Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録19:1-10
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どうぞヨハネの黙示録19章をお開きください。
私たちは17-18章を通してバビロンに対するさばきの詳細を見てきました。神様は約束されたように悪の影響を及ぼしていたバビロンを滅ぼされた。ですからこの19章は「この後」ということばで始まっています。さばきが起こったその後の話です。その後に一体何が起こるのかがこの19章でヨハネが私たちに明らかにしてくれることです。
① 賛美の主 1節a
ヨハネは1節で「この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。」と言っています。一体だれがこの大きい声を発していたのかというと、「大群衆」と書かれています。恐らくここで言われている天の「大群衆」というのは天使たちだというふうに取ります。なぜかというと、5節に神のしもべたちがこの賛美に加わるようにと記されています。ということで、恐らくここに出て来た天の「大群衆」というのは天使たちのことを指しているのであろうと思います。
② 賛美の内容 1b-3節
続いて「こう言うのを聞いた。」とあります。おもしろいのは、この「こう言う」という動詞は現在形を使っています。ですからこの賛美が継続してなされていて、ヨハネはこの天の「大群衆の大きい声」を聞き続けています。彼らがこう言っている、こう賛美している。ヨハネはそれを聞いていたことを記してくれているわけです。
どんな賛美だったのかというと、1節の後半「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。」であると。「ハレルヤ」と主をたたえている様子が書かれています。「ハレルヤ」というのは我々クリスチャンはよく聞いていますし、よく知っていることばです。しかしこの「ハレルヤ」ということばが出て来る新約聖書の箇所は、この黙示録19章1、3、4、6節に4回だけなのです。「ハレルヤ」ということばは「主を賛美せよ」、「主をほめたたえよ」という意味で使っています。この「ハレルヤ」というのはヘブル語の「ハレル」と「ヤー」ということばが合成してできています。最初の「ハレル」というのは「賛美する」という意味です。そして「ヤー」というのは神の名前の「ヤーウェー」から来ています。「ヤーウェー」というのは、皆さんご存じのとおり旧約聖書の中に6826回ほど記されていることばで、神の名前であって、その意味は「契約の神」です。新約聖書の中では太字で「主」と書かれています。「賛美する」という「ハレル」というヘブル語のことばと「ヤーウェー」の「ヤー」が結合してできたのがこの「ハレルヤ」で、「主を賛美せよ」という意味を持ったことばです。
☆ 称賛に値する神とその5つの理由
きょう我々が見て行く1-10節まではかなりあるのですが、実はこの中には神様への賛美が満ちあふれています。それだけではなくて、なぜ神はこの賛美にふさわしいお方なのか、その理由が記されています。神をたたえるだけではなく、この神がたたえるにふさわしいお方である理由をこの箇所は私たちに示しています。
今朝私たちは、称賛に値する神とその五つの理由をご一緒に見て行きます。このみことばを通して確かに私たちの神は称賛に値するお方だ、確かに私たちがほめたたえるに値するお方であるという確信を持って、ますます主をほめたたえ続けていただきたいと願います。
A.「救い主なるお方」ゆえに 2節
救い主なるお方ゆえにこの方は称賛に値する。この「ハレルヤ」の後をごらんいただきますと、三つの名詞が出て来ます。「救い」という名詞、「栄光」という名詞、そして最後は「力」です。この「救い」というのは罪からの救いではありません。戦いに対する勝利の話です。というのは17-18章で神に逆らって来たバビロンが滅ぼされた、神が完全な勝利を与えられた、そういう意味でこの「救い」ということばが使われています。
二つ目の「栄光」というのは、このさばきを通して神がどのようなお方であるかが明らかにされました。神が道徳的に全くきよい方であるということ。ですからどのような罪であっても完全に正しくおさばきになるということ。神様はきよい方であって、この罪に染まったバビロンと共存することはおできにならない。そのことがこの「栄光」ということばが表していることです。
