Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録15:1-8
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2016/05/29 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:最後の災い1、その序章
聖書箇所:ヨハネの黙示録 15章1-8節
今日は、黙示録15章1節から終わりの8節までを見ていきます。
A.最後のさばき 1-2節
まず、1節を見てください。「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。」と始まります。もう何度も見て来たように、ヨハネは新しい幻を見たときに「私は見た」と、このように記しました。ですから、ここでもヨハネはまた新しい幻を見たということを明らかにするのです。いよいよ、最後のさばきが訪れようとしています。その詳細に関しては、次回私たちが見る16章に記されていますが、まさに、そのさばきがこの地に下ろうとしているのです。ですから、この最後のさばき、災いの序章とも言えることがこの15章に記されています。最後のさばきが訪れるまでに、実際に、どのようなことが起こって行くのか?そのことがこの15章に記されています。
「最後のさばきが来る」ということ、それが1-2節に改めて記されています。
1. 巨大なしるし
「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。」とあります。「天でのしるし」はこれまでもヨハネは何度か見ています。12:1「また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」、12:3「また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。」とすでに見ましたが、15章の今から説明していく「しるし」は「神がもたらす七つの災害」の幻です。ヨハネがここで見た幻は、まさに、これからこの世に下ろうとしている七つの災害です。
2.さばき
しかも、ここには「巨大な驚くべきしるし」と書かれています。なぜ、このような表現を使ったのか?
1) その重さ
さばきの重大さ、神の敵に下される神の激しい怒り、恐ろしいさばきをこのように表しているのです。ですから、ヨハネが言いたいことは、これまでも数々のさばきが為されてきたが、この最後のさばきはそれらと比較にならないほど大変恐ろしいものであるということです。このしるしに関してこのように言っています。「七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。」と。ですから、この最後のさばきは七人の御使いたち、天使たちによってもたらされること、しかも、それは最後のさばきであること、そして、七つの災害が含まれているということが記されているのです。
実は、このさばきが大変重いさばきであるということが、1節の後半のことばに表わされています。「神の激しい怒りはここに窮まるのである。」と。この「神の激しい怒り」ということばを見てください。実は、同じ表現が16:19にも記されています。「…そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。」と、これは、バビロンに対する最終的なさばきが記されています。15:1と16:19、どちらも「激しい怒り」と日本語では訳されています。しかし、ギリシャ語では異なったことばが使われています。初めに話したように、15章はさばきの序章が記されており、実際の内容は16章です。この二つの箇所に「激しい怒り」と訳せる異なったギリシャ語が使われているのはなぜでしょう?
ダラス神学校の元学長であったジョン・ワルブード師はこのように言います。「この二つのギリシャ語がいっしょに用いられているのは、最も激しい神のさばきが注ぎ出されていることを意味している。」と。ですから、敢えて、このような違うギリシャ語をここで使ったということは、最初にも話したように、これから起こるさばきは人類が今までに経験したことがないものである、そのようなさばきであるということです。
そして、このさばきに関して、次のようなことが言えます。「…ここに極まるのである。」と。「極まる」とは「極限の状態に至る」という意味があり、また、「終わりとなる」という意味もあります。ここで言われているのは、この神のさばきがすべての終わりを迎えるということです。神に逆らって来た罪人に対して、神の敵である獣やサタン、彼らに対する神の計画が遂にここで完結するということです。
2) その種類
