Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録21:1-5
Listen: メッセージを聴く
Read: メッセージを読む
Watch: メッセージを見る
どうぞヨハネの黙示録21章をお開きください。
私たちクリスチャンの希望は言うまでもなく天国です。私たちは死んでも生きるのだという希望を持って日々を過ごしている者です。パウロはそんなふうに生きていました。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」と、パウロがⅡコリント5:1で言うように、彼はしっかりと天を見据えて日々を過ごしていた。もし私たちが天国を覚えながら日々を歩んでいるのなら、間違いなくその人の生き方に変化が生じて来ます。そのことについてペテロはⅡペテロ3:13-14にこんなことを言っています。「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」と。つまりイエス様にお会いする時を覚えて生きているならば、神様が約束された天国を覚えて生きるならば、きょうの歩みに必ず変化が生じるという話です。主にお会いするための備えをもってきょうを生きて行くなら、そのような歩みが始まるとペテロは教えます。
こうして歩んだ信仰の勇者たちに共通していたことは、彼らは間違いなくイエス様にお会いする天を、その永遠を思いながら日々を過ごし、そのことを通して彼らの信仰は成長し、日々変えられていたことは疑う余地もありません。また、そのように生きていたから彼らはどんな困難を経験しようと、その中にあって喜びを持ち、また忍耐を持って歩んで行けたのです。パウロは「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」とⅡコリント4:17で言います。つまりこの苦しみは永遠に続くものではないと、この困難は必ず終わりを迎える時が来るとみんな知っていたのです。そしてその後、すばらしい神と永遠を過ごせるのだと。しかもこの地上におけるさまざまなことを神はちゃんとわかってくださり、それにふさわしい報いを下さると。その希望がその日の歩みに変化をもたらして行くのです。間違いなく彼らはそうやって生きていました。
そしてそのように歩んでいる人たちを神が用いてくださる。神様が望んでおられるように彼らを用いて行かれる。なぜならこの救いにあずかった私たちは、この救いのすばらしさを人々に伝えるために生かされているのです。私たちは、主によって与えられた永遠の希望を人々に伝えるために、また、永遠の希望をいただいた者として歩むことによって、なぜあなたはこの状況で希望を持ち、喜んでいられるのですかと、人々にその希望に対しての渇きをもたらすようにと。Ⅰペテロ3:15に「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。私たちが正しく歩んで行くならば、周りの人たちはそのことに気づくと言うのです。私たちは、永遠の希望、すなわち救いを宣べ伝えるという働きを主から賜った者たちです。
イエス様は、不正な管理人の話を用いて福音宣教の大切さをお話になっておられます。恐らくその箇所、ルカ16章は皆さんも何回もお読みになって、多分疑問に思われた所があると思います。イエス様は不思議なことを話しておられます。主人の富を使って、自分の将来の備えをした不正な管理人の話です。その中で、イエス様が9節「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」と言われています。今お話ししたようにひとりの不正を働いた管理人が自分の首が切られることを恐れて、もしそのようなことが起こってもちゃんと自分を迎えてくれる友を作るためにまた別の不正を働くわけです。彼は非常に抜け目なく帳面を調整しました。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。」、この不正な管理人は自分の主人の富を用いて自分のために友人を作ったのです。この「不正の富」というのは「この世の富」と訳せます。
金の話です。彼はそれを用いて、自分のために、この地上の生活を考えてこのようなことを諮ったのです。そこでイエス様は、信仰者であるあなたも主人の富を用いて友人を作りなさいと教えるわけです。ただしどこが違うのかというと、どこでこの友人たちが迎えてくれるのかということです。この不正な管理人の友人たちはこの地上で迎えてくれる。9節には「永遠の住まいに迎える」とありますから福音宣教の話です。イエス様は、あなたたちは地上ではなくて天であなたたちを歓迎してくれる人を作りなさいという話をしているのです。一体だれが天で歓迎してくれるのかというと、救いにあずかった者たちです。ですからイエス様は、あなたたちも主人である私の富を用いて福音宣教をなし、あなたが天に行った時に彼らがあなたを歓迎してくれるのだとお話になったのです。私たちがこの地上に置かれているのは、地上にあってこのすばらしい福音のメッセージを伝えて、ひとりでも多くの方が永遠のいのちに至るようにと労するためで、そのことを主が私たちに求めておられることは明らかです。