最後に「力」というのは、バビロンに対して示された神様のさばきの力を表しています。
なぜこの三つの名詞がバビロンに対するさばきを表しているかというと、実はそれぞれの名詞の前に、冠詞がつけられています。ですから明らかにそれはある出来事を指しているわけです。バビロンに対するさばき、バビロンに対する完全な勝利、そのさばきを通して示された神様の完全なきよさ、そして示された完全な力、そのことを受けてこの1節の後半、だから私たちはこの神をほめたたえるのだと。それが一つ目の理由です。
B.「さばき主なるお方」ゆえに 2節
二つ目の理由は、1節の後半から続けて出て来るのですが、真実なさばき主なるお方ゆえに私たちはこの方をほめたたえると言うのです。1節の後半から2節に「われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」と。
1)神のさばきは真実で、正しいからである。
皆さんに少し注目していただきたいのは、2節の「神のさばきは真実で」の前に実は「なぜなら」という意味を持った接続詞がついているのです。残念ながら日本語ではそれは訳されていません。その同じ接続詞が「神は不品行によって」の前にも記されている。ということはこの2節には二つの理由が記されているということです。「神のさばきは真実で、正しいから」だ、バビロンの悪に対する神のさばきの話です。「神のさばき」というのは常に正しい、なぜかというとさばかれる方が正しいからです。この方のうちには全く悪が存在していない。この方に失敗というものは存在しない。正しいお方だからそのさばきも正しいのだと。
2)神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。
また同時に二つ目の「神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたから」だと。この罪のバビロンに対して神様からの正しい報いが下ったということ。正しい方がさばいただけではないのです。その下されたさばきというものが正しいものであると。Ⅱテサロニケ1:6-8に「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。」と記されています。神は必ず悪に対してさばきを下すと言うのです。どんなに今そのように思えなくても、このような悪がはびこっている世の中を神がちゃんとごらんになっておられるのか、そういう疑いを抱くことがあっても、みことばが私たちに教えることは神はちゃんとごらんになっておられ、ちゃんと神の最善の時にそのさばきを下されるという話です。さばきを行なう方が正しい方だけではない、その方は正しいさばきを下されると。この方が約束なさったら、その約束を必ず守られるのです。それゆえにこの方をほめたたえようと。そのことが二つ目に出て来ています。この方は真実なさばき主で、約束されたことを必ず守られるお方であると。正しいさばき主であり、ゆえに下されるさばきは常に正しいのであると。
C.「聖なるお方」ゆえに 3節
三つ目は3節に出て来ます。「彼らは再び言った。『ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。』」と。なぜ主をほめたたえるのか、なぜ主を賛美するのか、三つ目の理由はこの方が聖なるお方であるゆえです。二度目の「ハレルヤ」がここに出て来ます。なぜここに出て来ているかというと、1節から続いている賛美がなおも継続しているからです。そしてこの天使たちの賛美を見る時にバビロンへのさばきについて二つのことを教えてくれます。
1.必然的なさばき ユダ15
