Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録20:7:10
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どうぞヨハネの黙示録20章をお開きください。既に私たちは主イエス・キリストが地上に再臨される時に起こることを学んで来ました。1-3節に、まずサタンが捕えられるということが記されていました。そして4-6節には、第一の復活にあずかる者たちのことが記されています。彼らはイエス・キリストとともにさばきを行ない、そこに含まれているのは旧約において、新約において、そして患難時代において、この救いに与った者、聖徒たちでした。この聖徒たちがそのすばらしい働きに用いられることを見て来ました。そのような祝福の中に招かれる彼らは祝された者であると。千年王国にあって主とともに過ごし、そしてその後も永遠をともに過ごすことができる。前回私たちは特にこの千年王国に約束されたすばらしい祝福を見て来ました。
C.「サタンの解放」 7-10節
近朝見ていく7節にはもう千年王国の終わりの話が記されています。7節「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、」と、サタンが牢から解放されることがこの7-10節に記されています。1000年の終わりにサタンがこれまで閉じ込められていた牢から解放される。この間見たように、1000年間はサタンが全く影響を及ぼすことができない状態にあります。まさにだれかが牢の中に収監されている時に自由がないように、サタンもこの1000年間完全に自由が奪われて、人を惑わすことが全くできない状態に置かれているわけです。そして、それは1000年の間だけで、1000年の終わりが来た時に、サタンはそこから解放されると。
ごらんいただくとおわかりになるように、事実だけが記されていて、どのようにして彼がそこから解放されるのか、その詳細が省かれています。ただ1000年の終わりになると、牢から解放されるのだと。皆さんに覚えていただきたいのは、サタンは大変な力を持っています。サタンには大変な知恵があります。私たちがどんなに集まったって、私たちの力ではこのサタンに勝利することはできません。しかし神は完全な勝利者です。こうして見た時にサタンが捕えられて、閉じ込められるのも、そこから解放されるのもサタンの願いどおりではありません。神のみこころがなされるということです。つまり一体だれが主権者なのかということがはっきりしています。あくまで神が主権者なのです。私たちが何度も見て来たように、サタンがどんなにサタンにつく者を、神の敵を集めたとしても、神にとってそんなのは何でもないことです。この方は主権者であり、確かに王の王であられ、主の主であられるお方、まことの神であられる。そのことを私たちはこの中で見ることができます。
サタンが牢から解放された後、一体どういうことが起こるのかを見て行くのですが、その前にどうしても私たちが考えたいのは、この1000年の王国の間、主イエス・キリストが直接的にすべてを支配される。それでいながら神に逆らう者たちが存在しているということです。驚きではないですか?今だったらわかるのですが、この千年王国においては主が王としてすべてを支配しておられるその完全とも言える時代にあって、まだ神に逆らう者たちがいるということ。私たちが学んで来たように、大変多くのクリスチャンたちが患難時代に、神の恵みによって救いにあずかり、クリスチャンになるわけです。患難時代といえどもたくさんの人たちが救いにあずかるのです。でもその多くのクリスチャンたちは大変な苦しみを経験し、多くの者たちは殉教して行きます。しかしその中でも、そういった迫害を逃れて、生きたまま患難時代を終える人たちがいるわけです。こういう人々はそのまま千年王国に入って行きます。
千年王国に入る時に二つのグループが存在しています。一つのグループは旧約の時代に救いにあずかった者たち、新約の時代、つまり今の時代に救いにあずかった者たち、患難時代に救いにあずかり殉教した者たち。このグループはみんな今の私たちのこの肉体ではなくて、栄光のからだを持って千年王国に入ります。もう一グループは千年王国を生き延びたクリスチャンたちです。
