Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録16:1-21
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2016/06/05 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:最後の災い2、七つの鉢のさばき
聖書箇所:ヨハネの黙示録 16章1-21節
今日は黙示録16章1節から最後まで学んでいきます。ヨハネは七人の御使いに「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」という、さばきを命じる聖所からの大きな声を聞きます。16:1「また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」、「大きな声」とありますが、黙示録の中に80回位この表現が出て来ます。さばきの大きさ、重さが強調されています。この声を発したのは間違いなく「神ご自身」です。遂に、神からのさばきの命令が下るのです。そして、御使いたちが神のさばきで神の御怒りでいっぱいになった鉢をこの地に向けてぶちまけます。最後のさばきの様子です。私たちは今日、この16章に記されている最後のさばきである「七つの鉢のさばき」について、みことばを見ていきます。
第一の災い : 悪性の腫物 2節
2節「そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。」、第一の災いは「悪性の腫物」です。だれがこの悪性の腫物を受けるのか?書かれているように、「獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々」と限定されています。そうでない者たちはこの災いを受けないのです。この人々は神の救いを受け入れることを拒み続けてきた者たちです。しかも、この人たちは患難時代の最後に生きている未信者であることが分かります。なぜなら、この「獣の像を拝む」というのは獣の像が作られた後のことだからです。患難時代の初めにはこの獣の像は存在していません。後半になって像が建てられていく、そのことはもうすでに見て来ました。ですから、まさに、終わりに住んでいるキリストの救いを拒み続けている者たちが、最初に「悪性の腫物」の災いを被るというのです。
「ひどい悪性のはれもの」とありますが、これは「腫物」についての説明です。「ひどい」と「悪性」という二つのことばで「腫物」の説明がされています。どちらも形容詞です。そして、どちらのことばにも「悪」という意味が含まれています。なぜ、この二つのことばが並べて使われているのか?その理由は、苦しみや痛み、腫物が不治のものであることを強調するのです。実は、「腫物」については旧約聖書に何度も出てきています。バークレー師はそれに関して次のような説明をしています。「ここで使われているこの語は、エジプトを襲った「膿の出る腫物」(出エジプト9:8-11「:8 【主】はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。:9 それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」:10 それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。:11 呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。」)、また、申命記の中にも、神に従わない者にできる「癒し得ない腫物」(申命記28:35「【主】は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。」)、そして、ヨブを苦しめた「嫌な腫物」(ヨブ記2:7「サタンは【主】の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。」)、これらと同じです。」と。
つまり、このような悪性の腫物はここで初めて出て来たのではなく、旧約聖書にこのように何度も記されているのです。また、新約聖書にも、あの金持ちとラザロの話のときに記されています(ルカ16:20「ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、」)と。
しかし、最後の最後になると、主イエスの救いを拒み続けて者たちに対して、大変ひどい悪性の腫物がもたらされるのです。そのことが第一の災いとして記されています。
第二の災い : 海に住むすべての生き物の死 3節