もし地上のことにすべてを費やすのだったら空しい話です。でも天のために永遠のために私たちがすべてを費やすのだったら、それは決してむだなことではありません。私たちはこの地上にいて、イエス・キリストがどんなにすばらしい救い主なのか――。すべてをお造りになった創造主なる唯一の神がどんなに偉大な方なのか――。そしてこの方が与えてくださる救いがどんなにすばらしいものなのか――。私たちはことばをもって、私たちの歩みをもって明らかにして行くのです。私は天に希望があるのだ、私は死んでも生きるのだ。私は永遠のいのちを主からいただいているのだ、私は罪の赦しを神からいただいたのだと人々の前で明らかにして行く、我々はそうやって生きるのです。
A.「新天新地」 1節
きょう私たちが見て行く21章は、私たちの希望である天国について教えてくれます。あなたや私がどこに行くのか、それはどんな所なのかを主が明らかにしてくださいます。
まず21:1を見ると、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」とあります。私たちはこれを「新天新地」と呼びます。実はこのことばはイザヤ書のみことばに由来しています。イザヤ65:17に「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」と記されています。また同じイザヤ66:22にも「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように」とあります。つまり預言者イザヤはこのようなことを預言したのです。そしてヨハネは私たちにその預言が成就したことを教えてくれます。神様が言われたことは必ずそのようになる、神が言われたように新天新地が神によって創造されるのです。今私たちはこの21章の中に預言の成就を見ているわけです。
1節「以前の天と、以前の地は過ぎ去」ったというのは、すべてが滅ぼされて神が全く新しい天と地を創造されたことを教えます。「新しい天と新しい地」と「新しい」ということばが出ていますが、これは本質的なことを指しています。古いものが改装されたという意味ではなく、本質的に全く新しいもの、これまでに見たことのないもの、これまでのものとは全く異なるものをお造りになるということです。神様が今我々が住んでいるこの天地をお造りになった時、それは完全でした。しかし、人間の罪によってそれらすべてが汚されてしまったことを私たちは何度も学んで来ました。このようなことが起こったのを見ておられる神は「こんな予期せぬ出来事が起こってしまってどうしましょう」と言われているかというと、全くそんなことはありません。神様は人間が罪を犯すこともご存じですから、新天新地を創造することも実は神のご計画の中にちゃんと備えられていたのです。お造りになった世界は完全でした。しかし人間の罪によってそれが汚されてしまった。そして神はあなたたちがその道を選択するなら好きにしなさいと言われて、人間は罪に罪を重ねて来ました。でも神はそれもちゃんとご存じであり、後に神は「新しい天と新しい地を創造する」と約束され、そしてまさにそれが起こった様子をヨハネが見ているわけです。
この新天新地の特徴が記されています。「もはや海もない」とあります。なぜ「海」が出て来るのか不思議だと思いません?今のこの地球の特徴というのは「海」です。地球上の70%を占めている海が新天新地においてはないと言っています。なぜこのようなことが記されているかというと、ヨハネは神がお造りになる新天新地は今の私たちが見ている天と地とは全く違うものだということを教えようとしています。そのために私たちが少し知っておきたいのは、当時の人々が「海」に関してどのような観念を持っていたのかです。実はこの当時の人々は「海」というのは大変危険な場所であり、人類に敵対するものだと考えていたようです。ヨハネが黙示録を記している時、自分が愛したアジヤの教会にいたわけではなく、パトモス島へ抑留されていました。パトモス島にいたヨハネと自分の愛する教会の関係を隔てているのは「海」でした。ヨハネとアジヤの自分の愛する教会との間を引き裂いていたのが「海」でした。また「海」と言うと、破壊や死を引き起こすものであると人々は見ていたわけです。ですからイザヤ書の中にも「海」に関してこんなふうに書かれている所があります。「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。」(イザヤ57:20)。「荒れ狂う海のようだ」、悪者どものことをそのように表現しています。
