Messenger: 土井義広
Passage: Ⅱペテロ1:20-21他
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2016/06/19 礼拝メッセージ 土井義広 牧師(八田西キリスト教会)
主 題:みことばの重要性
聖書個所:ペテロの手紙第二 1章20-21節 他
実は、この春で、私がこの教会から八田西キリスト教会(当時は「いのちの泉キリスト教会」でしたが)へ遣わされて10年になります。最初の2年間は「兼牧」という形だったので、正式にはまだ10年経っていないのですが、この間、近藤先生を初め、浜寺聖書教会の皆さんの私へのご指導と温かいお交わりを感謝します。また、八田西キリスト教会をサポートしてくださっていますこと、そして、今日はこうして礼拝にお招きいただき心から感謝いたします。
命題:なぜ、私たちは聖書のみことばを学ぶ(解釈する)のか?
実は、最近、SNSやインターネットを通していろいろな牧師先生のメッセージを聞く機会があったのですが、そこで驚かされたことは「多くの教会で聖書のみことばが正しく語られていない」という現実です。このことは、先日の女性会でも証したことですが、例えば、ある教会では「君は愛されるために生まれた!」というテーマで礼拝がささげられていました。「君は愛されるために生まれた」という有名なゴスペルソングも賛美されて、もう「君は愛されるために生まれた」という一色の礼拝がささげられていたのです。でも、一番肝心なこと、いったい、聖書のどこに、あるいは、聖書のどの箇所をどのように解釈すれば、そういう理解になるのか?ということに関しては一切語られていませんでした。
「君は愛されるために生まれた!」というテーマは聖書にそぐわない、聖書的なメッセージではないと私は思っています。それを言うなら「君は愛するために生まれた!」と言うべきではないでしょうか?
その他にも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」というイザヤ43:4のみことばも、前後関係や語られている対象や意図を一切無視して、よく伝道集会などで用いられています。確かに、多くの場面で聖書のみことばが引用されてはいますが、それが正しく理解されず、正しく解き明かされていないと残念に思っています。
そこで、今日は、ぜひ、皆さんとごいっしょに、「どうして私たちは聖書のみことばを学ぶ(解釈する)のか?」というテーマで、聖書のみことばを幾つか観察していきたいと思います。そうすることによって、私たちが益々聖書のみことばのすばらしさに気づくことができ、また、このみことばによって強められ成長させられていくことを願います。
先ず、今日のメッセージの中心聖句であるⅡペテロ1:20-21を読みます。
「:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
Ⅰ.聖書が神からのおことばだから!
私たちが、聖書のみことばを学ぶ理由の一番目、それは、聖書が神からの「おことば」だからです。今、私たちが手にしている聖書のみことばは、すべてを造られた唯一真の造り主であられる神が、私たちに書き記してくださった「たった一つの尊い書物」です。だから、私たちは聖書のみことばを学ばなければならないのです。先ずは、そのことを見ていきたいと思います。
●聖書以外に、真の神からのメッセージはない!
このみことばには、私たちが「聖書」という書物に関して論じるに当たって絶対に無視できないことが教えられています。私たちが今手にしている聖書の「本当の著者(隠れた作者)」について教えてくれているからです。21節に「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだから…」とあります。このみことばは、確かに、イエスの十二弟子の一人であった使徒ペテロが書き残したものです。また、聖書の中には、使徒パウロが書き残したものや取税人であったマタイが書いた福音書、医者ルカが書き記した福音書などがあります。確かに、それらはみな、これらの著者が書き記したものですが、ペテロやパウロの背後に居て彼らを動かしていた本当の著者は「聖霊なる神」だと言うのです。
いかがでしょう、皆さん?聖書の他にこのような不思議な書物があるでしょうか?神が私たち人間に書き送ってくれた書物…。聖書の中には、神が直接語られたみことばや様々な教え、また、慰めや励ましのことば、あるときはだれかを叱られた、そのことばまで克明に記されています。果たして、聖書の他に、このような神からのメッセージがはっきりと記された書物があるでしょうか?ありません。だから、聖書という書物は特別なのです。
もう一箇所、聖書を語る上で絶対に外せないみことばがあります。それはⅡテモテ3:16です。そ
こではこのように語られています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」。ここでも、聖書に記されていることばはみな「神の霊感による」ということが教えられています。ここで「神の霊感」と訳されていることばは、「神の息吹(あるいは、息)が吹き込まれた」とも訳されることばです。
皆さんもご存じの通り、創世記2章で、神が土地のちりでアダムを形造られた時、神が「…その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)とあります。その時、初めて、アダムは生き物となりました。その前はただの土塊に過ぎなかった、まるで、粘土細工の人形のようなものであった存在に、神がいのちの息を吹き込まれて「いのち」が与えられたのです。つまり、神からの導きがあって、ペテロやパウロたちが動かされて、彼らは神のおことばを書き記したのです!