3節「第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。」、恐らく、これを読んだ皆さんは、モーセが十の災いをエジプトに下したときに、ナイル川の水が血に変わったという神のみわざを思い出されるでしょう。出エジプト記7:20-25に記されています。「:20 モーセとアロンは【主】が命じられたとおりに行った。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。:21 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。:22 しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。【主】の言われたとおりである。:23 パロは身を返して自分の家に入り、これに心を留めなかった。:24 全エジプトは飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘った。彼らはナイルの水を飲むことができなかったからである。:25 【主】がナイルを打たれてから七日が満ちた。」、確かに、このように神がなさった奇蹟がありますが、この3節には「海は死者の血のような血になった。」と書かれています。単に海の水が血に変わったのではなく、「死者の血のよう」だと言います。つまり、血が流れてしばらくすると血は凝固していきます。そのような状態を言っているのです。Dr.トーマスは「海が凝固した血のように変わった。そのため、最早、海の水は液体ではなく、濃縮された、また、凝固したものとなった。」と言います。
確かに、第二のラッパのさばきを思い出していただくと、そこでは海の中の1/3の生き物が死ぬということが起こりました。でも、ここでは「海の中のありとあらゆる生き物が死を迎える」ということが書かれています。これが第二の災いです。全世界的に、世界中の海の中の生き物が死ぬのです。
第三の災い : 川と水の源が血になる 4-7節
4節に「第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。」とあります。世界中のあらゆる川、川と名の付くすべての川、また、泉が血になったと言います。ということは、何が起こるのか?真水の不足です。飲み水がなくなるのです。皆さんもよく憶えておられるでしょうが、7:1に「四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹き付けないようにしていた。」と書かれていました。つまり、風が自由に吹くことを押えたのです。J・マッカーサー先生はこのことを受けて次のように説明を加えます。「このように御使いたちが風が吹くのを一時的に止めることによって、干ばつの原因になる。風が吹かなくなることで、雲や気象体系の流れがなくなってしまう。水循環が妨げられ雨が降らなくなる。」と。真水が少ない上に、この最後のさばきを経験することによって、もっと世界中の真水が飲めなくなってしまうのです。
5節に「また私は、水をつかさどる御使いが…」とあります。不思議なことばです。御使いには数々の使命が与えられていると言います。バークレーは「ユダヤ人は風、太陽、雨、水など、すべての自然の働きにはそれを指揮する天使がいると考えていた。」と説明しています。そこで水をつかさどっている天使が「こう言うのを聞いた。「今いまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。」、天使はこのさばきを下される神を誉め称えているのです。
しかも、もう一人の御使い同じように神を誉め称えている様子が6節に出て来ます。「彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」、続いて7節「また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」と。この天使たちが言っていることは「神さま、このさばきによって、あなたが正しい方であるということが明らかになります。」です。私たちは黙示録を通してそのことを繰り返し学んで来ました。神はどうして罪をさばかれるのか?神は聖い正しい方であるから、罪を容認することができないのです。もし、神が罪を見てそれを何もしないで放っておかれるなら、神が神でなくなったということです。神はどんな罪も赦されないからです。すべてにおいて完全に聖い正しいお方です。
ですから、この神が為さるさばきを見た天使たちは、その神のみわざを心から誉め称えるのです。「あなたは罪を憎まれる聖い正しいお方だ。あなたが為して来られたことは正しい。」と。私たちがこれまで見て来たのは「神のあわれみ」です。罪人に対する神のあわれみを繰り返し見て来ました。しかし、同時に学んだことは、神はいつまでもあわれみをもって罪人を待っておられるのではないということです。終わりが来るのです。最後の日が来るのです。「これまで」という日が来ます。まさに、そのときが訪れるのです。神が約束されていたように、そして、人々が待望していたように、神の正しいさばきが下る、それが今まさにヨハネの前で起こっているのです。そして、そのさばきを行っている神に対して天使たちがその神を称えている様子がここに記されているのです。
第四の災い : 太陽の温度が増す 8-9節
「:8 第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。:9 こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。」、太陽の温度が高くなるのです。外に出て、ビーチに行って日焼けをしようとか、日光浴を楽しもうなどは皆無です。余りにも熱くて、その熱によって多くの人が死を迎えるということです。自らの意志で神に逆らい続けた者たち、彼らに対してこのような神のさばきが下るということです。
