Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録17:14-16
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2016/07/03 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:全能者の勝利2、バビロンのさばき2
聖書箇所:ヨハネの黙示録 17章15-18節
17章と18章には「バビロンへのさばき」が記されていることを私たちはすでに見て来ました。
17:1には「大淫婦」」と書かれています。これが何であるかはすでに学びました。これは「バビロン」のことです。確かに、12:1には「…ひとりの女が」とあり、それにはいろいろな解釈があることを説明しました。17章に出て来るこの「大淫婦」というのは恐らく「背教した教会」のことではないか?と言われていることも説明しました。なぜなら、そのような有力な説があるからです。この「大淫婦」が為す悪の影響を精査するときに、これは「背教した教会」というよりも「バビロン」と解釈する方が正しいだろうということで、そのように説明しました。この「大淫婦」、バビロンがさばかれるということです。
☆「バビロンの宗教的滅亡」について
A.大淫婦へのさばき 17:1-18
前回見た17:1-14では、大淫婦は獣である反キリストと密接な関係をもっているということを見ました。少し整理します。反キリストが世界的な大帝国を造ります。それを私たちは「ローマ帝国が再興する」と見ました。その世界帝国の中で中心的な影響力をもっているのがこのバビロンです。17:18には「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」と書かれています。18:10にも「…大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』」とあります。18:16、18、19、21を見ても「大きな都バビロン」と書かれているので、これは実際にあった都市であると言えます。思い出してください。「バビロン」について学んだときに、これは都市でもあるし制度でもあると見ました。でも、17章と18章を見ると、このさばきが下されるのは実際の町のこと、バビロンです。ユーフラテス川のほとりにあるあの都市です。
このバビロンから悪の影響が世界中に及んでいるのです。17章では「宗教的な影響力」をもっていること、そして、それがさばかれることが書かれています。そして、政治的・商業的な影響力も同じように持っているので、それがさばかれることが18章に書かれているのです。今日学んでいくのは、前回見たところと重なる部分もありますが、このバビロンを反キリストと彼の世界帝国を支配する十人の王たちが滅ぼすということです。これがいつ起こるのか?患難時代の真ん中に起こります。先ず、皆さんに覚えていただきたいことは、私たちがこうしてみことばを学んでいくと、特に、黙示録を見ると、すべて出来事が時系列に並んでいるように思いがちですが、そうではないということです。この17章と18章を見ると、バビロンに対するさばきをクローズアップして、そこに焦点を当てて記しています。
これまで学んで来たことを思い出してください。偽キリスト、また、反キリストは何をするのか?世界に平和を約束します。一時的な偽りの平和がこの世に訪れます。同時に、宗教的な自由も与えます。ユダヤ人たちは再びいけにえをささげるようになります。彼らが長年待望していたことが実践できるようになるのです。ところが、患難時代のちょうど真ん中辺りで、反キリストは自分を神として崇拝するようにと、全世界に対してそのことを強要するのです。そのために世界中のあらゆる宗教を弾圧します。そして、自分だけが神であると訴えて自分への崇拝を強制します。そのことが再びこの中に出て来ているのです。この反キリストと彼に仕える十人の王たちが最終的に主イエス・キリストに戦いを挑みます。この戦いがハルマゲドンであることを16章で見ました。また、19章にもそのことが書かれています(16:14「彼らはしるしを行う悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」、19:19-21「:19 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」)。しかし、その戦いは一瞬のうちにわけもなく終わります。神が一瞬に彼らを滅ばされます。それは17:14に記されているように「小羊は主の主、王の王だからです。」。
いったい、だれが神と戦って勝てるのか?どんなに反キリストが軍勢を集めようと、どれ程の最新兵器を手に入れようと、神に勝利することなど不可能です。神は一瞬にして彼らを滅ぼしてしまわれます。なぜなら、このお方は「主の主、王の王」だからです。この表現は14節では「小羊は」と書かれていま
