メッセンジャー: 近藤修司
聖書箇所: 黙示録21:9-27
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ヨハネの黙示録21章をお開きください。
主イエス・キリストは弟子たちに対して「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2)と言われました。その場所が一体どんなところなのか、私たちはこの黙示録を通して学んで来ました。神が「すべてを新しく」され、「新しい天と新しい地」をお造りになる。そして私たちはその中の首都とも言える、中心である「新しいエルサレム」に住むのだとみことばは教えてくれています。
D.「聖なる都エルサレムの詳細」 9-27節
1.「その特徴」 9-11節
きょう9節から21章の最後までを見ますが、ヨハネは私たちに「聖なる都、新しいエルサレム」の詳細について教えてくれています。9-11節は「新しいエルサレム」の特徴について三つのことを挙げています。
1)「小羊の妻である花嫁」 9節
まず、9節に「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。『ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。』」とあります。一つ目に私たちが教えられることは、この都は神の愛されている都であるということです。「小羊の妻である花嫁」と書かれています。この表現は、神がこの都をとても愛しておられるということを私たちに教えてくれます。なぜならばこの「新しいエルサレム」をヨハネに示したのは、「最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとり」だと書いてあります。患難時代の終わりの終わりに起こる「七つの鉢」のさばきによってバビロンが滅びました。このバビロンと「新しいエルサレム」がまさにここで対比されています。神に憎まれていたあのバビロンは「大淫婦」と呼ばれました。そしてこの「新しいエルサレム」は「妻である花嫁」、まさに神と夫婦であるかのような関係にあることが描かれています。そのことから、この都はどれほど神に愛されているか、神様と特別な関係にある都であることをここでみことばが教えます。
次に進む前に、「小羊の妻である花嫁」ということばを聞くと、これは教会のことを言っているのではないかと連想される方もあると思います。というのは、教会は子羊であるイエス様の花嫁であると、確かにみことばは教えているからです。我々もそのように学んで来ました。そうすると、この「新しいエルサレム」に住むのは教会、つまり新約のクリスチャンたちだけなのかという疑問が出て来ます。結論から言うと、聖書はそんなことを教えていません。それ以外の人たちもこの「新しいエルサレム」に住むのです。
そのことを明確に教えてくれている箇所があります。ヘブル12:22に「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、」と、ここに三つの場所が記されています。これは別々の所ではなく、同じ場所を指しています。つまりここで言われている「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム」というのがイエス様が「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」と言われたその場所なのです。私たちの永遠の住まいをこの三つの表現は示しているのです。私たちの永遠の住まい、まさに「シオンの山」であり、「生ける神の都」であり、そして「天にあるエルサレム」であると。この場所はアブラハム自身が待ち焦がれていた都でもあることも、ヘブル11:10や16に書かれています。アブラハムは「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」と、神によって建てられたこの都をアブラハムは待っていた。16節にも「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」とあります。こうしてみことばが教えるように、彼らはこの地上でどこに住むのかとか、どこに行けばもっと快適に住めるのかではなくて、神が備えてくださった天の住まい、永遠の住まいを待ち望んでいたと教えています。
