Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録17:17-18
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2016/07/10 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:全能者の勝利3、バビロンのさばき3
聖書箇所:ヨハネの黙示録 17章17-18節
きょうはヨハネの黙示録17:17-18のみことばを見てまいります。
17:17-18
:17 それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。
:18 あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
私たちはバビロンに対する神様のさばきを見ています。「大淫婦」と呼ばれ、世界じゅうを惑わしているこの大きな都バビロンがさばかれることが17-18章に出ています。17:5でバビロンは「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」と呼ばれていました。それはバビロンがすべての偽りの宗教の源であるからです。そのことについては後で少し見ますが、あのバベルの塔を思い出していただくと、バベルの塔においてさまざまな言語、外国語が生まれたわけですが、それだけではありませんでした。人々はさまざまな宗教を生み出し、人間の拡散とともにそれらが世界へと広がって行くわけです。ちょうどあの感染病と同じように。だからこのバビロンは「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母」と呼ばれるわけです。
[ニムロデ]:創世記10:8-12
このバビロンについて、アメリカにある創造科学研究所というクリスチャンの団体の名誉会長であられ、既に天に召されていますヘンリー・モリス博士は「ネブカデレザルのバビロンではなく、ニムロデのバベルが実はすべての淫婦と憎むべきものの母である。」と言っています。ニムロデという人物はその当時のリーダーでした。「憎むべきものということばは、一般的に偶像に対して使われる。ニムロデは後にメロダク、またはマルダック(これらはバビロンの主神、主なる神)として神格化され、恐らく彼はサタン自身の啓蒙と教唆のもとに洪水後の世界に偽りの宗教を広めたのである。」と。つまりこのニムロデによって、偽りの宗教が世界じゅうに広まって行きました。それもそのはず、かつて私たちが創世記10章から11章の初めでバベルの塔のことを学んだ時、「ニムロデは地上で最初の権力者となった。」と創世記10:8が教えます。これはノアの箱舟のすぐ後です。そして10節「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。」とあります。現在のイラク、バビロンから少し北の地域です。「その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。」と11-12節が教えます。ですから現在のイラクの中のバビロンという町からどんどん勢力が北に延びて行くのです。そのすべての中心にあった人物がこのニムロデでした。
[ニムロデの罪]:
ノアの箱舟の後、彼らはその平野へと下りて来ます。そして彼らはそこに定住するわけですが、このニムロデというひとりの人物の罪について見て来ました。我々は聖書を通して二つの罪を見ることができます。
① 「プライドの罪」
一つは大変なプライドの罪でした。この人物は神がなくても何でも自分でできると思っているわけです。なぜ彼がバベルの塔を作ろうとしたのかというと、自分が支配した町々の中心をここに置いて、人々に自分の偉大さを誇示したかったのです。これだけのことを自分は達成したのだと。それが彼の目的でした。大変なプライドにあふれた人物。それが彼の一つ目の大きな罪です。
② 「不従順の罪」 4節