こうして見ていくと、今の世に起こっている出来事に合わせて考えさせられます。地球の温暖化が盛んに言われています。最近、インドでは50度を超える気温を経験したと、でも、北海道では雪が降ったと報じられました。サタンは何をしようとしているのか?神がみことばを通して為すと言われること
を神が為されるとき、それは神のわざではない、偶然そうなっているのだと言って人々が神に関心を持たないようにと騙し続けていきます。なぜ、急にそのようなことで騒ぎ立てるのか?と。でも、世の中の騒ぎを聞くとき、私たちは神はそのようなさばきを下されると考えます。
その後を見ると、9節の続き「しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。」とあります。このようなわざわいが下っていても、人々は神の前に心を開いて神を信じようとはしないのです。このことはこの後も何度も繰り返されています。私たちはこうしてみことばを見るときに「なぜ?」と思います。目を醒ますべきだと思います。しかし、彼らは目を醒ましません。サタンは様々な方法をもって人々の目を盲目にし続けていくのです。彼らは神に心を開くどころか、却って、神に対して怒りを抱くのです。
第五の災い : 暗やみと腫物による苦しみ 10-11節
「:10 第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。:11 そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、」、「この鉢をぶちまけた獣の座」とは何でしょう?これは「反キリストの世界的王国」のことでしょう。それが「獣の座」と表されているのです。なぜなら、その後に「獣の国」ということばが出て来るからです。ですから、獣である反キリストが支配している王国に対して、この鉢がぶちまけられたのです。これとよく似たさばきが聖書の中にあります。第五のラッパのさばきです。それと比べると、この第五のさばきには大変な苦しみが伴っている、そこが違うところです。
ですから、その苦しみが余りにも激しかったゆえに、10節に「人々は苦しみのあまり舌をかんだ。」と書かれています。「舌をかんだ」とは実際に「舌をかむ」というよりも、彼らが経験したことがない大変な苦しみを表しているのです。余りにも苦しくて舌をかんで我慢する様子です。いずれにせよ、人類が経験したことのない大変な苦しみがここに描かれているのです。このような中にあっても11節の後半に「天の神に対してけがしごとを言い、自分の行いを悔い改めようとしなかった。」とあります。ここでもまだ人々は神に対して心を開こうとしません。この最後に至るまで、神は罪人たちにあわれみを示しておられるのです。
今、私たちはこうして聖書全体を見て、これがどのような時期なのかを知ることができます。繰り返しているように、まさに、終わりの終わりです。主イエスが地上に帰って来られるその直前です。しかし、こうしてみことばを見ると、この最後に至っても神は救いを受け入れていない多くの罪人に対してあわれみを示しておられます。このようなわざわいをもって、罪人たちが目を醒まして救いに与るようにと、神は忍耐をもって彼らを待っておられるその姿をここにも私たちは見ることができます。
しかし、人間の罪深さもここで改めて知らされます。人間は本質的に神を愛していません。神を憎んでいます。主イエスが言われた通りです。ヨハネ3:19、20「:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」、神を愛するどころか、人々は罪を愛する、罪の中を歩んでいる者は光である神を憎み続けている、つまり、人間は何があっても自分のやりたいことをやり続けていくのです。人間は生まれながらに、自分の人生だから好きに生きて好きに楽しんで、そして、人生を終わればいいとします。彼らが忘れていることは、だれ一人として、神の前に立ち神からさばきを受けるという、その日を逃れることはできないということです。すべての人間に定まっていることは、神の前でさばきを受けるということです。そのことをどんなに忘れようとしてもその日は来ます。私たちのこの地上での人生が神の前に価値あるものであったのか?そうではなかったのか?そのことがすべて明らかにされます。
人間は私たちを造ってくださった神を愛することよりも、自分の好きなように生きて好きなように人生を終わりたいと、そのように思っています。その生き方が私たちに示すことは、いかに人間は生まれながらに創造主なる神を憎んでいるかということです。このような状態にあっても、このような災いを経験していても、彼らはなお神に心を開こうとしないのです。却って、神に対して怒りを持つのです。悲しいことに今、この時代でもそのような滅びに向かっている多くの人々がいることを私たちは知っています。
第六の災い : 大ユーフラテス川が涸れる 12-16節