これまでのさばきを思い出して整理してみましょう。「さばき」とは、これから見ていくさばきも含めて三つあります。「七つの封印のさばき」、「七つのラッパのさばき」、そして、16章になると「七つの鉢のさばき」が出て来ます。器のことです。この三つのさばきが確かに黙示録に書かれています。
(1)「七つの封印」が解かれた 6:1-17、8:1
*これは、患難時代の初めから終わりまでのさばきが記されている
さばきの全体です。
(2)「七つのラッパ」のさばき 8:1-9:21、11:15-19
*これは、患難時代の終わりのさばきをより詳細に記している
だから、七つ目の封印の中にこの「七つのラッパのさばき」が含まれているのです。
(3)最後のさばき、「七つの災害」=「七つの鉢のさばき」
*これは、患難時代の終わりのさらに終わりをより詳細に記している
この七つの鉢のさばきは、七つ目のラッパのさばきに含まれます。
ですから、今から私たちが見ていくこの15章、16章は、まさに、患難時代の終わりの終わり、主イエス・キリストがこの地上に帰って来られる前に起こるさばきです。これらのさばきの後に、主イエス・キリストは地上に凱旋されるのです。
ですから、このさばきは「極まる」、「神の激しい怒りはここに窮まるのである。」と、数々のさばきがあったが遂にそのさばきが終わりを迎える、最後のさばきが訪れると、そのように言うことができます。
・「さばき」に関して 2a節
そして、このさばきに関して、2節を見ると、ヨハネはこのような説明を加えています。「私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。」と、「ガラスの海のようなもの」と聞くと、恐らく、黙示録4:6を思い出されるでしょう。そこには「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。…」とありました。ここで教えていることは、「だれも近づくことができない神の絶対的な聖さ」です。聖書が教える神は、すべてにおいて全く聖いお方です。そのような神であることをみことばは私たちに教えます。
4:6でそのように教えていて、15:2では「ガラスの海」ですが、そこに「火の混じった」と書かれています。この「火」とは「きよめる」ことで「さばき」のことです。ですから、この2節が私たちに教えることは、絶対的に聖い神からのさばき、聖い神によるさばきのことです。主イエス・キリストによって備えられた完全な救い、どんな罪人もその罪を赦していただき新しく生まれ変わるという完全な救い、この救いを拒み続けた人たち、神の敵であるサタンや反キリストや偽預言者や、そのような者に心を開き、それらを崇拝し、彼らが作った像に仕えて来た人たち、彼らに対するさばきがここに記されているのです。
2節が教えることは、私たちの神はすべてにおいて聖いお方であって、いかなる罪であっても、私たちはその罪を見て「これは大きい、これは小さい」と人間的な判断をしがちですが、どのような罪であっても、そのすべての汚れに対して、それらを憎んでおられる神からのさばきが下るということ、そのことを私たちに教えてくれるのです。神からのさばき、聖い神がもたらす人類が経験したことのない大変恐ろしいさばきです。
3.救い 2b節
2節の後半に「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。」と書かれています。どのような光景でしょう?神の御座のすぐ近くに立っていたのは「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々」です。つまり、神でないものを崇拝するという誘惑に対して勝利した人たちです。同時に、この人たちは神に対して、大変な誘惑や困難や迫害の中にあっても、忠実に歩み続けた人たちです。彼らのことを「打ち勝った人々」と言っています。信仰によって彼らは打ち勝ったのです。彼らはその信仰を守り通したのです。つまり、患難時代において救いに与った人たちのことです。死に至るまでも忠実に歩み続けた患難時代のクリスチャンたち、彼らのことがこのように記されているのです。
彼らは神の臨在のもとにいて「神の立琴を手にして」いました。これは神への賛美をささげているということです。自分たちが救われていることとともに、何よりも、彼らが祈って来た祈りに神は遂に答えてくださること、神がさばきを下してくださる、そのさばきの時が訪れたと、そのことを喜び、神の前に賛美をささげるのです。ヨハネは大変な光景を見ます。恐ろしいさばきとともに、神を誉め称えている一群の人々がいたのです。彼らに関して賛美が続きます。3-4節をご覧ください。
B.勝利者による賛美 3-4節
3節「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。…」、賛美しているその内容が記されています。「モーセの歌」、「小羊の歌」とはどのようなものでしょう?
