Messenger: 麻生 俊一
Passage: ルカ11:29-32
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奈良県、橿原市にある白橿キリスト教会の麻生です。近くに橿原神宮があり、少し南には桜で有名な吉野があります。ここから見るとかなり田舎ですが…。今日もごいっしょにみことばから教えられていきましょう。
ルカの福音書11章29-32節、先ず、この箇所を読みます。
「:29 さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。:30 というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」
ここはどんな場面で語られているのか?この直前に、イエス・キリストは悪霊を追い出す奇蹟をされました。それを見ていた人たちは、もっとしるし(奇蹟)が欲しいと思っていたようです。もっと大きなしるしとは、恐らく、天から声がするとか、あるいは、旧約時代に預言者エリヤが天から火を降らせましたが、あのような奇蹟をここでして欲しいと求めたようです。
その群衆に対して、同じことが書かれているマタイの福音書では(並行箇所、12:38-42)、群衆というよりも、パリサイ派の人たち、律法学者に対して答えられているように書かれています。律法学者、パリサイ派も群衆も考え方はそれほど変わらないと思います。その彼らの要求に対してイエスはこのように言われました。29節「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、…」と、悪い時代の特徴はしるし、奇蹟を求めることだと言われたのです。
彼ら群衆は、これまでも多くの奇蹟、しるしを見ていたのです。ルカの福音書にはたくさんの奇蹟が書かれています。もうすでにイエスは多くの奇蹟をされているのです。悪霊が追い出されて人が変わるということ、五千人以上の人たちのお腹を満腹にした奇蹟、娘さんが生き返る、青年が生き返ったという奇蹟などを見ているのです。また、弟子たちも奇蹟をする権威を与えられて、町々、村々を巡って奇蹟を行っているのです。だから、彼らはもうたくさんの奇蹟を見たり、あるいは、自分自身が体験したりしているのです。それなのに、イエスは彼らの心の奥深い所を見られて「この悪い時代はしるしを求めている」と言われたのです。つまり、まだしるしが欲しい、もっと大きなびっくりするようなしるしが欲しいということを彼らが要求したということが分かります。
なぜ、そのようなものを要求しているのかを考えると、私は恐らくこのような結論に至るのではないかと思います。しるしを求めるということの根本的な動機は「自分本位、自己中心、自分の欲望を叶えたい」という思いです。それが強くあるゆえに、宗教指導者である律法学者、パリサイ派の人たち、そして、群衆も同じように、奇蹟、しるしを求めることになったということです。
律法学者やパリサイ人たちがイエスに強くしるしを求めたのは、彼らの特徴としてこのような理由があると思います。つまり、パリサイ派や律法学者たちは、民衆からの人気を得たいとして民衆からの評価を非常に気にしていた人たちだったのです。イエス・キリストの方へ民衆の思いが行くと、当然、自分たちの方に民衆の目が向かなくなってしまう、そのことに腹が立っていたのです。だから、イエスのすばらしい奇蹟を見ているのですが「もっと大きい奇蹟を、もっとすごい奇蹟をやれ!」と厳しい要求をイエスに突き付けて、「そんなに偉そうに言うのなら、もっと大きいことをやってみろ、神の御子と言うのなら、天地をひっくり返すような奇蹟を見せてみろ!」と迫ったのだと思います。
民衆にはそこまでの思いはないにしても、やはり、奇蹟はあって欲しいと思ったことでしょう。民衆は、これは宗教指導者たちも同じですが、彼らが願っていたのは、当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていて、ローマ帝国に苦しめられ非常に困難な生活をしていました。彼らは独立したいということを強く願っていたのです。だから、もしも、イエスが神から遣わされた本当に真実なすばらしい人物であるなら、もっと奇蹟をして欲しい、天から火を降らせるような奇蹟をしてくれ、そうすればローマ兵が攻めて来ても、一瞬のうちに火で焼かれて、私たちの国は独立できて豊かな国、力強い国になって楽な生活になる。だから、イエスにもっと奇蹟をして欲しいと願ったと、十分に考えられます。
