Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録17:1-14
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新約聖書ヨハネの黙示録17章をお開きください。
1節に「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。」と記されています。まず最初に「七つの鉢」を持つ「御使い」のことが記されています。前回16章で「七つの鉢」のさばき、最後のさばきを見てまいりました。そして17章の最初に出て来るのはこの「七つの鉢」を持っている「御使い」です。ですからこの17章、18章は16章と非常に関連していると言えると思います。そして16:19「そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。」と、「大バビロン」に対する大変な神様からのさばきのことが記されていました。この17章と18章の2章にわたって、聖書は私たちにバビロンに対する神のさばきの詳細を教えるのです。
17:1はその後「『ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」と続きます。17章は「大淫婦へのさばき」が書かれています。18章になると、2節「彼は力強い声で叫んで言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。」と記されています。どちらも確かにバビロンに対するさばきですが、17章は「大淫婦へのさばき」、18章は「大バビロン」に対するさばきと、同じバビロンでもこのような違った表現を使っています。そこには目的があります。17章が「大淫婦」とバビロンを呼んだのは、バビロンの特に宗教的な面を指し、18章の「大バビロン」と言っているのは、政治的、また経済的なバビロンを指しています。共通して言えることは、どちらもこの世に悪の影響を及ぼし、それらに対する神様のさばきがここに記されているのです。
A.「大淫婦へのさばき」 1-18
きょうはまず17章の宗教的な面に悪影響を及ぼしたバビロンに対する神様のさばきを見て行きます。
1.大淫婦とは 1節
まず最初に「大淫婦」とは何なのかということで1節を見てください。「淫婦」というのは売春婦であったり娼婦のことです。どうしてこのような呼び名を使ったのかを知るために、黙示録14:8のみことばを思い出すことが必要です。そこには「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」とあります。それが「バビロン」であると記されていました。私たちがこの箇所から学んだのは、この「バビロン」というのは、実際にバビロンという都市がありますし、また反キリストが支配する王国の首都もバビロンでした。しかし同時に実際の都市だけではなく、反キリストによる政治的、経済的、宗教的な世界帝国もバビロンと呼んでいます。ですから国というよりも「バビロン」が及ぼす悪の影響の話です。その影響はこれから先に始まるだけではありません。歴史を振り返ってみると、悪の影響というものは常に世界的に及ぶことを我々は知っています。そのことについて我々はこの後みことばを通して見て行くわけです。
ですから、この14:8で「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」、それが「バビロン」だと言うわけで、「激しい御怒りを引き起こす……ぶどう酒」、つまりこの酒を飲む者は必ず激しい神様の怒りを受けるのだと教えていました。「不品行」と言われて、まず最初に考えることは性的な罪です。この反キリストによって人々は惑わされて不道徳の罪が全世界に横行するということです。そんなのは説明を受けなくても、我々の今の世界でも世界的に不品行が広がっています。また同時にそういう性的なものだけではなくて、信仰的にも堕落して、神様に対する敵対心が増し加わっている。皆さんは余りお感じにならないかもしれませんが、私たちは今この世界において「神」と口にするのが段々難しくなって来ました。聖書の教えていることをそのまま教えることができなくなりつつあります。私がアメリカに行く時に、普通は「何をしているのですか」と聞かれて「私は牧師です」と言うと、深い質問はされません。