1.「モーセの歌」 3節
「モーセの歌」はいくつかあります。例えば、申命記32章にはモーセが死を目前にして神を称えている詩が書かれています。ただ、ここで言われる「モーセの歌」と申命記の詩とは結びつかないと思います。その理由は、申命記31:19-22(「:19 今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。:20 わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。:21 多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」:22 モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。))、32:1-44を見ると、そこにはイスラエルの不信仰に対する神のさばきが出て来ますが、黙示録15:3-4に記されている内容はそうではないからです。ですから、ここで言われている「モーセの歌」は申命記のそれではなさそうです。では、彼らはどのような歌を歌っていたのか?もう一つは出エジプト記15章です。これは「勝利の歌」です。思い出してください。イスラエルの民がエジプトの地から出て来ます。神が彼らを出してくださった。そして、彼らはそこを出て紅海へと辿り着きます。後ろを見ると、エジプトの軍隊が後を追って迫って来ています。彼らは神に祈ります。モーセは紅海を真っ二つに分けて、乾いた地を彼らは渡りました。それを見たエジプト軍も同じように紅海を通って民を捕えようとしますが、ご存じのように、彼らが渡ろうとすると、水は元にもどってエジプト軍は溺死してしまいます。その光景を見たイスラエルの民は対岸にあって神を誉め称えるのです。
彼らは「勝利の歌」を歌うのです。15:1-8「:1 そこで、モーセとイスラエル人は、【主】に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「【主】に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。:2 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。:3 【主】はいくさびと。その御名は【主】。:4 主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。えり抜きの補佐官たちも葦の海におぼれて死んだ。:5 大いなる水は彼らを包んでしまい、彼らは石のように深みに下った。:6 【主】よ。あなたの右の手は力に輝く。【主】よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。:7 あなたは大いなる威力によって、あなたに立ち向かう者どもを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それは彼らを刈り株のように焼き尽くす。:8 あなたの鼻の息で、水は積み上げられ、流れはせきのように、まっすぐ立ち、大いなる水は海の真ん中で固まった。」
勝利を歌った歌、これは神の偉大さを歌っています。4節にはさばきが出て来ます。神がさばきを下される。まさに、15:3から見ると「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。:4 主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」」、ですから、黙示録15:3にある「モーセの歌」は、この出エジプト記15章の「勝利の歌」が背景にあるのではないかと見ることができます。
エジプトの地から我々イスラエルの民を解放してくださった、その神の真実さ、約束されたことを必ず守られる、そのように偉大なお方だと称えているのです。それがこの「モーセの歌」でしょう。イスラエルの人たちはこの歌をよく知っていたようです。そして、「安息日の夕ごとに会堂で歌われていた」とバークレーは説明しています。ですから、そのすべてをここに記さなくても「モーセの歌」というと、彼らはそらで言えるほどよく熟知していたのでしょう。
2.小羊の歌 3-4節
これは、エジプトからの解放を歌う「モーセの歌」ではなく、それよりももっと難敵である「罪からの解放」を歌う歌です。それが「小羊の歌」です。
*小羊の歌 : 罪から贖い出してくださった神の小羊である主を誉め称える
3節から見ると、ここに記されている歌詞は神の偉大さを歌っています。
1)主の全能さ : 「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。」、
主の全能さを歌っています。人間にできないことをあなたはいとも簡単になさいますと。確かに、エジプトを出たイスラエルの民は、紅海を自分たちの努力で渡ることはできませんでした。神が働かれたから乾いた地を通ることができました。大変な神のみわざです。それだけでなく、私たちのような罪人を神は完全に造り変えてくださる、罪を赦し新しく生まれ変わらせてくださる、完璧な救いを信じるひとり一人に与えてくださるのです。神のみわざは私たちに驚嘆をもたらすものです。なぜなら、神は全能のお方ですから、このお方はどんなことでもおできになるのです。詩篇のみことばを見ましょう。
詩篇92:5「【主】よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。」
