Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録20:11-15
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どうぞヨハネの黙示録20章をお開きください。
いよいよ主イエスを王としてこの地上に築かれた千年王国が終わりを迎えようとしています。その終わりに閉じ込められていたサタンが解き放たれることが7節に出てきました。そしてそのサタンは、世界じゅうから神に敵対する人々を集めて神に対する最後の戦いを挑もうとするわけです。そのことが8-9節の中に出てきました。9節には、「彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。」と、彼らは挙ってエルサレムに集まり、エルサレムを攻め上ろうとするわけです。その時に主が一瞬のうちに彼らを滅ぼされるということが9節の中に出て来ました。「すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。」、神の敵たちが滅ぼされる様子です。神の敵たちというのは、神様の救いを拒み続けて来たすべての人間です。彼らは神によって滅ばされると。次に悪魔でありサタンについて10節に「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」と記されています。「そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」、悪魔が送られるところは地獄であるとこの箇所が記しています。そしてそこで、この悪魔に仕え、千年王国がこの地上に訪れた時に地獄へと送られた獣やにせ預言者たちと合流するということが10節のところにありました。
☆ 最後の審判
そしていよいよ私たちはこの最後の審判というところに入って行きます。11-15節にそのことが出てきます。どんなことが起こるのか、神様の真理をご一緒に見てまいりましょう。
A.「さばきの御座」 11節
まず11節を見ると、さばきの御座についての話がされています。11節「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。」とあります。
1.「さばきの御座の特徴」の説明:「大きな白い御座」
その御座がどんな御座なのか、さばきの御座の特徴が説明されています。
1)「大きな」
最初に、大きな御座であると書かれています。この「大き」いという形容詞は偉大さを表しています。
(1)神ご自身の御座だから
黙示録の中に「御座」ということばは47回出てきます。例えば20:4に「また私は、多くの座を見た。」と、この「座」ということばと11節の「御座」ということばは同じことばが使われています。この御座がなぜこんなふうに呼ばれているかというと、この「御座」には偉大な神が着座されているから、これまでのどんな「御座」とも全く異なる「御座」だということをヨハネは明らかにするわけです。
(2)最後の審判が行なわれるところだから
同時に、ここにおいて最後の審判がなされるということです。ですからこれまでの座とは全く違うということを明らかにしようとしているのです。
2)「白い」理由:
もう一つ「白い」という形容詞が出ています。白さというと、きよさを思い出されると思います。ここでヨハネは、まさにその完全なきよさと完全な正しさというものを表しています。これらは、さばき主とそのさばき主によってなされるさばきの両方を表しています。そこは着座される神にふさわしく完全にきよく義なる場所であり、そこで下される判決は完全にきよく正しいものであることを表しています。
2.「さばき主」の説明:「着座しておられる方」
神がお座りになり、神が神のさばきをお下しになると。このさばき主についてその後出て来ます。ヨハネは「そこに着座しておられる方を見た」と言います。そこに着座されているのは一体だれか――。
1)「父なる神」である。
黙示録の中を見るとそのことが明らかです。例えば黙示録5:7に「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。」とあります。イエス様が近づいて「御座にすわる方の右の手から」の「御座にすわる方」というのはだれのことですか?5:13にも「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」とあります。「御座にすわる方」が父なる神だということは明らかです。ですから、この箇所でヨハネは明らかにしていませんが、黙示録の中を見ると、この「大きな白い御座」に着座されている方が確かに父なる神であることがわかります。
2)「子なる神」である。