●私的解釈(自分の好き勝手な解釈)をしてはならない!
ですから、今日のみことばで使徒ペテロはこのように教えます。「…聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない。」と。聖書のみことばはみな、それこそ、創世記の初めから黙示録の終わりに至るまで、神のみことばであり神からの尊いメッセージです。だから、私たちはそのメッセージを重く受け取るべきで、決して、自分の好き勝手な解釈、つまり、いい加減な理解をしてはいけないと、はっきり禁じているのです。
その理由について、使徒ペテロはこのように教えています。今日のみことばの少し後、Ⅱペテロ3:15-16をご覧ください。「:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。:16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」、ここで使徒ペテロはパウロの書いた手紙について論じていますが、パウロはその手紙を「与えられた知恵に従って書き送った」と記しています。でも、いったいだれがパウロに知恵を与えたのでしょう?それは「真唯一の神」です。
ですから、16節の後半には「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とあります。聖書のみことばを軽んじるような者たちは、パウロの書いた手紙も聖書全体もそうですが、それらを曲解(好き勝手に解釈)して、自分自身に滅びを招いてしまうと言っています。皆さん、聖書のみことばの理解は、私たちの永遠をも左右してしまうほどの大きな違いを生んでしまう大事(おおごと)なのです。だから、私たちは決して、自分の好き勝手に、あるいは、いい加減な聖書解釈をしないように十二分に気を付けて学んでいかなければいけないのです。
●間違った聖書理解(聖書解釈)の実例
でも、実際には、教会の中で間違った聖書理解がまかり通ってしまっているというのが現状ではないでしょうか?例えば、皆さんはこんなことをお聞きになったことがないでしょうか?教会の中で、だれかがだれかの罪や問題点を指摘すると、もちろん、愛をもってですが…、「聖書には『さばいてはいけません!さばかれないためです。』と教えられています。クリスチャンが人をさばくことはおかしいと思います。同じ罪人なのに…」と言って、その問題点、罪を正そうとしない傾向がありませんか?実際、私はこのようなことを何度かインターネット上のメッセージでも聴いたことがあります。
もちろん、むやみやたらに人を批判したり攻撃することが良いと言うのではありません。でも、聖書のみことばは、時と場合によっては、クリスチャンが同じクリスチャンのことをさばく必要があるということを教えています。マタイ18:15に「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」とあります。 もし、その兄弟が罪を悔い改めることがなかったら私たちはどうするべきですか?私たちは、教会全体としてイエスの教えに従うゆえに、その兄弟のことを「…異邦人か取税人のように扱いなさい。」(17節)とあるように、その兄弟との交わりを絶つべきです。
ですから、「さばいてはいけません」ということばは、確かに、聖書のみことばではあっても、正しい聖書の理解ではありません。そのことを確認していきたいと思います。
・マタイ7:1-5 : 「:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」、確かに、このみことばには「さばいてはいけません。さばかれないためです。」
ということばが記されています。しかし、ここの文脈ではそのことを教えているでしょうか?よく読んみるなら、そうではないことがすぐ分かります。ここでイエスは一切のさばきを禁じているのではなく、特定の者たちが行なうある特定のさばきを禁じているのです。今、「特定の者たち」と言いましたが、ここで、イエスは「偽善者よ」と呼びかけておられます。そうです。イエスはここのみことばを特に偽善者たち(当時のパリサイ人や律法学者たち)に向かって語っておられるのです。というのは、彼らが自分の目には大きな梁、つまり、大きな罪や問題があるのに、それには目を留めようとせずに、他の人にあるちっぽけなちり、小さな罪や問題を指摘するからです。自分の大きな罪のことは棚上げにしておいて他人の小さな罪や問題に関しては大きく取り上げようとする…、そのような不公平なさばきをしてはならないということを、イエスは教えておられるわけです。ですから、ここの文脈で私たちが覚えておくべきみことばは、5節にある「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」というみことばです。この段落の正しい理解、解釈は「各自、間違ったさばきをしないように気を付けなさい。まずは、自分の身をしっかり正して、その上で、他の人の問題点や罪を愛をもって指摘してあげられるようになっていきなさい。」ということではないでしょうか?