詩篇98:1「新しい歌を【主】に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。」
詩篇139:14「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、
それをよく知っています。」
2)主の主権、義、真実さ : 「主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。」
主は主権者なるお方である。すべてのことを、すべてのものを支配しておられお方。この方は正しい、義なるお方であると。そして、この方は常に真実、偽りがないということです。この方はすべてを支配しておられ、この方には罪が全くなく、聖く正しい方であり、そして、この方が言われることは常にその通りになるのです。詩篇145:17「【主】はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。」。
【結果】 : その結果はどうでしょう?4節「主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。」と続きます。これを見て気付かれたでしょうか?これは修辞疑問文です。答えははっきりしています。「そんな人はいません!みな、あなたを恐れ、あなたの御名をほめたたえます」と、そのことを強調しているのです。つまり、あなたのような偉大な方はどこにもいないと言うのです。あなたはすべての被造物から称賛を受けるにふさわしいお方ですと。そのようにして、神の偉大さを見た人たちは、そして、それを経験した者たちは、その神を誉め称えると言います。詩篇86:9「主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。」、エレミヤ書10:7「諸国の民の王よ。だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。」実は、今見た4節の初めのその後ですが、「ただあなただけが、聖なる方です。」が一つ目、二つ目は「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。」、三つ目は「あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」と、これらの三つの文のそれぞれの文頭にある接続詞が付けられています。それは「なぜならば」と訳せる接続詞です。ですから、4節の初めに「すべての者はあなたをほめたたえます。それほどあなたは偉大なお方です。」と言って、その理由をこの後三つ挙げているのです。どんな理由か?
1)聖さ : 「ただあなただけが、聖なる方です。」 4節
「神さま、あなたは聖なるお方です」と言います。みことばをいくつか見てください。Ⅰサムエル2:2「【主】のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。」、詩篇99:3「国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。」、詩篇111:9「主は、御民に贖いを送り、ご自分の契約をとこしえに定められた。主の御名は聖であり、おそれおおい。」。
2)神 : 「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。」 4節
「あなたは神だ」ということを言います。詩篇86:9「主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。」。
3)さばき主 : 「あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」 4節
詩篇98:2「【主】は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現された。」、詩篇103:6「【主】はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。」
なぜ、人々は被造物は神の前に集まりこのお方を誉め称えるのか?この方はすべてにおいて聖い方であり、真の神であり、そして、このお方は正しいさばきを下されるお方だからです。さばきを通して、この私たちの神が正しい聖い方であることを明らかにされます。だから、神はさばきをもたらすのです。この方は約束されたことを必ず守られるお方です。人々はそのさばきの日が来ることを待ち望んでいました。そのさばきがやっと来るのです。これらすべてのことを通して何が明らかにされるのか?この方はすべての被造物からの崇拝を受けるに値するお方だということです。私たち、この国に生まれた者がずっと拝み続けて来たものとは違います。かつての偉人であったり、人間が作った像であったり、人間が考え出した宗教でないということは明らかです。この方はすべてをお造りになり、その知恵と力をもってすべてを統べ治めておられ、そして、この方はご自身が約束されたことを必ず成し遂げるお方です。この方が神です。この方が神と呼ばれるにふさわしい唯一のお方です。だから、すべてのものはこの方の前にひれ伏すのです。その様子をヨハネは見たのです。
C.新たな幻 5-8節
そして、5節から見ると、ヨハネが新たな幻を見たことが記されています。
1.さばきの約束 5節
