Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録19:11-13
Listen: メッセージを聴く
Read: メッセージを読む
Watch: メッセージを見る
今朝は、19:11-13を見ます。この箇所を読みましょう。「:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」、恐らく、皆さんは憶えておられると思いますが、主イエス・キリストが十字架に架かり、三日後にからだをもってよみがえって来られ、40日間、この地上にあって肉体をもってよみがえったことを明らかにされました。そして、天に凱旋をされますが、その時に、その光景を見ていたイエスの弟子たちに二人の天使たちが次のようなことを語りました。使徒の働き1:11「そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」、今見た黙示録19:11は、まさに、このことが成就したことを明らかにしているのです。天使たちが告げたのは、あなたがたが見たイエス・キリストの天への凱旋、その天に凱旋されたイエスは必ずこの地上に戻って来るということです。今まさにそのことがヨハネの目に明らかにされている、その様子が19:11に記されているのです。
「また、私は開かれた天を見た。」と、ヨハネ自身が天が開かれてそこから白い馬が出て来る様子を記すのです。キリストの地上再臨のことです。キリストがこの地上に帰って来るということです。この11-13節には、再臨される主イエスに関する描写が八つ記されています。帰って来られるイエスがどのようなお方なのか?ここに八つ記されています。
A.再臨の主とは 11-13節
1.白い馬に乗った方 11節
「白い馬」というと、6章に出て来た「白い馬」を思い出されるでしょう。そこでは七つの封印の一つ目が開かれます。そのとき、ヨハネは「白い馬」を見るのです。6:2「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」と。同じ人物のことでしょうか?6章の白い馬に乗った人物と今見ている19章の白い馬に乗った人物とは全く違う人物です。19章の「白い馬に乗って来る方」とは主イエス・キリストのことです。なぜ、白い馬に乗って来るのか?ちょうど、戦いに勝利を得たローマの将軍たちは、白い馬に乗ってローマの町を凱旋したからです。ですから、この箇所が教えることは、主イエス・キリストが勝利者としてこの地に帰って来るということです。
また、「白い馬に乗って来る方」とは、乗っている方がどういうお方なのかを表しています。というのは、「白」とは「汚れや非難されるところのない全くの聖さ」を象徴しているからです。そこで、この「白い馬に乗っておられる方」も罪の何一つない聖く正しいお方だということを表しています。ですから、イエス・キリストはどういうお方なのか?罪の全くない聖く正しいお方である、その方を象徴するにふさわしい「白」です。
2.忠実、また、真実と呼ばれる方 11節
「それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、」とあります。この称号はすでに何度も黙示録の中で見て来ました。3:14には「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。』」と、1:5にも「また、忠実な証人、…」、3:7には「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、…』」と、このような称号をもってイエスのことを表しています。
ここでは、イエス・キリストとは「忠実、また、真実なお方」で、このように呼んでいると記されているのです。まさに、これがイエス・キリストを表しているからです。
「忠実」 : すべての約束を必ず守られる、ご自分が言われたことを必ず実現されるお方です。
「真実」 : この方は常に真実を語っておられたお方であるということです。
イエス・キリストは嘘を言われることはないのです。イエスが言われたことは常に真実であり、必ずそうなります。「わたしは真理である」と言われました。この方の口から偽りがもれることは決してなかったのです。まさに、「忠実、真実」と呼ぶにふさわしいお方です。私たちがなぜ聖書を勉強するのか?それは、私たちがこの聖書を通して「神とはどういうお方であるのか」を知るからです。神が私たちにどんなことを望んでおられるのか?どういうことを求めておられるのか?どのようなことを命じて
おられるのか?神のみこころを知るためにです。