さらに、それだけでなく、イエスが為されている奇蹟は、健康の問題からも解放される奇蹟だから、イエスがどんどん奇蹟をしてくれたら私は病気にならないでずっと健康で生きていけると、そのような期待もあったと思います。いのちの問題もあります。先ほど言ったように、ルカの福音書には、二人の人が生き返ったことが書かれていますが、「私はどうしても仕事がしたい、この仕事を叶えたい、でも、病気になってもう死にそうだ、ここでイエスさまが奇蹟をしてくれたなら、私は生きて、そして、自分の望む仕事を続行できる。そして、自分の望みが達成できる。だから、イエスさま、もっと奇蹟をしてください。もっと大きな奇蹟をしてください。」とそのように願っているのです。
さらに食料の問題、たとえ、飢餓や災害が起きても、イエスは五千人の食事をわずかな物でいっぱいにされたのですから、イエスが奇蹟をされたら一気に問題が解決すると、そのように考えて「イエスさま、もっと奇蹟を!」と求めたのでしょう。こんなすばらしいことはありません。こんなことがどんどん行われるなら、この地上はパラダイスになってしまいます。そして、自分たちは苦しみから完全に解放されてしまいます。何の問題も、何もトラブルもなくなってしまいます。だから、「イエスさま、もっと奇蹟を!!」と民衆も宗教指導者たちもそのように願っていたのです。
ところが、今日の箇所で見たように、彼らは自分たちの心の奥深いところに恐ろしい罪があることについては考えないのです。その罪から解放されたい、罪が赦されたい、罪に対して恵みが欲しい、そういう思いは全くと言っていいほど彼らには思い浮かべなかった、求めなかったのです。心のことは求めないで、ただ、外側の目に見える肉体上の楽なことだけをイエスに真剣に求めていったのです。つまり、神からの目に見える祝福を欲しいと言い続けている、これがこの当時の人々の様子です。それをイエスは「悪い時代だ」と言われているのです。
2000年前のこの時代だけが悪い時代ではなくて、現代も悪い時代だと言うことができます。つまり、結果として、すぐに何かを解決するような、何かから解放されるような、そのような奇蹟を求めているからです。人間がいくら頑張っても努力してもできないから、それなら、神からの奇蹟を求めようとしているのです。だから、今でもあちこちで起こっているのですが、何か超自然的なことが起こると、また、そのようなことができる人のうわさを聞くと、そこへ飛んで行く、そして、その方から力をいただきたいと思ってその人の教えを請う。あるいは、その中へどんどん入って行く。以前にありましたが、ある宗教団体でそのような奇蹟に引っ張られて、もちろん、まがい物の奇蹟ですが、そこに入って行く人もたくさんいるのです。それも一般の人ではなくて、学識のある非常に知的レベルの高いと言われる人たちがそこに入っていくのです。そこには何かがあるのではないだろうか?何かすごいものがあるのではないか?と思ってそこに入って行くのです。
そこまででなくても、何か病気をするともちろんあちこちの病院に行きますが、なかなか治らない、無理だと言われて、そのうちにいろんな友たちがいろんなアドバイスをしてくれます。「病院、ダメだったの?実は、私の知っている人でここに行ったらこの人にお願いしたらその病気が治ったの。どう?行ってみない…。」と、そのような誘いが来るわけです。どういうわけか自分が病気で苦しんでいることが広まっていって、それに目を付けた人が集まって来て、ここに行ったら、ここにお願いしたら治るよと聞くのです。最初はもちろん半信半疑で信じません。そんなバカな…、現代にそんなことはないと、拒否します。しかし、いくら経っても病気が治らない、悪くなっていくばかり…、そうすると「まぁ、騙されたと思って一回行ってみようか…」と心が動いていくのです。
つまり、ある種のしるしを求めているのです。奇蹟を求めてそこに向かって行くわけです。「まぁ、一回だけ」と思って行ったら、たまたま良くなった、快方に向かった。そうすると大変です。一回そのようなことがあると必ずと言っていいほど、二回、三回と続きます。そして、そのしるしばかりを追い求めるようになります。
大分前のことですが、私たちの教会に来ておられた兄弟がお父さんに伝道をするのですが、なかなか聖書のことばを聞いてくれないと言うのです。理由を聞いてみると、そのお父さんにこういう体験があったそうです。病院に行っても治らない、治せない病気に罹られたそうで、そのお父さんがある所から情報を得て、ある宗教団体、神道系だったと思いますが、そこに行かれました。そうすると、完全かどうかは分かりませんが治ったのです。すると、それ以来完全にそこの虜です。聖書のことばには全く耳を貸しません。だから、皆さんは「私はそんなものに振り回されない」と言われるでしょうが、とことん下ってしまいますと「わらをもすがる思い」、まさにその通りです。「まぁ、騙されたという思いで行ってみる」、そして、しるし、奇蹟を求めます。そこで何か気分的にも良くなると、これは効果があると思ってのめり込んで行ってしまう。そして、どんどん奇蹟を求めて行くのです。