彼らは今の私たちと同じ肉体を持って千年王国に入って行きます。そして肉体をもって千年王国に入った人たちは1000年間にたくさんの子どもたちを産みます。前回も見たようにイザヤ65:20には、「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」とあります。多くの人々が長生きするわけですけれども、100歳に満たないで死ぬ人々はなぜ死んだかというと、彼らは呪われた者だ、なぜなら神の前に罪を犯したから。神の前に罪を犯し、神に逆らい続けていたからであると。ですから、この千年王国の間、こうして生まれて来た子どもたちはその両親の信仰にならって彼らもこのイエス・キリストを信じ、この救いにあずかるならば、祝福が約束されますけれども、そうでない場合、神の呪いが約束されるわけです。それは今の時代も旧約の時代も変わりません。ですからこの千年王国というのを考えた時に、こんな理想的な時代の中でまだこの救いを受け入れることなく、拒み続ける者たちがいるという大変驚きの事実がそこに記されています。私たちが前回も見て来たように人間というのはいかに罪深い存在であるかということです。どんなに環境がすばらしくても、人間は生まれながらに神を憎むものであり、神を信じることもないし、神に感謝を捧げることもない。人間は自分のやりたいことをやっていると。この千年王国でも同じ人間の罪深さが見て取れるわけです。
1.「サタンの働き」
さて、サタンがこの牢から解放された後どんなことが起こるのか見て行きましょう。この8節と9節の初めのところにはサタンの三つの働きが記されています。解放されたサタンが一体何をするのか、三つのことを教えます。
1) 「惑わす」 8節
一つ目は彼は「惑わす」という働きをします。8節の最初に「地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、」と記されています。「地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために」サタン、すなわち悪魔が出て行くというのです。そして彼がすることは、彼にとっては得意中の得意なこと、人々を「惑わす」ということです。この「地の四方にある諸国の民」とはだれかというと、東西南北、この世界のあらゆるところに住むすべての人たちです。つまり千年王国になると、たくさんの子どもたちが生まれ、その子どもたちは全世界に広がって住むということです。それゆえに「地の四方にある諸国の民」がサタンによって惑わされて、サタンのところに集められて行くというのです。千年王国には世界じゅうに人々が居住しているということを我々はここで見ることができます。
皆さんに見ていただきたいのは、この8節に「地の四方にある諸国の民」のことを「ゴグとマゴグ」と呼んでいるところです。「ゴグとマゴグ」と言うと、これは患難時代にイスラエルを攻める神の敵の呼び名です。患難時代の終わりに神の敵がイスラエルを攻めるわけですが、彼らのことを「ゴグとマゴグ」と呼んでいる。そのことは旧約聖書のエゼキル38:14-16に出て来ます。「それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、実に、その日、あなたは奮い立つのだ。あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。ゴグよ。」と続いて行きます。
こうしてイスラエルを攻めることが預言されています。でもこのエゼキエル38章が預言しているイスラエルを攻めるのは千年王国の終わりではなくて患難時代の終わりです。「北の果てのあなたの国から、」多くの軍隊を率いてイスラエルを攻める。つい最近、皆さんもニュースでお聞きになったかもしれませんが、今トルコとシリアとイランが大変関係を密にしています。私たちも何度か見て来ましたし、こういったところに記されているのがどこの国なのかということまで私たちは推測しませんけれども、みことばが教えるように北の方からイスラエルを攻めて来る。そうすると、そこに値する国々、シリア、イランなどがついこの間のトルコのクーデター未遂から非常に密接になっています。日本にもそのような記事を掲載している新聞がありましたが、海外、特にアメリカの新聞にそのようなことが出ています。聖書が言っているようにすべてのことが進んでいます。ここに確かに「ゴグ」が出て来ました。
それも踏まえながら、ここにある「ゴグとマゴグを惑わす」というのは一体何を指しているのかと言うと、先ほど見たエゼキエルの39:1にも「人の子よ。ゴグに向かって預言して言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。わたしはあなたに立ち向かう。」とあります。つまりこの「ゴグ」というのは、人物で、「メシェクとトバルの大首長である」と。また39:6にも「わたしはマゴグと、島々に安住している者たちとに火を放つ。」とあります。つまりこの「マゴグ」というのは人ではなくて場所です。エゼキエル書を見ると、「ゴグとマゴグ」について私たちに説明を加えてくれています。