一つ目はあのさばきというのは必然的なものだということです。先ほども見たように神様はきよい方であって、必ず罪をおさばきになります。このきよい方が罪を見て見ぬ振りをするとか、まあ一回ぐらいいいかということをなさることは決してないということです。ユダ15に「すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」とあります。聖書が私たちに教えることは、罪は神の前に明らかであり、必ずその罪に対して神からの報いがあるということです。私たちはだれも見ていないからとか、つかまっていないからとか、そういった言い訳をもって罪を犯すことをよしとするかもしれない。残念ながらだれにも見られていないわけではなくて、ちゃんと見られているのです。そのすべてをごらんになっておられるのが神なのです。神の前にはすべてが裸であり、さらけ出されていると。神の前に隠すことのできるものは何一つ存在していない。私たちの行動だけではなくて、私たちの考えにおいても、想像においてもすべてのことが神の前に明らかになる。この方の前で私たちは申し開きをしなければならないのです。ですから、バビロンに対するさばきは必然的なものです。神は罪をさばかれたのです。
2.永遠のさばき
しかもこの神のさばきは永遠に続くものだということです。もう一度3節を見ると、「彼女の煙は永遠に立ち上る」とあります。この「立ち上る」という動詞は現在形で記しています。継続して煙が立ち上っている様子を表しているのです。しかもその「煙は永遠に立ち上る」と書いてあります。マッカーサー先生はこの説明として「このさばきが最終的、永遠の、変更できないものである」と言われました。この3節が教える神のさばきというものは最終的なもので、しかもそのさばきは永遠に続き、終わることがないと。そしてそのさばきにあった時にそれを変更することもできないものだと。
ルカ3:17(並行箇所:マタイ3:12、マルコ9:43、48)に、確かにさばきというものが永遠に続くことが教えられています。一時的ではないのです。このさばきに服してしまったら終わりなきさばきがその人の上に下るということです。そのさばきから逃れることはできません。そこで幾ら悔い改めをしたとしてもそれは救いへと導くことはありません。生きている今しか罪の赦しを得ることはできない。この罪の赦しを神様は私たちに提供してくれた。しかし、悲しいことに余りにも多くの人たちがみずからの意思でそのさばきを受け入れているということです。今言ったことをよく聞いていてください。みずからの意思でそのさばきを受け入れているのです。なぜなら彼らは神の備えた救いに出て来ようとしない、自分たちの意思でその神の救いを拒み続ける選択をしているのです。みことばが明らかにすることは、神が下される最終的なさばきは永遠に続き、決して逃れることのできないものであるということです。
D.「王なる方」ゆえに 4-6節
1.24人の長老と4つの生き物の礼拝 4節
主をほめたたえる四つ目の理由が4-6節に出て来ます。それはこの方は王なるお方であるゆえです。この方は王様であるということが教えられています。4節「すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、『アーメン。ハレルヤ』と言った。」、この「二十四人の長老と四つの生き物」については我々既に学んで来ました。「二十四人の長老」というのは4:4に出て来ましたけれども、教会の代表であると。また「四つの生き物」は天使であると。しかも神様のきよさを守るケルビムか、もしくは神に仕える最高位の天使であるセラフィムであると。いずれにしろ最高位の天使が「二十四人の長老」とともに、「アーメン。ハレルヤ」と言ったと。「アーメン」というのは「そのとおりだ」と、心からの同意を表します。彼らは天使たちの賛美を聞くのです。そしてそのとおりだ、神は称賛に値すると。神はすべてのものによってほめたたえられるに値するお方、「アーメン」と言っているのです。そして同時に彼ら自身もこの神を崇拝するのです。神を拝んで「ハレルヤ」と主を賛美するのです。
2.大群衆の最後の賛美 5-6節
5-6節を見ると次のように書かれています。「また、御座から声が出て言った。『すべての、神のしもべたち。」、また神の「御座から声が出て」いる様子をヨハネは記しています。恐らくこの「声」というのは、1節で見て来たように天使の声でしょう。「声が出て言った」という動詞も現在形を使っています。天使がそのように言い続けていたのでしょう。
1)何を言い続けたのか?
一体何を言い続けていたのかというと、「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。』」と。つまり彼らは「われらの神を賛美せよ」と言い続けていたのです。しかもこの「賛美せよ」という動詞は、命令形であり現在形でもあります。われらの神を賛美しなさいと、その命令を継続して出し続けている。
2)だれに言い続けたのか?