正直、このことはここの段落を読むだけで簡単に分かります。でも実際は、こんな簡単なことさえも理解できていないために、聖書には「さばいてはいけません」というイエスのことばが書かれてあるから、私たちクリスチャンはだれのことをもさばいてはいけないのだ、というような理解が多くのクリスチャンたちにはびこってしまっている場合があります。実際、私も、ある時に、聖書学校を卒業されて、普通のクリスチャンよりも聖書的な知識を持っているはずの方から「クリスチャンはいかなる場合も人をさばくべきではない!」という指摘をされたことがあります。それが、現実なのです。
・Ⅰコリント5:1-6 : 「:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」、このみことばはかなり以前に学んだことがあると思います。
この当時、コリントの教会ではある問題が起こっておりました。それは、自分の父親の妻、つまり、自分の義理の母親を自分の妻にするという問題でした。実は、この当時、コリントの町全体は、いわゆる、性的な不品行の罪で知られていました。つまり、町中がみだらな罪で溢れていたのです。余りの罪のゆえに、当時は「コリントする…」というように町の名前を動詞のように扱った言い回しがあったほどです。コリントという町の名前が不品行の罪を表わすほどでした。つまり、それほど、コリントの町には不品行がはびこっていたのです。しかし、ここのみことばが教えていることは、そのようなコリントの町でさえ聞いたことのないような罪が教会の中で行われている。教会にあって、その罪がさばかれないで放っておかれている、なおざりにされていると、そのことを、パウロは嘆き、非難しているのです。
この、「コリント人への手紙第一」が書かれた時、パウロはエペソの町におりました。エペソとコリントとは歩いて移動すると片道1000キロも離れているような距離にありました。そんな遠くにいたパウロでしたから、簡単に移動することはできません。パウロは、たとえ物理的に遠く離れてはいても「私の心はコリント教会のメンバーとともにある」と言って、その罪を犯した者を「主イエスの御名によってさばいた。」と言うのです。「主イエスの御名によってさばく」とは、そのさばくという行為が主イエスのみこころに沿っていること、イエスが喜んでくださることという意味です。そのことをしたパウロの意図は5節にあるように「それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」でした。つまりパウロは、罪を犯した兄弟を戒めることこそが、その者を、たとえ、一時的に傷つけることになったとしても、最後には、彼が救われるための最善の策であるということを主にあって確信していたのです。
Ⅰテモテ5:20でもこのように教えられています。「罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。」と。罪を犯している兄弟姉妹を正しく戒め、その問題を正してあげることが、当時のコリント教会がなすべきことであったのです。
●正しい聖書解釈はただ一つあるのみ
そのことと関連して、正しい聖書の理解、聖書解釈の原則について、もう少し考えてみたいと思いま
す。Ⅰコリント5:9-13をご覧ください。「:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。:10 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。
あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」、ここのみことばから分かることは、実は、パウロはこの「コリント人への手紙第一」の前にも最低1通の手紙をコリント教会へ書き送っていたということです。しかし、その手紙でパウロの書いた内容を、当時のコリント教会は正しく理解することができませんでした。そこでパウロは、そのことをもう少し詳しく説明する必要を感じて、このみことばを書き記したわけです。
前に送った手紙の中で、パウロが本当に伝えたかった内容は11節以降にあるように、「私が書いたことのほんとうの意味は、…」ということで、汲み取るべき正しい解釈があると続いて記しています。つまり、パウロが本当に伝えたかったことは「不品行な者たちと一切の交わりを持ってはならない」ということではなく、「教会の中にいるクリスチャンたちの中で不品行な者がいるなら、その者たちのことを教会から除きなさい。さばきなさい。」ということだったのです。ちょうど、先ほど見たマタイ18章でイエスが「教会の中である兄弟が罪を犯していて、その罪を指摘されてもそれを悔い改めようとしない者がいるなら、その者を異邦人か取税人のように扱いなさい。」、つまり、教会との交わりを絶ちなさいと教えられていたのと同じことです。パウロも、コリント教会のメンバーに対してそのように指摘しているのです。
しかし、残念なことに、当時のコリント教会はパウロの意図を十分に理解できていなかったゆえに、罪を犯した兄弟をそのまま受け入れることが正しいことであると勘違いをしていました。そのために、当時のコリント教会は「キリストのからだ」としての証を失ってしまい、教会のメンバーが罪を憎む機会を逸してしまったのです。つまり、間違った聖書理解が、間違った適用を生み、そのために神の栄光が汚されてしまったと言えるのではないでしょうか?