二つ目は、彼は神に対して不従順な人間でした。神に従おうとして来なかった。先ほどもお話ししたように、彼らはシヌアルの地に平地を見つけました。もちろんこれまで住んでいた環境とは全く違う。そこで彼らは「そこに定住した。」と、創世記11:2、4節に記されています。神は「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」(創9:1)と言われたのです。世界じゅうに広がって行くことを命じられたのです。ところが、このニムロデはとても住みやすいところを見つけて、シヌアルの地の平地に定住しようとした。そこを自分の一生の住みかにしようとしたと。彼は神様が命じられたことに従おうとはしませんでした。神の命令をちゃんと知った上で彼は神に逆らうのです。11:4では「われわれが全地に散らされるといけないから。」と言っています。ちゃんとみことばを知っていながら、彼はみずからの意思で神に逆らう選択をするわけです。当然彼がリーダーですから、周りの連中は彼の生きざまを見ていて同じように考え、同じように生きようとするわけです。だから私たちも家庭というところを考えるならば、どんな模範を示すかという大きな責任があります。私たちがどんなふうに生きるのか、それは家庭であっても、職場であっても、学校であっても、どこであっても同じことです。私たちは後から続いて来る者たちに模範を示して行くわけです。
ニムロデが示した模範は悲しいことに主が喜ばれない模範でした。プライドが非常に高くて自分の力を過信している人物、神のみこころに従って行こうとしない、自分の考えに基づいて生きようとしている人物、その影響を受けていたのです。そしてバベルの塔以降、神は彼らを世界へと散らして行かれます。11:9に「【主】が人々をそこから地の全面に散らしたから」と書いてあります。「散ら」された人々はこのような神に逆らうという信仰を持って出て行くわけです。このバベルの塔を通して、いろいろなことばが誕生し、そして世界じゅうに人々が散って行った。そこだけを見がちですけれども、実は同じようにこのニムロデを通して、この出来事を通して偽りの信仰が世界じゅうに広がって行きました。そのことに関して、先ほどのヘンリー・モリス博士は「人々が神によってバベルから散らばった。
その時彼らは異なる言語を使ったのだが、しかしニムロデによって教えられた根本的に同じ宗教を持っていた。そういうわけで世界の一神教でないすべての宗教、それが古代の例えばエジプト人、ギリシャ人、ローマ人の宗教や現代の例えば仏教、ヒンズー教、儒教であってもすべてが汎神論で多神教を奉じ、偶像を崇拝し、心霊主義的で、人文主義的で、進化論的なのである。それらの教えは卓越した創造神への信仰を許可しない。現代の科学的な進化論さえ基本的に古代のバベル信仰の幾らか洗練された変形版にすぎない。」と言います。この世の中のさまざまな宗教を勉強すると、大変共通していることに驚きます。日本の宗教もそうですが、汎神論――すべてのものに神が宿っているという考え方を持っている人々が世界じゅうにたくさんいます。そういったものがどこから出てきているのか――。こうして聖書を見た時に、確かにあのバベルからことばとともにその誤った信仰、偽りの宗教が世界的に広がって行ったのだと。
さて、話を反キリストが築く世界帝国に戻します。
終わりになると、反キリストがリードする世界帝国が築かれる。私たちはそれを再興されたローマ帝国と学んで来ました。この再興されたローマ帝国にあって再興されたバビロンの町です。この町がこの帝国の宗教的、経済的中心となり、世界じゅうに悪い影響が及ぶのです。だからジョン・マッカーサー先生はこんなことを言います。「再建された町バビロンは反キリストの世界帝国と密接に関係している。その首都としてかもしれない。」と。
ひょっとしたらこのバビロンがこの帝国の首都かもしれないと。正直今私たちはバビロンと聞いても、イラクとイランがどっちがどっちかよくわからないし、あの辺の地理はよくわかりません。ところが皆さん、今イラクにおいてバビロンの町が復興しようとしていることをご存じですか?先ほどからお話ししているヘンリー・モリス先生はこう言います。「バビロンの町は今イラクにあり、イラク政府は長年にわたり、バビロンをイスラム教の中心都市、また世界影響の中心とする野心を持って復興に取り組んで来た。」と。いろいろなニュースを読んでいると、イラク政府だけではなく、国連も協力してその復興に当たっていると。また、現代における最も偉大なイギリスの歴史学者アーノルド・ジョゼフ・トインビーは、バビロンが将来の世界文化的メトロポリスを作るのに世界で最高の場所であると、すべての読者やまた聴衆たちに強調して話していたと、モリス博士は記しています。世界的な歴史学者も言うわけです。このバビロンという町は地理的においても世界の首都となるに非常にふさわしいところだと。17章のみことばはそのことを私たちに教えてくれているのかもしれません。いずれにしてもこのバビロンから悪い影響が世界的に及んで行くと。
それで私たちは大淫婦の滅びということで、大淫婦バビロンがさばかれることを17:15-16で見て来ました。反キリストと彼の世界帝国を支配する十人の王たちがこのバビロンを滅ぼそうとします。そして18節で大バビロンのことを「地上の王たちを支配する大きな都のことで」あると言って、実際の都市がここでは語られているのだということを私たちに明らかにしてくれました。ですから恐らくかつての歴史的なところにバビロンが再建され、そこにさばきが下るのだという話です。