ですから、私たちはしるしや奇蹟を軽く思っているかもしれませんが、実は、私たちの思いを惑わす非常に強烈な力を持っているのです。「私はそこまで行かないけれども…」と思っている人は多いでしょう。
けれども、結構身近なところで私たちはそれらに惑わされていることが多いのです。つまり、一般的にご利益信仰と言われているものはその中に入ると思います。非常にこれに似ていると思います。ご利益信仰ですから、自分の力や友達の力を借りたけれど何か上手くいかない、問題が解決しない。そういうときにどこかに行くわけです。それは宗教団体に限りませんが、何かそれらを叶えてくれる所のうわさを聞いて行くわけです。なにがしかのお金を払ってその問題を解決してもらおうとするのです。そのようになびいて行くのです。過去にも、芸能人がそういう所になびいて行って、とてつもない金額を取られてしまったというニュースも、芸能界のことに詳しい人ならご存じでしょう。
そこで、「あなたには罪があって、神を無視して神から離れた結果そうなったのですよ。」と言っても、「そんなことは聞きたくない。そんなことを聞きに来たのではない。」と反論します。私のことはいいからとそのままにしておいて、自分のことは棚に置いて、とにかく、周りか何かに、奇蹟的にこの問題を解決して欲しいという思いで行くから、自分の心の中にある奥深い問題、自分の欠点、自分の間違いでそうなったと言われるのは嫌ですから、それらのことは脇に置いて、奇蹟的に助かりたいと思って行くのです。ですから、罪のことを言っても神のことを言っても耳に入らないわけです。
強引に「罪がありますよ!」と言うと、大抵の場合、こんなことばが返って来ます。「そうですよ、確かに、私は悪いです。善人などいませんからね…」と。ことばでそのように言っても、心の深い所ではこう思っています。「いや、私は良い方だ。私は善人だ。そんなに悪くない。むしろ、相手のほうが悪いのだ。」と。だから、自分のことを変えようとか、自分を吟味しようとか、自分の心の中を探ろうなどとは一切しないのです。嫌だからと、そこに関心が全くないのです。
この2000年前のルカの福音書に書かれている時代の人たちも、そこに関心がなかったのです。ですから、イエスは様々な奇蹟をされて、ご自分が救い主であることをはっきり分かる証拠を示して見せられたのですが、もうこれ以上見せても無駄だということで「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」と言われました。「ヨナのしるし」とはこういう意味です。三日三晩、つまり、あしかけ三日間ですが、ヨナは大きな魚の中にいましたが、そこから出されました。マタイの福音書を見ると、これは「イエスの復活のこと」だと記しています。ですから、この後、イエスが民衆に、宗教指導者たちに見せるしるし、奇蹟はご自分の「復活の奇蹟」です。「それしかわたしは見せない。」と言われたのです。現実に、このルカの福音書のこの後を見ると、一つ二つ奇蹟は書かれていますが、この11章の前と比べると、奇蹟の数は格段に減っています。「もうこれ以上奇蹟をしてもあなたがたは考えようとしない。わたしがどういうものかを調べようともしない。だから、この後残っているのは復活の奇蹟だけだ。」と、その意味がここに含まれているのです。
問題の根源を調べることなく、簡単に解決することを願って、人々は奇蹟やしるしを求めているのです。たとえ、自分の力でできなくても何かそこに真理があるのではないか?もしかすると神が存在されるのではないだろうか?もしかすると聖い神が存在されるのではないだろうか?と、そのように真剣に考えることを止めてしまっているのです。恐らく、子どもたちのほうがそのことを真剣に考えているのかもしれません。「神さま」と言うと、子どもからの反応は「聖い方だ」と、そのようなイメージを多くの子どもたちは持っていると思います。ところが、大人になると、いろんな知識が入って来るので、「そんなものは神話だ、昔話だ、現代の科学では有り得ない。」といろんな理由を付ける知恵を持ってしまったので「有り得ない!」となります。でも、そこまで崩れていない子どもたちは「神さまって聖くて怖い方だ」というイメージがあるのでしょう。彼らの方が真剣に考えるかもしれません。だから、教会学校で子どもたちに神のことを伝えると「信じます」と答えます。その後続けるには大変な労力が必要ですが、わりとすーっと入って行きます。
