Messenger: 和智忠昭
Passage: 創世記15:1-18
Listen: メッセージを聴く
Read: メッセージを読む
きょう、ひとつひとつの歌詞をよく見ながら賛美していますと、きょうのメッセージの中身と本当にぴったりで、神様がきょう賛美せよと言われた曲ではないかと思うぐらいでした。また、きょう読んでいただいた詩篇92:1ももう一度お読みしたいと思います。「【主】に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。」と、詩篇の作者はここで神様を「【主】」と呼び、また「いと高き方よ」と呼んでいます。後ほどメッセージの中でこのお名前が出て来ますので、その時に意味を説明させていただきます。
ところで、先日皆さんからいただいた献金を熊本益城町の熊本東キリスト聖書教会にお送りしました。そこの牧師の豊世先生に先日お電話をさせていただいたのですが、教会の方はほとんど使い物にならないぐらい地震で損なわれてだめになってしまったけれども、今は奥さまと娘さんと三人でアパート住まいをしていて、元気だということでした。雨が降り続き、川があふれたりしていて心配したのですが、大丈夫だったようです。集会はどうされていますかとお聞きしたら、今はそれぞれの信者の皆さんのご家庭で礼拝を持たせてもらっているということでした。皆さんにくれぐれもよろしくということでしたのでお知らせしたいと思います。熊本だけではありませんが、地震の後、想像もできないようなひどい大雨が続いていて、心配なことが多々あります。私たちはきょうも守られて礼拝を持つことができることを心から感謝したいと思います。
◎ これまでに学んだこと
きょうは旧約に見る神の救いのご計画の第8回目になります。何年かかかりましたが、今8回目に来ているということで、非常に感謝していますが、今まで学んだことを少し思い起こして行きたいと思います。一つは信仰による人々でした。アベル、エノク、そしてノア、アブラハムです。そして二つ目がアブラムへの祝福ということで神が示される地、大いなる国民とする。そしてあなたの名を大いなるものとする。また地上のすべての民族はあなたによって祝福されるということでした。
1.信仰による人々
この信仰による人々については、ヘブル人への手紙にすべて名前が載っているわけですが、私たちは今何を学んでいるかというと、旧約聖書を通して神様がいかに人類をお救いになろうという計画をされてきたかということです。新約聖書によれば、救いというのは世界の基の据えられる前から神様が計画されたことだとありますし、私たちは創世記3:15から最初の人間アダムとエバが罪を犯したにもかかわらず、この女のすえによって悪魔の頭を打ち砕くという神様の約束も聞いたわけです。
原始福音と言われるものですが、ちょうど望遠鏡を逆さまにして見たら遠く離れたところに目標のものが立っている。普通望遠鏡は遠くを見るのですが、私たちは逆に近くから遠くを見ると創世記3:15にたどり着くわけです。そこで神様はこの女から、ひとりの男の子をこの世に送ると約束してくださったことを見ることができるのです。
①アベル
まずアベルは、“義人アベル”と呼ばれ(マタイ23:35)、最初の殉教者と言われています。なぜ彼が義人アベルと呼ばれたのかというと、「羊の初子の中から」最良のものを捧げたと創世記4:4にあるとおり、彼は神様の前に最善のものを捧げることによって、どのようにして私たちが礼拝をすればよいか、また人がその罪を贖われるためには羊を犠牲として捧げ、動物の血が流されなければならないということを神様の前に証ししました。
② エノク
またエノクは神とともに歩み、死を見ないで天に挙げられました。その信仰は神に喜ばれたと、ヘブル人への手紙に記されています。これはまさに今私たちが黙示録で学んでいますように、やがてやって来る患難時代の直前に教会は空中に引き上げられる、そのことのひな型です。その時生きているクリスチャンは死なないで生きたまま挙げられる。エノクも同様に天に挙げられた。そのひとつの型を神様は私たちに教えてくださったということを見ることができます。
③ ノア
ノアは正しい人で、全き人であった。そして彼もエノクと同様神とともに歩んだと言われています。また主の心にかなっていたと聖書は言っています。Ⅱペテロによると、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えた、これがノアだったと言うのです。大雨を降らせるから、洪水を起こすから箱舟を作れと、見ていない事柄について神から警告を受けた時、神のことばに従った。それまでは雨も降ったことがなかったと思います。だから大雨が降ると言っても人々には理解できなかったけれども、神様のことばを受けて、彼と三人の息子、そしてそれぞれの奥さんたちは箱舟を作ったのです。そのことによって信仰による義を相続する者となったとヘブル11:7に記されています。
