メッセンジャー: 和智忠昭
聖書箇所: 創世記16-17章
音声: メッセージを聴く
文書: メッセージを読む
聖書は旧約・新約合わせて1巻の書物です。また、旧約は新約を、新約は旧約を理解するために、それぞれ大切な位置を占めています。ローマ1:2、3「:2この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、:3 御子に関することです。…」、ローマ15:4「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」、ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」。何回か創世記を学んで、神が私たち人類の祖先をお造りになったその時から今日に至るまで、創世記を通して学びを続けて来ました。
序論:
神はアブラムの信仰を義と認められ、そして、ご自身による一方的な契約を結ばれました。神は常にアブラムとともにあり、何も恐れることはないと言われました。これまでに学んでことは、
1.アブラムへの祝福 創世記12:1-3
(1)神が示される地へ行け
(2)大いなる国民とする。 *国民とは、ヘブル語でゴーイ、領土+民
(3)あなたの名を大いなるものとする
(4)地上のすべての民族はあなたによって祝福される
2.アブラムの心配ごと 15:1~
「:1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と、神はアブラムに言われました。この「恐れる」の意味は「心配する」ということでした。アブラムは神によって約束を受けたけれど心配したのです。「本当に私に私の家系を継ぐ男の子が与えられるのだろうか?…」と。
3.信仰の義認と神の契約 15:6
けれども、神は「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」と言われたそのことばによって、アブラムは神を信じました。「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)と記されていることを学びました。
Ⅰ.アブラムの失敗 16:1-16
1.試練 1節
私たちはここにアブラムの失敗を見なければなりません。試練が訪れます。神の約束は、アブラムとサライとの間にひとりの男の子を与えるということでしたが、その後、約10年間「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。…」(16:1)のです。神の約束(15:5「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」)にも関わらず、アブラムの妻サライは子を産まなかったのです。そのことが16:1に記されているのです。
1) アブラム85歳のとき 2-3節
10年も経ってアブラムはもう85歳になりました。最初に約束をいただいた時にも65歳と75歳の夫婦でしたから、人間的に見るなら、もう子どもは与えられない状況にあったと考えられます。なお、10年経てばさらにその思いは増し加わるばかりでしょう。そこで、妻のサライが考えたことはひとりの女性を夫に与えようということでした。16:1に「…彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。」とあります。「ハガル」という名は「逃げる」という意味です。
なぜ、イスラエル人のサライにエジプト人の女奴隷がいたのか?私たちにはよく分かりませんが、多分、アブラムが一族を連れてエジプトに行きそこから戻って来たとき、エジプトから逃げてサライの仕え女になったと考えられます。聖書はそのことを明らかにしていませんから私たちには分かりませんが、そのような女性の存在があって、アブラムの心配を見たサライはその女性を妻として彼に与えたのです。16:2-3「:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」、当時の習慣として、夫婦にこどもがいない場合、後を継ぐ男の子がいなかったなら、妻の代わりに女性をそばめとしてその家庭に入れて夫と関係をもち、そして、男の子が生まれたならその家系を継ぐ、その男の子は夫婦の正式の跡継ぎとなるのです。ですから、ハガルが男の子を生むとサライが母となるのです。だから、サライはそのように考えたのです。
・サライ自身からの申し出をアブラムは受け入れた。その結果、彼らの家庭に混乱が生じた
2bー3節「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。「アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。」、当然のことですが、正式な結婚ではありませんから、結婚式はなかったでしょう。イスラエルの習慣では結婚式は盛大に行われたのです。正当な関係ではない妻として与えられた過程にあって、彼らが意図したようにハガルはみごもったと記されています。4節「彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。」と。計画通りに事はなりました。男の子が生まれるかどうかはまだ分かりませんが、ハガルはみごもったのです。それによって、サライが最初に期待していたことではなく、女奴隷が主人を見下げるようになったのです。
・自分の行動をアブラムの責任にするサライ
