Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録21:6-8
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私たちはこの21章から、私たちの希望である「天国」について学びを始めました。主が今の天と地を滅ぼされて、新しい天と地を造られる。そして、その都が「新しいエルサレム」であるということを学びました。その新しいエルサレムにあって、私たち救いに与った者たちは、どの時代にも関係なく、主と親密で特別な交わりを楽しむことが約束されていました。また、そこには主の慰めがあるとみことばは教えていました。この地上で経験するありとあらゆる涙することのそのすべてがこの世とともに滅んでしまう。そして、神は新しくこの天と地を造り変えられると。「なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。…見よ。わたしは、すべてを新しくする。」(21:4-5)と教えられました。
さて、この新しいエルサレム、これこそ主イエスが「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネの福音書14:2)と約束されたその場所であったと見て来ました。すでに死を迎えたクリスチャンたちは今ここにいます。また、あの十字架に架けられた犯罪人の一人にイエスが「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われたその場所でもあるのです。
この「新しいエルサレム」、厳密に言えば、ここは天国ではなかったと話しました。新天新地がそうなのです。神がお造りになる新しい天と新しい地、その中心が「新しいエルサレム」であると、そのことを見て来たのです。信仰者である一人ひとり、私たちはこの希望をもって今日を生きることです。このような希望を神はあなたに与えてくださったのです。また、この希望をもってあなたが生きるなら、あなた自身の歩みが変わっていくだけでなく、あなたは福音宣教においてもより熱心な者へと変わっていくのです。なぜなら、自分がどこに行くのかを知ったなら、自分の愛するすべての者たちも同じところに来てもらいたいと願うのは当然のことです。永遠の地獄があるということを知った以上、私たちは愛する者たちがそこに行くことなどだれも望みません。だから、主が備えてくださった唯一の救いを、この福音をしっかりと語り続けていくのです。その強い思いをもって日々を歩んでいくのです。その意味でも、私たちはこの永遠の希望をしっかりと覚えて生きることが大切だということが分かります。
今日は、21:6から見ていきます。思い出してください。
A.新天新地 1節
B.新しいエルサレム 2-4節
5節には主がヨハネに命令を与えていることが記されています。「すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」と。恐らく、ヨハネはいろいろなことを見て、集中力が切れていたのではないかと言われています。そこで主は今一度ヨハネに対してしっかりと書き続けて行きなさい。なぜなら、これからわたしがあなたに示すことはとても大切なことだから。」と励まします。大切なことが今日私たちが見ていく箇所に記されています。それは、私たちクリスチャンの希望である天国、この「天国の祝福」をどうすれば得ることができるか?について主は教えておられるのです。言い方を変えるなら、「どうすれば救われるのか?」です。また同時に、この箇所は「どうすればこの救いを逃してしまうのか?」、そのことも記しています。ですから、「ヨハネよ、これからわたしが語ることばを書き記しなさい」と命じられたのです。6-8節から、「救いについて」、「主の贖いについて」ごいっしょに見ていきましょう。
C.主の贖いの歴史の完結 6-8節
この箇所を「主の贖いの歴史の完結」としました。その説明をしていきます。
1.事は成就した 6a節
6節の初めに「また言われた。「事は成就した。」…」とあります。イエスが十字架に架かったとき、最後に「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:30)、「完了した」、すべては終わったとそのように宣言されました。この宣言こそ、私たち人類にとっての希望の宣言であり、勝利の宣言そのものです。イエス・キリストはこの地上に来られたその目的のすべてを果たされたのです。言い方を変えると、「贖いのみわざを完成」なさったのです。イエス・キリストの十字架によって、私たち罪人に希望がもたらされました。「救い」という希望です。イエス・キリストによって信じるすべての罪人の罪が赦されて救いに与るという最高の希望が備えられたのです。その宣言でした。
でも、この箇所では「事は成就した。」と神ご自身が言われています。この宣言はいったい何でしょう?これは「贖いの歴史の終わり」を告げているのです。説明します。主なる神は私たちが今住んでいるこの天と地を創造されました。完璧なものでした。ところが、人間の罪によってそれらはすべて汚れてしまいました。しかし、主は救いの約束を与えられました。その約束は、信じるすべての罪人を新しく造り変えてくださるだけでなく、この天と地をも新しく造り変えるという約束でした。神の約束は、今私たちが見ているこの天と地ではなく、全く異なる新しいすべておいて聖い天と地を創造するということです。そして、今、そのすべての約束が成就したことを宣言されたのです。約束通り、神は罪に汚れてしまった天と地を滅ぼして、全く新しい天と地を創造されたのです。
次を見ると、この約束が神ご自身による宣言であるということを明らかにするためにこう記されています。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。」、実は、これは「神ご自身の自己紹介」であると、私たちは黙示録1:8でそのことを学びました。「アルファであり、オメガである。」、ギリシャ語のAであり、ギリシャ語のZであると。「アルファ」はアルファベットの最初の文字であり「オメガ」は最後の文字です。これらは何を意味しているのか?思い出してください。
◎神とは?
