Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録14:14-20
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どうぞヨハネの黙示録の14章をお開きください。
殉教と隣合わせの日々を過ごすことになる患難時代の信仰者たち、私たちが経験したことがない、想像することもできない困難を彼らが経験することを我々は見て来ました。しかしそれでいながら彼らは主に対して忠実に歩み続けて行こうとするわけです。
◎ 患難時代の信仰者に対する神の約束
彼らがそのような歩みをなすためには忍耐が必要だということをご存じである主は、この信仰者たちに二つの真実を明らかにされました。
「神に逆らう者たちに対する確実なさばき」 11節
それは悪に対しては必ず神のさばきがあるという約束でした。多くの信仰者たちを苦しめ、迫害をなしてきた彼らに対して必ず神様からのさばきがあるのだと。
「神に従う者たちに対する神の祝福」 13節
また同時に、神に従う者たちに対しては神様からの公正な報いがあると教えられました。
こうして主は大変な苦しみの中にいるクリスチャンたちを励まそうとなさいます。そして間違いなく多くの人たちは、神は必ず彼らを守ってくださるというメッセージによって励ましを得、患難時代の大変なところを通って行くわけです。
患難時代の人々がこのメッセージによって励まされるように、今の私たちもこの神の約束を見る時に大きな励ましをいただきます。神様の審判が必ずこの世の悪に対して下るということ、またあなたの信仰者としての忠実な歩みに対しては、そのすべてをご存じである神様がそれにふさわしい報いを与えてくださるということです。ある面で私たちは天に凱旋することを楽しみにしています。そこで主が私たちの働きに応じて報いを与えてくださるからです。今あえて「楽しみにしている」と言いましたが、もしそうでなかったら、今から与えられた日をしっかりと主のみこころに従って生きることです。それ以外の歩みがいかに空しいものかというのを既に我々は見て来ました。みことばを通して主が教えてくださるみこころに従って行く時に主はそれを喜んでくださる。
さて、この14章の中でこういったメッセージを学んで来ていますが、確かにさばきの話が記されていました。そして信仰者たちを励ますメッセージが記されていました。我々がきょう見て行こうとする14-20節は話が再びさばきに戻って行きます。患難時代の終わり、大患難の最後の最後の時代の出来事として、二つのさばきが起こることが記されています。一つは地の穀物の刈り取り、もう一つはぶどうの刈り取り、このような表現が使われる二つのさばきです。穀物のさばきとぶどうの房が刈り取られるというさばきです。この二つのさばきを違うことばで言うとしたら、人の子によるさばきと御使いによるさばきです。そしてこのさばきに続いて主イエス・キリストがこの地上に帰って来られるのです。
A.「人の子によるさばき」 14-16節
まず、14節「また、私は見た。」と、我々が何度も見て来た表現が記されています。4:1も6:2も5も8も7:9も14:1もこのような書き方で始まっていました。つまりヨハネは新たな幻を見たというのです。この幻は患難時代の信仰者たちに新たな希望をもたらすものです。なぜならそこに彼らが待望している神様からのさばきが記されているからです。まず14-16節は人の子によるさばき、あえて今そういう表現を使いますけれども、それがどういうさばきなのかを見てまいりましょう。
1.「さばき主」:主イエス 14節
まず最初に、14節に記されているのは、このさばきがだれによってなされるのかです。さばき主が一体だれなのかが記されています。「見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。」と、このさばき主がこのように説明されています。この「白い雲」の「白」というのは、神様のきよさ、神聖さを象徴しています。また「雲」は栄光ある神様の臨在を象徴していると、既に1:7で学びました。神殿が栄光で満たされた時、雲が覆っていたと。山が雲に満たされていた。そこに神の臨在があったということ。ですから「白い雲」と言った時に、それはこの雲に乗っておられる方が全くきよいお方であり、また栄光に満ちあふれたお方だということを表しているます。
1) 預言からの考察:
実はこの14節のみことばを読むと、旧約聖書のおことばを思い出します。ダニエル7:13に、今見ているのと同じような表現が記されています。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方
が天の雲に乗って来られ」と書いてあります。ダニエルはこうして後に起こることを預言するのです。そして黙示録14:14には、まさにダニエルが預言していたことの成就を見るわけです。別の話ではありません、同じ話です。ではこの「雲に乗って来られ」る方がこの後何をなさるかというと、この方は地上に戻って来られるのです。ダニエル7:14には「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」とあります。「雲に乗って来られ」る方が王国を築かれること、そして人々が彼に仕えることがここに記されていました。ですからこの「雲に乗って来られ」る方はそこにとどまるのではなくて、この地上に帰って来られるということです。
