Messenger: 成田宜庸
Passage: ヘブル12:1-4
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今日はへブル人への手紙12章1-4節をごいっしょに学びましょう。この箇所を読みます。
「:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」
1節は「こういうわけで、」ということばで始まっています。「それゆえに、従って、」という意味です。12章はその前の11章を受けて書かれています。11:39には「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。」とあります。11章に書かれている信仰の勇者たちはそれぞれの信仰の生涯を走り続けたと述べて、「そういうわけで、多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、…」と続くのです。
1.12:1 信仰の生涯を走り続けよう
ですから、「多くの証人たち」とは旧約の信仰の勇者たちのことです。「証人」のギリシャ語はマルテュスと言い「証拠立てる人、保証に立つ人」という意味で、聖書の何箇所かで使われていますが、使われているところで意味が違います。
a.「殉教者」 :
使徒22:20「また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、…」、黙示録2:13「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」、黙示録17:6「そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。…」、これらの箇所では「殉教者」という意味で使われています。
英語の「a martyre」はギリシャ語の「マルテュス」から来たことばであると言われています。もちろん、英語では「殉教者」と訳されています。
b.証人 :
復活を目撃した人たちに対しても「証人」ということばが使われています。使徒1:22「すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」、2:32「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」。
c.パウロに :
また、パウロに対しても「証人」ということばが使われています。使徒22:12-15に書かれています。「:12 すると、律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が、:13 私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ。見えるようになりなさい』と言いました。すると、そのとき、私はその人が見えるようになりました。:14 彼はこう言いました。『私たちの父祖たちの神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。:15 あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。』」と。
そして、今日見ようとしているへブル12:1では「証人」ということばが、先に言ったように、「信仰の勇者たち」を指して使われています。その「証人」は「雲のように私たちを取り巻いている」と言います。「雲のように」とは「大勢の人」を表す慣用語です。
◎取り巻いている :
「取り囲んでいる」ということですが、その人たちは11章に書かれている信仰の勇者たちのことです。彼らは単に見物する人ではなく、キリスト者を激励する者たちです。なぜなら、私たちは旧約の信仰の勇者たちを旧約聖書から学ぶときに、そこから大きな励ましを受けるからです。まさに、それは私たちを励まそうと取り囲んでいる勇者たちです。
◎競争 :
1節はこのように続いています。「私たちの前に置かれている競走を…」と。「競争」を置いた者がいると言うのです。それは「神」です。神はみこころのままにご計画に基づいてその競争を置かれたということです。ここで使われている「競争」のギリシャ語は「アゴーナ」で「抗争」を意味することばです。違う箇所では「戦い」とか「苦闘」と訳されています。
a.戦い ―
ピリピ1:30「あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。」、Ⅰテモテ6:12「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しな
さい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」、Ⅱテモテ4:7「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」、これらの箇所では「戦い」となっています。
b.苦闘 ―
コロサイ2:1「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。」、Ⅰテサロニケ2:2「ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。」と、ここでは「苦闘」と訳されています。
どちらにしても、この「競争」はそのような「戦い」を含んだ競争であるということです。それが私たちの前に、神のご計画によって置かれているのです。
◎パウロ
私たちはある一人の人物、彼がどのように彼の信仰生活を走り抜けたのか?戦い続けたのか?そのことを聖書から見ることができます。それは「パウロ」です。彼はこう言います。Ⅱテモテ2:9「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」、
パウロは福音のために、イエス・キリストのために今牢獄にあると私たちに教えています。