1)永遠性 :
1)永遠性 :
神は永遠に存在される方である。神の永遠性を明らかにしていました。「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、…」(黙示録1:8)。つまり、時間を超越されているお方です。だから、不変なのです。神が言われたことは変わることがないのです。決められたことを変えることは神においては絶対に有り得ない、そういう神だということが明らかにされたのです。
2)全知 :
また、全知であることも明らかにしました。神は完全な知恵をもっておられるお方、永遠から永遠まですべてのことをご存じだということです。知らないことは何一つありません。人間がどんなことをするのか、どのように逆らっていくのか、あなたの歩みに関してもすべてのことをご存じである方、それがアルファでありオメガであるお方です。
3)主権者 :
もう一つ、この方は主権者であるということを明らかにします。「最初であり、最後である。」と、つまり、主なる神は歴史を始められたお方であり、それを終わらせるお方であると言うのです。つまり、このお方はその権利を持っておられるお方である。すべてのことを支配しておられる主権者であるということを強調するのです。ですから、ご自分の計画に基づいて何かを始められることも、また、それを終わらせることもお出来になる方です。そういうお方だということが改めてここで記されているのです。
このようなお方だから言われたことを実現することができるし、約束を必ず成就なさるお方だと言います。ですから、私たちが見ている約束とは、全能であり、すべての主権者であり、そして、全知である神によるものであると、このようにこの6節が教えるのです。だから「信じなさい。敵がどのように強力であっても恐れることはない。主の約束にしっかり立って歩んでいきなさい。」とそのように言われるのです。
2.備えられた救い 6bー7節
さて、この後、6節の後半から7節にかけて、救いのことへと話が移行していきます。神がどのような救いを備えてくださったかだけでない、どのようにしてそれを得ることができるのか?そのことまでちゃんと教えてくれています。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。…」、「これらのものを相続する。」とは「神の祝福」です。永遠の祝福のことです。主イエス・キリストの十字架によって、私たち人間に神は完全な救いを備えてくださいました。だれにでもこの罪の赦し、救いは備えられています。そして、今もこの天国への扉、救いの道は開かれています。でも、この救いを得るためには、次の二つのことをどうしてもあなた自身がしっかりと覚えていなければいけない。この二つの条件がどうしても救いを得るために必要だと言うのです。
一つは「渇く者」、もう一つは「勝利を得る者」です。あなたにとって最も大切なことは何か?それは主が備えてくだったこの救いに与ることです。でも、救いに与るためには、どのようにすればいいのかを知らなければなりません。実は、今見ているこの箇所はそのことを教えているのです。だから、主はヨハネに言ったのです。「しっかりと書きしるしなさい。大変重要なメッセージだから。」と。救いをいただくためには何が必要なのか?どうすればいいのか?そのメッセージを見ていきましょう。
◎救いの祝福に与るための二つの条件
1)主に救いを求めること : 渇く者
救いを得るためには「主に救いを求める」ということです。それがこの「渇く者」ということです。
(1)いのちの水
6節に「いのちの水の泉から」と書かれています。この「水」ということばは「永遠のいのちを象徴」
しています。そして「いのちの水」と書かれていますが、辞書を見ると「永遠のいのちを与える水である、その泉である」と書かれています。ですから、神が言われていることは、永遠のいのちを与える水、その泉をわたしはもってあなたたちに飲ませる、あなたたちに提供するということです。
(2)価なしに飲ませる
「値なし」と非常におもしろいことばを使っています。これは「ギフトとして、無料で」という意味をもったことばです。この副詞の名詞形は「賜物」と訳せることばです。つまり、この永遠のいのちというものは価なしに無料で得るものだ、購入するものでなくて与えられるものだとそのことを主ご自身が言われるのです。ギリシャ語の辞典を見ても、このことばは「無料、ただのギフトである、代金を払わない」という意味があるのです。
ですから、この世に存在するすべての宗教と異なることがここに記されているのです。みことばが教えることは、あなたがどんなに努力をしようと心を入れ替えようと、あなたの行いによって救いを得ることはないということです。聖書が教えている救いは、一方的な神からのギフトであって、お金を支払うことによって、また、あなたの努力で得られるものではないのです。イザヤ書55:1-3にはこのように記されています。「:1 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」、お金がないのにどうやって買うことができるのか?言いたいことは、それらはすべて無料だということです。続いて「:2 なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」とあります。
もう一度6節を見てください。この「永遠のいのち」、いったいこれをだれが与えてくれるのでしょう?「わたしは、渇く者には、…」と「わたしは、」ということばが出ています。6節の後半の初めに書かれていることばが「わたし」です。つまり、この約束が神ご自身のものだということを強調しているのです。神ご自身がいのちの水を与えると、その水の泉から人々に飲ませるのだと、その約束をしているのです。ですから、まず、このすばらしい救いに与るために必要なことは、その人が「主に救いを求めること」です。自分自身のうちに渇きがある人が水を求めるように、「神さま、私には救いが必要です。」と言って、神に救いを求めるのです。