12節「第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。」、なぜ、このような災いが起こるのか?理由が書かれています。「日の出るほうから来る王たちに道を備えるため」とあります。「日の出るほう」とは東の方、東洋を指していることは皆さんもすでにご存じのことです。東洋の多くの国々が最後の戦いであるハルマゲドンの戦いのためにパレスチナに侵攻して来るということです。私たちが関心をもつのは、東洋の国々とはどこの国?ということです。中国や日本などの国が含まれるのでしょう。「日出る国」と私たちの国はそのように呼ばれていました。そして、私たちの国を見るなら、世界中の国の中でも、神に背き続けている国の一つです。神のあわれみの中で私たちが生かされているにも関わらず、どれだけの人々が神を憎み神に逆らい続けているのか?偶然の中に紛れて私たちの国の民がパレスチナを目指すことは容易に考えられることです。但し、これはあくまで推測であってみことばはそのようなことは教えていません。大ユーフラテス川が涸れることによって、東の方から来る王たちがそこを通って行くと言います。
*13-16節には、ヨハネが見た新たな幻が記されているが、これは第六の災いを説明している
・竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た 13節
この「竜」とはサタンのこと、「獣」は反キリスト、そして、「にせ預言者」です。彼らの口から「かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。」と教えています。「かえる」とは、確かに、旧約聖書を見ると「汚れた生き物」の一つです。レビ記11:10、41にそのことが記されています。「:10 しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。」、「:41 また、地に群生するものはみな忌むべきもので、食べてはならない。」、汚れたものであると言います。この「かえる」によってさばきが為されたことも私たちは知っています。何回か見ているモーセによってもたらされたエジプトでの10個の災い、その中にエジプト全土にかえるが溢れたということが出エジプト記8:5に書かれています。「【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」、また、そのことに関して詩篇78:45にも「神は彼らに、あぶの群れを送って彼らを食わせ、かえるを送って彼らを滅ぼされた。」と記されています。
このように確かに、生き物の「かえる」を使って神のさばきが為されました。そのことを私たちは知っていますが、この黙示録16:13に出て来る「かえる」は生き物ではありません。見ていただくと、「かえるのような」と書かれていて、その後に説明があります。「汚れた霊ども」と。14節を見ると、「彼らはしるしを行う悪霊どもの霊である。」とあります。つまり、この「かえる」と言われるのは「悪霊」のことです。彼らが何を行うのか?二つのことを行うと14-16節に書かれています。
奇蹟を行う 14a節
「彼らはしるしを行う悪霊どもの霊である。」とあります。この悪霊どもは様々な奇蹟を行うのです。何のために?14節の後半に書かれています。
ハルマゲドンのために世界中から王たちを集める 14b、16節
「彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」、そして、16節「こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」と、これが目的です。悪霊たちは様々な奇蹟をもって世界中の王たちをこの地に集めるのです。
ただ、奇蹟だけで果たして世界中の王たちが集まって来るのかどうか?実は、聖書の中に悪霊たちの働きのその一つですが、奇蹟以外の方法を用いて働きを為した実例が記されています。悪霊たちが用いたのは「うそ」なのです。北王国イスラエルの王アハブはラモテ・ギルアデで戦死します。このアハブ王は皆さんもよくご存知でしょう。エリヤと戦った人物です。エリヤが天からの火をもっていけにえを燃え尽す、その方が本当の神であると明らかにしました。アハブは様々の神のみわざを経験しました。それでいながら、彼は神の前に心からの悔い改めをしなかった悪い王の一人です。もちろん、Ⅰ列王記21章には彼の妻イゼベルにもその要因があったことが記されています。「彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。」(21:25)と教えています。いずれにせよ、この北王国イスラエルの王アハブ、彼は死を迎えます。そのことに関して非常に興味深いことがⅠ列王記22章に記されています。
神に逆らい続けるこのアハブをどのようにして罰しようか?そのときに、次のような会話が為されています。22:21をご覧ください。「それからひとりの霊が進み出て、【主】の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、【主】が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。」、この箇所を理解するために少し説明を加えます。北王国の王アハブはラモテ・ギルアデを何とか奪回しようと企てます。そのために彼が考えたことは、自分たちだけでなく南王国ユダの王を巻き込んでともに戦ってその町を奪回しようということでした。アハブには400人の預言者がいたと教えます(22:6)。この預言者たちは神のみこころを行う預言者ではなく、アハブが聞きたいことを伝えたにせ預言者たちです。