12:22に「近づいているのです」と訳されている動詞が出ています。残念ながらこれは少し誤解を与えています。というのは「近づいているのです」と言うと未来のことに思えます。確かにこの人々にとって、神が約束された永遠の住まいというのはまだ未来の話です。確かにそういうふうに見れるのですが、実はこの動詞の時制は未来形ではなく完了形です。つまりもうこの約束が彼らに与えられていることを表しているのです。ですから言い方を変えれば、彼らはもう既に「シオンの山」に立っているのです。もう既に彼らは「生ける神の都」に入る許可を得ているのです。もう既に「天にあるエルサレム」に彼らのために場所が備えられているのです。そのことを言っているのです。つまり救いにあずかった者たちはこの約束をいただいているのです。救いにあずかった人たちはどの時代であってもこのように永遠の住まいが神によって備えられ、そこに行くことが既に約束されているわけです。パウロが「私たちの国籍は天にあります。」と言いました。「天にあればいいな」ではなくて、「天にあるんだ」という確信を持っています。主イエス・キリストを信じた我々ひとりひとりはその同じ確信を持ってきょうを生きることができます。なぜならこの約束はもう既にあなたに与えられたからです。
◎ 新しいエルサレムにはだれが住むのか――。
先ほど話した神が備えられた永遠の住まいに一体だれが住むのかをヘブル12章が我々に教えてくれています。
① 「無数の御使いたち」
22節の後半に「無数の御使いたちの大祝会に」と書いてあります。この「新しいエルサレム」には、まず無数の天使たちがいるということです。
② 「天に登録されている長子たちの教会」
二つ目に「天に登録されている長子たちの教会」と出て来ます。これは私たち新約の信者たちのことです。
③ 「万民の審判者である神」
そして、「万民の審判者である神」と書かれています。神ご自身がおられるということです。
④ 「全うされた義人たちの霊」
「全うされた義人たちの霊」とあります。「霊」と書いてあるのは彼らがまだ肉体を受けていないからです。つまり旧約の聖徒たちです。
⑤ 「新しい契約の仲介者イエス」
そして最後に「新しい契約の仲介者イエス」と、イエス様がおられる。
私たちに備えられた場所には、天使たちがいて、そして我々新約の時代のクリスチャンたちがいて、神ご自身がいて、旧約の聖徒たちがいて、そしてイエス様がおられるとヘブル書は我々に教えています。そこにあなたの住まいが設けられているのです。ここであなたは永遠を過ごすということです。
2) 「実在の都」 10節
さて、もう一度きょうのテキスト黙示録21章に戻ります。この「新しいエルサレム」を神がどれほど愛しておられるのかを我々は見て来ました。このエルサレムの特徴として二つ目に記されていることが10節に出て来ます。「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。」とあります。この「新しいエルサレム」というのは、空想や幻想、架空の話をしているのではなく実存の都だということです。ですからこの御使いはヨハネにこの都を見せようとします。しかも御霊によってヨハネを「大きな高い山に連れて行っ」たと書かれています。これは実際にヨハネがどこか高い山に連れて行かれたという話ではありません。ヨハネが黙示録を書いた時、彼はパトモス島で捕えられていました。そこから離れてどこかに行くわけではありません。では何が起こったのかというと、神は彼に幻を見せて、何が起こるのかをはっきりと示されたのです。あたかも自分がその高い山に登ってこのエルサレムのすべてを見ているかのように、真実を彼に明らかにされたという話です。「大きな高い山」に行ったような経験をヨハネ自身がしていることを告げるのです。彼がそれをはっきりと見たゆえに、この後書かれている内容を見て行くと、都のことが非常に細かく詳細に記されています。あなたが住むところがどんなところなのか、この後彼は詳しく我々に教えてくれるのです。夢の話ではない、本当に存在する所です。だから寸法までちゃんと書いてあります。
3)「栄光にあふれた都」 11節
三つ目の特徴は、11節にこの都が大変栄光にあふれた都であるということが記されています。「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」と。この後いろいろな宝石が出て来るのですが、残念ながら私はその宝石の名前を見ても余りピンと来なかった。実際にどういう宝石なのか、一生懸命調べるのに時間を要しました。皆さんの方が詳しいかもしれません。ここに書かれている「碧玉」という宝石ですが、普通「碧玉」と言われるものは透明ではありません。そこである人々はこれは恐らくダイヤモンドを指しているのだと言います。ですからこの11節でヨハネが記してくれていることは、まさにダイヤモンドがきらきらと輝いているような輝きにあふれた都、それがこの「新しいエルサレム」であるということです。なぜならそこには神の栄光が輝いていたからと。恐らくヨハネも必死になって、自分が見ていることを記しているのでしょう。でも神の栄光が輝き続けている様子を記すことは大変困難であったに違いありません。少なくともこうして私たちは11節までの間にこの「新しいエルサレム」の三つの特徴を見ることができます。