2)主イエスを信じること : 勝利を得る者
「勝利を得る者」、これは主イエスを信じることを教えています。「勝利を得る者」と言ったとき、どういうことかよく分からないのですが、この黙示録を記しているヨハネ自身がこのように言っています。Ⅰヨハネ5:4-5「:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」、イエス・キリストを信じる者こそが世に打ち勝った勝利者だとヨハネ自身が教えています。ですから、この7節にある「勝利を得る者」とはイエスを信じた者たちのことです。
6,7節で、すばらしい永遠の祝福をいただくためにどうするのか?本当に自分は罪の赦しが必要だ、救いは必要だということを確信してその救いを求め、そして、備えられた完全な救い、救い主イエス・キリストを信じることであると、そのように記されています。このことは余りにも大切であるゆえに、もう少し説明します。私たちがこの救いに与るために、つまり、救いを求めてイエス・キリストを信じるために必要な三つのことを話します。
◎主に救いを求め、主イエスを信じるためには…
(1)自分を正しく知っていること
・自分の罪深さ : まず、自分自身の罪深さを正しく知ることです。私たちが常にすることは人と自分を比較して「あの人よりましだ、この人とはどうか?」ということを考えてしまうことです。私たちがしなければいけないことは、神が私をどうご覧になっておられるか?私を造った神が私をどうご覧になっているか?を考えることです。自分がいかに神のみこころから外れているのか、自分には救いが必要だ、創造主なる神に逆らい罪を犯し、神のさばきによって地獄に送られる、それにふさわしい者であると、私たちはそのことを知らなければいけません。心から「本当にそうだ!」と。
・自分の無力さ : もし、私たちのどこかに自分が努力さえすれば救いに与ると思っているなら、あなたは救いから一番遠いのです。私たちは自分の力で救いを得ることはできないのです。この前、ニュースで「ため池の危険」を報じていました。藻が覆っているから一生懸命上がろうとしても滑って上がることができないのでため池で溺死する人が多いと。助けてもらわなければいけないのです。そのような存在だということに私たち自身が気付かないといけないのです。どんなに頑張ってもどんなに心を入
れ替えても、あなた自身生まれ変わることはできないのです。なぜなら、あなたの努力がどんなにすば
らしい努力であるかと人々が言ったとしても、神の満足を得ることはないからです。
(2)主を正しく知っていること
・主イエス・キリストが真、唯一の神であること
・主イエス・キリストが真、唯一の救い主であること
このことを知らなければなりません。つまり、このイエス・キリストの十字架には救いの力があること、イエス・キリストだけが私の罪を赦し、永遠のさばきから救いをもたらしてくださるお方であること、そのことを正しく知ることです。イエスが真の神であること、唯一の救い主であることは、彼の十字架と、そして、復活が明らかにしました。
(3)救いを正しく受け入れること
自分が罪深い存在であること、イエスが神だということを知ったとしても、ただ、その知識を蓄えるだけでは、あなたに救いが与えられることはありません。この救いを正しく受け入れることです。
・主に対して逆らって来たこと、すなわち、自分の罪を心から主の前に悔い改めること
「神さま、私はこれまであなたの前を正しく歩んで来ませんでした。あなたに逆らって歩んで来ました。赦してください。もう、あなたに逆らう生き方を止めます。そして、私はあなたに従っていきます。」と、このような心からなる悔い改めが救いには必要なのです。
・神が備えてくださった完全な救いを求めること
神であり救い主であり、そして、主権者なるイエス・キリストをあなたの神、あなたの救い主と、そして、あなたの新しい主人として信じてこの方に従って行くことを決心するのです。「神さま、私は間違っていました。罪から離れてあなたに従っていきます。私は神であり救い主であり主権者であられるあなたを信じて、私の神と信じてあなたに従っていきます。」と。
・主が罪の赦しを約束通りに与えてくださったことを信じること
多くのクリスチャンたちは自分が本当に赦されているのかどうか不安に思っています。私たちの信仰は神が言われたことを信じるのです。イエスを信じる者に神は救いを与えてくださると、その約束を信じるのです。そして、神があなたを救っておられたら、間違いなくあなたの生活に変化が生じて来ます。
・どのような変化でしょう? : まず、神を愛し罪を憎むという変化です。実際にこのようなことが起こったことを聖書は教えています。思い出してください。
例 = ペンテコステのときにペテロがメッセージを語りました。多くの人たちがそのメッセージを聞いていた時に、彼らの中にある変化が起こっています。ペテロはこのように言います。使徒の働き2:36-38「:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」、彼らは自分の罪が示されたのです。そのときに「私たちはどうしたらよいでしょうか」、私たちは罪を犯して来た…と言います。ペテロはこのように答えています。「:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と。つまり、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを信じるようにとペテロは勧めるのです。