南ユダ王国の王ヨシャパテはアハブに招かれて出て行きます。ヨシャパテはアハブとは違って、主のみこころを求めそれに従いたいと願っている人物でした。ですから、主のみこころを求めようと呼びかけるのです。そこで、アハブは自分が憎んでいる一人の預言者イムラの子ミカヤを最終的に呼んで来るようになります。というのは、ヨシャパテは「この預言者以外に預言者はいないのか?」と言います。「実は、一人いるけれどその者は嫌いだ」とアハブは答えます。預言者ミカヤとアハブ、取り巻きの人々、そして、ヨシャパテ、彼らの会話がここに記されています。22:19から見ましょう。「:19 すると、ミカヤは言った。「それゆえ【主】のことばを聞きなさい。私は【主】が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。:20 そのとき、【主】は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。:21 それからひとりの霊が進み出て、【主】の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、【主】が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。:22 彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ』と仰せられました。:23 今、ご覧のとおり、【主】はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。【主】はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」、何が起こったのか?このアハブには400人の預言者がいたのです。
ここで神の前に「ひとりの霊が進み出て」(21節)とありますが、これは「サタン」です。サタンは「私はこのような方法でアハブを殺しましょう」と神の前で言います。「アハブの400人の預言者たちに私は自分の霊、悪霊を送ります。そして、彼らが偽りの預言をすることによってアハブを殺す。」と。このような会話がここに記されているのです。そして、実際に、そのことが起こったのです。400人のアハブの預言者はラモテ・ギルアデに攻め上れと言いました。そこで彼はヨシャパテといっしょに攻め上って行きます。22章の後半を見ると、アハブはその戦場で死を迎えるのです。
このような出来事が実際に起こっているのです。サタンはこうして、自分に仕える悪霊たちを使って人々を惑わし続けていきます。「うそ」を用いて人々を惑わし続けるのです。ですから、確かに、このように悪霊たちがいろいろな奇蹟をもって人々の関心を集めるでしょう。その目的は人々がパレスチナに行くためにです。でも、それだけでなく、いろいろなうそを通して、彼らが最終的にこのメギドに集まって来ます。悪霊たちは全世界から王たちを集めるのでしょう。
まとめましょう。今、私たちが見ている時代は、この世界的なリーダである反キリストによって支配されています。主イエス・キリストがこの地上に再臨される前に、サタンと反キリストとにせ預言者から、神に対する戦いに備えるために悪霊を送られ、そして、人々が集められ、最後の戦いである「神の大いなる日」が起こるのです。
14節に「万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」と、今話したように、彼らがその奇蹟を見て偽りを信じて集まって来るのです。では、そこで何が起こるのか?「万物の支配者である神の大いなる日の戦いに」とあります。この「支配者」とは「全能」という意味です。つまり、この瞬間に神がどのようなお方であるかが明らかにされる、神は全能のお方であるということが証明される、その出来事となるということです。皆さんもよくご存じのように、世界中の王たちが挙ってイスラエルに対して戦いを挑むのですが、後に、彼らは神に対して戦いを挑みます。そして、一瞬のうちに彼らは滅ばされてしまいます。戦いということばがふさわしくないのです。神がさばかれたとき、だれ一人としてそれに立ち向かうことができる者はいません。この方が全能なる神なのです。ですから、この最後の戦いは「神が確かに全能のお方である」、そのことが証明されるときです。
15節は挿入句です。主なる神が語られています。「──見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである──」、「盗人のように来る」とあります。つまり、予期しないときに訪れることを意味しています。皆さんも新約聖書の中で何度もそのような神のおことばを聞かれたはずです。マタイ24:43「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。」、ルカ12:39にも同じように「このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。」と書かれています。何時に来ますよ、と言われていたら備えをするでしょう。「盗人のように来る」とはいつ来るか分からないということです。まだ来ないだろうと思っているときに来るということです。