根源的なことを調べることなく、簡単に表面だけを解決する方法を2000年前も今もみな好んでしたいと思っているのです。つまり、自分が苦しんで頭を打たれて、そして、学んでいく、改善していくことが嫌い、嫌なのです。とにかく、楽な方法で問題を解決して行こうとするのです。これはいつの時代も同じで、主イエスはそれを「悪い時代だ」と言われました。本当にそれで解決すれば良いのですが、逆にもっと悪くなっていくというのが現状だと思います。
「キリストを信じている」と言うクリスチャン、「私はイエスさまを信じています」と言うクリスチャンであっても、実は、この種のものを求め続けているということが起こって来るのです。実際に起こっているのです。しるし、奇蹟を求め続けるということが起こっています。もちろん、大きな奇蹟、びっくりするような奇蹟までは期待していないかもしれません。でも、私たちの小さなところでいつもそのような奇蹟を求めているという可能性は十分にありますし、注意しなければいけないことです。
今から言うことは、それを神に求めてはいけないという意味で言うのではありませんが、その人からいつもそのようなことばが出て来るなら、その人は考えてみなければいけないことです。たとえば、何か問題があった時に「神さま、どうぞ、この問題を解決してください。」とあるクリスチャンがそのような祈りの課題を言うと、「それはすばらしい、信仰的な人だ。祈りをもって神さまに助けを求めている、すごい人だ!」と思ってしまいます。しかし、いつもその人から出て来ることばが「神さま、この問題を解決して欲しい。この問題から解放してください。」ということばかり、いつも「この病気を治して欲しい」と、もちろん、病気は深刻な問題ですが、でも、一から十まで「病気を治して欲しい」ということばかり、それしかない。また「この仕事が上手くいくようになって欲しい。そして、私の上司が私の意見に賛同してくれて、私の意見が通って仕事がスムーズにいくようにして欲しい。
私の立てた計画を神さまが助けてくれてこの仕事が成功するようにして欲しい。神さま、そのようにお願いします。」と…。その祈りを他のクリスチャンたちがいつも聞いている。教会でもそうです「神さま、この教会をこうしてください、ああしてください。このような教会の姿が私の望む姿です。どうぞ、このような教会にしてください。そのために○○さんをこのようにして欲しい。この人もこのようになって欲しい、あの人もこのようになって欲しい、変わって行って欲しい。」と、自分のことは棚に上げて、神が周りの人に働いて変えてくれて、しかし、自分は一向に変わろうとしない、そのことをいつも言っている人。また「もっと感動が欲しい。飛び上がるような感動が欲しい。そのような感動を神さまください。」と感動でもって生活しているような人。これらも全部合わせて、実は、しるし、奇蹟なのです。
つまり、根本的な人間の罪の問題を考えることなく、「こうして欲しい、ああして欲しい」と、しかも手軽に祈りだけで「神さま、…してください」と言っているだけです。これが現代のクリスチャンに起こっていることで、まさに、しるしを求め続けているこのような時代です。
教会の中にも悪い時代が入って来ている可能性があります。悪い時代の特徴が入って来ている可能性があります。誤解してほしくないことをもう一度言いますが、私はこのようなことを祈ってはならないと断言しているつもりは一切ありません。つまり、その人から出て来ることばが、いつもこういうことばかりで、自分の心の深い所を考えようとしない、責任転嫁したり、とにかく、それらはすべて、自分が楽になりたい、自分が楽に生きたい、自分がほめられたいと、そのようなことのために神に祈って、しるし、奇蹟を求め続けている人のことです。
そのことが実現すると「神さまはすばらしい!」と言って神を讃美するのですが、それが実現しないとがっくりしてしまいます。しかし、他のクリスチャンたちは、それは祈って求めているのだからそれでいいのではないかと思ってしまう。でも、よく注意してみると、その人は自己中心で神に求めているだけだと思います。その人から出て来ることばや行動が「これしかない」と言うほどなら、その人は当時のパリサイ派や律法学者たちよりももっと悪いのです。なぜなら、現代のクリスチャンと言われている者は、イエス・キリストの十字架を知ってそのことが分かって受入れた者です。つまり、私たちは、神から離れていたこと、罪を犯してしまったこと、そして、イエス・キリストが私たちを愛してくださって、神がご自分の御子さえも惜しまずにこのイエスを地上に人として遣わしてくださり、十字架につけて、身代わりの罰を彼の上に全部置いてくださった。私たちは信仰を通して救われる。もちろん、私たちが罪を悔い改めて「間違っていました。私の今までの生き方、価値観のすべてが間違っていました。私はイエスさまを信じてこれから生きます。」という、このすばらしい神の恵みを十分に聞いて知って受入れた者です。