しかし、黙示録はそれだけではなく、それ以外のことも我々に教えてくれます。黙示録3:21を見ると、そこには「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」とあります。イエス様がこう言われているのです。そうすると、もちろんこの箇所はそういった詳細については教えていませんが、確かに父なる神が着座されているし、また子なる神であるイエス・キリストご自身もそこに着座しておられるということをヨハネが記した黙示録は我々に教えてくれます。
* 主イエスが父とともに働く:
実はこのヨハネ自身がヨハネの福音書の中で今私たちが見ていることについてこんなことを語っています。ヨハネ5:19「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」、21-22節「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」と。つまりこの箇所が明らかにしていることは、父なる神と子なる神イエス・キリストがともに働いているということです。また、イエス様がヨハネの福音書10:30で「わたしと父とは一つです。」と言われたことからしても、ふたりはともに働いておられるわけです。その御座に着座されているのは父なる神であり、そして同時に子なる神イエス・キリストもそこに着座してこの働きをなしておられる。まずヨハネは、大きな白い御座に父なる神と子なる神が着座しておられるという大きな幻を見たことをこの11節の初めで知らせるのです。
3.「さばきの御座の場所」の説明
そして、このさばきの御座が一体どこにあるのか、その説明がなされています。恐らくこの「大きな白い御座」があった場所というのは空中でしょう。なぜそう言うかというと、11節の後半に「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」とあります。この「大きな白い御座」のさばきというのは地上でなされるものではない。なぜかと言うと、地が逃げ去ったからです。天も逃げ去ったとあるので、それが天においてもなされない。この「逃げ去」るということばは、今の天と地の最後を言っています。今私たちが住んでいるこの天と地が最後を迎えるということです。並行箇所であるマタイ24:35でも、マルコ13:31でも、ルカ21:33でも、イエス様は「この天地は滅び去ります。」と言われた。まさにそれが起こっているのです。その様子に関してペテロが説明を加えてくれています。Ⅱペテロ3:7「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれている」と書かれています。確かに滅びるのです。でもペテロが教えてくれるのは、火によってこの天と地が滅びると教えています。
◎ どうして今の天地が滅びるのか?
さて、皆さんに少し考えていただきたいのは、なぜこの天と地が滅びるのかです。この今の天と地が滅びるのは理由があるのです。
① この世が不完全だから
一つ目の理由は、この天と地が不完全だからです。アダムの罪によってすべて呪われてしまったことを既に我々は学んできました。その結果、敵対関係が生まれたり、殺し合いが行なわれるようになって来ました。それは人間の世界だけではなくて動物の世界でもそうです。そして確かに千年王国の時代に呪いから解放され、殺し合うこともなくなって様変わりします。でも、だからと言って、完全になったのではないのです。千年王国にまだ死が存在し、千年王国の人々の中に死を迎える人たちがいるからです。ですからこの不完全な天と地は神の前に立つことができないのです。この「大きな白い御座」に着座されている神の前で、不完全なものはすべて逃げ去ってしまうのです。その様子がここに書いてあるのです。不完全なこの天地は完全な神の前には立ちおおすことができないためにその御前から逃げ去ったと。余りにもこの方がきよい正しいお方だから不完全な天と地もその前から逃げ去ると。
② 新天新地を迎えるため
そしてもう一つの理由は、黙示録21-22章を見ると新天新地のことが書かれています。その新しい天と新しい地を迎えるためにこの古いものがすべて神の前から逃げ去ってしまうと。その様子をこの11節の中に見ることができるのです。この「大きな白い御座」が不思議なところに存在しているということです。
B.「最後のさばき」 12-15節
ではそこで行なわれる最後のさばきの内容です。
1.公平なさばき 12節
1)「大きい者も、小さい者も」 使徒24:15、ヘブル9:27
12節からそれが記されています。依怙贔屓のない公平なさばきがなされます。12節「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。」と説明しています。この「大きい者も、小さい者も」というのは、すべての人々を指す包括的な表現でした。あらゆる身分や地位にいるすべての人々が含まれています。黙示録11:18や19:5では、この「大きい者も、小さい者も」という表現がすべてのクリスチャンたちを指していました。この20:12では、救いにあずかっていないすべての人々を「大きい者も、小さい者も」という表現をもって、そのすべての人がここに含まれるのだと言うわけです。ですから死んでいたあらゆる人々が、時代に関係なく、人種や性別、年齢に関係なくよみがえって神からのさばきを受ける様子がここに記されています。あらゆる人々がよみがえり、平等なさばきを受けるのです。パウロが使徒24:15で、「義人も悪人も必ず復活する」のだ、そこに例外はなくみんなよみがえると言っています。ヘブル9:27にも「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」とあります。ですから人間は必ず神の前に立つのです。