2.「その外観」 12-14節
12-14節にはこの都の外観が描かれています。そこには城壁があり、門があると記されています。
1)「城壁」:三つの説明
まず城壁について三つの説明がなされています。12節「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。」とあります。
(1)「大きな高い城壁」
一つ目は「大きな高い城壁」があるとあります。「城壁」というのは、普通その中の住民を敵から守るために築きます。この新天新地に敵が存在するかというと敵は存在していません。では何のために「城壁」を築いたのかです。恐らくこの後に出て来るすべてのことに共通していることですが、いろいろなことを私たちに思い起こさせるためということが言えます。例えばこの「城壁」というのを見ると、人々はそこに神の守りを思い起こします。神様は彼らを守ると言われ、振り返って見ると、地上にいる時、確かに神はちゃんとひとりひとりを守ってくださった。恐らく「城壁」を見ると、人々は神が私を守り続けてくださったこと、その約束を果たしてくださったことを思い起こすのでしょう。
(2)「その土台」
そして、この「城壁」の土台の話です。14節「また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」とあります。「大きな高い城壁」があって、そこには「十二の門」がある。そしてその「城壁」の土台について14節は我々に教えてくれています。まず何がヨハネによって観察されたかというと、「城壁には十二の土台石」があると。このことは後で見て行きますが、見ていただきたいのはそこに「十二使徒の十二の」名前があったとあります。つまり12人の使徒たちの名前がそこに記されていたとヨハネが教えています。神様が教会をお建てになった時のことを思い出してください。その土台を築いたのは使徒たちでした。恐らくその使徒たちのことを記念していると考えることができます。後でも説明しますが、この14節には「十二使徒の十二の名が書いてあった。」とあります。
(3)「十二の門がある」
少し戻って、「城壁」に門があって、その「門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。」(12節)とあります。「十二の門」にはイスラエルの十二部族の名前が記されていて、「城壁」の土台石には十二使徒の名前が記されている。間違いなく何か意味がありそうです。どういう意味なのかはもう一回最後になってまとめたいと思います。
「城壁」の三つの特徴は「大きな高い城壁」があり、「十二の門」があり、その土台には教会の土台を築いた「十二使徒」の名前が記されていると。
2)「門」:「十二の門」 12―13節
今度は「十二の門」の話です。12-13節に同じように「門」について三つの説明がなされています。
(1)「それらの門には『十二の御使い』がいる。」
「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり」、まず私たちが一つ目に気づくことは「十二の門」には「十二人の御使い」がいるということです。恐らくひとつひとつの門に御使いがひとりひとり割り当てられているのでしょう。御使いたちがすることの一つは見張るという働きがあります。でも繰り返しますけれども、新天新地、この「新しいエルサレム」においては敵が存在しませんから、彼らは私たちを見はる必要はもうないのです。それなのになぜここに天使がいるのかというと、先ほどから見て来ているように、恐らく我々がこの地上にいた時に神がなしてくださった恵みのみわざを思い起こすという意味があるのではないかと思います。地上にいて天使たちは私たちを守ってくださっていたのです。
(2)「イスラエルの子らの十二部族の名が書いてある。」
そして二つ目は、「それらの門には十二人の御使い」がいるだけではない、「イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった」とあります。恐らくこれを見ることによって、人々は救いに関するイスラエルの役割を思い起こします。というのも神様はイスラエルを通してみわざをなされました。イスラエルとの間に神は契約を結ばれ、祝福を約束されました。律法を与えられました。みことばを与えられました。そして救い主もこのイスラエルに送られました。そのイスラエルの部族の名前を見ることによって、主がこのイスラエルに働かれ、そしてそのイスラエルから我々はこのようなすばらしい祝福にあずかっているわけです。ですから恐らくそういうイスラエルの果たした役割を思い起こすためにこの「門」に彼らの名前がつけられているのでしょう。