この「ゴグとマゴグ」について、ウィリアム・バークレーという先生はこんなふうに説明を加えてくれています。「マゴグの地のゴグはメシェクとトバルの大首長で、大挙してイスラエルを襲撃するが、最後に完全な敗北を喫する。時がたつにつれてユダヤ人はゴグとマゴグを神に敵対するすべてのものを表すと考えるようになった。」、ですからこの「ゴグとマゴグ」とは、「マゴグ」の地のリーダーである「ゴグ」が大軍を率いてイスラエルを攻めるということから、神に敵対する者を表す表現としてユダヤ人たちは「ゴグとマゴグ」ということばを使うようになったと。バークレーは続けてこう言います。「ヨハネがここにゴグとマゴグを引き出したのは、エゼキエルの記述に従って、神に逆らい、最後には完全に敗北するこの世の力のすべてを象徴的に示すためである。」と。ですからこの「ゴグ」は聖書では神の民の敵を指すごく一般的な呼び名。またこんな説もあります。この「マゴグ」という呼び名は全世界から集まる神に逆らう罪深い人々を表している。このリーダーが「ゴグ」であろうと。ですから明らかに「ゴグとマゴグ」と言った時に神の敵を指しているわけで、特にその中でそのリーダーとして働きをするのがこの「ゴグ」であると。
2)「招集する」――「戦いのために彼らを召集する。」
さて、もう一度そういうこと踏まえた上で、黙示録20章に戻ると、サタンが牢から解放された後、二つ目にすることは、世界じゅうに存在する神の敵を惑わして、召集するのです。敵をみんな集めるということです。8節が「惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。」と続いていました。
サタンは世界じゅうの神の敵を惑わして、ともに集まって神に戦いを挑もうとするわけです。この数が「海べの砂のようである」と。こういう表現は、あのアブラハムに神が約束を与えた時にも使われていました。この「海べの砂」というのは数えることができないことを表す比喩的な表現です。言いたいことは、神の敵は数えることができないほど、たくさん存在するということです。その大量の敵が集まってくる様子が8節に書かれています。
先ほども言ったように、不思議だと思いませんか?イエス様が直接的にこの千年王国を治めておられるのです。そしてその千年王国にあって、明らかに神の前に罪を犯す者たちに対しては神が呪って彼らに死が訪れることを見て来ました。それでいながら千年王国の終わりになると、数え切れないほどの神の敵が集められて、神に戦いを挑もうとすると。一体この千年王国の間に何が起こっているのか――。こういうことが言えます。千年王国の間にたくさんの見せかけだけの信仰者が生まれるということです。表向きは非常に信仰的なでも、心の中はそうではないという、見せかけだけの信仰者がたくさん存在すると。
ダラス神学校の学長だったワルボード先生はこんなふうに言います。「外面上は彼らは王の支配に従うことを要求され、キリストに服従すると告白する。しかし、多くの場合、これは内面的な現実を伴わない外面上の服従に過ぎず、彼らは現実の誘惑を経験していないので、容易にサタンの策略の犠牲になってしまう。」と。1000年間外側からの誘惑を経験せず、千年王国の終わりにサタンが解放された時に初めて経験する。すると彼らは信じていると思っていたけれども、実はそうでなかった。言われたことをそのとおりしていたけれども、心はどうだったかというと、神の前に心を開いていなかった。ですから最後に誘惑された時に、彼らは神に反旗を翻すのです。ですから千年王国の間、多くの人たちは外面的には従順なのです。ところが内面はそうでない。そういう人々を惑わして、そういう人たちが数え切れないほど神の敵として集められる。非常に恐ろしいことがここに記されています。
考えてみたらどの時代でも同じことが言えます。どの時代でも見せかけの信仰者というのはいたわけです。またいるわけです。イスカリオテのユダもだれひとりとして彼がサタンの使いであるなどと思っていませんでした。みことばは彼はサタンだと言っています。3年近く寝食をともにした弟子たちもだれひとりとして彼が裏切るなどと考えていませんでした。ですからみことばの中には何度も警告があります。よい麦が蒔かれるならば必ず毒麦が蒔かれる。教会の中には必ず偽りの信仰者が存在している可能性がある。必ずと言ったのは、そのようにみことばが教えるからで、願わくば私たちの群れにそういう存在がいないことを期待しますけれども、だからこそ我々は自分の信仰を吟味することが必要なのです。本当にこの救いをいただいているのかどうか、生まれ変わっているのかどうか――。あなたはそれがわかるはずです。私はイエス・キリストを心から愛しているのかどうか、私はイエス・キリストに喜んで従って行こうとしているのかどうか――。どんな犠牲があってもイエス様に従っていこうとしているのか、問いかけてみればいい。イエス・キリストによってあなたの人生が変わっているのかどうかです。あなたはより神に喜ばれることをして行きたいと思い、神が憎まれる罪から離れようとしているのかどうか問いかけてみればいい。この千年王国にも信じていると思い込んでいる未信者がいて、彼らが最後の惑わしによって神の側ではなくサタンの側につき、神の敵として立ち向かうことが記されています。