また、マスターズ神学校のDr.トーマスはレオン・モリス先生のことばを引用して「海」についてこんなふうに語っています。「海は、七つの悪の一つであり、それらはもはやない。他の六つは、死、悲しみ、叫び、苦しみ(4節)、のろい(22:3)、そして夜(22:5)である。」と。これらはみんな悪の一つなのだと。もちろん「海」そのものが悪だと言っているわけではなく、そのように見られていたということです。そこでヨハネが教えてくれるのは、そういったものが全く除かれた「新しい天と新しい地」が神によって創造されるということです。この新天新地において、確かに「海」はないのですが、22:2にはそこに川があることを我々は見ることができます。
B.「新しいエルサレム」 2-4節
2-4節を見ると、そこに「新しいエルサレム」の話が記されています。
1.「神からの都」:「聖なる都、新しいエルサレム」
1)「聖なる都」
2節「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」とあります。つまり神からの都のことがここに記されています。新天新地が作られた後、その都がどこかというと、この「新しいエルサレム」なのです。まさに天国の中心とも言えるのです。どのような都なのかが書かれています。そこは「聖なる都」である、つまりこの「新しいエルサレム」というのは完全にきよい、聖なるものであると表現することによって、これまでのエルサレムとは違うことを言うわけです。これまでの古いエルサレムは罪に汚れていました。あの千年王国でも中心はエルサレムでした。そのエルサレムは千年王国にはふさわしかったのですが、この新天新地にはふさわしくないのです。だから「新しいエルサレム」と記されています。なぜ「聖なる」と言われているかというと、この「新しいエルサレム」には、神の御座があるからです。聖なる神の御座がそこに据えられている。二つ目はそこに住む者たちはこれまでとは違ってすべての人々が聖なる者たちだから「聖なる都」と呼ばれているのです。
2)「神の御座にふさわしい都」
二つ目にこの箇所が我々に教えてくれているのは、この都は神の御座を置くにふさわしい都で、先ほども見たように、この「新しいエルサレム」には神様の御座があることを教えてくれます。「夫のために飾られた花嫁のように整えられて」と、「聖なる都、新しいエルサレム」の説明がなされています。この「新しいエルサレム」の説明に、象徴的に結婚を用いていることは見てわかります。つまり花嫁が結婚式にふさわしい準備をもって花婿を待つように、「新しいエルサレム」も神の御座が置かれるにふさわしい備えがなされて、整えられた所であると。
この「夫のために飾られた花嫁のように整えられて」とある「飾られた」という動詞、このことばの名詞形は「コスモス」というギリシャ語です。この「コスモス」が英語のコスメティック、つまり化粧品ということばの語根になっています。ですから花嫁は夫のために化粧されて、結婚にふさわしく整えられるように新しいエルサレムも神の御座にふさわしく整えられているのだと、ヨハネは説明してくれています。もう一つ興味深いのは、この「飾られた」と「整えられ」という二つの動詞はどちらとも受動態を使っています。そのように「整えられ」たのだ、そのように「飾られた」のだということです。だからここは「新しいエルサレム」と書かれています。
また、この「新しいエルサレム」はそこに住む人たちのためにも「整えられ」た都です。この「新しいエルサレム」に一体だれが住むのか――。ここはしっかり皆さんに覚えていただきたいところですけれども、この「新しいエルサレム」に住むのは救われているあなたです。実はこのことは、黙示録3章のフィラデルフィアの教会に対するメッセージの中で、既にヨハネが私たちに明らかにしてくれていました。3:12に「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」と書いてあります。天からの「新しいエルサレム」が出て来ました。何を教えているのか、簡単に振り返ってみましょう。