その出来事を地上再臨と呼んでいます。主イエス・キリストがこの地上に戻って来られることです。実は黙示録1:7に「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」とありますが、イエス様が地上に帰って来られる、この出来事が空中再臨の後に起こる地上再臨だということを学んで来ました。主イエス・キリストは我々クリスチャンを迎えに来てくださる、それが空中再臨であり、迎えてくださったクリスチャンとともにイエス様が地上に帰って来られるのが地上再臨です。どこに戻って来るのかを預言者ゼカリヤは我々に教えてくれます。ゼカリヤ14:4に「主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。」とあります。オリーブ山に行ってみると、恐らくイエス様が天に凱旋して行かれたのではないかという場所に教会が建っています。今でもオリーブ山に行くと、主イエス・キリストが再びこのオリーブ山に必ず戻って来られるのだと。イエス様がこの地上に帰って来られることに関して、先ほどお読みしたゼカリヤ14:5は「私の神、【主】が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」と言います。これが地上再臨です。主イエス・キリストがクリスチャンたちとともにこの地上に帰って来るということをこの黙示録14:14が私たちに教えるわけです。まさに先ほど見た預言者ダニエルが預言したことの成就がここに見て取れるわけです。この「雲に乗って来られ」る方は完全にきよく、そして栄光に輝く神なる主イエス・キリストであるとみことばが我々に教えるのです。
2) 描写からの考察:
次に、この雲に乗って来られるのがイエスであるという証拠が記されています。
(1)「人の子」:
まず最初に、「人の子のような方が」乗っておられたと、「人の子」という呼び名がここで再び出て来ています。これは主イエス・キリストが大変好んでお用いになった呼び名です。つまり神である方が人となってこの世にお見えになったことを教えるわけです。ですからここでも「人の子」という表現が使われている。そこからもこれがイエスのことであろうと言えます。
(2)「金の冠」:
もう一つはその後、この方の「頭には金の冠をかぶり、」と書かれています。この「雲に乗って来られ」る方の頭には「金の冠」がかぶせられていたと。この「冠」は王様が頭に載せる王冠を指していません。ここでは「ステファノス」というギリシャ語が使われています。これは「勝利の冠」のことです。黙示録2:10やⅠコリント9:25、Ⅰテサロニケ2:19、Ⅱテモテ4:8、ヤコブ1:12、Ⅰペテロ5:4と、さまざまなところにそのことばが出て来ます。ここで使われている「ステファノス」ということばは、戦いや競技において勝利した者がかぶる冠であって、王様がかぶるものではないのです。もちろん主イエス・キリストはすべての王であり、すべてをお造りになり、すべてを治めておられる方ですから、当然王冠をかぶっておられる。しかしここでは、「ステファノス」、勝利の冠をかぶっておられる。なぜかというと、主イエス・キリストはご自身のすべての敵に勝利なさる方だからです。そしてイエス・キリストは彼の敵に対するさばきを下すためにこの地上に帰って来られるのです。確かにイエス・キリストは勝利者であられる。
パウロはⅡコリント2:14で「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え」、私たちは勝利者だと言います。なぜならすべてのものに勝利したイエス・キリストに属するからと。イエス様がサタンも死もすべてのものに勝利され、私たちもこの主を信じる者として、勝利者として今歩んでいるのだと。ですからこの「人の子のような方」は、その頭に勝利者がかぶるにふさわしい冠をかぶっておられる方だと。この主が約束どおりに王国を築くために、この世に帰って来られるのです。
もう一度14節の最後を見ると、「手には鋭いかまを持っておられた。」と書かれています。主イエス・キリストが「かま」を持って来られると。稲刈りをする時に「かま」というのを使いますが、ここで言われている「かま」はそういう小さなものではなくて、かなり大きなもので、大がまと呼んだ方がいいのかもしれません。柄の長さが大体170センチぐらいある。それを両手で持って草を刈ったりするのですが、当時この地域ではそれを使って穀物を収穫していました。ですからこういうことばを使うことによ
って言わんとするメッセージが読者たちにより明確になったわけです。ではこの14節は何を教えているかというと、イエスが罪をさばかれる、悪をさばかれるさばき主だということを明らかにしているのです。最後のさばきがやって来ます。そのさばきを下されるのがイエスであるということがこの14節に示されているのです。
2.「さばき」 15-16節
1)さばきの告知 15節