とてつもなく大きなすばらしい恵みを、驚くべき恵みを受けた者なのです。けれども、この当時の律法学者やパリサイ派の人たちは、そのことがまだ実現していないわけですから、分からない人たちなのです。もちろん、群衆も分からない人たちです。だから、私たちは、これだけ大きなものを知ったのですから、こんなことを第一に求めて、求め続けることはないはずです。それなのに、何かしら知らぬ間に求め続けてしまっている自分を発見する時があるのではないでしょうか。
さらに、イエスのすばらしい恵みを知った者は、ただ十字架によって罪赦されたことのみならず、その後の生活においても神は私たちを守ってくださって、すべてのものを与えてくださるという保証をされているのです。ローマ書8:32をご覧ください。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」、「御子をさえ惜しまずに死に渡された方」、これが神です。その方がすべてを恵んでくださる、私たちが気が付かないことも含めて本当にすべてを恵んでくださると、その約束があるのです。こんな約束を当時のパリサイ人や律法学者たちは知らなかったのです。でも、私たちは知っているのです。「くださる」と約束されているのに、私たちが自分本位で「私はこう考えていますから、これをください。
ああしてください。こうしてください。」と求めることは、結局、自分のためだけの要求をしていることです。それではこのみことばはどこに行ってしまったのですか?このみことばを知って、もし、知らなかったのならまだ分かりますが、今、皆さんはもう知ったのですから「知らない」とはだれも言えないでしょう。約束されているのですから、そのようなしるしや奇蹟を第一に求めなくなるはずです。それなのに、私たちはいろんな要求をするのです。結局、それはすべて自分が楽になること、自分が得になるように、自分の益になることだけ、マイナスになることは嫌、益になることだけを一生懸命願って祈ってしるしを求めていっているのです。実は、そのようなことから私たちは悔い改めなければいけないのです。もっとイエス・キリストの十字架がどんなにすばらしいかということを学ばなければいけないと思います。もちろん、イエス・キリストの十字架でなくても、十字架がなかった旧約時代からもそれを学ぶことができるのです。
私たちは「こうなって欲しい」という祈りの内容で、悪くなって欲しいという願いをしますか?「神さま、私をもっと悪者にしてください。私を倒してください。」という祈りをしますか?私自身、そんなことはありません。けれども、旧約時代の神に信頼していた人たちはそのことをやったのです。その一人はモーセです。モーセは民が罪を犯したき、神が「この民をさばく、滅ぼしてしまう。」と言われたときに、「神さま、そうです、あの民は悪いです、本当に腹が立つのです。いつも私はイライラしてカッカするばかりです。どうぞ、さばいてください。
そして、私だけをカナンの地に入れてくだい。」と言いましたか?実は、それと全く逆のことをモーセは言っています。「神さま、私をさばいてください。民を助けてください。民をあわれんでください。」と、もちろん、これも要求ですが、その中身が全く違います。自分ではありません。自分は死んだ者として、ただただ、この民に神の栄光が現われるようになって欲しい、神のみこころがなるようにこの民に示して欲しい、私はどうなってもいいから…と言っているのです。このようなモーセの祈りを私たちはどれだけしているのでしょうか?相変わらず、「私が元気で、経済的にいつも黒字で、有り余るお金で、本当に美味しいものを食べて、遊びたいときには大いに遊んで、そのようにやっていく…。」と、そのことを求めて神に訴えているのです。
ニネベの人たちは悔い改めました。ヨナがニネベに行ってメッセージを語った後、彼らは悔い改めました。彼らはヨナのわずかなことばで悔い改めたのです。聖書を見ると「ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と言った。」(ヨナ書3:4)と書かれています。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」ということばだけでした。恐らく、ヨナは自分が神に背を向けて逆の方向に行ったこと、また、大きな魚に飲まれてそこにいたこと、そして、そこで悔い改めた時に神があわれんでまたここに遣わしてくださったことなどを全部話したと思います。でも、わずかなことしか話していません。私たちクリスチャンはどうでしょうか?