まず「わたしの神の聖所の柱としよう」と出て来ました。つまりこのフィラデルフィアの教会のクリスチャンたちは「聖所の柱」のように永遠に存在して、何ものによっても滅ぼされることがないことを教えています。「もはや決して外に出て行くことはない」とあります。これは、このクリスチャンたちはもう神とひとつにされたので、そこから引き離されることはないということです。そして最後に、「わたしは彼の上に」名を記すと書いてあります。どんな名かというと、「わたしの神の御名」とまず出て来ました。それはこのクリスチャンたちがわたしのものであると、彼らはわたしに属する者たちなのだと神様が言われているのです。それが「わたしの神の御名」を「書きしるす」という意味です。「わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名」というのは、この救いにあずかった人たちはこの「新しいエルサレム」に住む市民権を得ているということです。彼らはそこで住むのです。そして救いにあずかっているあなたもそこに住むのです。最後に出て来る「わたしの新しい名」というのは、贖いの完成によってもたらされる新しい身分のことです。主はフィラデルフィアの教会に対してちゃんとそのようにお話になっておられた。
きょうのテキストに戻ると、この「新しいエルサレム」は「聖なる都」と記されています。都である以上、そこには住民がいるはずです。ここに住む人々はすべての時代を超えて救いにあずかった者たちです。ということは、ヨハネ14:1-3でイエス様があなたがたのために場所を備えに行くとお話になりました。ここにあなたの住まいが備えられているのです。これが私たちが永遠を過ごすところです。新天新地の中心的な場所、首都とも言えるところがエルサレムであって、そこに私たちの住まいが設けられているのだと。
21章に戻って、この「新しいエルサレム」が「夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを」ヨハネが見ています。ということは、この箇所を見る限りでは「新しい天と新しい地」が造られた時に「新しいエルサレム」が創造されたとは書かれていないのです。新天新地が造られた時にヨハネは天から、「神のみもと」からこの「新しいエルサレム」が「下って来るのを見た」とあります。確かにヘブル12:22には「あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム」と書いてあります。そういうところから、恐らくこのエルサレムはこの時に創造されたのではなく、もうこの時にはちゃんと存在していたのであろうと言われています。
3)「神によって造られた都」
皆さんに見ていただきたいのは、この都が神によって造られていることです。「神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」というところは、直訳すると、「神から、天から下って来る」となります。どちらも「から」という前置詞で、同じように「から」と訳しているのですが、ギリシャ語では異なる前置詞を使っています。「天から」の「から」は「聖なる都」の出所を明らかにしています。天からこの「新しいエルサレム」が出て来ていると。また「神から」の「から」はこの都の創造者を明らかにしています。だれによって造られたのかというメッセージがここに書いてあります。明らかにこれは神によって造られたものです。そしてみことばはそこにあなたが行くことを教えてくれているのです。それを考えるだけで何かウキウキして来ませんか?
2.「神からの祝福」:そこに住む者への二つの祝福 3節
そこに住むあなたにどんな祝福が約束されているのか、3-4節にそれが出て来ます。
3節「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。」と。ヨハネはこの後すぐに天から下ってきたそのすばらしいエルサレムの描写に入っていません。それは10節以降に出て来ます。ヨハネは天から下って来る神がお造りになった「新しいエルサレム」を見た時に、大変大きな声を耳にしたことをここに記してくれています。そして彼はその時に聞いた神様からのメッセージをここに記すわけです。この3節を見ると、「御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた」とあります。5節を見ると、「御座に着いておられる方が言われた」とあります。5節は明らかに「御座に着いておられる方」、つまり神が言われたということです。しかし、3節の「御座から出る大きな声」は、それが神なのかどうなのかがはっきりしません。ですから、多くの人たちはこのように区別しているのは、恐らく3節の「大きな声」というのは神ではなく、御使いの声だろうと言いますが、大切なことは、この「大きな声」の意味です。間違いないことは、これは声のボリュームではありません。これから語られるメッセージの重要さを表しているのです。これから語ることが非常に大切だということを言っているのです。なぜならこのメッセージには救われた者たちに対する二つの祝福が記されています。