当然のことで、サライに反発が起こります。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」と。自分の行動をアブラムの責任にするサライ。「そこでサライはアブラムに言った。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」と、このように彼らの家庭に混乱が生じました。それは神の約束を守ることができなかったアブラムの責任であるということを私たちは見るのです。
そして、この一つのパターンを見るときに、ずっと遠い、人間が神に創造されたアダムとエバの時代に遡って、同じことを見ます。神は二人をエデンの園に置かれて園のどの木から取って食べてもいいけれど、園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならないと言われました。もし、取って食べたらあたがたは死ぬと。神が人類に与えた最初の守るべき約束事です。ところが彼らはそれを守れなかったことは皆さんご承知の通りです。アダムはそのときに神に何と言い訳をしたでしょう?創世記3:12「人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と、エバは「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(13節)。責任転嫁と言いますが、すべて他人のせいにして、私には罪はない、間違いないと言い訳します。ちょうど、同じことがアブラムとサライの上に起こるのです。
アブラムは「知らない」とは言いませんでした。16:6を見ると「アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。」と書かれています。そして、この出来事が7節以降に書かれています。「:7 【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、」、「シュル」はシナイ半島の上の方にあるイスラエルからエジプトに至るところです。8-10節「:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」:9 そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。:10 また、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」、【主】の使いはハガルに対してこのような約束をしたのです。
2)イシュマエルの誕生 16節
11節~「:11 さらに、【主】の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。【主】があなたの苦しみを聞き入れられたから。」、
*「イシュマエル」とは「神は聞かれる」という意味です
・アブラムは神が定められたときを待たねばならなかった
このようにして一人の男の子の誕生が約束されたのですが、あくまでも、これはアブラムとサライの人間的な努力によるもので、神の約束はあるけれど、自分たちの方法で子どもを得ようとしたのです。言うなら、これは「罪の子ども」であると考えることができます。神の恵みの賜物ではなかったのです。でも、神はこのイシュマエルを祝福されたことが記されています。
・その結果、すべての人に逆らい、兄弟(イスラエル)に敵対する者となった
イシュマエルはどのような者か?12節には「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」と書かれています。「ろば」は人の言うことを余り聞かないという性質があるようです。イシュマエルの存在は神は祝福されましたが、アブラム家にとって、また、人類にとって、イスラエル民族にとって大きな敵対する存在となっていくと、ここで預言されたのです。アブラハムの正当な嫡子、跡継ぎはご承知のように「イサク」です。サラから生まれます。イシュマエルは正当な嫡男ではありません。やがて、イスラエル民族とイシュマエルの子孫とは敵対関係になります。イシュマエルはアラブ民族の祖先です。当然のこと、イサクは
イスラエル民族の祖先です。そして、宗教的な対立もやがてここから起こって来ると、そのようなこと
がここで言われているのです。
・アブラム自身もイシュマエルを約束の子と思い込んだ
そして、13節~「:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。:14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。:15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。」、アブラム自身がその男の子の名をイシュマエルと名付けたと分かります。ですから、当時、アブラムもサライも、神が約束された子どもはこのイシュマエルだと思い込んだふしが見られます。
本当は、アブラムは神が定められたそのときを待たなければなりませんでした。結果として「すべての人に逆らい、兄弟に敵対する、イスラエルに敵対する」、そういう存在の男の子が生まれることになったと私たちは聖書に見ることになります。
2.失敗 4節
これは大きなアブラムの失敗でした。
1) 神のときを待てなかった
神のご計画はアブラムが100歳のとき、そして、サライが90歳のときに、約束の子が生まれるということでした。
*神のご計画 : 不妊の女と、100歳になり身体的に子を宿す力がなくなった男からです。それは新約聖書によれば、ローマ4:19に「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」と記されています。子どもを得ることに関してその能力がなくなっているという観点から見て「自分のからだが死んだも同然である」と言います。サライの胎も同様です。もともとサライは子どもができない体質であったように思われますが「その信仰は弱りませんでした。」と新約聖書にはこのように記されています。