シェバの女王はどうでしょうか?遠い地からエルサレムのソロモン王のうわさを聞いてやって来たのです。ほんのわずかな情報しか伝わらなかったと思います。それでも何かあるに違いないと思って来ました。現実を見て驚きました。恐らく、彼女は信仰を持って帰ったのではないでしょうか。それもわずかな情報だけです。
けれども現在、今日のクリスチャンはものすごい神のことばをいただいているのです。この聖書一冊、読むのが大変な位に神のことばをいただいているのです。ちょっと時間を使って、この聖書を読んで学ぶことをしたり、聞いたりするなら、こんなに神の祝福が大きいのかということがどんどん分かっていくはずです。でも、そのことをしないなら、いつまで経っても分かりません。目の前にあるのに、私たちの感覚が鈍くなって来ているなら、聖書を読んでそこから神の真理を知るよりも、とにかく、今の私の問題を解決して欲しいと、しるし、奇蹟を求めて「どうぞ神さま、私に祝福を与えてください。」と祈り求めるのです。それが余りにも多すぎるということなら、この当時と同じことになります。
聖書から教えられて、罪の赦しがどんなに大きいか、また、罪の赦しだけでなく、その後に与えられる神の祝福がどんなにすばらしいかが本当に分かったとき、私たちはこのイエスに従って行こうという思いが出てくるはずです。そして、益々今までの自分の間違った価値観を変えて、イエスが望まれるような生活をしていこうと思うはずです。それは悔い改めながらずっとやっていく作業です。クリスチャンと言われる人の中には「悔い改め」ということばを聞いた時に、「イエス・キリストの十字架は私の罪のためでした」という、この一回だけの悔い改めだと思っている人がいるようです。悔い改めてイエスの十字架を信じる、これで私の悔い改めは終わったと、そのように思うことは間違いです。悔い改めはその後もずっと続くのです。救われるために悔い改めるのではありませんが、神に感謝してこの恵みがどんなに大きいかが分かった時に、自分の今までの考え方、価値観がいかにずれていたかということを教えられていって、そして、修正して行く、この繰り返しが悔い改めなのです。恐らく、クリスチャンはイエスを信じた時に悔い改めた、その後も、何回も何十回も何百回も悔い改め続けて、そして、天の御国に入って行くのです。これがクリスチャンの姿です。ですから、戦いの連続です。悔い改めは嫌です。自分の考え方、価値観が否定されるのですから嫌です。でも、それを通って行って初めて神が喜ばれるような生き方、そして、神のことが証できるようなクリスチャンに成長していくのです。
では、クリスチャンが求めるのは何でしょうか?たくさんありますが、その一つはマタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」です。つまり、私たちが求めるべきものは、しるしではなくて「神の国とその義」です。神のみこころを求め、そして、神が誉められることを求め、神が聖いと言われること求めて行く、これを第一にしなさいということです。「そうすれば」、このみことばの前に書かれていること、私たちが悩んでいる食べ物のこと、着るものなどの様々な問題、それらはあなたにとって必要ならすべて与えられますという約束があるのです。すべてです。豪華な生活はできないかもしれません。でも、あなたにとって必要なものはすべて与えられるという約束です。つまり、その姿というのは「キリストに似た者に変えられていく姿」です。キリストに似た者に変えられていく途上にある姿です。それは神の御前に謙虚になって生活をするという姿です。人の前ではなく神の前に謙虚になっていく姿です。そうすれば、神はその人を本当に豊かにあわれんで恵んで、必要なものはすべて与えると言われているのです。
マタイの福音書の「山上の説教」と言われているところに「祈り」があります。その祈りの中にもそのことが教えられています。マタイ6:9-15「:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。】:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。〕、簡単に見ていくと、「御名があがめられますように」とは、神が崇められますようにです。あなたが崇められますようにではありません。あなたの思う通りになったといって「あなたはすばらしいですね。あなたはすばらしい信仰を持っていますね。」ということではありません。
たとえ、自分の思いが成就、完成したとしても、他の人から「あなたはすばらしいですね」と言われることではないのです。神が崇められるように、あなたのその完成を見た時に神のすばらしさが分かるという、そのことを私たちは祈りなさいということを言われているのです。最終的に、自分の方に評価を引っ張ってしまうというのはずれています。神がすばらしいと言われるようなことをしていきなさい、また、そういう祈りでありなさいと言うのです。
次に「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」と言われています。これもあなたの思いではありません。あなたの思った通りになって行きますように、あなたの思った通りに教会が変わって行きますようにではありません。神がみことばで示されている教えの通りに教会が変わって行きますようにという祈りをしていかないといけないのです。私の思っていることが正しいからそのように教会も変わるべきだと、偉そうに言うべきではありません。それがみこころに根ざしているのなら堂々と言ってください。しかし、みことばが言っていないことならそれは引っ込めなければなりません。最終的にはみことばなのです。