一体だれに対して言い続けているのかというと、「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。」と書かれています。
(1)「すべての神のしもべたち」
つまりすべての救われた者たちに対するメッセージです。「すべての、神のしもべたち。」と書かれています。この「しもべ」ということばは、「奴隷」ということばを使っています。よい奴隷たちというのは、本来ならば主人を喜ばせるために仕える者たちです。ですから主人である神を喜ばせるために生きている者たち、それが救いに与っている者たちです。
(2)「神を恐れかしこむ者たち」
また、「神を恐れかしこむ者たち」と続きます。主なる神を心から敬い、主の目をいつも意識して注意深く歩んでいる者たち。「小さい者も大きい者も」というのは、すべての人々を指す包括的な表現です。ですから救いに与っているすべての者たちに対して、天使たちがこの賛美に加わるようにという命令を
与えているのです。「われらの神を賛美せよ」、心から神を賛美するようにと。天使たちが賛美しているだけではない。そこにすべての救われた者たちが加わって一緒にこのすばらしい神をほめたたえよう、その命令がここに記されています。
3)賛美の理由 6節
6節見ていただくと、「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。」とあります。この賛美を聞いていたヨハネは、まさにその賛美の声が「大群衆の声」のように、「大水の音」のように、「激しい雷鳴」のように聞こえたと説明しています。これらの描写が明らかにしているのは、その賛美の力強さです。大変大きな声で賛美が届いていた。そして、その賛美の内容を見ると、「『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」、先ほども見たこの「ハレルヤ」ということばの後に、「なぜなら」という接続詞がつけられています。主をほめたたえる理由がこの後に書かれています。その理由は、「万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」からと。すべてのものを支配しておられる方、永遠に神であられる方、そして王であられる方が、遂にこの地上にあって、王として王国を築かれるのです。その時が来たことを喜ぶのです。
この「王となられた」という動詞は、不定過去という時制を使っています。いつの話かははっきりしていないけれども、もう既に起こった事実を述べているのです。しかも不定過去の中でも起動の不定過去、つまりあることが開始されるということ、あることが始まるということを意味しているのです。だから今言ったようにイエス様がこの時に王になるのではないのです。彼は永遠から永遠に王なのです。その方がこの地上において王としてすべてを治める、その時が始まるということを言っているのです。バビロンへのさばきがあって、そしていよいよ私たちが待ち焦がれていた救世主が地上に帰って来られ、王国を築かれる、その時がまさに訪れようとしている様子がここに記されています。待望の王がやって来られ、待望の王国が築かれるのです。
E.「花婿なるお方」ゆえに 7-10節
そして最後、五つ目の理由が7節から書かれています。「私たちは喜び楽しみ」と続きます。この「私たち」というのは、これまで1節から見て来ました。1節には天使たちのことが書いてある。4節には二十四の長老、教会の代表と四つの生き物、特別な天使たちが書かれている。そして5節にはすべての救われた者たちが書いてある。すなわち天にいるすべての者がこの「私たち」なのです。すべての天にいる者たちが「喜び楽しみ、神をほめたたえよう。」と呼びかけています。この「私たちは喜び楽しみ」というのは、喜び踊るように、そういったことを呼びかけることばです。
この「喜び楽しみ」というのは「喜び」という動詞と「楽しみ」という二つの動詞が一緒に使われています。このような使われ方をしているのは、新約聖書の中ではここを入れてもう一カ所しかありません。その箇所はイエス様が山上の説教をお話になった時です。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」、あなた方が信仰者として正しく歩んで行く時に、人々があなたを迫害するだろう、あなたたちの悪口を言うだろうと。でもあなたたちは幸いだと。そして「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」と言うのです。マタイ5:11-12です。迫害の中にいた患難時代の末期の、まさにイエス様が地上に帰って来られる前のクリスチャンたちをどれだけこのメッセージが励ましたかです。信仰ゆえに確かにいろいろな苦しみを経験し、いろいろな辱めを経験すると。イエス様を信じて本当によかったのだろうかと、摩擦がいっぱい生じて来ます。しかし、その中にあって「喜びおどりなさい」、天においてあなたたちの報いは大きいのだと。感謝なことにあなたが主のために忠実に歩み、主を愛するゆえにあなたが犠牲的に主に従って行くその歩み、自分中心ではない、神中心に生きて行くそのあなたの人生を神は正しく祝し、報いてくださる。神の前に正しく歩むその歩みに、神様はちゃんとふさわしい報いを与えてくださる。みことばが教えたように、「喜びおどりなさい」と。私たち信仰者が覚えなければいけないのは、あなたが主に対して忠実に歩む、その歩みにはこのような約束がちゃんと伴うということです。あなたが忠実に歩む時に、神はその歩みをちゃんと覚え、そして豊かな祝福を与えてくださる。主のために生きること、主に忠実に歩むこと、その歩みは決してむだではない。