3)「取り囲む」――「地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都」を取り囲む 9節
三つ目にサタンがすることは、9節の初めに「彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。」とあります。「取り囲」むのです。
(1)「愛された都」 エルサレム
ここにある「愛された都」というのはエルサレムのことです。そして「聖徒たちの陣営と愛された都とを」と書いてあります。ですからこの無数の敵が包囲するのはもちろんエルサレムをですけれども、その周りにいる「聖徒たちの陣営」も取り囲むのです。この「聖徒たちの陣営」とは、多くの「聖徒たち」、信仰にあずかった者たちはこのエルサレムの周りに住むのです。それは、彼らが主イエス・キリストの栄光あるご臨在を喜んでいるからです。ですから御座のあるエルサレムの周りに住みたいと思ってそこに住みます。そして敵がやって来てこのすべてを「取り囲」む様子が9節の初めに記されているのです。
(2)「地上の広い平地」
もう一度9節を見ると、「彼らは、地上の広い平地に上って来て、」と書いてあります。今エルサレムに行くと、そのような平地はどこにも見当たりません。エルサレムというのは海抜700メートルぐらいの高い所にあります。その周りを見ても平地はありません。でも平地が存在すると書かれています。旧約聖書ゼカリヤ14章で主イエス・キリストがこの地上に帰って来られる時にあることが起こります。ゼカリヤ14:4に「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。」とあります。地上再臨の話です。患難時代の終わり、千年王国の始まりの時です。その時に何が起こるかというと、「オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」とあります。主イエス・キリストが帰って来られるのはオリーブ山です。そこからイエスが昇天する様子を人々が見ていました。そこで天使がそこに戻って来ると言われた。オリーブ山にイエス様が帰って来られる。その時に、オリーブ山が南北に裂けるわけです。南北に裂けることによって東西に谷ができます。それがここで言われている「広い平地」です。
ちょうど今オリーブ山に登ってエルサレムを見ると、ケドロンの谷があってそこに城壁に囲まれたエルサレムがあります。その高いオリーブ山が南北で裂け、半分は北の方に、半分は南の方に裂けて行く。そしてそこに東西に広がった谷が、言われている平地が存在すると。神の敵はそこから来て、エルサレムとその周りに住んでいる「聖徒たちの陣営」のすべてを「取り囲」むというのです。
2.「神のみわざ」 9b-10節
サタンが牢から解放された時にこの三つのことが起こる。そして9節後半から10節まで神のみわざが書かれています。サタンの働きを見た私たちは神のみわざをここで見るわけです。
1)「火によるさばき」 9b節
まず最初9節の終わりに「すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。」とあります。神様のさばきが下された時にこのようなことが何度も起こっています。例えばソドムとゴモラの上に神のさばきが下った時、創世記19:24「そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、」と書いてあります。まさに「天から火が降って来」るということです。レビ記10:2にも「すると、【主】の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは【主】の前で死んだ。」とあります。Ⅱ列王記1:10にも「エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。『もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。』すると、天から火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。」、そして12節にも「エリヤは彼らに答えて言った。『もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。』すると、天から神の火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。」とあります。ですから「天から火が降って来」るというのは神様の下されるさばきです。神様は一瞬のうちに、このエルサレムを包囲している神の敵を滅ぼしてしまわれる。神のさばきが彼らの上に下るわけです。ごらんになってわかるように、彼らが神と戦うということは一切書かれていません。彼らは戦いのためにエルサレムを包囲するわけですが、神は一瞬のうちに天からの火をもって「彼らを焼き尽く」すと書いてあります。神は一瞬のうちに彼らを滅ぼされるのです。火によってさばきが下るということです。