このように、私たちが聖書を解釈する時は、それが、たとえ話や預言などの場合を除いて、その内容が真剣で真実に沿ったものであればあるほど、その解釈の幅は狭められます。言い換えるなら、聖書の正しい解釈はいくつもあるのではありません。「ただひとつだけ」です。たとえば、私たちがだれかに「神を信じて欲しい!」と思った時、その「神」ということばが何を指すのかは明確であるはずです。しかし、「神」ということばを国語辞典で見ると、それは「人間に危害を加えるような悪魔的な存在を指す」場合もあれば、「天皇陛下」、または、雷を指す場合もあります。また、最近では、神がかったような、特別なテクニックを持った人物のことを「~の神」などと表現する場合もあります。
でも、私たちクリスチャンが「神様」と言った場合、それは間違いなく、天地万物を造られた唯一真の神だけを指します。「神」という名が付いていれば、どんな神を信じても良い、というものでは決してないはずです。また、私たちが「信じる」と言った場合も、その意味するところは、一般の方たちが口にする意味合いとはかなり違うのではないでしょうか?そのように、聖書のみことばが意味する正しい内容は「一つだけ」、つまり、聖書の正しい解釈は一つしかないのです。
ですから、今日のみことばは、私たちに対して「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない。」、つまり、自分の好き勝手な理解をしてはいけない、正しい解釈だけをしなければならない、ということを教えるのです。というのは、聖書のみことばには、私たちが伝えるべき「本当の正しい意味」があるからです。本当の意味、つまり、正しい解釈と正しい理解には私たちの永遠を左右するほど重要な教えだからです。皆さん、神は私たちが知っても知らなくても良いような、どうでも良いような内容を聖書のみことばを通して教えているのではありません。そこには明確な指示や指摘や教えがあるわけで、それを私たちは決していい加減に扱ってはならないのです。
Ⅱ.聖書のみことばは、私たちに祝福をもたらすから!