④ アブラハム
そしてアブラハムは、今はアブラムという名前で呼ばせていただいていますが、召しを受けた時、どこへ行くのかを知らないで出かけた。これが彼が信仰者としての所以であります。
2.アブラムへの祝福 創世記12:1-3
そしてアブラムへの祝福は、今も言いましたように、神が示される地へ行く先を知らずに出かけて行きました。そして、大いなる国民とするということです。あなたの名は大いなる者に、そしてすべての民族は祝福される。このようなことを私たちはこれまでに学んでまいりました。
Ⅰ アブラムの信仰 創世記15:1-6
創世記15:1-6をお読みしたいと思います。
:1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。
:4 すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
1.これらの出来事 1節
15:1の最初「これらの出来事の後」の「これらの出来事」というのは一体どんな出来事なのか――。思い起こしていただきたいのですが、前回、アブラハムが約束の地に向かって旅をしようとした時、彼は二つの過ちを犯しました。一つは約束の地、カナンの地を通り過ぎてエジプトへ行ってしまったことです。ききんがあったからです。私たちにとっては当たり前のように思えることであったとしても、神様が約束された土地にいれば、神様は彼を守られるはずでしたが、ききんのために彼はエジプトへ行くことを選択したのです。
もう一つ、エジプトへ行くために彼には一つの心配がありました。彼の65歳になる奥さん、サライが余りにも美しかったからです。だから彼はこのままエジプトへ行ったら、エジプトの王が妻を見て宮中に入れるかもしれないと考えました。もしも夫がいると言ったら、宮中に入れるために夫を殺そうとされては困るので、彼はサライに私の妹と言ってくれと頼みます。確かにお父さんは同じでお母さんが違う異母子でしたから妹であることは間違いなかったのですが、今はアブラムの妻なのです。だから本当はうそをついてはいけなかったのです。正しいようであっても、それはうそです。そしてそのことがエジプト王にわかって、彼らはまたカナンの地に戻って来ました。そういう二つの過ちを犯したことを私たちは学びました。
そういった出来事に加えて、この創世記14章に一つの出来事が起こります。14:14-16節を見てください。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。」とあります。14章では5つの連合王国と4つの連合王国との戦いがあり、アブラハムのおいのロトがソドムに住んでいました。そして、四国連合が五国連合と戦って勝ち、五国連合にいたソドムもゴモラも戦利品を取られ、ソドムに住んでいたロトは財産とともに連れ去られたのです。11節には「彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。」と記されています。
そして13節で、ひとりのヘブル人の逃亡者がアブラムのところに来てその出来事を告げました。アブラムは自分の親類がとりこになったことを聞いて「三百十八人」のしもべを連れて取り返しに行くわけです。15節「夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。」と、四国連合を追跡し、16節「そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。」という出来事があったわけです。
そして彼らが戻って来た時に、ヘブル人の有名な王が出て来るわけです。18節を見ると、「シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。」とあります。そしてアブラムを祝福して「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。」と言うわけです。先ほど詩篇でお読みした「いと高き方」、初めて神様のことをこのように言われているところがここです。
そしてこのメルキゼデクは、ヘブル人の手紙では大祭司イエス・キリストのひな型として出て来ます。生まれも育ちもわからない、突然名前が出て来る王様です。そして、20節、彼は「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」とアブラムに言います。そして、その後、ソドムの王がまたアブラムのところにやって来るわけです。22節を見ると、「アブラムはソドムの王に言った。『私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う」、アブラムにとって主は「天と地を造られた」創造主として出て来るわけです。「創造主である神」、「天地の造り主」というのはまた後日学ぶ17章に出て来ますが、このような表現でアブラムは神様のことをほめたたえたのです。