ペテロもこのように言っています。Ⅱペテロ3:10「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」、また、パウロもⅠテサロニケ5:2,4で言っています。「:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」「:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」、人々がまだ主の再臨は起こらない、それはまだ先のことだと予期していないときに主は帰って来られるのです。だから、こう勧められています。「目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないように」しなさいと、つまり、「注意していなさい」と警告するのです。
その日がいつであるのかが分からないゆえに、あなたは油断せずに備えておきなさいと。まず、救いに与ること、そして、救いに与っている者たちは主に会う備えをしていくことだと言うのです。私たちはそのことをしっかりと肝に銘じることが大切です。多くの人たちは救いのメッセージを拒み続けています。彼らは主に会う備えができていません。主に会うときそこにあるのは、神の救いを拒み続けたその罪に対する正しいさばきです。
永遠の終わることのないさばきです。しかし、私たちクリスチャンも注意していなければいけません。「私は救いに与ったからそれでいい」と、神の救いはそんなものではありません。神の救いはあなたを造り替え、神に喜んで従っていきたいという新しい思いを与えてくださり、そのように生きていこうと私たちを駆り立てていくものです。
だから、信仰者が覚えることは「私は主に会う備えができているのかどうか?私のクリスチャンとしての歩みは主のみこころに忠実に従っているかどうか?」です。どんな働きをしているかなどは後のことです。問題は主にみことばに忠実に従っているかどうかです。それを神は問われるのです。私たち先に救われた者たちもそのことをしっかり覚えることが必要です。本当に私の人生は神の前に価値ある人生なのか?今日、神の前に立つことができる歩みをしているのかどうか?そのことを一人ひとりが自らに問いかけなければいけません。
「ハルマゲドン」
16節に戻って、集められた人々は悪霊の奇蹟を見、恐らく、「うそ」を通してハルマゲドンに集められます。すでに見たように、これは「メギド」です。エルサレムから北に約100キロほど行ったところにある大きな平野です。この平野にはエジプトからダマスコに至る有名は道路が走っていて、太古からナポレオンの時代まで、何度か大決戦の戦場になったと言われています。戦場に非常に適しているところです。様々な争いがその地で行われたことが旧約聖書から教えられます。
士師記5:19-21 : バラクとデボラがシセラとその軍勢を打ち破った
「:19 王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って、銀の分捕り品を得なかった。:20 天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。:21 キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キションの川。私のたましいよ。力強く進め。」、
Ⅱ列王記9:27 : アハズヤがエフーの矢に倒れた
「ユダの王アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハガンの道へ逃げた。エフーはそのあとを追いかけて、「あいつも打ち取れ」と叫んだので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせた。それでも彼はメギドに逃げたが、そこで死んだ。」
Ⅱ列王記23:29-30 : 良い王であったヨシヤがエジプトの王パロ・ネコに敗れた
「:29 彼の時代に、エジプトの王パロ・ネコが、アッシリヤの王のもとに行こうとユーフラテス川のほうに上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、パロ・ネコは彼を見つけてメギドで殺した。:30 ヨシヤの家来たちは、彼の死体を戦車にのせ、メギドからエルサレムに運んで来て、彼の墓に葬った。この国の民は、ヨシヤの子エホアハズを選んで、彼に油をそそぎ、彼の父に代えて、彼を王とした。」
そこで、最後の戦いが為されるのです。
第七の災い : すべてが滅びる 17-21節
17節「第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。」、鉢を空中にぶちまけると地上に大変な災いが下るということです。そのときに「大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。」とあります。「事は成就した」というメッセージ、これは「神の最後の行為が成し遂げられた」ということです。主が地上に再臨される前の最後の行為が終わったということです。後、待つのは、主イエス・キリストが地上に凱旋されるそのときです。すべてのことが終わったのです。
そして、その最後のさばきに関して説明が加えられています。
最後の災いの詳細
いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった 18節