「どうして私たちは聖書のみことばを学ぶのか?」、その二番目の理由は、この聖書のみことばが私たちに「祝福」をもたらしてくれるからです。この聖書のみことばは、私たちのことを何よりも愛してくださった神からのメッセージです。それゆえに、私たちがこのみことばを真剣に学ぼうとするとき、その人には神からの祝福が与えられるのです。そのことを確認していきたいと思います。
●みことばは私たちに「救い」をもたらす
Ⅱテモテ3:12-17をご覧ください。「:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う
者はみな、迫害を受けます。:13 しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」、この箇所のみことばは、先ほども引用した16節が含まれていて、そこには「…聖書はすべて、神の霊感によるもので、…」と、はっきり記されています。だから、聖書のみことばは私たちにとって有益なのです。
でも、その前の15節に注目してください。そこには、当時、エペソで牧会をしていたテモテに対してこのように記されています。「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」と。
先に見たように、この聖書の教えやその理解は私たちの永遠を左右します。聖書の教えを私たちが理解し、それを信じるかどうか受け入れるかどうかで、その人が救われるかどうかが決まります。皆さん、憶えておられますか?先程見たⅡペテロ3:15-16をもう一度見ましょう。「:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。:16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」、皆さん、聖書のみことばは、私たちに神からのメッセージを明確に伝えてくれています。でも、神からのメッセージは、それゆえに厳しく、時には、残酷な選択を私たちに迫ることもあり得ます。聖書からのメッセージを正しく理解し、それを正しく受け入れた者たちに与えられる祝福は「救い」です。罪のさばきからの救い、罪の力、罪の支配からの救いが救われた者たちに与えられる祝福です。
しかし、神からのメッセージを真剣に聞くことをしないで、また、それを正しく受け入れなかった者たちに訪れるのは「滅び」であり、永遠のさばきです。だから、ここのみことばも私たちに警告を発しているのです。「聖書のみことばを曲解してはならない」と…。聖書のみことばを聞き、それをどのように判断するかがその人の永遠を左右する大きな分岐点となるのです。
たとえば、私たちがよく知っているローマ10:9-17にもこのように記されています。「:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」。
最後の17節には、信仰は何から始まると教えられていますか?「聞くことから」ですね。そしてまた、「聞くことは、キリストについてのみことばによる」と記されています。私たちは皆、この聖書のみことばを聞くことによって、そのみことばの中の救い主であるキリストについてのみことばを理解し、そのキリストを信じ受け入れることによって救われたのです。私たちの中で、だれ一人、生まれながらに救われていた者などおりません。たとえ、クリスチャンホームに生まれていても、生まれる前から教会に通っていたとしても…です。たとえ、教会に多額の献金をして、教会に多くの奉仕をして貢献したとしてもそれで救われることなど有り得ません。私たちが救われるためには、聖書のみことば、特に、キリストについての正しい理解というものを外すことは決してできません。だから、私たちには聖書のみことばが必要なのです。
●みことばは私たちに「霊的成長」をもたらす
聖書のみことばは、私たちに「救い」をもたらしてくれるだけでなく「霊的成長」ももたらしてくれます。たとえば、先程引用したⅡテモテ3:16-17で、聖書のみことばは神の霊感(神の息吹)による、神の助けと導きによって書かれたゆえに「教えと戒めと矯正と義の訓練」とのために有益である!と教えられました。これらのことをひとまとめにするなら「霊的成長」です。だから、17節で「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあるのです。つまり、私たちが神の働きをするに当たって、十分に整えられた者となるために必要なものは、聖書の学びだけであって、聖書の正しい理解やみことばに対する純粋な思いこそが必要なのです。
また、Ⅰペテロ2:2もご覧ください。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と、このみことばも聖書のみことばの重要性について教えています。でも、皆さん、このみことばどうして大事なことを言うのに、このようなたとえを使って説明していると思いますか?「純粋な、みことばを慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」でいいと思いますが…。
実は、ここでたとえを使っている理由を私はこう考えています。それは、聖書のみことばが私たちにとっていかに重要であるかを分かりやすく説明するためだと…。ここでペテロは、聖書のことを「みことばの乳」と言って「ミルク」にたとえています。もしも、みことばを何かの食べ物にたとえるだけならミルクでなくても良かったはずですが、ペテロは恐らく、ここで、私たちクリスチャンのことを「生まれたばかりの乳飲み子」にたとえたかったのです。というのは、私たちの成長に必要なものは聖書のみことば以外にない!ということを訴えたかったからです。「生まれたばかりの乳飲み子」は何によって成長しますか?母親の乳です。それだけが成長できる唯一の食べ物です。そのことをペテロはここで教えたかったのでしょう。
「生まれたばかりの」というのは、この当時に救われたクリスチャンたちが皆、救われて間もないというように解釈することもできますが、それであっても言わんとすることは同じです。当時のクリスチャンたちが成長していくために必要であったのは、混じり気のない「純粋なみことば」だけだったのです。確かに、苦難や試練が用いられて私たちが成長させられていくことも有り得ます。でも、それも、聖書のみことばがあってこそです。だから、私たちクリスチャンには聖書のみことばが必要なのです。
●現代における、キリスト教会の問題点
しかし、現代のキリスト教会では、実に、残念な傾向があります。それは、聖書のみことばを正しく伝えるべき説教者が、あるいは、牧師たちが聖書を間違って解釈していること、そして、そのことに気付いていないことです。いわば、聖書のみことばに私的解釈を施してそれを広めてしまっているのです。その良い例が、先程見た「さばいてはいけません」というみことばです。いったい、どれほどの牧師たちがこのことばをそのまま表面的に受け取って「クリスチャンはいかなる場合も人をさばいてはいけない」という教えを広めてしまっているでしょう?