2)「永遠のさばき――永遠の地獄に投げ入れる」 10節
もう一つは10節、永遠のさばきです。10節「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」と。サタンは確かに惑わして、無数の神の敵が一緒になって集まって来たわけです。そして神は天からの火をもって一瞬のうちに彼らにさばきを下され、彼らは死んだのです。でも10節が教えるのは、「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」、悪魔、サタンだけが「火と硫黄との池に投げ込まれた」と書かれています。そしてこの「火と硫黄との池」というのは地獄です。そして彼らはそこで「永遠に昼も夜も苦しみを受ける」。この箇所は私たちに地獄がどういうところなのかを教えてくれます。
(1)「苦しみのところ」
そこはまず大変な苦しみのところであるということが10節の後半に出て来ました。「昼も夜も苦しみ受ける」と。この「苦しみ」ということばは新約聖書の中に12回出て来ます。ここにはまず肉体的な苦しみが含まれています。ちょうど悪霊たちが主イエス・キリストを見た時に、「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」と叫びました。自分たちがこの主イエス・キリストによって大変な苦しみを味わうことを知っている悪霊たちはそういうふうに言いました。ですからこの永遠のさばきを受けるところ、「火と硫黄」の燃えている池は肉体的な大変な苦しみを味わうところです。
ただ同時に、この「苦しみ」ということばは肉体的な苦しみだけにとどまらず、精神的な苦しみもあるようです。マタイ13:42と50節に「火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」という同じことばが繰り返されています。つまり、地獄にあって、肉体的に大変な苦しみを経験するということです。あのラザロと金持ちの箇所で、金持ちが炎の中で熱くてたまりませんと言いました。ですから私たちはみことばを通して、そこが肉体的に大変な苦しみを味わうところであることがわかります。
しかし同時にマタイ13:42や50が教えてくれるのは、そこで彼らは泣いているのです。というのは彼らは救いのチャンスがありながらその救いを逃してしまったこと、そして同時に救いを逃した彼らは永遠に救いのチャンスを失ってしまったことに気づくからです。ですから地獄というのは楽しいところではありません。みんながそこで顔見知りの連中と出会って楽しくやところ所ではない。肉体的にも大変苦しいし、精神的にも今までだれも味わったことのないような大変な苦しみを味わう場所です。
(2)「永遠のところ」
しかもその苦しみが永遠であることを10節は教えてくれています。10節の後半に「彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」とあります。ここで悪魔が「火と硫黄との池に投げ込まれ」ました。その場所の説明がその後にあります。「そこは」と続いています。「そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」と。この「火と硫黄との池」は、「獣も、にせ預言者もいる所で」あって、その後に「彼らは」と書いてあります。つまりこの箇所が私たちに教えるのは、悪魔が送られた「火と硫黄との池」、つまり地獄にはもう既に先客がいたわけです。それは「獣」と「にせ預言者」です。彼らが地獄に送られたのは患難時代の終わり、千年王国の始まりでした。このふたりは地獄に送られ、サタンは牢に閉じ込められたのです。そして千年王国の終わりにサタンが地獄に送られるのですが、その時にサタンだけが苦しむと書いていない。「彼らは永遠に」と書いてあります。つまり既にこの「獣」と「にせ預言者」は1000年間苦しんで来ているのです。そしてそこにサタンが加わって彼らはその後ずっと終わることなく永遠に苦しみ続けるとこの箇所は教えています。
確かにある人たちは地獄というのが永遠に続かないのではないかと考えています。私たちが聖書を解釈する時にまずどうするかというと、例えばこの黙示録なら黙示録の中で、ヨハネがあることばを使った時に、黙示録のほかのところでそのことばを使っていないかを調べます。そこではどんなふうに使っているのかを観察するのです。そしてそれでここで使われていることばがどういう意味で使われているのか判断するのです。