しかし妥協しながら、みことばを聞いていながらそのみことばに従って行こうとしない、神が下さったその人生をあたかも自分の人生のように勘違いして主に逆らい続けるむだな人生を送っている人は、悲しいけれどこの祝福をいただくことはあり得ない。今私たちが見ている7節に「神をほめたたえよう」ということばが出て来ます。これは直訳すると「神に栄光を帰そう」という意味です。なぜかというと、すべての祝福は神から与えられたものです。あなたが救いに与ったのも神からの祝福です。神が与えてくださったもの。日々の生活において神があなたを守ってくださっていること、あなたを導いてくださっていること、あなたに知恵を与えてくださること、あなたにみこころを示してくださること、あなたの必要を満たしてくださること、そのすべては神があなたに一方的に与えてくださった祝福なのです。
しかも我々の地上の生活が終わった後は神がすばらしい永遠を備えてくださっている。我々は神とともに永遠を過ごして行くのです。その後のみことばの中でそのことが記されています。神があなたのために備えてくださったすべての祝福を覚える時に、私たちが言うことはただ一つです。我々ではなくてこのすばらしい祝福を下さった神に栄光があるようにと。ほめたたえられるのはこの方だと。私たちがしたことは罪に罪を重ねることでした。しかしこの方は私たちに全くふさわしくない祝福をあふれるばかりに与えてくださった。だからこの方をほめたたえ、この方の栄光が明らかにされますようにと。神様に栄光を帰しましょう。たくさんの祝福をくださったから。
そしてこの後見ていただくと、その栄光を帰すにふさわしい、称賛にふさわしいその理由が続けて書かれています。7節「小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」とあります。結婚式の話です。私たちがこれから見て行く箇所を理解するためには、当時の婚姻について知ることが必要です。
1.古代のユダヤ人の結婚(習慣が異なるが一般的)
さまざまな習慣が確かに存在するのですが、一般的な古代のユダヤ人の結婚がどういうものだったのか、簡単に説明します。
1)婚約
まず最初の段階は婚約から始まります。婚約というのは親同士が決めるのです。ユダヤにおいて成人式は13歳です。でもその年になるずっと前から親同士が結婚の契約を結ぶ。そうすると法的には彼らは夫婦になるのです。でもすぐに結婚できる年齢ではないのでその年齢まで待たなければいけません。でも親同士が結婚を取り決めること、これが婚約です。
2)花嫁を迎えに行く
そして二段階目は、その時が来た時に花婿が最上の衣服を身にまとって、友人たちとともに行列をなして花嫁の実家に花嫁を迎えに行くのです。マタイ25章の中に十人の乙女たちの話が出て来ます。その話の背景にあるのはこういった習慣です。そして、自分の家に連れて来るのです。もしくはケースによっては自分の両親の家というのもあったようです。
3)婚宴(祝宴)
三つ目の段階は何かというと、それは祝宴を開く、婚宴の話です。婚姻ではなくて婚宴です。これは一般的には7日間続いたと言います。それ以上続くケースもありました。
このことを私たちは頭に入れながらこの箇所をしっかり見ることが必要です。ここで言われていることは確かに比喩です。主なる神様と教会の結婚の話です。
2.主と教会の結婚:
聖書の中を見ると、神とイスラエル、また神と教会の結婚が比喩的に記されています。旧約においては神はイスラエルの花婿であると。しかし残念ながらその不信仰ゆえにイスラエルは神の不貞の妻であると聖書は教えます。新約においてはキリストが教会の花婿であると。教会というのは、この建物の話ではなく、主イエス・キリストによって救われた者たちのことです。世界にただ一つしか存在しない教会です。その教会、つまり救いに与った者たちと花婿なるイエス・キリストが結婚するという比喩を使ってある真理を教えるわけです。
1)婚約:
さて先ほど私たちが見て来た結婚の話を思い出してください。まず婚約があります。神と私たちクリスチャンとの婚約というのは、神の恵みによってあなたが救いに与った時にこの契約が結ばれたのです。パウロはⅡコリント11:2で「私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」と書いています。主イエス・キリストとクリスチャンたちの関係をこのように表しているのです。ですからイエス様をお信じになった時に、神があなたを救ってくださった時にこのような婚約の関係が結ばれたのです。
2)花嫁を迎えに行く ヨハネ14:2-3