◎ バビロンのさばきはいつ起きるのか
この出来事が一体いつ起こるのか、少し整理したいと思います。この出来事は患難時代の真ん中で起こります。患難時代が始まった時に、世界に平和をもたらす人物がやって来ます。彼は世界的な平和を約束するだけではなく、同時に宗教的な自由を与えます。ユダヤ人たちがもう一度エルサレムでいけにえを捧げることが許可され、あらゆる宗教に寛容です。ところがそれは長く続かず約3年半すると、彼は立場を翻してすべての宗教を禁止し、自分を崇拝するようにと命じます。こういうふうに世界が動いて行く様子を見て来ました。しかし、その中にあって、主によって召され、選ばれた主に対して忠実なクリスチャンたちはその偶像崇拝を拒否します。その結果、多くのクリスチャンたちが患難時代の後半に殉教を経験するわけです。今も私たちはそういったことを垣間見ています。あのテロリストの集団によって、多くのクリスチャンたちがいのちを落としていることを知っています。つい最近もアメリカで銃を持った人物が教室の中でそれぞれの信仰を確認してクリスチャンであれば撃ち殺したという悲惨な出来事を我々は見て来ました。ひとりのクリスチャンの女性が銃口を突き付けられても「私は主イエス・キリストを信じるクリスチャンだ」と言って撃ち殺されました。そういう時代になって行くという話です。
ですから患難時代の後半はただの患難時代と呼びません。大患難と呼ぶのはそういう意味があります。恐らく私たちが経験したこともないような大変な患難が訪れるということです。しかし、それですべてが終わるわけではない。このようなことが起こっても大患難も終わりを迎えます。約3年半すると、主イエス・キリストが地上に帰って来られる。その時にこの患難時代に主イエス・キリストを信じて殉教した者たちは彼とともにその勝利の行列に加わります。そして、今の時代に救われているあなたも私もその行列に加わるわけです。私たちは主イエス・キリストとともに地上に帰って来て、千年の王国を築きます。我々はこの勝利者であるイエスとともに千年を、そして永遠を過ごすというすばらしい祝福をいただいたわけです。私たちは今こんな約束を神様からいただいています。しかしこの患難時代の後半は大変なことが起こると。
◎ なぜバビロンを滅ぼすのか
もう一度きょうのテキスト17節を見ると、ちょうど患難時代の真ん中あたりに反キリストが、また彼に仕えた十人の王たちがこの大淫婦バビロンを滅ぼそうとすると。なぜそんなことをするのか、二つの理由を今から説明します。
① この女が必要でなくなったから
一つ目は、この女がもう必要でなくなったからです。先ほども見たように、この大淫婦の存在は特に宗教的な影響力をもって反キリストを助けて来たわけです。宗教というのはそのように利用されて来たことを我々も歴史から学びました。その結果、国が一つになって戦争に踏み込んだこと、そういったことも我々は知っています。この時代もこの大淫婦によって人々が心を一つにされて行くわけです。反キリストが世界を支配するためにです。その帝国が拡大するためにです。3年半すると、反キリストはもう自分のものになったことを確信するわけです。そこでこの女性の必要性がなくなり、この女を、この宗教的影響を与えたバビロンを滅ぼそうとするわけです。そして今度は自分を神として、全世界にみずからに対する崇拝を強要し始めるわけです。
② 神のみこころである
17節にこの獣の裏切りともとれる行為に関してこんなふうに言っています。「それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。」と。今獣がどうしてその大淫婦を滅ぼそうとするのか、一つ目の理由を見ました。二つ目の理由は、17節の初めの接続詞が明らかにしてくれています。「それは」という接続詞は、なぜ獣が大淫婦を滅ぼそうとするのか、これがその理由であると明らかにしています。それは、それが神のみこころであるからと17節は私たちに教えるわけです。この「彼ら」というのはイエス・キリストを信じていない者たち、神に逆らい続ける者たちです。救いを拒み続ける者たちが「心を一つにして」、すべての支配権を獣である反キリストに与えるように、それを我々はずっと見て来たわけです。でも今皆さんに見ていただきたいのはこの出来事の主語は一体何かということです。17節には「神が」と書かれています。神がこのようなことをされるのだと17節に書いてあります。なぜ反キリストが、また十人の王たちがこの大淫婦を滅ぼすのかというと、「神のみこころ」だからと17節は我々に教えるのです。
* どのような働きをなさるのか?