① 神の命令 1節
その出来事の後、ソドムの王とのやり取りで、「財産はあなたが取ってもいいから、人々は私に戻してください」とソドムの王が言いますが、アブラムは「いいえ、私は一切そのようなものは要りません。」と答えます。後でソドムの王から何を言われるかわからないという不安があったのかもしれません。だから「これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。」、なぜ神様がアブラムに次のことを言ったのか。考えていただくことができると思いますが、神様は「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。」と言われました。神様の命令はこの時「恐れるな」ということでした。
少し考えていただきたいのですが、私たちにも恐れはあります。いわゆる仏教で言う四苦八苦、何か困難なことをする時、四苦八苦すると言いますが、大変苦労するという意味です。「四苦」は四つの苦しみ――生(生きること)、老(歳を取ること)、病(病気になること)、死(死ぬこと)を言います。インドの釈迦国の王子であったゴーダマ・ブッダ、名前はシッタルダで、ブッダというのは悟りを開いた人という意味ですが、この人は29歳の時に出家します。城から出て町の中の様子を見ると、人々がいろいろな苦しみを持っている、どうしたらいいのだろうかと。そして楡の木の下で瞑想をするわけですが、そこで6年かかって悟りを開いたと言われています。
35歳の彼が得た解決、悟りの境地は、この人間にとってとても耐えられないような四つの大きな苦しみというのはどうしようもないものだ、極端な苦しみ、苦行に偏ってはいけない。その苦しみを乗り切るために自分が修行して、修行してそして頑張る精神を鍛える。あるいは極端な快楽に溺れない。苦しさから逃れるために正しいことをしてそしてそれを忘れよう、そういうことはしない。真ん中の道、中道を歩みなさい、そうしたら生老病死、四苦は乗り切れると教えたのです。これが悟りの境地です。涅槃の境地とも言います。釈迦国の王子でしたからお釈迦様と一般的に言われていますが、お釈迦様は人間の持つ苦しみについてこう人々に教えたのです。
さて、ここで神様はアブラムに「恐れるな」、神が盾、わたしが盾だからと言われた。リビングバイブルでは「心配することはない。わたしがおまえを守」ると、わかりやすいことばで表現しています。神様があなたを守るから心配するなと言われているのです。皆さんにも経済的な問題、子どもの教育の問題、老後の問題、病の問題と、心配事がいろいろあるかもしれない。人間関係の苦しみもそうです。隣の人としょっちゅうけんかしている。これも嫌なことです。
実は私も一つだけ心配事があります。それは3歳の孫のあかりに「じいじ、きらい」と言われることです。きらいと言われぬかと思っていつも心の中で心配しています。先日もこのようなことがありました。あかりを連れて教会学校のクラスへ行ったのですが、少し早く着いたのでだれもいない託児室であかりとふたりで仲良くおもちゃで遊んでいました。そこへお父さんがやって来たら、あかりに「じいじ、どっか行って」と言われました。少しショックでしたが、一応笑顔を作って「わかった」と言ったのですが、「どっか行ってはないやろ」と内心穏やかではありませんでした。ところが後で私のところにやって来て、耳元で「じいじ、だいすき」とささやくのです。
女心と秋の空、3歳なのに男心をもてあそぶのかと……(笑)。ニ、三日後に彼女に「一番大好きなのはだれ?」と聞いてみました。「じいじ」と言ってくれたらうれしかったのですが、「かあちゃんが一番好き、ちょっと怖いけど」と言いました。それはもう納得です。次は言ってくれるかなと思って「二番目は?」と尋ねると、「とうちゃん」。その後も聞いて行ったのですが、省略します。こんなささいなことでも人間は心が騒ぐことがあるということです。ましてや本当に人生、生活に直接かかわるようないろいろな問題があれば、それぞれが大きく心配する、恐れることがあると思います。
② アブラムの疑問 2-3節
しかし、神様はアブラムに「恐れるな」と言われた。アブラムは何を恐れていたのか――。先ほど言ったようないろいろな出来事から、彼の恐れが見えるのか――。そうではありませんでした。2節を見ると「アブラムは申し上げた。『神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。」、彼の心配事は実はここだったのです。
「私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。』:3 さらに、アブラムは、『ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるで
しょう』と申し上げた。」、これが彼の心配事でした。あなたは私を大いなる国民とすると言われました。国民ということは国があるということですから、私の子孫がふえて、繁栄して、国を構成するほどに人々がふえて行くことではないか、なのにまだ私とサライの間には子がありませんということでした。
③ 神の答え 4-5節
4節を見ると、「すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。『その者が」、家のしもべ、エリエゼルが「あなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。』」、不妊の女性でしたサライには65歳になっても子どもができなかった。夫であるアブラムは75歳、一般的に考えてももう子どもは無理です。なのにあなたは大いなる国民としようと言われるのですか――。いいえ、大丈夫だと神様は言われるのです。「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と。そして彼を外に連れ出し、5節「『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。……あなたの子孫はこのようになる。』」と言われたのです。
私たち星の数を数えることはできませんが、あのようになるというふうになったのです。13:16では「地のちりのように」なるとも言われています。神様の答えは明らかでした。確かに、はっきりとこのふたりの夫婦から直接子が生まれ、それがあなたの跡を継ぐと言われたのです。この「子孫」は、「種」ということばでした。これは単数形で言われています。あなたの子孫たちはと言われなかった。
創世記3:15でも女の「すえ」、これもおんなの「種」と言われました。ここでも単数形が用いられていました。3:15では冠詞がついていましたから、特別なひとりですが、その最初の原始福音と言われるところからずっとつながってきて、神様はアブラムに単数のあなたたちの子が生まれると言われたのです。私たちはこの子がだれであるかわかっています。イサクです。ところがさらにあの望遠鏡を逆に見ると、それがイエス・キリストであることを見ることができるのです。またこれは後ほど学びます。はるか彼方に救い主キリストを見ているということを教えています。
2.アブラムの信仰 6節
① 信じた:信仰に関する最初の言及
6節に「彼は【主】を信じた。」とあります。この「信じた」ということばは、最初の信仰に関することばでした。旧約聖書で初めて出て来たところです。ヘブル語でエムーナと言います。ことばの意味は「忠実」ということです。これはハバクク2:4に「正しい人はその信仰によって生きる」と「信仰」ということばで出て来ます。「信じ」るということばは、アブラムがここで初めて使いました。
約束を守られる「【主】を信じた」ということです。先ほどから「天と地を造られた方」、「いと高き神」、「【主】」というふうにアブラムは神様を呼びます。創世記2:4では初めて「神である【主】」というお名前が出て来ますが、私たちはこのお名前が天地創造主であることをよく知っています。まだアブラムにはそのことばの意味はわかりませんでしたが、彼は「天と地を造られた方」、「いと高き神」、「【主】」と、ここで言うことができたのです。
「【主】」ということばの意味は出エジプト3章でモーセが初めてその意味を神様から直接教えられるということですから、この時アブラムはその意味を知らなかったけれども、天と地を創造された方がおられるということを認識していたというわけです。
また「信じた」ということばは、ヘブル語にウェヘエミンということばがありますが、これはアーメンということばの語源の派生語と言われています。アーメンというのは「真実です、そのとおりです」を意味していると私たちは学んでいますが、神様と神様のことばとを無条件に信頼した、これがアブラハムの信仰でした。
② 義と認めた
「主はそれを彼の義と認められた。」の「と」は前置詞が使われています。エイスということばですが、「~に」とか「~へ」とか、だから信仰に至る手段というものに導くと言うのです。その手段が信仰だという意味ですが、「義と認め」た、認めるということばが神の権威によって承認されると。ここもリビングバイブルには「正しい者とみなし」たとあります。「義と認め」るということは、「みな」されるということばと同じだと。罪ある者が罪がないかのように「みな」されるということです。