時には「神のご加護を」とか、そういったことばを掛けてくださる移民局の職員もいるわけですが、シカゴを通って入国する時に、「あなたは何をしに来たのですか」と尋ねられて、同じように答えると、「ビザはどこにあるのですか、ビザがなければ入国できません」と言われました。初めての応対でした。神という名前を聞くことによって、人々がだんだん反発を覚えてきていることを実際に私自身も経験したのです。そして、今は自由があると言うロシアやウクライナに、宣教師が戻って行くこと自体が難しくなっているとも聞いています。ほかの宗教はいいのです。仏教徒が入るのが難しかったとか、イスラム教徒が入るのが難しかったという話は聞かないのです。クリスチャンであるあなたや私がそのような経験をするのです。
ですからこの「バビロン」、悪の影響というのは、時代を超えて、地域を超えて起こって来たし、またこれからも起こり続けて行くのです。この影響によって不品行は不道徳な世界を、社会に影響を与えるだけではなくて、信仰的な堕落、また神に対する敵対心も世界的に広がって行くと。今でもクリスチャンが世界じゅうで迫害されています。いろいろな国にあって、多くのクリスチャンが捕えられて、かつての宗教に改宗するようにと、しなければいのちを奪うといったニュースが私たちの耳に繰り返し入ってきます。このみことばが私たちに教えてくれていることはそういう働きが継続しているし、そういう働きがこれからももっと続くということです。
こういったすべての悪の働きを司っているのがこの「バビロン」なのです。ですから都市としても見るのですが、同時にこういった悪の影響を「バビロン」と呼んでいるのです。反キリストの世界帝国です。まさに反キリストが、この悪がそのような影響力を世界に及ぼしている。私たちの周りにいつの間にか存在しているもの、みんながみんな私たちの心を神の方に導いて行くかというと、そうでないものが結構あります。そっちの方が多いです。例えば私たちは科学という名の下にいつの間にか学校で進化論を教えられるようになりました。しかし、残念ながら科学ではないと言われているにもかかわらず。一つの信仰です。地球の始まりなどだれも見たことがない。でもあたかもそれが真実であるかのように教えられ、そしてそれがいつの間にか強制的に教えられています。進化論が横行すると、創造論を信じる人がいなくなって行くのです。まさにそういった働きが私たちの国でもなされ続けています。
なぜ学校においてこういったことが教えられるのでしょう。無神論や進化論、また富が幸せをもたらしてくれる、成功が幸せをもたらすのだと誘惑するこの社会。つい最近も中国の受験戦争のニュースが流れていました。いい学校に行けばそこに幸せが待っていると。一体だれがこういったものを操っていると思います?いつの間にかそういう考え方が私たちの中に浸透し、あたかもそれが真実であるかのように信じ切っています。またこの教えこそが真理だと伝えて、永遠の滅びの道へ導いて行く人間の作り出したさまざまな宗教。こうして見た時に私たちの周りにあるものは、我々を神に近付けて行くものではなくて神から遠ざけて行くものばかりです。みことばが私たちに教えるのは、そういう悪の働きがなされ続けているということです。バビロンの働きが起こっていると伝えるのです。ですから確かにバビロンは悪であり、神への敵対を象徴するものであり、反キリストによる政治的また経済的、宗教的な影響を及ぼすものです。バビロンというのは時代に関係なく人々が神に背いて罪を犯すようにと導く存在なのです。人類はその影響をずっと受けて来ています。このバビロンに対する神のさばきが下ることを14:8で学んできました。
17章を見る前にもう一つだけ、この「大淫婦」つまり娼婦、売春というものはしばしば偶像崇拝、また宗教的背教を象徴するものです。例えばエレミヤ3:6やエゼキエル20章など、イスラエルの罪、特に偶像崇拝に関して記されています。エレミヤ3:6には「ヨシヤ王の時代に、【主】は私に仰せられた。『あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行った。」、またエゼキエル20:30では「イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは父たちの行いをまねて自分自身を汚し、彼らの忌まわしいものを慕って姦淫を犯している。」と偶像崇拝の話が書かれていますが、偶像崇拝の行為のことを「淫行」や「姦淫」と呼んでいます。この「大淫婦」というのは、このバビロンの悪い影響の中で、特に宗教的なものを指しています。
さて、きょうのテキスト17:1に「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦」と書かれています。この「大水」が一体何か――。2節を見ると最初に「地の王たちは」と、この世の王たちのことが出て来ます。また15節には「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」と書かれています。そのことから、このバビロンが信仰における悪の影響を全世界にもたらしていることをこの箇所は我々に教えてくれます。しかもただ「淫婦」と書かずに「大淫婦」と「大」がついているのはこの影響力の大きさです。世界的な影響力であることを表しているのです。