1)「神との特別な交わり」:「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」
一つ目の祝福は、このすばらしい「新しいエルサレム」に住む救われた者たちは神様との特別な交わりをいただくことができるという約束です。3節に「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」とあります。まずここに出て来る「神の幕屋」ということばを聞くと、イスラエルの民が荒野をさまよった時にその場その場で神の命令に従って指示通りに幕屋を作ったことを思い出します。そしてそこに神様の栄光が現わされた。シェキナーといいますが、そこに神の栄光を見た時にそこに神が臨在されていることを彼らは知ったわけです。
ヨハネがこの3節で私たちに明らかにしてくれることは、この栄光の神が救われた者たちの、この「新しいエルサレム」に住む人々の間に臨在なさるということです。そしてそこにあって、その「新しいエルサレム」に住む人々は、その神と特別な交わりを楽しむということです。少し想像してみてください。私たちはこの「新しいエルサレム」にあって、創造主なる神様と特別な交わりを楽しめるのです。そのことがこの3節の中に記されています。
この「幕屋」ということば、また「彼らとともに住み」と書いてあるこの「住」むとことばに関してジョン・ワルボード先生はこう言います。「この住むとことばは幕屋と訳されたことばの動詞形である。」と。見ていただきますと、「神の幕屋」の「幕屋」と「神は彼らとともに住み」の「住」むということばは同じギリシャ語を使っています。この「住」むは「幕屋」というギリシャ語の動詞形です。つまり聖書において神が臨在されるということはしばしば交わりと祝福を意味していると。ですから神が臨在されるというのは、ただそこにおられるだけではなく、そこにすばらしい交わりがあること、すばらしい祝福が伴うのだということを意味していると言うのです。
今見ている「幕屋」ということばは「スケーネー」というギリシャ語と、先ほどの神の栄光、「シェキナー」ということばについてバークレーが非常におもしろい説明をしてくれています。「ここに二つの単語がある。両方とも意味と語源は全く異なっているが、発音が非常に似ているので、初代の使徒たちはいつもこの二つを一緒に考えていた。その語の一つはギリシャ語のスケーネーで、天幕、テント、特に幕屋を意味する。もう一つの語はシェキナー、これはヘブル語で神の栄光を表す。スケーネーとシェキナーとは互いに全く関係がないことばであるが、発音が似ているために、両方が関連して考えられるようになり、その結果、神のスケーネーは神のシェキナーが人とともにあると思われるようになった。神の幕屋が人とともにあるとは、神の栄光が人とともにあるのと同じ意味になったのだ」と。先ほどから見て来ているように、そこに幕屋が人とともにあると、神の栄光が人とともにあると。栄光ある神が人とともに特別な交わりを持ってくださると。栄光ある神が人々にすばらしい祝福をお与えになると。そのことをこの3節は私たちに教えてくれていると。
もちろん今救いにあずかった私たちも親密な交わりを神様と持つことが許されています。例えば我々はいつでも主の前に立つことができます。幕屋でも神殿でも、神と人間とを隔てる幕というものが存在していました。大祭司は年に1回しか会見の場に立つことができない。イエス様が十字架に架かって亡くなられた時にその幕が真っ二つに裂けた。それはそれ以降信仰にあずかった者、救いにあずかった者たちはいつでもその会見の座につくことができる。いつでも神の前に立つことができることを意味しています。私たちがお祈りをする時覚えなければいけないのは、全知全能なる神の前に私たちは立っている。あなたはその神の前に立たせていただいているのです。神はその許可を与えてくださり、あなたを喜んで招いてくださっている。ですから間違いなく私たちはそうして特別な神様との交わりを今地上にいて楽しむことができるわけです。主イエス・キリストを信じた私たちはいつでもどこででもこの神の前に立つことが許されています。いつでも交わることができるようになりました。