2) 人間的な解決をした。妻の勧めがあったとは言え、彼は神の約束を待てなかった
3) 神のご計画は、当初からサラによって子を得ることであった
途中の経過はともかくとして、アブラムはこのように100歳のときまで、神の約束が実現するときまで時が必要であったのです。なぜ、アブラムは100歳まで、サラは90歳まででなければならなかったのか?これは人間が最大の努力を払って何とかして到達できるその結果、それが可能であれば…ということで、それは絶対にできないということを人間が、アブラムとサライが理解するためのときが必要だったということです。「もう絶対にだめ!00%、それ以上にだめ!!」という状態で初めて神はこの二人に一人の男の子を授けようと決められたのです。
Ⅱ.アブラムからアブラハムへ 17:1~
1.13年の月日が流れ、神は99歳になったアブラムに全能の神として顕現された
17:1「アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」、
*全能の神 1節 : 特に、この17:1-8を見ると、「わたし」ということばと「あなた」ということばが何回も出て来ます。「わたし」は16回、「あなた」は20回です。神である「わたし」がアブラム「あなた」にと、二人の会話になって来ています。そして、主である「わたし」は、わたしのしもべであるアブラム「あなた」に、ということを強調しているのです。全能の神は「エル・シャダイ」と言います。旧約聖書に43回出て来ます。「エル」は神、「シャダイ」の意味はよく分からないと言われますが、「エル・シャダイ」を新改訳聖書では「全能の神」と訳しています。「シャダイ」は「完全に満ち足りた」という意味を持っていると、もともとのことばの意味は「乳房」です。そこから女性が赤ちゃんを産んで育てるときに、赤ちゃんにお乳を上げるということから「養う」という意味があると考えられていますが、正式にその意味だと言えません。「シャダイ」の原語は「シャット」で、今言ったように「乳房」という意味から来たのではないかと言われています。
「わたしは完全に満ち足りた神としてここに顕れた」と言うのです。もちろん、この意味の他に「力、権力、絶対者」という意味もあります。このような神があなたに約束する、そして、わたしは命じる「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と。「全き者」とはことばだけを見るなら「完全な者」と取れますが、これはヘブル語で「ターミーム」で、道徳的な完全さではなく、神との間においてその関係が完全であることを意味しているのです。道徳的な完全さ、清さを求められるなら、人間は絶対にできません。アブラムはすでに間違いを犯しています。エジプトに行ったとき、自分の妻サライを妹だと言ってくれと嘘を言いました。そのためにエジプトは過ちを犯すということも私たちは見ました。言われていることは「神との間において完全であれ」で、それは「あなたの全身全霊でわたしの前を歩め」ということでした。神を第一にして歩めということです。すべてのことを神に撚り頼んで歩みなさいと。アブラムはそのことばを聞いてひれ伏します。「わかりました」と、これが彼の応答です。
*神を表す聖4文字、YHWH
出エジプト6:3に「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」とあります。
2.アブラムからアブラハムへ
そこで神は17:2「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」と仰せられます。まだ、サライとの間に子どもはできていませんでした。99歳でした。けれども、「あなたをおびただしくふやそう。」と言われたのです。そして、17:3-6「:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」と言われたのです。
神はここで「名を変えよ」と言われました。「アブラム」ではなく「アブラハム」となると。似たような名ですが、意味として大きな違いがあります。どこが違うのか?スペルが違います。神によって聖4文字(YHWH)の(H)がアブラムとサライそれぞれの名前に加えられたのです。
・ABRAM(高貴な父) ⇒ ABRA(H)AM(多くの国民の父)
・SARAY(女主人・女王) ⇒ SARA(H)(サーラー:支配する、治める)
名の意味は、サラの場合は、サライもサラもそれほど違いませんが、アブラハムの場合はより大きな意味をもつことになりました。
*ここに女の子孫の(創世記3:15)の家系が約束された
この「女の子孫」がアブラハムとサラの間に生まれる一人の男の子に受け継がれていることを見ることができます。19節に「すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」と記されている通り、神はこの男の子に「イサク」という名を付けるようにと言われました。
⇒永遠の契約とする
17:7-8「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」と神はこのようにアブラハムに言われたのです。私たちは今、黙示録を学んでいますが、確かに、神が約束された「王国」が今の時代の後に千年間現れるということを見ています。創世記で約束された地をイスラエルの子孫に永遠の地として与えると約束されました。今、イスラエルの国はかの地で人間的に建てられた場で、周辺の様々な環境に脅かされていますが、やがて、千年王国が来るとき、神はイスラエル民族のために王国を約束されたということを黙示録を見て、創世記に書かれている約束がそこまで続くことを見ることができるのです。「わたしは、彼らの神となる。」、そこにはイエス・キリストが王として神として来られて、イスラエルの人々を治めるということを私たちは学びましたが、そのことを今ここで言われているのです。