そして第二番目の段階は花婿が花嫁を迎えに行くのです。7節「小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができた」とあります。遂にその時が来たのです。花婿である主イエス・キリストが花嫁である教会を迎えに来てくださる、この出来事を空中携挙、空中再臨と呼んでいます。花婿なるイエス様が私たちクリスチャンを、教会をご自身のもとに導いてくださる。イエス様がヨハネの福音書14章で動揺していた弟子たちに対してあることをお話になります。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」、わたしはあなたがたのために「場所を備えに行くのです。」、そして3節で「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」とあります。イエス様が私たちのために備えてくださったところに私たちを迎えてくださる日が、今お話ししたように空中携挙です。もちろんそれまでに肉体的な死を経験した人はその瞬間に神のもとに召されていますけれども、イエス様が帰って来られる時に地上に残っている者たちをご自身のもとに引き上げてくださると。7節を見ると、花嫁もその用意ができていることが書かれています。
◎ 婚姻の備えのできた花嫁:教会
そして8節を見ると、そのことについての説明が書かれています。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」と書いてあります。婚姻の備えのできたこの花嫁、教会に関して二つのことがここに記されています。
① 教会の主への応答
まずここに書かれているのは、教会の主に対する正しい応答の話です。つまりクリスチャンたちが主の恵みに正しく応答し、主の前を正しく歩み続けたことです。というのは、この「麻布」は「聖徒たちの正しい行い」ですと書いてあります。この「正しい行い」は、「義」と訳せるのですが、もし単数であったら、主イエス・キリストが義を与えてくださった救いの話です。でもここで使われているこのことばは単数ではなくて複数なのです。ですから救いの時にいただく神様からの「義」ではなく、ここで言われているのは救われた者たちが行なったた正しい行ないです。だから複数なのです。クリスチャンというのはみんな神様の義をいただいたのです。神はあなたの罪を除いてくださり、神の義をあなたに与えてくださった。これが救いです。そして、この救いをいただいたクリスチャンたちは、それにふさわしい生き方を、それにふさわしい歩みをしたということです。なぜならその責任があるからです。イエス様を信じてこの救いに与った人たちは好きに生きなさいとは聖書は教えていません。もしそのように歩んでいる人がいるならば、その救い自身が本物かどうかを考えなければいけない。救いというのは神が下さるもので生まれ変わらせてくださるものです。生まれ変わった者たちは神が喜ばれることを行なって行きたいという願いを持って歩み続ける者たちです。ですからここで言われている「花嫁はその用意ができた」というのは、彼らは救いに与り、そして花婿に会うために備えをして来たのです。彼らは主のみことばに忠実に従って、いつでも主――花婿にお会いできるように備えをして来た人たちなのです。
② 教会の変体
そして、次を見ていただくと、8節「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。」とあります。確かに、救いに与った者たちが神の前を正しく歩んで来たということを見ました。しかし同時に実はこの衣装は我々は15章で見たのです。黙示録15:6「そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。」とあります。天使たちの話です。しかも19:14にも「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。」とあります。今私たちが8節で見たこの教会はこのような着物を身につける。その着物は天使たちが身につけていた着物で、しかもこの19:14に出て来る天の軍勢たちが身につけていた着物と同じだと。ということはこの箇所が教えるのは、救われた者たちが花婿に会うために十分な備えをもって正しく歩んで来ただけではなくて、彼らはこの婚宴に出て行くのにふさわしい着物を着せられているという話です。
つまり、花婿が迎えに来てくださる空中携挙が起こった後、キリストのさばきの座が来ます。クリスチャンがひとりひとり神様の前でクリスチャンとして歩んで来た人生の神様からの評価が下ります。それが終わった後、ここに書かれているように結婚式の後には婚宴が待っているのです。その婚宴にふさわしい着物にひとりひとり変えられるわけです。つまりイエス様を信じて私たちは義とされ、義とされた者たちが神の前に正しく歩んで栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行き、最終的に私たちはこの瞬間に栄光のからだをいただいているのです。栄光の体、罪の全くない体を持って私たちは主イエス・キリストとともに地上に帰って来て、婚宴の中に招かれて行くのです。ですからこの19章の中で描かれている姿というのは、まさにその婚宴にふさわしい姿、まさに天使たちが身につけていたきよい衣を私たちも身につけてこの婚宴の中に招かれて行くという話です。この箇所が私たちに教えてくれたことは、確かにこの人々というのは救いに与ってから神の前を忠実に歩み、そしてこの栄光のからだをいただき、まさにこの婚宴にふさわしい者へと変えられた姿、そのことが記されています。