確かに私たちはこんなすばらしい祝福をいただいているのですが、栄光のからだをいただいた後約束されている神様との親密な交わりというのは今よりはるかにすばらしいものです。なぜかというと、私たちは神の御顔を実際に拝してこの方を崇拝するのです。Ⅰヨハネ3:2に「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」とあります。これまでは見ることはできなかったわけです。出エジプト33:20が教える「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから」だと。だれも神を見ることができなかった。神を見た者はその場で死んだのです。なぜなら神はきよい方であり、我々罪を持った存在とは共存できなかった。しかし感謝なことに、私たちが栄光のからだをいただくならば、その時から我々は実際に神を見て、その方と特別な交わりを楽しむことができると。その約束が神によってあなたに与えられているのです。私たちは神の御座がある「新しいエルサレム」に住むだけではないのです。その栄光の神を目の当たりにし、その方を実際に見て、その方を拝し、その方と交わることができるのです。こんな約束を神様は私たちに与えてくださったのです。救いにあずかったあなたにこの約束は与えられているのです。
確かに私たちが将来を見た時に、このような約束が実現することを我々は知っています。しかし、今もその神はあなたのうちに内住しておられます。その神はいつもあなたとともにいてくださるのです。ということは確かに天国に行った時に、新天新地の中にあって、私たちはこの神との交わりを楽しむことができる。しかし、よく考えてみたらこの地上にあっても、我々は神との交わりを今も楽しむことができるのです。ところがその神様との交わりを日々楽しんでいるかというと、確かにそういう時もありますけれども、そうでない時の方が多くありません?神様が遠くに感じられることを経験されたことってありません?なぜかというと、我々は自分の願い事がかなえられなかったり、自分の思いどおりに物事が進まない時に、神が遠くに思えてしまう。また神様の愛に疑問を抱いてしまうことがあります。人間的に不幸と思えることが続く時に、本当に私のことを愛してくださっているのかと、私たちは神の愛を疑ってしまう。そして私たちは神以外との交わりに期待するのです。
ある人はこんなことを言います。神との時間を過ごしても何も起こらないし、答えが見出せない。だから答えを与えてくれる人との時間を優先すると。確かに天国に行ったらどんなにすばらしいことを神様が私たちに与えてくださるのかが記されています。しかし、我々が考えなければいけないのは、このみことばは私たちに今この地上にいて、私たちは天国民として、神の祝福を楽しむことができるということを教えてくれます。この約束された祝福を楽しむのは天国に行ってからではない。救いにあずかった今、我々はそれを楽しむことができると言うのです。アサフが詩篇73:28で「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」と言います。彼が言うように、神の近くにいることが私にとってはしあわせだと。なぜならしあわせというのは神が下さるものです。満足というのは神が下さるのです。喜びは神が下さるのです。悲しいことに私たちは神以外のところにしあわせを求めたり、神以外のところに喜びを求めたり、満足を求めたり。私たちが気づかなければいけないのは、神以外のところにそういうものは存在しないのです。だからアサフが言ったように「神の近くにいることが、しあわせ」なのです。今私たちが言えるのは、このしあわせを下さる神、満足を下さる神、喜びを下さる神、このまことの神が私の近くにいてくださる、いや私のうちに住んで下さっているのです。こんな祝福を我々クリスチャンはもう既に神様からいただいているということです。だから私たちが覚えなければいけないのは、この祝福をもってきょうを生きることができるのです。この神が与えてくださった祝福を楽しみながらきょうを生きることができるのです。天国に行ってから、神との交わりがどんなにすばらしいものなのか、与えられた祝福がどんなに大きいものなのか、その時に気づくのでは悲しいです。恐らくその時に気づくのであれば、あることにも気づくでしょう。それは自分が間違った選択をしてきた愚かさに気づくのです。なぜ神様が祝福を、すばらしい約束を我々に下さっているのにそれを見ることがなかったのか、それを覚えることがなかったのかと。
2)「神の慰め」 4a節
そして4節「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」、つまりここで与えられる祝福は神様からの慰めをいただくということです。ここには「彼らの目」からすべての涙、日本語ではそう書いていません。「涙をすっかりぬぐい取って」くれると書いてあります。でも原語では、「彼らの目の涙を、そのすべての涙を」とあります。おもしろいのは、この神がぬぐい取ってくださる「涙」が単数なのです。あたかも神様がひとつひとつのあなたの涙を拭いてくださるように。なぜ涙を流すのかというと、この地上の生活においてのさまざまな失敗や罪を後悔してではありません。我々が神の前に立った時、神はすべてのことを赦してくださった。