2)「立っている」
この12節で、「御座の前に立っているのを見た」とありますが、この「立っている」ということばについてジョン・ワルボード先生はこんなことを言っています。「彼らがまさに宣告を受けようとしていることを意味している」と、この姿勢を説明しています。このことばが意味しているのは、彼らがまさに宣告を受けようとしている様子だと。神の前に立ち、神からみずからの罪に対しての宣告を受けようとしている様子がここに描かれている。この「大きな白い御座」のさばきについて、神からさばきを受け、そして罪の宣告を受けようとしている人々は、人間の歴史において時代にも場所にも全く関係なく、神の救いを拒んだすべての人々です。
なぜなら救いを受け入れた人々はもう既によみがえっているからです。ごらんになったように、この「大きな白い御座」のさばきによみがえる人々は、まさに神の前でみずからの罪の判決を受けようとしているわけです。それ以外の人々は、例えばイエス・キリストが帰って来られた空中再臨において新約の時代のクリスチャンたちはもう既によみがえっています。そこにはあなたが含まれます。またイエス様がクリスチャンたちを伴って地上に帰って来られた時には、患難時代を通って来た、そしてその間に死を迎えたクリスチャンたちと旧約のクリスチャンたちがよみがえります。ですから信仰にあずかっていた者たち、旧約の人々も、新約の私たちクリスチャンたちも、患難時代のクリスチャンたちもみんなもうこの千年王国の時にはよみがえっています。ただ一つだけ考えるべきことは、患難時代を生き延びたクリスチャンたちが千年王国を生きるわけです。つまり千年王国の間にも信仰を持つ者たちがいるわけです。記されてはいませんけれども、彼らは恐らく1000年の終わりに栄光のからだをいただくのでしょう。死を経験した者はそこでよみがえるでしょうし、またそうでない者たちはあのエノクやエリヤが死を経験することなく祝福のからだをいただいて神のもとに引き上げられ、天に凱旋したように、その千年王国のクリスチャンたちもそうなるのでしょう。
そうすると、この「大きな白い御座」のさばきの時よみがえって来るのは、まだよみがえっていない者たちです。もう多くの人たちがよみがえっていますが、残されている者たちがいます。ですから、最初にも言ったように、この神様の救いを拒み続け、救いを逃してしまった者たちのよみがえりの話がここに記されているわけです。
2.さばきの根拠:「2種類の書物」が開かれる 12節
12節「そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」とあります。このさばきの座で2種類の書物が開かれます。これがさばきの根拠です。
1)「数々の書物」
まず「数々の書物」とあります。そこに何冊あるのか、個人差があるのか、人によって違うのか、そこまで記されていませんが、この「数々の書物」がどんなものなのかがわかっています。この「数々の書物」にはそれぞれひとりひとりが行なってきたすべての行ないが記されているということです。「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた」と。それがここで我々が見ることのできるさばきの様子です。
裁判官は「数々の書物」を開くわけですが、そこにはそのさばきを受けている人物のありとあらゆることが記されている。私たちが知っている裁判というのは、検察によって起訴状が読み上げられて罪状認否がなされ、検察側の冒頭陳述が始まって、そして罪の証拠が提出されて検察の立証であったり弁護人の反証がなされて行くというプロセスで進みますが、この裁判は、確かにさばきの座に被告はいるのですが、この被告を弁護してくれる人物はひとりもいません。このさばきの座にあって、この人物を弁護してくれる人はだれひとりとしていないのです。罪状認否もそれを否定することはできません。裁判官が言うことをそのまま受け入れるしかないのです。私はそんなことをしていませんとか、それは無実ですとか、事実無根ですとだれひとりとして言うことができない。なぜかというと、このさばきにおいて裁判官、つまり神がそれぞれひとりひとりの罪状を明らかにされ、そしてそれにふさわしい判決が下されるのであって、神のなさることにだれひとりとして反論したり弁解を述べることができないからです。なぜならその場で明らかにされるのは、その人が何を行なったかだけではない。どんな動機でそれを行なったかも明らかにされるからです。提示されるのはただ行ないだけではなくて、心に抱いた妄想や悪い考え、思いさえもすべて明らかにされる。まさにその人に関するすべてのことが丸裸にされて、さらけ出されるのです。どこにも弁解の余地がない。私たちの動機を知らなければ、いろいろなことを言って罪を軽減したり、逃れようとするかもしれない。でも神はすべてのことをご存じだから、神の前にあってはそれができないのです。