す。つまり、イエス・キリストは「主の主、王の王」であられると。それでいながら、この表現は父なる神に対しても書かれています。Ⅰテモテ6:15には「その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、」とあります。ですから、主の主であり王の王であって、本当の神であられるお方、父なる神、唯一真の神、そして、ここでイエスがその神であるということを明らかにしているのです。黙示録19:16には「その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。」とあります。反キリストがきっとこれだけ集めるなら主イエス・キリストに勝利することができると思ったのでしょう。しかし、一瞬にして勝敗は下ります。神の敵は一瞬にして滅ぼされてしまいます。
そのことがここに記されているのですが、もう一つ、皆さんに気付いていただきたいことは14節の後半に「…また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」と書かれているところです。「彼とともにいる者たちは、」とは、主イエス・キリストがこの地上に帰って来られるとき、イエス・キリストは一人で戻って来られるのではありません。多くの者たちがイエス・キリストとともにこの地上に凱旋して来ます。その人たちがいったいだれなのか?ここに記されています。
「主とともにいるキリスト者」とは :
神の敵に完全に勝利される主イエス・キリスト、この方とともに勝利者としてこの勝利を喜ぶことができる、このすばらしい祝福に与ることができる者たちはいったいだれなのか?続いて、「召された者、選ばれた者、忠実な者」と書かれています。つまり、後で説明しますが、クリスチャンのことです。私たちは主とともにこの地上に帰って来るのです。私たちは主とともに永遠を過ごすのです。勝利者である主とともに、勝利者の側に付いたものとして、私たちは永遠をともにすることができるのです。
聖歌334「主のめいうけ」という歌があります。その歌詞を考えていただきたいのです。非常にすばらしい歌詞です。3番「主が我らに払いしは、朽ち行く地の富ならず、小羊なる神の子のきよき血なりいのちなり、大き救い味わいて、我らは主の側にあり」、主が私たちのために為してくださったこと、それは小羊なるイエス・キリストの尊い犠牲であった。彼は自分のいのちを私たちのために捨ててくださり、そして、救いを備え、私たちをその救いへと招いてくださり、我々はこの「大き救いを味わいて」、私たちは神の側に立つと、そのような存在になったと歌った聖歌です。フランシス・ハーバガルが書いた聖歌です。感謝だと思いませんか、皆さん。勝利者である神とともに私たちは永遠を過ごすのです。勝利者である神が常にあなたとともにいてくださる、そのような特権に私たちはもう与っているのです。14節には先に話したように、クリスチャンを表している表現が書かれています。これらは「クリスチャンの定義である」と言えると思います。クリスチャンとは、「召された者」であり「選ばれた者」であり「忠実な者」であるということです。
1.召された者
このことばは新約聖書中に10回出て来ます。ローマ1:6、7に「:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、──このパウロから、:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」、クリスチャンたちに対して、あなたがたはイエス・キリストによって召された者であり、神に愛されている者、あなたがたは主によって召された聖徒たちであると言います。ローマ8:28は皆さんよくご存じですが、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」と書かれています。
Ⅰコリント1:2、24「:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」「:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」、ユダ1「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。」、
クリスチャンは神が召してくださったのです。罪の中から罪の深みの中から、その汚れから、永遠の地獄に向かっていた私たちを、神は名指しで呼び出してくださったのです。それが私たちクリスチャンであるとみことばは教えるのです。神はあなたを名前で呼んでくださったのです。
2.選ばれた者
パウロはエペソ人への手紙1:4で「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と記しています。あなたが神を選んだのではありません。神があなたを選んでいてくださったのです。この世界を造る前からです。今、私たちは「召される」と「選ばれる」という二つのことばを見ました。実は、この二つが同時に使われている箇所があります。マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とあります。何のことを言って
いるのでしょう?神はすべての人をこの救いへと招待してくださっています。では、イエス・キリストの福音のメッセージが伝わる前の日本はどうだったのか?神はすべての人を招いておられた。どのようにして?神がお造りになった自然界を通して神ご自身の臨在を明らかにされ、そして、人間である私たちはそのような神がおられることをちゃんと知っています。