今皆さんと一緒に黙示録の中でどんなふうに「永遠」ということばが使われているかを見て行きたいと思います。黙示録の中に13節、この「永遠」ということばが出て来ます。まず最初に見ていただきたいのは1:18「生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」と日本語に訳されています。この「永遠」というギリシャ語が使われているのは「いつまでも」と日本語に訳されたところです。これはイエス・キリストの永遠性の話です。「わたしは死んだが、」まだ「いつまでも生きている。」。十字架で死んだ私はその後永遠に生きるという話です。イエス・キリストの永遠性がこの1:18には記されています。
4:9、10にも「永遠」ということばが記されています。9節「また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、」、また10節にも「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きて」いる、この「永遠」です。また10:6にも「永遠に生き」と出て来ます。そして最後は15:7「また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を」と、また「永遠」ということばが繰り返されています。ではこの4:9・10、10:6、15:7では何の話をしているかというと、永遠に生きておられる方、死ぬことのない永遠に生きられる神、その神様の永遠性についてこれらの箇所は教えています。
黙示録11:15にも「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」とまた「永遠」ということばが出て来ました。ここではイエス・キリストのご支配が永遠に続くことを教えています。ですからこうして黙示録の中で「永遠」ということばを見た時に、ここにはイエス・キリストの永遠性が、神の永遠性が、そしてイエス・キリストが支配されるそのご支配の永遠性が記されています。どれを見ても終わりがあるという話ではない。終わりのない、「永遠」の話です。
そして14:11を見ると、ここには地獄についての話があります。「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。」と、また「永遠」ということばが出て来ます。つまりこうして黙示録の中でヨハネが使った「永遠」ということばを見て行くと、テーマが違ってもすべて同じことを繰り返しています。つまり終わりがないということです。
ですから、この20:10で「彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」と言った時に、この人々の受ける苦しみ、神の敵であった者たちの受ける苦しみは終わりのないもので、いつまでも続くものだと言われているのです。
イエス様は確かにマタイ25:46でこの地獄について「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」とあります。どちらも永遠を過ごすけれども、ある人々は永遠のいのちに、祝福に入るし、ある人々は永遠の刑罰、呪いに至ると。中間はありません。ここにおられる皆さんも必ずどちらかに行きます。またマルコ9:48の中には「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」とあります。「火は消え」ないと言っています。まさにそれが地獄であり、永遠にその火は消えることはなく、神の敵たちはそこで苦しみ続けるのだと言うのです。パウロもⅡテサロニケ1:9で「そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」と同じようなことを言っています。こうしてみことばは明確に神に逆らい続ける者たちに対して、彼らが受けるべきふさわしいさばきは永遠のさばきであること、終わることのない苦しみであることを教えます。
さて、もう一度きょうのテキストを見ると、10節「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」とあります。そしてそこでにせ預言者や獣と一緒に永遠を苦しむのだと。無数にいた神の敵がエルサレムとその周りに住む聖徒たちを包囲し、神に戦いを挑んでやって来ました。でも神が火をもって一瞬のうちに彼らを滅ぼされた。なぜサタンだけが地獄へ行って、ほかの者たちは行かないのかとそんな疑問が出て来ます。なぜならサタンだけが地獄に行ったと書いてあるのです。その時にサタンに従って神に逆らった者たちは地獄に行かないのか――。結論から言うと、彼らも行くのです。そしてそのことが11節から後半に書かれています。最後の審判のさばきの時です。