それから「日ごとの糧をきょうもお与えください。」、その時その時、神に祈り求めながら生きていくことです。もし、私たちが10年先、20年先のことが明らかになってそのことが分かったなら、私たちは高慢になるか倒れるかのどちらかです。もし、あなたの20年先は元気でバリバリと教会の中でも外でも仕事をやって皆から高く評価されていると何か幻ででも見せられて、これが神の約束ですと言われたなら私たちはどうしますか?一瞬感謝するかもしれませんが、「よし20年大丈夫だ、何をやっても大丈夫だ」と思います。すると生活が乱れて滅茶苦茶になります。単純なことを言えば、車で100キロ、200キロ出しても死なない、けがもしないと思うと滅茶苦茶するかもしれません。高慢になっていきます。逆に「あなたの20年後はこの世にいません」と断言されたらどうなりますか?恐らく、食事が喉を通らなくなるのではないでしょうか?だから、神は今日真剣に生きなさい、今真剣に生きなさいと言われるのです。もちろん、私たちは将来のことを計画しますが、計画してもその通りにならなくて文句を言うのではなくて、計画しながら今日を一生懸命生きていく、そのことがここで教えられていると思います。
そして、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」、こ
れはイエス・キリストによって多くの罪を赦されたことを知った人は、他人の罪を赦すことができるということです。自分がたくさんの罪を赦されていることを知らない人は、他の人の罪を赦すことがなかなかできません。だから、あなたはどんなに多くの罪が赦されているかを知りなさい、そして、あなたも他の人の罪を赦しなさいということを勧めているみことばです。私がだれかを赦すように話し、そのように行動していった時に、そのことが自分の中で多くの割合を占めて行くなら、クリスチャンでない人は私を見てどう思うでしょう?私に対して非常に良い印象を持ってくれると思います。
あのクリスチャンはあんなに酷いことをされているのに、赦して感謝して神さまを見上げていっていると…。普通なら文句を言って、それこそどこかに訴えて相手をさばこうとするでしょう。言うべきことを言って、でも、相手がどうにもならないなら、ただそれを受け入れて、感謝して、しかも、その人を赦している。赦しは大変なエネルギーが要りますが、そのことに私たちが注目してそこに力を注いでいく信仰生活なら、「あの人の生き方は何か違う。私たちのできないことをやっている。」と、これがすばらしいキリストを証していることになるのです。十字架の赦しを証していることになるのです。そこからその人はイエスに興味をもってあなたにいろいろ質問されるかもしれません。そこに私たちは力を注ぐべきです。
ところが、そうではなくて、しるし、奇蹟を求めているクリスチャン、いつもそうしているクリスチャンを見るとクリスチャンでない人はどう思うでしょう?「神さま、いつも上手くいきますように、これが成功するようにしてください。病気が治りますように。長生きして、健康で顔の色つやも良く、足腰も元気にバリバリ遊びに行けるようにしてください。」と祈っていたら、クリスチャンでない人はどう思いますか?「キリスト教って偉そうなことを言っているけど、どれも同じことだ。◯◯教でも□□教でも、信仰のない人でも同じことを言っていますよ。キリスト教は大したものではないですね。私はそんなものを信じる気持ちはさらさらありません。」で終わってしまいます。何の力もありません。
イエスはそんなことのためにあなたを救ったのではありません。もっと恐ろしい罪の力から解放されたあなたを見せることによって伝道が為されて行くのです。また、その恐ろしい罪の力から解放するためにイエス・キリストは十字架に掛かって死んで復活してくださったのです。その解放された姿が「他の人を赦す」という態度なのです。しるしを求める態度ではないのです。これはノンクリスチャンでもだれでもできることです。でも、「赦しをする」という態度はクリスチャンにしかできないことと言ってもいいほどのエネルギーが必要な態度です。それをイエスが下さると言われているのです。
ですから、謙虚な生き方です。神に何でも要求するだけというのは神を自分のしもべ、神を自分の奴隷にしている姿です。恐ろしい姿です。「神さま、私は教会にたくさんの献金をしますから、私の願いを聞いてくださいね。私は教会で○○の奉仕をしますから、どうぞ私の願っていることを叶えてください。」と、これは橿原神宮といっしょです。何も変わりはありません。そういう生き方を神がさせようとしているのではありません。むしろ、私たちは神のしもべなのです。私の考えはこうであって神の考えは違う…、それなら神の考えを取っていく姿です。