もう一つ、今、多くの教会で間違った教えが言い広められてしまっているのは、イザヤ書43:4の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」というみことばです。今、このみことばほど多くの教会で間違った理解がされ、そのせいで、余り聖書的でない影響を及ぼしてしまっていることはないのではないでしょうか?多くの教会では、このことばをもって、未信者の方たちに対して、「神はあなたのことを高価で尊い!とおっしゃってくださっています!神はあなたに本当の価値を見出して、そのためにイエス様を遣わしてくださったのです!神様はあなたを愛しておられます!どうか、早く、真の神様を信じ受け入れてください!」というようなメッセージが発せられています。しかし、どうでしょう?本当にこの聖書のみことばはそのようなメッセージを発しているのでしょうか?
このことについては、かなり以前にも説明させていただきましたが、大切なことなので、もう一度、話させていただきたいと思います。イザヤ書43:1-4をお開きください。「:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。:3 わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」、
ここではいったい何が語られているのでしょう?また、ここのみことばの私的解釈でない正しい解釈とは果たしてどういったものでしょう?まず、1節に「…ヤコブよ。…イスラエルよ。」とあることから、明らかに、ここのみことばはイスラエルの民(=ユダヤ人)に対するメッセージです。ですから、1節の後半から「…わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」とあります。これは、神がユダヤ人たちに為された「様々な困難の時にも神がともにいてくださる」という約束です。実際に、ユダヤ人たちはエジプトの奴隷であった状態から解放され、モーセたちは紅海という水の中をくぐりました。ヨシュアたちは「主の箱」をかついでヨルダン川を渡ることができました。そして、この時代よりも後のことですが(イザヤはBC740-690年、ダニエルはBC606-530年)、ダニエル書3章には「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ」が「火の燃える炉」の中から助けられたという出来事がありました。まさしく、ここで教えられている通りのことがユダヤ人たちの中で起こったわけです。
そして、その後3節で教えられているのは、この神こそがイスラエルの「神」であり、「主」であり、また、「救い主」であられるということです。つまり、イスラエルの民はこの神によって「贖われた」のです。だから、神は、エジプトよりもイスラエルを優先してくださったのです。その後に書かれている「クシュとセバ」とは「エチオピヤ」のことで、少し後のイザヤ45:14にはこのように書かれています。「【主】はこう仰せられる。「エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らは鎖につながれて、あなたに従って来、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。』」と、このように、神の導きのうちにイスラエルが回復され、イスラエルが他の国よりも優先されるということです。
そして、いよいよ4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」ということばです。「あなた」とはだれを指すのでしょう?明らかに、イスラエルの民です。ですから、「人をあなたの代わりにし、」というのは「エジプトやエチオピヤをイスラエルの代わりとした」ということで、「国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」とは、そのような国々の民とイスラエルの民のことです。
ですから、ここで神が言われる「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とは、明らかに、旧約時代のイスラエルに対して言われたことばで、今も、神はイスラエルという国を特別に導いておられます。また、「あなたは高価で尊い。」ということばも、エジプトやエチオピヤと比較してイスラエルに対して向けられたことばであって、決して、すべての人間のいのちが尊いとか、神が価値を見出してくださったなどということを教えようとはしていないのです。それよりも、むしろ、「神の愛にはある種の区別がある。神はイスラエルの民を特別に愛しておられる。」ということをこのみことばは教えてくれているのではないでしょうか?