そして、ひとりの御使いは「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」と言って、これからこの「淫婦」に起こるさばきを明らかにして行かれるわけです。
2.大淫婦の誘惑:「地の王たちとの不品行」 2節
2節を見ると、この「大淫婦」の誘惑について教えています。「地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」と。この「酔っ」ているというのは6節にも出て来ますが、まず「地の王たちは、この女と不品行を行」うということが記されています。「地の王たち」は今見て来たようにこの世界の話です。この世界は真理に背くこの女の教えによって惑わされ続けているということです。この女が世界に偽りの教えをもって惑わし続けている様子が書かれているわけです。しかもそれだけではありません。ここには「この女の不品行のぶどう酒に酔った」と書かれています。つまり喜んでこの女の教えを受け入れている様子です。酒を飲みながら楽しんでいる様子がここに記されています。ですから、世界はこの「大淫婦」によってもたらされる偽りの教えを歓迎している様子が2節に記されています。
3.大淫婦の説明 3-4節
そして3-4節には「大淫婦」の説明が記されています。3節「それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。」と、実はこの「御霊に感じ」るという表現は4:2にも出て来ました。これは聖霊による特別な経験の話でした。聖霊に支配されたヨハネはこの後起こることを彼がはっきりと見るために、普通では決して経験できない状態に置かれたのです。彼は夢を見ていたのではなく、目覚めていました。そしてこの後に起こることを神から特別に示されるわけです。
1)「緋色の獣に乗っている」 3節
この「大淫婦」に関して3節はこんなことを言います。「すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。」と。この「獣」は反キリストのことです。ではこの「緋色」は何かです。これは余り耳にしないかもしれませんけれども、これは深紅、真っ赤な色です。スカーレットとも表現されます。これは王族の色であったり、非常に高価なものを表します。主イエス・キリストがさばきの座についておられた時に、人々はイエスをあざけって、頭にいばらで編んだ冠をかぶらせ、右手に葦を持たせました。そして人々はイエス様の前にひざまずいて、「ユダヤ人の王様、万歳」とからかいます。その前にイエスの着物を脱がせてイエスにある着物を着せます。それが緋色の上着であったとマタイ27:28が教えます。なぜそんな着物を着せたかというと、イエスが自分は王であると言ったので、では王様にふさわしい服をということで彼らはからかいながらそれらのことをした様子が書かれています。この「緋色」は王族や非常に裕福な人を表します。同時にこの色は罪の色でもあります。イザヤ1章の中のみことばを思い出した方もおられるかもしれません。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と、この「紅」は人間の罪を表す色としても使われています。
もう一度このテキストを見ると、この「女」は「緋色の獣に乗ってい」たとあります。まず「乗っている」ということはこの「獣」と「女」とには密接な関係があることを表しています。最初にお話ししたように、ある人はこの「獣」である反キリストが政治的な支配をし、そしてこの「女」が宗教的な支配をしていたのではないかと。そうしてこの反キリストの帝国を治めていたと説明する人もいる。その訳はこのふたりに非常に密接な関係が存在していると、この箇所が我々に教えるからです。
* 「獣の説明」 3b節
その後でこの獣について説明が続きます。「その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。」と、3節の後半に出て来ます。「神をけがす名で満ちて」いるというのは、この「獣」が神に対して非常に高慢であることを教えます。「獣」は自分を神とし、自分が神として崇拝されることを期待しました。これはまさに「神をけがす」ことです。神によって造られたものでありながら、神に対してリスペクトを払おうともしない、かえってみずからを神よりも上に置いている非常に高慢な姿です。