5節「その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。」、地上の幕屋のことではありません。天の幕屋の聖所です。「あかしの幕屋」と書かれています。幕屋はしばしばこのように呼ばれていました。出エジプト38:21、民数記1:50、53、10:11、使徒7:44にも幕屋のことを「あかしの幕屋」と呼んでいます。「出エ38:21幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は、次のとおりである。…」、「民 1:50 あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。…」「1:53レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。…」、「10:11 第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。」、「使7:44私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。」また、「あかしの天幕」と民数記9章、17、18章にも書かれています。(9:15「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。…」)なぜ、このように「あかし」ということばを付けたのでしょう?「幕屋」を思い出していただくと
その理由が分かります。幕屋の中で最も大切なものは「契約の箱」です。その中には何が入っていたのか?思い出してください。二枚の板です。十戒です。神から与えられた律法の板です。それは人類に何を教えたのか?それは「神の律法に背く者には必ず神のさばきがある」ということです。今まさに、それが起ころうとしているのです。聖所が開いて幕屋が明らかになり、その中の「契約の箱」の中にある二枚の板に記されていた神の約束が今まさに成就しようとしているのです。
2.さばきの執行人 6、7節
「:6 そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。」、幕屋の聖所が開かれることによって、そこから七人の天使たちが出て来たことが記されています。彼らの服装を見てください。「彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。」と、確かに、この着物が表しているのは「彼らの聖さ」です。同時に、これは大祭司の衣装に大変よく似ています。バークレーは「大祭司は人の中にあって神を代表するものであるから、この御使いは復讐するための神の代理人ということになる。」と言います。大祭司は民を代表していました。この天使たちは神を代表して、神の代理として、神のみこころを為そうとするのです。そのことが確かにここに書かれています。「七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。」と。彼らは聖い存在ですから、聖所に自由に出入りすることができるのです。7節に「また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。」と、今見て来たことの説明がここに加えられています。確かに、七人の御使いが聖所から出て来るのですが、実は、彼らに七つの鉢を渡したのは「四つの生き物の一つ」であると記しています。「四つの生き物」についてはすでに4章で見ました。これは最も地位の高い天使の一人、ケルビムのことであろうと…。その天使が七つの金の鉢を七人の御使いたちに渡したのです。さて、彼らが受け取った「金の鉢」ですが、これは底の浅い受け皿のようなものです。これは黙示録5:8に書かれていました。「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」、この祭司たちは金の鉢をもって神に香をささげたのです。しかし、15:7では香ではなく神の怒りが言われています。この金の鉢は香ではなく神の怒りで満たされている様子が記されています。まさに、その鉢の上に神の怒りがこぼれ落ちるほどいっぱい乗せられている様子、それがここに記されているのです。そして、この鉢をケルビムが七人の天使たちに渡す、そして、神の怒りがいよいよすべて余すところなく、神の敵に対して罪人に対してぶちまけられるのです。7節に「永遠に生きておられる神の御怒りの」と書かれています。恐らく、これは患難時代の多くの人々が崇拝して来た獣や像とは異なるということを明らかにするのでしょう。彼らが崇拝して来た対象は永遠に続くものではありません。これは患難時代のことだけではありません。私たちが崇拝して来たものもそうです。永遠に続くものなどどこにもありません。偉人であれば死んだ人たちです。彼らの墓はまだ残っています。しかし、聖書が教える神と言われるお方は死ぬことがないのです。消滅することがありません。永遠に存在し続けるお方です。これが聖書が教える神と、神と名の付くものとの決定的に違うところです。永遠に存在なさる神だから、この方が下されるさばきは永遠に続くのです。この黙示録が何度も私たちに教えてくれました。そのさばきは永遠に続きます。なぜなら、神ご自身が、さばくお方が永遠に生きておられるからです。また、神の赦しは完全であり、永遠に生きる方が赦される以上、その赦しは永遠に赦され続けるものです。その神の怒りがこの地上に訪れると言います。
3.さばきの主 8節
8節「聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、入ることができなかった。」
1)聖い神 : 聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、