コロサイ1:24からご覧ください。ここでもパウロの信仰の歩みを見ることができます。「:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。:25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。」、28節から「:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」、「労苦しながら奮闘しています。」と言っています。こうしてパウロは自分の信仰の馳せ場を走り抜いたのです。
このへブル書の著者は、私たちがパウロと同じように、信仰のレースを走り続けるために必要なことを1節から二つ教えています。
◎信仰の生涯を走り続けるために必要なこと
1)走るために不要なものをすべて捨て去る
私たちはこのことがよく分かります。リオのオリンピックでも今行われているパラリンピックでも、競技する者が身に着けるものは必要なものだけです。あるテレビで見ましたが、陸上競技の選手は靴の重さを何グラムという単位で、軽くて丈夫で自分の足に合った靴を作らせるというのです。1グラム、2グラムという単位です。それは競技するために絶対に必要なことだと言うのです。
私たちも同じです。信仰のレースを走るとき不要なものは捨て去りなさいとみことばは教えます。不要なもの、ここでは二つ書かれています。
「いっさいの重荷」 : ここで使われている「重荷」というギリシャ語のことばは聖書にはこの箇所だけです。「いっさいの重荷」、それは私たち信仰者の信仰を妨げるすべてのものです。
「まつわりつく罪」 : 私たちに絡みついて離れようとしない罪を捨てなさいと著者は言うのです。
2)忍耐をもって
走る者にはいろいろな障害があるでしょう。それはレースの中だけでなくレースに臨む過程においてもいろいろな障害、困難があるでしょう。でも、それらを乗り越えて、しっかりゴールを目指して走り切るためには、走る者の強い忍耐が必要であるということです。途中でギブアップしてはいけないということです。へブル10:36にはこのように書かれています。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」、途中で「もうだめだ、止めよう」ではないのです。忍耐をもって走り切るのです。
そのことを著者はこの1節で教えます。
2.12:2-3 信仰の本質、イエス・キリスト
11章で「旧約の信仰の勇者たち」のことに言及した著者は、1節で、キリスト者がどのように信仰の生涯を走り切らなければならないのかを述べた後、信仰の本質であるイエス・キリストについて言及します。それが2節と3節です。へブル1:3にはこのように書かれています。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」、これがイエス・キリストだと著者は言うのです。パウロもこう言っています。ピリピ1:6「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」と。
2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから…」と書かれています。英語の聖書ではこの箇
所は「… the author and perfecter our faith,」です。ここに日本語のことばを足すなら、「信仰の
創始者であり、信仰の完成者であるイエスから…」と言うことができます。「信仰」は「our faith」ですから、「私たちの信仰の創始者であり、私たちの信仰の完成者である…」ということが分かります。
◎信仰の本質であるイエス・キリストとは?
1)信仰の創始者
ここで使われている「創始者」のギリシャ語は「アルケーゴス」で「草分け、設立者、開拓者」という意味です。英語は先ほど見た通り「author」です。聖書の欄外注には「別訳、「指導者」と書かれています。著者は2:10では「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」と「救いの創始者」と記しています。
この「創始者」ということばは他の箇所でも使われています。使徒3:15では「いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」とあり、「いのちの君」の「君」がそうです。この欄外注には「源」とあります。だから、「いのちの源である方」となります。使徒5:31では「そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。」と書かれていて、同じく「君」ですが、欄外注では「指導者」となっています。12:2の「創始者」の欄外注「指導者」と同じです。ということは、この「信仰の創始者であるイエス・キリスト」は、「救いの源なる方であり、また、私たちに永遠のいのちを与えてくださる方である」、そのことを覚えることができます。
私たちクリスチャンの信仰の始まりは、イエス・キリストを自分のうちに受け入れたことからです。これはクリスチャンすべてに同じです。その時から私たちの信仰はスタートしたのです。こういう意味をもった「信仰の創始者イエス・キリスト」です。
ルカの福音書2:28-32を見ましょう。「:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。:30 私の目があなたの御救いを見たからです。:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」、このようにしてシメオンは神を称えています。へブル2:3では「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、」、「この救いは最初主によって語られ」と同じ著者はこのように書いています。まさに、信仰の創始者であり、いのちの源なる方がイエス・キリストだとみことばは教えます。
2)信仰の完成者
その後、イエス・キリストは「信仰の完成者」でもあると言います。この「完成者」というギリシャ語「テレィオーテーン」はこの箇所にだけ使われています。英語では「perfecter」です。「信仰の完成者」が意味するのは「信仰はただ一つの道」です。信仰の道を定められた方はその信仰を完成させてくださるのです。信仰を始められた方は完成をも為してくださる方です。私たち救われた者の信仰の完成はイエスが再び来られて、私たちがイエスのみもとに引き上げられるそのときです。へブル9:28にはこのように書かれています。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」、救いの完成のために私たちのところに再び来られると、同じ著者はここでそのように教えています。