3.契約の確認 17:2-8、18
・守るべき契約 9、10節
10節「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。」と、すべての男子はみな生まれて八日目に割礼を受けなければならないと言われました。
Ⅲ.割礼 17:9-21
1. 守るべき契約 : 神とアブラハムとの間の契約のしるし、聖別のしるし、従順のしるし
*割礼:ヘブル語でムールー、「切り取る、切り捨てる」という意味
神とアブラハムとの間の特別なしるしです。そして、アブラハムが神に全身全霊をもって従うというしるしです。神はこのように言われました。
・男子はみな生まれて八日目に 12節
すべての男子、イスラエル人だけではありません。関係するすべての男子はしなければならないのです。11節「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」、12-13節「:12あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約
は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。」と約束されたのです。イスラエル民族はこのようにして神との間に契約を結びました。からだの一部に傷をつけて、それが神との永遠の契約の証となるのです。
・受けない者は絶たれる 14節
「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」と、イスラエル民族の群れから断ち切られると、そのことばの意味は「死ななければならない」ということです。生きてはいけないのです。非常に重い契約がここで為されたのです。15-16節「:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」、まだ、サラは身ごもっていないそのときに、神はこのように約束をされるのです。
17節~「:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」、アブラハムは全能の神の前にひれ伏しましたが、まだ心の隅には「本当かな?」という笑いがあったようです。「全き者としてわたしの前を歩め」と言われたアブラハムはそのような疑いなどもつべきではなかったのです。彼はここでも失敗を犯します。
・義と認められた後に受けた
このことは、ユダヤ人以外の割礼を受けていない人々が、信仰によって義と認められるためでした。ガラテヤ3:6に「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。」と書かれている通りです。
2.人は自分の思いで神を喜ばせることはできない
ローマ8:7にはこのように書かれています。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」と。イシュマエルと神の約束の子、このことは人類の歴史に大きな禍根を残すことになります。ユダヤ民族とアラブ民族の対立は今このときも続いています。
⇒新約聖書では次のように記されています
Ⅳ.新約聖書の解き明かし
1.神のあわれみによって
神はこのアブラハムをあわれんで彼に正当な子孫を与えようとされるのです。「:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」、新約聖書ではこのように言っています。ローマ9:16に「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」と。アブラハムが義と認められたのも神のあわれみによります。彼の行いではありません。「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)、義と宣言されたのです。アブラハム自身は正しい聖い人ではなかったのですが、彼の信仰を見て神はアブラハムを義とされたのです。正しい者であると宣言されたということです。法律的に正しいとなったのです。
そして、ガラテヤ4:23-25に「:23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。:24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。」、シナイ山から出た契約、そして、自由の女によって与えられた契約と二つの契約があるとここで言っています。シナイ山の契約は古い契約です。ご承知のように、神がモーセに与えられた戒め、これが古い契約です。シナイ山というとイスラエル人はモーセを思い出し、十戒を思い出し、そして、ハガルのことを思い出したのでしょう。でも、ここで言っている比喩は、人間的な考えによって与えられたイシュマエルは正規の子ではなかったのと同様に、律法を守ってそれによって義とされるというのは間違った考えである。女奴隷の立場と同じだと言っているのです。
自由の女であるサラの、神の約束によって生まれた男の子イサク、自然の状態を越えた状態で生まれたそのこと、それが信仰です。そのことをこの新約聖書の箇所で解き明かしているのです。