(3)「東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。」
三つ目は、13節「東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。」とあります。「十二の門」です。恐らくこれらの「門」にはそれぞれの部族の名前がつけられているのでしょう。ちょうどエゼキエル48:31以降が教えるように、それぞれの「門」にはイスラエル民族の名前がつけられていると考えることができます。もちろんそのことはこの聖書の箇所には記されてはいません。
3.「その大きさ」 15-17節
さて、今度は大きさに入って行きましょう。
15節に「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。」とあります。ヨハネと話をしていたのは天使です。天使が「測りざおを持っていた」と。実際にこのようにして天使が神殿を測ったというのはこれまでにも出て来ています。例えばエゼキエル書の中には千年王国の時の神殿を測っている御使いの様子が記されています。また黙示録11:1には患難時代の神殿が御使いによって測られていることが記されている。確かに天使たちは神殿の大きさを測っているわけですが、我々はなぜ彼らは測らなければわからないのだろうかと思うわけです。レオン・モリス先生は「測ることは明らかに安全と保護を示す」と言います。つまりこの神殿は私のものである、私が守るのだ、まさにそのようなことを示しているのだと。
1)「都の大きさ」 16節
そして、16節に都の大きさが書いてあります。「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。」と。新改訳聖書の欄外に「スタディオン」という単位についてが1スタディオンは185メートルであると記されています。計算すると、この都の一辺の長さは約2,220キロメートルになります。この都は長さも幅も高さも約2,220キロメートルです。これがどれぐらいの距離なのかと言うと、札幌から飛行機に乗って直線に飛んだ時に沖縄までが約2,220キロです。一辺がその長さの立方体です。レオン・モリス先生は「これは至聖所の形である」と言います。確かに至聖所は長さが20キュビト、幅が20キュビト、高さが20キュビトで同じように一辺が20キュビト、約88センチの立方体でした。ですから言われるように、あの至聖所もこの「新しいエルサレム」も同じ立方体です。なぜ共通しているのかと言うと、そこに共通したものが存在するからです。神の御座です。神の御座がこの「新しいエルサレム」と至聖所には存在している。そこで人々は神と会見することができた。都の大きさは約2,220キロメートル、大変大きなものであることが分かります。
2)「城壁の高さ」 17節
そしてこの城壁の高さは、17節「また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。」と書かれています。この「百四十四ペーキュス」というのは約65メートルです。ここに「人間の尺度で」、最後に「これが御使いの尺度でもあった」と書かれています。つまり人間の尺度も天使の尺度も変わりがないと言っています。人間が測っても天使が測っても同じサイズだと。尺度は同じであるということはわかりました。
4.「その素材」:都を作り上げている素材 18-21節
さて、今度は素材です。18-21節にこの「新しいエルサレム」の素材が書かれています。
1)城壁は「碧玉」
まず18節を見ると「その城壁は碧玉で造られ」とありますが、先ほども言ったように恐らくダイヤモンドでしょう。
2)都は「純金」
「都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。」と。その都はガラスように透き通った純金であると。
3)城壁の土台