そして「七つの頭と十本の角を持っていた」と、3節にも7節にも出て来る表現です。どういう意味かと言うと、9節「七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。」、そして「十本の角」に関しては12節に「十本の角は、十人の王たちで」と出て来ます。ですからこの「獣」は「七人の王たち」と「十人の王たち」を支配していることを我々に示すわけです。この「七人の王たち」と「十人の王たち」がどういう者たちなのかはこの箇所に来た時に説明しましょう。
2)「高価な身なりをしている」 4節
「獣」の説明があって、4節ではまた「女」の説明に戻ります。「この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。」とあります。まずこの女性は「紫と緋の衣を着てい」て、「金と宝石と真珠とで身を飾」っていたと、大変豊かな様子が記されています。恐らくこの「女」は繁栄を明らかにすることによって、成功を明らかにすることによって人々を惑わすのでしょう。宗教的なという話をしました。私の教えていることを受け入れるならば、あなたたちにもこのような繁栄が訪れます。私の教えることを信じるならばあなたたちもこの世にあって成功し、豊かになります。恐らくそういう誘惑を与えるためにこの「女」自体が非常に裕福な姿をしていたようです。4節でそのことを見ることができます。
しかしながら、この「女」がどんな存在であるのか、4節の後半に「憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。」と書かれていました。確かに見かけは非常に成功した裕福な存在に見えます。ところがこの人物が持っていたのは、「憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯」です。何を言っているかというと、金の杯を持っているということは大変な裕福さを表しているのですが、彼女は神にとって憎まれている存在だということを明らかにしています。彼女は必死になって人々を惑わし続け、神に従わないように、過った方向に導いて行こうとしています。そして
この働きに対して神は怒りを持っておられる。神はこの働きを、存在を憎んでおられることがここに書かれています。
3)「額には、意味の秘められた名が書かれている」 5節
そして5節「その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』という名であった。」とあります。「額」に名前が書かれていた。実はこの当時ローマにおいて売春婦たちはそのように自分の名前を書いていたようです。恐らくそれを受けてこのように記してあるのだろうと言われています。この「女」の「額には、意味の秘められた名が書かれて」あると記されています。これは人々には隠されていたこと、どのような存在であるかがわからないということです。しかしながらどのような存在であるかというのは後に明らかにされます。この5節の中に「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」、それがこの女の名前であると。この「バビロン」の名前が明らかにすることは、彼女がすべての不品行、信仰的堕落、あらゆる偽りの宗教や悪の根であるということ、ここからその悪が出ているのだということです。まさにこの人物にふさわしい名前がその「額」に記されているということです。この人物こそ人々を神様から引き離し続け、惑わし続ける存在、「大バビロン」であると。
4.大淫婦の悪 6節
そして6節、「大淫婦」の悪について説明が加えられています。「そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。」と。確かにまた「酔っている」ということばが出てきています。でも実はここではこの「女」の悪が記されているわけです。「聖徒たちの血とイエスの証人たちの血」と書かれています。つまりこの女は神に逆らう悪の影響を全世界に及ぼすだけではなく、主を信じ主に従う者たちを殺害するという悪を率先して行なっていたということです。「酔っている」のはそのことを喜んで行なう様子です。なぜクリスチャンだけが歴史を通してこんなに迫害され続けていくのか。なぜクリスチャンだけが今の時代でもこんなにその信仰ゆえに殉教して行くのか。答えがこういうところに出て来ます。悪は神に従う者たちを憎むのです。主イエス・キリストを憎み、彼を十字架に追いやって行ったように、あなたがイエス様に似た者に変えられれば変えられるほど、この世はあなたを放っておきません。この「大淫婦」は主イエス・キリストを愛する者たちのいのちを絶つという行為を喜んで行なっている存在だと。
5.大淫婦と獣との秘義 7-14節