ヨハネもこう言っています。Ⅰヨハネ3:2「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」と。そのとき、私たちのからだはどうなるのでしょう?みことばは教えます。「栄光のからだ」に変えられます。ピリピ3:20-21に「:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」、ここで言われていることも「救いの完成」です。そして、
「:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」、私たちの信仰の完成を為してくださるのはイエス・キリストであると教えます。
3)十字架にかかられた方
その後にこの方は「十字架にかかられた方」だと言います。2b節「…イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。1節には「私たちの前に置かれた競争」と書かれていました。2節では「ご自分の前に置かれた…十字架」と、どちらも父なる神のみこころであり、ご計画のもとにそのように置かれたということを私たちはみことばから知ることができます。
イエスは「喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに」十字架にかかられたのです。なぜ、喜びなので
しょう?イエスにとって父なる神に従うことは何にも優ってすばらしいことだからです。それがイエスがこの地上に来られた目的でもあります。だから、イエスは喜んで父のみこころに従ったのです。この喜びがあるゆえにはずかしめを受けることは取るに足らないことだったのでしょう。ピリピ2:8にはこのように書かれています。「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」と。
同じような状況を「使徒の働き」からも見ることができます。5:41にこのように書かれています。「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」と。使徒たちはイエスのことを宣べ伝えていました。しかし、そのために捕らえられて議会にかけられました。彼らはイエスのためにはずかしめを受ける者とされたことを喜んだのです。まさに、イエスが喜びをもって十字架にかかられたように、使徒たちも喜びをもってイエス・キリストを宣べ伝えました。
このイエスの十字架から三つのことを考えることができます。
a.罪に対する完全な犠牲 :
他に何か必要だったでしょうか?いいえ。イエス・キリストの十字架だけが罪に対する完全な犠牲だったのです。ペテロはこのように言います。Ⅰペテロ1:18-19「:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」。
b.罪人のための贖いの代価 :
パウロはⅠコリント6:20でこのように言います。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」、この「代価」こそ「キリストの十字架」です。だから、その後「ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と続けるのです。パウロはまたこのように言います。コロサイ1:14「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」と。
c.罪人を神と和解させる :
コロサイ1:19-22「:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」、あの十字架は罪人を神と和解させるそのものだったのです。
イエス・キリストは「信仰の創始者」です。イエス・キリストは「信仰の完成者」です。イエス・キリストは「十字架にかかられたお方」です。そして、四つ目に、
4)神の右の座に着座されている方
「神の御座」、それは「神の至高、及び、力と権威」を表わしています。イザヤはイザヤ書6:1で「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、」と記しています。そして、「右」ということばも「力と権威」を表します。罪人たちのために贖いを成し遂げられた主イエスは、大祭司という働きに加えて、王としての権威を帯びて神の右の座に着座された方であると著者は教えます。聖書の至る所でこの「神の御座の右」について、もちろん、イエス・キリストに対してですが、書き記されています。その代表的な箇所を見ます。マルコ14:62「そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」、同じマルコ16:19「主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。」、使徒2:33「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」、Ⅰペテロ3:22「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」、ヘブル10:12「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」、パウロはこのように言います。ローマ8:33、34「:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」、
著者はこの2、3節からイエス・キリストがどのようなお方であるのか、信仰の本質なるその方がどのようなお方であるのかを四つ私たちに教えました。その上で、この後に「キリスト者への勧め」を三つ書き記しています。
3.キリスト者への勧め
1)12:2 イエスから目を離さないでいなさい