そして、みことばが私たちに教えることは「必ずその通りになる」というのが私たちの信仰です。なぜ、私たちはこのように黙示録を学んでいるのか?これからどうなっていくのかを神ご自身に聞いてみようとするからです。そのことをご存じなのは神だけです。その方に聞くことです。そして、感謝なことに、神がいったい何が起こるのか?を記してくださり、それを私たちが学ぶことができるようにと聖書を与えてくださったのです。
ですから、私たちがしっかりと立たなければいけない信仰は「神は必ず言われたことを実現される」ということです。後で弁解しなければならないようなことは絶対にありません。もし、そうならそれは神ではありません。この方は必ず言われたことを実現される、そのように忠実な方であり、そして、真実だけを語り続けて来られ、これからも語られる神であるお方です。
そうすると、この11節で明らかにされた「白い馬に乗って来るイエス」と、あの6:2で見た「白い馬に乗って来た人物」とは全く異なるということがお分かりいただけたと思います。なぜなら、6:2では「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」とあって、この人物は世界に平和を約束して、世界を自分の手中に収めようとした人物です。反キリストのことです。この人物が登場して世界を支配します。間違いなく、今のこの世界は大変不安で危険です。そのようにどんどん進行していっていることはだれしも分かっていることです。どこに行けば安全なのか?どこに平和があるのか?と思います。聖書は私たちにこれからどうなっていくのかを教えてくれました。不安な世界にあってこの人物は平和を約束するのです。そして、人々は彼を信頼して彼のリーダーシップを信じて彼に付き従っていきます。
ところが、この約束が偽りであったことに気づきます。患難時代の半ば頃になると、彼は自分の本性を現していきます。彼はこの世界を治め、人々が神の祝福に与らないようにと人々を惑わし続けるのです。黙示録19:11が教える人物、イエス・キリストは、そういう悪を滅ぼし、勝利をもたらすためにこの地上に戻って来られるのです。旧約聖書からずっと預言されていたことを成就するために、この方は帰って来られるのです。ですから、まさに、この方は「忠実、また、真実」と呼ぶにふさわしいお方です。そのように、ヨハネはここでこの方のことを呼ぶのです。
3.義をもってさばきをし、戦いをされるお方 11節
イエスのさばきは義をもってさばくさばきであると教えています。なぜ、このような表現がされているのか?このさばきを為さる方ご自身が義なるお方だからです。義なる方だからこの方が為さるさばきも正しいさばきであるということです。主イエスが為さることに正しくないことはありません。すべてにおいて聖い方が為さるさばき、すべてにおいて正しい方が為さるさばき、それは公正なさばきであると言います。19:2をご覧ください。「神のさばきは真実で、正しいからである。…」と書かれていました。このようなさばきを為すことができるのは、真実で正しいお方である神だけです。
こうして、聖書は、神のさばきはご自分の好みではなく、ご自分の性質に基づいたものであると教えます。神ご自身が聖い正しい方ですから、その基準に基づいてさばきを為さるのです。どういう意味か説明します。皆さんは山上の説教でイエスがこういうことを言われたことを思い出されるでしょう。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)と。イエスが言われたことは、父なる神が完全であるように、その神によって造られたあなたがたもすべてにおいて完全でありなさいということです。だから、私たちが気づくべきことは、完全な神がその完全さを私たちにも要求しておられるということです。それが神の私たちを創造されたご自分の意図であり、ご自分のみこころだということです。
また、このようにも言われています。Ⅰペテロ1:15-16「:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」、神はあなたに完全さを要求します。なぜなら、神が完全だから、神はあなたに完璧な聖さを要求されます。なぜなら、この方は完璧に聖い方だからです。そのことを私たちが分からないなら、いつまで経っても罪が分からないのです。私たちはだれかと自分を比較して「あの人より優っている、劣っている」と、そのような物差しをもって自分を測ろうとはしません。基準はあくまで神です。神が私たちに何を要求しておられるのか?神は完全な方であるゆえに、あなたに対してもすべてにおいて完全でありなさいと言われました。聖い神だから、あなたに対しても完全な聖さを持ちなさいと言われた。それが神が私たち被造物に対して求めておられることです。
