところは、私たちがまさに天のお父様の子どもであるという証明です。みことばははっきりとそう教えています。二つ目は天のお父様の「懲らしめ」は私たちが主に服従する訓練のために与えられるものだということです。そして三つ目、この「懲らしめ」は私たちが霊的に成長して聖い者となり、またよりイエス・キリストに似た者へと変えられるために私たちに与えられるということです。箴言3:11-12を引用してこの箇所が進んで行ったわけですが、この箴言3章をもう一回見てみたいと思います。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。」、それは私たちが霊的な成長を遂げて行くために必要なことだからです。みことばは私たちに主の「懲らしめ」をしっかりと受け止めるようにと教えています。
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