そして、そのさばきのことについて15-16節に出て来ます。15節「すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。」とあります。まずここに「もうひとりの御使いが」と、第四番目の天使です。既に14章の中で三人の天使たちが記されていました。第一の天使は人々に福音のメッセージを語る働きをしていました。第二の天使はバビロンの滅亡を告げる者でした。第三の天使は獣とその像を拝む者、だれでも獣の名の刻印を受ける者たちに対してさばきがあるというメッセージを語っていました。ここに第四番目の御使いが登場して来るわけです。15節を見ると、この御使いは「聖所から出て来」たとあります。この「聖所」というのは、神の御座があるところです。この御使いが神の御前から遣わされて来ていることを表しています。そしてこの御使いは「雲に乗っておられる方(イエス様)に向かって大声で叫んだ」と、この「叫んだ」という動詞は現在形ですから恐らく叫び続けていたと取れます。彼は「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」というメッセージを伝え続けた。この「刈り取」るというのは収穫の意味です。この収穫というのは神様のさばきを象徴しています。
旧約聖書のヨエル書の3:13に「かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。」とあります。こうして収穫の話をしているわけです。それをもって神様のさばきを教えるわけです。マタイ13:24からこんな話が記されています。「ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。」と、そうすると眠っている間に彼の敵がやって来て、そこに「毒麦を蒔いて行った。」という例えを覚えておられると思います。その主人のしもべたちが言うわけです。「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」と。そうすると主人は言います。「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。」と。主人が言うことには、あんまり判断がつかないから、毒麦だと思って抜いたものがよい麦である可能性があるから、最後の収穫の時を待ちなさいと。30節に「だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」と。その時になると、よい麦と悪い麦とがちゃんと判別できるからです。そしてその後、その麦が焼かれてしまう様子が特に39節以降に書かれています。39-42節「毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」と、さばきの話です。
もう一度きょうのテキストに戻ると、「かまを入れて刈り取ってください。」、その理由が15節に書いてあります。「地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」と。「実った」というと、もう十分に収穫をして、その糧を得ると我々は取るのですが、実はこの「実った」ということばは、「渇く」とか「枯らす」とか「しぼます」といった悪い意味があります。ですからここで言われているのは、穂が色づいて収穫の時期になったということではなくて、まさにこの穀物は枯れてしまっている、だから刈り取ってそれを燃やすのです。ダラス神学校の元学長であったワルボード先生は「ここで述べられている光景は果物あるいは野菜が熟し過ぎ、乾き切って枯れ始めているということである。この世の腐敗した道徳的状態は今は鋭いかまを持ってさばかれなければならない。」と。ですから人々はこのメッセージを聞いた時よくわかりました。枯れてしまった穀物は刈り取って燃やすだけだと。同じように今のこの神に逆らい続ける世の中、罪に染まった世の中も刈り取って燃やすだけだ、さばいてしまうだけだ。そのメッセージをここで伝えるわけです。この15節のみことばを見ると、まさにその時が来たのだというメッセージが告げられています。枯れた穀物がもう今まさに刈り取る時期が来たように、神に逆らうこの世の中に対する神のさばきが起こる時期が来た、そのことが言われているのです。
2)さばきの到来 16節
そして16節を見ると、「そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。」とあります。遂にそのさばきの時が来たわけです。最初からお話ししているように、みことばは私たちに必ず罪がさばかれることを教えます。でも罪に染まった社会というのは、今の私たちの社会だけではありません。もう既に我々が学んで来たようにこれからもっとひどくなって行く。この世の中はこれからもっと悪くなって行きますかどうですかという質問をしたら、恐らくクリスチャンでなくても、多くの皆さんがよくなってはほしいけれども、それは期待薄だとお答えになるでしょう。悪はどんどん増大し、どんどん住みづらい社会になっています。Ⅱペテロ3:9に「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」とあります。なぜ神様は今さばきをもたらさないのか――。人間の罪をさばかないのか――。