しかし、私たちはそのみこころに逆らうことを選択し、逆らい続けることを選択しています。私たちは主に従わないどころか、却って、自分の欲望に服従しながら生きることを選択し、そのように生き続けています。だから、神は私たちにさばきを警告しておられるのです。神が私たちに命じておられることに私たちが逆らうなら、当然、そこにはそれにふさわしい報いがやって来ます。ソロモンがこのように言っています。伝道者の書11:9「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」と。人間が選択することは神に従うことではなく自分の好きなように生きることです。神の警告は、あなたが選択したことに関して、あなたが選んだ道に対して、あなた自身が神の前に立つことを、そして、そこでさばきを受けることを忘れてはならないというものです。私たちは死んで終わるのではありません。死んだ後、創造主なる神の前に立ちます。そして、そこで私たちのすべてが明らかにされさばきを受けるのです。そのことはまた後で出て来ます。
ですから、この11節のみことばが私たちに教えることは、この方はご自分の正しさをもってこの世界をさばかれる方、そのさばきにふさわしい義なるお方であるということです。主イエスは聖い正しい方であり、白い勝利の馬に乗って帰って来られ、この方が言われたことはすべてその通りに実現されるそのような忠実で真実なお方であり、義なるお方であり、その義をもって世界をさばくお方であると。こうして見ると、イエス・キリストが最初に人として来られた姿とかなり異なります。イエスが人としてこの世にお見えになることをイザヤが預言していました。思い出してください。イザヤ書53:2-3「:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」と。確かに、主イエス・キリストがこの世に来られた時、人々は彼を歓迎しませんでした。しかし、イエス・キリストが再臨されるとき、彼はご自分がどのようなお方であるかを人々の前に明らかにされるのです。すべてにおいて聖い方であり、忠実で真実な方であり、そして、義をもってさばきを為さる正しいお方であると。
11節には「義をもってさばきをし、…」、その後に「戦いをされる。」と書かれています。すなわち、悪に対してそれにふさわしい報いを与え、あらゆる敵との戦いに勝利を収めるということです。ですから、ここで明らかに示していることは「主イエスは勝利の主であり、勝利の王である」ということです。ですから、イザヤ書に見たように「見とれるような姿もなく、」と、私たちと同じような姿で来られた。でも、主イエスが地上に再臨されるときには、勝利の主として勝利の王としてこの地上に帰って来られると。その日が楽しみです。
4.その目は燃える炎 12節
12節に「その目は燃える炎であり、」と続きます。もちろん、この「燃える炎」ということばはすでに見ました。1:14「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。」、 2:18「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。』」。罪に対して正しいさばきを行うということ、そのことが記されているのですが、もう一つ言えることは、主の目はすべてのことをご覧になっているということです。全知だということです。だれもこの主の目から隠れることができないということです。へブル書の著者はこう言います。へブル4:13「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」、神はすべてのことをご存じです。あなたのすべてのことを知っておられるのです。あなたが何を行ったかということだけでなく、その過程においてどんな思いをもったのか、そのこともご存じだと言います。
私たちは何かを思ってそれを行動に移します。たとえば、悪い思いがあるなら、それをすぐに解決しなければそれはいろいろな行動となって現れて来ます。神は、あなたが何をしたかではなく、どんな思いを抱いたのか、それにおいてもすべて見ておられるということです。だから、「神の目には、すべてが裸であり、」とへブル書の著者は言います。そのような神だから、人間を見たときにこのようなことを断言できたのです。私たちの心のすべてを、私たちの考えのすべてを、その隠れた深い部分までご覧になっておられる神だから、次のようなことを人間に対して言うことができたのです。詩篇14:1-3「:1 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。:2 【主】は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。:3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」、なぜ、神はこのようなことを言うことができたのでしょう?私たちの心をご覧になっているからです。