アダムから入った罪は全人類に及んで、もちろん先ほど学んだ信仰の先人たち、ノアもエノクもひとりひとり全部罪人です。だから例外なくアブラムも罪人でした。でも彼は「義と認められた」というのは、罪はあったけれども、罪がないかのように「みな」されたと。神様のことばを信じることによって、神様を信じることによって罪がない者であるかのように神様は見てくださったと聖書は教えるのです。義人であるというのではなくて、義人であると宣告されたと、法律的に無罪と宣告されたということです。本当は罪があるけれども、裁判で無罪と宣告されたということが時々あります。もうこのことは取り返しがつかないから、改めてその罪を問うて有罪にすることはできないというのが今の裁判制度でもあるようですが、神様は罪ある者を無罪と宣言されたというわけです。
③ 義認の結果
・ すべての罪の赦しと神との和解
この結果、神との和解が与えられ、すべての罪が赦されると言うのです。過去も現在も未来も私たちの罪はすべて赦される。そして罪があれば当然その罪に対するさばきがありますけれども、そのさばきからも赦される神との和解があると。コロサイ1:19-20に「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。」と書いてあります。ここではイエス・キリストの「十字架の血によって」と記されていますが、万物を和解させてくださった、そのことがアブラムになされたというわけです。
・ 義人としての祝福
義人としての祝福は世界の相続人となること、また永遠のいのちです。ローマ6:23に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。永遠のいのちが私たちに神様からの賜物として与えられているのです。世界の相続人、私たちが世界を相続するということはありませんし、ユダヤ人たちが今は人口1400万か1500万が全世界を相続するというわけでもありません。今黙示録で学んでいるように、7年間の患難時代が終わった後に千年王国がやって来る。イエス・キリストが王として、そしてクリスチャンたちがキリストとともにこの千年王国を治めるわけですが、そこにイスラエルの人たちが神様によって王国民として世界を引き継ぐことができるということがあります。そういうことに私たちは思いをはせることができるのですが、世界の相続人としてアブラムも約束されているというわけです。
Ⅱ.契約のしるし 15:7‐18
1.主なる神 7-8節
さて、アブラムはこのことばを聞きました。7節「また彼に仰せられた。『わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した【主】である。』」、そうです、主を信じたのです。8節「彼は申し上げた。『神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。』」、この地が私の所有であることをどのようにして知ることができるでしょう。ここでは彼は小さな「主」を使っています。「神、【主】よ。」、「エローヒム、ヤハウェ」という、普通は大きなゴシック体になるのですが、ここでは「エローヒム、アドナイ」ということばが使われています。ことばの意味はほとんど同じですが、いずれにしてもアブラムは絶対的な神として神様のことを理解していたということを見ることができます。
2.契約のしるし 9-17節
どうしたらわかるのでしょうかというアブラムの問いに対して神様が言われたのは次のことです。9-11節「『わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。』 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。」とあります。神様は私はこのような神だと言われ、そのしるしはこうだと。当時、そのような習慣があったようです。動物のからだを真っ二つに切り裂いて、そこには動物の血が流れる。「死体」とありましたが、当然二つに裂かれたらどんな動物でも死んでしまいます。いのちが犠牲となったということを見ることができます。
3歳ということばには余り意味がないと思います。これは動物がもう大きくなった、牛で言えば成牛を意味しているのではないかと考えられます。そういった動物を連れて来てほふったということをここで言っているわけです。このようにせよと神様は言われたのです。当時の習慣にもそのようなことがありました。アブラムはそのとおりにしました。なぜ鳥を切り裂かなかったのかはわかりませんけれども、その動物たちが死んだ証拠を「猛禽がその死体の上に降りて来た」と見ることができます。実際見ることは余りありませんが、砂漠でハゲタカが輪を描いて飛んでいるとその下に動物の死体があるとかいうのがありますが、その証拠です。