もちろん、彼ら自身が自分の罪に気付いたというのは、聖霊なる神の働きであるということは聖書が教えることです。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)。ですから、皆さんがイエス・キリストを信じるとき、神の前に「私は大変な罪人です。私こそが罪人のかしらです。滅んで当然です。主よ、どうぞお赦しください。」と、そのように自分の罪深さに気付いて神の前にそれを悔い改める、それができたのは、あなたのうちに神が働いておられたからです。そのように聖書が私たちに教えてくれるのは、救いというのが、この悔い改めも含めて神の恵みであるからです。
でも、私たち一人ひとりが自分に問いかけなければいけないことは、私は本当に自分に救いが必要であることに心から気付いて、その救いを主に求めたかどうかです。みことばが教えたことは「渇く者に」です。「私は本当に罪の赦しが必要です。私には本当に救いが必要です。」と、そのような渇きを覚えて神の前に救いを求めたかどうかです。ある人々はもしかすると「ただ天国に行きたい、だから、イエスを信じよう。」と、そのような選択をしなかったかどうかです。みことばが教えているのは「渇く者に水を与えてくれる」です。救いが必要だということを本当に心の底から感じている者たち、信じている者たちに、神は救いを与えるのです。
例 : もう一つの出来事を紹介します。皆さんよくご存じです。この箇所が明らかにしていることは、渇いていた人とそうでない人、救いの必要を感じていた人とそうでない人のことです。二種類の人がここに出て来ます。二人の人が祈るために宮に上ったときのことです。思い出しましたか?ルカの福音書18章に記されています。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人でした。18:10-14「:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。』、もし、私たちがこのパリサイ人に質問することができるなら、こういう質問をしたいと思います。「あなたが天国に行けるというその根拠は何ですか?なぜ、あなたは死んでも天国に行けると思うのですか?」と。彼はこのように答えています。「:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』と。イエスが言われたことは「残念ながら、あなたは天国にいけない。」です。この人物はこういう行いによって救いに与ると信じていました。私たちが気をつけなければいけないのは、どこかの集会で手を挙げたとか、何か特別な祈りをしたとか、そのような特別な行為があなたを救うのではないということです。あなたが心から救いの必要を覚えて、心から神の前に救いを求めた時に、渇く者に救いが与えられるのです。救いの必要性を感じてはいないけれど天国に行きたいから…、そのような人に神は救いを約束しておられません。ぜひ、自分自身に問い掛けてみてください。私たちは救いが必要なことに心から気付いて主に救いを求めたかどうか…と。
一方、取税人はどうだったか?「:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」と書かれている通りです。
さて、そのような人たちにすばらしい約束がされています。7節をご覧ください。
☆彼らへの祝福の約束 7節
7節「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」、
・永遠の祝福を得る : 主イエス・キリストの救いに与った者には永遠の祝福が与えられます。
・神との特別な関係を得る : 永遠の祝福とともに、その人は神との特別な関係を得ることがここに書かれています。
⇒「わたしは彼の神となり、」=「わたし」は神です。「彼の」は単数です。この約束が最初に為されたのはアブラハムに対してです。創世記17:7-8にこのように記されています。「:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」。
⇒「彼はわたしの子となる」=どちらも三人称の単数が使われています。個人的な関係です。そして、この約束が最初に与えられたのはダビデに対してです。Ⅱサムエル7:14「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」と。つまり、この黙示録21:7では、主の救いに与った者たちにはこんなすばらしい個人的な神との関係をいただくのだと書かれているのです。だから、私たちクリスチャンはもう一人ぼっちだとは思わないのです。あなたはもう神と特別な関係に入れられたからです。この方はあなたの神であり、あなたはこの方の子であると。どんな時にもこの関係は変わることがなく、どんな時でもこの神があなたから離れることはないのです。
3.拒まれた救い 8節
さて、このようなにすばらしい祝福の約束があるのですが、最後に8節をご覧ください。すばらしい神の救いが備えられていながら、それを拒んだ者たちのことが書かれています。「拒まれた救い」のことです。八つのリストがあります。
1) おくびょう者 :