先ほど14節に「十二の土台石」があると書かれていましたが、19節からそのひとつひとつを説明してくれます。まず「第一の土台石」は、19節「都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉」であると記されています。それは恐らくダイヤモンドであろうと。透き通った緑色の石であろうと説明する人もいますが、恐らくダイヤだろうと。「第二はサファイヤ」と書いてあります。光り輝くあの青い石です。日本語名ですと青金石(せいきんせき)とか瑠璃(るり)と呼ばれる宝石です。「第三は玉髄」と書いています。瑪瑙(めのう)と言われる宝石ですが、一般的には無地なものが「玉髄」で、縞模様のあるのが瑪瑙と言われるようですが、どちらかというと緑色の石で、トルコのカルセドンで採掘されたためにカルセドニーという名前がついている宝石であると。第四番目は「緑玉」と書かれています。エメラルド、明るく輝いた緑の石です。第五番目は「赤縞めのう」と出ています。赤と白の縞模様の入った石です。第六番目は「赤めのう」、血のような色をした石です。第七番目は「貴かんらん石」。これは黄色か金色の色合いの石であると。第八番目は「緑柱石」とあります。青や緑の色をした石です。第九番目は「黄玉」とあります。トパーズ、黄色味がかった石です。第十番目は「緑玉髄」、恐らく黄緑とか深緑の色合いをした石であると。そして第十一は「青玉」と出ています。このギリシャ語はヒヤシンスという意味を持ったことばです。ですからこの字のごとくヒヤシンス色をした光沢のある青色をした石。英語ではジルコンと呼ばれるみたいですが、その場合は黄色味がかった赤色の石です。もうややこしくてどんな色かわかりません。最後に出て来る十二番目は「紫水晶」であると。これは何となくわかります。紫色をしたものであると。
つまり、ヨハネが与えてくれたこの土台石の描写はすべて宝石です。少なくとも私たちがこれから教えられることは、まさに神の神殿が置かれているにふさわしい都であることがわかります。この都のその城壁にはこのように美しい宝石がその土台を形成していると。恐らくヨハネは筆舌に尽くしがたい美しさを実際に見たのでしょう。今我々が見て来たように余りにも美しい。そこに神の栄光があり、ダイヤモンドのように輝いている姿です。人間の言葉では表現できないような美しさ、そのまぶしさ。彼は一生懸命それをことばでもって表現してくれました。この城壁の土台はこのような宝石でもって造られていると。
4)門は「真珠」
そして、「門」は21節「また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。」とあります。「十二の門」があることを確かに見て来ました。その「門」はひとつひとつが一つの真珠でできている。こんな大きな真珠がアコヤ貝から採れることはありません。神がお造りになって、高価で、大変大きな真珠でもってこの「門」は造られていると。
5)都の大通りは「純金」
そして、最後、5番目に出て来るのは、都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」と、不純物の一切含まれていない純金でこの道ができているのだとヨハネは教えてくれます。我々はこんな金を見たことがありません。「透き通ったガラスのよう」であったと。つまりこれは神の栄光を妨げることなく、それを正しく正確に、目いっぱい輝かせるにふさわしい状態だったと。
5.「その内部」 22-23節
この都は、そこに存在される神の栄光をありとあらゆるものがはっきりとそのまま輝かせ続けていると、そんな様子です。この都の素材を教えてくれた後、22-23節で今度はその都の内部について彼は教えてくれます。
1)「神殿がない」
22節「私は、この都の中に神殿を見なかった。」とあります。ヨハネにしたら大変な驚きだったでしょう。なぜならいつも神殿は存在していたからです。もちろんヨハネがこれを記した時には、二十数年前にもう既にエルサレムの神殿は滅んでいます。しかし神殿というのは彼らの中では非常に重要な位置を占めた建物でした。なぜかというと、神殿というのは神を礼拝する場所です。旧約の時代においては祭司たちを仲介者として人々は礼拝を捧げました。しかしみことばが言うように「新しいエルサレム」においては、その神殿自体が存在しない。なぜならば、神がそこにおられるから。そこに神がおられるから私たちは仲介者を介してこの方を礼拝する必要もなくなったのです。この方を直接拝することができる。この22節を見ると、イエス・キリストの神性について、イエスが神であることを教えています。「万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」と「万物の支配者である、神であられる主」と「小羊」、イエス・キリストが並列で並べられています。「万物の支配者である、神であられる主」というのは父なる神です。「小羊」というのはイエス様です。彼らが「神殿」であると。どうやってイエス・キリストが神ではなかったと言い切れます?主イエス・キリストは神であられるから、礼拝の対象なのです。
2)「太陽も月もない」