嫌なことでも、神がしなさいと言われたなら、祈りながら求めながら変えられていくようにしていく姿、そして、神は力強く、すんなりとは動かない頑固な私たちをも動かしてくださって、神の栄光を現していこうとされているのです。ヨナもそうです。最初は「嫌だ、嫌だ」と言っていましたが、神はヨナを通してわたしの栄光を現したいとされて、あのような奇蹟をもってニネベに伝道に行かせたのです。私たちもヨナと同じです。かなり頑固です。頑固の塊です。そのような者を神は恵みをもってあわれみをもって、それを潰して、あなたを通して栄光を現そうとしてくださっているのです。それなら、私たちの側でも、少しでも、神のみこころを知って、それに近づきたいという思いを持って行く、そのような態度が必要なのです。神だけに任せて「やりたいならやってください」ではないのです。私たちが自発的に神を礼拝賛美することを神は喜んで受け取ってくださるのです。
ルカの福音書の今日見た箇所のその先の部分、11:33-36を見てください。「:33 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。:34 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。:35 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」、クリスチャンとは、イエスのすばらしい光を受けた者です。全身浴びるほどにすばらしいものを受けて、それが分かった者なのです。なぜ分かったのですか?目が良かったからです。これは目でたとえられていますから目が良かったのです。ところが、この時代の人たち、宗教指導者たちも含めて、彼らは目が悪かったのです。イエスが目の前におられて奇蹟をされてご自分が救い主だと言われるその証拠もたくさん示しておられたのに、そのことを見る目が悪かったために、そのことが分からなかったのです。それが「目が悪い人」という意味です。
でも、今、私たちクリスチャンであるなら、目が見えてイエスからいただいた光が見えたのです。光があっても目が悪かったなら当然見えません。でも、その目が開かれて見えたのです。イエスを見るその目が分かって見えたなら、さらに、イエスをよくよく見続けていくことです。イエスが願っておられることを私たちがしっかりと調べて聞いて理解して、そして、私もそのようになっていきたい、イエスが何を求めておられるのかをよく調べ学んでいく、そして、イエスのことばをどんどん受け入れていく、そうするなら、私の全身が光っていくというのです。私の全身が光ったならどうなるでしょう?これは霊的なことを言っているのですが、周りのノンクリスチャンたちが光っている私を見て「何だこれは?世の中には有り得ないことをこの人は考えて、そういう価値観を持っている。なぜ赦せるのだろう?なぜあんなことを赦せたのだろう?」と、そのような光を見るのです。そうして、私もそうなりたいという思いを持つ人が出たならば本当に感謝です。
しかし、目が悪いと、イエスを信じて光を受けてイエスが見えて分かっても、その後、イエスのことが分からなくなるので、全身が暗くなると言うのです。全身が暗くなるとだれがそんな人に魅力を感じますか?何の魅力も感じません。
だから、ここで教えられていることは、イエスをしっかり見る目をあなたはどんどん養っていってくださいということです。ニネベの人たちはヨナを見てその目が開かれて分かったのです。女王がソロモンの様子を見て神の栄光が分かったのです。目が見えたからです。私たちも一旦は見えたのです。ところが油断しているとだんだん目が暗くなっていくのです。先ほど言った「悔い改めは一回で良い」と思っている人たちはその類です。だんだん暗くなっていって、そのうち見えなくなって全身が暗くなってしまうのです。だから、「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」という勧めがあるのです。別に、それはできないことではありません。できるから「気をつけなさい」という警告が与えられているのです。だから、どうぞ、益々イエスをしっかりと見ていってください。イエスをみことばを通して見ていってください。初めにイエスが言われたことば「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、…」、このときに、私たちはしるしを求めていくことに注意しましょう。
最後にまとめて誤解のないように言います。神に病気が治るようにとかのしるしを求めてはいけないというつもりは私はありません。そうではなくて、あなたから出ることばがいつもいつもしるしを求めること、「自分!自分!」と自分に益になるようなことを求めて、すべてがそうであるなら、それはイエスのみこころとは全く違うということです。ですから、私たちはより多くの割合が「しるし」ではなくて、先ほど例を挙げたように「赦し」ということにしっかりと目を留めて、それがより多く自分を通して為されるように、自分のことをしっかり吟味していきましょうということです。割合がどれだけあるのかということです。モーセのように「どうか、あの人の失敗が私に降り掛かってもかまいません、私をさばいてください。」とまで言えるくらいの、これは並大抵のことではできませんが、それを求め続けていきなさいということです。自分がもう死んだ者として、ただ、神の栄光だけが現れるような、自分が悪く評価されても関係ありません。ただ神の御名が誉め称えられるならそれで良いという、そのような信仰に成長していきなさいというイエスのみこころ、それを私たちはこの悪い時代において真剣に求めていかなければいけないと思います。
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