15節を見ると、「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」 と。聖書が私たちに教えてくれているのは、主イエス・キリストが地上に帰って来られ、千年王国を築く時に、人々を惑わして来た獣とにせ預言者は、そのままで地獄に送られました。そして千年王国の始まりに神はサタンを牢に閉じ込めて1000年間全く活動ができないようにしました。でも1000年の終わりにもう一度その牢から解き放たれて、サタンは出て行って人々を惑わしました。そうすると、無数の見せかけだけの信仰者、神を信じていなかった神の敵が集められて、彼らはこぞってエルサレムに集まり、神に戦いを挑もうとするわけです。しかし、一瞬のうちに彼らは滅ぼされて、その後すぐにサタンは地獄に送られたと。その時に滅ぼされた無数の人々はどうなったか。彼らの体は死にました。彼らの魂はハデスに行きました。そしてそのハデスからよみがえる日を待つのです。そのよみがえる日が11節から書かれている最後の審判の時です。
この時にすべての者たちがよみがえって来て、つまり神の敵であるすべての者たち――旧約の時も新約の時も、患難時代も、そして千年王国も、すべて神に逆らって来た者たちが神の前に立ち、それぞれがさばきを受けるのです。獣もにせ預言者もサタンもこのようなさばきを受けません。人間が受けるのです。そしてこのさばきの座にあって、ひとりひとり自分の犯してきた罪を神から明らかに示されます。我々の創造主なる神を信じて来なかった罪、その方を愛し、その方に従って来なかった罪、その方が救いの手を差し伸べてくださっているのにその救いを拒み続けて来た罪、そのすべてのことが明らかにされ、だれひとりとしてこの神の前に反論できず有罪判決を受けて、彼らは永遠の地獄へと送られるのです。これが聖書が私たちに教えてくれていることです。
だから今私たちは愛する者たちに一生懸命救いを語るのです。地獄がなくて死んでしまうのだったら、そんな必要もありません。しかしみことばは私たちにこうして警告を与えています。こういうことが必ず起こると。だから私たちは彼らが聞いてくれなくても、ばかにされても、あざけられても繰り返し、繰り返しイエス・キリストの救いを語り続けて行くのです。皆さん、ひょっとしたらもうあなたは家族の救いを絶望視しているかもしれない。覚えなければいけないのは、もしあなたがだれかを救うのだったら、最初からそれはもう絶望的な話です。私たちは人を救うことはできません。その働きは神の働きであり、神は私たちに救いのメッセージ、福音のメッセージを語るという務めを与えてくださった。だから私たちは語り続けるのです。どこかであきらめているのだったら、その不信仰を神の前に告白して、主よ、どうぞあなたのみこころがなりますように。そのことを信じ、あなたは一生懸命その人たちの前でキリストのすばらしさを輝かせ続けるのです。
救われたことがどんなにすばらしいか、罪赦されたことがどんなにすばらしいか。主が与えてくださったそのすばらしい祝福を彼らの前で見せ続けて行くのです。なぜならあなたは光のなのでしょう?塩なのでしょう?あなたが一生懸命論理的に物事を話して、彼らを説き伏せて救いへ導こうとしても、そんな人間のわざで人は救われません。神のあわれみによって救われるのです。私たちは愛する者たちを神のあわれみのもとに連れて行って、主よ、どうぞ彼らをあわれんでくださいと祈りながら、このすばらしい救いのメッセージを語り続けて行くのです。その働きをあきらめたり、忘れたりしていませんでした?私たちはまだその働きを継続するのです。主がみこころをなしてくださることを信じて、どうぞこの一週間、その使命をしっかり覚え、そしてだれよりもこの後何が起こるのかを知っている者として、その警告を発し続けて行くことです。どうぞその働きをもって主のみわざを期待しましょう。どんなことを主がなしてくださるのか――。私たちの愛するすべての者がこの救いにあずかること、僕らの希望です。それが可能である唯一のお方、神様に期待しながら私たちの務めをなして行きましょう。
《考えましょう》
1.千年王国の後にサタンが解放されますが、彼はだれを惑わすのでしょうか?
2.千年王国といういわば「完全な時代」でありながら、神に逆らう人々が存在することを学びました。彼らが神に逆らうのはどうしてなのか、その理由をお書きください。
3.サタンが地獄へと送られることが記されていましたが、それはどんなところかを聖書から説明してください。
4.あなたは今日のみことばから何を学びましたか。主から教えられたことを信仰の友と分かち合ってください。
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