特に17節には「神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ」と書いてあります。今お話ししたように、神を知らないすべての者たちが自分たちの支配権をこの反キリストに与えます。そして、そのような行為に彼らが至るのは、実は神が彼らのうちに働かれるからだと。ここに「神のみこころを行う思い」とありますが、この「みこころ」というのは神ご自身のお考えであったり、神の意図されるところであったり、神の目的ということです。この箇所を見ると、神に逆らう人たちが「神のみこころを行う」と言われているのですが、彼らはその選択をしている時に、自分たちは神のみこころを行なっているのだという思いは微塵たりとも持っていません。彼らは自分から進んで神が喜ばれることは何だろうとか、神のみこころは何だろうということを考えてみこころを行なったのではないのです。彼らは自分たちの考えに基づいてすべてのことを行なっているのです。でも聖書は、しかし神は彼らの心に働いて神ご自身の計画を遂行されるのだと教えているのです。もうここの段階で難しくて、私たちの頭でなかなか理解できない話が記されています。
心に与える
まず、「心に起こさせ」るという動詞が17節の中に出て来ます。これは実はヘブル語のあるイディオムに基づいているのです。エレミヤ32:40に「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。」とありますが、この「彼らの心に与える」ということばです。同じエレミヤ31:33には「心に書きしるす」とあります。ヘブル書の著者はそれを引用してヘブル8:10で「心に書きつける」と言っています。つまり、この「心に起こさせ」とあるのは、旧約聖書の中にあるイディオムが使われているわけです。どういう意味かというと、「心に与える」ということです。この新解約聖書では「心に起こさせ」と訳していますが、実はここで言っていることは「心に与える」ということです。だれが与えるのかというと、神が与えるのです。つまり神様はこの反キリストである獣に、また彼の十人の王の心にこの女を滅ぼすという思いを「与える」と言っているのです。先ほども言ったように、彼らは神が働いているとは考えてもいない。彼らは自分たちで考えて行動しているのです。でもそのことに関して聖書は確かに彼らは自分たちが考えることを行なっているけれども、このように行なっていきたいという思いは神が彼らの「心に与え」られたと言うわけです。
あらかじめお定めになったこと
イエス・キリストの十字架のところを少し振り返ってみましょう。皆さんの理解を助けるかもしれません。使徒4:26-28「地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』」とあります。確かに人々、指導者たち、王たちはイエス・キリストに反抗してみんな一つに結託しました。「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集ま」った、そのとおりです。イエス・キリストを殺すためにみんな集まって来た。そして使徒4:28に「あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。」とあります。そうすると、我々はちょっと待ってくださいと思うわけです。なぜなら彼らは自分たちが考えることを行なったわけです。イエスをねたんでいたからイエスを殺そうとして、イエスを殺す段取りをして行ったわけです。ところが聖書は「あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったこと」と言うのです。だれが定めたのか――。神が定められたのです。だれが行なったのか――。彼らが行なったのです。今ちょうど我々が見ているように、確かに人間は自分たちの考えに基づいてするのです。でも聖書を見た時に、実は神がその背後にあって働いておられると言うのです。今皆さんに見ていただきたいのは、そのように聖書が教えているということです。皆さんが理解できるかできないかの話ではない。聖書の中には我々に理解できないことはいっぱいあります。見ていただきたいのは、そのように聖書は教えているということです。
みことばの成就するときまで
17節で「みことばの成就するときまで」、つまり主の再臨に関するすべての預言が成就するまで、神は人々の心に働いて、彼らの心に神はご自身の思いを与えられると言うのです。そうすると、この反キリストが女を殺そうとした思いも神から与えられたものであると。多くの人々がイエスを殺そうとしてさまざまなことを企てたことも神が働いてそのようにさせたと。神は確かにそのようなことをなさるのです。旧約聖書ヨエル3:2に「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。」とあります。この「すべての国民を集め」るとは最後のハルマゲドンの戦いを指しています。とすると、あの人々がイスラエルに反抗して、イスラエルに集まって来るわけです。そして彼らは集まったら、今度は神に対して戦いを挑もうとする。実はそれも神が働いておられる。ゼカリヤ14:1-2に「見よ。【主】の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。」と。最後の時にこのようなことが起こるのだと。一体だれがその敵を集めるのか――。「わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる」と。
◎ 神が罪を犯させるのか?
こうして見て行くと、そのような数々の悪が行なわれて行く。でもその悪を実際に行なっているのは神様ではないか――。神がそういう思いを与えて、神がそういうことをさせているのではないかと。私たちはこういうみことばに出会うと、必ずそのような疑問を抱きます。聖書はそれに対しても答えを与えてくれています。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」と、ヤコブ1:13です。つまりこの箇所が教えているのは、神は罪を犯すこともだれかを罪に誘惑することもない全く正しいお方だと言っています。もし神が罪を犯させるのであれば、神ご自身のご性質に反するだけでなく、その時点でこの方は神でないということが明らかになります。なぜなら神というお方は詩篇145:17の言うように神は「ご自分のすべての道において正し」いお方であると。神はなすことすべてが正しい方です。
神は罪を犯すことはないし、人々を罪に誘惑することはないのです。罪から完全に離れたお方、そのことを我々はよく知っています。神は罪を犯さないし、人々を誘惑することもない。
◎ ではどういうことか?