18節「すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。」、今までも何度も私たちは神のさばきと地震がタイアップされているのを見て来ました。しかしここに記されている地震は、これまでのどんな地震よりも強大なものであると言います。
あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた 19a節
19節「また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。」、この「大きな都」とはエルサレムのことでしょう。実は、11:8にエルサレムのことが「大きな都」と書かれているのがこれとよく似ています。また、この節を見ると「大きな都は三つに裂かれ」と「諸国の民の町々は倒れた」が二つが並んでいます。そのことからもこの「大きな都」はエルサレムのことであると考えられます。このエルサレムが三つに裂かれる、そして、同時に、世界中の町々が滅んでしまうということです。
私たちは何度かゼカリヤ14:4のみことばを見て来ましたが、そこには主イエスがオリーブ山に帰って来られる様子が書かれています。「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」と。恐らく、このようなことがあって、エルサレムが三つに裂けるということが実際に起こるのでしょう。
大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた 19b節
19節「そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。」と、バビロンが名指しで記されています。このような表現はよく出て来ます。これは神の激しいさばきが下るということを表しています。どこに下るのか?「大バビロン」とあります。これは反キリストが治める王国の首都です。そこに大変なさばきが下ると言います。実は、そのバビロンに対するさばきが記されているのは17章、18章です。そのさばきがより詳細に記されています。バビロンに対する神の大変な怒りが示されます。
鳥はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった 20節
20節「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。」、地形の変化のことです。世界中の自然界がその外形において著しく変化するのです。実は、これはイザヤ書40:4に預言されています。「すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」と。大きな変化がこの地球上に起こると、まさに、そのことがこの20節で教えていることです。
一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た 21節
21節「また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。…」、「1タラント」は約35KGと聖書の下の〈注〉に書かれています。大変重たい雹が天から人々の上に降って来ると言うのです。もちろん、その雹がぶつかった建物はすべて破壊されることは明らかです。その後、「人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。」、悲しい現実がここにもまた記されています。神のさばきが為されて、罪人が神に立ち返るようにと神が罪人の目を醒ます。それでも、彼らは心を開こうとしません。イザヤ書43:13にこのように書かれています。「これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう。」この七つ目の災害が起こった後、世の中はどうなっていくのか?この続きの出来事は19章に入ってから出て来ます。19:11からです。これが最後の「七つの鉢のさばき」です。ヨハネはそのことを教えています。
さて、これから何が起こるのかを知った私たちは、この真理を語る責任をもっています。皆さんがここから出て行って、これから世界はどうなっていくのか?私たちは神のおことばを通して知った真理を人々に語っている責任があります。どうぞ、語り続けてください。彼らは知らなければなりません。これからどうなっていくのかを…。同時に、私たちはそのさばきの中でも、繰り返し示されて来た神の豊かなあわれみを伝えることです。神は救いの手を差し伸べておられます。まだ、罪人に救いのチャンスはあるのです。それがなくなる前に、この救いに与るようにと、そのメッセージを私たちはしっかりと語り続けることです。どうぞ、真理を知った皆さん、あなたの勝手な思いや考えではなく、神のメッセージを語る者として、この一週間、それぞれのところでその働きを為してください。主がひとり一人を助けてくださってその働きを用いてくださることを祈ります。
《考えましょう》
1.「七つの鉢の災い・さばき」を説明してください。
2.災いを経験した時の主に対する罪人たちの態度を説明してください。どうして彼らはそのような態度を改めないと思いますか?
3.「神の大いなる日の戦い」について説明してください。
4.今日、あなたが学んだ真理を実践するために、信仰の友と祈りのときをお持ちください。
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