一体「大淫婦」とはどういう存在なのか――。どういう誘惑を与えているのか。また「大淫婦」の説明がなされた後、その悪が明らかにされました。そして7-14節を見ると、「大淫婦」と「獣」との秘義が記されています。6節の最後から7節に「私はこの女を見たとき、非常に驚いた。すると、御使いは私にこう言った。『なぜ驚くのですか。」とあります。この出来事を見た時、ヨハネが「驚いた」と書いてあります。恐らくヨハネは自分が考えていたことと違うことを目撃したから驚きを覚えたのでしょう。そこで御使いのひとりが彼に話しかけて「女」と「獣」の「秘義」を説明しましょうと言うわけです。その本質を明らかにしましょうということです。そして7節「私は、あなたに、この女の秘義と、この女を乗せた、七つの頭と十本の角とを持つ獣の秘義とを話してあげましょう。」と。
* 「獣」についての詳細 8-14節
そして8節からまず「獣」についての話が出て来ます。「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。」とあります。繰り返しますが、この「獣」は反キリストです。キリストと名乗るたくさんの者たち、偽りのキリストが出て来ました。その中でもこの反キリストはリーダー格のような存在です。この反キリストについてこんなことが言えます。この反キリストというのは自分の主人であるサタンに忠実に仕える者であり、サタンに仕える手下の中で最も位が高いと見えます。ジョン・マレーという神学者はこの「獣」のことを「サタンの手下の長である」と言っています。
1)「特別な力を受けた獣」 8節
今見た「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。」は、この「獣」の偽りの死と復活を話しています。思い出していただきたいのは、13章の中でこの「獣」は死んだかと思ったけれども、そこからよみがえって来ました。実際は死んでいなかったということを我々は学びました。ですからこの「昔いたが、今はいません」というのは、彼が死んだかのように見せかけた偽りの死のことです。あたかも死んだようだけれども、実は死んでいなかった。そして「やがて底知れぬ所から上って来ます」というのは復活の話です。でもこの復活も実際によみがえって来たわけではなかった。ここに「底知れぬ所から上って来ます」とありますが、この「獣」は実際に死んでいないのです。「獣」が死んで「底知れぬ所」に行って、そこからよみがえって来る、そんなふうに見えるのですが、そんなことを教えているのではない。実はこの「底知れぬ所から上って来」る存在、特別な力を持った悪霊のことです。
ですからこの死んだかのように見せかけて人々をだまし、そこからよみがえって来たかのような、まさに救い主イエス・キリストがなさったようなみわざをして見せて、自分が救い主であるかのようにして人々を惑わすこの「獣」は、その「底知れぬ所から上って来」る特別な力を持った悪霊によって力を受けるということを、この箇所は我々に教えてくれます。その後勢力を拡大し、この「獣」に大変な力が与えられたことを我々は見て来ました。そのことがこの8節に記されています。人々はこの「底知れぬ所」からあたかもよみがえって来たような「獣」を見て、この「獣」に対して心を開き始めている。そのことが黙示録に記されていました。この後この「獣」が何をして行くのか、後半に出て来ますが、どちらかというと利用していたこの「女」を殺して、今度は自分を崇拝するようにと働き始めるのです。まさに「獣」信仰とも呼べると思うのですが、そういう信仰を立ち上げて、この世界のすべての者たちが自分を崇拝するようにと働くのです。
でも「そして彼は、ついには滅びます。」と書いてあります。そのような働きをするのですが、彼はいつまでもこの地上にいるわけではありません。滅びるということが書かれています。これは永遠の滅び、永遠の呪いの話です。19:20に「すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」とあります。「獣」にはこのような運命が約束されています。8節の続きを見ると「地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現れるのを見て驚きます。」、この「獣」は、死んでもいないのにあたかも死んだように、よみがえってもいないのにあたかもよみがえったように、人々をだまして、人々の注目を得て人々を支配するわけです。でもそのような惑わしに負けるのは、ここに書かれてあったように「世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者」たちだと書いてあります。救われていない者たち、神様が選ばれなかった者たち、その人たちはこの惑わしに惑わされてしまうということです。