ではこのみことばは我々に何を教えているのか――。神がそのような思いを彼らの心に与えられた、神に責任があるのではないかと。できるだけ皆さんにわかるように説明したいと思います。こういうことです。人間は自分たちが考える最善、特に神の敵たちは神に対する謀反を働き続けて行きます。しかし、神は彼らの心に働いて結果的に神のみこころを成し遂げられると言っているのです。実際に神様は神ご自身のさばきの目的に悪を用いるということもなさいました。神はバビロンを用いてイスラエルをさばくということをなさいました。エレミヤ25:9に出て来ますが、「わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。」と。神はバビロンの王であるネブカデレザルを使ってイスラエルを攻めさせると言うのです。ネブカデレザルは神のみこころを行ないましょうとは思っていないのです。彼は少しでも自分の領土を広げようとしているのです。敵国に攻め入ってそれを滅ぼそうとしているのです。彼が考えていたことはそのことだけなのです。でも神はその彼の思いを使って、結果的に神のご計画を成し遂げられたのだと。
わずか300人が数えられないほどの敵に勝利したというギデオンの話を覚えていますか?ミデヤン人にアマレク人、余りにも多くの者たちが集まっていた。ギデオンはその300人を三つのグループに分けました。それぞれは自分の手に角笛とからつぼとを持って、つぼの中にたいまつを入れさせました。そして我々が角笛を吹いたらあなた方みんな「角笛を吹き鳴らし、「【主】のためだ。ギデオンのためだ」と言わなければならない。』」と。実際にそれが起こった時に、「【主】は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。」と士師7:22にあります。敵の間で同士打ちが始まったのです。同士打ちをした人間は神が自分たちをこのようにさせているのだと思っていません。彼らは突然仲間うちで殺し合いを始めた。しかし、聖書が我々に教えてくれるのは神がそのようにさせたのだと。
つまりこの反キリストと十人の王たち、またそれに仕える者たちは自分たちの考えに基づいてすべての行動をしているのです。しかし、聖書が教える偉大な神は、その彼らの罪をも用いて神の完全なご計画を成し遂げられる。これが私たちの神だと聖書は教えてくれているのです。罪を選択するのは我々罪人なのです。しかし神はその罪をも用いてご自身のみこころをなされるのです。例えば我々がよく知っている罪というと、あのダビデの罪です。姦淫の罪を犯し、殺人の罪を犯しました。バテ・シェバから生まれた最初の子どもは病気で死んでしまいます。しかし次に生まれた子どもはソロモンでした。人間的に言えば、なぜ?と思っても、神はそういったこともお用いになって神ご自身の計画をなされると。その権利を持っておられる方、その力を持っておられる方が私たちの神なのです。ダビデの話を聞いて、では我々も罪を犯せば神様はそれを使って神の栄光を現わしてくれるのだから、何をしても構わないのかというととんでもありません。私たちは自分たちの行動に対しての責任があります。それはもう皆さんよくおわかりのことだと思います。
結 論
ではこのテキストは我々に何を教えてくれているか――。まず私たちがしっかり学ばなければいけないのは、私たちの神は絶対的な主権者なのだということです。神はだれに相談する必要もありません。だれの助けも必要としない。完璧な神はご自身の完璧なご計画に基づいてご自分の計画を成して行かれる方です。人間は神に背を向けて好きな生き方を選択します。神に逆らい続けます。しかし主権者である神はそのような罪をもすべて用いて最終的にご自分が計画なさっておられることを成し遂げると言うのです。これが聖書の教えてくださっている神なのです。
なぜこの話を聞いていても、我々がどうして?と思うのかというと、我々自身に問題があるからです。我々はこの神のことを完璧には理解できないということです。しかし、あえてきょうそれを説明したのは、そのように聖書が私たちに教えてくれているわけであり、そして私たちがもう一度覚えなければいけないのは我々の神は我々の理解力をはるかに超えたお方だということです。人間が罪を犯すことによって神は喜んでおられるのではない。心を痛めておられる。しかし、主権者なる神はそのすべてを使ってご自分がよしとされることをなされる方です。こうしてテキストを見ると、世の中はますます神に逆らって行きます。でも神の計画に基づいてすべてのことがなされ、神がよしとされた時にすべてのことが起こるわけです。これが我々の神です。