そして12節、彼に深い眠気が襲います。「深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」、その恐怖がいかなるものかはわかりませんが、「暗黒の恐怖」だから恐らく何が起こるがわからないという緊張感がいっぱいあったのだと思います。眠くなったけれども、何が起こるのだろうと。牛、羊、やぎの二つに裂かれた死骸が置かれています。当時の習慣では、この間を契約する当事者同士が通るわけです。AさんとBさんが契約すれば、ふたりはこの間を通り、もしもこの契約に違反したならば、この動物と同じようにいのちを絶たれる。それが契約のしるしです。両者が合意してそこを通るわけです。
ところがアブラムは寝ていたのです。ここを通ったのは神様だけでした。17-18節を見ると、「日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」、日は沈んで暗やみになった時、神様の顕現である「煙の立つかまど」、一体それが何か私たちにはわかりませんし、「燃えているたいまつ」、これも想像はできますけれども、わからないです。
神様ご自身、目に見えない方が通っても私たちにはわかりませんが、神様の顕現であるこの「たいまつ」と「かまど」、火が燃えているのが通って行くのを見ることはできますよね。アブラムはもちろん寝ていましたから見ることはできませんでしたが、本来はアブラムも一緒に行かなければいけなかったのに神様は彼を眠らせてくださったのです。それはこの契約に関して言えば、アブラムには一切責任がない、神様が責任を取ってくださるということを教えています。「契約を結」ぶの「結ぶ」というのは、ヘブル語でカーラスということばが使われています。本来の意味は「切る」という意味です。だから「契約を結」ぶ時、動物を切り裂いて、当事者がその間を通って行くという、そういうことばが用いられているわけです。
3.契約の確認 18節
このようにして神様は人を祝福されて、何の功績もないのにこの約束を果たされようというわけです。アブラム自身は何の功績もなかった。神様の前にすばらしい信仰はありましたか?いいえ、カナンの地へ行けと言われたのにウルから出て途中で立ち寄ってカナンにすぐ行きませんでした。そしてカナンまで来ても通り過ぎて、ききんを恐れてエジプトへ行ってしまうような者でした。奥さんのことを妹だと言ってうそをついた。でも神様はこのアブラムを召されたのです。なぜかわからないけれども。神様はこのようにして私たちの救いのために特別な人物を召されました。アベルもエノクもノアも彼らそれぞれは神様によってその信仰を義とされた者ですけれども、彼らの信仰が私たちに直接関係するものは何もありませんでした。でもアブラハムの信仰は私たちにとって大きな関係があるとともに、アブラハムのひとりの子孫を通して神様が救い主を与えられると聖書は教えているのであります。
Ⅲ.新約聖書の説き明かし
1. ひとりの子孫=キリスト (ガラテヤ3:16、創世記17:7)
ガラテヤ3:16でこのように言っています。「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです。」、申し上げましたように「子孫」、「すえ」ということばです。「種」ということばが使われています。一義的にはイサクですが、遠いその先にイエス・キリストを見ているのは明らかです。マタイ1:1のアブラハムの系図を見てもそうです。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」と書いてあります。新約聖書でははっきりとそのことを理解することができます。
2.私たちも信仰によって義と認められる。 (ローマ4:20-22、3:28、5:1、ガラテヤ3:6)
そして私たちもアブラハムと同様にその信仰によって義と認められ、決して行ないによるのではないということを教えています。ローマ4:20-22「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」とパウロは言うわけです。詳訳聖書では「義とみなされた」というところを「目的、思想、行為において神の意志と一致している。」と言っています。だからみなされたのだというわけです。そのように教えているということを言っているわけです。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる」、ヘブル11:1でこのように言っています。「望んでいる事がら」、アブラムの望みは自分の子どもでした。子孫、男の子を渇望していたわけです。まだ今はないけれども、必ず神様がその約束を実行される。実際にそのことが実現するのは彼が100歳の時です。75歳から出て今何歳になっているかわかりませんけれども、大分先の話ですが彼は確信したわけです。