これは性格ではありません。これは迫害や反対に直面するとキリストへの信仰を否認する人たちのことです。つまり、迫害や困難が起こると神から離れて行く、教会から離れていくような人たちのことです。まさに、この人たちはマタイの福音書13章に書かれている「岩地に蒔かれた種」のような人たちです。マタイ13:20-21「:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」、何も問題がなければ集まりに加わっていますが、いろんな問題が生じてくると離れていってしまうのです。なぜですか?その人のうちに根がなかったからです。つまり、救われていない人たちのことです。そして、信仰を持っている皆さんは確かに弱さを覚えることがあるでしょう。でも、感謝なことに神が皆さんを強めてくださる、ちゃんと守ってくださるのです。
2)不信仰の者 :
ここでは「忠実でない人たち、信頼できない」という意味のことばが使われてい
ます。主への忠誠を放棄する人のことです。もっと分かり易く言うなら、口ではクリスチャンだと言いながら、言動においてキリストを否定している人たちのことです。パウロがテトス1:16でそのことを非常に分かり易く言っています。「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」と。このような人のことです。クリスチャンだと言っていながら、その歩みを見るなら、この世の人たちと全く変わらないような生き方を継続して行っている人です。
3)憎むべき者 :
このことばは新約聖書に2回しか出て来ていません。この箇所とローマ2:22だけです。このことばは「悪臭のゆえに顔をそむける、忌み嫌う」という意味をもったことばです。つまり、あらゆる汚れを含んでいますが、特に、異教の教えを受けたり、そういうことに従う者たちのことです。教会に来ているかもしれない、クリスチャンの交わりに参加しているかもしれない、でも、こういう人たちはそのような異教の教えを受けてそれに従っているのです。まさに、それは神に憎まれることです。黙示録17:4-5「:4 この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。:5 その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。」、21:27「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」
4)人を殺す者 :
もちろん、これは大きな罪ですが、どちらかと言うと、これは特に患難時代において見られることです。多くの人々が選択を迫られました。獣につくのかどうか?です。獣につくということは、多くのクリスチャンたちが殺されていくのを容認するのです。彼らはクリスチャンを迫害する。また、殺害するグループの一員です。確かに、そういう人たちがいることは黙示録に書かれていました。17:6「そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」、18:24「また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」、クリスチャンたちがその信仰ゆえに殉教していきます。彼らとともに立つのではなく彼らを迫害する人々の立場に立っている人たち、それが恐らく「人を殺す者たち」でしょう。
5)不品行の者 :
厳密に言えば「男妾」のことですが、このことばには性的なすべての罪が含まれています。
6)魔術を行う者 :
これも魔術だけでなく「まじない」という意味があります。このことばが宗教と結びついているときは、真の神以外を崇拝する意味として使われます。恐らく、この魔術を行う者というのは、特に、黙示録13章で見た「獣」のことです。獣がいろいろな奇蹟を行いました。例えば、13:13には「また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。」とあります。様々なしるしをもって人々を惑わしたのです。「魔術を行う」、だれが行っているのか?神ではありません。サタンです。そういうものに心開いて歓迎している人たちのことです。
7)偶像を拝む者 :
今いろいろと見て来ましたが、「憎むべき者」、「人を殺す者」、「不品行の者」、「魔術を行う者」、これらは「偶像」と密接に関わっています。「偶像を崇拝する人たち」とは間違いなく神が憎まれる偽りの教えに心を開いてしまっているし、「偶像崇拝」と「不品行」は密接に関連しています。つまり、偶像を拝む者はその背後にいるサタンが行う様々なことを信じる人々ですから、非常に関連していることが分かります。
8)偽りを言う者 :
このように八つの特徴が記されていますが、この人々が救われていないということは、まさに、この特徴はサタンの特徴であるということです。これらを見る時に、彼らの主人がいったいだれなのかということを私たちは知ることになります。イエスはこのように言われました。ヨハネ8:44「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」。
ですから、21:8に記されている人々、彼らのその生き様はまさに彼らの主人がだれなのか?サタンであるということを明らかにしているのです。この人たちが救われていないことは、この後の22章にも同じことが記されています。22:15「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」と、この祝福に入ることができないということです。これらは神の特徴と全く異なります。民数記23:19を見ましょう。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」。
◎彼らが受け取るものは「火と硫黄の燃える池の中にある」ものが約束されている
8節の最後を見てください。「‥受ける分は火と硫黄との燃える池の中にある。」とあります。彼らが受
けるものは「火と硫黄の燃える池の中」にあるものだと言います。では、彼らはどのようなものを受けるのでしょう?