そのことを考えるとこんなことが言えます。獣である反キリストもこの十人の王たちもそして彼らの頭であるサタンでさえも、実はみんな神の道具にすぎないということです。彼らは一生懸命に神に逆らい、彼らは一生懸命人々を惑わし、だれひとりとしてこの救いに至らないようにと邪魔します。しかしそんな中で神はあなたの心に働いてくださって、あなたに救いを下さった。サタンは絶対的な存在ではないのです。絶対者がいるのです。サタンがどんなにあなたの心を閉ざしたとしても、サタンがどんなにあなたの心を神に逆らうように仕向けたとしても、神が働いた時に、サタンの力は一瞬のうちにしてなくなるのです。その証拠が私たち自身です。我々はサタンの奴隷として罪の束縛の中を生きていたのです。あなたや私が優れていたからではない。神が優れておられ、神がそこからあなたや私を救い出してくださった。どんなにサタンが敵を多く集めたとしても、全人類が挙ったとしても、最新の兵器を持っていたとしてもサタンに勝利の「し」の字もない。完璧に彼は敗北するのです。この方だけが絶対者なのです。そしてこの方はすべてを造り、すべてを治めておられる主権者であるゆえに、人間がどんなに逆らおうと、サタンがどんなに邪魔しようと最終的にご自身の計画をなされ、ご自身の栄光を現わされる。だから我々信仰者はいろいろなことが起こっても、その主権者なる神をしっかり見上げてその方に信頼を置き続けることです。神が知らないことが起こっているのではないのです。悲しいことや辛いことは山ほど起こっています。でもすべては神がご存じなのです。大変な犯罪が行なわれ、大変な罪が横行しています。その責任はみんなその罪を選択し、その道を歩んでいる罪人にあります。しかし最終的に主権者なる神がそれらすべてを使ってご自身の計画を成して行かれる。
最後に皆さんにお勧めしたいことは、だからこそ我々は自分の行動に責任を持たなければならないということです。主イエス・キリストはマルコ13:33で次のようなメッセージを与えられました。皆さんもよくご存じのところです。「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」と。聖書が我々に教えてくれているのは、イエス・キリストが帰って来る、私たちの地上での生活は、永遠に続かないということです。確実に我々は一日一日歳を重ねて行きます。目覚めなければいけないのは、我々は死に近づいているということです。同時に主にお会いする日が近いということです。その備えができているかどうかを我々信仰者は考えなければいけない。多くの人々は自分の思いどおりに生きて、神に逆らい続けました。彼らは神の前に立つ日が来るということを忘れているのです。我々信仰者もそれを忘れていません?天国が与えられたからもうすべてОK。いいえ我々は神の前に立ちます。
そして私たちの信仰の歩みに対しての主からの正しい審判をいただきます。だから私たちは自分の行動にしっかり責任を持って、主の栄光のために生きているのかどうか、主を喜ばせることをいつも選択しながら生きているのかどうか。きょう主の前に立つことができるのかどうかを考えながらこの日を生きることです。感謝なことにあなたの弱さを、愚かさを知っている神がちゃんと必要な助けを与えてくださる。問題なのはそのように生きて行きたいかどうかです。そのように生きて行こうとあなたが願っているかどうかです。それならば神はちゃんとあなたを助けてくださる。だから信仰者の皆さん、自分の行動に責任を持たなければいけない。ぜひみずからにそれを問いかけてしっかり主の前に立つ備えをもってきょうを生きることです。
まだイエス様を知らない皆さん、さばきは来ます。逆らい続けているあなたのさばきはあなた自身に返って来ます。しかし今主は救いを備えてくださり、あなたにその救いの機会を与えてくださっている。きょうが救いの日です。きょうが恵みの日です。どうぞ主の前に救いを求めて出て来てください。
《考えましょう》
1.神は人が罪を犯すようにと導かれるお方でしょうか?その理由を説明してください。
2.では人が罪を犯すのはどうしてですか?
3.究極的には神のみこころがなされるのであれば、罪を犯しても構わないではないかという考えが間違っている理由を説明してください。
4.きょうの学びで学んだことを信仰の友と分かち合い、実践のために祈り合ってください。
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