この「煙」は「神の臨在」を象徴しています。そして、この「煙」は「神の栄光と神の大能から」立ち上っていました。この二つのことは、神の聖さと力を教えています。しかも、この煙が神の臨在されるところから立ち上っていたということは、このさばきが神によってもたらされるということを強調しているのです。聖い神によってもたらされるさばき、そして、全能なる神によって為されるさばきであること、それは後半に出て来ます。
2)全能の神 : 七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、入ることができなかった
実際に、このようなことがあったのです。聖所、幕屋、神殿が神の栄光に満たされたとき、だれもそこに近づくことができませんでした。幕屋が実際に完成したときの様子は出エジプト記40:34から書かれています。「:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。」また、神殿が完成したとき、ソロモンによって造られた神殿です。Ⅰ列王記8:10-11「:10 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が【主】の宮に満ちた。:11 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。【主】の栄光が【主】の宮に満ちたからである。」、このようなことが確かに起こりました。今、この黙示録15:8に同じ様子が記されています。この七つの災害が終わるまで、七つの鉢のさばきが終わるまで、だれも聖所に入ることができなかったのです。このさばきは「神の大能」によって、すなわち、神のみ力によってなされるものです。だから、だれもそれが終わるまで聖所に入ることができなかった。だれもこの神がなされるさばきを妨げたり阻止することはできないということです。これは神がさばきを下されているということです。私たち人間がどれほど挙ってもそれを阻止することはできません。神のみこころがなされる、全能の神のみわざがなされるのです。だれも止めることはできない。そのすべてが成就するまでだれも何もできないと。神のさばきだからです。そして、このさばきにはもうあわれみは残っていません。罪人を待ってこの救いに来なさいと悔い改めを待っておられた主が、最後に下されるこのさばきにはもうあわれみはないのです。大変恐ろしいさばきです。でも、実際にそのさばきが来るということを真実なる神が私たちに教えてくれています。この方が言われたことは必ずそうなります。そうなって来ました。だから、私たちがしっかり注意しなければならないことは、あなた自身の人生の精算をする日が来るということです。「私は若いから大丈夫だ、健康だから大丈夫だ、まだ、私にはすばらしい未来があるから大丈夫だ。」と、確かに、そのようにサタンは言います。しかし、神はそう言っておられません。神はあなたに警告を与えておられます。感謝なことに、今は、どんな罪人であっても、主にあわれみを求めるなら、神はあわれんでその罪を赦してくださいます。主の前に自分の罪を悔い改めて、主が備えてくださった完全な主イエス・キリストによる救いを信じるときに、その瞬間に神はあなたを新しく生まれ変わらせてくださいます。救いはあります。神のあわれみはあります。しかし、この患難時代になってその最後のときには、そのあわれみはない、だれもこの神のなされるさばきを阻止すること、その神の働きを妨げることはできないということです。救いの機会は今です。もし、まだこの救いを受けておられないなら、今日、神の前に救いを求めて出ることです。神は救いを与えてくださいます。救いに与った皆さん、私たちが考えなければいけないことは、この救いをくださった神に私はどのように向き合って生きていくのか?ということです。良いヒントがあります。詩篇の著者がこのように言います。詩篇116:12-13「:12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は【主】に何をお返ししようか。」、主が為してくださったすばらしいみわざに対してどのように応えていけばいいのか?何をもって私の感謝を表していくのか?「:13 私は救いの杯をかかげ、【主】の御名を呼び求めよう。」と、救われたことを感謝して生きることです。この救いへと招いてくださったすばらしい神を伝えながら生きることです。「救いの杯をかかげ、【主】の御名を呼び求めよう。」と、公にこのことをするということです。私たちにできること、この神のすばらしさを人々の前で明らかにすることです。そのようにして、この詩篇の著者と同じようにして、あなたの感謝を表してください。主はあなたに救いをくださった。私たちにはすばらしい天が約束されています。その日を待ちながらこの日を生きることができる、その祝福に神は入れてくださった。この方を称えながら、この方を宣べ伝えながら、私たちはこの日を生きるのです。
どうぞ、そのように歩んでください。
《考えましょう》
1. 救われた者たちが神にささげた賛美について説明してください。
2. 幕屋は「あかしの幕屋」と呼ばれていましたが、その理由を説明してください。
何が「あかし」されていたのですか?
3.七つの災害が終わるまで、だれも聖所に入ることができなかったのはどうしてですか?
4.あなたが今日教えられたことを信仰の友と分かち合い、その実践に励んでください。
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