逆説的に言えば、クリスチャンたちは決してこのような惑わしに惑わされることはないということです。この箇所が我々に明らかにしたのは、患難時代の半ばぐらいからの話です。患難時代に多くの者たちがイエス・キリストを信じます。その者たちはこのような惑わしがあっても決して惑わされない。このような惑わしを通して「獣」を崇拝するかというと、彼らはそんなことはしないのです。こういったものに惑わされる者たちはこの救いに与ることなく、この救いを拒んで来た者たちであると教えます。「昔はいたが、今はおらず」、死んでやがてよみがえって来る、それを見て驚き、その「獣」に心を開くという話です。
2)「七つの頭を持つ獣」 9-11節
そして、9節を見ると「七つの頭」を持つ「獣」について9-11節が説明してくれます。まず9節の初め「ここに知恵の心があります。」と記されています。つまりこれから話されることへの特別な注意を促しているのです。というのはこれから示されることが非常に難解なことだから、よく注意をしなさいと9節の初めに記されています。
そしてこの「七つの頭」とは何かというと、「この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのこと」だとあります。この「七つの山」という表現を聞いて、ある神学者たちはこれはローマのことを言っているに違いないと言うわけです。なぜかというと、ローマは「7つの丘の町」と呼ばれていました。またそれゆえにこの「女」のことをローマ・カトリック教会を指しているのではないかという説があることも事実です。
ただどうもこの反キリストの支配というのがある一定の限られた地域だけではなくて全世界的なものであるから、そのように場所を限定するのは非常に無理があるように思います。レオン・モーリス先生は「ローマではその象徴の意味は十分ではない。見て来たように大きな都はどの町でもあり、どの町でもない。それは文明化された人間であり、神に背いて組織化された人類である。それはどの時代にも現れる」と。ですから、ローマだとか、こういった一つの宗教に限定するには無理があると。
だから我々がずっと見て来ているように、そういった世界的な働きの話をしているように思います。この「七つの頭」は「七人の王たち」だと言っています。また10節を見ると、「五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。」と、「七人の王」のうち「五人はすでに」死んでいると言うわけです。ひとりは今いるけれども、もうひとりはまだ来ていませんと。何の話かというと、13:1で見て来たとおり、既に七つの王国が存在すると。エジプト、アッシリア、バビロン、メド・ペルシャ、ギリシャの五つの王国は既にもう滅んでいるのです。ヨハネの時代にはもう存在していなかった。ヨハネの時代に存在していたのは、10節に「ひとりは今おり」と書かれてあるローマです。まだヨハネの時代にはローマが権力を握っていたわけです。そして「ほかのひとりは、まだ来ていません」と続いています。七番目はまだやって来ていない。この七番目の王国こそが我々がずっと見ている反キリストによる王国です。13章で学んだとおり、再興のローマ帝国です。新しく作られるローマ帝国、最後の世界帝国の話です。
それがまだ来ていない。「しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。」と、この反キリストによる王国はしばらくの間存在するにすぎないと。
11節を見ると、「また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。」と、「昔いたが今はいない」死んだ「獣」の話です。もちろんこれは死んだふりをしているわけですけれども、「彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。」、何を言っているかと言うと、この反キリストは死んだかのように思われましたが、そこからまたよみがえって来たかのように思われた。ということで七ではなくて八だと言っているわけです。彼の偽装死、また偽装復活を数えると彼は七番目でありながら八番目でもあると。七人の王様がいるわけですが、最後の王は反キリストによる王国で、七番目の彼は死んでよみがえって来たと人々が信じたので、彼は八番に思えるけれども、実のところは同じなのだということが11節に書かれています。「そして彼はついには滅びます」と、先ほど見て来たように、彼も同じように永遠の地獄へと送られるという話です。
3)「10本の角を持つ獣」 12-14節