2)「いのちの書」 ルカ10:20
そして二つ目に開かれる書物は「いのちの書」です。この書に名前が記されている人々は主イエス・キリストの救いにあずかった者たちです。神の救いにあずかった者たちです。あなたの名前もそこに記されている。ここにおられるすべての方がその「いのちの書」に名が記されていることを心から願います。それが私たちの喜びです。私の名前が「いのちの書」に記されていると。ちょうどイエス様が2人ずつ70人を送り出しました。そして戻って来た時にすばらしい喜びのレポートを彼らはイエス様にしました。そこでイエス様が彼らにこんなことを言いました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と、ルカ10:20です。イエス様が言われたのはいろんなことが起こるし、すばらしいことが起こるけれども、一番すばらしいことは私の名前が天に記されていることだと。それ以上すばらしいことがあります?きょう私は死んでもイエス様のもとに上がり、イエス様とともに永遠を過ごせると。私たちがどんなに努力をしようと得ることのできない祝福です。このすばらしい永遠の祝福を神が一方的に与えてくださった。これこそ私たちが主に対して心から感謝し続ける神からの祝福です。私を赦してくださった、私を救ってくださった。私の名前が天に記されていると。
このさばきの時に開かれる2種類の書物。「数々の書物」、複数の書物、それぞれの行ないが書かれれている書物ともう一つは「いのちの書」、そこに名前が記されていなければ、この後に出て来るさばきを受けることになるのです。しかし、「いのちの書」に名前が記されていたら、このさばきはあなたと全く関係のないものです。
3.さばきの対象:「例外のないよみがえり」 13節
1)「海の中の死者」:
13節に、すべての人がそのさばきの対象なのだということ、すべての人がさばかれるのだと記されています。「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。」とあります。「自分の行いに応じてさばかれた」と12節と同じことがここにも繰り返されています。多分皆さんごらんになって不思議に思っているのは、なぜ「海」が出てきているのかです。「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した」とはどういうことなのかと。私たちが考えてみなければいけないのは、当時の人々がこの「海」についてどんなふうに思っていたのかです。実は「海」で死ぬことは特別視されていたのです。人々は「海」で死ぬ者たちは不幸であると考えていました。ウィリアム・バークレーという神学者は「昔の世界においては埋葬は非常に重要であった。もし人が埋葬されなかったら彼の霊は天と地において安らぐところもなく、さまよい歩くと考えていた。」と言っています。だから、地上で死んで葬られることが大切だったのです。なぜかというと「海」で死んだら、からだはバラバラになります。さまざまなところに散乱して行くと、よみがえりの時どうなってしまうのだろうという疑問を持っていたわけです。そこでヨハネは、たとえその人が「海」で死んだとしても、陸地で死んだとしてもみんなよみがえるのだということをこの13節で教えているのです。まずこの「海」の中からその死者が出て来ると。
2)「死」:
次に「死も」とあります。この「死」というのは「海」と相反するもので、この地上において死んだ者たちの話です。地上で死んだ者たちとそうでない死に方をした者を対比しているわけです。海難事故もあるでしょうし、自然災害――台風や津波、そういったさまざまなことで亡くなった者たち、死体が見つからなくて、どこに行ってしまったかわからなくても、必ず彼らも陸で死んだ人と同じようによみがえって来るのだとみことばが教えています。この「死」に関して、地上において死んだ者たちと言いました。バークレーはH・B・スウィートというイギリスの聖書学者のことばを引用してこう言っています。「不慮の死を遂げた人たちもまた、さばき主の前に立たされるのである。人はどんな死に方をしたとしても、罰せられる者は罰せられ、褒められる者は褒められる。なぜなら陸も海も全宇宙が神の御手の中にあるからである。」と。神の目から離れてどこかに行くことはできないのです。必ず創造主なる神の前に造られた我々ひとりひとり例外なく立つのです。そしてここの「大きな白い御座」のさばきは、救いにあずかった者たち、クリスチャンであるあなたではなくて、救いを拒んだ者たちが経験することです。どこで死のうと、救い主を拒んだ者たちは必ずよみがえると。
3)「ハデス」