ここから自然に導き出されるべき適用は、「神はご自分が贖われた者をよりねんごろに扱ってくださり、神が価値を与えてくださる」ということです。平易に言うなら、救われる前に比べると、神を知って救われた後のほうが、神の前により価値ある者となるということです。「価値があるから救われた」のではありません。神が救ってくださったから、初めて、価値ある者とされたのです。私も、そして、皆さんも、神によって救われることによって、かつては「自分の罪と罪過との中に死んでいた者」(エペソ2:1)であり、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)であったのが、初めて「生きる者」となることができるのです。そこで、やっと神の前に用いていただける者とされるのです。
悲しいことに、現代のキリスト教会では、このイザヤ書のみことばから、私たち人間の価値というものを強調し過ぎる傾向にあります。同じ4節のこの後に続く「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」という箇所はほとんど引用されません。そこから発せられるメッセージは「だから、あなたはあなたのままで良い。何も変わらなくていいのです。あなたは神の前に特別な尊い存在なのですから!」というもので、肝心の、私たちが抱えている罪の問題や、神の前に必要な悔い改めというものがなおざりにされている場合が多くあるのです。
また、このイザヤ書のみことばから「私たちに価値があるゆえに、イエス様がご自分のいのちを犠牲にして、救いを用意してくださった」というような考えになるなら、それは神の偉大な愛や私たちが測り知ることのできない恵みというものを過小評価してしまうことになるのではないでしょうか?なぜなら、皆さん、私たちの側に救われるべき価値があって、そのためにイエスがご自分のいのちを犠牲にしてくださったとしたら、イエスの行為は果たして恵み深い行為なのでしょうか?たとえば、1万円の品物を1万円相当の品物と交換したとしたら、それは本当に「恵み」なのでしょうか?違います。神のしてくださったことは、さばかれて当然の私たちを、言い換えれば、全く価値のなかった私たちのことを、クズ同然の私たちを救うために、罪のないイエスが尊いいのちを犠牲にして救い出してくださった、贖いだしてくださった、交換してくださったのです。それこそが「恵み」ではないですか?たった1円の価値さえなかった私たちを救うために、1万円も100万円も価値あるような高価なものを支払って贖い出してくださったから、神の行為が「恵み」であり、それこそが尊いことなのではないでしょうか?
このように、現代のキリスト教会が語っている「あなたは高価で尊い!神はあなたにすばらしい価値を見出してくださった。あなたは神の目には高価で尊くて、そして、愛されている!」というようなメッセージは、聖書のことばや聖書の表現を使ってはいても、聖書的なメッセージではありません。そのようなメッセージは間違っているばかりか、キリストのからだである教会から神の証を奪うことになりかねません。神の用意してくださった福音のメッセージを、また、神の恵みの価値を落としてしまうことにもなりかねません。そうではないでしょうか?
興味深いことに、今から2000年近く前に、もう、このような潮流が起こって来るであろうことをパウロが預言しています。Ⅱテモテ4:2-5のみことばを紹介させていただきます。「:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。:5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」、まさしく、今の21世紀はそのような時代になっていると言えるかも知れません。というのは、余りにも多くの人たちが「神はこの聖書のみことばを通して何を教えようとしてくださっているのか?」ということではなく、自分にとって都合の良いことを聞き出そうとしてしまっているからです。多くの聴衆たちが、多くのクリスチャンたちが「果たして、この聖書が何を語ってくれているのか?」ということよりも、自分が聞きたいメッセージを、自分の価値をより高く評価してくれ見出してくれると思われるような、ある意味、安っぽいメッセージを好んで、そのために、牧師を、あるいは、教会を選り好みする傾向にあります。
今日、このメッセージを聴いてくださっている皆さん、皆さんには、自分の聞きたいメッセージではなくて、果たして、神がこのみことばを通して何を語っておられるのか?と、そのことを正しく解き明かしてくれる教会を選んでくださるようにお願いします。私が今、一番感謝していることは、ここの教会がそのことを私に教えてくださったことです。どうぞ、皆さんには、引き続きここの教会にあって、神からのメッセージを選り好みすることなく、真摯に、神からのメッセージに耳を傾けてくださって、そして、神の前に正しい応答をしていってくださるように心からお願いします。
《考察と質問》
1. 私は、本当にみことばを神からの特別なメッセージとして理解しているか?
2. 私は、教会やメッセージを、自分の選り好みで選んでしまっていないか?
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