・永遠の苦しみ : 私たちが見て来たように、そこにあっては「永遠の苦しみ」を受けます。黙示録20:10を見てください。「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」と記されています。これが彼らの受ける分です。彼らはサタンに従ったゆえに、神に逆らったゆえに、彼らには永遠の苦しみというものが与えられるのです。
・神の怒り : もう一つ挙げるなら、彼らは「神の怒り」を受けます。ヨハネ3:36に「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とあります。この「とどまる」という動詞は現在形です。「継続してとどまり続ける」ということです。彼らの上には継続して永遠に神の怒りがとどまるのです。それはなぜか?この人たちは神の救いを軽蔑したからです。主イエス・キリストがいのちがけで備えてくださった完全な救いを、「救いをもたらすことなど有り得ない」と偏見をもって侮ったからです。
また、彼らは神によって備えられた救いだけでなく、罪人を愛して救いを備えてくださった神ご自身を蔑んでいるのです。本来なら、敬うべき神を嘲る、それが彼らの選択でした。これは全く新しいことではありません。イエスがこの地上に来られたときにも、人々は同じようなことをしました。ですから、時代がどうあろうと、神に逆らう者たちは同じことをするのです。神に感謝をささげるどころか、神を敬うどころか、神を蔑み神を嘲るのです。ですから、彼らには彼らの選択にふさわしい報いが確かに待っているのです。
先にも見たように、彼らが火と硫黄の池の中で苦しむこの苦しみ、彼らが味わう神の怒りというものは永遠に止むことがありません。永遠に苦しみ続けるわけです。しかも同時に、そこには慰めや救いという希望は微塵たりとも存在していません。永遠に終わることない苦しみがそこにはある。この人たちが経験する大変恐ろしいさばき、これこそが「第二の死である。」とみことばは教えます。
さて、この大切なみことばは私たちに今、私たちが覚えなければいけないことを教えてくれました。この「第二の死」を経験した人たち、永遠の地獄に至った人たち、彼らの問題が何であったかと言うと、この救いを神の前に求めなかったことです。救いが備えられているにも関わらず、彼らは自分には救いが必要であることに気付いていません。また同時に、神の警告である「さばきが来る」という警告を無視し続けていました。それゆえに、彼らは彼らに一番ふさわしい「永遠のさばき」を自らに招いてしまうのです。
しかし、この水を求める者、救いを求める者には救いは与えられます。罪からの聖め、赦しを求める者には与えられます。黙示録22:17に「御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」と書かれています。あなたが今考えなければいけないことは、永遠のいのちの水を神に求め、それをいただいたかどうかということです。もし、そうでなかったら、まだ神は今日それをあなたに与えてくださいます。自分の罪を悔い改めて、救いを求めて主の前に出て来ることです。そのことを心からお勧めします。
《考えましょう》
1.「事は成就した」(6a節)を説明してください。
2.「救いを得る」ためにはどうすればいいのかを聖書から記してください。
3.8節に記されている人たちは、どうして「救いを得ることがない」のか?その理由を記してください。
4.今日、主のみことばからあなたは何を教えられましたか。
信仰の友と話し合ってみてください。
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