・信仰は神のみわざを信じて忍耐して待つこと。私たちが自分でことを解決しようとするとき、神に頼らず自分の力に頼ることになる。私たちは頭の中で考えます。神のみこころは何か?神に喜ばれることをしたい、神は何を喜ばれるのか?その正確な回答書などありません。私たちが私たち自身の考えで神を喜ばせようとする、そのこと自体に驕り高ぶりがあるということです。アブラムとサライはそうでした。 確かに「男の子を与える」という約束がありました。それなら、何とかしよう、最善を尽くそう、ここにエジプトの女奴隷がいる
から、どうぞ…、というわけですが、そうではない!ということです。人間がどんなに考えても、どんなに努力を払っても、それは必ずしも神が喜ばれることとは限りません。ときには、私たちが「えぇ!」と思うようなことが神のみこころであるかもしれないということです。そのことを私たちは教えられるのです。自分の力に頼らない、自分の考えを第一としない、ということを教えていると言うのです。
2・割礼の意義
コロサイ2:11「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」、ここに「キリストの割礼」ということばが出て来ます。イエス・キリストの割礼、「肉のからだを脱ぎ捨て、」、私たちは肉の思い、自分の力で何かをするという、そういうことを止めて、もうキリストの割礼を受けたのだとそのように記されているのです。
ピリピ3:3「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」、大事なことは何か?「アブラハムは主を信じた。それを神は彼の義と認められた。」、これが最初です。その信仰の義の後で、神はアブラハムに割礼を施すと言われたのです。だから、肉体的なわざである「割礼」、イスラエル人は必ず受けなければなりません。神の約束だからです。でも、私たちは割礼を受けているからそれによって必ず神によって正しいものにされるということではないのです。アブラハムの信仰の義認が割礼に先立って行われたということを聖書が教えていることは大変感謝なことです。
ですから、私たちは割礼がなくても、信じたなら神によって救われるということを聖書は教えているのです。だから、「人の手によらない割礼を受けた」というのはこのことだと言うのです。「神の御霊によって礼拝をし、」、「キリスト・イエスを誇り、」、「人間的なものを頼みにしない」とこの三つのことが大事です。「霊とまことをもって礼拝する」、これが本当の礼拝だとイエスは教えられました。そして、私の力を誇るのではない、神以外の何かのわざを誇るのではないのです。人間的なものを頼みにしない、これが本当の割礼の者だと言うのです。
イスラエル民族は肉体に受けたその割礼によって自分たちを誇りますが、私たちは信仰によって、イエス・キリストによる割礼を受けたことを誇ろうではないかと新約聖書は教えているのです。「わたしは彼らの神となる。彼らはわたしの民となる。」と神はイスラエルの民に言われました。今、イエス・キリストの割礼を受けた私たちは、真のイスラエル(このことばは聖書には出て来ませんが)、本当のイスラエルとして、神に選ばれた民として認められるということを教えられるのです。
終わりに : みことばは教える
ローマ4:19-21「:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、」、アブラハムは思わず笑いましたが、それは不信仰ではなかったと言っているのです。「反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」、まず、神に栄光を帰す。どんなことがあってもそれは私のわざではない、神のわざです。神さま、あなたがそのようにしてくださったからです。あなたの名を誉め称えます。あなたの御名は賛美されるべきです。そして、「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」と。私たちは神にいろいろな願い事をしますが、困難なことに陥ったとき、病に罹ったとき、人との関係がうまくいかなかったとき、経済的に困ったとき、家族間で様々なトラブルが起こったとき、どうすればいい…、自分の力ではどうしようもないことがいっぱいあります。でも、「神さま、どうぞ、あなたのみこころが為されますように。あなたの最善が為されますように。」と祈ります。けれども、ときに「神さま、私はちょっとあなたのお手伝いをしますから…」というときがあることを反省しなければいけないということです。
全能の神を堅く信じたアブラハムとサラは、このように神の約束によってひとりの男の子が与えられたのです。だからこそ、それが彼の義とみなされたと聖書は言っているのです。わざによらず、信仰によってということです。私たちはぜひ、このことを覚えて、新しい一週間を歩みたいと思いますし、まだ、神を信じておられない方がおられるなら、「神さまは信用できない」と考えておられる方がおられるなら、「違います!」、神は必ずあなたの最善をしてくださるから…。そして、この方を信じる信仰だけを神はご覧になるのです。神のひとり子であるイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって死んでくださった、だから、もう神はあなたの罪を罰せられない、それが神の約束です。イエス・キリストが私の救い主だ、だから、この方を信じて、この方に従って歩んでいきますと、これがアブラハムの信仰なのです。そのような信仰を持ったとき、あなたは神の子として、本当のイスラエルとして、神はイエス・キリストの割礼を施してくださると聖書は教えているのです。
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