ローマ4:24には「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」、イエス・キリストが十字架に架かって死なれたけれども、三日目によみがえられた、神がそのことをなされたことを信じる私たちもその信仰を義とみなされると言うのです。私たちがよい行ないをするから、私たちがいつもよいことばかり考えるから、いい心の持ち主だから、善意善行の持ち主だから、人には優しいし、態度は穏やかだし、本当に尊敬できるから救われる。違います。聖書はそう言っていません。私たちは本質的には罪人なのです。罪がある。神様はそのような心や行ないを見て、判断されるのではありません。
アダムは罪を犯しました。けれども、彼は即座に死を迎えることはありませんでした。なぜならアダムとエバがいなければイエス・キリストは生まれなかった、ある意味では。だから神様は恵みのお方なのです。アダムとエバを生かされて、そして人類をふやされた。でも途中でノアの箱舟の時が来ます。ノアの家族以外全人類が滅ぼされるわけです。神様はひどい方でしょうか、いいえ。神様は罪を受け入れられない方です。人を造ったことを悔やまれた。でも後々アブラハムに約束される、そのこと。そして多くの人類を救われるために、神様はある人たちを残されて行くということを見ることができます。25節には「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と続きます。
3.信仰による人々こそアブラハムの子孫(ガラテヤ3:7)
また、ガラテヤ3:7では「信仰による人々こそアブラハムの子孫」ですと言っています。ローマ4:16では「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく(イスラエル民族です)、アブラハムの信仰にならう人々にも保証される」というわけです。これは恵みによるのだと。「アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」、アブラハムが信仰の父と呼ばれる所以です。アブラムは多くの人々の父、あるいは高貴な父と言われましたが、今私たちはアブラハムを信仰の父であると呼んでいるわけです。
4.人が義と認められるのは恵みによる。(ローマ3:24、テトス3:7)
最後に人が義と認められるのは恵みによる。ローマ3:24に「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」と。詳訳聖書では「義と認め」るというのは「正しい者として受け入れる。」と訳されています。ただただ神の恵みによると。もう一つ「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」よると。それによって「価なしに」、私たちが直接に代価を払うことなしに。神様が求められる代価はイエス・キリストのいのちです。だから私たちは代価を払わなかった。神様が代価を払ってくださった。だから私たちには「価なしに」、そのことによって「義と認められる」と聖書は教えています。
終わりに:
義認というのは人間の神に対する関係または神様の前における立場の変化です。罪人には違いないけれども、神様が正しい者とみなしてくださったから、今信じる私たちは神様の前に出て正しい者とみなされているのです。だからイエス・キリストを信じない人たちには立場の変化はありませんから、義と認められることはないと教えられているわけです。また神が私たちの盾であることを感謝しましょう。私があなたを守ると言われている神様、いかなることも恐れないで信仰の道を歩みましょうと。そして歴史の始まった時以来、ただただ恵みによって神様が私たちを救ってくださることを感謝したいと思います。
また私たちが自分たちで感謝するだけではなくて、確かにこのことを知らない方が大勢おられます。あのゴータマ・ブッダがそうであったように、自分の力で何とか人生を切り開いて行く、苦しみを乗り越えて行く、そういう考え方はいっぱいあります。自分の力で修行して切り開いて行かなくても、何か寄りかかるところがあれば、それに頼っていけばいい。商売が苦しくなった。では商売繁盛の神様、西宮戎に行きましょうか。
交通安全、交通事故に遭わないようにお祓いしてもらって、前にお守りぶらさげておきましょうか。邪魔になってかえって事故が起こります。家内安全、病気に罹らないように行って拝んだら病気にならないでしょうか?一般に人々は解決の道をそういうところに求めて行きます。そこに本当の解決の道はないことを私たちはよく知っていますから、まだ知らない方にそのことを伝えてあげたいと本当に願って、この一週間も歩んでいただきたいと思います。もう何回も聞いているからもう要らぬと言われることが恐らくあるかと思います。そう言われたらその時は言わないでおきましょう。いつか神様がその機会を備えてくださることを願いつつ、このアブラムのように神様の約束を信じて歩んで行きたいと思います。
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