私たちは偶然に生まれて来たのでも、猿から進化したのでもないことを私たちは知っています。私たちを造ってくれた神がいることを知っています。しかし、残念ながら、私たちはその神を信じたくないのです。そこで、都合の良い神を造り、都合の良い神に手を合わせることを私たちは選択したのです。ですから、福音のメッセージが伝わっていなくても、神がおられるということは人々は分かっています。神が造られたすべてのものはそのメッセージを発しています。こうして神は罪人を救いへと招こうとしてくださったのです。神は罪人のひとりでも滅ぶことを望んでおられません。神はすべての罪人がこのすばらしい救いに与ることを望んでおられます。ですから、マタイ22:14にある通り「招待される者は多い」のです。でも、「選ばれる者は少ないのです。」。
ルカの福音書14:16-24をご覧ください。「:16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから』と言わせた。:18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断りさせていただきます。』:19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断りさせていただきます。』:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』:21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』:22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。:24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」
私たちが覚えるべきことは、多くのクリスチャンは神が教えてくださっているこの「選び」という真理に対して、この真理を語ることを恐れるという事実です。私たちは恐れません。なぜなら、そのことをみことばが明らかに教えているからです。クリスチャンの皆さん、あなたがこの救いに与っているのは、あなたが理解力に富んでいるからとか、あなたが良い人間であったからとかではなく、神が一方的にあなたに働いてこの救いを与えてくださったのです。 ヨハネ6:44に「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」とある通りです。選ばれた者は、必ず、神の招待、神の召しに応じます。神があなたを選んでくださったのです。
まだ、救いを受けておられない皆さん、その真理を聞いて神に怒りを持つことを止めなさい。先ず、あなたは自分が選ばれているかどうかは分かりません。でも、分かっていることは、あなたは神からの救いのメッセージを聞いていながら、自らの意志をもってそのメッセージを拒んでいるということです。人は信じたくないものは信じないのです。それは神のせいではありません。あなたがあなたの意志をもってこの救いを拒み続けているのです。だから、あなたが永遠の地獄にいくのは、あなたがそれを選択しているからです。あなたが永遠の滅びに至るのは、それがあなたの選択だからです。神はそのことを喜んでおられるのでしょうか?とんでもない。だから、神は忍耐をもってあなたが救いに与るようにと待ってくださっています。
クリスチャンである私たちが覚えるべきことは、神は私のような者を名指しで呼んでくださり、世界を造る前からこの救いに招こうと選んでくださったということです。まだ、この救いを受けておられない方にお聞きします。いつまで逆らい続けるか?いつまでこのすばらしい神の恵みに対して背を向け続けるのか?なぜ、この救いを拒み続け、あなたを愛しておられる神を拒絶し続けるのか?です。
3.忠実な者
三つ目に見ることばは「忠実な者」です。Ⅰテサロニケ1:9,10をご覧ください。最初に話したように、この三つの大切な真理は「クリスチャンとはどういう者か?」を明らかに教えています。三つ目に見ているのは、クリスチャンとは「忠実な者である」ということで、そのように断言することができます。このテサロニケ教会のことを見てください。「:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」と、もう何度も見て来ました。信仰というのは、救いというのは、かつて私たちが仕えて来た偽りの神々に背を向けて、真の神を信じてこの方に従っていく、この方に仕えるということです。ただ、神がいるということを認めているだけではありません。イエスが神だということを頭で認めるのではありません。
私たちがどういう選択をするのか?です。180度の方向転換がそこに含まれています。それを「悔い改め」と言います。その後、「:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」、この箇所が教えることは、イエス・キリストを待ち望むこと、イエスにお会いすることを待ち望んでいる、そのことをクリスチャンたちが自分の口でただ話していただけでなく、「それらのことは他の人々が言い広めているのです。」とある通り、周りの人たちがこのクリスチャンたちを見ていて、彼らがどんなことを語りどのように生きているのかを知ったのです。彼らが見ていたのは生き方が変えられた者たちです。「偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」と、そのことを生き方をもって示していたのです。彼らは目に見える形で救われていること、そして、神に仕える者であることが明らかになっていたのです。