私たちのだれが生まれながらに神を求めましたか?私たちの求めた神と名の付くものは、自分たちに都合の良い存在でした。自分の必要に応えてくれる存在、自分の欲しいものをくれると約束してくれる存在です。でも、私たちは心の中でそれ以上の存在がいることを知っていました。私たちは考えないようにしようとしましたが、すべてを造られた創造主がいることに気付いていました。でも、その方を求めようとしなかった。なぜなら、創造主を認めると、私たちはその方に対する責任が生じるからです。
神に対する責任があることに気付くからです。だから、私たちはその存在を考えないようにして、自分に都合の良い神と名の付くものを信じ、それで自分を納得させて来たのです。
「神の目は燃える炎である」、皆さん、今見て来たように、神は私たちがどんなに罪に汚れたものであるかを正しく知っておられます。今、聖書のみことばが私たちに教えてくれたように、神はあなたの心をご覧になっている、神はあなたのすべての考えをご覧になっている、神はあなたが想像するすべてのことをご覧になっている。だれ一人として、神からの祝福をいただく資格のある人間はいません。却って、すべての人間が神ののろいを受けるものです。神の怒りを受けるものです。
しかし、それなのに神はあなたを愛してくださった。あなたのために一番必要な救いを備えてくださった。あなたではなく、イエス・キリストをさばいて、そして、あなたに完全な罪の赦しを与えようとしてくださったのです。その恵みゆえに、しかも、救いが備えられただけでなく、神があなたをその救いへと召してくださったのです。あなたがこの救いを喜んでいるのは、あなたが優れているからではなく、神が優れているからです。神が偉大だからです。神ご自身があなたをその救いへと導いてくださったのです。だから、私たちはこの救いを感謝しながら生きる必要があるのです。こんなにすばらしい恵みをいただいたからです。もう、あなたには永遠のさばきは全く無縁のものとなったのです。あなたにとって地獄は無縁のものになったのです。あなたは今日死んでも神の許に行きます。あなたは神によって備えられたすばらしい祝福の中を今も永遠に歩み続けるのです。神が与えてくださった恵みのすべてを私たちが受ける資格はありません。でも、神は一方的なあわれみをもってこのようなすばらしい祝福をあなたに与えてくださったのです。
少なくとも、救いに与った私たちは声を大にしてそのことを感謝することが必要だと思いませんか?「神さま、ありがとうございます。こんな私にこんなすばらしい祝福をくださった。」と。私の一部しか知らないなら、その人をだますことができるでしょう。あなたの一部しか見ていない人がいるなら、違う自分を示すことができるでしょう。みことばは、神はあなたのすべてを知っておられ、それでいてあなたを愛しあわれんでくださり、このすばらしい救いへとあなたを導いてくださると教えます。
どのようにこの神に応答していくのか?それはあなたが考えなければいけません。でも、多くの信仰の先輩たちは、私のすべてをこの方にささげ、この方のために生きて行こうと、そのような選択をし、この地上での歩みを終えました。問題は私たちです。
5.その頭には多くの冠 12節
五つ目に見るのは、12節「…その頭には多くの王冠があって、」と続いています。「王冠」と訳されていますが、訳者は敢えて「王冠」ということばを使いました。「冠」ということばから皆さんはあるギリシャ語を思い浮かべることと思います。それは「ステファノン」ということばです。新約聖書に25回出て来ますが、そのうちの7回は人物の名に使われています。「ステパノ」という名です。あと18回は「冠」と訳されています。12節で「王冠」とあるのはこの「ステファノン」ではありません。だから「冠」と訳さなかったのです。ここで使われている「ディアデーマ」というギリシャ語は「王権の象徴、王冠」という意味です。新約聖書に3回しか出て来ません。すべて黙示録です。12:3「…その頭には七つの冠をかぶっていた。」、13:1「…角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった」、そして、この19:12です。王冠のこと、王権の象徴としての冠のことです。ですから、イエスは「頭には多くの王冠」をかぶっておられたのです。
「多くの」という形容詞が使われています。あらゆる主権者としての冠をかぶっておられた、その資格があるお方です。なぜなら、このお方は「王の中の王であり、真の王であられる方」とみことばが教えるからです。バークレー師は「国王が多くの国を治めている場合には、いくつもの冠をかぶっていた。」と言います。ですから、このことが表していることは、イエスはすべての主権者である、すべてを治めているということです。このように、自分がある国を征服したなら、その国の王がかぶっていた王冠を自分の頭に載せるという習慣は、実は、旧約聖書の中に書かれています。ダビデ王がアモリ人を征服したときのこと、Ⅱサムエル12:30にこのように記されています。「彼は彼らの王の冠をその頭から取った。その重さは金一タラントで、宝石がはめ込まれていた。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持ってきた。」と。戦争をして勝利したなら、その負けた王がかぶっていた冠を自分がかぶることによって、そこを支配していることを明らかにしたのです。ですから、12節で言っていることは、主イエス・キリストはすべてを支配しておられる主権者だということです。