三つ目に出てきたのは、「ハデス」ということばです。これはすべての死んだ人々の霊が行く所です。「ハデス」というのは地獄ではありません。旧約聖書の中に「シェオル」というヘブライ語があります。「墓」を指すことばですけれども、どちらも死んでから霊が行く場所を指しています。今から私たちが見て行く永遠の地獄、ゲヘナと呼ばれるところではありません。ゲヘナと「ハデス」というのは区別をしなければなりません。「ハデス」は最後の審判を待つ所です。
13節に「海」も「死」も「その中にいる死者を出し」たとあります。そして彼らは永遠のさばきにふさわしい体を持ってよみがえって行くのです。先ほどから見ているように、私たちクリスチャンは、例えば地上で死を迎えた時、からだは墓に行きます。そして私たちの霊は神のもとに。そしてその霊とからだが一つになる日が来るわけです。主イエス・キリストの救いを拒んだ人たちも同じです。例えば「海」の中で溺死したとしても、陸地で死んだとしても、そのからだがよみがえって来る時は出て来るのです。そして「ハデス」の中にいるのはからだではなく、それぞれの霊なのです。ちょうど今の私たちと同じように彼らもよみがえって来て、そしてこのさばきに服するにふさわしいからだを彼らはいただいて永遠に生き続けるのです。
そして今我々が見て来たようにそれぞれが「自分の行いに応じてさばかれ」ると。この13節の中で、「そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた」と、非常におもしろい書き方をしているので注意深く見てください。まず「自分の」という代名詞、「行い」という名詞、それから「さばかれた」という動詞、この三つともすべて複数形です。ですからこれを見ていると、救いにあずかっていない者たちがさばきを受けることをこの箇所が教えています。しかし、それでいながら「おのおの」という形容詞だけ単数形なのです。確かにみんながさばきを受けるのです。救いを拒んだすべての人が、どの時代に関係なく、どこで死んだに関係なく、すべての神の救いを拒んだ者たちがさばきを受けるのです。それでいて「おのおの」という「各人」と訳せることばですけれども、これだけが単数だと。つまりひとりひとりが神の前に立って、ひとりひとりがそれぞれが行なった行ないに応じてさばきを受けるのです。だれひとりとしてそのさばきから逃れることができません。「おのおの」なのです。各人なのです。ひとりひとりが絶対に神の前に立つということをこの箇所は我々に教えるのです。
千年王国の終わりに、こうして神の敵がさばかれると最初に見て来ました。神の救いを拒み、神に逆らった者たちが滅ぼされると。その時に彼らのからだは死を迎え墓に入ります。そして彼らの霊は「ハデス」に下り、そして最後の審判の時を待つわけです。そして今私たちが見ているのは、死んでいた者たちのからだがよみがえり、そして「ハデス」に捕われていた彼らの霊がよみがえり、そしてこの神の永遠のさばきを受けるにふさわしいからだとして彼らがこのさばきに服して行くのです。
4.さばきの結果 14-15節
1)「永遠の死」 14-15節
最後にこの14-15節を見ると、そのさばきの結果が出て来ます。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」と。既に私たちはこの地獄に関して10節のところを見て来ました。永遠にわたって昼も夜も苦しみを受けるわけです。ある人々はこの地獄というものが象徴的に記されているとか、実際にそういう場所はないと言います。でも聖書はそれを真っ向から否定しています。人々は地獄において苦しみを経験し、苦しみ続けます。マタイ13:42に「火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」と。同じことがマタイ13:50にも繰り返されています。「火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりする」、大変な苦しみです。ですからみことばが教えていることは、永遠のさばきがあって、神に逆らい続けた者たち、救いを拒んだ者たちはそこで肉体的にも、また精神的にも大変な苦しみを味わい続けて行くということです。
2)「第二の死」 14節
もう一度この14節を見ていただくと、「火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」と。こうして「火の池」と「第二の死」が同じものであると14節は教えています。「死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」と。「火の池に投げ込まれ」るということが「第二の死」と同じものだと言っているわけです。「火の池」と書かれていたり、20:10では「火と硫黄との池」と、「硫黄」が入っていますが、黙示録の中に6回出て来るのですが、どちらも永遠のさばきを表しています。滅びの場所であると。というのは「火」ということばなのです。「火」ということば新約聖書の中に71回出て来ます。