続けて、Ⅰテサロニケ4:1、9-10を見てください。「:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」、「:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。:10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」、彼らはパウロから学びを受けました。どのように生きることが神に喜ばれるのか?と。私たちもみな教えを受けます。テサロニケのクリスチャンは学びを受けてノートに取ってどこかにしまって置いたということはありませんでした。彼らは学んだことを実践していたのです。それがクリスチャンです。
私たちが勘違いしていることは、救いとは神から何かをいただくこと、永遠のいのちをいただくこと、罪の赦しをいただくことと、もし、救いを定義してくださいと言われるとそのように言うかもしれません。でも、救いはその人を新しく造り変えるものです。神が与えてくださる救いは、その人を全く新しく造り変えてくれます。だから、その人は新しい目標を持ち、新しい人生を歩み始めるのです。救いはそれだけの力をもったものです。テサロニケの教会のクリスチャンたちがまさにクリスチャンにふさわしく生きていたのは、彼らが救われていたからです。皆さんが自分に問いかけなければいけないことは「私の人生は変えられているのか?」ということです。私たちは失敗だらけですが、問題は、心の中に主に喜ばれたいという願いがあるかどうか、そして、その願いに基づいて生きているかどうかです。
先日、学びをしているときに、終わったときにある方が「メッセージ、厳しいですね。」と言われました。私たちクリスチャンにはこのような責任がある、このように生きるようにと…、厳しいです。その後こう続きました。「私がこれまで聞いて来たのは、神は私たちのどんな罪でも赦してくださる。そのことを感謝して生きればいいと。」。残念ながら、このような考え方が広まっています。しかし、皆さん、ごいっしょにみことばを学んで来た者として、救いとはどういうものであるかを聖書からしっかり学んでくださっています。イエス・キリストに対する信仰はご利益宗教ではありません。自分の欲しいものを得るためにイエスを信じたのではありません。この方が神だから信じたのです。自分が望んでいるものがたとえ与えられなくても、この方が神だから信じるのです。そして、主イエス・キリストによって生まれ変わるという信仰はあなたを根底から造り変えてくださって、神の栄光のために生きる者として歩ませてくださるのです。それが神の教えておられる「救い」です。救いはあなたを造り変えます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)とある通りです。
もう何年にもなりますが、残念ながら、アメリカで出て来ている異端的な教え、敢えてそのように言いますが、みことばを語っても、その「みことばが教えている真理がこれだ!」と言わないのです。聞いている者たちに判断させるのです。私たちは「聖書はこのように教えています」と皆さんに伝えます。なぜなら、聖書が教えていることは明確だからです。でも、残念ながら、絶対的な真理が存在しないと考えている人たちは、情報を提供して「皆さんで判断すればいいです」と言うのです。聖書には絶対的な真理があるのです。神が教えてくださっていることがここに含まれています。神は聖霊をくださり、このみことばの真理を私たちに明確に記してくださっています。私たちは勝手な解釈をしてもいいとは教えられていません。神のみことばの真理にしっかり立ちなさいと教えられます。救いという最も大切なことに対しても私たちが覚えるべきことは次のことです。私たちが天国にいきたいからただイエスを信じたのか?それとも、神があなたのうちに働いてあなたを生まれ変わらせてくれたのか?どうすれば本当の信仰、救いが与えられているのかを知ることができるのか?それはあなたが主の前に忠実に生きようとしているのかどうか、主を喜ばせようと願いながら生きているのかどうかです。
救われていると思い込んでいる未信者はそんなことは考えません。天国の約束が与えられたからそれ
でOKと思っています。しかし、救いはそういうものではありません。今日のテキストである黙示録をもう一度見ると、ヨハネは私たちに「救いとはどういうものか」を明確に教えてくれています。救いは神があなたを名指しで呼んでくださった、神があなたを選んでくださった、神が働いて神があなたを救ってくださったから、あなたは新しい者としての新しい生き方を始めるのです。それが「救い」です。
ですから、この17:14のみことばは私たちに「クリスチャンとはどういう者なのか?」を教えているのです。ぜひ、皆さん、そのことを問いかけてみてください。みことばを見ると、警告が何度も記されています。なぜなら、救われていると思っていながら実は救われていない未信者がいっぱいいるからです。教会に来ているから、バプテスマを受けたから、奉仕をしているから、私は救われていると思い込んでいる人たちはたくさんいます。残念ながら、そのような人たちの大変大きな数が地獄で永遠を過ごすのです。救いは神が与えてくださった最高の贈り物です。救いは神が私を全く造り変えてくださるものです。そして、造り変えられた私たちは、こんなすばらしい救いがあること、こんなすばらしい神がおられることを伝えるのです。本当の救いを味わっているなら、そのすばらしさを知っているなら、間違いなく、そのことを語るでしょう。