確かにその日は来るのです。でもその時まで、神は忍耐をもってひとりでも多くの罪人が罪を悔い改めてこの救いに与るようにと待ち続けておられる。でもその忍耐も終わりを迎え、神が「これまで」と言われる時が来るのです。最後のひとりが救われて終わるのです。それがいつ起こるかはわからないけれども、その日が来るということをみことばは教えています。ペテロはⅡペテロ3:10で「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」と言っています。さばきは必ず来ます。今はまだ神は忍耐を持ってひとりでも多くの罪人がこの救いに与るようにと待ってくださっている。でもそれが終わりを告げる時が来るのです。この黙示録はそのことを我々に教えてくれるのです。
その時が来たのです。主イエス・キリストが手にしておられたそのするどいかまを地に入れられる、刈り取られる。さばきが下ることです。実はこのさばきに関してはここに記されていません。15章から始まり、特に16章の中に「七つの鉢」のさばきが記されています。16:2に「第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。」とあります。3節にも「第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。」と書いてあります。4節にも「第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。」とあります。このように8節も10節も12節も17節も「鉢を……ぶちまけた」ということばが使われています。これが今私たちが見ている14:15-16節に記されているさばきです。御使いたちを用いてイエス様が下される「七つの鉢」のさばきです。これまで私たちは「七つの封印」が開かれる、そうした神のさばきが下ることを見て来ました。「七つのラッパ」のさばきが下ることを見て来ました。この「七つの鉢」のさばきが最後の最後に下るさばきなのです。
B.「御使いによるさばき」 17-20節
1.「さばき主」 17節
17節を見ると、「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。」とあります。17節からは人の子によるさばきではなくて御使いによるさばきが記されています。そしてこのさばき主は「もうひとりの御使い」と書かれています。これまでと同じ天使のひとりだというのです。「もうひとり」ということばを我々は何度も見て来ました。四番目の天使と同じ天使ではないのです。第五番目の天使がいるのです。この天使がこのさばきを下すという話です。
17節にはこの第五番目の天使も「天の聖所から出て来た」と書かれています。神のもとから遣わされて来るのです。彼も「鋭いかまを持っていた」、それは神様からのさばきをもたらすためにです。
2.「さばき」 18-20節
1)さばきの告知 18節
さて、18節で話がさばきに移って行きます。「すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが」と、ここに第六番目の御使いが登場します。第五番目の御使いが「鋭いかまを持っていた」、今度は「火を支配する権威を持ったもうひとり」、五番目とは別の天使が「祭壇から出て来」たと書かれています。第六番目の天使です。そしてこの第六番目の天使の出て来る場所が違います。これまでは天の「聖所」でしたが、この第六番目の御使いは「祭壇から出て来」たとあります。黙示録8:3-5でこの「祭壇」というのは、お祈りと関連しているということを既に学んで来ました。これは香を焚く「祭壇」でした。44センチ四方で高さが約88センチ、アカシヤの素材で作られ、そこに純金がかぶせられています。祭司は日に2回いけにえの捧げ物をするところから燃える炭を持ってこの中に入って来て、この香の「祭壇」の上にそれを置き、そこで香を焚いてその煙が天に昇って行く、それは祈りを表していると。人々が祈ったことは、神様いつまで悪はさばかれないのですか、いつ正義がなされるのですか、いつ勝利者である主がこの地上に戻って来てくださるのですかと、彼らは祈っていたのです。
その「祭壇」から第六番目の御使いが出て来る。それは彼らが主に対してなしていた祈りが遂に聞かれる時が来たことを表しているのです。またこの御使いが「火を支配する権威を持っ」ているということ。「火」というのはさばき、きよめです。人々の祈りにこたえられて、いよいよこの罪をさばき、きよめをなす権威を持った御使いがその働きをなすという話です。このさばきをなすその権威を持った御使いが「鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで」います。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」と。この最後のさばきに関してはこういった天使たちがかかわっていることがわかります。