ここで使われている「目を離すな」の意味は、「他のものからきっぱりと目を離してイエスだけを凝視する、他のものは見ない。」ということです。英語の聖書ではこの箇所は「Let us fix our eyes on Jesus,」
で、私たちの目をイエスの上に「固定する」ということです。ですから、「fix」=固定する、ということばが使われています。イエスから目を離すとどうなりますか?私たちは目標を見失います。ゴールを見失います。正しくない道を走ってしまう、そのような者になる恐れがあります。私は今、趣味でバドミントンをしていますが、シャトルから目を離すとシャトルを打てません。よく分かります。テニスでも同じです。ボールから目を離すとそのボールが打てないのです。打ってもどこに飛んで行くのか分かりません。私の打ちたい所ではなくてボールの好きな所に行ってしまいます。だから、目を離すということは私たちは様々なことからよく分かります。
ここで著者は「イエスから目を離さないでいなさい」と言います。私たち信仰のレースを走っている者は、そのスタートのときからゴールに至るまで、ただイエス・キリストだけを見てしっかりと走るべきだと著者は言うのです。イエスだけに信頼して、そして、信仰のレースを走り切る、そのことを著者は「イエスから目を離さいでいなさい」と私たちに勧めているのです。ヘブル11:24-26をご覧ください。「:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」、「モーセは…報いとして与えられるものから目を離さなかった」と著者は記しています。私たちも同じように、イエスから目を離さない、他のものを見ないで、イエスだけを見てゴールを目指して走るのです。
2)12:3 イエスのことを考えなさい
「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。…」、「イエスのことを考えなさい」と勧めています。この意味は「イエスの忍耐をよくよく考慮しなさい」、熟考するということです。「…反抗を忍ばれた方」、この反抗の頂点は「十字架」です。十字架に架けられたイエス・キリストは、多くの民から笑われつばをかけられ、でも、喜びのゆえに十字架にかかられたのです。だれのために?それは私たち一人ひとりのためだとみことばははっきり教えています。十字架でイエスがどれだけ辱めを受けられたのか、それは福音書を読み解けばよく分かることです。
3節の後半に「…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」、イエスのあの十字架を良く考えること、それには理由がある、そのことをよく考えなさいと言うのです。著者は当時のクリスチャンが簡単なことで元気を失ってしまうこと、そして、最初の決意も弱ってしまう、そのようなクリスチャンを自分の周りでよく見ていたのかもしれません。だから、あの十字架はだれのためであったのか?どのような苦しみの中で十字架に架けられたのか?そのことを良く考えて見なさいと勧めたのです。へブル書から著者のことばを見ましょう。2:9-10「:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」、4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」、5:7-9「:7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」、
ですから、「イエスのことをよく考える」その理由は「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」、
3)12:4 あなたの試練を思って見なさい
「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と。あなたがた一人ひとりはその試練を考えてみなさいということです。これは3節の「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方」と対比されています。イエスの十字架を覚えて、私たちにかかっている試練を考えて見なさいということです。確かに、私たちの信仰のレースにおいても信仰生活においても様々な戦いがあります。これは皆さんがよく承知していることです。それは内なる戦い、外から来る戦いなど様々な戦いがあります。これが現実です。でも、著者は「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と言います。
私たちは様々な信仰の途上において様々な戦いを経験します。しかし、殉教するというような局面に出会ったことはまだありません。恐らく、そのことを覚えて、この当時のクリスチャンたちに対して著者はこのように書き記したのでしょう。イエスはあなたがたのために死んだけれども、あなたがたが受けているその試練は、よく考えて見なさい、そこまで至るものではないでしょう?と言うのです。そのことを考えて、私たちの身にある試練はどうですか?いのちを投げ出さなければならないような試練で
しょうか?私たちはいまだかってそのようなことは経験したことはないでしょう?私はありません。
でも、著者は「あなたがたの試練を考えて見なさい」とこのように三つ目の勧めをするのです。
最後に、へブル10:32から読んで終わります。「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。」、続いて、36-39節「:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。:37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」、
《考えてみましょう》
1.あなたにとって「救い」とは?
2.救われたあなたは生き方が変えられましたか?
3.信仰のレースを走り続けるために必要なことは?
4.イエス・キリストに関する四つのこととは?
5.著者の勧めはどのようなものですか?
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