またこの都の内部に関してヨハネは続けて23節でこう言います。「都には、これを照らす太陽も月もいらない。」と。彼が二つ目に気づくことはこの「新しいエルサレム」には太陽も月も存在していない。神殿がないだけではない、この都には太陽も月も存在していない。なぜならば「というのは、」と続き、理由が書いています。「神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」と。ここにもイエス・キリストの神性を見ることができます。「神の栄光が」、父なる神のことです。「小羊が」、つまりイエス・キリストのことです。彼らが光である、あかりであると。「小羊が都のあかり」と言うと、イエス様はヨハネ8:12で「わたしは、世の光です。」と言われた。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとして」いると、ヨハネ1:9です。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。」と、ヨハネ3:19です。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。」と、ヨハネ12:35です。イエス様は何度も何度もご自分が光であるということ、神であるということを言われた。そして「新しいエルサレム」には、光である神がそこにおられるから、もう「太陽も月もいらない」と。
6.「その祝福」 24-26節
24-26節まで祝福が書かれています。「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」と。まず、24節「諸国の民が、都の光によって歩」む様子が書いてあります。神の輝かしい栄光の中を人々が過ごしている様子です。「太陽も月も」ない。神の栄光が輝いている中を人々が過ごしている様子がここに記されています。
1)「地の王たちによる礼拝」 24b節
24節の後半から「地の王たち」による礼拝が書いてあります。「地の王たちはその栄光を携えて都に来る」と。恐らくこれはこの地上にあって王であった者たちが「新しいエルサレム」に招かれるわけです。救われているから。どうもこの者たちが自分たちがこの地上で得ていた名誉や栄光を全部主にお返しして主を崇める様子がここに記されているようです。
2)「諸国の民による礼拝」 26節
26節には、王ではなくて諸国の民による礼拝が書いてあります。「こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る」、王が携えて来るし、諸国の民が携えて来ると。ここで言われていることは、すべての救われた者たち、そこにはありとあらゆる人々が含まれる様子。実は「諸国の民」ということばには「国家」や「人々」、「異邦人」という意味があります。この26節が言っているのは、「諸国の民の栄光と誉れ」、つまり人々が人種に関係なく、肌の色に関係なく、国籍に関係なく、神を礼拝するために集まって来る様子です。そうすると、どうもこの箇所が我々に教えてくれるのは、この新天新地において、「新しいエルサレム」において、すべての人々が平等で、そこには上下の関係は存在していないということ、身分や地位、そういうものは一切関係なく、すべての者たちがこの救いを賜った神に礼拝を捧げに集まって来る様子です。
というのは実際に人々はそうして偉大な王を礼拝し続けて来たからです。人々が偉大な王を礼拝する時に、彼らはさまざまな捧げ物を持ってやって来ました。例えばあのシェバの女王がソロモン王様の所にやって来た時に、大変な捧げ物を持ってやって来た様子がⅡ歴代誌9:1に出て来ます。シェバの女王がソロモンの名声を聞いてソロモンの所にやって来るわけです。「非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。」とあります。また記されていませんけれども、1年間にソロモンのところに入って来た金の重さは、金の目方で666タラントであったと。大変な金が人々によってソロモンのところに持って来られた。また同じようにⅡ歴代誌9:14にも交易商人や仕入れ商人たちがいろいろなものを携えてソロモンの所に来たことが書かれています。「アラビヤのすべての王たち、およびその地の総督たちも、ソロモンのもとに金銀を携えて来た。」、つまり人々はこの偉大な王を崇めるために、さまざまな捧げ物を持って来た。
ここで記されているのは人間ではない。まことの神を崇めるために人々はありとあらゆる物を持って集まって来る、その様子です。何を持って行くではない、人々は神の前に立って心から神様を崇めるのです。王であった者たちもそこにはさまざまな人種が存在しています。でもすべての者たちが神の前に立って、この偉大な神様に心からなる礼拝を捧げる様子がこの箇所に記されているのでしょう。
3)「主の祝福」 25節