3.婚宴へ招かれた祝福 9-10節
1)彼らはだれなのか? マタイ8:11
皆さん注意して見ていただきたいのは。その後9節です。「御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言」ったと。御使いがヨハネにこう言うのです。ここで言われている人たちというのは先ほどの教会に属していない者たちです。教会に属している人たちは、先ほども見たようにキリストのさばきの座に立ち、それぞれの信仰の報いをいただいて、そして栄光の体を持ってキリストとともに地上に帰って来るのです。それは招かれた者たちではないのです。つまり教会以外の人たちもこの婚宴に招かれているという話です。9節が教えてくれている「婚宴に招かれた者」たちというのは、実は旧約の聖徒たちです。イエス様はマタイ8:11で「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西か
らも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」、まさにそれが起ころうとしているのです。先にもう神のところに引き上げられて栄光のからだをいただいて地上に降りて来るのは教会の話です。それ以外の信者たちもたくさんいるのです。その人たちがここに招かれて来るのです。その話がここに出て来るわけです。もちろん患難時代を生き延びたクリスチャンたちも同様でしょう。この人たちは婚宴に招かれてどれだけの間祝い続けるのか――。一瞬ではないのです。千年の間彼らは喜び続けるのです。
2)天使の奨励 9-10節
そして最後9-10節を見ると、ここに天使の奨励が記されています。
(1)「これは神の真実のことばです」:天使が言った。 9節
「また、『これは神の真実のことばです』と言った。」と、天使が言っています。つまりこれらは必ず起こることであって、神はそのことを改めて保証されているのです。間違いなくこのメッセージはこの苦しみに遭う、患難時代の多くの人々にとって慰めです。神は言われたことを必ず実現され、その通りにすべてが進んで行くのだと。彼らにとって大きな励ましだったことは間違いない。
(2)「神を拝みなさい」 10節
二つ目のメッセージは10節に出て来ます。「そこで、私は彼を拝もうとして、」、「彼」というのは天使の話です。「その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。『いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。」、ヨハネはいろいろなことを見て来てこの天使の前にまさにひれ伏した時、天使は拝んではいけないと言います。「いけません。」、大変強い禁止を強調したことばです。なぜかというと、私もあなたたちと同じしもべにすぎない。崇拝に値するお方はただ神だけである、「神を拝みなさい。」と。これが私たちクリスチャンです。私たちはなぜ先祖を崇拝しないか。先祖は創造主ではないからです。この地上のどのような崇拝の対象も何ひとつとして崇拝にふさわしい存在はいません。私たちが崇拝を捧げるにふさわしいお方はただひとり、すべてのものをお造りになったまことの神だけです。ですからそのことをもってこの天使もヨハネに自分を崇拝してはならないと禁じています。
(3)「イエスのあかしは預言の霊です」
そして最後に「イエスのあかしは預言の霊です。」とあります。これが最後にこの天使が告げたことです。「預言の霊」、この「預言」というのは神によって明らかにされたこと、神によって語られたメッセージです。ここで言っていることは、旧約のメッセージを見ても、新約のメッセージを見てもみんな同じことを語っているのです。旧約は私たちに救い主が来られると預言し、そのメッセージがそこに記されていました。新約になると、約束の救世主が来られたのだということを人々は語ったのです。ですからこの聖書が私たちに明らかにする、そのメッセージ、それがここにあるように主イエス・キリストのメッセージであると。
ダラス神学校の学長であったジョン・ワルボード先生は「キリストは聖書の主要な主題であるだけでなく、預言の中心主題でもある。」と。旧約が私たちに教えてくれたこと、救世主が来る。新約が我々に明らかにしてくれたこと、救世主が来られた。このイエス・キリストこそがその救世主であり、この方だけが崇拝に値する方であると。なぜならこの方は神だから、私たちはこの方をほめたたえようと。どうぞこの一週間もこの方をほめたたえ続けながら、主の証人として歩んでください。
《考えましょう》
1.天にいる者たちが神を賛美した理由を挙げてください。
2.小羊の婚姻について説明してください。
3.この婚宴に参加できる人たちを挙げてください。
4.このメッセージからあなたは何を教えられましたか。それを信仰の友と分かち合ってください。
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