イエス・キリストの初臨 : 確かに、イエス・キリストがこの地上に人としてお生まれになったときに人々は彼を受け入れませんでした。ヨハネの福音書1:11にはこのように書かれています。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と。つまり、イエスは後に王になるということではありません。イエスは永遠に王です。王としてこの世にお生まれになったけれど、人々は王として認めなかったのです。もちろん、イエス・キリストはご自分のいのちを捨てて私たち罪人を救うために来てくださった。しかし、イエスが後に地上に帰って来られるときには、イエス・キリストの再臨 : 人々はこの方がだれであったのか、そのことに気付くのです。パウロがピリピ人への手紙の中でこのように言っています。ピリピ2:10-11「:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」と。その日が来るのです。救われている者は喜びをもって、そうでない者たちはさばきに会います。でも、すべての者たちがこのイエス・キリストがだれなのかということに気付くのです。この方は「王の中の王であり、主の中の主」です。真の神だということに人々は気付きます。
6.ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた 12節
つまり、私たちがまだ知らない名がイエスにはあるということです。どういうことを言っているのか?恐らく、私たちにとって、主を完全に理解することが不可能であるということです。バークレー師がH・Bスウィートという神学者の説明を引用してこのように記しています。「被造物はイエス・キリストを完全に知ることはできない。キリストの本質に関しては、人間の理解することのできない神秘がつきまとう。我々はキリストの特性を知ることができるし、彼が与える恵みを受け、それを賛美することができる。しかし、彼の究極的な本質は、我々には永遠に神秘である。教会が提示する教義の助けをもってしても、人間の心はキリストの人格の深遠な意味を理解することはできない。それは、人間の知識の限界を越えるものである。神の子の神秘を知るのは、ただ神の子だけである。」
確かに、聖書によって、私たちは神のことを少し知ることができます。イエスがどういうお方であるかを少し知ることができます。でも、そのすべてを知ることはないと言うのです。なぜなら、私たち自身に限界があるからです。私たちがどんなに考えても分からないことがあるのです。それほど神は大きく深遠なお方である、私たちの理解をはるかに越えたお方であるということです。この方には「ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」のです。
7.血に染まった衣を着ていた 13節
13節に「その方は血に染まった衣を着ていて、」とあります。「血に染まった衣」、神学者の間でもその解釈が分かれるところですが、ある人々は、これはやはりイエスであるゆえに十字架で流された贖いの血潮ではないかと言います。でも、この文脈を見ると、贖いのことと言うよりも、これは「さばき」に関することです。ですから、13節に「その方は血に染まった衣を着ていて、」とあるのは、主が敵を滅ぼしたときに、彼らの血によって染まってしまった衣のこと、さばきのことです。恐らく、そのことをここで教えているのでしょう。神のさばきを考えるときに、皆さん、歴史は繰り返しています。神は人々に警告を与え続けました。でも、多くの人たちはそれを無視して来ました。そして、さばきに会ったのです。神はさばくと言われ、警告を与え、悔い改めの機会を与えてくださっているにも関わらず、人間はそれを拒んで、そして、約束されたようにさばきに会いました。ソロモンが言う通りです。箴言1:25「あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。」と。結局、人間の問題はそこなのです。神の忠告に耳を傾けるのではなく、自分の好きなように生きる、その結果、それにふさわしい神からの報い、さばきを受けると言います。
8.その名は「神のことば」と呼ばれた 13節