18節を見ると、「鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集め」なさい、この「地のぶどうのふさ」というのはさばきに服する者たちを象徴しています。つまり神の罪の赦しを拒み続けて来た者たちのことを「ぶどうのふさ」と呼んでいるのです。しかも「ぶどうのふさ」が「熟している」と記してあります。先ほど15節のところで「穀物は実った」と書いてありました。その「実った」というのは、もう食べごろだというのではなくて、もう乾燥して乾き切ってしまった状態です。18節では「ぶどうはすでに熟している」と、同じことばは使われていません。ここで使われている「熟している」ということばはまさに今収穫どきだということです。熟してその実から汁が出ているような状態を表しています。なぜそういうふうに記されているかというと、その後に「大きな酒ぶねに投げ入れた」と書いてあります。つまりワインを作る時の話をしているのです。
それを今から見て行くのですが、その前に18節の最後、「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。」の中に二つの命令が記されています。この「入れ」ると「集めよ」という二つの動詞はどちらも命令形で使われています。この箇所を直訳すると、「この地上のぶどう園から多くのぶどうを集めよ。」となり、こういう命令がなされたのです。ここで示されているのは収穫の光景です。まさに色づいたぶどうが熟し、収穫する時期が来たと。なぜ今収穫をなしなさいと言われているのかというと、19節「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。」とあります。先ほどもお話ししたように、この目的はワインを作りです。人々がよく知っているワイン作りという出来事を使って神様の恐ろしいさばきを明らかにするのです。
2)さばきの到来 19-20節
ここで言っているのが先ほど私たちが見て来た「七つの鉢」のさばきかと言うと、ここで言われているさばきはそれとは全く異なるさばきです。ではここでどんなさばきを言っているのかと言うと、この19-20節にそのさばきが訪れる様子が描かれています。訪れるさばきは「ハルマゲドン」の戦いです。
(1)「酒ぶねで踏まれる」 黙示録16:16
まず見ていただきたいのは、「酒ぶねに投げ入れ」られて、20節「その酒ぶねは都の外で踏まれたが、」と書いてあります。こうして「酒ぶね」でぶどうを踏んでワインを作ったのです。彼らの製法は高さの異なる二つのおけを準備するのです。私が見たのは土製でした。その二つの間に溝ができていて、高い方にぶどうを集めて入れて人がそこでぶどうを踏みつけるのです。そこから出て来るジュースがその溝を通って下のおけの中にたまり、そこで発酵したぶどう酒を必要に応じて彼らは汲み出していたわけです。その話がここでされています。そしてここで言われているのは、主イエス・キリストがこの地上に戻って来られる前に起こる最後のさばきです。先ほどから「ハルマゲドン」と言っていますが、16:16を見ると「こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」とあります。ここで「ヘブル語でハルマゲドン」という名前が記されています。16:13から「ハルマゲドン」の戦いの準備の話が記されています。
少し整理すると、「七つの鉢」のさばきがあり、最後に「ハルマゲドン」の戦いがあるのです。そしてイエス様が地上に帰って来られる。しかし、最後のさばきはまだ先にあります。いつ最後のさばきが下るかというと、イエス様が地上に帰って来られて千年王国を築かれて、千年王国の一番最後に千年の間閉じ込められていたサタンたちが解放されて人々を惑わして、最後に神に戦いを挑もうとします。そこが最後の最後の最後のさばきです。
今14章で見ているこの二つのさばきは、最後に起こると言われた「七つの鉢」のさばきであり、そしてちょうどイエス・キリストが地上に戻って来られる前に起こる「ハルマゲドン」の戦いの話です。詳しいことは16章に入ってから見て行きますが、少しだけ見ると、明らかにこれは悪霊たちが関与しているということが記されています。14節にも「彼らはしるしを行う悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」とあります。サタンを初め悪霊たちは、世界じゅうの王様にイスラエルに対して戦いを挑むようにと命じ、そして「ハルマゲドン」に集まって来るのです。
(2)「都の外で踏まれる」
その説明の前に、ワインを作る「酒ぶね」の話ですが、これは実際にワインを作る話ではないことは明らかですよね。神のさばきの話です。この「酒ぶね」、最後の「ハルマゲドン」の戦いは「都の外で踏まれた」と書いてあります。この「都」というのはエルサレムです。確かにイスラエルに敵対して人々は集まって来るのですが、神はこのエルサレムだけはちゃんと守っておられる。その約束なのです。
(3)「踏まれた結果」
そして、その戦いの壮絶さがその後に記されています。「血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、」とあります。「馬のくつわに届くほど」と言ったら1メートルを超えます。このとおり見ると、それぐらいの深さのある血の海がここに記されているのです。そしてそれが「千六百スタディオンに広がった。」と。まずここで言われているのはさばきの話です。このぶどう汁を血に例えて話しているのですが、この「馬のくつわに届くほど」というのは、恐らく数百万人の者たちが集まって来たとして