Ⅰペテロ1:2に「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」とあります。今見ている通りのことが記されています。神が主導権をもって、神ご自身が働いて聖めてくださって、「イエス・キリストに従うように、」と私たちを変えてくださるのです。これが「救い」です。先ほど紹介した聖歌334「主のめいうけ」の、残念ながら、日本語に訳されていない5番の歌詞はこうなっています。「外国の地にて」と書かれています。こういう表現は私たちクリスチャンしか分からないかもしれません。私たちクリスチャンはみな天国民だからです。この地上のどこにいてもそれは外国にいることになります。「兵士として選ばれし、我々の指導者の一団(クリスチャンのこと)のために、選ばれ、召され、忠実な者とされた(今見て来た通りのことです)。王に仕えることにおいて決して心が冷たくならぬように、忠誠、高潔、真実、大胆さにおいて正しくあろう。主よ、あなたはあなたの恵みで私たちを守ってくださいます。私たちは常に主の側に立つ。救い主、常に私たちは汝のものなり。」、この通りです。神が私たちを救ってくださった、神が私たちをご自身のものとしてくださった、神は私たちを通してご自身の計画を為そうとしてくださっています。そのようなすばらしい特権に私たちは与っています。ただ、天国をもらったとか、罪の赦しをいただいたというそれ以上のものであることは皆さんお分かりでしょう!!もちろん、神の救いの中にそのようなすばらしい約束があります。でも、同時に、神は私たちを使ってくださるのです。この地上にあって、神がどんなにすばらしいお方であるのか、救いがどんなにすばらしいものであるのかを伝えるために…、それがクリスチャンです。
黙示録17章に戻って、(6/12のメッセージの続き、A.大淫婦へのさばきの6番目)
6.大淫婦の滅び 15-18節
15節「御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、…」、ここで止めます。1節に「大水の上にすわっている大淫婦へのさばき」と書かれていました。これがどういう意味なのか?その後にこのように教えています。「もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」とあります。ここで教えていることは、反キリストはこの全世界を、あらゆる民族、あらゆる国民、あらゆる国語を支配しているということです。この「女」もその支配の一端を担っているということです。最初に見た通り、バビロンはその悪い影響を全世界に及ぼしています。そして、特に、17章はバビロンのその宗教的な部分が記されています。バビロンは悪の教えをもって人々が決して真の神を信じないようにと働きます。宗教は人間が作ったものです。あらゆる宗教をもって人々を惑わし続けるのです。こうして世界を偽りのもとに留めています。そのような存在であると言います。
16節を見てください。「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。」、「十本の角」とは10人の王のことでした。この「角」である反キリストの帝国にあって、それを治める十人の王たちのことです。彼らは何をするのか?
「その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。」とあります。この16節が教えることは「この女を十人の王たちが滅ぼす」ということです。
1)淫婦を憎み :
2)彼女を荒廃させる :
恐らく、このバビロンは宗教を活用して大変な富を手に入れるのでしょう。というのは、18:17や19を見ると、「:17 あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった。…」、「:19…大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは。」とあります。反キリストと十人の王たちはそれを強奪しようとするのです。剥ぎ取ろうとするのです。「彼女を荒廃させる」とはそういうことです。
3)彼女を裸にし :
彼女の本当の姿を明らかにするということです。この女の道徳的な腐敗を明らかにするのです。恐らく、そうして人々の関心をこの女から、いろいろな宗教から自分の方へ向けようとするのでしょう。「あなたがたはそんな宗教を信じているけれど、それがどんなに汚れたものでどれ程真理に反したものなのか…」と、恐らくそのようなことばをもって人々の目を自分の方へ向けさせようとするのでしょう。
4)彼女の肉を食らい :