あるところでは、例えば火の中に病気の子どもが落ちてしまいますということで、「火」は実際の燃える炎の意味で使われたりもします。それでいてこの「火」は永遠のさばきを表すことばです。例えばマタイ25:41では「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」と。またユダ7節では「永遠の火の刑罰」です。ですから「火」ということばは、確かに燃える火の意味でも使われますが、多くのところが永遠のさばきを表すことばとして使われています。ジョン・マッカーサー先生は「火は新約において20回以上地獄の苦しみを表すために用いられている。」と言っています。ですからみことばは確実に地獄が存在していること、そして永遠のさばきにふさわしいからだを持ってよみがえった者たちはその地獄の中で死ぬことなく、永遠に苦しみ続けるということです。
しかし、最初から見て来たように、この「第二の死」、「火の池」は私たちクリスチャンには無関係の話です。20:6に「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」、つまりクリスチャンの話です。「この人々(クリスチャン)に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。」とあります。今私たちが見て来たことは、あくまで救いを拒んだ者たちのことであって、我々救いにあずかった者たちとは全く関係のないことであると教えています。また黙示録2:11にも「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」と言っています。救われた者たちにとって、この主の救いにあずかった者たちにとって、「第二の死」は全く無縁なものであると教えます。そしてこの永遠のさばきの中に、地獄の中に「死とハデスとは」投げ込まれると。彼らのからだと霊を捕えていた「死とハデス」そのものが地獄に投げ入れられると。そして、「いのちの書に名のしるされていない者はみな」この地獄に入れられるのだと。この人たちは肉体的に死を経験しただけではありません。この救いを拒んだ者たちは、永遠の死を経験するわけです。
ダニエルが12:2で「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」と言っています。すべての人々がよみがえるわけですが、ある人たちは神様の祝福のうちに「永遠のいのち」に至ります。でもある者たちはよみがえった後、「そしりと永遠の忌みに」。この「そしり」ということばは恥辱や非難ということです。また「永遠の忌みに」というのは憎悪や軽蔑です。つまり祝福をいただくどころか、その人たちは神から嫌われて、憎まれて永遠を過ごすと。なぜならきよい神は罪を憎んでおられるからです。
こうして私たちは20章を見て来たわけですが、最後に皆さんに見ていただきたいのは、この最後の「大きな白い御座」のさばきにおいて救いの機会が与えられるというメッセージが記されているかどうかです。この中には、神がこの人々にも救いを与えようとされているということはどこにも出ていません。つまり彼らにはもう救いがないのです。彼らはその救いのチャンスを逃したのです。神は忍耐をもってひとりでも多くの罪人がこの救いにあずかるようにと待ってくださっていたにもかかわらず、彼らはみずからの意思をもってこの救いを拒んだのです。その行ないがこの永遠の破滅を、さばきをみずからにもたらすのです。
愛する皆さん、あなたが確実に「永遠のいのち」をいただいていることを心から期待するものです。地上での数年間の話ではなく、永遠の話です。あなたがどこで永遠を過ごすのかです。あなたはイエス・キリストの救いを心から受け入れていますか?あなたはきょう死んでも私は間違いなく主イエス・キリストのもとに、天国に行けるのだと確信を持っていますか?あなたの永遠がかかっているのです。主はまだきょうあなたに救いを与えようとしてくださっています。そのチャンスがあるうちにその救いを心から受け入れて、永遠の備えをすることです。きょう死んでも私は間違いなくイエスのもとに上がるのだと、天国に行くのだとその確信を持って生きる、そのように心からお勧めします。そして私たち救いにあずかっている者たちは、私たちの家族の中にそうでない人たちが山ほどいます。私たちが語らなければいけない。どうかこの一週間も出て行って、このイエス・キリストにある救いと主が警告されている永遠のさばきがあることを人々に伝えて、この救いにあずかるようにと、福音をしっかり語ってください。
《考えましょう》
1.「大きな白い御座のさばき」について説明してください。
2.このさばきの時に開かれる2種類の書物について説明してください。
3.罪人がみずからのさばきの時に、神に対して反論ができないのはどうしてですか?
4.あなたがきょう学んだことを信仰の兄弟たちと話し合い、実践に励んでください。
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