もこれだけの深さになるとは考えられない。これはジョン・ワルボード先生が言うように血がたくさん跳ね返ることと理解する方がよいと思います。多くの人たちがさばきを受けて、その血が跳ね返っている状態、それを恐らくこのように「馬のくつわに届くほど」と表現しているのでしょう。
さて、この最後のさばきが行われる場所、メギドというふうに言われます。エルサレムから大体北に100キロぐらい行ったところにあります。私たちも何度かこの場所を訪れました。「ハルマゲドン」とヘブライ語で呼ばれるとここに書いてありますが、この名前の意味は「メギドの丘陵地帯」です。実際はここは平野です。「丘陵地帯」とも訳せるし、「メギドの山」とも言われるのですが、そこに山は見られません。このメギドということばは「軍隊の場所」とか「大虐殺の場所」という意味を持っています。エズレルの平野、またエズレルの谷と呼ばれています。この平野の大きさは大体幅が22キロ、そして長さが約32キロあります。あのナポレオンが「地球上で最も自然な戦場である。」と言っています。ここに全世界から人々が集まって来るのです。彼らがどうイスラエルを攻めようと、神はエルサレムを守られる。もう一度20節を見ると、この戦場が「千六百スタディオンに広が」ることが書いてあります。この「千六百スタディオン」というのは約320キロになります。なぜそれが大切かというと、実はこの320キロというのはイスラエルの南北の長さに相当するのです。ですからこの戦いはイスラエル全土に広がると記されているのです。
神は最後の最後に神に逆らう者たちにさばきを下されます。この「ハルマゲドン」の戦いは、最初はみんな神と戦うために集まって来るわけではありません。サタンや悪霊たちがそのように仕向けて人々は集まって来ます。ところがそのうちに彼らはみんな結束して神に対して戦いを挑もうとするわけです。そしてイエス・キリストがこの地上に帰って来られるのです。果たして「ハルマゲドン」の戦いと呼んでいいのかどうか、ここに記されていた多くの人々の流される血、この血はすべて神に逆らった者たちの血です。主イエス・キリストが戻って来られる時、一瞬のうちに彼らを滅ぼされるのです。戦いと呼べないかもしれない。どんなにサタンが、どんなに神に逆らう者たちが挙ってイエスに逆らおうとしても、主が戻って来られたら彼らは一瞬のうちに滅ぼされるのです。それがこの戦いです。みことばはちゃんと私たちにどこで起こるのか、どれぐらいの規模で起こるのか、どのようになるのか教えてくれています。
患難時代の終わりに住む人たちがこのみことばを読む時に、どれだけ彼らがこのみことばによって励まされるか。もう間もなくすると勝利の主が帰って来られる。そしてその時には多くのにせキリストが、そして最後に出て来る反キリスト、にせ預言者たち、すべての主に逆らう者たち、また悪霊たちが一瞬のうちに滅ぼされてしまう。そしてこの「ハルマゲドン」の戦いがこの後どうなるのかと言うと、実は「ハルマゲドン」の戦いに関しては19:11まで出て来ません。そこにどうなるのかが書かれています。イエス様が戻って来られた時にサタンが捕えられ、仕える者たちが捕えられ、そして千年の間縛られる、こういった勝利が約束されています。
きょう私たちが見て来た神様の真理というのは、この患難時代の人々にとって間違いなく大きな慰めであることはわかりますが、私たちにとってもそうです。今皆さんはこの後どういうことが起こるのかをお聞きになりました。これが神様が私たちに教えてくださっていることです。我々にはそれを人々に語るという責任があります。この後こういうことが起こって行くのだ、だから早く悔い改めなさいと。そして我々ひとりひとり信仰者も主にお会いする備えをなすことが必要です。きょう皆さんはイエス様にお会いすることができるかどうかです。あなたは楽しみながらその時を待っておられるかどうかです。もし即答できないとしたら、即答できるような歩みを今から始めて行くことです。主は間違いなく帰って来られる。そして我々がこの地上に置かれている間、神が私たちに期待しておられることは私たちが主に対して忠実に従い続けて行くことです。みことばに従うのです。神のみこころに従って生きるのです。その生き方だけが神の前に価値あるものです。そうして主の来られる日を待ち望むこと、それが私たちの希望であり、それが私たちに主が求めておられる生き方です。そのように生きて、しっかりと主にお会いする備えをしましょう。
《考えましょう》
1.「白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。」とはだれのことかを説明してください。
2.「地の穀物の刈り入れ」と「地のぶどうの刈り入れ」が教えるさばきを説明してください。
3.「ハルマゲドン」の戦いについて説明してください。
4.きょう学んだことを信仰の友と分かち合って実践に励んでください。
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