女を餌食にして食い尽くすということです。大変な表現が使われていますが、実は、ここで使われている比喩的表現は旧約聖書にも出ています。主がイゼベルに対して言われたことばを思い出しませんか?Ⅰ列王記21章に書かれていますが、21:23に「また、イゼベルについても【主】はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』」とあります。確かに、野犬は死体をも食い物にします。そういうことから、これはどういう意味をもっているのかと言うと、「別の人によって人が完全な破滅をすることを表す」表現です。だれかによって完全に滅ぼされてしまう、その表現として使われるのです。
ですから、この反キリストはバビロンに対して憎しみをもって、その富を奪い取って、バビロンの本当の姿を明らかにし、そして、このバビロンを滅ばしてしまうのです。
5)彼女を火で焼き尽くす :
最後に「彼女を火で焼き尽くすようになります。」とあります。完全な破滅のことです。
なぜ、こんなことをするのか?その理由が書かれています。17節の初めは「それは、」という接続詞で始まります。この接続詞はこのようなことの理由を表しているのです。なぜ、このようなことが起こっていくのか?そのことは残念ながら、今日見る時間がなくなってしまいました。次回、そのことを見ていきます。
今日のまとめとして皆さんにぜひ覚えていただきたいことは、私たちは今のこの世の中を見ていると、どんどん酷くなっています。私は先週の週末アメリカにいましたが、アメリカでは独立記念を祝う週末でした。金曜日の朝、シカゴのホテルでローカルニュースを見ようと思ってテレビをつけると、6時前でしたが、シカゴ空港が人でごった返している様子が映っていました。なぜなら、テロを警戒して通常以上に検査が厳しくなっています。いったいどこでテロが起こるのか?いったい何が起こるのか分からない時代です。どこに安全な場所があるというのでしょう?どこに行っても危険と隣り合わせです。
でも、私たちクリスチャンはこのような現状を見るときに、何が起こっているのかは分かっています。神が言われたようにその終わりが近づいています。神が言われたように、罪のさばきの日が近づいています。皆さん、どんなことがこれから起こって来ようとも、実は、そのことはこの17章18章に出て来ますが、この確信があります。「主はすべてのことを支配しておられる」と。この17章に記されていることは私たちにとっては非常に難解なことです。でも、みことばが私たちに明確に教えていることは、私たちに分かろうと分かるまいと、神はすべてのことをご自身の計画に基づいて為しておられるということです。
神を知らない人には、今のこの時勢を見ると不安が生じます。自分の将来だけではありません。家族や友人など、身の危険を感じるときにいろいろなことを案じます。しかし、私たちクリスチャンはそのすべてを支配しておられる神がいると、その約束に立つことができます。その神に信頼を置いて生きることができます。救われたことが感謝だと思いませんか?全能なる神がともにいてくださるということがどんなにすばらしいことか、改めて思いませんか?私たちはどんなことでもそれを持っていく場所があるのです。持っていくことのできるお方がおられるのです。全能の真の神です。その方が繰り返し教えておられるのは、世の中がどういう方向に進んで行こうとも「わたしはちゃんと分かっているから心配しなくてもいい!わたしは神だ!わたしはあなたの神だ!」です。
そのような祝福に私たちは招かれたのです。私たちが何かをしたからではなかった!神が一方的に私を名指しで呼んでくださったのです。神が私のような者を世界を造る前から選んでくださった。そして、私が失敗をしながらでも主に忠実に従っていけるように、私を生まれ変わらせてくださった。この救いをいただいたからです。あなたはその救いをいただいておられますか?間違いなく、この瞬間にあなたのいのちが絶たれたとしても、「確実に私は天国にいける」という確信をもって生きておられますか?私の友人がそう言ってくれているから、私の日曜学校の先生がそう言ってくれているから、教会の牧師がそう言ってくれている…、問題は、神がどう言っているか?です。神はあなたを喜んで天の御国に迎えてくださいますか?
本当に神はあなたを救ってくださいましたか?この質問にあなたは答えなければなりません。まだ、時間のあるうちに、この生を受けているこの間に…、なぜなら、この後には永遠があるからです。そのときに自分は救いをいただいていなかったことに気付いてももう手遅れです。救われた者として、この生まれ変わりを経験しているなら、そのすばらしい祝福をくださった神を、そして、この神によって与えられたすばらしい救いを語り続けてください。そのために、あなたは今日いるのです!!そのために神はこの日をくださっているのです。あなたの雑用のためではありません。もちろん、必要なことは山ほどあるでしょう。でも、一番大切なことは、神が与えてくださったこの日、主を誉め称えながら、感謝しながら主に従うことです。与えられているすべてのことを神のために為すことです。喜びをもって…。そのときに救われているあなたを神はお使いくださる。そのようにして私たちは生きるのです。
《考えてみましょう》
1.「召された者・選ばれた者」を説明してください。
2.「主に対して忠実に生きること」が救われていることの証拠であるのはどうしてでしょう?
3.今日の学びで学んだことを信仰の友と分かち合い、実践のために祈り合ってください。
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