そして少し戻って25節では「都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。」と書いてあります。「都の門」はずっと開きっ放しであると。この都には「夜がない」と書いてあります。なぜ都の城壁の門を閉じるのか、しかもなぜ夜閉じるのかを考えてみるとわかります。夜、敵が襲って来る可能性があるからです。敵が侵略するのは夜です。ですから人々はその侵略を防ぐために門を閉じるわけです。でもこの門は開かれていると、「夜がない」と。つまりそういった恐れや不安から全く解放された状態です。この「新しいエルサレム」という都には、完全な平安があり、完全な休息が備えられている。何も心配することはない。だからいつも門が開いている。ここにはもう私たちを悩ます夜が存在していない。主はこのような祝福にあずからせてくださったということをこの話は我々に教えてくれます。
24-26節の人々が神を心から崇めるために集まって来ている様子を見た時にある人はこう言います。「都に来る」と言うと、どうも彼らは都以外の所に住んでいるのではないかと。「都に来る」、「携えて来る」と言っているから、彼らの住まいは都以外のところで、そして彼らはこの都に上って来るみたいな。聖書が我々に教えているのは、救いにあずかった者たちは、時代に関係なく、すべての人々はこの 「新しいエルサレム」に住むのです。ここで言われていることは先ほどからお話ししているように、この人々が神様を心から崇める様子が書かれているのです。
7.「その警告」 27節
最後に27節「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」とあります。「新しいエルサレム」はきよい都であって、ここに入ることができるのは罪の赦しをいただいた者たちだけです。ここにあるように「小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」と、「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。」と。もう既に私たちはそういう人々のことを見て来ました。なぜ彼らが入れないのかというと、これらは救われていない人々の特徴であり、彼らが仕えている自分たちの主人の特徴を表しているからです。「汚れ」や「憎むべきこと」を行なうとか、また「偽り」であるとか、これは彼らの主人であるサタンの特徴です。ゆえに彼らはこのきよい都に入ることができない。
こうしてすばらしい「新しいエルサレム」の詳細を説明してくれた後で、再びヨハネがあなたはそこにちゃんと入ることができますかと、あなたは確実にこの「新しいエルサレム」に住まいを設けていますかと、それを問いかけているように思います。私は死んでも神が備えてくださった永遠の住まいに行くことができるのですと、あなたがどんなに強く思い込んでいたとしても、救いにあずかっていなければあなたはそこに行けません。いえ、私はずっとそれを信じて来ました、ずっとそれを確信して来ましたと言っても、問題なのはあなたがどのように信じ、どのように確信しているかではなくて、神があなたの名前を「いのちの書」に記してくださっているかどうかです。
そういう質問を受けると不安になります。それは大切なことです。確実に私の名前がそこに記されているかどうか考えてみなければいけない。わかっていることは私たちは死に向かっています。この肉体が滅びる時がやって来ます。その後どこで永遠を過ごすかです。最後にみことばが言うように、「汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者」、つまり主イエス・キリストによって罪の赦しをいただいていない者たちは、決してこの都に入ることができないと。あなたは大丈夫ですか?もしこの中でまだ私は救いがはっきりしていないという方がおられたら、ぜひ声をかけてください。あなたの永遠がかかっています。救われているのだったら、あなたはどのようにしていただいたすばらしい救いを人々に伝えて行くのか、そのことを考えてこの一週間生きることです。すばらしい約束を下さった神様、このすばらしい神を、そして備えられたすばらしい永遠の都、それがすべて信じる者たちに与えられるのだということを伝えることが私たちに与えられた使命です。しっかりそれをこの一週間も果たしましょう。
《考えましょう》
1.天国の住民を挙げてください。
2.新しいエルサレムに神殿がないのはどうしてですか?
3.この都に入れない理由は何でしょう?また入れるのはどうしてですか?
4.主がきょう教えてくださった真理は、あなたの日々の生活にどのような影響を及ぼすでしょうか。
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