イエスのことがこのように呼ばれるということがここに書かれています。「イエスは神のことばである」と。ヨハネの福音書1:1-3でイエスが神のことばであると教えられています。「:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。:2 この方は、初めに神とともにおられた。:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と。そして、このことばが人となって私たちの間に住まわれたと、同じ1:14に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と書かれている通りです。
ですから、このヨハネ1章ではこのように主イエス・キリストが神のことばであり、そして、その神のことばであるお方が人間となって私たちの間に住んでくださった、つまり、「インマヌエル」ということです。神が私たちとともにおられるという意味です。ヨハネはイエスのことを「神のことばである」と呼んでいます。なぜ、イエスが神のことばなのか?二つのことが言えます。
1)主イエス・キリストは常に神のメッセージを語られたから :
イエスは自分が思いついたことを勝手に語ったのではありません。父なる神のメッセージを彼は人として語っておられたのです。彼が語ったことは神が私たちに伝えたいこと、まさに神のことばだったのです。
2) 神ご自身がどのような方かを明らかにされた :
イエスが語ってくださらなければ私たちは分からなかった。同じヨハネ1:18に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあるように、イエスが私たちに神とはどのようなお方であるのかを教えてくださったのです。イエスの完璧な歩みは私たちに神とは完璧な方だと教えてくださった。イエスのその深いあわれみの愛は、神とは深いあわれみをもった愛なるお方であると教えてくださった。罪を徹底的に憎んでそれを責められたイエスは、私たちに神とは罪を憎んでおられる方であることを教えてくださった。まさに、イエスは神のことばを語っただけでなく、神とはどういうお方であるのかを明らかにしてくださったのです。それで、この箇所では「イエスは神のことばである」と、そのようにイエスのことを表しているのです。
今日私たちは、地上に帰って来られるイエスがどのようなお方なのかということを黙示録の中から見て来ました。白い馬に乗った聖い勝利者なるお方である。この方は忠実な、また真実なお方である。必ず言われたことを守られるお方である。同時に、この方は正しい方であってそのさばきは常に正しいのです。この方はすべてのことを知っておられる、その目は燃える炎であると。すべてを知って私たちをあわれんでくださった。この方は多くの冠を頭に載せていた、すべてを支配しておられる主権者だということです。そして、この方にはだれも知らない名があると。私たちの理解をはるかに越えた存在であること。そして、罪をさばき、罪に対して正しい審判を下される方であり、そして、この方は「神のことば」である、私たちに神を明らかにしてくださった、そのような存在であると。この方が地上に帰って来られるのです。
そして、もう一つ、救いに与っているあなたもこの主とともに帰って来るのです。この地上に凱旋するのです。なぜなら、私たちはもう聖い衣をいただいているからです。罪が赦されて、私たちは栄光のからだをいただいてこの地上に帰って来ます。すごい祝福だと思いませんか?これが神が信仰者であるあなたに与えてくださっている約束です。こんな日が近い将来に来るのです。少なくとも、そのことをしっかりと覚えて、この希望をもって私たちは生きることができます。
また、同時に、この日のことを覚えるなら、ただ希望だけでなく、この日をどのように生きるのか?自分を吟味して歩みます。なぜなら、主の前に立つ日が来るからです。今日を正しく生きたい、今日をすばらしい神のためだけに生きたいと、そうしてその日の備えを為すことです。
クリスチャンでない皆さん、神の救いを拒み続けている皆さん、神の警告のことばに耳を傾けなければいけません。必ず、罪のさばきが為される日が来ます。でも、感謝なことに、神はまだあなたに救いの機会を備えてくださっています。罪の悔い改めをもってこの救い主の許に出て来ることです。ぜひ、この救いを神からいただいてください。そのことを心からお勧めします。
《考えましょう》
1. ヨハネが見た光景を説明してください。
2. 主イエスに関する詳細が八つ記されていました。それらを説明してください。
3. どうして主イエスについて正しく知ることが信仰者には重要なのかを説明してください。
4. 主はあなたに何を教えてくださいましたか?教えられたことを信仰の友と分かち合ってください。
Podcast: Play in new window | Download