12-14節を見ると、「十本の角を持つ」獣の話です。「あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。」と。だれの話かというと、「十人の王」様の話です。この「十人の王」様は「まだ国を受けてはい」ないと書いてあります。まだ訪れていない国とは何か――。反キリストによる国家、反キリストの帝国の話です。その時にこの「十人の王」様が「国を受け」るという話です。ですからある人々は反キリストがその世界的な帝国を治める時に、国を十に分割してそれぞれがこの十人の王様によって治められるだろうと考えるわけです。ですからこの帝国において十人のリーダーたちがこの国を治めることになる。「まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます」、「一時だけ」この王国を治めることになると。そして、13節には「この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。」と、反キリストに対する「十人の王」たちの忠誠心、献身的な姿をここで見るわけです。すべてを捧げて服従するという様子です。この反キリストのもとに「十人の王」がいて、この世界を治めていることが記されています。
そして最後に14節を見てください。「この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。」、今まで見て来たように、この反キリストは、そして彼に従う者たちは、神に対して戦いを挑むわけです。「小羊」というのはイエス様です。主イエス・キリストに対して彼らは戦いを挑むと言うのです。ところがこの「小羊」、イエス様は「彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。」、神だからです。だれひとりとしてこの神に立ち向かうことができない。あっと言う間に神は彼らは滅ぼされてしまう。そして「また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」、この「彼とともにいる者たち」というのは「小羊」とともにいる者たちです。「獣」ではないのです。「小羊」とともにいる者たちというのは召された者、選ばれた者、忠実な者、つまりクリスチャンたちです。
残念ながら最後まで行かなかったのですが、この17章のみことばが私たちに教えてくれることは、この後何が起こるのかということです。ですから聞いた私たちはそれを伝えて行くという責任があります。なぜなら多くの人たちはこれから何が起こるのか不安で仕方がないからです。気候の変動、異常気象が起こっている、地震がどうなって行くのか、いろいろな不安を抱えています。私たちは聖書を通して何が起こるのかを神から知らされています。ですから私たちは当然それを語るという責任があります。
また同時に私たちがこういったレッスンを通してしっかり学ばなければいけないのは、主イエス・キリストにお会いするための備えをしているかどうかです。確かに我々はこのようなメッセージ見ても、へえ、そんなことが起こるのかというふうに片づけてしまうかもしれない。でもヨハネの時代の人々や実際にこの患難時代に生きる者たちにとって、これは大変な慰めであり、励ましなのです。今、信仰ゆえにいろいろな苦しみを経験しているけれども、主は必ず約束を果たされるのです。我々は主とともに永遠を過ごすのです。主に逆らい続けた者たちに対する神の審判が下るのだと。この神の約束が彼らに大きな励ましをもたらすのです。私たちもこの真理を知った者として、いろいろな悪が行なわれて、理解できないことが周りで起こっていても、必ず神のみこころがなされるという確信を持って生きることができるし、生きるべきです。どんな時でも神の約束に立って生きることです。神の約束は必ず成るのだと、神が言われたことは必ずそうなるのだと、みことばは私たちにそのことを明らかにしてくれています。だから私たちはその信仰を持って神に従い続けて行くことです。どうぞあなたの信仰がこの真理を知った者にふさわしい歩みとなるように心から祈ります。そのような歩みをもって神によって救われたことを感謝する、そんな信仰者としての生き方をなして行きましょう。
《考えましょう》
1.バビロンが「大淫婦」と呼ばれた理由を挙げてください。
2.「七つの頭と十本の角を持っていた。」(3、7、9、12節)について説明してください。
3.16節には「獣」が淫婦を憎む様子が記されていますが、それはどうしてですか。
4.あなたがきょう教えられたことを実践するために信仰の友と祈り合ってください。
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