私たちが地上の生活をしている時に私たちに涙をもたらすことは山ほどありました。ですからここに「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」と書いてあります。こう言ったものが涙をもたらすものだからです。「もはや死もな」いと。「悲しみ」もない。「叫び声」というのは悲しみとか苦しみに対する声に出した反応のことです。また肉体的な「苦しみ」が最後に出て来ます。つまりあなたが神の前に立つ時にそういった、これまであなたを苦しめて来たこと、あなたに涙をもたらしてきたすべてのものから完全に、しかも永遠に解放されると言うのです。かつて私たちは天に上がった時、過去を振り返って、さまざまなことによって涙を流して来ました。この古い天と地にあって、我々を苦しめて来たもの、死や迫害、病気、事故、争い、そして誤解や恐れ、不安、憎しみ、そういったありとあらゆるものから私たちは解放され、主がそのひとつひとつのあなたの涙をぬぐい取ってくださると。感謝なことは、神はあなたが経験しているすべてのことをわかってくださり、そういったすべての苦しみから解放される時が来ると。
3.「神からの祝福の理由」:「なぜなら以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」 4b-5а節
このメッセージを聞いた当時の人々はどれだけこのメッセージによって励まされたかです。神は私のすべてのことをわかってくださる。神は私が経験している悲しみも苦しみもすべてわかってくださると、そして神が私を慰めてくださると。多くの人たちはそれを経験していただろうし、また後にすべてのものから解放される。なぜそのようなことが起こるのか理由が書いてあります。「なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」と。今私たちが見て来たさまざまな涙をもたらすものは古い世界を象徴するものです。それらすべてはこの世とともに滅んでしまったのです。5節には「すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』」とあります。神ご自身がすべてを新しくされ、新天新地を創造されたから、その時私たちは今と同じような悲しみや苦しみを経験することはないのだと。
【ヨハネへの命令】 5b節
最後にこうあります。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」と。最後にヨハネに対する命令が記されています。多くの人たちは、ヨハネは余りにもたくさんのことを見て来て、恐らくここで集中力を切らしたのだろうと言います。そこでもう一度、「ヨハネ、今から私が示すことをちゃんと記しなさい」と。実際1:19にも14:13にも出て来ました。そしてここに出て来ます。ヨハネにしてみたら大変なことを見て来たわけです。そこでいま一度、「ヨハネよ、これから私が示すことをちゃんと書き記しなさい」と。なぜかというと、このメッセージが人間にとって非常に大切だからです。そしてその大切なことを神が明らかにされて行くのです。
そして神が言われるのは、これからのメッセージはあなたたちが信頼できるもの、いやあなたたちが信頼すべきメッセージであると。神様がこの後どんなことを言われるのか、次回から我々は見て行きます。きょうは、どこで私たちが永遠を過ごすのか、どんな場所なのかを少し我々は見ることができました。すばらしい約束の記されている箇所、そこに行くことを楽しみにして、きょうを生きることです。最初に見て来たように、我々は心配しなくていいのです。どこに行くかが書いてありました。心配しなければいけないのは、ここに来ることのない人たちがたくさんいるということです。彼らはまだそのことをわかっていない。でも私たちはそれを知った者であるゆえに、我々が心配しなければいけない。我々が彼らのために、この救いの希望を伝えなければいけないのです。どうぞこの1週間、その働きに励んでください。すばらしい希望があることを伝える働き人としてどうぞこの1週間歩んでください。
《考えましょう》
1.「今の天と地」と「新天新地」の違いを説明してください。
2・「新天新地」に入れるのはだれでしょう?
3.「新天新地」において信仰者たちに約束されている祝福を挙げてください。
4.主がきょうあなたに教えてくださったことを信仰の友と分かち合って、実践に励んでください。
Podcast: Play in new window | Download